自転車ランプの創業からパナソニック買収まで
三洋電機の創業は、大きな組織を出た人が、その組織の作り方だけを持って始めた事業であった。井植歳男氏が選んだ自転車用発電ランプは、すでに16社が年間10万個をつくっている市場の商品で、技術の新しさで競争優位を得られるものではない。競争の焦点は、同じものをどれだけ安く、大量に、品質を揃えてつくれるか、そしてそれをどこで誰に売るかに移る。松下電器で29年を過ごした人にとって、その二つはいずれも手の内にあった。後発として欠けていたのは、既存の販路だけだった。だからこの会社は、まず自転車店を代理店に変える作業から始めている。
商品を替えても、作り方は替えなかった。発電ランプで積んだ量産と価格の手法は、そのままプラスチックのラジオへ移り、噴流式洗濯機へ移り、冷蔵庫とトランジスタラジオへ移っていく。1万円を割ったラジオも、大衆価格の洗濯機も、新しい技術の産物ではなく、既にある技術を安く大量に届けるための設計である。上場で得た資金は電気洗濯機の生産設備へ集められ、そこで得た利益が次の商品の設備へ回る。14年で売上高が2億9,700万円から491億円へ伸びた過程は、この反復そのものであった。ただし同じ設計は、自前の技術で市場を開く力を社内に育てない。その代償は20年後に表へ出る。
井植歳男氏は松下幸之助氏の妻の弟にあたり、1917年から松下電器に約29年在籍して専務を務めた。戦後の連合国軍総司令部による財閥解体で公職追放の対象となり、松下電器からの独立を決めた。1947年1月、大阪府守口で三洋電機製作所を個人経営で創業し、松下から譲り受けた兵庫県の北条工場で自転車用発電ランプと携帯ランプの製造に着手した。社名の"三洋"は太平洋・大西洋・印度洋の三つの大洋になぞらえ、海外市場を視野に置いた命名である。『終戦後、今の仕事が将来、有望であることはわかっていましたが、さらに大事なことは陸海軍というものがなくなって、日本の国力を回復充実するには、産業を復興する以外にない』(ダイヤモンド 1956/09/04)——井植氏が挙げた独立の動機である。掲げた経営理念は『情勢の変化に備えて経営の危険を分散し、事業をより安定させる』("企業の歴史 明治百年"経済春秋社, 1968)だった。
国内17社目のランプメーカーとしての後発参入ながら、松下電器で培った量産の手法を移し、1950年に自転車ランプの国内シェア約70%を占めた。同年4月に資本金2000万円で法人化し、1954年4月に大阪証券取引所へ株式を上場、同年12月には東京証券取引所にも上場した。国内では義兄の松下電器との正面競合を避け、輸出に活路を求める方針を早期に打ち出している。1949年から東南アジアへ発電ランプの輸出を始め、その後数年で輸出先は世界各地へ広がった。身内の会社と競わない方針が、逆説的に海外志向を育てる土壌になった。『家庭婦人を家事の重労働から解放するため、電気洗濯機を1台2.5万円程度で売ってあげるような時代の到来』という井植氏の言葉には、松下とは異なる製品哲学の輪郭が現れている。
発電ランプは電気店ではなく自転車店で売れる商品であり、家庭電機の販路をまだ持たない三洋電機製作所は、売り先を一から組み立てる必要があった。井植歳男氏は外出のたびに行き合う自転車の台数と発電ランプの有無、その銘柄を記録し、新製品が出るたびに夕方の淀川堤防へ社員を集め、各社の製品を実際に走らせて性能を比べた。訪ねる代理店は自転車店に評判を聞いて絞り、年間200万個の需要が起こると説いて取扱いを勧めた。価格を保つために府県単位の会合を持ち、代理店主を自宅へ招いて夜おそくまで販売のあり方を話し合った。全国の自転車店は北条工場へ招き、量産の工程をその目で見せた。創業の時点で16社が年間10万個をつくるにすぎなかった発電ランプは、4年後に200万個へ伸び、そのころ三洋は全国需要の過半数を占めていた。
三洋電機が家庭電機の分野へ入る足がかりに選んだのは、木の筐体をやめたラジオであった。三洋電機株式会社は1950年4月に資本金2,000万円で設立され、同じ年の12月に三洋電機製作所から事業の一切を受け継いだ。1952年2月には資本金を6,000万円とし、旧松下飛行機から買い取った住道工場でラジオ受信機を組み立て始めた。そのころラジオには30%の物品税がかかっていたため、大衆は正規メーカーの製品を避け、税の分だけ安いアマチュアの組立品を選んでいた。井植歳男氏は、素人の手製が工場で量産した品より安くつくはずがなく、品質もアフターサービスも欠いた安さは消費者のためにならないと見た。1952年に売り出したラジオは、当時としては画期的なプラスチックキャビネットを備え、価格も1万円を切っていた。その年の暮れには、業界で第二位の座に就いた。
