1909年〜 織機屋から軽自動車への大転換、アルトの誕生
- 1909年鈴木式織機製作所を創業
- 1920年鈴木式織機株式会社として改組設立
- 1952年二輪車に参入・パワーフリー号を発売
- 1954年商号を鈴木自動車工業株式会社に変更
- 1955年軽四輪乗用車を発売(国内軽自動車の先鞭)
- 1961年繊維機械部門を子会社に分離
- 1981年GM・いすゞ・スズキの3社が業務提携
スズキの業績推移:単体
出所:有価証券報告書等
織機メーカーが生き延びた戦後の転身
1909年10月、静岡県浜名郡出身の鈴木道雄氏が浜松市に鈴木式織機製作所を開業し、国産織機の製造販売を事業の中核に据えた。創業当初から独自の改良を重ねた木製織機は品質で市場の評価を得て、1920年3月には資本金50万円の鈴木式織機株式会社へ組織改組して事業を広げた。以後は綿織機・サロン織機・毛織機など各種の繊維機械を一貫生産し、業界三大メーカーの一つに数えられ、なかでもサロン織機は東南アジア方面へ盛んに輸出した。1937年には自動車事業への進出も構想したが、戦時統制と原材料不足で実行に至らず、戦時下は軍需関連の機械製造に軸を置いた。ダイヤモンド誌は当時を振り返って「当社は、社名に見る通り、織機を製作する会社である」「紡績会社の復興需要に加え、東南洋への輸出が旺盛を極めたからである」(ダイヤモンド 1953/06/01)と記し、織機専業時代の繁忙を伝えている。 [1][2][3][4][5]
- スズキ 有価証券報告書 第159期(2024年3月期)【沿革】
- [1]1909年10月 鈴木道雄が浜松で鈴木式織機製作所を創業
- [2]1920年3月 資本金50万円で鈴木式織機株式会社へ改組設立
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
- [3]1920年3月の株式会社改組時の資本金50万円
- [4]綿織機・サロン織機・毛織機など繊維機械を一貫生産し業界三大メーカーの一つ、サロン織機を東南アジアへ輸出
- ダイヤモンド(1953年6月1日)
- [5]ダイヤモンド誌1953/06/01 織機専業時代の記述
戦後、国内の綿紡績業は朝鮮戦争特需の終焉で衰退に転じ、1950年代を通じて織機市場そのものが縮んだ。鈴木道雄氏は1952年に原動機付自転車「パワーフリー号」の製造販売を開始し、翌1953年には大型化した「ダイヤモンドフリー号」(60cc)が大好評を博して自動車事業への手応えを固め、1954年に鈴木自動車工業株式会社へ社名を変更して事業の重心を織機から自動車へ移した。バイク事業への転身は社内外から異論が出て、社史は「当社がモーター・バイクの製作に転換したことが知れると、各界の名士および銀行団から好意的な翻意の忠告、ないしは反対を受けた」と伝える。1955年10月に軽自動車「スズライトSS」を投入して軽四輪の先駆けとなり、1957年2月には鈴木道雄氏が社長を退いて鈴木俊三氏が後任社長に就いた。浜松の独立系メーカーの集積地を本拠にした独自の生存戦略が形をとった。 [6][7][8][9][10][11]
- 有価証券報告書
- [6]1952年6月 原動機付自転車パワーフリー号の製造販売開始
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
- [7]1953年 ダイヤモンドフリー号(60cc)を生産し大好評を得た
- [11]1957年2月の道雄退任後の後任社長が鈴木俊三である点
- スズキ 有価証券報告書 第159期(2024年3月期)【沿革】
- [8]1954年6月 鈴木自動車工業株式会社へ社名変更
- [9]1955年10月 軽四輪乗用車スズライトSSを発売し軽四輪の先駆けに
- [10]1957年2月 鈴木道雄が社長を退任し後任に鈴木俊三が就任
- スズキ 有価証券報告書 第159期(2024年3月期)【沿革】
- [1]1909年10月 鈴木道雄が浜松で鈴木式織機製作所を創業
- [2]1920年3月 資本金50万円で鈴木式織機株式会社へ改組設立
- [8]1954年6月 鈴木自動車工業株式会社へ社名変更
- [9]1955年10月 軽四輪乗用車スズライトSSを発売し軽四輪の先駆けに
- [10]1957年2月 鈴木道雄が社長を退任し後任に鈴木俊三が就任
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
- [3]1920年3月の株式会社改組時の資本金50万円
