三洋電機 の歴史

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自転車ランプの創業からパナソニック買収まで

創業 1947年
創業者 井植歳男
創業地 大阪府守口市
創業 1947年1月、井植歳男氏が大阪府守口で三洋電機製作所を個人経営で創業し、195
1947年1月、井植歳男氏が大阪府守口で三洋電機製作所を個人経営で創業し、1950年4月に資本金2,000万円で法人化した。井植氏は松下幸之助氏の妻の弟で、松下電器の専務を務めていたが、財閥解体にともなう公職追放で職を離れ、譲り受けた北条工場の設備を元手に自転車用の発電ランプから再出発した。乾電池が不足していた時期の需要を捉え、1951年には国内初のプラスチック製ラジオ、1953年には噴流式洗濯機へ製品を広げている。1954年4月に大阪証券取引所、同年12月に東京証券取引所へ上場した。
決断 後発ゆえに、他社が手を付けていない市場から順に取ってきた。1976年9月、貿易摩
後発ゆえに、他社が手を付けていない市場から順に取ってきた。1976年9月、貿易摩擦と最大の取引先だったシアーズとの関係を守るため、米ウォーイックを買収して北米での現地生産へ移った。輸出を積み増すより先に、工場を市場の側へ置いた判断である。1990年には二次電池へ傾斜して投資し、全社の設備投資の約2割を電池へ向けてニッケル水素まで量産体制を構築した。2002年1月には中国ハイアールと資本提携し、普及品の市場を明け渡す代わりに部品とOEMの供給先を確保している。規模で正面から並ばない選び方は、電池では世界市場で3割を超える占有率を生み、白物家電では市場を提携相手へ譲る結果にもなった。
現況 上場会社としての三洋電機は消え、電池の技術がパナソニックへ引き継がれた。連結売上
上場会社としての三洋電機は消え、電池の技術がパナソニックへ引き継がれた。連結売上高は2004年3月期の2兆5,080億円を頂点に縮み、2005年3月期からの二期で当期純損失3,772億円を計上した。2006年3月期の個別財務諸表には、継続企業の前提に関する重要な疑義が注記されている。2008年4月に携帯電話事業を京セラへ譲渡した。2009年12月にパナソニックの公開買付を受け入れ、2011年3月29日に上場廃止、4月1日の株式交換で完全子会社となった。白物家電はハイアールへ渡り、1990年代に育てた半導体と液晶も完全子会社化の前に社外へ出ている。
競合 本家と同じ商品を並べたことが、最後に本家へ吸収される道を用意した。三洋電機は松下
本家と同じ商品を並べたことが、最後に本家へ吸収される道を用意した。三洋電機は松下電器の専務が興した会社で、テレビも洗濯機も冷蔵庫も同じ売り場で競った。創業期から国内での正面競合を避けて輸出に活路を求め、1984年11月期には単体売上高9,917億円まで伸びている。2006年3月に3,000億円の第三者割当増資を受けたときも、支えたのは同業ではなく金融3社である。最後まで残った競争優位は二次電池で、もうひとつの成長エンジンと呼んでパナソニックが狙ったのもその一点だった。電池の技術が高く評価されたことが、かえって会社ごと買われる理由になった。
長期業績の推移 1950〜2011年
三洋電機:長期業績の推移(売上高・利益率)売上高(億円)純利益率(%)
1982年11月期〜2011年3月期

第1章 1947年〜 後発参入からの製品系列の拡張自転車発電ランプの量産から噴流式洗濯機への横展開

筆者考察y.sugiura, author

三洋電機の創業は、大きな組織を出た人が、その組織の作り方だけを持って始めた事業であった。井植歳男氏が選んだ自転車用発電ランプは、すでに16社が年間10万個をつくっている市場の商品で、技術の新しさで競争優位を得られるものではない。競争の焦点は、同じものをどれだけ安く、大量に、品質を揃えてつくれるか、そしてそれをどこで誰に売るかに移る。松下電器で29年を過ごした人にとって、その二つはいずれも手の内にあった。後発として欠けていたのは、既存の販路だけだった。だからこの会社は、まず自転車店を代理店に変える作業から始めている。

商品を替えても、作り方は替えなかった。発電ランプで積んだ量産と価格の手法は、そのままプラスチックのラジオへ移り、噴流式洗濯機へ移り、冷蔵庫とトランジスタラジオへ移っていく。1万円を割ったラジオも、大衆価格の洗濯機も、新しい技術の産物ではなく、既にある技術を安く大量に届けるための設計である。上場で得た資金は電気洗濯機の生産設備へ集められ、そこで得た利益が次の商品の設備へ回る。14年で売上高が2億9,700万円から491億円へ伸びた過程は、この反復そのものであった。ただし同じ設計は、自前の技術で市場を開く力を社内に育てない。その代償は20年後に表へ出る。

売上高(単体) 1950年11月期〜1961年11月期(億円)

2.97 50.11 8.97 51.11 27.4 52.11 41.5 53.11 43.7 55.11 107 56.11 129 57.11 174 58.11 312 59.11 417 60.11 491 61.11
  • 棒はすべて単体。この時期の連結の開示は無い。
  • 1950年11月期と1951年11月期は日本経済新報6(29)、1952年11月期と1953年11月期はインベストメント7(4)、1955年11月期は日証(3)、1956年11月期以降は会社年鑑。
  • 1954年11月期の売上は分からない。

1947年〜松下電器からの独立による自転車用発電ランプへの後発参入

松下電器を離れて自転車ランプを選ぶ

井植歳男氏は松下幸之助氏の妻の弟にあたり、1917年から松下電器に約29年在籍して専務を務めた。戦後の連合国軍総司令部による財閥解体で公職追放の対象となり、松下電器からの独立を決めた。1947年1月、大阪府守口で三洋電機製作所を個人経営で創業し、松下から譲り受けた兵庫県の北条工場で自転車用発電ランプと携帯ランプの製造に着手した。社名の"三洋"は太平洋・大西洋・印度洋の三つの大洋になぞらえ、海外市場を視野に置いた命名である。『終戦後、今の仕事が将来、有望であることはわかっていましたが、さらに大事なことは陸海軍というものがなくなって、日本の国力を回復充実するには、産業を復興する以外にない』(ダイヤモンド 1956/09/04)——井植氏が挙げた独立の動機である。掲げた経営理念は『情勢の変化に備えて経営の危険を分散し、事業をより安定させる』("企業の歴史 明治百年"経済春秋社, 1968)だった。

  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [1]井植歳男 松下幸之助の妻の弟・松下電器に約29年在籍して専務
    • [4]松下から譲り受けた北条工場で自転車用発電ランプ・携帯ランプの製造に着手
    • [5]社名「三洋」は太平洋・大西洋・印度洋の三大洋に由来
    • [7]経営理念「経営の危険を分散し事業をより安定させる」
  • 三洋電機三十年の歩み(三洋電機, 1980)
    • [2]GHQの財閥解体で公職追放の対象
  • 三洋電機 有価証券報告書 第87期(2011年3月期)【沿革】
    • [3]昭和22年1月 井植歳男が守口で三洋電機製作所を個人創業
  • ダイヤモンド(1956年9月4日)
    • [6]独立の動機に関する井植歳男の発言
松下と競わずに輸出へ回す

国内17社目のランプメーカーとしての後発参入ながら、松下電器で培った量産の手法を移し、1950年に自転車ランプの国内シェア約70%を占めた。同年4月に資本金2000万円で法人化し、1954年4月に大阪証券取引所へ株式を上場、同年12月には東京証券取引所にも上場した。国内では義兄の松下電器との正面競合を避け、輸出に活路を求める方針を早期に打ち出している。1949年から東南アジアへ発電ランプの輸出を始め、その後数年で輸出先は世界各地へ広がった。身内の会社と競わない方針が、逆説的に海外志向を育てる土壌になった。『家庭婦人を家事の重労働から解放するため、電気洗濯機を1台2.5万円程度で売ってあげるような時代の到来』という井植氏の言葉には、松下とは異なる製品哲学の輪郭が現れている。

  • 三洋電機三十年の歩み(三洋電機, 1980)
    • [8]国内17社目の後発参入・1950年に自転車ランプ国内シェア約70%
  • 三洋電機 有価証券報告書 第87期(2011年3月期)【沿革】
    • [9]昭和25年4月 資本金2000万円で三洋電機株式会社を設立
    • [10]昭和29年4月 大阪証券取引所に上場/同年12月 東京証券取引所に上場
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [11]松下電器との正面競合を避け輸出に活路を求める方針
    • [12]1949年から東南アジアへ発電ランプを輸出、数年後に世界各地へ
    • [13]海外志向を育てた棲み分けの方針
自転車店を代理店に変える

発電ランプは電気店ではなく自転車店で売れる商品であり、家庭電機の販路をまだ持たない三洋電機製作所は、売り先を一から組み立てる必要があった。井植歳男氏は外出のたびに行き合う自転車の台数と発電ランプの有無、その銘柄を記録し、新製品が出るたびに夕方の淀川堤防へ社員を集め、各社の製品を実際に走らせて性能を比べた。訪ねる代理店は自転車店に評判を聞いて絞り、年間200万個の需要が起こると説いて取扱いを勧めた。価格を保つために府県単位の会合を持ち、代理店主を自宅へ招いて夜おそくまで販売のあり方を話し合った。全国の自転車店は北条工場へ招き、量産の工程をその目で見せた。創業の時点で16社が年間10万個をつくるにすぎなかった発電ランプは、4年後に200万個へ伸び、そのころ三洋は全国需要の過半数を占めていた。

  • 私の履歴書 経済人7 井植歳男(日本経済新聞社, 1980)
    • [14]発電ランプの販路は自転車店で、三洋は家庭電機業界になじみがなく販売網の建設に骨が折れた
    • [15]外出の際は目的地へ着くまでに出会う自転車の数・発電ランプの有無・銘柄を記録した
    • [16]新製品が出るたび夕方から淀川堤防へ集合し、いっせいに自転車を走らせて各社製品の性能を比較した
    • [17]自転車店に聞いて地域で評判の代理店を訪問し、年間200万個の需要が起こると説いて取扱いを勧めた
    • [18]価格を維持するため府県単位に会合を持ち、代理店主を自宅へ招いて夜おそくまで販売のあり方を話し合った
    • [19]全国の自転車店を北条工場へ招待して量産方式の生産ぶりを見学させた
    • [20]創業時は16のメーカーが年間10万個をつくるにすぎず、4年後には200万個、5年後には300万個に達した
  • 証券 1955年(1)(66)
    • [21]ナショナル発電ランプは全国需要の過半数を占める
参考文献[1]-[21]
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [1]井植歳男 松下幸之助の妻の弟・松下電器に約29年在籍して専務
    • [4]松下から譲り受けた北条工場で自転車用発電ランプ・携帯ランプの製造に着手
    • [5]社名「三洋」は太平洋・大西洋・印度洋の三大洋に由来
    • [7]経営理念「経営の危険を分散し事業をより安定させる」
    • [11]松下電器との正面競合を避け輸出に活路を求める方針
    • [12]1949年から東南アジアへ発電ランプを輸出、数年後に世界各地へ
    • [13]海外志向を育てた棲み分けの方針
  • 三洋電機三十年の歩み(三洋電機, 1980)
    • [2]GHQの財閥解体で公職追放の対象
    • [8]国内17社目の後発参入・1950年に自転車ランプ国内シェア約70%
  • 三洋電機 有価証券報告書 第87期(2011年3月期)【沿革】
    • [3]昭和22年1月 井植歳男が守口で三洋電機製作所を個人創業
    • [9]昭和25年4月 資本金2000万円で三洋電機株式会社を設立
    • [10]昭和29年4月 大阪証券取引所に上場/同年12月 東京証券取引所に上場
  • ダイヤモンド(1956年9月4日)
    • [6]独立の動機に関する井植歳男の発言
  • 私の履歴書 経済人7 井植歳男(日本経済新聞社, 1980)
    • [14]発電ランプの販路は自転車店で、三洋は家庭電機業界になじみがなく販売網の建設に骨が折れた
    • [15]外出の際は目的地へ着くまでに出会う自転車の数・発電ランプの有無・銘柄を記録した
    • [16]新製品が出るたび夕方から淀川堤防へ集合し、いっせいに自転車を走らせて各社製品の性能を比較した
    • [17]自転車店に聞いて地域で評判の代理店を訪問し、年間200万個の需要が起こると説いて取扱いを勧めた
    • [18]価格を維持するため府県単位に会合を持ち、代理店主を自宅へ招いて夜おそくまで販売のあり方を話し合った
    • [19]全国の自転車店を北条工場へ招待して量産方式の生産ぶりを見学させた
    • [20]創業時は16のメーカーが年間10万個をつくるにすぎず、4年後には200万個、5年後には300万個に達した
  • 証券 1955年(1)(66)
    • [21]ナショナル発電ランプは全国需要の過半数を占める

1950年〜プラスチックラジオによる家庭電機への進出

プラスチックのラジオで大衆価格に賭ける

三洋電機が家庭電機の分野へ入る足がかりに選んだのは、木の筐体をやめたラジオであった。三洋電機株式会社は1950年4月に資本金2,000万円で設立され、同じ年の12月に三洋電機製作所から事業の一切を受け継いだ。1952年2月には資本金を6,000万円とし、旧松下飛行機から買い取った住道工場でラジオ受信機を組み立て始めた。そのころラジオには30%の物品税がかかっていたため、大衆は正規メーカーの製品を避け、税の分だけ安いアマチュアの組立品を選んでいた。井植歳男氏は、素人の手製が工場で量産した品より安くつくはずがなく、品質もアフターサービスも欠いた安さは消費者のためにならないと見た。1952年に売り出したラジオは、当時としては画期的なプラスチックキャビネットを備え、価格も1万円を切っていた。その年の暮れには、業界で第二位の座に就いた。

  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [22]総合弱電メーカーへのきっかけとなったのはラジオの生産着手
    • [25]ラジオに課せられていた30%の物品税により、大衆が正規メーカー品より安いアマチュア組立品を買うケースが目立った
    • [26]素人の手づくりが工場の量産品より割安ということはありえず、品質とアフターサービスを伴わない安値は消費者の利益にならないという信念
    • [27]昭和27年に画期的なプラスチック・キャビネットで1万円を割ったラジオを市場へ送り出した
  • 証券 1955年(1)(66)
    • [23]昭和25年4月 資本金2,000万円で三洋電機株式会社を設立、同年12月に三洋電機製作所の事業一切を引継ぎ
    • [24]昭和27年2月 資本金を6,000万円へ増資、旧松下飛行機から買収した住道工場でラジオ受信機の製作を開始
  • 証券アナリストジャーナル 1976年14(3)(井植薫)
    • [28]プラスチックキャビネットのラジオは大衆価格と相まって昭和27年末に業界第2位を占めた
RCAの特許を借りてテレビを組む

