井植歳男氏(三洋電機・創業者)と松下幸之助氏(松下電器・創業者)は、親族に当たる。松下幸之助氏(当時24歳)が1917年に起業した際に、幸之助氏の妻の弟である井植歳男氏(当時15歳)も事業を手伝い始めた。
松下電器が順調に業容を拡大するのに合わせて、井植歳男氏は主に松下電器におけるセールス・工場長など幅広い業務を担当。1935年に松下電器が株式会社に組織変更されると同時に、井植歳男氏は同社の専務に就任するなど、松下電器の創業期における重役であった。
井植歳男氏が松下電器から独立を決意した発端は、戦後の財閥解体による。GHQによって大企業の松下電器の事業活動が制限され、松下電器の重役であった井植歳男氏も追放が決定。そこで、井植歳男氏は独立を決断。1947年に大阪府守口において「三洋電機製作所」を創業した。
なお、独立にあたって松下電器と三洋電機に資本関係は存在しなかったが、三洋電機は松下電器の複数の工場および事業を譲り受けた。三洋電機の祖業は「自転車ランプ」であり、兵庫県の北条製作所で生産を開始したが、いずれも松下電器から譲渡された資産であった。
このため、創業時点において、松下電器と三洋電機は資本関係は存在しないものの、戦後の混乱期において一部の資産が三洋電機に継承されており、出自の面では兄弟に相当する。
松下を辞めるとき、ダイナモランプだけもらってやめた。これは松下では製造する考えがなかったので、ナショナルのマークとともに重役会の議決を経て私の方でもらって作り始めたのです。兵庫県の北条工場、これは戦時中、松下の疎開工場で、当時は草ボウボウの荒れ果てた工場だったが、ここへ後藤君(当社の後藤常務のこと)など7人で乗り込んで、ダイナモランプの試作に取り掛かったのが、三洋電機の出発点です。
井植歳男氏は三洋電機の立ち上げにあたって、3兄弟の総力を結集してビジネスにあたった。井植歳男氏(1953年当時社長)に加えて、井植拓郎氏(1953年当時専務)、井植薫氏(1953年当時常務)がそれぞれ経営にコミットし「松下電器に追いつくことを念願」として事業を遂行した。
創業した当初から「三洋電機」という社名を採用した理由は、太平洋・大西洋・インド洋の3つの海洋になぞらえており、将来のグローバル展開を見据えた。すでに、日本国内における家電販売では松下電器が販売網を形成していたことから、後発参入となる三洋電機は海外輸出に活路を求めた。
ひとつ海外でもやってみたい。広い海外に立ってものを考えると、日本の老舗と言っても海外のマーケットから言えば、たいして問題じゃないんじゃないか。という考えでスタートした
創業直後は自転車ランプの製造に専念し、当時国内に存在した17社の競合メーカーと競争。生産コストを下げる工夫を凝らすことで、コスト競争力によって競合に打ち勝った。この結果、1950年には発電ランプで「国内シェア70%」(生産量・生産額かは不明。出所は1959/05実業の世界)を確保するに至ったという。
また、海外輸出にも積極的であり、創業期から発電ランプをインドネシアと台湾を中心に輸出した(出所:1953/10日本経済新報)。国内市場に加えて海外にも展開することで、発電ランプの大量生産によるスケールメリットを生かしたと思われる。
その後、発電ランプによって得た利益を、電機製品に投資することで、三洋電機は家電メーカーとして頭角をあらわした。1951年にはラジオの製造による家電に進出。その後、洗濯機の製造に国内でいち早く乗り出したが、いずれも発電ランプの利益が設備投資の原資になっている。
すなわち、三洋電機は「発電ランプ」によるシェア確保で止まることなく、家電事業に積極投資し、総合家電メーカーを志向した。
結論だけを言えば、ダイナモランプの1500円は、乾電池に換算すれば8000円。ろうそくに換算すると2万円に匹敵する。しかも乾電池よりズッと明るい。明るくて経済的で相当長持ちするものが、どうして売れないわけがあろうというので、製造に取り掛かったのです。
当時日本にはこの発電ランプのメーカーが17社あり、わが社は17番目だったわけだが、17社で年間15万個の生産しかなかった。当時、私は必ず5年以内に年間200万個は国内だけで売れるとにらんでいたが、事実はそれ以上で4年目に250万個、5年目300万個の需要があった。
しかし私の考えは、国内需要が一段落すれば当然、輸出に主力を上げるつもりだったのです。日本で年間200万個の需要があれば、世界でその10倍の2000万個の需要があるおは当然である。
