| 期 | 区分 | 売上高 | 利益※ | 利益率 |
|---|---|---|---|---|
| 1950/11 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 2億円 | - | - |
| 1951/11 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 8億円 | - | - |
| 1952/11 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 27億円 | - | - |
| 1953/11 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 41億円 | - | - |
| 1954/11 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1955/11 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 43億円 | - | - |
| 1956/11 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 107億円 | - | - |
| 1957/11 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 129億円 | 12億円 | 9.9% |
| 1958/11 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 174億円 | 16億円 | 9.6% |
| 1959/11 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 312億円 | 32億円 | 10.3% |
| 1960/11 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 417億円 | 40億円 | 9.7% |
| 1961/11 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 491億円 | 39億円 | 8.0% |
| 1962/11 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 630億円 | 51億円 | 8.1% |
| 1963/11 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 675億円 | 46億円 | 6.8% |
| 1964/11 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 741億円 | 31億円 | 4.2% |
| 1965/11 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 732億円 | 22億円 | 3.0% |
| 1966/11 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 928億円 | 33億円 | 3.6% |
| 1967/11 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 1,290億円 | 51億円 | 4.0% |
| 1968/11 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 1,723億円 | 78億円 | 4.5% |
| 1969/11 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 2,151億円 | 87億円 | 4.0% |
| 1970/11 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 2,417億円 | 76億円 | 3.1% |
| 1971/11 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 2,477億円 | 49億円 | 1.9% |
| 1972/11 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 2,630億円 | 54億円 | 2.0% |
| 1973/11 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 3,118億円 | 63億円 | 2.0% |
| 1974/11 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 3,588億円 | 57億円 | 1.5% |