- [4]綿織機・サロン織機・毛織機など繊維機械を一貫生産し業界三大メーカーの一つ、サロン織機を東南アジアへ輸出
- [7]1953年 ダイヤモンドフリー号(60cc)を生産し大好評を得た
- [11]1957年2月の道雄退任後の後任社長が鈴木俊三である点
- ダイヤモンド(1953年6月1日)
- [5]ダイヤモンド誌1953/06/01 織機専業時代の記述
- 有価証券報告書
- [6]1952年6月 原動機付自転車パワーフリー号の製造販売開始
引き算の設計が47万円のアルトを生んだ逆説
1964年から1965年にかけての軽四輪市場では本田技研の参入が重くのしかかり、経済展望は「鈴木の四輪社部門は、1964年度に10%の減産となった」「先行きは後進の本田が鈴木を追い越すだろう」(経済展望 1960/10/01)と警告した。1967年1月には「四輪専用工場建設のため、静岡県磐田市岩井原に33万㎡の用地を確保、造成工事を進めていたが、このほど完了」(日経新聞 1967/01/29)と報じられた磐田工場が稼働を迎え、同年7月から月産1万台体制を整えた。1973年の石油危機では社内でエンジン小型化論が出たが、鈴木修氏は「石油枯渇が将来の大きな問題になろうとしているときに、なぜそんなことをいいだすのか」(週刊東洋経済 1973/05/05)と小型車再進出案を反駁した。 [12][13][14][15]
- 経済展望(1960年10月1日)
- [12]経済展望1960/10/01 本田の攻勢・鈴木四輪部門1964年度10%減産の記述
- スズキ 有価証券報告書 第159期(2024年3月期)【沿革】
- [13]1967年 磐田工場が稼働(磐田工場は1967年8月建設)
- 日本経済新聞(1967年1月29日)
- [14]日経新聞1967/01/29 磐田市岩井原33万㎡用地造成完了の記述
- 週刊東洋経済(1973年5月5日)
- [15]週刊東洋経済1973/05/05 鈴木修の小型車再進出反駁の発言
1978年6月、鈴木修氏は鈴木道雄氏の娘婿として鈴木自動車工業の社長に就任し、以後40年超の長期政権の基礎を築いた。突破口を軽自動車の「二台目需要」に見出し、徹底したコスト削減と設計の簡素化を軸とする「引き算の設計」を掲げた。1979年5月、スズキは新型軽商用車「アルト」を47万円という当時として破格の価格で投入した。読売新聞は「価格は軽自動車として初めて50万円を割る47万円」「コミュニティ・カーの要素を備えた第1号」(読売 1979/05/12)と報じ、プレジデント誌は「アルトのヒットの理由はなにか。その最大のものは『47万円』という値段の安さである」「ひとり鈴木自動車のみは『軽(と二輪の)専門メーカー』を旗印にして、この痩せ細る市場にしがみついた」(プレジデント 1979/11)と評価した。主婦層の二台目需要を掘り起こしたアルトは、以後のスズキの生存戦略の基本型となった。 [16][17][18][19][20]
- 有価証券報告書
- [16]1978年6月 鈴木修が鈴木自動車工業の社長に就任
- スズキ 有価証券報告書 第159期(2024年3月期)【沿革】
- [17]1979年5月 軽自動車アルトを発売
- 読売新聞(1979年5月12日)
- [18]アルト発売価格47万円
- [19]読売1979/05/12 アルトの価格・コミュニティカー第1号の記述
- プレジデント(1979年11月)
- [20]プレジデント1979/11 アルトのヒット理由の評価
- 経済展望(1960年10月1日)
- [12]経済展望1960/10/01 本田の攻勢・鈴木四輪部門1964年度10%減産の記述
- スズキ 有価証券報告書 第159期(2024年3月期)【沿革】
- [13]1967年 磐田工場が稼働(磐田工場は1967年8月建設)
- [17]1979年5月 軽自動車アルトを発売
- 日本経済新聞(1967年1月29日)
- [14]日経新聞1967/01/29 磐田市岩井原33万㎡用地造成完了の記述
- 週刊東洋経済(1973年5月5日)
- [15]週刊東洋経済1973/05/05 鈴木修の小型車再進出反駁の発言
- 有価証券報告書
- [16]1978年6月 鈴木修が鈴木自動車工業の社長に就任
- 読売新聞(1979年5月12日)
- [18]アルト発売価格47万円
- [19]読売1979/05/12 アルトの価格・コミュニティカー第1号の記述
- プレジデント(1979年11月)
- [20]プレジデント1979/11 アルトのヒット理由の評価