1953年6月、米国のRCA社とのあいだで、ラジオ受信機・無線通信機・テレビジョン受像機に関する全特許権を五年間使用する契約を結んだ。報償料は純売上高に対しAMラジオ受信機が〇・7%、FM無線通信機が一・5%、テレビジョン受像機が二・0%で、期間は両者の合意により延長できる形をとった。同年1月には資本金を1億円へ増やし、8月から住道工場でテレビジョンの製造を始めた。当初の生産は月産150台から200台にとどまり、量産の態勢はその後に整えられていった。売上高は1953年11月期に41億5,000万円となり、二年前の8億9,700万円から約四・六倍になっている。技術を外から買い、設備を先に置き、量はあとから積む——後発として時間を買うこの順序が、この時期の作り方であった。

  • 証券 1955年(1)(66)
    • [29]昭和28年6月 米国RCA社とラジオ受信機・無線通信機・テレビジョン受像機の全特許権を五年間使用する契約を締結
    • [30]報償料はAMラジオ受信機が純売上高の0.7%、FM無線通信機が1.5%、テレビジョン受像機が2.0%、契約は両者合意で延長可能
    • [31]昭和28年1月 資本金を1億円へ増資
    • [32]昭和28年8月 住道工場でテレビジョンの製造を開始
    • [33]テレビジョンの生産は月産150台〜200台で量産態勢を整えつつあった
  • 三洋電機 会社年鑑(単体業績)
    • [34]売上高は1951年11月期8.97億円、1953年11月期41.5億円
噴流式洗濯機を主力に据える

1953年7月、滋賀工場で電気洗濯機の生産を始めた。日本で最初の噴流式洗濯機であり、使いやすく大衆価格であることを条件に開発された商品であった。1953年は電化元年と呼ばれた年である。家庭生活を合理化しようという当時の風潮を受けて、全国の生産高は1953年の初めから急に伸び、1953年12月から1954年5月までに全国で9万3,803台が作られた。そのうち2万191台、21.5%が三洋の生産だった。1954年6月から8月までの部門別の構成を見ると、最も大きいのは電気機器部門の47.8%で、中でも電気洗濯機は全部門の中で約40%を占めた。家電メーカーとしての地歩を固めたのは、この洗濯機による。自転車用発電ランプで培った量産と値付けのやり方を、そのまま家庭電化の主力品に持ち込んだことになる。

  • 証券 1955年(1)(66)
    • [35]昭和28年7月 滋賀工場で電気洗濯機の生産を開始
    • [36]我国最初の噴流式洗濯機
    • [38]昭和28年12月〜29年5月の全国生産93,803台に対し当社生産20,191台(21.5%)
    • [39]昭和29年6〜8月の部門別構成比で電気機器部門47.8%、電気洗濯機は全部門を通じて約40%
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [37]ラジオに次いで着目したのは使いやすく大衆価格の電気洗濯機であった
    • [40]昭和28年を電化元年と呼び、電気洗濯機が家庭電機メーカーとしての地位を決定づけた
参考文献[22]-[40]
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [22]総合弱電メーカーへのきっかけとなったのはラジオの生産着手
    • [25]ラジオに課せられていた30%の物品税により、大衆が正規メーカー品より安いアマチュア組立品を買うケースが目立った
    • [26]素人の手づくりが工場の量産品より割安ということはありえず、品質とアフターサービスを伴わない安値は消費者の利益にならないという信念
    • [27]昭和27年に画期的なプラスチック・キャビネットで1万円を割ったラジオを市場へ送り出した
    • [37]ラジオに次いで着目したのは使いやすく大衆価格の電気洗濯機であった
    • [40]昭和28年を電化元年と呼び、電気洗濯機が家庭電機メーカーとしての地位を決定づけた
  • 証券 1955年(1)(66)
    • [23]昭和25年4月 資本金2,000万円で三洋電機株式会社を設立、同年12月に三洋電機製作所の事業一切を引継ぎ
    • [24]昭和27年2月 資本金を6,000万円へ増資、旧松下飛行機から買収した住道工場でラジオ受信機の製作を開始
    • [29]昭和28年6月 米国RCA社とラジオ受信機・無線通信機・テレビジョン受像機の全特許権を五年間使用する契約を締結
    • [30]報償料はAMラジオ受信機が純売上高の0.7%、FM無線通信機が1.5%、テレビジョン受像機が2.0%、契約は両者合意で延長可能
    • [31]昭和28年1月 資本金を1億円へ増資
    • [32]昭和28年8月 住道工場でテレビジョンの製造を開始
    • [33]テレビジョンの生産は月産150台〜200台で量産態勢を整えつつあった
    • [35]昭和28年7月 滋賀工場で電気洗濯機の生産を開始
    • [36]我国最初の噴流式洗濯機
    • [38]昭和28年12月〜29年5月の全国生産93,803台に対し当社生産20,191台(21.5%)
    • [39]昭和29年6〜8月の部門別構成比で電気機器部門47.8%、電気洗濯機は全部門を通じて約40%
  • 証券アナリストジャーナル 1976年14(3)(井植薫)
    • [28]プラスチックキャビネットのラジオは大衆価格と相まって昭和27年末に業界第2位を占めた
  • 三洋電機 会社年鑑(単体業績)
    • [34]売上高は1951年11月期8.97億円、1953年11月期41.5億円

1954年〜増資が支えた洗濯機の量産設備と総合家電への拡張

増資で洗濯機の設備を積む

1954年、各部門の設備増強と生産合理化による原価の引き下げのため、資本金を4億円へ増やした。増資額3億円のうち1億円は株式配当によるもので、資本金はさらに4億4,000万円へ積み増された。同年9月18日の取締役会は資本金を7億2,000万円とする増資を決め、1955年1月28日の定時総会に諮ったうえ、払込期日を同年2月1日と定めた。割当は二対一で、残る32万株は縁故割当とされた。資金の使途は、主として電気洗濯機の生産設備の増強と合理化のための設備資金、および運転資金にあてられた。1954年8月末の従業員は2,255人、1955年11月期の売上高は43億7,000万円であった。上場で得た資金の行き先は、売れている一つの商品の量産設備へ集められていた。

  • 証券 1955年(1)(66)
    • [41]昭和29年 各部門の設備増強と生産合理化によるコスト切下げのため資本金を4億円へ増資
    • [42]増資額3億円のうち1億円は株式配当、さらに4億4,000万円へ増資
    • [43]9月18日の取締役会で資本金7億2,000万円への増資を決議、昭和30年1月28日定時総会附議・払込期日は昭和30年2月1日
    • [44]割当は二対一、残余32万株は縁故割当
    • [45]資金の使途は主として電気洗濯機の生産設備増強と合理化のための設備資金と運転資金
    • [46]昭和29年8月末の従業員2,255人
  • 三洋電機 会社年鑑(単体業績)
    • [47]1955年11月期の売上高43.7億円
冷蔵庫とトランジスタラジオへ商品を広げる

1950年代の後半、三洋電機は洗濯機とラジオの二本足から商品の幅を広げ、冷蔵庫とトランジスタラジオを加えた。1958年にはトランジスタラジオの輸出を始め、数年間にわたって輸出実績で第一位を占めている。売上高は1956年11月期の107億円から1959年11月期の312億円、1961年11月期の491億円へ伸び、従業員は同じ期間に3,935人から9,812人へ増えた。当期純利益も1957年11月期の12億8,000万円から1961年11月期の39億3,000万円へ増えている。1960年には貿易部を三洋電機貿易として分離独立させ、輸出の窓口を別会社へ移した。一つの商品の量産で得た利益を次の商品の設備へ回す反復が、総合家電メーカーの輪郭を形づくっていった。

  • 三洋電機三十年の歩み(三洋電機, 1980)
    • [48]冷蔵庫、トランジスタラジオと商品分野の拡大がめざましく続いた
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [49]昭和33年からトランジスタラジオの輸出を開始し数年間第一位の実績
    • [53]昭和35年に貿易部を三洋電機貿易として分離独立
  • 三洋電機 会社年鑑(単体業績)
    • [50]売上高は1956年11月期107億円、1959年11月期312億円、1961年11月期491億円
    • [51]従業員数は1956年11月期3,935人、1961年11月期9,812人
    • [52]当期純利益は1957年11月期12.8億円、1961年11月期39.3億円
東京三洋電機を別法人として立てる

資本金を30億円から50億円に積み増した1959年、三洋電機はかねての懸案だった関東への進出を実行に移した。受け皿は同年7月に群馬県邑楽郡大泉町で設立した東京三洋電機で、関東に総合的な生産拠点を築くことが狙いだった。132万平方メートルを上回る敷地を構えたこの進出は、当時大きな話題を呼んだ。生産品目はまず1959年9月のテレビで、1960年3月に冷凍機応用製品、同じ年の7月にトランジスタが続いた。何をどれだけ作るかは三洋電機の販売計画が決め、売るのも同社の販売網だった。その結果、1962年11月期には三洋電機の総売上高のうち36.4%を東京三洋電機が担うまでになった。製品の幅を広げながら生産と開発を別法人に置くこの役割分担は、27年後、合併によって組み直されることになる。

  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [54]昭和34年に資本金を30億円から50億円に増やす一方、東京三洋電機を設立し関東進出に踏み切った
    • [56]132万平方メートルを超える敷地を持ち、関東市場への進出として当時大きな話題となった
  • 証券 1963年15(7)(170)
    • [55]東京三洋電機は昭和34年7月14日設立、本社は群馬県邑楽郡大泉町、三洋電機が関東における総合生産工場の開発を目的として設立
    • [57]昭和34年9月テレビ、35年3月冷凍機応用製品、35年7月トランジスタの生産を開始
    • [58]製品のすべては三洋電機の販売計画にもとづき生産され販売も三洋電機の販売網を通じて行なわれ、昭和37年11月期に三洋電機総売上高の36.4%を占めた
参考文献[41]-[58]
  • 証券 1955年(1)(66)
    • [41]昭和29年 各部門の設備増強と生産合理化によるコスト切下げのため資本金を4億円へ増資
    • [42]増資額3億円のうち1億円は株式配当、さらに4億4,000万円へ増資
    • [43]9月18日の取締役会で資本金7億2,000万円への増資を決議、昭和30年1月28日定時総会附議・払込期日は昭和30年2月1日
    • [44]割当は二対一、残余32万株は縁故割当
    • [45]資金の使途は主として電気洗濯機の生産設備増強と合理化のための設備資金と運転資金
    • [46]昭和29年8月末の従業員2,255人
  • 三洋電機 会社年鑑(単体業績)
    • [47]1955年11月期の売上高43.7億円
    • [50]売上高は1956年11月期107億円、1959年11月期312億円、1961年11月期491億円
    • [51]従業員数は1956年11月期3,935人、1961年11月期9,812人
    • [52]当期純利益は1957年11月期12.8億円、1961年11月期39.3億円
  • 三洋電機三十年の歩み(三洋電機, 1980)
    • [48]冷蔵庫、トランジスタラジオと商品分野の拡大がめざましく続いた
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [49]昭和33年からトランジスタラジオの輸出を開始し数年間第一位の実績
    • [53]昭和35年に貿易部を三洋電機貿易として分離独立
    • [54]昭和34年に資本金を30億円から50億円に増やす一方、東京三洋電機を設立し関東進出に踏み切った
    • [56]132万平方メートルを超える敷地を持ち、関東市場への進出として当時大きな話題となった
  • 証券 1963年15(7)(170)
    • [55]東京三洋電機は昭和34年7月14日設立、本社は群馬県邑楽郡大泉町、三洋電機が関東における総合生産工場の開発を目的として設立
    • [57]昭和34年9月テレビ、35年3月冷凍機応用製品、35年7月トランジスタの生産を開始
    • [58]製品のすべては三洋電機の販売計画にもとづき生産され販売も三洋電機の販売網を通じて行なわれ、昭和37年11月期に三洋電機総売上高の36.4%を占めた

第2章 1962年〜 輸出依存からの海外生産転換ウォーイック買収の現地生産から東京三洋との合併へ

筆者考察y.sugiura, author

三洋電機の1960年代からの20数年は、国内で得られなかった規模を海外で取りにいった期間である。カラーテレビの国内普及がまだ3万台規模だった時期に米国向けの大量輸出へ設備を向け、売上高は四年で三倍になった。ただしその伸びは、自ら開いた市場ではなく、米シアーズ・ローバックという一社の注文に支えられていた。貿易摩擦で約三割の減産を迫られ、そのシアーズから経営再建を打診されたとき、断れば販路ごと失う。約31億円を投じたウォーイック社の買収は、戦略として構想されたものではなく、断れないという事情から始まっている。

顧客の求めに応じて形を変えるやり方は、規模を作るあいだは有効に働く。1985年度に四十三カ所の生産拠点と売上高1兆円へ届いたとき、その6割以上は輸出であった。しかし為替が動けば、同じ構造がそのまま損失に変わる。一ドル160円の段階で各社が拠点を組み直しはじめたころ、三洋電機は石油ファンヒーターの死亡事故の処理に追われていた。東京三洋電機との合併は、創業期に関東進出のために切り分けた別法人を27年後に戻す作業でもある。それでも二期続けて営業赤字が残ったのは、直すべきものが組織の重複ではなく、自らの商品で市場を開けないことだったからであった。

売上高(単体) 1965年11月期〜1987年11月期(億円)

732 65.11 2,151 69.11 3,118 73.11 3,502 75.11 4,676 76.11 9,090 87.11
  • 棒はすべて単体。
  • 1965年11月期から1976年11月期は三洋電機 会社年鑑(単体業績)。1975年11月期は証券アナリストジャーナル 1976年14(3)の講演要旨も同じ3,502億円を掲げる。1987年11月期は日経ビジネス 1988年2月29日号。
  • 1987年11月期は1986年12月の東京三洋電機との合併後の数字で、それ以前の期とは範囲が異なる。

