ニッスイ の歴史

創業

1911年

創業者

田村市郎

創業地

山口県下関市

直近売上高(2025/3)

8,861億円

長期業績と転換点(1996/3〜2025/3)
売上高(億円純利益率(%)
Q なぜ沿岸漁業中心の明治末期に国産第一号の鋼製トロール船を持てたのか
A 汽船トロール漁業は補助金と多額の資金を要する新技術で、田村市郎氏は父・久原庄三郎から分与された遺産をその元手にできたためである。明治政府は1897年に遠洋漁業奨励法を公布し、漁船・漁具・乗組員への補助金で沖合遠洋漁業への転換を促した。1908年に長崎の倉場富三郎氏が英国から日本初の鋼製トロール汽船「深江丸」を購入すると、ややおくれて田村市郎氏が国産第一号の鋼製トロール汽船「第一丸」(199総トン)を建造し、1911年5月に下関港を根拠地として田村汽船漁業部を創立した。弟の久原房之助が日立鉱山を興して久原鉱業を創立した一族の資力が、この設備投資を支えた
Q なぜ漁場が半減した1980年代も120億円のトロール船投資を止めなかったのか
A 利益構造が極端に漁労部門へ偏り、縮小する漁場で残された唯一の成長源が新造船による漁労効率の向上に見えたためである。1983年の売上構成は自社漁労16%・商事54%・加工29%でありながら利益のほとんどが漁労部門から生まれていた。200カイリ規制で1978年の漁獲量が1972年当時の50%へ減じた後も、大口駿一社長体制は1980年以降に越前丸など新造トロール船4隻へ計120億円を投じ、漁労重点主義を貫いた。岸本副社長が1工場10億円という陸上投資の効率を認めながらも、漁労に依存する収益体質と組織文化が食品メーカー化の決断を遅らせた
Q なぜ2022年に「日本水産」の社名を捨て養殖へ構造転換したのか
A のれんと為替で業績が振り回される海外ブランド依存の脆さがリーマン・ショックで露わになり、安定して稼ぐ食品と養殖を次の柱へ据え直す必要があったためである。2009年3月期に特別損失164億円を計上して純損失162億円に落ちたのち、2020年就任の浜田晋吾社長は2022年4月に長期ビジョン「Good Foods 2030」と中期経営計画「Good Foods Recipe1」を策定し、同年12月に商号を日本水産からニッスイへ改め、日水製薬を売却して医薬から撤退した。2026年1月にはチリのサーモン養殖会社を1億3300万米ドルで完全子会社化し、「獲る漁業」から「つくる漁業」への転換を数字で形にした

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1911年〜 英国式トロール船と久原の資本で始まり、日産傘下で国内最大の水産会社になるまで

  1. 1911年 田村汽船漁業部として創業
  2. 1919年 共同漁業として化
  3. 1934年 共同漁業が日本産業(日産コンツェルン)に合併
  4. 1937年 社名を日本水産に変更
  5. 1943年 日本海洋漁業統制を設立
  6. 1945年 日本水産に商号変更

国産第一号の鋼製トロール船から始めた資本漁業

明治政府は1897年に遠洋漁業奨励法を公布し[1]、漁船・漁具・乗組員への補助金で沖合遠洋漁業への転換を促した。汽船トロール漁業はその奨励に乗った新技術で、1908年に長崎の倉場富三郎氏が英国から購入した鋼製トロール汽船「深江丸」[2]が好成績をあげると、久原庄三郎の3男に生まれた[4]田村市郎氏が、大阪鉄工所桜島工場[5]で国産第一号の鋼製トロール汽船「第一丸」(199総トン)[6]を建造した。ところが第一丸の瀬戸内海での試験操業は期待した成果に届かず[7]、田村市郎氏は差を設計と漁法の未熟さと判断し、1910年7月、造船監督として国司浩助氏を英国へ派遣[8]した。国司浩助氏がスミス造船所へ発注した188.84総トンの船は1911年3月に竣工[9]し、湊丸と名付けて自ら乗り込み[10]、2カ月余りで回航した。湊丸の到着とともに1911年5月、田村市郎氏は下関に田村汽船漁業部を興し[11]、国司浩助氏を責任者としてトロール漁業の経営に着手[12]した。 [3]

トロール漁業は1912年に船数139隻へ膨らみ[13]、漁獲物の供給が需要を上回って各社の経営が悪化した。窮状に対処する企業合同で、1914年に資本金200万円・トロール漁船25隻の共同漁業が創立[14]された。第一次大戦が始まると各社は持ち船を掃海用や潜水艦の見張り用として欧州諸国へ高く売り、1917年には国内のトロール汽船が7隻を残すだけ[15]となった。共同漁業も船の売却で思いがけない利益をあげて1917年に14割の配当を実施[16]したが、経営規模は縮み、1918年には資本金を30万円へ減資[17]した。田村市郎氏はこの縮んだ共同漁業の株式の大半を手に入れ、1919年、自ら経営してきた日本トロールを吸収合併して資本金500万円の共同漁業とした[18]。翌1920年2月には国司浩助氏の発案で、日本初の民間水産研究機関となる早鞆水産研究会[19]を下関に設け、ディーゼルトロール船の導入と船内急速冷凍装置の開発[20]にあたらせた。