1951年に三洋電機はラジオの生産を開始し、自転車ランプから事業を多角化。ラジオの大量量産に備えて、1950年に住道工場(旧松下飛行機)を新設した。
当時は中小規模のラジオメーカーが市場を席巻していたが、三洋電機は大量生産によるコストダウンを志向。デザイン面では、樹脂メーカーである積水化学と協業し、当時普及しつつあったプラスチックを用いたキャビネットを開発。国内初の「プラスチックラジオ」として52型を発売し、競合メーカーとの差別化を図った。
この結果、ラジオの販売が拡大し、1953年ごろには三洋電機における自転車ランプに次ぐ事業に成長した。
1957年からはウェスタンエレクトリック社との技術提携を締結。それまでソニーが独占していたトランジスタラジオの市場に参入(※ソニーもWEと技術提携していたが、三洋電機よりも早く技術提携を行っていた)し、米国向けのOEMでトランジスタの輸出を拡大した。
自転車用ランプの事業が好調に推移し、1951年にはラジオに参入していたが、次なる製品を開発するために洗濯機への参入を決定。当時の日本では手洗いが一般的であり、井植歳男氏は、主婦の労働時間を短縮できるため、洗濯機へのニーズが強まると判断した。
1952年から三洋電機は洗濯機の開発に着手し、国内および外国製の洗濯機を分解して調査に取り掛かった。1950年12月に新設した滋賀工場(ランプケースの生産に従事)において、洗濯機の開発に着手した。
約1年の開発期間と数千万円の開発費を投下して、1953年1月に洗濯機の試作に成功した。ところが、開発した洗濯機は「丸型の攪拌式」であり、英国フーバー社が開発した「角型の噴流式」の方が日本国内に適していることが判明した。噴流式は渦巻状の水流によって汚れを落とす仕組みであり、角型の洗濯機のため、日本のような狭い居住空間に設置しやすいメリットが存在した。
そこで、井植歳男氏は「丸型攪拌式洗濯機」の開発を中止し、「噴流式洗濯機」の開発に着手することを決定した。日本国内で噴流式洗濯機を競合が手掛けなかった理由は、フーバー社の特許に抵触することを恐れたためだが、三洋電機の技術者は「(公知であり)国内で特許が成立しない」と判断して開発を遂行した。
1953年6月に三洋電機は国内初の噴流式洗濯機を開発し、同年8月から国内で洗濯機の販売を開始した。製品価格は競合製品の約半額に相当する2.8万円に設定し、低価格で販売することで市場への浸透を意図した。
三洋電機はコストダウンをするために、滋賀工場において洗濯機の量産を実施。1953年7月には月産約30台であったが、同年12月には月産約2000台、1954年8月には月産約10,000台の生産体制を構築し、洗濯機の量産体制で家電業界で先陣を切った。
1961年に三洋電機は洗濯機に置いて国内シェア1位を確保。ただし、松下電器などの競合も洗濯機に参入したため、三洋電機のシェアは20%であり、厳しい販売競争に巻き込まれた。
プラスチック製ラジオが好調に滑り出したので、私は電気洗濯機の研究に終日取り組んだ。そして、その成功が、いわゆる家庭電化の口火を切り、サンヨーの声価を決定的なものにした。1953年8月26日、三洋電機は日本で初めて噴流式洗濯機を売り出したが、この年をジャーナリズムは日本の電化紀元元年と読んでいる。(略)
洗濯機といえば丸型の攪拌式が1台5万円から6万円が通り相場だった時に、価格は28,500円という破格の安さだった。品質、性能が抜群で、しかも求めやすい商品が歓迎されるのは当然で、発売後数年で、攪拌式は市場からほとんど姿を消した。今日、日本の電気洗濯機は、大部分が噴流式で生産されている。電気洗濯機では先輩だった各社も、その後、わが社に追随して、噴流式に切り替えたからである。この噴流式洗濯機の登場が、桃太郎の昔から代表的な主婦労働だった選択から女性おwかいほうした。これによって日本人の勤労意識や経済観念は根こそぎひっくり返った。
業績好調により株式上場を達成。1953年11期における半期売上高は24億円。売上構成比率は発電ランプ43%及びラジオ38%。家電事業はまだ発展途上にあった。
三洋電機は工場の稼働率を高めるためにベルトコンベアーを導入するなど、生産コストの引き下げに注力した。一方で、工場の従業員管理をずさんに行っため、労使関係に深刻な亀裂が生じた。三洋電機労働組合は「おれらはここに立つ」(三洋電機労働組合等著、1960年)を出版しており、内容の真偽は不明だが、少なくとも労使関係は円満だったとは言い難い様子が記されている。
同書によれば、体調不良者に対する出勤の強要、低賃金に批判のページが多く割かれている。加えて、工場長による怒号が工場内に鳴り響き、従業員が萎縮する様子も記載。これらの複数の要因が積み重なり、経営陣と生産現場の労使関係が悪化したと推定される。