| 1975/11 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 3,502億円 | 57億円 | 1.6% |
| 1976/11 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 4,675億円 | 92億円 | 1.9% |
| 1977/11 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 5,321億円 | 109億円 | 2.0% |
| 1978/11 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 5,275億円 | 113億円 | 2.1% |
| 1979/11 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 5,840億円 | 151億円 | 2.5% |
| 1980/11 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 6,805億円 | 211億円 | 3.1% |
| 1981/11 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 7,524億円 | 239億円 | 3.1% |
| 1982/11 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 7,614億円 | 246億円 | 3.2% |
| 1983/11 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 8,197億円 | 228億円 | 2.7% |
| 1984/11 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 9,917億円 | 275億円 | 2.7% |
| 1985/11 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1986/11 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1987/11 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1988/11 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1989/11 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1990/11 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1991/11 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1992/11 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 15,657億円 | -12億円 | -0.1% |
| 1993/11 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 15,568億円 | -15億円 | -0.1% |
| 1994/11 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 16,936億円 | 113億円 | 0.6% |
| 1995/11 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 17,422億円 | 155億円 | 0.8% |
| 1996/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 5,246億円 | -37億円 | -0.8% |
| 1997/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 18,462億円 | 176億円 | 0.9% |
| 1998/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 19,246億円 | 123億円 | 0.6% |
| 1999/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 18,824億円 | -258億円 | -1.4% |
| 2000/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 20,142億円 | 216億円 | 1.0% |
| 2001/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 22,409億円 | 422億円 | 1.8% |