共同漁業は大正から昭和初期にかけて、手繰漁業や冷凍・冷蔵・問屋・陸上運送・製函を営む諸社を吸収合併[21]あるいは傘下に収めて組織を広げた。1929年11月には漁業根拠地を下関から戸畑へ移すと発表[22]し、1930年に移転を完了[23]して、わが国資本漁業の最大手となった[24]。もっとも規模の拡大は収益の拡大に直結せず、利益金は1930年下期の111万円を頂点に1931年下期の82万円へ減り[25]、昭和恐慌下で2割を超えて落ち込んだ。資本金は1926年の574万円から1933年6月に1500万円へ積み増され[26]、株主数も1927年の447名から1354名へ増えた[27]が、利益金は1932年から1934年上期まで86万〜95万円の水準で足踏み[28]した。

日産コンツェルン傘下で進んだ合併と、田村家の経営の終わり

久原鉱業では1926年、田村市郎氏の弟にあたる社長の久原房之助氏が政界へ移るため辞意を表し、鮎川義介氏が後任社長に迎えられた[29]。鮎川義介氏は1928年に久原鉱業を持株会社へ改組して日本産業と改称[31]し、日産コンツェルンへ育てた。共同漁業では1933年に松崎社長が退き、会長に鮎川義介氏、社長に田村啓三氏が就いた[32]。翌1934年、本社を神戸から東京へ移したうえで、共同漁業は日本産業に合併された[33]。日本産業は同年6月に系列水産会社を統べる水産部を設置[34]し、トロール部門を傍系の豊洋漁業へ譲渡させ、豊洋漁業は資本金を1000万円へ増資して7月に社名を共同漁業へ改めた[35]。田村市郎氏が個人で興した会社は、創業から23年で財閥の水産部門となった[36][30]

  • 日本水産50年史(日本水産、1961年)
    • [29]1926年 久原房之助が政界進出のため辞意・鮎川義介が久原鉱業社長へ
    • [31]1928年 久原鉱業を持株会社へ改組し日本産業へ改称
    • [32]1933年 共同漁業の会長に鮎川義介・社長に田村啓三
    • [33]1934年 共同漁業が日本産業へ合併(本社を神戸から東京へ移転)
    • [34]1934年6月 日本産業が水産部を設置し系列水産会社を統制
    • [35]1934年7月 豊洋漁業が資本金1000万円へ増資し社名を共同漁業へ変更
    • [36]1911年の個人創業から23年で財閥傘下の水産部門へ
    • [30]田村市郎と久原房之助は兄弟(久原庄三郎の子)

日本産業は1934年5月、南氷洋捕鯨へ出漁する目的で資本金2000万円の日本捕鯨を設立[37]し、捕鯨母船アンタークチック号を買って図南丸と改めた[38]。南氷洋にはノルウェーと英国が先行して出漁しており[39]、国際的な取り決めが結ばれる前に自国の勢力を広げておく必要があった。日本産業は統制下の水産各社の合同も進め、1936年9月、北洋の母船式蟹漁業をほぼ独占していた日本合同工船と、この日本捕鯨を共同漁業へ合併させた[40]。共同漁業は1937年1月に旧中央水産販売所の事業全部を引き継ぎ[41]、同年3月には製氷・冷凍・冷蔵と缶詰を営む日本食料工業を合併して資本金を9150万円とし、社名を日本水産へ改めた[42]。この結果、トロール漁業は許可70隻のうち61隻を占め[43]、南氷洋捕鯨は図南丸以下3船団、母船式蟹漁業は蟹母船12隻[44]、製氷・冷凍は約300工場を傘下に収め、全国の約6割の勢力[45]となった。1938年9月には母船式フィッシュミール事業の新興水産を合併し、資本金は9300万円となった[46]

1937年の改称で日本水産は、トロール漁業・以西底曳網漁業・母船式蟹漁業・母船式捕鯨業・近海捕鯨業[47]といった資本漁業に加え、製氷・冷凍・冷蔵と水産加工、水産物の販売、それらに関連する投資の4部門[48]を持つ会社となった。1940年の規模は役員27名[49]、陸上勤務者6100名と海上勤務者7100名を合わせた従業員13227名、所有船舶237隻・総トン数14万4千トン[50]で、事業地は内地のほか朝鮮・台湾・中国全土に及んだ[51]。投資会社は1927年の10社から157社へ増え[52]、内訳は漁業関係13社、製氷冷蔵関係59社[53]、販売関係45社、加工関係9社、その他31社だった。株主数は1937年1月の32893名から1938年1月に26064名へ減った[54]