1950年代を通じて三洋電機の経営陣と、三洋電機の工場で働く従業員の対立が深刻化。1958年に社員は労働組合を結成して、工場勤務をネグレクトするようになり、結果として工場の生産性が低下する事態に見舞われた。販売の機会損失は30億円に及んだという。
この結果、三洋電機の創業家は労働組合への対処に苦労を強いられた。三洋電機の工場が集積する関西地区での生産拡充を諦め、1959年には東京三洋電機を設立して群馬県に東京工場を新設するなど、過激な労働組合の活動を抑制することを目的とし、経営判断にも影響を与えた。
創業者の井植歳男氏は事業拡大を急ぎすぎたことを反省し、1961年に経営方針を発表。一方で、1961年内に工場の長期ロックアウトを実施し、労働組合の内部で足並みが崩れたことで、労組による過激な行動は徐々に収束した。
当社の歩みは決して好ましい姿ではなく、外国のお得意先を招待すると、赤旗で出迎えるなどは序の口で、新しい工場には、はがしきれないほどのビラを張る。上役が職場へ入ってくると洗濯デモをかけてくる。また販売系列化でしのぎを削っている最中に長期のストライキを打つ。こんな状態では会社が社会のため、家庭生活の向上のために尽くすなどとは思いもよらない。私はむしろ会社を解散した方が国や社会に益するのではないかと考えたほどであった。
会社側にも未熟な点があっただろう。また、組合も初めてできたばかりで、若い人たちが多く、一面無理もなかったと思う。しかし、組合ができて2年間に会社が受けた存在は非常に大きかった。金額で見ると争議のために生産できなかったものがざっと30億円、またそれによって出た損害が大体10億円。もちろん、信用にも大きく影響した。こうした無形の損失は計り知れないものがあり、健全な労使関係を作る授業料にしては、ずいぶん高かったと思う。(略)
労働問題に限らず、これまでは事業の規模ばかり大きくして、内部の充実を怠ってきたことを反省した私は、1961年正月、改めて経営方針を発表した。
労働組合との関係を断つとともに、首都圏における生産販売を強化するために、三洋電機とは別法人として「東京三洋電機」を設立。群馬県大泉町に存在した旧中島飛行機小泉製作所の跡地を取得し、敷地面積132万平方メートルに及ぶ大規模生産拠点として東京工場を新設した。
三洋電機とは法人を別で運営した理由は、大阪と群馬における賃金差が問題となり、群馬の方が3割安価なこともあり、三洋電機は全国統一賃金の原則を労働組合との間で合意しており、人件費削減の観点から法人を分ける道を選択した。
米国に現地法人を設立し、トランジスタラジオの輸出を本格化。1958年には米チャネルマスター社と販売契約を締結し、三洋電機はOEMによりトランジスタの供給を開始した。この結果、1961年に三洋電機はトランジスタラジオの輸出量でトップを記録した。
ただし、三洋電機はOEMによる北米輸出が主体であり、先発企業で独自ブランドで進出したSONYと比べて、収益性は低かったと推定される。
輸出のトップメーカーは私の方なんですよ(笑)。一番よく売れているのはアメリカです。(略)というのも、日本で売る以上に注意をしているからで、販売網を建設した後、アフターサービスを徹底して行っています。日本人が4人、米国人を20人ほど使って、間髪入れずにサービスする。
三種の神器としての家電(白黒テレビ・洗濯機・冷蔵庫)の需要が一巡したことに加えて、1965年の証券不況によって三洋電機の売上成長がストップした。そこで、三洋電機は次の成長商品として「カラーテレビ」に注力する方向を決め、北米輸出に活路を見出した。
三洋電機はカラーテレビの輸出好調により、半期売上高ベースで1965年11月期(半期売上高354億円)から1969年11月期(半期売上高1126億円)にかけて連続増収を達成した。
さらなる量産のために、1970年に三洋電機はカラーテレビの量産工場として岐阜工場を新設。稼働時は月産2万台体制。北米向け輸出の製造拠点として稼働した。
ところが、1970年代を通じて三洋電機をはじめ、松下電器・東芝・ソニー・日立・シャープの各社がカラーテレビの北米輸出で競い合ったため貿易摩擦が発生。日米のダンピング問題(カラーテレビの貿易摩擦)に発展し、三洋電機はラーテレビの30%減産を決定した
1970年12月のニクソンショックにより円高ドル安が進行。カラーテレビの輸出に頼っていた三洋電機の業績が低迷