| 2002/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 20,247億円 | 13億円 | 0.0% |
| 2003/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 21,825億円 | -616億円 | -2.9% |
| 2004/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 25,080億円 | 134億円 | 0.5% |
| 2005/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 24,846億円 | -1,715億円 | -7.0% |
| 2006/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 23,970億円 | -2,056億円 | -8.6% |
| 2007/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 19,499億円 | -453億円 | -2.4% |
| 2008/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 19,181億円 | 287億円 | 1.4% |
| 2009/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 17,177億円 | -932億円 | -5.5% |
| 2010/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 15,565億円 | -487億円 | -3.2% |
| 2011/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 14,894億円 | -351億円 | -2.4% |
井植歳男は松下電器の創業期を約30年にわたり専務として支えた人物だが、GHQの公職追放により松下を去らざるを得なかった。注目すべきは、松下電器から譲渡された北条工場と自転車ランプの製造権という「のれん分け」的な資産が独立の足がかりとなった点である。後発17番目のランプメーカーが4年でシェア70%を奪取できた背景には、松下電器で培った大量生産とコストダウンの経営手法があった。創業時から社名に三洋(太平洋・大西洋・インド洋に由来)を冠して海外志向を明示したことも、国内で松下と正面衝突を避ける戦略的判断であった。
井植歳男は松下幸之助の妻の弟にあたり、1917年に松下電器が創業した当初から事業に参画した人物である。セールスや工場長など幅広い業務を担当し、1935年の株式会社化に伴い専務に就任した。松下電器の創業期における中核的な重役として約30年間にわたり同社の事業拡大に貢献し、松下電器の経営において井植歳男の存在は不可欠なものであった。
1945年の終戦後、GHQが実施した財閥解体により松下電器は制限会社に指定された。松下電器の重役であった井植歳男も公職追放の対象となり、同社での事業活動の継続が困難になった。松下電器で約30年間にわたり蓄積してきた経営の知見とものづくりの技術を活かす場を、井植歳男は松下電器の外に求める必要に迫られることとなった。
公職追放が決定した井植歳男は松下電器からの独立を決断した。1947年1月に大阪府守口において「三洋電機製作所」を創業し、松下電器から譲り受けた兵庫県の北条工場で自転車用発電ランプの製造を開始した。社名の「三洋」は太平洋・大西洋・インド洋の3つの海洋に由来しており、創業当初から将来のグローバル展開を見据えた社名を採用している。
経営体制は井植歳男を筆頭に、弟の井植拓郎(専務)と井植薫(常務)の3兄弟で構成された。国内市場では松下電器がすでに全国的な販売網を形成していたため、後発の三洋電機は松下電器との直接競争を避けて海外輸出に活路を見出す方針をとった。松下電器との間に資本関係は存在しなかったが、北条工場をはじめとする一部の生産設備は松下電器から継承したものであった。
創業後は自転車用発電ランプの製造に専念し、当時国内に17社あった競合メーカーとの価格競争を展開した。生産コストの引き下げに注力した結果、1950年には発電ランプで国内シェア約70%を確保するに至った。海外ではインドネシアと台湾を中心に創業初期から輸出を行い、国内外の販売数量を積み上げることで大量生産によるスケールメリットを追求した。
発電ランプで得た利益を設備投資の原資として、1951年にラジオ、1953年に噴流式洗濯機と家電分野への多角化を進めた。1950年4月には資本金2000万円で三洋電機株式会社として法人化し、1954年には大阪証券取引所への株式上場を達成した。自転車ランプの専業メーカーから、ラジオ・洗濯機を主力とする総合家電メーカーへと事業領域を拡大していった。