  • 日本水産50年史(日本水産、1961年)
    • [47]4大部門(資本漁業/製氷冷凍冷蔵・水産加工/販売/投資)の総合経営
    • [48]水産物の販売と関連投資を含む4部門構成
    • [49]1940年 役員27名
    • [50]1940年 従業員13227名・船舶237隻・総トン数14万4千トン
    • [51]事業地は内地・朝鮮・台湾・中国全土
    • [52]投資会社 1927年10社→1940年157社
    • [53]投資会社の内訳 漁業13・製氷冷蔵59・販売45・加工9・その他31
    • [54]株主数 1937年1月32893名→1938年1月26064名

水産統制令が切り分けた漁撈会社と、船腹の壊滅

日中戦争による影響は少なく好調を持続していた[55]が、1943年3月、水産統制令にもとづき、日本水産の漁撈部門を中心に日本海洋漁業統制が設立[56]された。製氷・冷凍・冷蔵と販売の部門は帝国水産統制へ移され[57]、こちらは戦後の日本冷蔵、現在のニチレイとなった。日本海洋漁業統制は資本金9426万2000円の純然たる漁撈会社[58]として再出発し、社長には植木憲吉氏が就いた[59]。統制令は、漁って獲る部門と、獲ったものを冷やして売る部門とを別会社へ切り分け、日本水産は前者だけを担う会社として戦時経済に組み込まれた[60]

    • [55]日中戦争下でも業績は好調を持続
    • [57]冷蔵・販売部門は帝国水産統制へ(現ニチレイ)
    • [58]日本海洋漁業統制 資本金9426万2000円の漁撈専業会社
    • [59]日本海洋漁業統制の社長は植木憲吉
    • [60]統制令による漁撈部門と冷蔵・販売部門の分離
  • ニッスイ 有価証券報告書【沿革】
    • [56]1943年3月 水産統制令により日本海洋漁業統制を設立(漁撈部門中心)

太平洋戦争の激化とともに、漁船の徴用と沈没、従業員の召集、資材の不足が重なって生産は落ち込み[61]、遠洋漁業の操業海面が戦場となり内地の空襲が激しくなると生産は激減[62]した。最盛時に257隻・約13万6000トンを保有していた船舶は、終戦時には75隻・約2万トン[63]となった。隻数で7割、船腹量で8割以上を失った[64]勘定になる。漁業許可も漁場の知識も残ったが、それを使う手段である船が消えた状態で、日本水産は終戦を迎えた[65]

1945年12月、水産統制令の廃止とともに商法上の株式会社へ戻り、社名も日本水産へ復した[66]。ただし同じ月に制限会社の指定を受け、翌1946年8月には特別経理会社[67]、1948年2月には過度経済力集中排除法の指定対象[68]となった。マッカーサーラインが漁区を制限し[69]、経営は困難を極めた。戦前に株式を集中保有していた日産系の持株構造は財閥解体で分解され[70]、創業者の田村家も経営には戻らなかった。1949年6月に増井進氏の後を受けて代表取締役となった鈴木九平氏が1950年6月に社長へ就き[71]、創業家でも財閥でもない経営者が会社を率いた。

  • ニッスイ 有価証券報告書【沿革】
    • [66]1945年12月 水産統制令廃止・社名を日本水産へ復帰
    • [67]1945年12月制限会社・1946年8月特別経理会社の指定
    • [68]1948年2月 過度経済力集中排除法の指定
    • [69]マッカーサーラインによる漁区制限
    • [71]1949年6月 増井進の後任として鈴木九平が代表取締役・1950年6月に社長就任
  • 日本水産50年史(日本水産、1961年)
    • [70]財閥解体で日産系の持株構造が分解
    • [55]日中戦争下でも業績は好調を持続
    • [57]冷蔵・販売部門は帝国水産統制へ(現ニチレイ)
    • [58]日本海洋漁業統制 資本金9426万2000円の漁撈専業会社
    • [59]日本海洋漁業統制の社長は植木憲吉
    • [60]統制令による漁撈部門と冷蔵・販売部門の分離
    • [61]戦時の漁船徴用・沈没・召集・資材不足による生産低下
    • [62]遠洋漁場の戦場化と内地空襲による生産激減
    • [63]船舶 最盛時257隻・約13万6000トン→終戦時75隻・約2万トン
    • [64]隻数で約7割・船腹量で約85%を喪失
    • [65]漁業許可は残り船舶を喪失した状態で終戦
    • [67]1945年12月制限会社・1946年8月特別経理会社の指定
    • [68]1948年2月 過度経済力集中排除法の指定
    • [69]マッカーサーラインによる漁区制限
    • [71]1949年6月 増井進の後任として鈴木九平が代表取締役・1950年6月に社長就任
  • ニッスイ 有価証券報告書【沿革】
    • [56]1943年3月 水産統制令により日本海洋漁業統制を設立(漁撈部門中心)
    • [66]1945年12月 水産統制令廃止・社名を日本水産へ復帰
  • 日本水産50年史(日本水産、1961年)
    • [70]財閥解体で日産系の持株構造が分解