1962年〜カラーテレビの北米輸出がつくった四年三倍の成長

カラーテレビを北米へ大量に送る

家電業界は1964年秋から、戦後ではほぼ初めてといえる国内需要の落ち込みに直面していた。1965年7月、井植歳男社長は東芝の土光社長、日立の駒井社長、三菱の大久保社長、ソニーの井深社長と連れ立って佐藤首相のもとを訪れた。求めたのはカラーテレビ産業を育て振興することと、物品税を軽くすることだった。その前年、カラー受像機の国内向け出荷は十倍に伸びたが、なお三万一千二百七十四台にとどまっていた。井植歳男社長はまた、宮本善史テレビ事業部長を米国に派遣し、テレビ受像機を大量に輸出できないか調べさせた。カラーテレビの輸出は1965年、米シンフォニック社と結んだ契約で始まり、以後は増える一途だった。売上高は1965年11月期の732億円から1969年11月期の2,151億円へ、四年で約三倍になった。国内の普及を待たずに北米の需要へ設備を向けたことが、この時期の伸びを支えた。

  • 三洋電機三十年の歩み(三洋電機, 1980)
    • [59]家電業界は戦後初めてともいうべき内需の停滞に見舞われ、家電販売店の倒産が昭和38年秋ごろから顕著になった
    • [60]昭和40年7月、井植歳男社長は土光東芝社長・駒井日立社長・大久保三菱社長・井深ソニー社長とともに佐藤首相を訪ね、カラーテレビ産業の育成・振興と物品税の軽減を陳情した
    • [61]昭和39年のカラー受像機の国内向け出荷台数は前年比10倍の31,274台にとどまった
    • [62]井植歳男社長は宮本善史テレビ事業部長にアメリカ出張を命じ、テレビ受像機の大量輸出を探らせた
    • [63]カラーテレビの輸出もシンフォニック社と契約し昭和40年から始まり、その後増加の一途をたどった
  • 三洋電機 会社年鑑(単体業績)
    • [64]単体売上高は1965年11月期732億円、1969年11月期2,151億円
商品部制で収益の責任を割る

1964年11月期に741億円あった売上高は1965年11月期に732億円へ減り、当期純利益は31億7,000万円から22億1,000万円へ落ちた。生産に明るい井植薫専務に売る側の経験も積ませる意味を込めて、1965年1月、同氏を営業本部長に据え、販売事業本部はその営業本部に吸収した。井植薫は全国の販売店を訪ね歩き、家電の流通の仕組みにおかしな動きが出ていると感じ取った。店頭では安売り業者がはびこって価格の体系が崩れ、その影響で販売店の売掛金が膨らみ、それがまたメーカーに跳ね返っていた。収益を守るために導入されたのが商品部制である。扇風機と換気扇、掃除機とジューサーミキサー、発電ランプといった形で商品をまとめ、何を作るかを決める段階から組み立て、完成、出荷後のアフターケアまでをひとつの部に一貫して受け持たせた。収益もその商品グループごとに見る責任の体制だった。

  • 三洋電機 会社年鑑(単体業績)
    • [65]単体売上高は1964年11月期741億円・1965年11月期732億円、当期純利益は31.7億円・22.1億円
  • 三洋電機三十年の歩み(三洋電機, 1980)
    • [66]生産部門に通暁する専務にあえて販売部門での経験を重ねさせる創業者の意図があった
    • [67]昭和40年1月、井植薫専務が営業本部長に就任し販売事業本部を営業本部に吸収した
    • [68]営業本部長に就任した井植薫は全国の販売店を訪問し、電化製品の流通機構に異変が生じていると判断した
    • [69]末端の流通機構はバッタ屋の横行などで価格体系が乱れ、販売店の売上債権の増加となってメーカーへはねかえった
    • [70]商品部制は扇風機・換気扇、掃除機・ジューサーミキサー、発電ランプなどの商品グループごとに企画から組立・完成・出荷後のアフターケアまで一貫して担当し、収益も商品グループ単位であげる収益責任体制であった
廃液と発火の事故で品質の組織を作る

洲本市内で稲が立ち枯れ、兵庫県が調べるとカドミウムが検出された。原因は三洋電機洲本工場の廃液とみられ、1968年9月26日、四段抜きの見出しでこれが報じられた。井植歳男会長はすぐさま洲本に駆けつけて現場を見て回り、県庁と県議会、記者クラブへ自ら足を運び、排水処理をどう改めるかの具体案を示した。人体への影響は認められないというのが県の総合調査班の結論で、同年10月6日に中間発表、11月14日に最終報告が出された。それでも三洋電機は、排水溝一帯の田を工場の敷地として買い取った。翌1969年の夏には、カドニカ電池を使った旧型の充電式ライトとカミソリが充電中に発火する事故が各地で起き、回収と新品交換に追われている。同年7月には創業者の井植歳男が世を去った。1969年8月、社長直属の品質経営本部を後藤清一本部長のもとに置き、製造と出荷の検査を強めた。のちにカラーテレビは日本消費者協会の商品テストで二年続けてA評価を受け、国内のサービス件数は大幅に減っている。

  • 三洋電機三十年の歩み(三洋電機, 1980)
    • [71]昭和43年9月26日、大阪朝日新聞が四段抜きの見出しで「洲本に廃液被害」と報じ、三洋電機洲本工場からのものとみられる廃液で稲が立ち枯れ兵庫県の分析でカドミウムが検出されたと伝えた
    • [72]井植歳男会長はただちに洲本へ飛んで実情を検分し、県庁・県議会・新聞記者クラブへ出向いて排水処理改善の具体案を発表した
    • [73]兵庫県総合調査班は10月6日の中間発表と11月14日の最終報告で人体への影響は認められないとしたが、当社は排水溝一帯のたんぼを工場敷地として買い上げた
    • [74]昭和44年夏、カドニカ電池を使った旧型充電式ライトとカミソリが充電中に火を吹く事故が各地で発生し、回収と新品交換に着手した
    • [75]創業者井植歳男の葬儀は昭和44年7月19日に守口市民会館で行なわれた
    • [76]昭和44年8月、社長直属の品質経営本部(本部長 後藤清一)を発足させ、商品の製造・出荷を厳しくチェックした
  • 証券アナリストジャーナル 1976年14(3)(井植薫)
    • [77]カラーテレビは日本消費者協会の商品テストで2年連続A評価を受け、国内ではサービス件数が大幅に低下した
参考文献[59]-[77]
  • 三洋電機三十年の歩み(三洋電機, 1980)
    • [59]家電業界は戦後初めてともいうべき内需の停滞に見舞われ、家電販売店の倒産が昭和38年秋ごろから顕著になった
    • [60]昭和40年7月、井植歳男社長は土光東芝社長・駒井日立社長・大久保三菱社長・井深ソニー社長とともに佐藤首相を訪ね、カラーテレビ産業の育成・振興と物品税の軽減を陳情した
    • [61]昭和39年のカラー受像機の国内向け出荷台数は前年比10倍の31,274台にとどまった
    • [62]井植歳男社長は宮本善史テレビ事業部長にアメリカ出張を命じ、テレビ受像機の大量輸出を探らせた
    • [63]カラーテレビの輸出もシンフォニック社と契約し昭和40年から始まり、その後増加の一途をたどった
    • [66]生産部門に通暁する専務にあえて販売部門での経験を重ねさせる創業者の意図があった
    • [67]昭和40年1月、井植薫専務が営業本部長に就任し販売事業本部を営業本部に吸収した
    • [68]営業本部長に就任した井植薫は全国の販売店を訪問し、電化製品の流通機構に異変が生じていると判断した
    • [69]末端の流通機構はバッタ屋の横行などで価格体系が乱れ、販売店の売上債権の増加となってメーカーへはねかえった
    • [70]商品部制は扇風機・換気扇、掃除機・ジューサーミキサー、発電ランプなどの商品グループごとに企画から組立・完成・出荷後のアフターケアまで一貫して担当し、収益も商品グループ単位であげる収益責任体制であった
    • [71]昭和43年9月26日、大阪朝日新聞が四段抜きの見出しで「洲本に廃液被害」と報じ、三洋電機洲本工場からのものとみられる廃液で稲が立ち枯れ兵庫県の分析でカドミウムが検出されたと伝えた
    • [72]井植歳男会長はただちに洲本へ飛んで実情を検分し、県庁・県議会・新聞記者クラブへ出向いて排水処理改善の具体案を発表した
    • [73]兵庫県総合調査班は10月6日の中間発表と11月14日の最終報告で人体への影響は認められないとしたが、当社は排水溝一帯のたんぼを工場敷地として買い上げた
    • [74]昭和44年夏、カドニカ電池を使った旧型充電式ライトとカミソリが充電中に火を吹く事故が各地で発生し、回収と新品交換に着手した
    • [75]創業者井植歳男の葬儀は昭和44年7月19日に守口市民会館で行なわれた
    • [76]昭和44年8月、社長直属の品質経営本部(本部長 後藤清一)を発足させ、商品の製造・出荷を厳しくチェックした
  • 三洋電機 会社年鑑(単体業績)
    • [64]単体売上高は1965年11月期732億円、1969年11月期2,151億円
    • [65]単体売上高は1964年11月期741億円・1965年11月期732億円、当期純利益は31.7億円・22.1億円
  • 証券アナリストジャーナル 1976年14(3)(井植薫)
    • [77]カラーテレビは日本消費者協会の商品テストで2年連続A評価を受け、国内ではサービス件数が大幅に低下した

1971年〜貿易摩擦が迫ったウォーイック買収と海外合弁の網

シアーズの依頼でウォーイックを買う

1976年9月、三洋電機は米ウォーイック社を約31億円で買収し、アーカンソー州でカラーテレビの現地生産に入った。きっかけは最大の顧客である米シアーズ・ローバックからの経営再建の打診で、これを断れば北米向けテレビの販路を失う恐れがあった。日本の家電各社が一斉に北米へ殺到した結果、貿易摩擦はダンピング問題へ発展し、三洋電機は米政府当局の介入で約三割の減産を受け入れていた。国内でつくって北米へ運ぶという形は、そのままでは続けられなくなっていた。新会社サンヨー・マニュファクチャリング・コーポレーションはシアーズ向けの相手先ブランド供給を軸に生産を担い、1977年9月14日にはアーカンソー州知事が州の発展への貢献を讃えて井植敏社長を表彰した。技術支援のつもりで始めた関与が資産の買収にまで進んだ、受け身の判断であった。

  • 三洋電機 有価証券報告書 第87期(2011年3月期)【沿革】
    • [78]1976年にSMCを設立しウォーイック社を約31億円で買収、アーカンソー州でカラーテレビの現地生産を開始した
  • 三洋電機三十年の歩み(三洋電機, 1980)
    • [79]最大顧客の米シアーズからウォーイック社の経営再建を打診され、断れば北米向けテレビの販路を失う恐れがあった
    • [80]日本の家電各社の北米殺到で貿易摩擦がダンピング問題へ発展し、三洋は米政府当局の介入で約3割の減産を受け入れた
    • [81]国内生産・北米輸出というモデルの限界が表に出ていた
  • 日経ビジネス 1977年10月24日号
    • [82]サンヨー・マニファクチャリング(SMC)は三洋電機と世界最大の小売業シアーズ・ローバックの合弁会社で、1977年1月4日から操業を開始した
    • [83]1977年9月14日、アーカンソー州のブライアー知事がSMCの州への貢献を讃え井植敏SMC社長を表彰した
5割出資の合弁で海外に生産を置く

海外での生産は、現地資本との5割出資による合弁を基本の形とした。井植薫社長は、外国の本当の事情は日本側には分からず現地の人々の協力が要るため、半分は進出先の国の事情を、半分は日本のことを考えるのが5割出資の精神だと説明している。『合弁会社を設立するときはいかにいいパートナーを見いだすかが大切です。私は外国語は読めませんが、物や人をみる目はあります。見ればわかりますよ。結婚と同じです』(日経ビジネス 1977年10月24日号)1977年の時点で海外の合弁会社は香港・台湾・ガーナ・シンガポール・マレーシア・ブラジル・ケニアなど20社を超え、創業者が掲げた世界に百拠点というスローガンを引き継いでいた。1975年11月期のグループの年間生産高は約5,250億円で、うち海外での生産は約800億円、輸出比率は前年の31.6%から38.4%へ上がり、業界平均の約28%を上回った。輸出規制を受けるたびに現地へ拠点を移す反復が、この網を作った。

  • 日経ビジネス 1977年10月24日号
    • [84]海外への進出は50%出資の合弁会社が基本方針
    • [85]半分は進出先の国の事情を考え半分は日本のことを考えるのが50%出資の合弁会社の精神という井植薫の説明
    • [86]1977年時点の海外合弁会社は香港・台湾・ガーナ・シンガポール・マレーシア・ブラジル・ケニアなど20社を超えた
    • [87]創業者は世界に100拠点を作ることをスローガンにした
  • 証券アナリストジャーナル 1976年14(3)(井植薫)
    • [88]グループ全体の年間生産高は昭和50年度実績で約5,250億円、うち海外での生産は約800億円
    • [89]昭和50年11月期の輸出比率は38.4%で前年の31.6%から増加、業界平均は約28%
借金を返し終えても主力商品を持てない

1975年11月期の規模は、資本金281億円・売上高3,502億円・従業員1万5,000人・株主約9万人であった。1973年と1975年には、外貨建ても含めて約235億円の転換社債を出していた。これに販売代金の回収強化と輸出の拡大が加わり、翌1976年11月期、三洋電機はかねて目指した借金ゼロの経営にたどり着く。手元の現金・預金は前年の二倍を上回り、有価証券まで合わせれば600億円を超える額になった。とはいえ、どの商品もシェアは二位以下で一位を取ったものが一つもなく、株価は松下電器やソニーに大きく差をつけられ、シャープにも及ばなかった。販売を担う役員は33人のうち六人しかおらず、生産を重んじる社風がなお強かった。良い品を安く大量に生産する技術には不足がなかった。弱かったのは、新たな商品を生み出す開発の力である。