1953年6月、米国のRCA社とのあいだで、ラジオ受信機・無線通信機・テレビジョン受像機に関する全特許権を五年間使用する契約を結んだ。報償料は純売上高に対しAMラジオ受信機が〇・7%、FM無線通信機が一・5%、テレビジョン受像機が二・0%で、期間は両者の合意により延長できる形をとった。同年1月には資本金を1億円へ増やし、8月から住道工場でテレビジョンの製造を始めた。当初の生産は月産150台から200台にとどまり、量産の態勢はその後に整えられていった。売上高は1953年11月期に41億5,000万円となり、二年前の8億9,700万円から約四・六倍になっている。技術を外から買い、設備を先に置き、量はあとから積む——後発として時間を買うこの順序が、この時期の作り方であった。
1953年7月、滋賀工場で電気洗濯機の生産を始めた。日本で最初の噴流式洗濯機であり、使いやすく大衆価格であることを条件に開発された商品であった。1953年は電化元年と呼ばれた年である。家庭生活を合理化しようという当時の風潮を受けて、全国の生産高は1953年の初めから急に伸び、1953年12月から1954年5月までに全国で9万3,803台が作られた。そのうち2万191台、21.5%が三洋の生産だった。1954年6月から8月までの部門別の構成を見ると、最も大きいのは電気機器部門の47.8%で、中でも電気洗濯機は全部門の中で約40%を占めた。家電メーカーとしての地歩を固めたのは、この洗濯機による。自転車用発電ランプで培った量産と値付けのやり方を、そのまま家庭電化の主力品に持ち込んだことになる。
1954年、各部門の設備増強と生産合理化による原価の引き下げのため、資本金を4億円へ増やした。増資額3億円のうち1億円は株式配当によるもので、資本金はさらに4億4,000万円へ積み増された。同年9月18日の取締役会は資本金を7億2,000万円とする増資を決め、1955年1月28日の定時総会に諮ったうえ、払込期日を同年2月1日と定めた。割当は二対一で、残る32万株は縁故割当とされた。資金の使途は、主として電気洗濯機の生産設備の増強と合理化のための設備資金、および運転資金にあてられた。1954年8月末の従業員は2,255人、1955年11月期の売上高は43億7,000万円であった。上場で得た資金の行き先は、売れている一つの商品の量産設備へ集められていた。
1950年代の後半、三洋電機は洗濯機とラジオの二本足から商品の幅を広げ、冷蔵庫とトランジスタラジオを加えた。1958年にはトランジスタラジオの輸出を始め、数年間にわたって輸出実績で第一位を占めている。売上高は1956年11月期の107億円から1959年11月期の312億円、1961年11月期の491億円へ伸び、従業員は同じ期間に3,935人から9,812人へ増えた。当期純利益も1957年11月期の12億8,000万円から1961年11月期の39億3,000万円へ増えている。1960年には貿易部を三洋電機貿易として分離独立させ、輸出の窓口を別会社へ移した。一つの商品の量産で得た利益を次の商品の設備へ回す反復が、総合家電メーカーの輪郭を形づくっていった。
資本金を30億円から50億円に積み増した1959年、三洋電機はかねての懸案だった関東への進出を実行に移した。受け皿は同年7月に群馬県邑楽郡大泉町で設立した東京三洋電機で、関東に総合的な生産拠点を築くことが狙いだった。132万平方メートルを上回る敷地を構えたこの進出は、当時大きな話題を呼んだ。生産品目はまず1959年9月のテレビで、1960年3月に冷凍機応用製品、同じ年の7月にトランジスタが続いた。何をどれだけ作るかは三洋電機の販売計画が決め、売るのも同社の販売網だった。その結果、1962年11月期には三洋電機の総売上高のうち36.4%を東京三洋電機が担うまでになった。製品の幅を広げながら生産と開発を別法人に置くこの役割分担は、27年後、合併によって組み直されることになる。
三洋電機の1960年代からの20数年は、国内で得られなかった規模を海外で取りにいった期間である。カラーテレビの国内普及がまだ3万台規模だった時期に米国向けの大量輸出へ設備を向け、売上高は四年で三倍になった。ただしその伸びは、自ら開いた市場ではなく、米シアーズ・ローバックという一社の注文に支えられていた。貿易摩擦で約三割の減産を迫られ、そのシアーズから経営再建を打診されたとき、断れば販路ごと失う。約31億円を投じたウォーイック社の買収は、戦略として構想されたものではなく、断れないという事情から始まっている。
顧客の求めに応じて形を変えるやり方は、規模を作るあいだは有効に働く。1985年度に四十三カ所の生産拠点と売上高1兆円へ届いたとき、その6割以上は輸出であった。しかし為替が動けば、同じ構造がそのまま損失に変わる。一ドル160円の段階で各社が拠点を組み直しはじめたころ、三洋電機は石油ファンヒーターの死亡事故の処理に追われていた。東京三洋電機との合併は、創業期に関東進出のために切り分けた別法人を27年後に戻す作業でもある。それでも二期続けて営業赤字が残ったのは、直すべきものが組織の重複ではなく、自らの商品で市場を開けないことだったからであった。