1946年〜 戦後の食糧難と北洋・南氷洋の再開が固めた、漁船に資本を集める経営の型

ニッスイの業績推移:単体

売上高(億円)純利益率(%)
  1. 1949年 東京証券取引所に株式を上場
  2. 1952年 戸畑工場にて魚肉ソーセージの本格的生産を開始
  3. 1955年 報國水産を子会社化
  4. 1958年 日産水産研究所が日産研究所に商号変更
  5. 1961年 事業目的に農畜産物の生産・加工・売買を追加
  6. 1961年 八王子総合工場が竣工
  7. 1962年 日産研究所が日水製薬に商号変更

捕鯨から始めた復旧と、増資を重ねて戻した船腹

終戦直後の日本では国民食糧の欠乏を補う蛋白給源の確保が重要視され[72]、1946年8月に南氷洋捕鯨が可能となった[73]。日本水産の復旧もまず捕鯨事業から始まった[74]。1949年3月に資本金を3億5000万円へ増やし、同年12月にはさらに倍額増資して7億円[75]とし、捕鯨事業をはじめとする各種船舶の復旧と施設の復興に充てた。1949年5月には東京証券取引所へ株式を上場[76]した。講和条約の発効とともに各種の制約が次第に緩和され、船舶と各種施設は逐次復旧し[77]、1952年には北洋漁業が再開されて鮭鱒1船団が出漁[78]した。

    • [72]戦後の蛋白給源確保が国策上の重要課題に
    • [73]1946年8月 南氷洋捕鯨の再開
    • [74]戦後復旧は捕鯨事業から着手
    • [75]1949年3月 資本金3億5000万円・同年12月に倍額増資して7億円
    • [77]講和条約発効後に制約が緩和され船舶・施設が逐次復旧
    • [78]1952年 北洋漁業の再開・鮭鱒1船団の出漁
  • ニッスイ 有価証券報告書【沿革】
    • [76]1949年5月 東京証券取引所へ上場

1953年にはアラスカのブリストル湾で母船式蟹漁業が再開[79]され、同年6月には1万トン級冷凍船宮島丸の建造引当として資本金を14億円へ増額[80]した。1952年10月には戸畑工場で魚肉ソーセージの本格生産を開始[81]し、安価な動物性たんぱく源として家庭へ広がる製品を得た。1955年に北洋へ蟹2船団・鮭鱒2船団の出漁が認められると船舶は114隻・約10万トンまで増え[82]、その充当資金として同年2月に資本金を28億円へ増額[83]した。1955年3月期の総売上高は61億7000万円[84]で、南氷洋捕鯨・近海捕鯨・南方鮪漁業・以西トロール底曳網漁業・北洋漁業に加え、大型タンカー4隻による海運[85]と缶詰・製氷・冷凍・冷蔵を営む会社となった。

    • [79]1953年 ブリストル湾の母船式蟹漁業が再開
    • [80]1953年6月 冷凍船宮島丸の建造引当で資本金14億円へ増額
    • [82]1955年 蟹2船団・鮭鱒2船団の出漁許可/船舶114隻・約10万トン
    • [83]1955年2月 資本金28億円へ増額
    • [84]1955年3月期 総売上高61億7000万円
    • [85]大型タンカー4隻による海運と缶詰・製氷・冷凍・冷蔵の兼営
  • ニッスイ 有価証券報告書【沿革】
    • [81]1952年10月 戸畑工場で魚肉ソーセージの本格生産を開始

戦後の水産業は北洋漁業の再開で漁獲高を伸ばし、1952年以降の漁獲高は激増[86]した。人口は戦前の5600万人から8900万人へ増え[87]、一人当たりの魚類消費にはなお潜在需要[88]が残っていた。漁場の制約と事業基地の喪失を受け、大型母船に多くの独航船を従えて漁獲物を母船で処理・製品化する母船式漁業へ移った[89]ことが、この時期の水産経営を特徴づけた。北洋漁場の漁区拡大と船団増加で漁獲高が増え、参加した水産会社の成績は急向上[90]し、北洋漁業の収益が各社の業績を左右[91]した。沿岸資源が枯渇する一方で、遠洋漁業に力を注いで獲れたものの高度利用を図れば水産業には発展の余地が残されており、缶詰輸出も増やせる[92]と見られていた。

