1947年〜 松下の分家から戦後家電メーカーへと立ち上がる創業期
- 1947年三洋電機製作所を創業
- 1950年三洋電機株式会社を設立
- 1951年ラジオの生産開始(国内初のプラスチックラジオ)
- 1953年噴流式洗濯機の製造を開始
- 1958年ストライキが発生・労使関係が悪化
- 1959年東京三洋電機を設立
- 1960年三洋電機(香港)を設立
三洋電機の業績推移:単体
出所:有価証券報告書等
公職追放を契機とした松下電器からの独立と自転車ランプによる創業
井植歳男氏は松下幸之助氏の妻の弟にあたり、1917年の松下電器創業当初から約30年にわたって専務を務めた人物である。戦後の連合国軍総司令部による財閥解体で公職追放の対象となり、松下電器からの独立を決めた。1947年1月に大阪府守口で三洋電機製作所を創業し、松下から譲り受けた兵庫県の北条工場を拠点として自転車用発電ランプや携帯ランプの製造を開始した。社名の「三洋」は太平洋・大西洋・印度洋の三つの大洋になぞらえた、海外進出を見据えた命名だった。井植氏は独立の動機を「終戦後、今の仕事が将来、有望であることはわかっていましたが、さらに大事なことは陸海軍というものがなくなって、日本の国力を回復充実するには、産業を復興する以外にない」(ダイヤモンド 1956/09/04)と語った。創業当初から「情勢の変化に備えて経営の危険を分散し、事業をより安定させる」(『企業の歴史 明治百年』経済春秋社, 1968)との経営理念を掲げ、この考え方が後年の多角化の指針となった。 [1][2][3][4][5][6][7]
- 三洋電機 有価証券報告書 第87期(2011年3月期)【沿革】
- [1]井植歳男は松下幸之助の妻の弟(義弟)で松下電器の専務を務めた創業者
- [2]1947年1月 井植歳男が大阪府守口で三洋電機製作所を個人創業
- [3]松下から譲り受けた北条工場(兵庫県)を拠点に自転車用発電ランプ・携帯ランプの製造を開始
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
- [4]創業当初の製品に自転車用発電ランプとあわせ携帯ランプも含まれた
- [5]社名「三洋」は太平洋・大西洋・印度洋の三大洋になぞらえた命名
- [6]「経営の危険を分散し事業をより安定させる」との経営理念を創業当初から掲げた(引用・『企業の歴史 明治百年』1968)
- ダイヤモンド(1956年9月4日)
- [7]井植歳男の独立動機に関する発言(引用・ダイヤモンド1956/9/4)
国内17社目のランプメーカーとしての後発参入だったが、松下電器で培った大量生産のノウハウを活かし、1950年に自転車ランプの国内シェア約70%を握った。同年4月に資本金2000万円で法人化し、1954年に大阪証券取引所へ株式を上場した。国内では義兄の松下電器との直接競争を避ける配慮から、海外輸出に活路を求める方針を早期に打ち出し、1949年から東南アジアへ発電ランプの輸出を始め、その後数年で発電ランプ輸出は世界各地へ広がった。身内の会社と競わない経営方針が、逆説的に同社の海外志向と独自性を育む土壌になった。後発で始まったメーカーが「家庭婦人を家事の重労働から解放するため、電気洗濯機を1台2.5万円程度で売ってあげるような時代の到来」(経済知識 1958/08)を掲げた段階で、松下とは異なる製品哲学の輪郭が現れていた。 [8][9][10][11][12]
- 三洋電機三十年の歩み(三洋電機, 1980)
- [8]1950年に自転車ランプの国内シェア約70%(本文の主張・国内17社目の後発参入)
- 三洋電機 有価証券報告書 第87期(2011年3月期)【沿革】
- [9]1950年4月 資本金2000万円で三洋電機株式会社を設立(法人化)
- [10]1954年4月 大阪証券取引所に株式上場
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
- [11]1949年から東南アジアへ発電ランプの輸出を開始し、数年後に世界各地へ拡大(引用・『企業の歴史 明治百年』1968)
- [12]電気洗濯機の普及に関する井植歳男の発言(引用・経済知識1958/8)