実は、私は1971年に社長に就任したが、振り返ってみて、この年ほど苦しい思いをしたことはなかった。当時、輸出比率が30%、そのうち54%がアメリカ向けであった。その1971年8月にアメリカは10%の輸入超過金をかけてきた。この時は輸出業者と話し合って、互いに何パーセントか負担しあって切り抜けたが、さらに同年12月、縁の切り上げが実施され、360円が308円になった。単純に計算しても収入は17%減少する。といって、そのまま値上げもできない。こと価格についての競争力は一挙に後退したわけである。そこで私は工場に対して、今後合理化努力はもちろん続けなくてはならないが、とにかく品質性能で勝負しようと指示し、以来、血の滲むような努力を重ねてきた。
深刻化するカラーテレビの貿易摩擦に対応するため、1974年ごろから三洋電機(井植薫・社長)は北米におけるテレビの現地生産の検討を開始した。このプロジェクトは創業家出身の井植敏氏(当時専務・のちの三洋電機社長)が現場で交渉などを担当し、当時の三洋電機における最重要プロジェクトとなった。
なお、日本企業によるカラーテレビの現地生産は、1972年にソニーがサンディエゴに組立工場を新設しており、三洋電機は現地生産で後発参入に相当した。
すでに1974年に三洋電機の取引先であった米国の大手小売業のシアーズから、米ワールプール社と米シアーズが合弁で運営するウォーイック社の売却打診があった。米ワールプールは米国の大手家電メーカーであったが、ウォーイック社では生産性が悪化して業績不振(赤字)に陥っていた。
そこで、三洋電機はシアーズとの取引を継続するために、1975年秋からウォーイック社の買収検討を開始。ウォーイック社は小売業のシアーズが主要顧客であり、生産設備とともに、米国におけるシアーズという小売販路を確保できるメリットが存在した。加えて、三洋電機は国内で生産した北米向けのテレビの大部分をシアーズに納入しており、取引関係を維持する上でも、簡単に拒絶できない買収案件であった。
三洋電機としては、当初はウォーイック社に対する技術支援を考えたものの、井植敏氏による交渉の過程で、同社の買収が決まった。1976年4月に三洋電機は、ウォーイック社(ワールプールとシアーズの合弁会社)の買収で基本合意した。
買収の基本合意を受けて、1976年9月に三洋電機は現地法人としてサンヨー・マニュファクチャリング・コーポレーション(SMC)を設立。同社を通じて北米におけるカラーテレビの生産体制を構築する準備に入った。
シアーズ社を通じて当社へ親会社ワールプール社からのウォーイック社の経営肩替わりを打診してきた。ワールプール社は冷蔵庫、洗濯機など「白モノ」ではアメリカでも業界第一のメーカーであるが、当社の最大の得意先であるシアーズ社からの要請であったから、簡単に拒否するわけにもいかなかった。(略)
井植薫社長は、ウォーイック社の経営を引き受けることがプラスかマイナスかを熟慮した末、最初から経営するのではなく、技術援助のような形で協力するのが、この際、もっとも無難ではないかと考え、それをベースにこの話を受けようと決断した。交渉が始まったのは、1975年の秋であったが、井植薫社長はその全権を井植敏専務に任せた(略)
当初の技術援助方式とはかけ離れた内容となったが、ウォーイック社の全部を買い取るのではなく、カラーテレビの製造に最小限必要なものだけを継承する、いわば資産買取方式に落ち着いたのである。
1976年12月に三洋電機は米ウォーイック社の買収を決定。買収後の出資比率は「三洋電機が57%・シアーズが25%」で買収契約が成立した。米ワールプールは撤退したが、シアーズは引き続き合弁会社に関与する形をとった。三洋電機による株式取得価格は1032万ドル(31.7億円)であった。
なお、ウォーイック社は生産技術に課題があり、最盛期に2500名いた社員が、買収前には400名まで減少していた。三洋電機としては、大口顧客であるシアーズとの取引を継続するためにも、ウォーイック社の経営再建を伴う買収を決断した。
SMCがウォーイック社の株式を取得したことを受けて、1977年1月から工場のあるアンカーソン州にて、カラーテレビの現地生産を開始した。
1980年時点で三洋電機はSMCにおいて月産8万台のカラーテレビを量産し、米国のシアーズ向けに提供した。現地生産のTVは主にシアーズブランドとしてOEM供給され、一部は三洋電機の自社ブランドとして販売された。
