三洋電機の創業者である井植歳男(当時45歳)氏は、パナソニック(松下電器)の創業者である松下幸之助氏の義弟にあたる。戦時中まで、井植歳男氏は松下電器で働くことで、義兄の松下幸之助氏を事業面から支えたが、終戦後に意見対立が発生した。そこで、井植氏は松下幸之助氏を見切り、三洋電機を個人創業することで独立を果たす。
なお、独立にあたって、松下幸之助氏は「自電車向け発電ランプ『ナショナルランプ』の商標利用権」と「松下電器で不要になった工場」について、それぞれを井植氏に託した。このため、完全な喧嘩別れとしての独立ではなく、松下幸之助氏としても三洋電機の独立を応援する「比較的良好な関係性を保った独立」であったと推察される。n
井植歳男氏は三洋電機の立ち上げにあたって、3兄弟の総力を結集してビジネスにあたった。井植歳男氏(1953年当時社長)に加えて、井植拓郎氏(1953年当時専務)、井植薫氏(1953年当時常務)がそれぞれ経営にコミットし「松下電器に追いつくことを念願」(1955/05実業の世界)として事業を遂行した。
個人創業した当初から「三洋電機」という社名を採用した理由は、太平洋・大西洋・インド洋の3つの海洋になぞらえており、将来のグローバル展開を見据えてのことであった。
既に、日本国内における家電販売では松下電器が販売網を形成していたことから、後発参入となる三洋電機は海外輸出に活路を求めた。この事情について、井植歳男氏は「ひとつ海外でもやってみたい。広い海外に立ってものを考えると、日本の老舗と言っても海外のマーケットから言えば、たいして問題じゃないんじゃないか。という考えでスタートした」(出所:1964『海外でに挑む日本企業』)と述べている。
創業直後は自転車ランプの製造に専念し、当時国内に存在した17社の競合メーカーと競争。生産コストを下げる工夫を凝らすことで、コスト競争力によって競合に打ち勝った。この結果、1950年には発電ランプで「国内シェア70%」(生産量・生産額かは不明。出所は1959/05実業の世界)を確保するに至ったという。
また、海外輸出にも積極的であり、創業期から発電ランプをインドネシアと台湾を中心に輸出した(出所:1953/10日本経済新報)。国内市場に加えて海外にも展開することで、発電ランプの大量生産によるスケールメリットを生かしたと思われる。
その後、発電ランプによって得た利益を、電機製品に投資することで、三洋電機は家電メーカーとして頭角をあらわした。1951年にはラジオの製造による家電に進出。その後、洗濯機の製造に国内でいち早く乗り出したが、いずれも発電ランプの利益が設備投資の原資になっている。
すなわち、三洋電機は「発電ランプ」によるシェア確保で止まることなく、家電事業に積極投資した点で、家電メーカーとして発展する素地を得た。
三洋電機は工場の稼働率を高めるためにベルトコンベアーを導入するなど、生産コストの引き下げに注力した。一方で、工場の従業員管理をずさんに行っため、労使関係に深刻な亀裂が生じた。
三洋電機労働組合が記した「おれらはここに立つ」(三洋電機労働組合等著、1960年)を読む限りにおいて、真偽のほどは不明だが、少なくとも労使関係は円満だったとは言い難いことがわかる。
同書によれば、体調不良者に対する出勤の強要、低賃金に批判のページが多く割かれている。加えて、工場長による怒号が工場内に鳴り響き、従業員が萎縮する様子も記載されている。これらの要因が積み重なって、労使関係が悪化したと推察される。
このため、1950年代を通じて三洋電機の経営陣と、三洋電機の工場で働く従業員の対立が深刻化。社員は労働組合を結成して、工場勤務をネグレクトするようになり、結果として工場の生産性が低下する事態に見舞われた。
このため、三洋電機の創業家は、労働組合の行為に対してトラウマを植え付けられる事態に陥った。関西地区で猛威を振るった労働組合の影響力を下げるために、1959年には新しい生産拠点を群馬に新設して影響力を断ち切ることを目論むなど、経営面では設備投資の計画にも影響が出てしまった。
ラジオ受信機及びテレビ受像機に関する特許実施権契約を締結。1953年から住道工場で白黒テレビの製造を開始。ただしブラウン管は内製化できず、テレビの組み立てに特化
滋賀工場にて生産。競合メーカーが手掛けていない「噴流式」の技術を選択。当時主流だった「丸型攪拌式の洗濯機」と比較して、噴流式のメリットとして「生地が痛まないこと」「内部構造が単純であること」「角型で置き場所を有効活用できること」「強い水流で汚れが落ちること」があった。