井植歳男は松下電器の創業期を約30年にわたり専務として支えた人物だが、GHQの公職追放により松下を去らざるを得なかった。注目すべきは、松下電器から譲渡された北条工場と自転車ランプの製造権という「のれん分け」的な資産が独立の足がかりとなった点である。後発17番目のランプメーカーが4年でシェア70%を奪取できた背景には、松下電器で培った大量生産とコストダウンの経営手法があった。創業時から社名に三洋(太平洋・大西洋・インド洋に由来)を冠して海外志向を明示したことも、国内で松下と正面衝突を避ける戦略的判断であった。
松下を辞めるとき、ダイナモランプだけもらってやめた。これは松下では製造する考えがなかったので、ナショナルのマークとともに重役会の議決を経て私の方でもらって作り始めたのです。兵庫県の北条工場、これは戦時中、松下の疎開工場で、当時は草ボウボウの荒れ果てた工場だったが、ここへ後藤君(当社の後藤常務のこと)など7人で乗り込んで、ダイナモランプの試作に取り掛かったのが、三洋電機の出発点です。
ひとつ海外でもやってみたい。広い海外に立ってものを考えると、日本の老舗と言っても海外のマーケットから言えば、たいして問題じゃないんじゃないか。という考えでスタートした
結論だけを言えば、ダイナモランプの1500円は、乾電池に換算すれば8000円。ろうそくに換算すると2万円に匹敵する。しかも乾電池よりズッと明るい。明るくて経済的で相当長持ちするものが、どうして売れないわけがあろうというので、製造に取り掛かったのです。
当時日本にはこの発電ランプのメーカーが17社あり、わが社は17番目だったわけだが、17社で年間15万個の生産しかなかった。当時、私は必ず5年以内に年間200万個は国内だけで売れるとにらんでいたが、事実はそれ以上で4年目に250万個、5年目300万個の需要があった。
しかし私の考えは、国内需要が一段落すれば当然、輸出に主力を上げるつもりだったのです。日本で年間200万個の需要があれば、世界でその10倍の2000万個の需要があるおは当然である。
三洋電機がラジオに参入した1951年は中小メーカーが乱立する市場であり、後発の三洋電機には技術的な優位性がなかった。そこで樹脂メーカーの積水化学と協業し、国内初のプラスチック製キャビネットを採用した「52型」を投入することで外装デザインの差別化に成功した。さらに1957年にはWEとの技術提携でトランジスタラジオに参入し、米国向けOEMで輸出を拡大した。自社技術ではなく外部提携を活用して市場参入する手法は、後の三洋電機の事業展開に共通するパターンとなる。
自転車用発電ランプで国内シェア約70%を確保した三洋電機は、事業多角化の一環として1951年にラジオの生産を開始した。ラジオの量産に備えて1950年に住道工場を新設し、旧松下飛行機の跡地を生産拠点として整備した。当時の国内ラジオ市場は中小規模のメーカーが乱立する競争環境にあり、後発の三洋電機には技術面で既存メーカーを上回る明確な差別化要因がなかった。
三洋電機は発電ランプの製造で培った大量生産のノウハウをラジオにも適用し、スケールメリットによるコスト引き下げを基本方針とした。しかし価格面での優位だけでは中小メーカーとの消耗戦に陥る懸念があり、製品の外装や素材の面で他社との差別化を打ち出す必要に迫られていた。
三洋電機は樹脂メーカーの積水化学と協業し、当時普及しつつあったプラスチック素材を用いたキャビネットを開発した。木製キャビネットが主流であった市場に対して、量産適性と外観の両面で差別化を図り、1952年に国内初のプラスチックラジオ「52型」を発売した。樹脂素材の採用は製造コストの抑制にも寄与し、ラジオは1953年ごろに自転車ランプに次ぐ主力事業に成長した。
さらに1957年に米ウェスタンエレクトリック社との技術提携を締結し、ソニーが先行していたトランジスタラジオの市場に後発参入を果たした。ソニーが独自ブランドで北米市場を開拓したのに対して、三洋電機は米国向けOEMによるトランジスタラジオの輸出拡大を選択した。自社技術ではなく外部提携を梃子に新分野へ参入する手法は、後の三洋電機の事業展開に共通するパターンとなった。
三洋電機がラジオに参入した1951年は中小メーカーが乱立する市場であり、後発の三洋電機には技術的な優位性がなかった。そこで樹脂メーカーの積水化学と協業し、国内初のプラスチック製キャビネットを採用した「52型」を投入することで外装デザインの差別化に成功した。さらに1957年にはWEとの技術提携でトランジスタラジオに参入し、米国向けOEMで輸出を拡大した。自社技術ではなく外部提携を活用して市場参入する手法は、後の三洋電機の事業展開に共通するパターンとなる。
三洋電機が洗濯機市場を席巻できた最大の要因は、競合が英フーバー社の特許を恐れて手を出さなかった噴流式に果敢に踏み込んだ点にある。技術者が「国内では特許が成立しない」と判断したことで、攪拌式から噴流式への方針転換が可能となった。さらに価格を競合の約半額の2.8万円に設定し、月産30台から1年余りで月産1万台へと急速にスケールさせた量産力も見逃せない。日本の家電業界における噴流式の標準化は、三洋電機の技術的判断と量産投資の掛け合わせによって実現したものであった。