  • 証券アナリストジャーナル 1976年14(3)(井植薫)
    • [90]昭和50年11月末の資本金281億円・年間売上高3,502億円・従業員1万5,000名・株主約9万名
    • [91]昭和48年と50年に外貨建てを含めて約235億円の転換社債を発行し、販売代金の回収強化と輸出の増大で資金面の対策が効果を上げた
    • [93]現金・預金が前年比で2倍以上に増え、有価証券を含めると600億円を超えた
  • 日経ビジネス 1977年10月24日号
    • [92]三洋電機は昭和51年11月期で念願の借金ゼロ経営を達成した
    • [94]どの商品もシェアは2位以下で、シェアトップの商品がなかった
    • [95]株価は松下電器やソニーに遠く及ばず、シャープをも大きく下回った
    • [96]役員33人中、販売担当はわずか6人で生産志向の体質であった
    • [97]品質がよくコストの安い商品を大量に作り出す技術は身につけたが、新しい商品を生み出す製品開発力が弱かった
参考文献[78]-[97]
  • 三洋電機 有価証券報告書 第87期(2011年3月期)【沿革】
    • [78]1976年にSMCを設立しウォーイック社を約31億円で買収、アーカンソー州でカラーテレビの現地生産を開始した
  • 三洋電機三十年の歩み(三洋電機, 1980)
    • [79]最大顧客の米シアーズからウォーイック社の経営再建を打診され、断れば北米向けテレビの販路を失う恐れがあった
    • [80]日本の家電各社の北米殺到で貿易摩擦がダンピング問題へ発展し、三洋は米政府当局の介入で約3割の減産を受け入れた
    • [81]国内生産・北米輸出というモデルの限界が表に出ていた
  • 日経ビジネス 1977年10月24日号
    • [82]サンヨー・マニファクチャリング(SMC)は三洋電機と世界最大の小売業シアーズ・ローバックの合弁会社で、1977年1月4日から操業を開始した
    • [83]1977年9月14日、アーカンソー州のブライアー知事がSMCの州への貢献を讃え井植敏SMC社長を表彰した
    • [84]海外への進出は50%出資の合弁会社が基本方針
    • [85]半分は進出先の国の事情を考え半分は日本のことを考えるのが50%出資の合弁会社の精神という井植薫の説明
    • [86]1977年時点の海外合弁会社は香港・台湾・ガーナ・シンガポール・マレーシア・ブラジル・ケニアなど20社を超えた
    • [87]創業者は世界に100拠点を作ることをスローガンにした
    • [92]三洋電機は昭和51年11月期で念願の借金ゼロ経営を達成した
    • [94]どの商品もシェアは2位以下で、シェアトップの商品がなかった
    • [95]株価は松下電器やソニーに遠く及ばず、シャープをも大きく下回った
    • [96]役員33人中、販売担当はわずか6人で生産志向の体質であった
    • [97]品質がよくコストの安い商品を大量に作り出す技術は身につけたが、新しい商品を生み出す製品開発力が弱かった
  • 証券アナリストジャーナル 1976年14(3)(井植薫)
    • [88]グループ全体の年間生産高は昭和50年度実績で約5,250億円、うち海外での生産は約800億円
    • [89]昭和50年11月期の輸出比率は38.4%で前年の31.6%から増加、業界平均は約28%
    • [90]昭和50年11月末の資本金281億円・年間売上高3,502億円・従業員1万5,000名・株主約9万名
    • [91]昭和48年と50年に外貨建てを含めて約235億円の転換社債を発行し、販売代金の回収強化と輸出の増大で資金面の対策が効果を上げた
    • [93]現金・預金が前年比で2倍以上に増え、有価証券を含めると600億円を超えた

1981年〜円高が崩した大量生産と東京三洋電機との合併

輸出六割の国際分業で1兆円に届く

1985年度、三洋電機の生産拠点は全世界で43カ所、販売拠点は30カ所に達した。三洋電機と東京三洋電機は輸出向け製品の生産に徹し、販売は切り離して三洋電機貿易に委ねていた。グループのこの商社が両社の製品を全量買い取り、海外の販路を開拓する役目を負った。海外での生産にも早くから踏み出しており、1970年代にはシンガポールや韓国といった原価の低い土地に欧米への輸出拠点となる工場を置き、日本から部品を送り込んで現地で組み立て、そのまま現地で売る形も先行して手がけた。円高が進むなら海外生産の比重を一段と高めて採算を守り、さらに上げる、というのが1981年に井植薫社長が示した方針である。海外生産額は1984年度に5,400億円と国内製造業で首位の規模になり、1985年度には売上高が1兆円に届いて、6割超を輸出が稼いだ。

  • 日経ビジネス 1988年2月29日号
    • [98]昭和60年度には全世界で43カ所の生産拠点、30カ所の販売拠点を有する国際分業体制を築いた
    • [99]三洋電機と東京三洋など関連会社は輸出向け製品の生産に励めば後は三洋電機貿易がさばくという図式であった
    • [100]海外への販売の第一線に立ったのは関連会社の三洋電機貿易で、三洋電機と東京三洋電機から全製品を買い取って市場開拓にあたった
    • [101]1970年代に欧米への輸出基地としてコストの安いシンガポール・韓国などに生産工場を構え、部品を日本から送る海外生産・海外販売にも早くから取り組んだ
    • [103]昭和59年度の海外生産は総額5,400億円で日本の全製造業中トップだった
    • [104]昭和60年度に念願の売上高1兆円を達成し、6割以上を輸出で稼ぎ出した
  • 日経産業新聞(1981年1月9日)
    • [102]井植薫社長は1981年、円高が進むなら海外生産をさらに強めて採算の維持・向上を図ると表明した
ファンヒーターの死亡事故で社長が代わる

1985年の暮れ、三洋電機の石油ファンヒーターの欠陥で死者が出た。約6万台の同機種を回収し、原因の究明に時間と労力を費やしている。1986年2月、1971年から社長を務めた井植薫が退き、創業者の長男である井植敏が後を継いだ。井植敏は1956年に同志社大学工学部を出て三洋電機へ入り、1959年に東京三洋電機取締役、1961年に三洋電機取締役となって、常務・専務を経ての就任であった。同じころ、1985年9月のプラザ合意を受けた円高が輸出の採算を直撃していた。一ドル160円となった1986年春の段階で輸出各社は国内と海外の生産拠点の再構築を始めたが、三洋電機は同年の暮れまで組織的な手を打てなかった。事故の処理に費やした一年が、円高への着手を遅らせた。

  • 日経ビジネス 1988年2月29日号
    • [105]昭和60年暮れ、死者を出した欠陥石油ファンヒーター事件が起きた
    • [106]約6万台の同機種の製品の回収と原因究明に時間と労力を費やした
    • [109]昭和60年9月のプラザ合意以降の円高が輸出採算を悪化させた
    • [110]1ドル160円になった昭和61年春の段階で輸出メーカーは生産拠点の再構築を始めたが、三洋電機は61年暮れの合併まで組織的に手を打てなかった
  • 日経ビジネス 1989年10月9日号
    • [107]1986年2月、石油ファンヒーター事件で井植薫前社長の後を継いで井植敏が社長に就任した
    • [108]井植敏は1956年に同志社大学工学部を卒業して三洋電機に入社、59年に東京三洋電機取締役、61年に三洋電機取締役となり常務・専務を経た
東京三洋と合併しても赤字が残る

東京三洋電機と別会社のままでは、国内外の生産拠点の集約にも流通の整理にも手を着けられなかった。欧州では三洋電機が英国で、東京三洋電機が西独で、VTRとテレビの製造と販売をそれぞれ抱え、米国でも両社はフィッシャーとサンヨーの二つのブランドに分かれて製品を供給していた。半導体の研究や設備投資も二重に進んでいた。円高に耐える体制づくりを目的に掲げ、三洋電機は1986年12月に東京三洋電機を吸収合併した。合併一年目の1987年11月期は、売上高が9,090億円と8.4%増える一方、営業損益は55億円の赤字となった。合併直前の1986年度に三洋電機28億円・東京三洋電機24億円あった営業赤字を、そのまま引き継いだ形であった。二期続けて本業で稼げないまま、次の柱を情報機器に求めることになる。

  • 日経ビジネス 1988年2月29日号
    • [111]別会社である以上は国内はおろか海外も容易に生産拠点の集約化・流通の合理化に手がつけられなかった
    • [112]欧州では英国で三洋が、西独で東京三洋がそれぞれVTR・テレビを生産販売し、米国ではフィッシャーとサンヨーの2ブランドに両社が別々に搬入していた
    • [113]半導体などは両社が別々に研究投資をして設備投資する二重投資になっていた
    • [114]円高に対応できる体制作りを目指して昭和61年12月に三洋電機と東京三洋電機が合併した
    • [116]昭和62年11月期は売上高9,090億円で8.4%増だったが営業損益は55億円の赤字となった
    • [117]合併直前の昭和61年度の三洋・東京三洋の営業損益はそれぞれ28億円・24億円の赤字だった
    • [118]拡家電を目指し高付加価値製品のビジネス機器の充実を図るとして情報システム分野に注力した
  • 三洋電機 有価証券報告書 第87期(2011年3月期)【沿革】
    • [115]昭和61年12月 東京三洋電機を吸収合併
参考文献[98]-[118]
  • 日経ビジネス 1988年2月29日号
    • [98]昭和60年度には全世界で43カ所の生産拠点、30カ所の販売拠点を有する国際分業体制を築いた
    • [99]三洋電機と東京三洋など関連会社は輸出向け製品の生産に励めば後は三洋電機貿易がさばくという図式であった
    • [100]海外への販売の第一線に立ったのは関連会社の三洋電機貿易で、三洋電機と東京三洋電機から全製品を買い取って市場開拓にあたった
    • [101]1970年代に欧米への輸出基地としてコストの安いシンガポール・韓国などに生産工場を構え、部品を日本から送る海外生産・海外販売にも早くから取り組んだ
    • [103]昭和59年度の海外生産は総額5,400億円で日本の全製造業中トップだった
    • [104]昭和60年度に念願の売上高1兆円を達成し、6割以上を輸出で稼ぎ出した
    • [105]昭和60年暮れ、死者を出した欠陥石油ファンヒーター事件が起きた
    • [106]約6万台の同機種の製品の回収と原因究明に時間と労力を費やした
    • [109]昭和60年9月のプラザ合意以降の円高が輸出採算を悪化させた
    • [110]1ドル160円になった昭和61年春の段階で輸出メーカーは生産拠点の再構築を始めたが、三洋電機は61年暮れの合併まで組織的に手を打てなかった
    • [111]別会社である以上は国内はおろか海外も容易に生産拠点の集約化・流通の合理化に手がつけられなかった
    • [112]欧州では英国で三洋が、西独で東京三洋がそれぞれVTR・テレビを生産販売し、米国ではフィッシャーとサンヨーの2ブランドに両社が別々に搬入していた
    • [113]半導体などは両社が別々に研究投資をして設備投資する二重投資になっていた
    • [114]円高に対応できる体制作りを目指して昭和61年12月に三洋電機と東京三洋電機が合併した
    • [116]昭和62年11月期は売上高9,090億円で8.4%増だったが営業損益は55億円の赤字となった
    • [117]合併直前の昭和61年度の三洋・東京三洋の営業損益はそれぞれ28億円・24億円の赤字だった
    • [118]拡家電を目指し高付加価値製品のビジネス機器の充実を図るとして情報システム分野に注力した
  • 日経産業新聞(1981年1月9日)
    • [102]井植薫社長は1981年、円高が進むなら海外生産をさらに強めて採算の維持・向上を図ると表明した
  • 日経ビジネス 1989年10月9日号
    • [107]1986年2月、石油ファンヒーター事件で井植薫前社長の後を継いで井植敏が社長に就任した
    • [108]井植敏は1956年に同志社大学工学部を卒業して三洋電機に入社、59年に東京三洋電機取締役、61年に三洋電機取締役となり常務・専務を経た
  • 三洋電機 有価証券報告書 第87期(2011年3月期)【沿革】
    • [115]昭和61年12月 東京三洋電機を吸収合併

第3章 1990年〜 二次電池への傾斜投資と社内分社制度、半導体・液晶・デジタルカメラへの展開

1990年〜ソフトエナジー事業本部への660億円と松茂のニッケル水素専用工場

本業の赤字のなかで電池へ投資を寄せる

三洋電機は1964年にニッカド電池の量産を始め、二次電池の市場に入っていた。1991年11月期、電池を担うソフトエナジー事業本部の売上高は994億円と前年より21.7%伸び、全社売上の約8%を占めた。三洋電機はこの事業本部に、1991〜1995年度の中期5カ年計画で660億円の設備投資を割り当てた。年100億円強という額は全社の年間設備投資の約2割にあたり、1995年度に売上高を1,500億円へ引き上げる計画だった。同じころ全社はAV機器の不振で、1992年5月の中間決算で営業赤字に落ちた。電池は利益を公表していなかったが、前期の全社営業利益112億円の7〜8割を稼いだと証券アナリストは推定した。本業が崩れる局面で、確実に利益を生む部門へ投資を寄せた判断だったとみられる。

  • 三洋電機『Annual Report 2000』「Batteries」
    • [119]1964年にニッカド電池の量産を始めて二次電池市場に参入した
  • 日経ビジネス 1992年8月3日・10日号
    • [120]ソフトエナジー事業本部の1991年11月期売上高は994億円で全体の約8%、前年同期比21.7%増
    • [121]中期5カ年計画(1991〜95年度)での同本部の設備投資計画は660億円
    • [122]年間100億円強は全社の年間設備投資額の約2割に相当し、95年度の同本部売上高は1500億円を見込んだ
    • [123]三洋電機は1992年5月中間決算で営業赤字に転落した。AV機器の売れ行き不振が背景
    • [124]電池事業の利益は非公表だが、証券アナリストの推定では前期の全社営業利益112億円の7〜8割を電池事業が稼いだ
ニッカドの人と設備をニッケル水素へ移す

ニッカドの次に製品化したのはニッケル水素電池である。カドミウムを使わず、1回の充電で使える時間はニッカドの約2倍になる。研究開発本部は1977年に水素を扱う素材の研究へ着手し、1988年ごろにはニッカドの技術者を研究部隊に加えた。1992年4月、徳島県松茂町に約90億円を投じた専用工場を動かし、月産300万個と業界首位の供給体制に立った。極板を作る工程が近いため、ニッカドの設備の一部を共用し、生産技術者も新工場へ送った。それでも技術者の配置はニッカド3に対しニッケル水素1で、どちらに寄せるかは決まっていなかった。木本豊専務ソフトエナジー事業本部長は、電池で優位を保つには『あれもこれもではなく、戦略の絞り込みが必要になる』と語った。