  • ダイヤモンド 1956年1月1日号「水産・北陽船団増加で漁獲高はさらに激増」
    • [86]1952年の北洋漁業再開以降 漁獲高が激増
    • [87]人口 戦前5600万人→1956年時点8900万人
    • [88]一人当たり魚類消費に潜在需要が残存
    • [89]漁場制約と基地喪失により母船式漁業へ移行
    • [90]北洋の漁区拡大と船団増加で参加各社の成績が急向上
    • [91]北洋漁業の収益が水産各社の業績を左右
    • [92]沿岸資源の枯渇と遠洋漁業・高度利用による発展余地/缶詰輸出の増加見通し
    • [72]戦後の蛋白給源確保が国策上の重要課題に
    • [73]1946年8月 南氷洋捕鯨の再開
    • [74]戦後復旧は捕鯨事業から着手
    • [75]1949年3月 資本金3億5000万円・同年12月に倍額増資して7億円
    • [77]講和条約発効後に制約が緩和され船舶・施設が逐次復旧
    • [78]1952年 北洋漁業の再開・鮭鱒1船団の出漁
    • [79]1953年 ブリストル湾の母船式蟹漁業が再開
    • [80]1953年6月 冷凍船宮島丸の建造引当で資本金14億円へ増額
    • [82]1955年 蟹2船団・鮭鱒2船団の出漁許可/船舶114隻・約10万トン
    • [83]1955年2月 資本金28億円へ増額
    • [84]1955年3月期 総売上高61億7000万円
    • [85]大型タンカー4隻による海運と缶詰・製氷・冷凍・冷蔵の兼営
  • ニッスイ 有価証券報告書【沿革】
    • [76]1949年5月 東京証券取引所へ上場
    • [81]1952年10月 戸畑工場で魚肉ソーセージの本格生産を開始
  • ダイヤモンド 1956年1月1日号「水産・北陽船団増加で漁獲高はさらに激増」
    • [86]1952年の北洋漁業再開以降 漁獲高が激増
    • [87]人口 戦前5600万人→1956年時点8900万人
    • [88]一人当たり魚類消費に潜在需要が残存
    • [89]漁場制約と基地喪失により母船式漁業へ移行
    • [90]北洋の漁区拡大と船団増加で参加各社の成績が急向上
    • [91]北洋漁業の収益が水産各社の業績を左右
    • [92]沿岸資源の枯渇と遠洋漁業・高度利用による発展余地/缶詰輸出の増加見通し

日ソ交渉の衝撃が生んだ体質改善五カ年計画

1956年4月、ソ連漁業省が北洋のサケ漁業規定を発表[93]し、出漁に許可証を要する内容は事実上の操業禁止[94]として業界に衝撃を与えた。日ソ漁業交渉は同年5月に妥結したが、第二次船団7船団のうち3船団は出漁できず[95]、業界では従来の遠洋漁業のあり方を再検討する時機が来た[96]との意見が強まった。1959年秋には、北洋の鮭鱒が大幅に後退し南氷洋捕鯨も前進が望めない[97]日本水産の株式は好材料なしとされ、水産業そのものが斜陽化[98]したと見られた。同社は1959年度と1960年度に約30億円の設備投資資金を投じて缶詰工場など陸上施設を強化[99]したが、成果が上がるのは2年先と受け取られていた。

  • 読売新聞(1956年4月22日)「ソ連サケ漁業規定を発表」
    • [93]1956年4月 ソ連漁業省が北洋サケ漁業規定を発表
    • [94]許可証制は事実上の操業禁止として業界に衝撃
  • 読売新聞(1956年5月15日)「日ソ漁業交渉妥結の反響」
    • [95]1956年5月 日ソ漁業交渉妥結・第二次7船団のうち3船団が出漁不能
    • [96]業界で遠洋漁業のあり方の再検討論が台頭
  • 読売新聞(1959年9月14日)「投資相談」
    • [97]1959年9月 北洋鮭鱒の後退と南氷洋捕鯨の不振で好材料なしとの評価
    • [99]1959〜1960年度 約30億円を缶詰工場など陸上施設へ投資
  • 読売新聞(1959年10月21日)「問題株の診断・日本水産」
    • [98]1959年10月 水産業は斜陽化との見方

体質改善五カ年計画は、1958年10月に専務だった中井春雄氏が立案[100]した。ナベ底景気のさなか[101]で、1957年から始まった日ソ漁業交渉の結果、わが国の水産業はこのまま消滅するのではないかという空気が業界を支配していた[102]時期にあたる。計画は、漁業に基礎を置いて新漁場を開拓[103]し、食生活の簡素化と高度化に応じて魚類の高度加工と販売の近代化を図り、国策の線に沿って海運へ進出する[104]という三本の柱を立て、事業をこの三つに限って経営を総合的に進めるものだった。実行にあたっては配当を一挙に6分へ下げ[105]、6分の小刻無償増資を断行し、役員の20%減俸も行った[106]

五カ年計画は1959年4月に始まり1964年3月に完了[107]した。この間の設備投資は海上部門へ233億円、陸上部門へ111億円、子会社関係へ63億円[108]の合計407億円に達し、償却は既設備を含めて217億円を実施[109]した。所有船舶は14万総トンから29万総トンへ倍増[110]し、陸上では5万トンの収容能力を持つ冷蔵庫、年産4万トンのハム・ソーセージ工場、年産300万ケースの缶詰工場[111]が全国6ブロックに置かれた。従業員は6000人から1万人へ増え[112]、売上高は1959年度の289億円から1964年度の552億円へ、利益は5億5000万円から18億円へ[113]伸びた。借入金も143億円から341億円へ膨らみ、自己資本比率は22%へ低下[114]した。1961年6月には八王子総合工場が竣工し、陸上加工事業への本格進出[115]を果たした。