自転車ランプとラジオで事業基盤を築いた三洋電機は、次なる製品として洗濯機への参入を決定した。当時の日本では手洗いが一般的であり、創業者の井植歳男は主婦の労働時間を短縮できる洗濯機への需要が急速に高まると判断した。1952年から国内外の洗濯機を分解して調査に着手し、1950年に新設した滋賀工場を開発拠点に定めた。
約1年の開発期間と数千万円の開発費を投じて、1953年1月に丸型の攪拌式洗濯機の試作に成功した。ところが開発の過程で、英国フーバー社が開発した角型の噴流式洗濯機の方が、日本の狭い居住空間に設置しやすく、渦巻状の水流で汚れを落とす仕組みも日本の洗濯環境に適していることが明らかになった。
国内の競合メーカーがフーバー社の特許に抵触することを恐れて噴流式に手を出さない中、三洋電機の技術者は噴流式の技術が公知であり国内では特許が成立しないと判断した。井植歳男はこの技術的見解を根拠に、すでに数千万円を投じた丸型攪拌式の開発を中止し、角型噴流式への全面的な方針転換を決断した。
1953年6月に国内初の噴流式洗濯機を完成させ、同年8月から販売を開始した。製品価格は競合の攪拌式洗濯機の約半額にあたる2万8000円に設定し、低価格による市場浸透を意図した。滋賀工場での量産体制を急速に立ち上げ、1953年7月の月産約30台から同年12月に月産約2000台、翌1954年8月には月産約1万台へと生産規模を引き上げた。
三洋電機の噴流式洗濯機は低価格と使い勝手の良さから急速に普及し、1961年には洗濯機の国内生産量シェアで1位を確保した。ただし松下電器をはじめとする各社も噴流式に追随して参入したため、三洋電機のシェアは約20%にとどまり、激しい販売競争に巻き込まれた。
三洋電機が噴流式を投入したことで、攪拌式洗濯機は市場からほぼ姿を消し、日本における洗濯機の標準仕様は噴流式に定まった。後発メーカーでありながら、特許リスクの判断と量産投資の速度で市場の規格を事実上決定づけた出来事は、三洋電機の家電メーカーとしての地位を確立する転機となった。
三洋電機が洗濯機市場を席巻できた最大の要因は、競合が英フーバー社の特許を恐れて手を出さなかった噴流式に果敢に踏み込んだ点にある。技術者が「国内では特許が成立しない」と判断したことで、攪拌式から噴流式への方針転換が可能となった。さらに価格を競合の約半額の2.8万円に設定し、月産30台から1年余りで月産1万台へと急速にスケールさせた量産力も見逃せない。日本の家電業界における噴流式の標準化は、三洋電機の技術的判断と量産投資の掛け合わせによって実現したものであった。
プラスチック製ラジオが好調に滑り出したので、私は電気洗濯機の研究に終日取り組んだ。そして、その成功が、いわゆる家庭電化の口火を切り、サンヨーの声価を決定的なものにした。1953年8月26日、三洋電機は日本で初めて噴流式洗濯機を売り出したが、この年をジャーナリズムは日本の電化紀元元年と読んでいる。(略)
洗濯機といえば丸型の攪拌式が1台5万円から6万円が通り相場だった時に、価格は28,500円という破格の安さだった。品質、性能が抜群で、しかも求めやすい商品が歓迎されるのは当然で、発売後数年で、攪拌式は市場からほとんど姿を消した。今日、日本の電気洗濯機は、大部分が噴流式で生産されている。電気洗濯機では先輩だった各社も、その後、わが社に追随して、噴流式に切り替えたからである。この噴流式洗濯機の登場が、桃太郎の昔から代表的な主婦労働だった選択から女性おwかいほうした。これによって日本人の勤労意識や経済観念は根こそぎひっくり返った。
創業から10年で急成長を遂げた三洋電機だが、工場の従業員管理が追いつかず深刻な労使対立を招いた。30億円の機会損失と10億円の直接損害は、当時の三洋電機にとって致命的な規模であった。興味深いのは、この労使問題が東京三洋電機の設立という経営判断に直結した点である。群馬の3割安い賃金水準を活かすために別法人を設立するという手法は、労使問題の根本解決ではなく地理的な回避策であり、後年の同族経営における意思決定の特徴を先取りしている。
三洋電機は工場の稼働率を高めるためにベルトコンベアーを導入するなど生産コストの引き下げに注力した一方、工場の従業員管理は手薄であった。三洋電機労働組合が出版した「おれらはここに立つ」(1960年)には、体調不良者への出勤強要や低賃金への不満、工場長による怒号が常態化していた様子が記されている。内容の真偽は検証が困難だが、少なくとも経営陣と生産現場の関係が円満であったとは言い難い。
1950年代を通じて労使対立が深刻化し、1958年に従業員は労働組合を結成して工場勤務を放棄するに至った。販売の機会損失は30億円、直接損害は約10億円に及び、三洋電機の創業以来最大の経営危機をもたらした。事業拡大を急いだ代償が労使関係の崩壊という形で顕在化したのである。