  • 三洋電機『Annual Report 2000』「Batteries」
    • [125]ニッカド電池に続いてニッケル水素電池を製品化した
  • 日経ビジネス 1992年8月3日・10日号
    • [126]ニッケル水素電池はカドミウムの代わりに水素を使い、一度の充電で使える時間がニッカドの2倍近い
    • [127]研究開発本部で水素にかかわる素材の研究を始めたのは77年で業界最早。ソフトエナジー本部から技術者が派遣されたのは88年ごろ
    • [128]1992年4月、徳島県松茂町に約90億円で業界最大規模のニッケル水素電池専用工場を稼働させ、月産300万個体制で業界トップに立った
    • [129]ニッケル水素の製造は極板製造工程などニッカドと類似点が多く、製造設備の一部を共用し、生産技術者を派遣した
    • [130]技術者陣は約3対1の割合でニッカド電池に比重を置いていた
    • [131]木本豊専務ソフトエナジー事業本部長は電池事業で優位を保つには戦略の絞り込みが必要と述べた
携帯機器と車載へ二次電池の用途を広げる

1990年代の後半、二次電池の需要は携帯電話とPHS、ノートパソコンへ移った。三洋電機はニッケル水素とリチウムイオンを相次いで製品化し、2000年3月期の時点で両方の世界市場で3割を超える占有率を持った。携帯電話とPHSに使う角形リチウムイオン電池は、国内で首位の占有率を保った。1999年にハイブリッド車向けのニッケル水素電池を開発し、2001年1月には米フォード・モーターの新型SUVへ単独で供給することで合意した。同年4月には東芝グループのニッケル水素電池事業の譲り受けを終え、この電池の世界有数の作り手となった。2001年3月期の電池部門の売上高は3,039億円で、競争による値下がりを抱えながら19.2%伸びた。1990年に始めた傾斜投資が、携帯機器の普及に乗って全社の柱の一つに育ったのだろう。

  • 三洋電機『Annual Report 2001』「To Our Stockholders」
    • [132]電池部門の売上は携帯電話・PHSとパソコン向け二次電池の需要の強さで伸びた
    • [137]2001年3月期の電池部門売上高は3,039億円で19.2%増。競争激化による値下がりを需要増で補った
  • 三洋電機『Annual Report 2000』「Batteries」
    • [133]ニッカドに続きニッケル水素電池とリチウムイオン電池を製品化し、両方の世界市場で30%超の占有率を得た
    • [134]携帯電話・PHS向けの角形リチウムイオン二次電池は国内首位の占有率を維持した
  • 三洋電機『Annual Report 2001』「Developing Our Battery Business」
    • [135]1999年にハイブリッド車用ニッケル水素電池を開発し、2001年1月にフォードの新型SUV向けHEV電池の単独供給者となることで合意した
    • [136]東芝グループのニッケル水素電池事業の取得で合意し、2001年4月に譲渡を完了して同電池の世界有数のメーカーの地位を固めた
参考文献[119]-[137]
  • 三洋電機『Annual Report 2000』「Batteries」
    • [119]1964年にニッカド電池の量産を始めて二次電池市場に参入した
    • [125]ニッカド電池に続いてニッケル水素電池を製品化した
    • [133]ニッカドに続きニッケル水素電池とリチウムイオン電池を製品化し、両方の世界市場で30%超の占有率を得た
    • [134]携帯電話・PHS向けの角形リチウムイオン二次電池は国内首位の占有率を維持した
  • 日経ビジネス 1992年8月3日・10日号
    • [120]ソフトエナジー事業本部の1991年11月期売上高は994億円で全体の約8%、前年同期比21.7%増
    • [121]中期5カ年計画(1991〜95年度)での同本部の設備投資計画は660億円
    • [122]年間100億円強は全社の年間設備投資額の約2割に相当し、95年度の同本部売上高は1500億円を見込んだ
    • [123]三洋電機は1992年5月中間決算で営業赤字に転落した。AV機器の売れ行き不振が背景
    • [124]電池事業の利益は非公表だが、証券アナリストの推定では前期の全社営業利益112億円の7〜8割を電池事業が稼いだ
    • [126]ニッケル水素電池はカドミウムの代わりに水素を使い、一度の充電で使える時間がニッカドの2倍近い
    • [127]研究開発本部で水素にかかわる素材の研究を始めたのは77年で業界最早。ソフトエナジー本部から技術者が派遣されたのは88年ごろ
    • [128]1992年4月、徳島県松茂町に約90億円で業界最大規模のニッケル水素電池専用工場を稼働させ、月産300万個体制で業界トップに立った
    • [129]ニッケル水素の製造は極板製造工程などニッカドと類似点が多く、製造設備の一部を共用し、生産技術者を派遣した
    • [130]技術者陣は約3対1の割合でニッカド電池に比重を置いていた
    • [131]木本豊専務ソフトエナジー事業本部長は電池事業で優位を保つには戦略の絞り込みが必要と述べた
  • 三洋電機『Annual Report 2001』「To Our Stockholders」
    • [132]電池部門の売上は携帯電話・PHSとパソコン向け二次電池の需要の強さで伸びた
    • [137]2001年3月期の電池部門売上高は3,039億円で19.2%増。競争激化による値下がりを需要増で補った
  • 三洋電機『Annual Report 2001』「Developing Our Battery Business」
    • [135]1999年にハイブリッド車用ニッケル水素電池を開発し、2001年1月にフォードの新型SUV向けHEV電池の単独供給者となることで合意した
    • [136]東芝グループのニッケル水素電池事業の取得で合意し、2001年4月に譲渡を完了して同電池の世界有数のメーカーの地位を固めた

1992年〜8事業本部の社内分社から5カンパニー制への権限委譲

事業本部長に投資と製品の取捨を任せる

1992年11月期、三洋電機は単体で166億9,100万円の営業赤字を出し、1993年11月期には赤字が194億1,500万円に広がった。主な原因は採算割れが続いたAV事業であった。1992年12月に社長となった高野泰明は営業畑の出身で、本社スタッフを減らして事業本部へ権限を移す小さな本社を自らの役目とした。同じ月、8つの事業本部に開発から販売までを一貫して受け持たせ、収益と投資の責任も負わせる改革に踏み切った。それまでは生産部門と販売子会社で指揮系統が分かれ、事業本部制が機能していなかった。1993年12月には社内規定を改め、事業本部長が稟議を経ずに投資できる金額を明文化した。社内ではこの体制を分社化と呼び、事業本部長の英文の肩書をプレジデントとした。

  • 日経ビジネス 1994年2月28日号
    • [138]営業損益は1992年11月期166億9100万円の赤字、93年11月期194億1500万円の赤字
    • [139]業績悪化の主因は大幅な採算割れのAV事業の不振
    • [141]92年12月の機構改革で、8事業本部に開発から販売までを一貫して担当させ、収益・投資の責任を持たせた
    • [142]生産部門と販売子会社の指揮系統が違うなどの問題で、事業本部制が完全に機能していなかった
    • [143]93年12月に社内規定を改め、事業本部長が稟議を通さずに投資できる金額の範囲を明示した
    • [144]新しい事業本部制を社内では「分社化」と呼び、事業本部長の名刺の英文肩書は「プレジデント」
  • 日経ビジネス 1993年1月4日号
    • [140]高野泰明氏は営業畑出身で1992年12月に社長就任。本社スタッフをスリム化し事業本部に権限を大幅委譲する「小さな本社づくり」を役目とした
DRAMから退き、半導体と電池へ投資を寄せる

1993年9月、吉江洋専務半導体事業本部長は、DRAMの新規開発をやめてフラッシュメモリーへ移る計画を経営会議に報告した。DRAMは月200万個の規模だったが、世代ごとに数百億円の設備が要り、韓国の三星電子も伸びていた。設備投資は各事業本部の減価償却の範囲に抑え、半導体と電池の2本部だけにそれを超える額を認めた。1994年11月期の半導体事業本部の投資額350億円は、全社の減価償却費500億円強と比べて突出していた。1998年3月期も電池と半導体の増強を投資の中心に置き、1997年5月には500億円の普通社債を出した。井植敏会長は『わが社はこれまで、どちらかというと総合主義でやってきた。その総合主義を、いかにして専門主義に変えるかに今日、取り組んでいる。』と改革の狙いを語った。

  • 日経ビジネス 1994年2月28日号
    • [145]1993年9月8日の経営会議で吉江洋専務半導体事業本部長が、DRAMの新規開発中止と米シリコン・ストレージ・テクノロジーとの提携によるフラッシュメモリー参入を報告し、事業本部で決定した
    • [146]1メガ・4メガビットDRAMを月200万個生産していたが、世代交代ごとに数百億円単位の設備投資が要り、韓国・三星電子の成長で競争が厳しくなっていた
    • [147]各事業本部の設備投資は原則減価償却の範囲内とし、半導体事業本部とソフトエナジー事業本部だけは減価償却を超える投資を展開した
    • [148]半導体事業本部は94年11月期に350億円を投資する。全社の減価償却は500億円強
    • [150]井植敏会長は、総合主義から専門主義への転換に取り組んでいると述べた
  • 三洋電機『Annual Report 1998』「To Our Stockholders」
    • [149]1998年3月期の設備投資は電池と半導体の生産設備の増強が中心で、資金として1997年5月20日に500億円の普通社債を国内で発行した
黒字に戻した後、5つのカンパニーへ組み替える

1994年11月期、三洋電機は連結の純損益と単体の営業損益をともに黒字に戻した。回復を引っ張ったのは電池と半導体で、AVの不振は続き、売上高に占める家電と非家電の比率は半々から4対6へ移った。高野社長の就任後に別法人とした関連会社は15社に上り、事業本部長は数十億円程度まで自ら決裁できるようになった。1998年6月には半導体部門を歩んだ近藤定男が、井植家と血縁も姻戚もない初めての社長に就いた。1999年3月期に259億円の最終赤字を出すと、同年4月1日に事業本部を5つのカンパニーへ再編した。会長と社長は株主に『This new structure is not merely a modification of the former business headquarters but positions each product group as a truly independent company within a larger company.』(訳:旧事業本部の手直しではなく、各製品群を大きな会社の中の独立した会社と位置づける)と説いた。

  • 日経ビジネス 1997年1月27日号
    • [151]92年11月期に連結純損益で赤字に転落したが、94年11月期に連結純損益の黒字転換を果たし、単体の営業損益も黒字に転換した
    • [152]業績回復の牽引役は電池や半導体でAVは依然不振。売上高の家電・非家電の比率は半々から4対6になった
    • [153]高野社長の就任後に独立させた関連会社は15社。数十億円程度までなら事業本部長の裁量で決裁できる
  • 日経ビジネス 1998年7月27日号
    • [154]近藤定男氏は半導体部門を一貫して歩み、1998年6月26日に井植家と血縁も姻族もない初めての社長に就任した
  • 三洋電機『Annual Report 1999』「To Our Stockholders」
    • [155]1999年3月期の連結純損失は259億円
    • [156]1999年4月1日付で事業本部をマルチメディア・ホームアプライアンス・コマーシャル機器システム・セミコンダクター・ソフトエナジーの5カンパニーに再編した
    • [157]新体制は旧事業本部の修正ではなく、各製品群を大きな会社の中の独立した会社と位置づけるものと説明した
参考文献[138]-[157]
  • 日経ビジネス 1994年2月28日号
    • [138]営業損益は1992年11月期166億9100万円の赤字、93年11月期194億1500万円の赤字
    • [139]業績悪化の主因は大幅な採算割れのAV事業の不振
    • [141]92年12月の機構改革で、8事業本部に開発から販売までを一貫して担当させ、収益・投資の責任を持たせた
    • [142]生産部門と販売子会社の指揮系統が違うなどの問題で、事業本部制が完全に機能していなかった
    • [143]93年12月に社内規定を改め、事業本部長が稟議を通さずに投資できる金額の範囲を明示した
    • [144]新しい事業本部制を社内では「分社化」と呼び、事業本部長の名刺の英文肩書は「プレジデント」
    • [145]1993年9月8日の経営会議で吉江洋専務半導体事業本部長が、DRAMの新規開発中止と米シリコン・ストレージ・テクノロジーとの提携によるフラッシュメモリー参入を報告し、事業本部で決定した
    • [146]1メガ・4メガビットDRAMを月200万個生産していたが、世代交代ごとに数百億円単位の設備投資が要り、韓国・三星電子の成長で競争が厳しくなっていた
    • [147]各事業本部の設備投資は原則減価償却の範囲内とし、半導体事業本部とソフトエナジー事業本部だけは減価償却を超える投資を展開した
    • [148]半導体事業本部は94年11月期に350億円を投資する。全社の減価償却は500億円強
    • [150]井植敏会長は、総合主義から専門主義への転換に取り組んでいると述べた
  • 日経ビジネス 1993年1月4日号
    • [140]高野泰明氏は営業畑出身で1992年12月に社長就任。本社スタッフをスリム化し事業本部に権限を大幅委譲する「小さな本社づくり」を役目とした
  • 三洋電機『Annual Report 1998』「To Our Stockholders」
    • [149]1998年3月期の設備投資は電池と半導体の生産設備の増強が中心で、資金として1997年5月20日に500億円の普通社債を国内で発行した
  • 日経ビジネス 1997年1月27日号
    • [151]92年11月期に連結純損益で赤字に転落したが、94年11月期に連結純損益の黒字転換を果たし、単体の営業損益も黒字に転換した
    • [152]業績回復の牽引役は電池や半導体でAVは依然不振。売上高の家電・非家電の比率は半々から4対6になった
    • [153]高野社長の就任後に独立させた関連会社は15社。数十億円程度までなら事業本部長の裁量で決裁できる
  • 日経ビジネス 1998年7月27日号
    • [154]近藤定男氏は半導体部門を一貫して歩み、1998年6月26日に井植家と血縁も姻族もない初めての社長に就任した
  • 三洋電機『Annual Report 1999』「To Our Stockholders」
    • [155]1999年3月期の連結純損失は259億円
    • [156]1999年4月1日付で事業本部をマルチメディア・ホームアプライアンス・コマーシャル機器システム・セミコンダクター・ソフトエナジーの5カンパニーに再編した
    • [157]新体制は旧事業本部の修正ではなく、各製品群を大きな会社の中の独立した会社と位置づけるものと説明した