    • [107]五カ年計画の期間 1959年4月〜1964年3月
    • [108]設備投資 海上233億円・陸上111億円・子会社63億円の計407億円
    • [109]償却実施額 既設備を含め217億円
    • [110]所有船舶 14万総トン→29万総トン
    • [111]陸上設備 冷蔵庫5万トン・ハムソーセージ年産4万トン・缶詰年産300万ケースを全国6ブロックへ配置
    • [112]従業員 6000人→1万人
    • [113]売上高 1959年度289億円→1964年度552億円/利益5億5000万円→18億円
    • [114]借入金143億円→341億円・自己資本比率22%
  • ニッスイ 有価証券報告書【沿革】
    • [115]1961年6月 八王子総合工場が竣工(陸上加工事業へ本格進出)
  • 読売新聞(1956年4月22日)「ソ連サケ漁業規定を発表」
    • [93]1956年4月 ソ連漁業省が北洋サケ漁業規定を発表
    • [94]許可証制は事実上の操業禁止として業界に衝撃
  • 読売新聞(1956年5月15日)「日ソ漁業交渉妥結の反響」
    • [95]1956年5月 日ソ漁業交渉妥結・第二次7船団のうち3船団が出漁不能
    • [96]業界で遠洋漁業のあり方の再検討論が台頭
  • 読売新聞(1959年9月14日)「投資相談」
    • [97]1959年9月 北洋鮭鱒の後退と南氷洋捕鯨の不振で好材料なしとの評価
    • [99]1959〜1960年度 約30億円を缶詰工場など陸上施設へ投資
  • 読売新聞(1959年10月21日)「問題株の診断・日本水産」
    • [98]1959年10月 水産業は斜陽化との見方
    • [100]1958年10月 専務の中井春雄が体質改善五カ年計画を立案
    • [101]立案時はナベ底景気の不況下
    • [102]日ソ漁業交渉で水産業消滅論が業界を覆う
    • [103]計画の第一の柱は漁業への基礎と新漁場の開拓
    • [104]残る2本の柱は水産加工の近代化と海運進出
    • [105]配当を6分へ引き下げ・役員20%減俸
    • [106]役員報酬20%減俸の実施
    • [107]五カ年計画の期間 1959年4月〜1964年3月
    • [108]設備投資 海上233億円・陸上111億円・子会社63億円の計407億円
    • [109]償却実施額 既設備を含め217億円
    • [110]所有船舶 14万総トン→29万総トン
    • [111]陸上設備 冷蔵庫5万トン・ハムソーセージ年産4万トン・缶詰年産300万ケースを全国6ブロックへ配置
    • [112]従業員 6000人→1万人
    • [113]売上高 1959年度289億円→1964年度552億円/利益5億5000万円→18億円
    • [114]借入金143億円→341億円・自己資本比率22%
  • ニッスイ 有価証券報告書【沿革】
    • [115]1961年6月 八王子総合工場が竣工(陸上加工事業へ本格進出)

深海と海外トロールで伸ばした漁獲と、海へ戻った資本

1965年、証券アナリスト協会の部会に招かれた中井春雄社長は、水産業界の先行きを明るいとはいえないと語った[116]。国際規制は南氷洋の捕鯨枠を1965年度の4500頭から翌年度3000頭前後へ絞り[117]、ブリストル湾の蟹は日米交渉で前年度23万5000箱から18万5000箱へ削られた[118]。逃げ道として挙げたのが深海漁場の開発で、従来水深100m前後だった漁場を500mから1000mまで広げる底曳漁業に11年前から企業として取り組み[119]、アフリカ大西洋沿岸5000哩の漁場も6年前に開発[120]していた。もう一つの柱である海外トロールは、国際規制の対象外という理由で有望視[121]された。

1965年から1968年までの4年間で、同社は設備投資を245億円へ倍増[122]させた。内訳は海上が85%、陸上が15%で、償却は179億円[123]を実施した。1965年に欧州でコスト・インフレーションの現状を見た中井春雄社長が、一刻も早く船を造って生産性を上げなければ[124]日本も同じ道をたどると判断し、設備計画を急旋回させた結果だった。所有船舶は29万2000総トンから39万6000総トンへ増え[125]、関係会社を含む漁獲量は原魚換算で53万トンから79万トンへ伸びた[126]。売上高は1964年度の500億円から1968年度の702億円へ、経常利益は20億円から31億円へ[127]増えた。子会社は42社から37社へ整理され[128]、1964年度に12億円だった純損失は1968年度に14億円の黒字へ[129]転じた。