三洋電機の創業家は関西地区での生産拡充を諦め、1959年に東京三洋電機を別法人として設立した。群馬県大泉町の旧中島飛行機跡地に東京工場を新設し、関西との賃金差(約3割安)を活かす方策をとった。三洋電機が全国統一賃金の原則を労働組合と合意していたことから、人件費の削減には法人を分離する必要があった。
創業者の井植歳男は事業規模の拡大を急ぎすぎたことを反省し、1961年に新たな経営方針を発表した。同年中に工場の長期ロックアウトを実施したことで労働組合内部の足並みが崩れ、過激な活動は徐々に収束に向かった。この労使問題は三洋電機の生産拠点の配置と経営体制に長期にわたる影響を残すこととなった。
創業から10年で急成長を遂げた三洋電機だが、工場の従業員管理が追いつかず深刻な労使対立を招いた。30億円の機会損失と10億円の直接損害は、当時の三洋電機にとって致命的な規模であった。興味深いのは、この労使問題が東京三洋電機の設立という経営判断に直結した点である。群馬の3割安い賃金水準を活かすために別法人を設立するという手法は、労使問題の根本解決ではなく地理的な回避策であり、後年の同族経営における意思決定の特徴を先取りしている。
当社の歩みは決して好ましい姿ではなく、外国のお得意先を招待すると、赤旗で出迎えるなどは序の口で、新しい工場には、はがしきれないほどのビラを張る。上役が職場へ入ってくると洗濯デモをかけてくる。また販売系列化でしのぎを削っている最中に長期のストライキを打つ。こんな状態では会社が社会のため、家庭生活の向上のために尽くすなどとは思いもよらない。私はむしろ会社を解散した方が国や社会に益するのではないかと考えたほどであった。
会社側にも未熟な点があっただろう。また、組合も初めてできたばかりで、若い人たちが多く、一面無理もなかったと思う。しかし、組合ができて2年間に会社が受けた存在は非常に大きかった。金額で見ると争議のために生産できなかったものがざっと30億円、またそれによって出た損害が大体10億円。もちろん、信用にも大きく影響した。こうした無形の損失は計り知れないものがあり、健全な労使関係を作る授業料にしては、ずいぶん高かったと思う。(略)
労働問題に限らず、これまでは事業の規模ばかり大きくして、内部の充実を怠ってきたことを反省した私は、1961年正月、改めて経営方針を発表した。
三洋電機はカラーテレビの北米輸出によって半期売上高を354億円から1126億円へと4年で3倍に伸ばしたが、この急成長は日本の家電各社が北米市場に殺到したことで貿易摩擦を招く結果となった。三洋電機に限らず松下・東芝・ソニー・日立・シャープが同じ市場で競い合った構図は、日本の家電産業が輸出主導で成長した1960年代の典型的なパターンである。最終的に30%減産を余儀なくされたことは、日本国内で生産して北米に輸出するビジネスモデルの限界を示し、後の北米現地生産への転換を促す直接の契機となった。
三種の神器と称された白黒テレビ・洗濯機・冷蔵庫の需要が一巡し、1965年の証券不況も重なって三洋電機の売上成長は停滞した。家電市場の成熟に伴い、三洋電機は次なる成長商品の開発に迫られていた。カラーテレビは1960年代後半の本格普及が見込まれる製品であり、三洋電機は北米市場への輸出を軸にカラーテレビへの集中投資を決定した。
半期売上高は1965年11月期の354億円から1969年11月期には1126億円へと4年間で約3倍に拡大し、カラーテレビの北米輸出が三洋電機の業績を牽引した。1970年にはカラーテレビの量産工場として岐阜工場を新設し、稼働時で月産2万台の生産体制を構築して北米向け輸出の専用拠点として位置づけた。
三洋電機だけでなく松下電器・東芝・ソニー・日立・シャープの各社もカラーテレビの北米輸出で競い合い、1970年代を通じて日米間の貿易摩擦が深刻化した。日本製カラーテレビのダンピング問題に発展したことで、三洋電機はカラーテレビの30%減産を余儀なくされた。
日本国内で生産して北米に輸出するビジネスモデルの限界が明確となり、北米市場での事業継続には現地生産への転換が不可避であることが示された。この貿易摩擦の経験は、三洋電機が1976年に米ウォーイック社を買収し北米での現地生産に踏み切る直接の契機となった。
三洋電機はカラーテレビの北米輸出によって半期売上高を354億円から1126億円へと4年で3倍に伸ばしたが、この急成長は日本の家電各社が北米市場に殺到したことで貿易摩擦を招く結果となった。三洋電機に限らず松下・東芝・ソニー・日立・シャープが同じ市場で競い合った構図は、日本の家電産業が輸出主導で成長した1960年代の典型的なパターンである。最終的に30%減産を余儀なくされたことは、日本国内で生産して北米に輸出するビジネスモデルの限界を示し、後の北米現地生産への転換を促す直接の契機となった。