1994年〜鳥取三洋のSTN液晶、デジタルカメラの生産首位とコダックとの有機EL提携

鳥取三洋が安価なSTN液晶に絞る

液晶のうちTFT方式は三洋電機本体が手がけ、子会社の鳥取三洋電機は価格の安いSTN方式に特化した。宅間増治専務は、応答速度や視野角で劣っても価格性能比なら対抗できると判断していた。1994年11月期の鳥取三洋の売上高は1,507億円と前期比26.5%増え、液晶を中心とする電子部品は300億円から605億円へ倍増した。カラーSTNで画面を左右に2分して同時に走査する独自の方式が、この伸びを支えた。1992年12月の社内分社で独立採算を求められて以降、液晶に独自のブランドを掲げ、大型投資も本体の社長を通さず井植敏会長との調整で決めた。本体側は低温ポリシリコンのTFT液晶を開発し、1998年3月期にはこれを積んだデジタルスチルカメラを出した。

  • 日経ビジネス 1995年2月20日号
    • [158]TFT方式は三洋電機が手掛けており、鳥取三洋電機はSTN方式の液晶に特化した
    • [159]宅間増治専務は、STNは応答速度や視野角でTFTにかなわないが価格性能比で対抗できるとした
    • [160]鳥取三洋の94年11月期売上高は過去最高の1507億円で前年度比26.5%増。電子部品部門の売上高は93年11月期300億円から94年11月期605億円に倍増
    • [161]液晶躍進の原動力は画面を左右2分して同時に走査する「ダブル・スキャン」をカラーSTNで実現した独自技術
    • [162]92年12月の社内分社制で独立採算を求められ、液晶に独自ブランド「TORiSAN」を掲げ、大型投資は井植敏会長に根回しするが高野社長には相談しない
  • 三洋電機『Annual Report 1998』「To Our Stockholders」
    • [163]1998年3月期に、独自開発の低温ポリシリコンTFT液晶を組み込んだデジタルスチルカメラなどを開発した
半導体を強みにデジタルカメラの生産首位に立つ

1998年6月に社長となった近藤定男は、半導体事業本部長の時代にデジタルカメラ向けの半導体の開発を指揮していた。フィルムのカメラと違い、デジタルカメラは半導体の性能が製品の良しあしを決める。三洋電機は相手先ブランドでの供給が多く、自社の名前は表に出にくかったが、1998年には国内の生産量で首位となった。翌1999年の年次報告では、マルチメディアカンパニーがデジタルカメラの生産で世界首位にあると記している。1993年に研究開発本部長となった桑野幸徳は、研究部門を事業部と一体の体制に改めた。携帯電話・デジタルカメラ・液晶プロジェクターの3本柱はそこから育った。2001年3月期、デジタルカメラと携帯電話・PHSが伸びたAV・情報通信機器部門の売上高は7,928億円と14.1%増えた。

  • 日経ビジネス 1998年7月27日号
    • [164]近藤定男氏は社長就任直前の半導体事業本部長時代にデジタルカメラ向け半導体の開発を指揮した
    • [165]デジタルカメラではシャッター速度やレンズの精度より半導体の性能がカメラの良しあしを決める
    • [166]デジタルカメラは相手先ブランドでの供給割合が高くサンヨーのブランドは表に出にくいが、生産量で国内シェア1位
  • 三洋電機『Annual Report 1999』「Multimedia Company」
    • [167]マルチメディアカンパニーはデジタルカメラの生産で世界首位
  • 日経ビジネス 2001年3月5日号
    • [168]桑野幸徳氏は93年に研究開発本部長に就任し、研究部門を商品設計や生産を担う事業部と一体の体制に改革した
    • [169]携帯電話、デジタルカメラ、液晶プロジェクターの3本柱は事業部と一体の研究開発から生まれた
  • 三洋電機『Annual Report 2001』「To Our Stockholders」
    • [170]2001年3月期のAV・情報通信機器部門の売上高は14.1%増の7,928億円。デジタルカメラ、携帯電話・PHS、光ピックアップが好調
太陽光の出力不足で社長が代わり、有機ELに賭ける

2000年11月、太陽光発電システムの出力不足問題で近藤社長が辞任し、太陽電池の開発者だった桑野幸徳が急きょ後を継いだ。桑野社長は、占有率が1位か2位の製品に力を注ぎ、3位以下は巻き返しの計画が通らなければ撤退させる方針を掲げた。2001年度からの3カ年の中期経営計画チャレンジ21では、自己資本利益率を6.4%から2004年3月期に9.3%へ上げる目標を置いた。会長と社長は株主に『To achieve its goals, we will become increasingly selective and focused in our businesses and our allocation of business resources.』(訳:目標達成に向け、事業と資源配分で選別と集中を強めていく)と記した。次の表示装置には有機ELを選び、1999年2月に米イーストマン・コダックと共同開発で提携した。2001年12月、有機ELディスプレーを量産する合弁会社を同社と設立した。

  • 日経ビジネス 2001年3月5日号
    • [171]2000年11月、太陽光発電システムの出力不足問題で近藤定男社長が辞任し、太陽電池技術を製品に育てた桑野幸徳氏が急遽社長を引き継いだ
    • [172]桑野社長は市場シェアが1番か2番の製品に注力し、3番手・4番手の製品は逆襲のシナリオを出させ、経営陣が納得できなければ撤退する方針
  • 三洋電機『Annual Report 2001』「To Our Stockholders」
    • [173]中期経営計画チャレンジ21は2001年3月期終了後に始まる3カ年計画で、ROEを2001年3月期の6.4%から2004年3月期に9.3%へ高める目標を掲げた
    • [174]会長と社長は事業と経営資源配分の選別と集中を強めると述べた
  • 三洋電機『Annual Report 1999』「To Our Stockholders」
    • [175]1999年2月、有機ELディスプレーの共同開発で米イーストマン・コダックと包括提携した
  • 三洋電機『Annual Report 2002』「To Our Stockholders」
    • [176]2001年12月、イーストマン・コダックと有機ELディスプレーを製造する合弁会社を設立した
参考文献[158]-[176]
  • 日経ビジネス 1995年2月20日号
    • [158]TFT方式は三洋電機が手掛けており、鳥取三洋電機はSTN方式の液晶に特化した
    • [159]宅間増治専務は、STNは応答速度や視野角でTFTにかなわないが価格性能比で対抗できるとした
    • [160]鳥取三洋の94年11月期売上高は過去最高の1507億円で前年度比26.5%増。電子部品部門の売上高は93年11月期300億円から94年11月期605億円に倍増
    • [161]液晶躍進の原動力は画面を左右2分して同時に走査する「ダブル・スキャン」をカラーSTNで実現した独自技術
    • [162]92年12月の社内分社制で独立採算を求められ、液晶に独自ブランド「TORiSAN」を掲げ、大型投資は井植敏会長に根回しするが高野社長には相談しない
  • 三洋電機『Annual Report 1998』「To Our Stockholders」
    • [163]1998年3月期に、独自開発の低温ポリシリコンTFT液晶を組み込んだデジタルスチルカメラなどを開発した
  • 日経ビジネス 1998年7月27日号
    • [164]近藤定男氏は社長就任直前の半導体事業本部長時代にデジタルカメラ向け半導体の開発を指揮した
    • [165]デジタルカメラではシャッター速度やレンズの精度より半導体の性能がカメラの良しあしを決める
    • [166]デジタルカメラは相手先ブランドでの供給割合が高くサンヨーのブランドは表に出にくいが、生産量で国内シェア1位
  • 三洋電機『Annual Report 1999』「Multimedia Company」
    • [167]マルチメディアカンパニーはデジタルカメラの生産で世界首位
  • 日経ビジネス 2001年3月5日号
    • [168]桑野幸徳氏は93年に研究開発本部長に就任し、研究部門を商品設計や生産を担う事業部と一体の体制に改革した
    • [169]携帯電話、デジタルカメラ、液晶プロジェクターの3本柱は事業部と一体の研究開発から生まれた
    • [171]2000年11月、太陽光発電システムの出力不足問題で近藤定男社長が辞任し、太陽電池技術を製品に育てた桑野幸徳氏が急遽社長を引き継いだ
    • [172]桑野社長は市場シェアが1番か2番の製品に注力し、3番手・4番手の製品は逆襲のシナリオを出させ、経営陣が納得できなければ撤退する方針
  • 三洋電機『Annual Report 2001』「To Our Stockholders」
    • [170]2001年3月期のAV・情報通信機器部門の売上高は14.1%増の7,928億円。デジタルカメラ、携帯電話・PHS、光ピックアップが好調
    • [173]中期経営計画チャレンジ21は2001年3月期終了後に始まる3カ年計画で、ROEを2001年3月期の6.4%から2004年3月期に9.3%へ高める目標を掲げた
    • [174]会長と社長は事業と経営資源配分の選別と集中を強めると述べた
  • 三洋電機『Annual Report 1999』「To Our Stockholders」
    • [175]1999年2月、有機ELディスプレーの共同開発で米イーストマン・コダックと包括提携した
  • 三洋電機『Annual Report 2002』「To Our Stockholders」
    • [176]2001年12月、イーストマン・コダックと有機ELディスプレーを製造する合弁会社を設立した

第4章 2002年〜 ハイアールとの提携から赤字転落と第三者割当増資、パナソニックによる完全子会社化まで

2002年〜ハイアールとの4項目の提携と「チャレンジ21」、2005年度3兆円の目標

青島の金型工場で見た原価

2001年9月24日、井植敏会長は中国・青島にあるハイアール(海爾集団)の工場を見学した。最新の欧米製設備が動く金型工場で、価格は日本の4分の1、設計にかかる時間は半分と聞き、井植会長は『5 年後には日本の大量生産の製造業はなくなる』と危機感を強めた。翌月に張瑞敏CEOらを守口の本社へ招いて提携を持ちかけ、2002年1月に技術・製造・販売にわたる包括契約を結んだ。中身は、三洋製品を中国でハイアールの販売網に乗せること、合弁の三洋ハイアールでハイアール製品を日本で売ること、冷蔵庫用コンプレッサーと二次電池・液晶などの基幹部品を納めることだった。三洋の家電が生む営業利益は2001年3月期に全体の1%にすぎなかった。利益の薄い国内の普及品市場を差し出し、伸びる顧客への部品供給を取りにいく交換だったとみられる。

  • 日経ビジネス 2002年1月21日号
    • [177]2001年9月24日、井植敏会長が青島のハイアール工場を訪問した
    • [178]金型工場で欧米の最新機器が稼働し、価格は日本の4分の1、設計時間は半分と聞いて井植会長の危機感が決定的になった
    • [180]提携は、三洋製品の中国での販売、合弁会社三洋ハイアールによるハイアール製品の日本での販売、コンプレッサーの供給、二次電池・液晶など基幹部品の販売の4点からなる
    • [181]三洋の家電製品が生む営業利益は2001年3月期に全体の1%だった
  • SANYO ANNUAL REPORT 2002「To Our Stockholders」(井植敏会長兼CEO・桑野幸徳社長兼COO、2002年7月)
    • [179]2002年1月、ハイアール・グループと技術・製造・販売を含む包括契約を締結した
首位を取る計画と薄い黒字

2001年4月に始めた中期経営計画「チャレンジ21」は、製品が標準化して世界共通の価格で競う局面への備えとされた。井植敏会長と桑野幸徳社長は2002年7月の株主あての書簡で、その前提を『We realize that, in this age of broadband communications, accelerated technological progress, and weeding out of weaker companies, we need to be the industry leader to survive.』(訳:ブロードバンド通信の時代に技術の進歩が速まり弱い企業がふるい落とされるなか、生き残るには業界の首位に立つ必要があると認識している)と記した。2002年3月期の連結売上高は2兆247億1,900万円に減り、営業利益は50.2%減の531億円、純利益は17億円にとどまった。書簡は同じ期を『While other companies in our industry began to bleed red ink, we managed to post net income.』(訳:同業他社が赤字に沈み始めるなか、当社は純利益を確保した)と総括した。設備投資627億円は電池と半導体、有機ELの研究設備に向けられた。首位を狙う領域を絞ると言いながら、投資先はなお複数の装置産業に分かれていた。

  • SANYO ANNUAL REPORT 2002「To Our Stockholders」(井植敏会長兼CEO・桑野幸徳社長兼COO、2002年7月)
    • [182]2001年4月に始めた中期経営計画チャレンジ21は、製品が標準化し世界規模で価格が決まる時代に備えるものと位置づけられた
    • [183]株主あての書簡は2002年7月付で、井植敏会長兼CEOと桑野幸徳社長兼COOの連名である
    • [185]2002年3月期の連結営業利益は50.2%減の531億円、純利益は95.9%減の17億円
    • [186]書簡は、同業他社が赤字に転じるなかで純利益を計上したと述べた
    • [187]2002年3月期の設備投資627億円は主に電池と半導体に向けられ、有機ELディスプレイの研究開発設備への投資も含んだ
  • 三洋電機 有価証券報告書 第82期(2006年3月期)【主要な経営指標等の推移】
    • [184]2002年3月期の連結売上高は2,024,719百万円
提携の出足と617億円の赤字

日本でのハイアール製品の販売は2002年5月に始まったが、8月末に扱う量販店は予定の20社に対し9社だった。三洋ハイアールは国内販売の目標を3年後に300億円と置き、ハイアール経由で三洋ブランドとOEMを合わせ中国で1,000億円を売る構想を掲げた。その2003年3月期、三洋電機は616億7,100万円の連結当期純損失を計上した。井植会長は2003年に組織を小さな単位へ割るビジネスユニット制を入れ、リーダーには3年で目標に届かなければ経営職を外れる契約を課した。小刻みなリストラが結果として傷を広げたとの反省も示し、2005年度に連結売上高3兆円という目標を掲げた。赤字の翌年に売上を1.4倍にする目標は、組織の引き締めと拡大を同時に求めるものだった。