    • [122]1965〜1968年度 設備投資245億円(前期比倍増)
    • [123]設備投資の内訳 海上85%・陸上15%/償却179億円
    • [124]中井春雄社長が欧州視察後にコスト・インフレを見越して設備計画を急旋回
    • [125]所有船舶 29万2000総トン→39万6000総トン
    • [126]漁獲量 原魚換算53万トン→79万トン
    • [127]売上高 1964年度500億円→1968年度702億円/経常利益20億円→31億円
    • [128]子会社 42社→37社へ整理
    • [129]子会社損益 1964年度純損失12億円→1968年度黒字14億円

陸上へ渡った資本が実を結ばない一因は消費地の側にもあり、鮮凍魚の小売価格は生産者の卸売価格の2倍から3倍[130]で、零細な問屋と小売商が多く介在する流通[131]が高値を生んでいた。1968年度に関係会社を含め80万トンを漁獲し、うち30万トンを冷凍魚のまま平均トン10万円以上で売った[132]が、小売段階では600億から800億円[133]になっていた。同社は政府から2000万円の出資を仰いで日本冷凍食品協会を設立[134]し、電機メーカーと乳業メーカーにも参加を勧めた。それでも量販店が台頭した1960年代後半、中井春雄社長ら経営陣は特約店への影響を考えて既存制度の強化にとどめ、流通機構の変革へ動いたのは1971年[135]だった。

    • [130]鮮凍魚の小売価格は卸売価格の2〜3倍
    • [131]零細な問屋・小売商が多数介在する流通構造
    • [132]1968年度 関係会社含む漁獲80万トン・うち冷凍魚30万トンを平均トン10万円超で販売
    • [133]同じ数量が小売段階では600億〜800億円
    • [134]政府出資2000万円で日本冷凍食品協会を設立・電機/乳業メーカーへ参加を要請
  • 日経産業新聞(1990年10月31日)「200海里の衝撃」
    • [135]量販店台頭下でも特約店制度を維持し流通改革は1971年に着手
    • [116]1965年 中井春雄社長が水産業界の先行きを明るいとはいえないと講演
    • [117]南氷洋捕鯨枠 1965年度4500頭→翌年度3000頭前後の見通し
    • [118]ブリストル湾の蟹 23万5000箱→18万5000箱へ削減
    • [119]水深500〜1000mの深海底曳漁業に11年前から企業化で着手
    • [120]アフリカ大西洋沿岸5000哩の漁場を6年前に開発
    • [121]海外トロールは国際規制の対象外として有望視
    • [122]1965〜1968年度 設備投資245億円(前期比倍増)
    • [123]設備投資の内訳 海上85%・陸上15%/償却179億円
    • [124]中井春雄社長が欧州視察後にコスト・インフレを見越して設備計画を急旋回
    • [125]所有船舶 29万2000総トン→39万6000総トン
    • [126]漁獲量 原魚換算53万トン→79万トン
    • [127]売上高 1964年度500億円→1968年度702億円/経常利益20億円→31億円
    • [128]子会社 42社→37社へ整理
    • [129]子会社損益 1964年度純損失12億円→1968年度黒字14億円
    • [130]鮮凍魚の小売価格は卸売価格の2〜3倍
    • [131]零細な問屋・小売商が多数介在する流通構造
    • [132]1968年度 関係会社含む漁獲80万トン・うち冷凍魚30万トンを平均トン10万円超で販売
    • [133]同じ数量が小売段階では600億〜800億円
    • [134]政府出資2000万円で日本冷凍食品協会を設立・電機/乳業メーカーへ参加を要請
  • 日経産業新聞(1990年10月31日)「200海里の衝撃」
    • [135]量販店台頭下でも特約店制度を維持し流通改革は1971年に着手

1977年〜 200カイリが漁場を半減させてもなお続けた漁労投資と、上場以来初の赤字

ニッスイの業績推移

売上高(億円)純利益率(%)
  1. 1978年 チリ合弁会社EMPRESA DE DESARROLLO PESQUERO DE CHILE S.A.を設立
  2. 1981年 アルゼンチン合弁会社EXPLOTACION PESQUERA DE LA PATAGONIA S.A.を設立
  3. 1982年 事業目的に医薬品の製造・売買を追加
  4. 1982年 EPA(エイコサペンタエン酸)栄養補助食品の販売を開始
  5. 1983年 漁場半減下でも止めなかった約120億円のトロール船集中投資 漁場が半分になっても、なぜ漁船へ資本を注いだのか——脱漁労の潮流に背いた大口駿一社長の資本配分
  6. 1988年 チリのサケ養殖会社SALMONES ANTARTICA S.A.を買収
  7. 1990年 チリにNIPPON SUISAN AMERICA LATINA S.A.を設立

200カイリ元年に街頭へ立った経営者たち

国連海洋法会議の討議で参加国の大勢がほぼ合意に達したのは、領海12カイリとそれに続く188カイリ、合わせて200カイリの経済水域[136]という概念だった。日本は討議の過程であくまで反対の立場を貫いたが、200カイリが大勢を占めた[137]。討議中の考え方をそのまま借用し、会議の決定を待たずに一方的な200カイリ設定を断行して世界のなだれ現象を引き起こした[138]のが米国で、1976年4月、フォード大統領が1976年漁業保存管理法に署名し、発効日を1977年3月1日とした[139]。法案はサケ・マスについて200カイリを越える回遊水域全域に管轄権を及ぼす[140]など、自国権益を強く固めた内容だった。

