1909年
浜松市で織機の製造を開始

スズキの歴史は1909年に浜松市内で足踏み織機の生産を始めるために、鈴木道雄が鈴木式織機製作所を創業したことに始まる。

戦前の日本では繊維産業が盛んで、浜松周辺では綿花を使った織物産業が発展していた。加えて、天竜川の上流では木材が豊富に取れることから、織機の材料となる木材も大量に存在していたこともあり、浜松市内には織機を扱うメーカーが集積する形となり、スズキも織機メーカーの1社として創業された。

なお、同じ時期に愛知県では豊田自動織機、浜松ではエンシュウ(遠州製作所)がそれぞれ織機メーカーとして創業されており、スズキはこれらの近代的な織機メーカーは急成長を遂げた。

1939

軍需生産に注力するために大規模工場を新設

1930年代に愛知県に拠点を置く豊田自動織機は自動車製造への参入を決め、トヨタ自動車を設立した。豊田自動織機の決定に影響を受けたスズキも、数年遅れて自動車産業への参入を模索する。スズキは輸入乗用車のコピーや浜松市内における大規模工場の建設を行うものの、戦争の突入によってスズキには自動車ではなく砲弾などの軍需製品の生産が割り当てられた。

このため、スズキは自動車分野では出遅れる形となったが、軍需工場の建設によって生産設備を充実させることができるという幸運に巡り合った。

戦時中のスズキは2000名を要する軍需企業として発展を遂げたものの、軍需品の生産が盛んな浜松市内は米軍の爆撃目標となり、太平洋からは米艦艇による艦砲射撃を受けるなどして壊滅的な被害を被った。このため、1945年に終戦を迎えたスズキは、従業員の大半を解雇して、軍需生産をストップした。

幸いにも、スズキには大規模な工場と、軍需生産で使用した大量の工作機械が残されていた。終戦直のスズキは、これらの設備を利用して戦前から行なっていた織機の生産や、二輪車の製造によって会社の倒産を免れた。

1954

自動車への本格参入を決定し、社名を「鈴木自動車工業」に変更

1954年にスズキはかねてからの念願であった四輪乗用車への参入を決めて、社名を「鈴木自動車工業」に変更した。すでに二輪車を手掛けていたが、より高度な技術が求められる四輪乗用車の大量生産を目指して、本格的な乗用車メーカーに転身することを目論んだ。

だが、すでに自動車業界にはトヨタと日産がシェアを確保しており、三輪車の分野ではマツダとダイハツ、高級車の分野ではプリンス自動車(1965年に日産と合併)が存在しており、後発のスズキにとっては軽自動車の分野が残された市場であった。

このため、スズキは本格的な四輪乗用車ではなく、軽自動車に焦点を絞る方向に賭けた。1961年に愛知県豊川市に乗用車工場を新設して「軽四輪トラック」の製造を開始し、乗用車の生産に必要なノウハウを蓄積。続いて、1967年に静岡県磐田市に自動車専用の磐田工場を新設することで、軽自動車を本格的に生産する体制を整えた。

1979

不要な機能を削ぎ落とした画期的な軽自動車「アルト」を発売

1970年代の日本における軽自動車にとって最大の問題は、市場が小さいことにあった。自動車業界では1966年にトヨタから発売されたカローラが大ヒットを記録し、一家に一台の自動車は当たり前になりつつあったが、そもそも一般庶民にとって乗用車は高額な買い物であり、複数の乗用車を保有することは経済的に難しかった。

だが、1980年代までに日本人の所得が増加すると、一般家庭の父親だけではなく母親も自動車を購入することが現実的に可能になりつつあった。2台目の乗用車は最低限の移動ができれなニーズを十分に満たすことができたため、日本においては軽自動車の市場が徐々に拡大することが期待された。

1979年にスズキは軽自動車のスタンダードとなる「アルト」を発売。灰皿などの不要な機能を削ぎ落とすことで47万円という低価格を実現し、当時の軽自動車の市場価格よりも10万円以上安いうえに実用的な軽自動車として発売した。この結果、主婦などの女性や、農作業をする夫婦から支持を集め、大ヒットを記録した。

アルトがヒットしたことがスズキにとっては大きな信頼となり、その後のGMとの提携(1981年)や、インド進出(1982年)の契機となった。その意味で、アルトは、スズキにグローバル展開をするチャンスをもたらした。

1982

インドでの乗用車の現地生産を決断。政府系企業に26%出資

1982年にスズキはインド政府からの要請を受けて、まだ市場としては未発達であったインドで軽自動車を生産する方針を決断した。資本金200億円の合弁会社を設立し、スズキが26%出資(インドで拒否権を行使できる比率が26%〜)して、残りがインド政府が出資した。だが、当時は誰も成功するとは信じなかったため、鈴木修(スズキ・代表取締役社長)は「お金ドブに捨てるつもりで進出した」と考えたほどでだった。

だが、当時の乗用車業界の話題はアメリカ進出や、欧米における小型乗用車の販売であり、トヨタや日産のような大規模メーカーはインドに進出する経営体力が残されていなかった。一方で、スズキは未開拓のインドであればトップを目指せるとポジティブに捉え、当時は誰も見向きをしなかったインドへの投資を決めた。なお、欧米の自動車メーカーもインドに進出を見送っており、グローバルではスズキだけがインド市場に注目した。

1980年代から1990年代にかかて、スズキはインド向けに生産技術を工場に移転し、インド国内ではアルトをもとにした軽自動車を生産し、自動車の整備拠点と販売拠点をインド全土に充実させた。加えて、自動車製品に必要な部品は、日本から輸出するなど、多少のコストがかかっても現地生産にこだわった。

この結果、1995年までにスズキはインドにおける乗用車のシェア75%を確保し、市場をほぼ独占した。加えて、インド国内では「スズキ」という名前が乗用車の代名詞となるなど、スズキはインドに溶け込んだ自動車メーカーへと成長した。

1991年
売上高1兆円を突破するものの「中小企業」を宣言

1980年代を通じて日本国内で軽自動車の需要が急増。アルトのヒットによって、1991年にスズキは売上高1兆円を突破した。

だが、鈴木修(スズキ・社長)は、乗用車業界においては中小企業であると考えて経営にあたった。

このため、スズキは売上高1兆円を突破したものの、自動車生産に関係のない出費を削り(受付における人の応対を廃止する、など)、ケチケチ経営に徹したことで話題になった。

1996年
インドマルチ社への出資比率を54%に引き上げ、本格投資を開始

1996年にインドで政権交代が起こり、インド国内では外資企業に対するスズキに対して「不当な利益を得ている」といった批判が沸き起こった。最終的にインド政府とスズキは和解し、スズキがマルチ社への出資比率を54%に引き上げることで、スズキがインドにおける経営の決定権を握った。この資本政策の変更により、スズキはインド事業に積極投資することが可能となった。

スズキはインドの経済発展に合わせて現地工場に設備投資をすることによって業容を拡大。2019年の時点でも、スズキはインドにおける乗用車のシェア51%を確保しており、インド事業はスズキにおける稼ぎ頭となっている。

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