1970年代を通じて三洋電機の他に、ソニー、東芝、松下電器といった競合もカラーテレビの北米現地生産を開始したが、1980年時点では三洋電機が年間生産台数96万台で日本企業の中でトップに立った。2位の松下電器が年産70〜80万台、ソニーが年産50〜60万台と言われ、三洋電機はシアーズと提携することで販売台数を確保した。
業績面においても、1980年までにSMCは黒字を確保(数値は非開示)し、ウォーイック社の経営再建を達成した。
1980年時点のSMCの従業員数は1,800名であり、米国における雇用拡大にも寄与した。このため、1977年10月にアンカーソン州知事は、SMCを表彰するなど、良好な関係を保った。
なお、アンカーソン州の知事(クリントン氏・のちの合衆国大統領)は、常にSMCの工場操業率を気にしていたと言われている。1980年代にシアーズがSMCから撤退する意向を表明した際は、クリントン氏が新しい取引先ウォルマートを三洋電機に紹介するなど、州政府の関係者がSMCの経営を販売面で全面的に支援した。
| 企業名 | 年産(台) | 現地生産開始年 | 備考 |
| 三洋電機 | 年産96万台 | 1977年1月 | 米ウォーイック社を買収(シアーズ合弁) |
| 松下電器 | 年産70〜80万台 | 1974年5月 | 米クェーザー社を買収 |
| ソニー | 年産50〜60万台 | 1972年8月 | サンディエゴ工場を新設(単独) |
月間8万台のカラーテレビを製造し、シアーズ、サンヨー両ブランドでアメリカ市場に供給している。当社の経営になって、設立時400名(最盛時2500名)に減少していた従業員も、1800名に増加し、州政府から感謝状を受けた。また、それまでの赤字から一転して黒字経営に変わっている。
1990年ごろから三洋電機は二次電池(ソフトエナジー事業本部)に対する設備投資を積極化し、拠点である淡路島の洲本工場への投資を実施した。投資は数年にわたって実施され、累計660億円を投じた。この結果、電池事業は三洋電機の収益源となった。1991年度の電池事業は利益ベースで80〜100億円を確保しており、三洋電機の全社利益の80%を占めていたと言われる
家電に変調した事業構成を見直し、新事業開発のために社内分社制を導入(※実際に分社するわけではなく事業部制の延長)。全社研究プロジェクトを事業部横断で組成する体制をとった。また付加価値が高くてシェアを確保できる「トップステージ商品」に投資を集中する方針を示した
TFT液晶工場を新設。液晶パネルへの集中投資を開始し、2003年までに総額2000億円を投資
普及しつつあったコンパクトデジタルカメラに参入。三洋ブランドとOEMの両輪で展開した結果、2001年に生産シェアで世界1位(40%)を確保
半導体事業について、ITバブル崩壊による業績悪化に加えて、新潟県中越地震の発生で半導体工場が被災。特別損失を計上して全社業績で最終赤字に転落
元NHKキャスターの野中ともよ氏が三洋電機の社長に就任(2002年に三洋電機の社外取締役に就任)。異例の社長人事として注目を浴びたが、不祥事により2007年に野中氏は代表取締役を辞任した。
ゴールドマンサックス、大和証券SMBC、三井住友銀行が三洋電機の増資(第三者割当増資)を引き受けることを決定。三洋電機は3000億円を調達
2002年ごろから三洋電機の各事業を取り巻く競争環境が悪化した。液晶と太陽電池ではシャープや韓国メーカー、二次電池ではソニーやパナソニック、白物家電では中国メーカー、デジタルカメラでは各社熾烈な競争による価格下落が発生し、三洋電機の主力事業が行き詰まった。
いずれも巨額投資が必要なビジネスであり、全方位に経営資源が分散した三洋電機は各事業で競争劣位になった。特に液晶では総額2000億円を投資したが、シャープとの競争に巻き込まれた。また、これらの設備投資を銀行からの借金によって賄った経緯から、財務状況も悪化(FY2004の自己資本比率は11%)した。
FY2005に三洋電機は当期純利益▲2056億円を計上した。FY2005に特別損失3039億円を計上したことが主要因であり、特損の主な内訳は「固定資産処分損53億円」「関係会社株式評価損1498億円」「関係会社損失引当金繰入175億円」「構造改革費用825億円」「減損損失421億円(うち半導体事業向け272億円)」であった。
これらの損失計上によって、三洋電機の自己資本比率は18.7%に低下。監査法人は三洋電機の経営上のリスクを加味し、有価証券報告書で「継続企業の前提に関する注記」を記載するに至った。
継続前提に疑義がついたのは非常に屈辱的
パナソニックが三洋電機を救済する形で完全子会社化。2011年に三洋電機は上場を廃止した。