家電業界は1964年秋から、戦後ではほぼ初めてといえる国内需要の落ち込みに直面していた。1965年7月、井植歳男社長は東芝の土光社長、日立の駒井社長、三菱の大久保社長、ソニーの井深社長と連れ立って佐藤首相のもとを訪れた。求めたのはカラーテレビ産業を育て振興することと、物品税を軽くすることだった。その前年、カラー受像機の国内向け出荷は十倍に伸びたが、なお三万一千二百七十四台にとどまっていた。井植歳男社長はまた、宮本善史テレビ事業部長を米国に派遣し、テレビ受像機を大量に輸出できないか調べさせた。カラーテレビの輸出は1965年、米シンフォニック社と結んだ契約で始まり、以後は増える一途だった。売上高は1965年11月期の732億円から1969年11月期の2,151億円へ、四年で約三倍になった。国内の普及を待たずに北米の需要へ設備を向けたことが、この時期の伸びを支えた。
1964年11月期に741億円あった売上高は1965年11月期に732億円へ減り、当期純利益は31億7,000万円から22億1,000万円へ落ちた。生産に明るい井植薫専務に売る側の経験も積ませる意味を込めて、1965年1月、同氏を営業本部長に据え、販売事業本部はその営業本部に吸収した。井植薫は全国の販売店を訪ね歩き、家電の流通の仕組みにおかしな動きが出ていると感じ取った。店頭では安売り業者がはびこって価格の体系が崩れ、その影響で販売店の売掛金が膨らみ、それがまたメーカーに跳ね返っていた。収益を守るために導入されたのが商品部制である。扇風機と換気扇、掃除機とジューサーミキサー、発電ランプといった形で商品をまとめ、何を作るかを決める段階から組み立て、完成、出荷後のアフターケアまでをひとつの部に一貫して受け持たせた。収益もその商品グループごとに見る責任の体制だった。
洲本市内で稲が立ち枯れ、兵庫県が調べるとカドミウムが検出された。原因は三洋電機洲本工場の廃液とみられ、1968年9月26日、四段抜きの見出しでこれが報じられた。井植歳男会長はすぐさま洲本に駆けつけて現場を見て回り、県庁と県議会、記者クラブへ自ら足を運び、排水処理をどう改めるかの具体案を示した。人体への影響は認められないというのが県の総合調査班の結論で、同年10月6日に中間発表、11月14日に最終報告が出された。それでも三洋電機は、排水溝一帯の田を工場の敷地として買い取った。翌1969年の夏には、カドニカ電池を使った旧型の充電式ライトとカミソリが充電中に発火する事故が各地で起き、回収と新品交換に追われている。同年7月には創業者の井植歳男が世を去った。1969年8月、社長直属の品質経営本部を後藤清一本部長のもとに置き、製造と出荷の検査を強めた。のちにカラーテレビは日本消費者協会の商品テストで二年続けてA評価を受け、国内のサービス件数は大幅に減っている。
1976年9月、三洋電機は米ウォーイック社を約31億円で買収し、アーカンソー州でカラーテレビの現地生産に入った。きっかけは最大の顧客である米シアーズ・ローバックからの経営再建の打診で、これを断れば北米向けテレビの販路を失う恐れがあった。日本の家電各社が一斉に北米へ殺到した結果、貿易摩擦はダンピング問題へ発展し、三洋電機は米政府当局の介入で約三割の減産を受け入れていた。国内でつくって北米へ運ぶという形は、そのままでは続けられなくなっていた。新会社サンヨー・マニュファクチャリング・コーポレーションはシアーズ向けの相手先ブランド供給を軸に生産を担い、1977年9月14日にはアーカンソー州知事が州の発展への貢献を讃えて井植敏社長を表彰した。技術支援のつもりで始めた関与が資産の買収にまで進んだ、受け身の判断であった。
海外での生産は、現地資本との5割出資による合弁を基本の形とした。井植薫社長は、外国の本当の事情は日本側には分からず現地の人々の協力が要るため、半分は進出先の国の事情を、半分は日本のことを考えるのが5割出資の精神だと説明している。『合弁会社を設立するときはいかにいいパートナーを見いだすかが大切です。私は外国語は読めませんが、物や人をみる目はあります。見ればわかりますよ。結婚と同じです』(日経ビジネス 1977年10月24日号)1977年の時点で海外の合弁会社は香港・台湾・ガーナ・シンガポール・マレーシア・ブラジル・ケニアなど20社を超え、創業者が掲げた世界に百拠点というスローガンを引き継いでいた。1975年11月期のグループの年間生産高は約5,250億円で、うち海外での生産は約800億円、輸出比率は前年の31.6%から38.4%へ上がり、業界平均の約28%を上回った。輸出規制を受けるたびに現地へ拠点を移す反復が、この網を作った。
