1959年に京成電鉄(川崎千春・社長)は東京に近い漁村であった千葉県浦安に着目し、漁場を埋め立てることで商業・住居地区の開発とともに、一大レジャーランドの建設を計画。米国で流行していたディズニーランドの誘致を目論んだ。そこで、1960年に京成電鉄(36%)、三井不動産(32%)、朝日土地興業(32%)の3社の出資により会社を設立し、東京へのディズニーランドの誘致・運営を目的とした株式会社オリエンタルランドを設立した。創業当時の主な事業は、浦安地区の漁師の家に赴き、漁業補償の交渉を行うことであった。(注:その後朝日土地が抜け、京成52%、三井不動産48%の出資比率となった)
1960年より、オリエンタルランドの社員で酒豪であった高橋政知が浦安の漁業関係者と漁業補償交渉を実施。連日連夜、大金を使って浦安の漁業関係者と飲み明かし、徐々に関係者を説得したという。この時、高橋は一人一人と説得するのではなく、組織を取りまとめる影の実力者を突き止め、実力者を先立って説得することで、交渉を推し進めた。高橋は酒を飲んでは、すぐにトイレで吐き出すことで少しでも酔わないように陰で工作をし、漁業関係者との飲み比べて一目置かれるようになった。この結果、1964年に漁業補償交渉の契約締結を完了する。
京成電鉄はディズニーランドの誘致のために土地の埋め立てを完了し、ホテルを含めた敷地を確保するために土地の売却(住宅地としての分譲)を最小限に抑えた。だが、この時点でディズニーランドの誘致は確定しておらず、水面下でディズニー社との交渉が続いた
東京へのディズニーランドの誘致計画の旗振り役であった京成電鉄は、千葉県内における不動産投資の失敗により経営危機に陥り、オリエンタルランドの経営は行き詰まる。このため、1977年に三井不動産はオリエンタルランドにディズニーランド誘致の中止を要請し、計画を諦めた。だが、オリエンタルランドの高橋氏(のちのオリエンラルランド社長)は東京へのディズニーランド誘致を強く主張し、計画を続行するために千葉県知事と協力。すでに埋め立てた漁民のメンツを立てるべく、千葉県知事とオリエンタルランドの高橋氏はディズニーの誘致で協力し、反対勢力であった三井不動産の動きを封じるために、独断でディズニー社との交渉を継続する。
米国のディズニー本社との間でディズニーランドの日本誘致に関する契約を締結。ディズニー社は東京都心部の近く(千葉県浦安)に土地を所有する点を評価し、オリエンタルランドとの独占的な契約を決めた。この結果、オリエンタルランドが日本国内のディズニーランドの運営権を独占的に持つ形となった。なお、オリエンタルランドはディズニー社に対して、売り上げの10%をロイヤリティーとして支払う契約を締結した。
東京ディズニーランドの建設には1,000億円が必要であり、資金の手当てが難航した。なお、当時のテーマパークの日本の市場規模は1,000億円と言われており、オリエンタルランドは市場規模と同額を東京ディズニーランドに投資する必要があった。幸いにも、1979年に日本興業銀行がオリエンタルランドへの投融資を決断し、ディズニーの正式な誘致が決定。1980年にオリエンタルランドは東京ディズニーランドの建設に着手した。
1986年のオリエンタルランドの経営黒字化を受けて、次なる大型設備投資を決定。1987年にビッグサンダーマウンテン、1989年にスターツアーズ、1992年にスプラッシュマウンテンなど、大型アトラクションを次々と開業した。
オリエンタルランドは東京ディズニーランドに続く2つ目の施設として、東京ディズニーシーを建設する方針を決めてディズニー社との間に契約を締結した。1998年から工事が開始され、東京ディズニシーの開園を目指して3,350億円を投資した。
第二パークとして東京ディズニーシーを開業した。これにより東京ディズニーリゾートには、東京ディズニーランドと東京ディズニーシーというテーマパークの2本体制がスタートする。
東京ディズニーシーの開業を受けて、東京ディズニーリゾートは年間入場者数2000万名を突破した。