  • 日経ビジネス 2002年10月14日号
    • [188]三洋ハイアールの井植敏彰社長によれば、20社の量販店で扱う予定が8月末時点で9社にとどまった。ハイアール製品の日本販売は5月中旬に始まった
    • [189]三洋ハイアールは日本国内でのハイアール製品販売を3年後に300億円とする目標を置き、ハイアール経由で三洋ブランドとOEMを合わせ1,000億円の販売も可能とした
  • 三洋電機 有価証券報告書 第82期(2006年3月期)【主要な経営指標等の推移】
    • [190]2003年3月期の連結当期純損失は61,671百万円
  • 日経ビジネス 2004年3月1日号
    • [191]前年に導入したビジネスユニット制では3年契約を取り入れ、リーダーは3年で目標を達成できなければ経営職から管理職に落ちる
    • [192]井植会長は小刻みなリストラが結果的に大きな傷になったと反省を述べた。2005年度に連結売上高3兆円を目標にしていた
参考文献[177]-[192]
  • 日経ビジネス 2002年1月21日号
    • [177]2001年9月24日、井植敏会長が青島のハイアール工場を訪問した
    • [178]金型工場で欧米の最新機器が稼働し、価格は日本の4分の1、設計時間は半分と聞いて井植会長の危機感が決定的になった
    • [180]提携は、三洋製品の中国での販売、合弁会社三洋ハイアールによるハイアール製品の日本での販売、コンプレッサーの供給、二次電池・液晶など基幹部品の販売の4点からなる
    • [181]三洋の家電製品が生む営業利益は2001年3月期に全体の1%だった
  • SANYO ANNUAL REPORT 2002「To Our Stockholders」(井植敏会長兼CEO・桑野幸徳社長兼COO、2002年7月)
    • [179]2002年1月、ハイアール・グループと技術・製造・販売を含む包括契約を締結した
    • [182]2001年4月に始めた中期経営計画チャレンジ21は、製品が標準化し世界規模で価格が決まる時代に備えるものと位置づけられた
    • [183]株主あての書簡は2002年7月付で、井植敏会長兼CEOと桑野幸徳社長兼COOの連名である
    • [185]2002年3月期の連結営業利益は50.2%減の531億円、純利益は95.9%減の17億円
    • [186]書簡は、同業他社が赤字に転じるなかで純利益を計上したと述べた
    • [187]2002年3月期の設備投資627億円は主に電池と半導体に向けられ、有機ELディスプレイの研究開発設備への投資も含んだ
  • 三洋電機 有価証券報告書 第82期(2006年3月期)【主要な経営指標等の推移】
    • [184]2002年3月期の連結売上高は2,024,719百万円
    • [190]2003年3月期の連結当期純損失は61,671百万円
  • 日経ビジネス 2002年10月14日号
    • [188]三洋ハイアールの井植敏彰社長によれば、20社の量販店で扱う予定が8月末時点で9社にとどまった。ハイアール製品の日本販売は5月中旬に始まった
    • [189]三洋ハイアールは日本国内でのハイアール製品販売を3年後に300億円とする目標を置き、ハイアール経由で三洋ブランドとOEMを合わせ1,000億円の販売も可能とした
  • 日経ビジネス 2004年3月1日号
    • [191]前年に導入したビジネスユニット制では3年契約を取り入れ、リーダーは3年で目標を達成できなければ経営職から管理職に落ちる
    • [192]井植会長は小刻みなリストラが結果的に大きな傷になったと反省を述べた。2005年度に連結売上高3兆円を目標にしていた

2004年〜中越地震と二期で3,772億円の最終赤字、3,000億円の優先株式増資

3兆円の目標と二期の赤字

2004年3月期に134億円の純利益へ戻した直後、2004年10月の新潟県中越地震で被災した。半導体は新製品の開発が遅れ、受注は震災前の水準へ戻らなかった。当期純損失は2005年3月期に1,715億4,400万円、2006年3月期に2,056億6,100万円となり、二期の合計は3,772億円に及んだ。3兆円を掲げた2005年度の連結売上高は2兆3,970億2,600万円で、目標に6,000億円余り届かなかった。2005年6月、社外取締役だった野中ともよ氏が取締役会長兼CEOに就いた。7月には3カ年の構造改革「SANYO EVOLUTION PROJECT」を始め、11月に2005〜2007年度の中期経営計画をまとめた。この計画に沿って全事業と資産を洗い直し、構造改革費用と減損損失を2006年3月期に計上した。

  • 三洋電機 有価証券報告書 第82期(2006年3月期)【主要な経営指標等の推移】
    • [193]2004年3月期の連結当期純利益は13,400百万円
    • [196]連結当期純損失は2005年3月期171,544百万円、2006年3月期205,661百万円
    • [197]2006年3月期の連結売上高は2,397,026百万円
  • 三洋電機 お知らせ「第三者割当による新株式(優先株式)の発行に関するお知らせ」(2006年1月25日)
    • [194]ここ数年の収益力の低下に加え、新潟県中越地震で被災した
    • [199]2005年7月5日に3カ年の構造改革プロジェクトSANYO EVOLUTION PROJECTを始め、11月18日に2005〜2007年度の中期経営計画を策定した
  • 三洋電機 有価証券報告書 第82期(2006年3月期)【業績等の概要】
    • [195]半導体は新潟県中越地震の影響で新製品開発が遅れ、顧客からの受注が震災前の水準まで戻らなかった
    • [200]構造改革プロジェクトに基づきすべての事業と資産の見直しに着手し、構造改革費用と固定資産の減損損失などを計上した
  • 三洋電機 有価証券報告書 第82期(2006年3月期)【役員の状況】
    • [198]野中ともよ氏は2002年6月に取締役、2005年6月に取締役会長兼CEOに就任した
3,000億円と議決権の半分

2006年1月25日、三洋電機は優先株式の第三者割当を発表し、理由として『事業を継続的に運営する基盤を取り戻すため、自己資本の増強および有利子負債の削減等による財務体質の強化が急務であると考えております』と記した。資金の使い道には、成長投資として2006年度に約2,200億円、2007年度に約2,300億円、構造改革の加速に約1,000億円を見込んだ。3月14日、大和証券SMBC、ゴールドマン・サックス、三井住友銀行の3グループに1株700円で優先株式を割り当て、総額3,000億円を払い込みで受けた。議決権を持つA種優先株式の議決権は182万5,422個で、総株主の議決権366万5,858個のほぼ半分にあたった。再建の資金と時間を得る代わりに、経営の決定権の半分近くを金融資本へ預けた構図だった。

  • 三洋電機 お知らせ「第三者割当による新株式(優先株式)の発行に関するお知らせ」(2006年1月25日)
    • [201]優先株式発行の理由として、中期経営計画の達成を確実にし、財務体質の強化が急務であるとした
    • [202]コア事業の設備投資・研究開発投資に2006年度約2,200億円、2007年度約2,300億円、構造改革の加速・推進に約1,000億円が必要となる見込みとした
  • 三洋電機 有価証券報告書 第82期(2006年3月期)【発行済株式総数、資本金等の推移】
    • [203]払込期日2006年3月14日、発行価額1株700円、発行価額の総額300,000百万円。割当先は大和証券エスエムビーシープリンシパル・インベストメンツ、ゴールドマン・サックス・グループのオーシャンズ・ホールディングス、三井住友銀行
  • 三洋電機 有価証券報告書 第82期(2006年3月期)【議決権の状況】
    • [204]A種優先株式の議決権は1,825,422個、総株主の議決権は3,665,858個。B種優先株式は議決権を有しない
半導体の分社と携帯電話の売却

増資のお知らせは、集中するコア事業に冷熱・産業機器、二次電池、デジタルカメラ、携帯電話の4つを挙げ、「環境・エナジー先進メーカー」を目指す姿に置いた。半導体は2006年3月31日に分社を決め、7月に三洋半導体として切り出した。独立した資金調達の力を持たせ、増資に応じた3グループの協力も得る狙いだった。切り出した事業の2005年3月期の売上高は1,665億4,200万円で、全社の11.41%を占めた。2007年4月には総務人事の出身の佐野精一郎氏が社長執行役員に就いた。コアに挙げた4事業のうち携帯電話は、2008年4月に京セラへ譲渡した。2年前に柱と呼んだ事業を手放した点に、事業を選ぶ基準が成長性から資金の確保へ移っていたことがうかがえる。

  • 三洋電機 お知らせ「第三者割当による新株式(優先株式)の発行に関するお知らせ」(2006年1月25日)
    • [205]冷熱・産業機器、二次電池、デジタルカメラ、携帯電話などのコア事業への集中を進め、環境・エナジー先進メーカーとして発展を目指すとした
  • 三洋電機 お知らせ「会社分割による半導体事業の分社化に関するお知らせ」(2006年3月31日)
    • [206]2006年3月31日の取締役会で、7月1日を分割期日として半導体事業を新設の三洋半導体株式会社に承継させることを決議した
    • [207]新会社は独立した資金調達能力と財務基盤に基づき体制を築き、資本増強で提携した大和証券エスエムビーシーグループ、ゴールドマン・サックス・グループ、三井住友銀行グループの協力を得るとした
    • [208]半導体事業の2005年3月期の売上高は166,542百万円で、全社1,458,981百万円の11.41%
  • 三洋電機 有価証券報告書 第83期(2007年3月期)【役員の状況】
    • [209]佐野精一郎氏は総務・人事部長、総務人事本部長を経て2007年4月に社長執行役員、6月に代表取締役社長に就いた
  • 三洋電機 有価証券報告書 第87期(2011年3月期)【沿革】
    • [210]2008年4月、携帯電話事業を京セラ㈱に譲渡した
参考文献[193]-[210]
  • 三洋電機 有価証券報告書 第82期(2006年3月期)【主要な経営指標等の推移】
    • [193]2004年3月期の連結当期純利益は13,400百万円
    • [196]連結当期純損失は2005年3月期171,544百万円、2006年3月期205,661百万円
    • [197]2006年3月期の連結売上高は2,397,026百万円
  • 三洋電機 お知らせ「第三者割当による新株式(優先株式)の発行に関するお知らせ」(2006年1月25日)
    • [194]ここ数年の収益力の低下に加え、新潟県中越地震で被災した
    • [199]2005年7月5日に3カ年の構造改革プロジェクトSANYO EVOLUTION PROJECTを始め、11月18日に2005〜2007年度の中期経営計画を策定した
    • [201]優先株式発行の理由として、中期経営計画の達成を確実にし、財務体質の強化が急務であるとした
    • [202]コア事業の設備投資・研究開発投資に2006年度約2,200億円、2007年度約2,300億円、構造改革の加速・推進に約1,000億円が必要となる見込みとした
    • [205]冷熱・産業機器、二次電池、デジタルカメラ、携帯電話などのコア事業への集中を進め、環境・エナジー先進メーカーとして発展を目指すとした
  • 三洋電機 有価証券報告書 第82期(2006年3月期)【業績等の概要】
    • [195]半導体は新潟県中越地震の影響で新製品開発が遅れ、顧客からの受注が震災前の水準まで戻らなかった
    • [200]構造改革プロジェクトに基づきすべての事業と資産の見直しに着手し、構造改革費用と固定資産の減損損失などを計上した
  • 三洋電機 有価証券報告書 第82期(2006年3月期)【役員の状況】
    • [198]野中ともよ氏は2002年6月に取締役、2005年6月に取締役会長兼CEOに就任した
  • 三洋電機 有価証券報告書 第82期(2006年3月期)【発行済株式総数、資本金等の推移】
    • [203]払込期日2006年3月14日、発行価額1株700円、発行価額の総額300,000百万円。割当先は大和証券エスエムビーシープリンシパル・インベストメンツ、ゴールドマン・サックス・グループのオーシャンズ・ホールディングス、三井住友銀行
  • 三洋電機 有価証券報告書 第82期(2006年3月期)【議決権の状況】
    • [204]A種優先株式の議決権は1,825,422個、総株主の議決権は3,665,858個。B種優先株式は議決権を有しない
  • 三洋電機 お知らせ「会社分割による半導体事業の分社化に関するお知らせ」(2006年3月31日)
    • [206]2006年3月31日の取締役会で、7月1日を分割期日として半導体事業を新設の三洋半導体株式会社に承継させることを決議した
    • [207]新会社は独立した資金調達能力と財務基盤に基づき体制を築き、資本増強で提携した大和証券エスエムビーシーグループ、ゴールドマン・サックス・グループ、三井住友銀行グループの協力を得るとした
    • [208]半導体事業の2005年3月期の売上高は166,542百万円で、全社1,458,981百万円の11.41%
  • 三洋電機 有価証券報告書 第83期(2007年3月期)【役員の状況】
    • [209]佐野精一郎氏は総務・人事部長、総務人事本部長を経て2007年4月に社長執行役員、6月に代表取締役社長に就いた
  • 三洋電機 有価証券報告書 第87期(2011年3月期)【沿革】
    • [210]2008年4月、携帯電話事業を京セラ㈱に譲渡した

2008年〜パナソニックとの提携、131円と138円の二度の公開買付けと完全子会社化

電池と太陽電池を束ねる提携

2008年12月19日、三洋電機はパナソニックと資本・業務提携の契約を結んだ。両社は金融危機に始まる世界景気の後退を前に、『既存戦略の加速に留まらず、成長性の更なる強化に向けた抜本的なアクションが今こそ必要との課題認識を共有しております』と連名で説明した。効果の筆頭に挙げたのはHIT太陽電池の事業拡大と、リチウムイオン電池を中心とする二次電池で、ハイブリッド車や電気自動車向けの電池にも投資を積むとした。公開買付けは普通株式1株131円を予定し、優先株式を持つ金融3社の持ち分は完全希薄化後の議決権の約70.5%にあたった。2009年12月、公開買付けによってパナソニックは三洋電機の親会社となった。3年前の増資で金融資本に預けた議決権は、そのまま事業会社への譲渡の束になった。

  • パナソニック・三洋電機 お知らせ「パナソニック株式会社および三洋電機株式会社の資本・業務提携契約締結のお知らせ」(2008年12月19日)
    • [211]2008年12月19日、両社の取締役会の承認に基づき資本・業務提携契約を締結した
    • [212]金融危機に端を発する世界的な景気後退局面に入っているとの認識を示した
    • [213]主要なシナジー効果として、HIT太陽電池の事業拡大と、リチウムイオン二次電池を中心とする二次電池事業、HEV・EV用電池への積極投資を挙げた
    • [214]買付価格は普通株式1株131円、A種・B種優先株式1株1,310円の予定。三社の保有株式は完全希薄化後の議決権の約70.5%に相当した
  • 三洋電機 有価証券報告書 第87期(2011年3月期)【沿革】
    • [215]2009年12月、パナソニック㈱が公開買付けの方法により株式を取得し、当社の親会社となった
上場維持の方針から完全子会社へ