この買収の本質は、貿易摩擦への対応というよりも、最大顧客シアーズとの取引関係の維持にあった。ウォーイック社の再建依頼を断れば北米向けテレビの販路を失う恐れがあり、三洋電機は技術支援のつもりが交渉の過程で31.7億円の資産買取に発展した。結果として年産96万台で松下・ソニーを上回る現地生産トップに立ち、従業員を400名から1800名に増やして州政府から表彰されるまでに至った。顧客の依頼に応じた受動的な判断が、日本企業の北米現地生産の先駆的モデルを生んだ点が興味深い。
1968年以降、三洋電機をはじめ松下電器・東芝・ソニーなど日本の家電各社がカラーテレビの北米輸出で競い合い、日米間の貿易摩擦が深刻化した。ダンピング問題に発展したことで三洋電機はカラーテレビの30%減産を余儀なくされ、日本国内で生産して北米に輸出するというビジネスモデルは限界に達しつつあった。輸出依存体質からの脱却が三洋電機にとって喫緊の経営課題となった。
1974年ごろから三洋電機の井植薫社長は北米での現地生産の検討を開始した。同時期に大口顧客である米国大手小売業シアーズから、ワールプール社との合弁子会社ウォーイック社の経営再建の打診があった。ウォーイック社はカラーテレビの生産性悪化により赤字が続いており、最盛期に2500名を数えた従業員は買収前の時点で400名にまで減少していた。
三洋電機にとってシアーズは北米向けテレビの大部分を納入する最大の取引先であり、ウォーイック社の再建依頼を簡単に拒絶することは取引関係の断絶を意味した。当初は技術支援の形での協力を想定していたが、井植薫社長から全権を委ねられた井植敏専務による交渉の過程で、資産買取方式による本格的な買収へと方針が転換されていった。
1976年9月にサンヨー・マニュファクチャリング・コーポレーション(SMC)を現地法人として設立し、同年12月にSMCを通じてウォーイック社を取得価格1032万ドル(31.7億円)で買収した。買収後の出資比率は三洋電機が57%、シアーズが25%で構成され、ワールプールは撤退したがシアーズは引き続き合弁会社に出資する形をとった。
1977年1月からアーカンソー州の工場でカラーテレビの現地生産を開始した。生産したテレビは主にシアーズブランドとしてOEM供給され、一部は三洋電機の自社ブランドでも販売された。1980年時点で月産8万台・年産96万台の体制を構築し、松下電器の年産70〜80万台やソニーの年産50〜60万台を上回って日本企業の中で北米現地生産トップに立った。
経営面でも1980年までにSMCは黒字を確保し、ウォーイック社の経営再建を実現した。従業員数は買収時の400名から1800名に増加し、1977年10月にはアーカンソー州知事がSMCを表彰するなど現地の雇用拡大にも貢献した。1980年代にシアーズが撤退の意向を示した際は、州知事が新たな取引先としてウォルマートを三洋電機に紹介するなど、州政府による経営面での全面的な支援も受けた。
| 企業名 | 年産(台) | 現地生産開始年 | 備考 |
| 三洋電機 | 年産96万台 | 1977年1月 | 米ウォーイック社を買収(シアーズ合弁) |
| 松下電器 | 年産70〜80万台 | 1974年5月 | 米クェーザー社を買収 |
| ソニー | 年産50〜60万台 | 1972年8月 | サンディエゴ工場を新設(単独) |
この買収の本質は、貿易摩擦への対応というよりも、最大顧客シアーズとの取引関係の維持にあった。ウォーイック社の再建依頼を断れば北米向けテレビの販路を失う恐れがあり、三洋電機は技術支援のつもりが交渉の過程で31.7億円の資産買取に発展した。結果として年産96万台で松下・ソニーを上回る現地生産トップに立ち、従業員を400名から1800名に増やして州政府から表彰されるまでに至った。顧客の依頼に応じた受動的な判断が、日本企業の北米現地生産の先駆的モデルを生んだ点が興味深い。
シアーズ社を通じて当社へ親会社ワールプール社からのウォーイック社の経営肩替わりを打診してきた。ワールプール社は冷蔵庫、洗濯機など「白モノ」ではアメリカでも業界第一のメーカーであるが、当社の最大の得意先であるシアーズ社からの要請であったから、簡単に拒否するわけにもいかなかった。(略)
井植薫社長は、ウォーイック社の経営を引き受けることがプラスかマイナスかを熟慮した末、最初から経営するのではなく、技術援助のような形で協力するのが、この際、もっとも無難ではないかと考え、それをベースにこの話を受けようと決断した。交渉が始まったのは、1975年の秋であったが、井植薫社長はその全権を井植敏専務に任せた(略)
当初の技術援助方式とはかけ離れた内容となったが、ウォーイック社の全部を買い取るのではなく、カラーテレビの製造に最小限必要なものだけを継承する、いわば資産買取方式に落ち着いたのである。
月間8万台のカラーテレビを製造し、シアーズ、サンヨー両ブランドでアメリカ市場に供給している。当社の経営になって、設立時400名(最盛時2500名)に減少していた従業員も、1800名に増加し、州政府から感謝状を受けた。また、それまでの赤字から一転して黒字経営に変わっている。