- 三洋電機 有価証券報告書 第87期(2011年3月期)【沿革】
- [1]井植歳男は松下幸之助の妻の弟(義弟)で松下電器の専務を務めた創業者
- [2]1947年1月 井植歳男が大阪府守口で三洋電機製作所を個人創業
- [3]松下から譲り受けた北条工場(兵庫県)を拠点に自転車用発電ランプ・携帯ランプの製造を開始
- [9]1950年4月 資本金2000万円で三洋電機株式会社を設立(法人化)
- [10]1954年4月 大阪証券取引所に株式上場
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
- [4]創業当初の製品に自転車用発電ランプとあわせ携帯ランプも含まれた
- [5]社名「三洋」は太平洋・大西洋・印度洋の三大洋になぞらえた命名
- [6]「経営の危険を分散し事業をより安定させる」との経営理念を創業当初から掲げた(引用・『企業の歴史 明治百年』1968)
- [11]1949年から東南アジアへ発電ランプの輸出を開始し、数年後に世界各地へ拡大(引用・『企業の歴史 明治百年』1968)
- ダイヤモンド(1956年9月4日)
- [7]井植歳男の独立動機に関する発言(引用・ダイヤモンド1956/9/4)
- 三洋電機三十年の歩み(三洋電機, 1980)
- [8]1950年に自転車ランプの国内シェア約70%(本文の主張・国内17社目の後発参入)
- [12]電気洗濯機の普及に関する井植歳男の発言(引用・経済知識1958/8)
噴流式洗濯機の開発と総合家電メーカーへの脱皮を決定づけた転身
1951年にラジオの生産を開始し、積水化学工業と協業して翌1952年に国内初のプラスチック製ラジオ「SF-52」を発売した。当時のラジオには30%の物品税が課され、税の分だけ安いアマチュアの組立品が市場に出回っていたなか、量産による品質と価格で対抗し、1952年に1万円を割ったプラスチック・キャビネットのラジオを送り出した。1953年に洗濯機事業への参入を決め、約1年の開発期間と数千万円の投資で攪拌式洗濯機の試作に成功したが、英国フーバー社の噴流式のほうが日本の手狭な住環境に適していると判断して方針を転換した。競合各社が特許リスクを恐れて参入を躊躇するなか、国内で噴流式の特許が成立しない点を見切った三洋は、英国フーバーの方式を模した噴流式の量産化に踏み切った。競合の慎重姿勢を逆手に取って市場の空白地帯へ先に踏み込む機動力が、当時の三洋電機の経営方針だった。 [13][14][15][16][17]
- 三洋電機三十年の歩み(三洋電機, 1980)
- [13]1951年にラジオの生産を開始
- [16]1953年に洗濯機事業への参入を決定(攪拌式試作のち噴流式へ転換)
- [17]国内で噴流式の特許が成立しない点を見切り英国フーバー方式を模した噴流式の量産化に踏み切った(本文の主張)
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
- [14]1952年に積水化学工業と協業し国内初のプラスチック製ラジオ「SF-52」を発売(型番SF-52は社史由来)
- [15]ラジオに30%の物品税が課され税分だけ安いアマチュア組立品が出回るなか、1952年に1万円を割ったプラスチック・キャビネットのラジオを発売(引用・『企業の歴史 明治百年』1968)
1953年8月に国内初の噴流式洗濯機を競合の約半額の2万8000円で発売し、月産30台という立ち上がりから1年余りで月産1万台にまで拡大した。1961年には洗濯機の国内生産量シェアで首位を確保し、日本の家庭用洗濯機の標準仕様を噴流式に定着させた。井植歳男氏は「この噴流式洗濯機の登場が主婦労働から女性を解放した」(歴史をつくる人々 第24)と語り、自社の製品が戦後日本の家事のあり方を変えたと振り返った。1958年時点でも井植氏は「家庭電化はまだ緒についたばかりで開花期はこれからですよ」(経済知識 1958/08)と述べ、家電普及の伸びしろを強気に見積もった。創業6年で家電の主力製品を社会の標準仕様に押し上げた経験が、以後の新分野への投資意欲を支えた。 [18][19][20]
- 三洋電機三十年の歩み(三洋電機, 1980)
- [18]1953年8月 国内初の噴流式洗濯機を約2万8000円で発売