1975年11月期の規模は、資本金281億円・売上高3,502億円・従業員1万5,000人・株主約9万人であった。1973年と1975年には、外貨建ても含めて約235億円の転換社債を出していた。これに販売代金の回収強化と輸出の拡大が加わり、翌1976年11月期、三洋電機はかねて目指した借金ゼロの経営にたどり着く。手元の現金・預金は前年の二倍を上回り、有価証券まで合わせれば600億円を超える額になった。とはいえ、どの商品もシェアは二位以下で一位を取ったものが一つもなく、株価は松下電器やソニーに大きく差をつけられ、シャープにも及ばなかった。販売を担う役員は33人のうち六人しかおらず、生産を重んじる社風がなお強かった。良い品を安く大量に生産する技術には不足がなかった。弱かったのは、新たな商品を生み出す開発の力である。
1985年度、三洋電機の生産拠点は全世界で43カ所、販売拠点は30カ所に達した。三洋電機と東京三洋電機は輸出向け製品の生産に徹し、販売は切り離して三洋電機貿易に委ねていた。グループのこの商社が両社の製品を全量買い取り、海外の販路を開拓する役目を負った。海外での生産にも早くから踏み出しており、1970年代にはシンガポールや韓国といった原価の低い土地に欧米への輸出拠点となる工場を置き、日本から部品を送り込んで現地で組み立て、そのまま現地で売る形も先行して手がけた。円高が進むなら海外生産の比重を一段と高めて採算を守り、さらに上げる、というのが1981年に井植薫社長が示した方針である。海外生産額は1984年度に5,400億円と国内製造業で首位の規模になり、1985年度には売上高が1兆円に届いて、6割超を輸出が稼いだ。
1985年の暮れ、三洋電機の石油ファンヒーターの欠陥で死者が出た。約6万台の同機種を回収し、原因の究明に時間と労力を費やしている。1986年2月、1971年から社長を務めた井植薫が退き、創業者の長男である井植敏が後を継いだ。井植敏は1956年に同志社大学工学部を出て三洋電機へ入り、1959年に東京三洋電機取締役、1961年に三洋電機取締役となって、常務・専務を経ての就任であった。同じころ、1985年9月のプラザ合意を受けた円高が輸出の採算を直撃していた。一ドル160円となった1986年春の段階で輸出各社は国内と海外の生産拠点の再構築を始めたが、三洋電機は同年の暮れまで組織的な手を打てなかった。事故の処理に費やした一年が、円高への着手を遅らせた。
東京三洋電機と別会社のままでは、国内外の生産拠点の集約にも流通の整理にも手を着けられなかった。欧州では三洋電機が英国で、東京三洋電機が西独で、VTRとテレビの製造と販売をそれぞれ抱え、米国でも両社はフィッシャーとサンヨーの二つのブランドに分かれて製品を供給していた。半導体の研究や設備投資も二重に進んでいた。円高に耐える体制づくりを目的に掲げ、三洋電機は1986年12月に東京三洋電機を吸収合併した。合併一年目の1987年11月期は、売上高が9,090億円と8.4%増える一方、営業損益は55億円の赤字となった。合併直前の1986年度に三洋電機28億円・東京三洋電機24億円あった営業赤字を、そのまま引き継いだ形であった。二期続けて本業で稼げないまま、次の柱を情報機器に求めることになる。
三洋電機は1964年にニッカド電池の量産を始め、二次電池の市場に入っていた。1991年11月期、電池を担うソフトエナジー事業本部の売上高は994億円と前年より21.7%伸び、全社売上の約8%を占めた。三洋電機はこの事業本部に、1991〜1995年度の中期5カ年計画で660億円の設備投資を割り当てた。年100億円強という額は全社の年間設備投資の約2割にあたり、1995年度に売上高を1,500億円へ引き上げる計画だった。同じころ全社はAV機器の不振で、1992年5月の中間決算で営業赤字に落ちた。電池は利益を公表していなかったが、前期の全社営業利益112億円の7〜8割を稼いだと証券アナリストは推定した。本業が崩れる局面で、確実に利益を生む部門へ投資を寄せた判断だったとみられる。
ニッカドの次に製品化したのはニッケル水素電池である。カドミウムを使わず、1回の充電で使える時間はニッカドの約2倍になる。研究開発本部は1977年に水素を扱う素材の研究へ着手し、1988年ごろにはニッカドの技術者を研究部隊に加えた。1992年4月、徳島県松茂町に約90億円を投じた専用工場を動かし、月産300万個と業界首位の供給体制に立った。極板を作る工程が近いため、ニッカドの設備の一部を共用し、生産技術者も新工場へ送った。それでも技術者の配置はニッカド3に対しニッケル水素1で、どちらに寄せるかは決まっていなかった。木本豊専務ソフトエナジー事業本部長は、電池で優位を保つには『あれもこれもではなく、戦略の絞り込みが必要になる』と語った。