1954年度の納税において、井植歳男氏は1.1億円(当時換算)の所得を申告し、国内で所得1位となった。収益源は三洋電機の株式上場にあたって、株式の一部を売却したことによる利益であった。創業数年のベンチャー企業の経営者が所得トップなったことで、国内で話題になる
ウェスタンエレクトリック社との技術提携で、ソニーが独占していたトランジスタラジオの市場に参入(※ソニーもWEと技術提携していたが、三洋電機よりも早く技術提携を行っていた)。米国向けのOEMでトランジスタの輸出を拡大
1950年代を通じて三洋電機は洗濯機の販売好調によって売上高を拡大した。
1959年の時点で三洋電機は国内における洗濯機の生産量でシェア1位を確保した(1961年時点でシェア約20%・生産量・生産額かは不明。出所:1961/12野田経済)。販売面では「サンヨー夫人」による広告宣伝への積極投資がシェア確保に貢献
関西における各工場で給与待遇の改善を求めるストライキが発生し、労働組合と経営陣の関係が悪化。そこで、労使関係のリセットを兼ねて、家電メーカーの生産拠点が手薄であった関東に進出すべく、群馬県(旧中島飛行機の工場跡地)に生産子会社を設立した。生産品目はテレビ・トランジスタを計画した
先発のソニーを差し押さえて、1961年に三洋電機はトランジスタラジオの輸出量でトップとなった。ただし、三洋電機はOEMによる北米輸出が主体であった。(つまり、利益率はソニーよりも低かったと推察される)
輸出のトップメーカーは私の方なんですよ(笑)。一番よく売れているのはアメリカです。(略)というのも、日本で売る以上に注意をしているからで、販売網を建設した後、アフターサービスを徹底して行っています。日本人が4人、米国人を20人ほど使って、間髪入れずにサービスする。
井植歳男氏の実家が淡路島であったという縁で、地元に工場を新設。ニッケルカドミウム電池の製造を開始
三種の神器としての家電(白黒テレビ・洗濯機・冷蔵庫)の需要が一巡したことに加えて、1965年の証券不況によって三洋電機の売上成長がストップした。そこで、三洋電機は次の成長商品として「カラーテレビ」に注力する方向を決め、北米輸出に活路を見出した。
三洋電機はカラーテレビの量産工場として岐阜工場を新設。稼働時は月産2万台体制。北米向け輸出の製造拠点として稼働した
カラーテレビの輸出好調により、半期売上高ベースで1965年11月期(半期売上高354億円)から1969年11月期(半期売上高1126億円)にかけて連続増収を達成。
三洋電機をはじめ、松下電器・東芝・ソニー・日立・シャープの各社は、カラーテレビの北米輸出を積極化した。これに対して、米国の政治家は「米国内の雇用を奪う」として反発し、日米のダンピング問題(カラーテレビの貿易摩擦)に発展した。三洋電機はダンピング問題に対処するためカラーテレビの30%減産を決定した
1970年12月のニクソンショックにより円高ドル安が進行。カラーテレビの輸出に頼っていた三洋電機の業績を直撃した。
実は、私は1971年に社長に就任したが、振り返ってみて、この年ほど苦しい思いをしたことはなかった。当時、輸出比率が30%、そのうち54%がアメリカ向けであった。その1971年8月にアメリカは10%の輸入超過金をかけてきた。この時は輸出業者と話し合って、互いに何パーセントか負担しあって切り抜けたが、さらに同年12月、縁の切り上げが実施され、360円が308円になった。単純に計算しても収入は17%減少する。といって、そのまま値上げもできない。こと価格についての競争力は一挙に後退したわけである。そこで私は工場に対して、今後合理化努力はもちろん続けなくてはならないが、とにかく品質性能で勝負しようと指示し、以来、血の滲むような努力を重ねてきた。
前年に買収したテレビ工場を母体に、北米に現地法人を設立。井植敏氏は、当時アンカーソン州の政治家だったクリントン氏(のちの合衆国大統領)と知遇を得た。この関係性により、のちに三洋電機はクリントン氏から「ウォルマート」を顧客として紹介された。
1975年頃に三洋電機は米国の大手小売業のシアーズ向けに、カラーテレビの大量納入を実施した。この取引を契機に、三洋電機は「現地生産・現地販売」という円高ドル安の為替リスクに左右されない企業体質を確保
井植敏氏は創業者である井植歳男氏の長男。井植家は既に三洋電機の株式を数%保有するのみと推察され、株主資本の裏づけなき同族敬意を持続した。なお、井植敏氏は1992年に社長を退任して会長に就任するが、引き続きCEOとして影響力保持。三洋電機の経営が行き詰まる2007年ごろまで経営に関与した