- 歴史をつくる人々 第24
- [19]噴流式洗濯機が主婦労働から女性を解放したとの井植歳男の発言(引用・歴史をつくる人々第24)
- [20]家庭電化の伸びしろに関する井植歳男の発言(引用・経済知識1958/8)
- 三洋電機三十年の歩み(三洋電機, 1980)
- [13]1951年にラジオの生産を開始
- [16]1953年に洗濯機事業への参入を決定(攪拌式試作のち噴流式へ転換)
- [17]国内で噴流式の特許が成立しない点を見切り英国フーバー方式を模した噴流式の量産化に踏み切った(本文の主張)
- [18]1953年8月 国内初の噴流式洗濯機を約2万8000円で発売
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
- [14]1952年に積水化学工業と協業し国内初のプラスチック製ラジオ「SF-52」を発売(型番SF-52は社史由来)
- [15]ラジオに30%の物品税が課され税分だけ安いアマチュア組立品が出回るなか、1952年に1万円を割ったプラスチック・キャビネットのラジオを発売(引用・『企業の歴史 明治百年』1968)
- 歴史をつくる人々 第24
- [19]噴流式洗濯機が主婦労働から女性を解放したとの井植歳男の発言(引用・歴史をつくる人々第24)
- [20]家庭電化の伸びしろに関する井植歳男の発言(引用・経済知識1958/8)
ラジオから洗濯機、扇風機へと広がる家電製品群の急拡張
ラジオと洗濯機の成功を足がかりに、同社は家電製品群を広げた。1950年代前半に扇風機や冷蔵庫などの白物家電にも参入し、松下電器や東芝と並ぶ総合家電メーカーとしての陣容を整え始めた。大量生産体制を支えるため、守口の本社工場に加えて関西一円に生産拠点を展開し、量産効果による価格競争力を武器に国内市場の地歩を固めた。一連の製品群はいずれも松下電器との直接競合を避け、価格と販路の工夫で独自の顧客層を掴んだ。義兄の会社との棲み分けを前提に自社の強みを生かす領域を選ぶ姿勢が、製品戦略を一貫して貫き、後続のテレビ・空調の展開にも同じ設計思想が踏襲された。 [21]
- 三洋電機 有価証券報告書 第87期(2011年3月期)【沿革】
- [21]守口の本社工場に加え関西一円に生産拠点を展開(本文の主張)
1950年代半ばに洗濯機や冷蔵庫の国産化が一段落し、いわゆる三種の神器が一般家庭にも普及し始めた。需要のピークが近づくなかで、同社は次の成長領域を模索し、テレビを含む映像機器へ主力を移す準備に入った。実際、噴流式洗濯機を出した1953年にはテレビとミキサーの生産にも着手し、後年この年は「電化元年」と呼ばれた。大阪での創業から約15年、家電メーカーとしての一応の完成形を手にした段階で次の柱を仕込む二段構えが、同社に表れた。洗濯機での成功体験が次の挑戦を誘発する流れを作り、映像機器への本格参入を前に次の10年を見据える構えが固まった。井植歳男氏は1958年時点でテレビ・扇風機の増産が追いつかないほどの受注を抱えていると述べており、家電市場全体が加速する局面で次の製品へ移る余力を、ラジオ・洗濯機で培った生産体制の上に確保していた。以後の拡大期は、このときの地ならしの延長線で開花した。 [22][23]
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
- [22]1953年にテレビとミキサーの生産に着手し、同年は後年「電化元年」と呼ばれた(引用・『企業の歴史 明治百年』1968)
- [23]テレビ・扇風機の増産が受注に追いつかない旨の井植歳男の発言(1958年・経済知識1958/8に対応)
- 三洋電機 有価証券報告書 第87期(2011年3月期)【沿革】
- [21]守口の本社工場に加え関西一円に生産拠点を展開(本文の主張)
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
- [22]1953年にテレビとミキサーの生産に着手し、同年は後年「電化元年」と呼ばれた(引用・『企業の歴史 明治百年』1968)
- [23]テレビ・扇風機の増産が受注に追いつかない旨の井植歳男の発言(1958年・経済知識1958/8に対応)