1990年代の後半、二次電池の需要は携帯電話とPHS、ノートパソコンへ移った。三洋電機はニッケル水素とリチウムイオンを相次いで製品化し、2000年3月期の時点で両方の世界市場で3割を超える占有率を持った。携帯電話とPHSに使う角形リチウムイオン電池は、国内で首位の占有率を保った。1999年にハイブリッド車向けのニッケル水素電池を開発し、2001年1月には米フォード・モーターの新型SUVへ単独で供給することで合意した。同年4月には東芝グループのニッケル水素電池事業の譲り受けを終え、この電池の世界有数の作り手となった。2001年3月期の電池部門の売上高は3,039億円で、競争による値下がりを抱えながら19.2%伸びた。1990年に始めた傾斜投資が、携帯機器の普及に乗って全社の柱の一つに育ったのだろう。
1992年11月期、三洋電機は単体で166億9,100万円の営業赤字を出し、1993年11月期には赤字が194億1,500万円に広がった。主な原因は採算割れが続いたAV事業であった。1992年12月に社長となった高野泰明は営業畑の出身で、本社スタッフを減らして事業本部へ権限を移す小さな本社を自らの役目とした。同じ月、8つの事業本部に開発から販売までを一貫して受け持たせ、収益と投資の責任も負わせる改革に踏み切った。それまでは生産部門と販売子会社で指揮系統が分かれ、事業本部制が機能していなかった。1993年12月には社内規定を改め、事業本部長が稟議を経ずに投資できる金額を明文化した。社内ではこの体制を分社化と呼び、事業本部長の英文の肩書をプレジデントとした。
1993年9月、吉江洋専務半導体事業本部長は、DRAMの新規開発をやめてフラッシュメモリーへ移る計画を経営会議に報告した。DRAMは月200万個の規模だったが、世代ごとに数百億円の設備が要り、韓国の三星電子も伸びていた。設備投資は各事業本部の減価償却の範囲に抑え、半導体と電池の2本部だけにそれを超える額を認めた。1994年11月期の半導体事業本部の投資額350億円は、全社の減価償却費500億円強と比べて突出していた。1998年3月期も電池と半導体の増強を投資の中心に置き、1997年5月には500億円の普通社債を出した。井植敏会長は『わが社はこれまで、どちらかというと総合主義でやってきた。その総合主義を、いかにして専門主義に変えるかに今日、取り組んでいる。』と改革の狙いを語った。
1994年11月期、三洋電機は連結の純損益と単体の営業損益をともに黒字に戻した。回復を引っ張ったのは電池と半導体で、AVの不振は続き、売上高に占める家電と非家電の比率は半々から4対6へ移った。高野社長の就任後に別法人とした関連会社は15社に上り、事業本部長は数十億円程度まで自ら決裁できるようになった。1998年6月には半導体部門を歩んだ近藤定男が、井植家と血縁も姻戚もない初めての社長に就いた。1999年3月期に259億円の最終赤字を出すと、同年4月1日に事業本部を5つのカンパニーへ再編した。会長と社長は株主に『This new structure is not merely a modification of the former business headquarters but positions each product group as a truly independent company within a larger company.』(訳:旧事業本部の手直しではなく、各製品群を大きな会社の中の独立した会社と位置づける)と説いた。
液晶のうちTFT方式は三洋電機本体が手がけ、子会社の鳥取三洋電機は価格の安いSTN方式に特化した。宅間増治専務は、応答速度や視野角で劣っても価格性能比なら対抗できると判断していた。1994年11月期の鳥取三洋の売上高は1,507億円と前期比26.5%増え、液晶を中心とする電子部品は300億円から605億円へ倍増した。カラーSTNで画面を左右に2分して同時に走査する独自の方式が、この伸びを支えた。1992年12月の社内分社で独立採算を求められて以降、液晶に独自のブランドを掲げ、大型投資も本体の社長を通さず井植敏会長との調整で決めた。本体側は低温ポリシリコンのTFT液晶を開発し、1998年3月期にはこれを積んだデジタルスチルカメラを出した。
1998年6月に社長となった近藤定男は、半導体事業本部長の時代にデジタルカメラ向けの半導体の開発を指揮していた。フィルムのカメラと違い、デジタルカメラは半導体の性能が製品の良しあしを決める。三洋電機は相手先ブランドでの供給が多く、自社の名前は表に出にくかったが、1998年には国内の生産量で首位となった。翌1999年の年次報告では、マルチメディアカンパニーがデジタルカメラの生産で世界首位にあると記している。1993年に研究開発本部長となった桑野幸徳は、研究部門を事業部と一体の体制に改めた。携帯電話・デジタルカメラ・液晶プロジェクターの3本柱はそこから育った。2001年3月期、デジタルカメラと携帯電話・PHSが伸びたAV・情報通信機器部門の売上高は7,928億円と14.1%増えた。