累計660億円を投じた二次電池事業は三洋電機の全社利益の約80%を占めるまでに成長し、家電メーカーとしては異例の収益構造を形成した。裏を返せば、家電事業の収益力が著しく低下していたことを意味する。二次電池への傾斜投資は技術力の蓄積という点では成功だったが、特定事業への依存度の高さは経営リスクでもあった。後年のパナソニックによる買収において、三洋電機の電池技術が最大の買収動機となったことを踏まえると、この時期の投資判断が三洋電機の最終的な企業価値を決定づけたといえる。
1980年代後半、家電市場は成熟化と価格競争の激化に直面し、従来のAV機器や白物家電だけでは収益拡大が困難になっていた。三洋電機は成長性と収益性を兼ね備えた分野として二次電池事業に着目し、1990年ごろからソフトエナジー事業本部を軸に設備投資を積極化した。日経ビジネス(1992年8月3日号)は、電池事業が三洋電機の「利益の大黒柱」に育ちつつあると報じている。
家電メーカーとしての従来の収益構造に限界が見えつつある中で、携帯電話やノートパソコンの普及を追い風にリチウムイオン電池やニッケル水素電池の需要拡大が見込まれた。二次電池は三洋電機が技術蓄積を有する分野であり、経営資源を集中させる判断が下された。
拠点である淡路島・洲本工場を中心に、三洋電機は数年間で累計660億円を投じて生産能力の拡張と専用設備の整備を進めた。1991年度の電池事業は利益ベースで80億円から100億円を確保し、全社利益の約80%を占めるまでに成長した。家電事業の収益力が低下する中、二次電池への傾斜投資は三洋電機の収益構造を電池中心へと転換させる分岐点となった。
ただし全社利益の大部分を単一の事業領域に依存する構造は、経営上のリスクを内包するものでもあった。二次電池の市場ではソニーやパナソニックといった競合も投資を拡大しており、三洋電機が技術面の優位を維持するにはさらなる設備投資と研究開発の継続が不可欠であった。
累計660億円を投じた二次電池事業は三洋電機の全社利益の約80%を占めるまでに成長し、家電メーカーとしては異例の収益構造を形成した。裏を返せば、家電事業の収益力が著しく低下していたことを意味する。二次電池への傾斜投資は技術力の蓄積という点では成功だったが、特定事業への依存度の高さは経営リスクでもあった。後年のパナソニックによる買収において、三洋電機の電池技術が最大の買収動機となったことを踏まえると、この時期の投資判断が三洋電機の最終的な企業価値を決定づけたといえる。
三洋電機の経営危機は単一事業の失敗ではなく、液晶・太陽電池・二次電池・半導体・デジカメという複数の巨額投資事業が同時に競争劣位に陥った構造的な問題であった。液晶だけで2000億円を投じながらシャープや韓国勢に押され、半導体は新潟県中越地震で被災するという不運も重なった。FY2005に特別損失3039億円を計上して自己資本比率が18.7%まで低下し、監査法人がゴーイングコンサーン注記を付す事態に至った。経営資源の全方位分散は、個別技術では優れていても事業規模で勝てないという三洋電機の宿命的な課題を露呈した。
2002年ごろから三洋電機の主力事業を取り巻く競争環境が一斉に悪化した。液晶ではシャープや韓国メーカー、二次電池ではソニーやパナソニック、白物家電では中国メーカー、デジタルカメラでは各社による熾烈な価格下落が進行し、三洋電機の事業全般が行き詰まった。いずれも巨額の設備投資を要するビジネスであり、全方位に経営資源が分散した三洋電機は各事業で競争劣位に陥った。
特に液晶では総額2000億円を投じながらシャープとの競争に押され、投資の回収が困難となった。加えてこれらの設備投資を銀行借入で賄っていたことから財務状況も急速に悪化し、2004年度の自己資本比率は11%にまで低下した。
2005年度に三洋電機は当期純利益▲2056億円を計上した。特別損失3039億円の主な内訳は、関係会社株式評価損1498億円、構造改革費用825億円、減損損失421億円(うち半導体事業向け272億円)、関係会社損失引当金繰入175億円、固定資産処分損53億円であった。
これらの損失計上によって自己資本比率は18.7%に低下した。監査法人は三洋電機の経営上のリスクを総合的に勘案し、有価証券報告書において「継続企業の前提に関する注記」を記載するに至った。全方位に投資を展開しながらいずれの事業でも競争優位を確立できなかったことが、三洋電機の財務危機の構造的な要因であった。
三洋電機の経営危機は単一事業の失敗ではなく、液晶・太陽電池・二次電池・半導体・デジカメという複数の巨額投資事業が同時に競争劣位に陥った構造的な問題であった。液晶だけで2000億円を投じながらシャープや韓国勢に押され、半導体は新潟県中越地震で被災するという不運も重なった。FY2005に特別損失3039億円を計上して自己資本比率が18.7%まで低下し、監査法人がゴーイングコンサーン注記を付す事態に至った。経営資源の全方位分散は、個別技術では優れていても事業規模で勝てないという三洋電機の宿命的な課題を露呈した。
継続前提に疑義がついたのは非常に屈辱的