提携を発表した時点で、両社は公開買付けの後も三洋電機の上場を保つ方針を共通の認識としていた。その後も連結の当期純損失は2009年3月期に932億2,600万円、2010年3月期に487億8,900万円と続いた。2010年3月末のパナソニックの持株比率は50.05%だった。2010年7月29日、両社の取締役会は公開買付けと株式交換で2011年4月をめどに完全子会社とする方針を決めた。二度目の公開買付けは1株138円で、10月6日の終了時に保有割合は80.77%となった。交換比率は三洋電機株1株にパナソニック株0.115株とされ、2011年3月29日に上場を廃止して4月1日に完全子会社となった。赤字が続いた1年半のうちに、少数株主を残す前提は維持できないものになったのだろう。

  • パナソニック・三洋電機 お知らせ「パナソニック株式会社および三洋電機株式会社の資本・業務提携契約締結のお知らせ」(2008年12月19日)
    • [216]両社は公開買付けの成立後も三洋電機の普通株式の上場を維持する方針を共通認識とした
  • 三洋電機 有価証券報告書 第87期(2011年3月期)【主要な経営指標等の推移】
    • [217]当社帰属当期純損失は2009年3月期93,226百万円、2010年3月期48,789百万円
  • 三洋電機 有価証券報告書 第86期(2010年3月期)【大株主の状況】
    • [218]2010年3月末のパナソニックの所有株式数は3,082,309千株で、発行済株式総数に対する割合は50.05%
  • 三洋電機 有価証券報告書 第87期(2011年3月期)【経営上の重要な契約等】
    • [219]2010年7月29日、両社取締役会が公開買付けとその後の株式交換により2011年4月を目処に完全子会社化を進めることを決議した
    • [220]二度目の公開買付けは2010年8月23日から10月6日まで1株138円で実施され、保有割合は80.77%となった
  • 三洋電機 有価証券報告書 第87期(2011年3月期)【沿革】【経営上の重要な契約等】
    • [221]株式交換比率は三洋電機株式1株に対しパナソニック株式0.115株。2011年3月29日に上場廃止、4月1日に株式交換で完全子会社となった
切り離された半導体と液晶

上場会社として最後の2011年3月期、売上高は1兆4,894億9,700万円、当期純損失は351億6,100万円で、当社株主資本は640億8,900万円まで減っていた。2005年3月期に2,882億6,800万円あった純資産の4分の1以下にあたる。液晶では、2006年12月に三洋エプソンイメージングデバイスの株式をセイコーエプソンへ譲渡していた。2010年7月には物流の三洋電機ロジスティクスを手放し、2011年1月には三洋半導体の全株式を米国の半導体会社へ譲渡した。1990年代に電池とともに育てた半導体と液晶は、いずれも完全子会社となる前に社外へ出た。

  • 三洋電機 有価証券報告書 第87期(2011年3月期)【主要な経営指標等の推移】
    • [222]2011年3月期の売上高は1,489,497百万円、当社帰属当期純損失は35,161百万円、当社株主資本は64,089百万円
  • 三洋電機 有価証券報告書 第82期(2006年3月期)【主要な経営指標等の推移】
    • [223]2005年3月期の純資産額は288,268百万円
  • 三洋電機 有価証券報告書 第87期(2011年3月期)【沿革】
    • [224]2006年12月、三洋エプソンイメージングデバイス㈱の株式をセイコーエプソン㈱に譲渡した
    • [225]2010年7月に三洋電機ロジスティクス㈱の全株式を㈱LSホールディングスに、2011年1月に三洋半導体㈱の全株式をセミコンダクター・コンポーネンツ・インダストリーズ・エルエルシーに譲渡した
参考文献[211]-[225]
  • パナソニック・三洋電機 お知らせ「パナソニック株式会社および三洋電機株式会社の資本・業務提携契約締結のお知らせ」(2008年12月19日)
    • [211]2008年12月19日、両社の取締役会の承認に基づき資本・業務提携契約を締結した
    • [212]金融危機に端を発する世界的な景気後退局面に入っているとの認識を示した
    • [213]主要なシナジー効果として、HIT太陽電池の事業拡大と、リチウムイオン二次電池を中心とする二次電池事業、HEV・EV用電池への積極投資を挙げた
    • [214]買付価格は普通株式1株131円、A種・B種優先株式1株1,310円の予定。三社の保有株式は完全希薄化後の議決権の約70.5%に相当した
    • [216]両社は公開買付けの成立後も三洋電機の普通株式の上場を維持する方針を共通認識とした
  • 三洋電機 有価証券報告書 第87期(2011年3月期)【沿革】
    • [215]2009年12月、パナソニック㈱が公開買付けの方法により株式を取得し、当社の親会社となった
    • [224]2006年12月、三洋エプソンイメージングデバイス㈱の株式をセイコーエプソン㈱に譲渡した
    • [225]2010年7月に三洋電機ロジスティクス㈱の全株式を㈱LSホールディングスに、2011年1月に三洋半導体㈱の全株式をセミコンダクター・コンポーネンツ・インダストリーズ・エルエルシーに譲渡した
  • 三洋電機 有価証券報告書 第87期(2011年3月期)【主要な経営指標等の推移】
    • [217]当社帰属当期純損失は2009年3月期93,226百万円、2010年3月期48,789百万円
    • [222]2011年3月期の売上高は1,489,497百万円、当社帰属当期純損失は35,161百万円、当社株主資本は64,089百万円
  • 三洋電機 有価証券報告書 第86期(2010年3月期)【大株主の状況】
    • [218]2010年3月末のパナソニックの所有株式数は3,082,309千株で、発行済株式総数に対する割合は50.05%
  • 三洋電機 有価証券報告書 第87期(2011年3月期)【経営上の重要な契約等】
    • [219]2010年7月29日、両社取締役会が公開買付けとその後の株式交換により2011年4月を目処に完全子会社化を進めることを決議した
    • [220]二度目の公開買付けは2010年8月23日から10月6日まで1株138円で実施され、保有割合は80.77%となった
  • 三洋電機 有価証券報告書 第87期(2011年3月期)【沿革】【経営上の重要な契約等】
    • [221]株式交換比率は三洋電機株式1株に対しパナソニック株式0.115株。2011年3月29日に上場廃止、4月1日に株式交換で完全子会社となった
  • 三洋電機 有価証券報告書 第82期(2006年3月期)【主要な経営指標等の推移】
    • [223]2005年3月期の純資産額は288,268百万円

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歴史年表 1947〜2011年

三洋電機の沿革1947〜2011年における主な出来事を抜粋

時代年月社長・CEO出来事重要度
1947〜1961年後発参入からの製品系列の拡張松下を退いての独立と、北条工場を拠点とする総合家電への出発

1947年2月、GHQ公職追放で松下電器を退いた井植歳男氏が、大阪府守口に三洋電機製作所を個人経営で創業し、松下から譲り受けた兵庫・北条工場で自転車用発電ランプの製造を開始した。国内17社目の後発参入ながら、松下で約29年培った量産・販売ノウハウを移植して3年で国内シェア約7割を占め、1953年に英フーバー方式の噴流式洗濯機を競合の約半額で発売して総合家電メーカーへ転じた。

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★★★
北條工場を新設★
井植歳男三洋電機を設立★
井植歳男ラジオの生産開始(国内初のプラスチックラジオ)★
井植歳男噴流式洗濯機の製造を開始★★
井植歳男大阪証券取引所に株式上場★
井植歳男ストライキが発生・労使関係が悪化★
井植歳男三洋電機を設立★
1962〜1989年輸出依存からの海外生産転換井植歳男国内の地方に生産拠点★
井植歳男カラーテレビへの量産投資★★
井植祐郎三洋丸紅を設立★
井植祐郎創業者の井植歳男氏が逝去・井植家による同族経営を持続★
井植薫円高ドル安で業績悪化★
井植薫三洋電子を設立★
井植薫買収した拠点を足がかりとする、輸出から北米現地生産への切り替え

1976年、三洋電機が米ウォーイック社の経営再建を最大顧客シアーズから打診されたのを機に、サンヨー・マニュファクチャリング・コーポレーション(SMC)を設立してウォーイック社を約31億円で買収し、アーカンソー州でカラーテレビの現地生産を開始した経営判断である。日本の家電企業による本格的な北米現地生産の先駆となった。

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★★★
井植薫フィリップス社の英国テレビ工場を取得★
井植薫東京三洋電機を吸収合併★★
1990〜2001年二次電池への傾斜投資と社内分社制度、半導体・液晶・デジタルカメラへの展開井植薫二次電池に資源を配分する傾斜投資という、次の主力事業への賭け

1990年前後、三洋電機が井植敏社長のもとで、充電して繰り返し使える二次電池(蓄電池)を最有望の成長分野と見定め、全社の設備投資の約2割を電池事業へ集中させる傾斜投資に踏み切った経営判断。主力のニッカド電池に続き次世代のニッケル水素電池でも量産体制を構築し、1992年には電池が全社営業利益の大半を支える大黒柱に育った。

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★★★
井植薫社内分社制度を導入(新規事業の立案)★
井植薫新潟三洋電機で半導体量産★
井植薫鳥取三洋電機で液晶パネル量産★
井植薫デジタルカメラに本格参入★★
2002〜2011年ハイアールとの提携から赤字転落と第三者割当増資、パナソニックによる完全子会社化まで井植薫「箱舟経営」を掲げ、普及品市場を相手に譲り渡す選択

2002年1月、三洋電機が中国最大手のハイアールと資本・業務提携を締結した経営判断である。低価格の家電で消耗戦を続けるのではなく、中国大手と手を組んで部品供給やOEMという"大市場"を取りに行き、自ら普及品市場を譲り渡す賭けであった。

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★★★
井植薫最終赤字に転落★★
井植敏雅転換可能優先株式3,000億円の第三者割当増資と、議決権のほぼ半分の譲り渡し

2006年1月25日に大和証券エスエムビーシープリンシパル・インベストメンツ、ゴールドマン・サックス・グループ、三井住友銀行の3社と株式引受契約を締結し、2月24日の臨時株主総会の承認を経て、3月14日に第1回A種優先株式182,542,200株と第1回B種優先株式246,029,300株を1株700円で発行した。総額3,000億円。 払込のうち半分は資本金へ、半分は資本準備金へ組み入れられ、資本金は1,722億円から3,222億円になった。

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★★★
佐野精一郎携帯電話事業を京セラに譲渡★★
佐野精一郎二度の公開買付けと株式交換を受け入れ、64年の独立を手放す選択

2008年12月19日、両社取締役会の承認に基づきパナソニックとの資本・業務提携契約に調印した。2009年11月5日から12月9日までの公開買付けでA種・B種優先株式の全てが取得され、12月21日にそれが普通株式へ転換された結果、パナソニックの持つ議決権は総株主の議決権の過半数となり、同社が親会社となった。2010年3月末時点の持株比率は50.05%である。 二度目の公開買付けは2010年8月23日から10月6日まで実施され、保有割合は80.77%に達した。2011年3月4日の臨時株主総会が株式交換契約を承認し、3月29日に上場廃止、4月1日に完全子会社となった。

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★★★
出典・参考 44件
出典・参考
  • 三洋電機 有価証券報告書 第82期(2006年3月期)【主要な経営指標等の推移】
  • 三洋電機 有価証券報告書 第82期(2006年3月期)【業績等の概要】
  • 三洋電機 有価証券報告書 第82期(2006年3月期)【役員の状況】
  • 三洋電機 有価証券報告書 第82期(2006年3月期)【発行済株式総数、資本金等の推移】
  • 三洋電機 有価証券報告書 第82期(2006年3月期)【議決権の状況】
  • 三洋電機 有価証券報告書 第83期(2007年3月期)【役員の状況】
  • 三洋電機 有価証券報告書 第86期(2010年3月期)【大株主の状況】
  • 三洋電機 有価証券報告書 第87期(2011年3月期)【沿革】
  • 三洋電機 有価証券報告書 第87期(2011年3月期)【主要な経営指標等の推移】
  • 三洋電機 有価証券報告書 第87期(2011年3月期)【経営上の重要な契約等】
  • 三洋電機 有価証券報告書 第87期(2011年3月期)【沿革】【経営上の重要な契約等】
  • 三洋電機三十年の歩み(三洋電機, 1980)
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
  • 三洋電機 会社年鑑(単体業績)
  • ダイヤモンド(1956年9月4日)
  • 証券アナリストジャーナル 1976年14(3)(井植薫)
  • 日経ビジネス 1977年10月24日号
  • 日経ビジネス 1988年2月29日号
  • 日経ビジネス 1989年10月9日号
  • 日経ビジネス 1992年8月3日・10日号
  • 日経ビジネス 1993年1月4日号
  • 日経ビジネス 1994年2月28日号
  • 日経ビジネス 1995年2月20日号
  • 日経ビジネス 1997年1月27日号
  • 日経ビジネス 1998年7月27日号
  • 日経ビジネス 2001年3月5日号
  • 日経ビジネス 2002年1月21日号
  • 日経ビジネス 2002年10月14日号
  • 日経ビジネス 2004年3月1日号
  • 私の履歴書 経済人7 井植歳男(日本経済新聞社, 1980)
  • 日経産業新聞(1981年1月9日)
  • 証券 1955年(1)(66)
  • 証券 1963年15(7)(170)
  • 三洋電機『Annual Report 1998』「To Our Stockholders」
  • 三洋電機『Annual Report 1999』「To Our Stockholders」
  • 三洋電機『Annual Report 1999』「Multimedia Company」
  • 三洋電機『Annual Report 2000』「Batteries」
  • 三洋電機『Annual Report 2001』「To Our Stockholders」
  • 三洋電機『Annual Report 2001』「Developing Our Battery Business」
  • 三洋電機『Annual Report 2002』「To Our Stockholders」
  • SANYO ANNUAL REPORT 2002「To Our Stockholders」(井植敏会長兼CEO・桑野幸徳社長兼COO、2002年7月)
  • 三洋電機 お知らせ「第三者割当による新株式(優先株式)の発行に関するお知らせ」(2006年1月25日)
  • 三洋電機 お知らせ「会社分割による半導体事業の分社化に関するお知らせ」(2006年3月31日)
  • パナソニック・三洋電機 お知らせ「パナソニック株式会社および三洋電機株式会社の資本・業務提携契約締結のお知らせ」(2008年12月19日)

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