2000年11月、太陽光発電システムの出力不足問題で近藤社長が辞任し、太陽電池の開発者だった桑野幸徳が急きょ後を継いだ。桑野社長は、占有率が1位か2位の製品に力を注ぎ、3位以下は巻き返しの計画が通らなければ撤退させる方針を掲げた。2001年度からの3カ年の中期経営計画チャレンジ21では、自己資本利益率を6.4%から2004年3月期に9.3%へ上げる目標を置いた。会長と社長は株主に『To achieve its goals, we will become increasingly selective and focused in our businesses and our allocation of business resources.』(訳:目標達成に向け、事業と資源配分で選別と集中を強めていく)と記した。次の表示装置には有機ELを選び、1999年2月に米イーストマン・コダックと共同開発で提携した。2001年12月、有機ELディスプレーを量産する合弁会社を同社と設立した。
2001年9月24日、井植敏会長は中国・青島にあるハイアール(海爾集団)の工場を見学した。最新の欧米製設備が動く金型工場で、価格は日本の4分の1、設計にかかる時間は半分と聞き、井植会長は『5 年後には日本の大量生産の製造業はなくなる』と危機感を強めた。翌月に張瑞敏CEOらを守口の本社へ招いて提携を持ちかけ、2002年1月に技術・製造・販売にわたる包括契約を結んだ。中身は、三洋製品を中国でハイアールの販売網に乗せること、合弁の三洋ハイアールでハイアール製品を日本で売ること、冷蔵庫用コンプレッサーと二次電池・液晶などの基幹部品を納めることだった。三洋の家電が生む営業利益は2001年3月期に全体の1%にすぎなかった。利益の薄い国内の普及品市場を差し出し、伸びる顧客への部品供給を取りにいく交換だったとみられる。
2001年4月に始めた中期経営計画「チャレンジ21」は、製品が標準化して世界共通の価格で競う局面への備えとされた。井植敏会長と桑野幸徳社長は2002年7月の株主あての書簡で、その前提を『We realize that, in this age of broadband communications, accelerated technological progress, and weeding out of weaker companies, we need to be the industry leader to survive.』(訳:ブロードバンド通信の時代に技術の進歩が速まり弱い企業がふるい落とされるなか、生き残るには業界の首位に立つ必要があると認識している)と記した。2002年3月期の連結売上高は2兆247億1,900万円に減り、営業利益は50.2%減の531億円、純利益は17億円にとどまった。書簡は同じ期を『While other companies in our industry began to bleed red ink, we managed to post net income.』(訳:同業他社が赤字に沈み始めるなか、当社は純利益を確保した)と総括した。設備投資627億円は電池と半導体、有機ELの研究設備に向けられた。首位を狙う領域を絞ると言いながら、投資先はなお複数の装置産業に分かれていた。
日本でのハイアール製品の販売は2002年5月に始まったが、8月末に扱う量販店は予定の20社に対し9社だった。三洋ハイアールは国内販売の目標を3年後に300億円と置き、ハイアール経由で三洋ブランドとOEMを合わせ中国で1,000億円を売る構想を掲げた。その2003年3月期、三洋電機は616億7,100万円の連結当期純損失を計上した。井植会長は2003年に組織を小さな単位へ割るビジネスユニット制を入れ、リーダーには3年で目標に届かなければ経営職を外れる契約を課した。小刻みなリストラが結果として傷を広げたとの反省も示し、2005年度に連結売上高3兆円という目標を掲げた。赤字の翌年に売上を1.4倍にする目標は、組織の引き締めと拡大を同時に求めるものだった。
2004年3月期に134億円の純利益へ戻した直後、2004年10月の新潟県中越地震で被災した。半導体は新製品の開発が遅れ、受注は震災前の水準へ戻らなかった。当期純損失は2005年3月期に1,715億4,400万円、2006年3月期に2,056億6,100万円となり、二期の合計は3,772億円に及んだ。3兆円を掲げた2005年度の連結売上高は2兆3,970億2,600万円で、目標に6,000億円余り届かなかった。2005年6月、社外取締役だった野中ともよ氏が取締役会長兼CEOに就いた。7月には3カ年の構造改革「SANYO EVOLUTION PROJECT」を始め、11月に2005〜2007年度の中期経営計画をまとめた。この計画に沿って全事業と資産を洗い直し、構造改革費用と減損損失を2006年3月期に計上した。