1980年代後半に三洋電機はシアーズからの取引停止を受けて北米工場の閉鎖の危機に陥ったが、なんとかウォルマートとの取引に成功。仲介者はクリントン合衆国大統領であった。以後、ウォルマートの業容拡大とともにカラーテレビの販売を拡大。2002年には北米におけるカラーテレビの台数でシェアNo.1を達成
1990年ごろから三洋電機は二次電池(ソフトエナジー事業本部)に対する設備投資を積極化し、拠点である淡路島の洲本工場への投資を実施した。投資は数年にわたって実施され、累計660億円を投じた。この結果、電池事業は三洋電機の収益源となった。1991年度の電池事業は利益ベースで80〜100億円を確保しており、三洋電機の全社利益の80%を占めていたと言われる
家電に変調した事業構成を見直し、新事業開発のために社内分社制を導入(※実際に分社するわけではなく事業部制の延長)。全社研究プロジェクトを事業部横断で組成する体制をとった。また付加価値が高くてシェアを確保できる「トップステージ商品」に投資を集中する方針を示した
900億円の投資計画を発表して液晶パネルの量産を目指した。だが、国内ではシャープ、海外では韓国メーカーによる液晶パネルの量産競争に巻き込まれ、三洋電機は競争劣位へ
液晶パネルの設備投資競争で劣勢に陥ったため、有機ELへの投資を決定
2000年前後にソニーやパナソニックが巨額赤字を計上する一方、携帯電話・リチウムイオン二次電池・半導体・デジタルカメラ(OEM生産)が好調な三洋電機の健闘に注目が集まった。2002年10月14日号の日経ビジネスは「日本の製造業が目指すべきお手本がここにある」と言及し、三洋電機を「三洋電機の箱舟経営」と題して特集した
業績不振に陥った鳥取三洋電機の液晶パネル工場を、セイコーエプソンとの合弁会社に移行
ハイアール製品を国内で売り、三洋製品を中国でハイアールを通じて売る狙いを表明
半導体事業について、ITバブル崩壊による業績悪化に加えて、新潟県中越地震の発生で半導体工場が被災。特別損失を計上して全社業績で最終赤字に転落
元NHKキャスターの野中ともよ氏が三洋電機の社長に就任(2002年に三洋電機の社外取締役に就任)。謎の社長人事として、金融機関を中心に、経営経験に乏しい野中氏に対する批判が沸き起こった。また、週刊誌の報道によれば、野中氏の夫が経営するコンサルティング会社が三洋電機と契約を締結したとされ、利益相反として問題視された。このため、2007年に野中氏は代表取締役を辞任した
FY2005において特別損失を計上する方針が濃厚となり財務体質が悪化。ゴールドマンサックス、大和証券SMBC、三井住友銀行が三洋電機の増資を引き受け。三洋電機は3000億円を調達し、財務体質の改善を急いだ。なお、優先株を普通株に転換すると、発行済み株式の70%が金融機関3社が握る形になる
2002年ごろから三洋電機の各事業を取り巻く競争環境が悪化した。液晶と太陽電池ではシャープや韓国メーカー、二次電池ではソニーやパナソニック、白物家電では中国メーカー、デジタルカメラでは各社熾烈な競争による価格下落が発生し、三洋電機の主力事業が行き詰まった。いずれも巨額投資が必要なビジネスであり、全方位に経営資源が分散した三洋電機は各事業で競争劣位になった。特に液晶では総額2000億円を投資したが、シャープとの競争に敗北した。また、これらの設備投資を銀行からの借金によって賄った経緯から、財務状況も悪化(FY2004の自己資本比率は11%)した。
FY2005に三洋電機は最終赤字3609億円という巨額赤字を計上した。FY2005に特別損失3039億円を計上したことが主要因であり、特損の主な内訳は「固定資産処分損53億円」「関係会社株式評価損1498億円」「関係会社損失引当金繰入175億円」「構造改革費用825億円」「減損損失421億円(うち半導体事業向け272億円)」であった。
これらの損失計上によって、三洋電機の自己資本比率はFY2005に18.7%に低下。監査法人は三洋電機の経営上のリスクを加味し、有価証券報告書で「継続企業の前提に関する注記」を記載するに至った。
ここにおいて、三洋電機は金融機関の支援なしでは債務超過が避けられない事態に陥り、経営破綻へのカウントダウンが始まった。
継続前提に疑義がついたのは非常に屈辱的
ゴールドマンサックスなどの増資を引き受けた金融機関は三洋電機の経営を問題視。井植敏雅氏を社長から解任。井植一族を経営から追放し、三洋電機の解体に進んだ。後任に佐野精一郎氏が三洋電機の社長に就任。