2006年1月25日、三洋電機は優先株式の第三者割当を発表し、理由として『事業を継続的に運営する基盤を取り戻すため、自己資本の増強および有利子負債の削減等による財務体質の強化が急務であると考えております』と記した。資金の使い道には、成長投資として2006年度に約2,200億円、2007年度に約2,300億円、構造改革の加速に約1,000億円を見込んだ。3月14日、大和証券SMBC、ゴールドマン・サックス、三井住友銀行の3グループに1株700円で優先株式を割り当て、総額3,000億円を払い込みで受けた。議決権を持つA種優先株式の議決権は182万5,422個で、総株主の議決権366万5,858個のほぼ半分にあたった。再建の資金と時間を得る代わりに、経営の決定権の半分近くを金融資本へ預けた構図だった。
増資のお知らせは、集中するコア事業に冷熱・産業機器、二次電池、デジタルカメラ、携帯電話の4つを挙げ、「環境・エナジー先進メーカー」を目指す姿に置いた。半導体は2006年3月31日に分社を決め、7月に三洋半導体として切り出した。独立した資金調達の力を持たせ、増資に応じた3グループの協力も得る狙いだった。切り出した事業の2005年3月期の売上高は1,665億4,200万円で、全社の11.41%を占めた。2007年4月には総務人事の出身の佐野精一郎氏が社長執行役員に就いた。コアに挙げた4事業のうち携帯電話は、2008年4月に京セラへ譲渡した。2年前に柱と呼んだ事業を手放した点に、事業を選ぶ基準が成長性から資金の確保へ移っていたことがうかがえる。
2008年12月19日、三洋電機はパナソニックと資本・業務提携の契約を結んだ。両社は金融危機に始まる世界景気の後退を前に、『既存戦略の加速に留まらず、成長性の更なる強化に向けた抜本的なアクションが今こそ必要との課題認識を共有しております』と連名で説明した。効果の筆頭に挙げたのはHIT太陽電池の事業拡大と、リチウムイオン電池を中心とする二次電池で、ハイブリッド車や電気自動車向けの電池にも投資を積むとした。公開買付けは普通株式1株131円を予定し、優先株式を持つ金融3社の持ち分は完全希薄化後の議決権の約70.5%にあたった。2009年12月、公開買付けによってパナソニックは三洋電機の親会社となった。3年前の増資で金融資本に預けた議決権は、そのまま事業会社への譲渡の束になった。
提携を発表した時点で、両社は公開買付けの後も三洋電機の上場を保つ方針を共通の認識としていた。その後も連結の当期純損失は2009年3月期に932億2,600万円、2010年3月期に487億8,900万円と続いた。2010年3月末のパナソニックの持株比率は50.05%だった。2010年7月29日、両社の取締役会は公開買付けと株式交換で2011年4月をめどに完全子会社とする方針を決めた。二度目の公開買付けは1株138円で、10月6日の終了時に保有割合は80.77%となった。交換比率は三洋電機株1株にパナソニック株0.115株とされ、2011年3月29日に上場を廃止して4月1日に完全子会社となった。赤字が続いた1年半のうちに、少数株主を残す前提は維持できないものになったのだろう。
上場会社として最後の2011年3月期、売上高は1兆4,894億9,700万円、当期純損失は351億6,100万円で、当社株主資本は640億8,900万円まで減っていた。2005年3月期に2,882億6,800万円あった純資産の4分の1以下にあたる。液晶では、2006年12月に三洋エプソンイメージングデバイスの株式をセイコーエプソンへ譲渡していた。2010年7月には物流の三洋電機ロジスティクスを手放し、2011年1月には三洋半導体の全株式を米国の半導体会社へ譲渡した。1990年代に電池とともに育てた半導体と液晶は、いずれも完全子会社となる前に社外へ出た。
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|---|---|---|---|---|
| 1947〜1961年後発参入からの製品系列の拡張 | 松下を退いての独立と、北条工場を拠点とする総合家電への出発 1947年2月、GHQ公職追放で松下電器を退いた井植歳男氏が、大阪府守口に三洋電機製作所を個人経営で創業し、松下から譲り受けた兵庫・北条工場で自転車用発電ランプの製造を開始した。国内17社目の後発参入ながら、松下で約29年培った量産・販売ノウハウを移植して3年で国内シェア約7割を占め、1953年に英フーバー方式の噴流式洗濯機を競合の約半額で発売して総合家電メーカーへ転じた。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 北條工場を新設 | ★ | |||
| 井植歳男 | 三洋電機を設立 | ★ | ||
| 井植歳男 | ラジオの生産開始(国内初のプラスチックラジオ) | ★ | ||
| 井植歳男 | 噴流式洗濯機の製造を開始 | ★★ | ||
| 井植歳男 | 大阪証券取引所に株式上場 | ★ | ||
| 井植歳男 | ストライキが発生・労使関係が悪化 | ★ | ||
| 井植歳男 | 三洋電機を設立 | ★ | ||
| 1962〜1989年輸出依存からの海外生産転換 | 井植歳男 | 国内の地方に生産拠点 | ★ | |
| 井植歳男 | カラーテレビへの量産投資 | ★★ | ||
| 井植祐郎 | 三洋丸紅を設立 | ★ | ||
| 井植祐郎 | 創業者の井植歳男氏が逝去・井植家による同族経営を持続 | ★ | ||
| 井植薫 | 円高ドル安で業績悪化 | ★ | ||
| 井植薫 | 三洋電子を設立 | ★ | ||
| 井植薫 | 買収した拠点を足がかりとする、輸出から北米現地生産への切り替え 1976年、三洋電機が米ウォーイック社の経営再建を最大顧客シアーズから打診されたのを機に、サンヨー・マニュファクチャリング・コーポレーション(SMC)を設立してウォーイック社を約31億円で買収し、アーカンソー州でカラーテレビの現地生産を開始した経営判断である。日本の家電企業による本格的な北米現地生産の先駆となった。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 井植薫 | フィリップス社の英国テレビ工場を取得 | ★ | ||
| 井植薫 | 東京三洋電機を吸収合併 | ★★ | ||
| 1990〜2001年二次電池への傾斜投資と社内分社制度、半導体・液晶・デジタルカメラへの展開 | 井植薫 | 二次電池に資源を配分する傾斜投資という、次の主力事業への賭け 1990年前後、三洋電機が井植敏社長のもとで、充電して繰り返し使える二次電池(蓄電池)を最有望の成長分野と見定め、全社の設備投資の約2割を電池事業へ集中させる傾斜投資に踏み切った経営判断。主力のニッカド電池に続き次世代のニッケル水素電池でも量産体制を構築し、1992年には電池が全社営業利益の大半を支える大黒柱に育った。 詳細を読む | ★★★ | |
| 井植薫 | 社内分社制度を導入(新規事業の立案) | ★ | ||
| 井植薫 | 新潟三洋電機で半導体量産 | ★ | ||
| 井植薫 | 鳥取三洋電機で液晶パネル量産 | ★ | ||
| 井植薫 | デジタルカメラに本格参入 | ★★ | ||
| 2002〜2011年ハイアールとの提携から赤字転落と第三者割当増資、パナソニックによる完全子会社化まで | 井植薫 | 「箱舟経営」を掲げ、普及品市場を相手に譲り渡す選択 2002年1月、三洋電機が中国最大手のハイアールと資本・業務提携を締結した経営判断である。低価格の家電で消耗戦を続けるのではなく、中国大手と手を組んで部品供給やOEMという"大市場"を取りに行き、自ら普及品市場を譲り渡す賭けであった。 詳細を読む | ★★★ | |
| 井植薫 | 最終赤字に転落 | ★★ | ||
| 井植敏雅 | 転換可能優先株式3,000億円の第三者割当増資と、議決権のほぼ半分の譲り渡し 2006年1月25日に大和証券エスエムビーシープリンシパル・インベストメンツ、ゴールドマン・サックス・グループ、三井住友銀行の3社と株式引受契約を締結し、2月24日の臨時株主総会の承認を経て、3月14日に第1回A種優先株式182,542,200株と第1回B種優先株式246,029,300株を1株700円で発行した。総額3,000億円。 払込のうち半分は資本金へ、半分は資本準備金へ組み入れられ、資本金は1,722億円から3,222億円になった。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 井植敏雅 | 財務状況が悪化・疑義注記を記載 | ★★★ | ||
| 佐野精一郎 | 携帯電話事業を京セラに譲渡 | ★★ | ||
| 佐野精一郎 | 二度の公開買付けと株式交換を受け入れ、64年の独立を手放す選択 2008年12月19日、両社取締役会の承認に基づきパナソニックとの資本・業務提携契約に調印した。2009年11月5日から12月9日までの公開買付けでA種・B種優先株式の全てが取得され、12月21日にそれが普通株式へ転換された結果、パナソニックの持つ議決権は総株主の議決権の過半数となり、同社が親会社となった。2010年3月末時点の持株比率は50.05%である。 二度目の公開買付けは2010年8月23日から10月6日まで実施され、保有割合は80.77%に達した。2011年3月4日の臨時株主総会が株式交換契約を承認し、3月29日に上場廃止、4月1日に完全子会社となった。 詳細を読む | ★★★ |
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事実根拠:出所(三洋電機)