  • 日本水産の70年(日本水産)
    • [136]国連海洋法会議で領海12カイリ+188カイリの200カイリ経済水域が大勢に
    • [137]日本は反対の立場を維持したが200カイリが大勢を占めた
    • [138]米国が会議決定を待たず一方的に200カイリを設定
    • [139]1976年4月 フォード大統領が1976年漁業保存管理法へ署名(1977年3月1日発効)
    • [140]サケ・マスは200カイリを越える回遊水域全域に管轄権

日本では米国とのカニ・底魚の漁業協定が改定期に当たり[141]、8月からの日米漁業交渉を前に業界は重大な危機感[142]を抱いた。事務レベルと労働組合レベルの話し合い、自民党議員団の訪米、三木武夫首相とフォード大統領の会談が持たれたが好転の兆しはなく[143]、7月末に訪米した水産業界代表への反応も厳しかった[144]。1976年8月16日、小副川十郎社長ら大手水産会社のトップ10人が「みんなで遠洋漁業を守ろう」というタスキをかけ[145]、東京・有楽町の日劇前に並んで道行く人々へ呼びかけた[146]。意見広告を刷り込んだ缶詰が配られ[147]、署名が集められ、10社の代表は農林省を訪れて署名を添えた陳情書を内村良英水産庁長官へ手渡した[148]

  • 日本水産の70年(日本水産)
    • [141]日米のカニ・底魚漁業協定が改定期に到来
    • [142]1976年8月の日米漁業交渉を前に業界が危機感
    • [143]三木武夫首相とフォード大統領の会談も好転せず
    • [144]1976年7月末 水産業界代表の訪米にも厳しい反応
    • [145]1976年8月16日 小副川十郎社長ら大手10社トップが街頭署名運動
    • [146]東京・有楽町の日劇前で通行人へ呼びかけ
    • [147]意見広告を刷り込んだ缶詰を配布
    • [148]内村良英水産庁長官へ署名を添えた陳情書を提出

1970年代は前半に第1次石油ショック、後半に200カイリ時代の開幕による大規模な漁場規制[149]という二つの危機が水産業を襲った。漁撈・加工・海運の三部門を柱として[150]きた日本水産は、燃料費と漁業資材費の高騰、海外漁場からの締め出しと入漁料の負担[151]を両面から受けた。それでもチリ・アルゼンチン・ニュージーランド漁場での合弁事業と共同操業方式の導入[152]、沿岸諸国との折衝で急激な操業低下を避け、1977年度は売上高3796億円・経常利益117億円・当期利益30億円[153]、1978年度は売上高3746億円・経常利益112億円・当期利益28億円[154]の好成績を残した。ただし1978年の漁獲量は1972年当時の50%に減じ[155]、その穴は貿易と国内買付けを広げた商事部門と開発輸入[156]が埋めた。単体の当期純利益は1974年3月期の40億円が最高で、以後1980年代は20億円台にとどまった[157]

  • 日本水産の70年(日本水産)
    • [149]1970年代の二つの危機(第1次石油ショックと200カイリ規制)
    • [150]漁撈・加工・海運の三部門体制
    • [151]海外漁場からの締め出しと入漁料負担
    • [152]チリ・アルゼンチン・ニュージーランドでの合弁事業と共同操業方式の導入
    • [153]1977年度 売上高3796億円・経常利益117億円・当期利益30億円
    • [154]1978年度 売上高3746億円・経常利益112億円・当期利益28億円
    • [155]1978年の漁獲量は1972年比50%
    • [156]漁獲減を商事部門の買付拡大と開発輸入で補填
    • [157]単体当期純利益 1974年3月期40億円が最高・1980年代は20億円台
  • 日本水産の70年(日本水産)
    • [136]国連海洋法会議で領海12カイリ+188カイリの200カイリ経済水域が大勢に
    • [137]日本は反対の立場を維持したが200カイリが大勢を占めた
    • [138]米国が会議決定を待たず一方的に200カイリを設定
    • [139]1976年4月 フォード大統領が1976年漁業保存管理法へ署名(1977年3月1日発効)
    • [140]サケ・マスは200カイリを越える回遊水域全域に管轄権
    • [141]日米のカニ・底魚漁業協定が改定期に到来
    • [142]1976年8月の日米漁業交渉を前に業界が危機感
    • [143]三木武夫首相とフォード大統領の会談も好転せず
    • [144]1976年7月末 水産業界代表の訪米にも厳しい反応
    • [145]1976年8月16日 小副川十郎社長ら大手10社トップが街頭署名運動
    • [146]東京・有楽町の日劇前で通行人へ呼びかけ
    • [147]意見広告を刷り込んだ缶詰を配布
    • [148]内村良英水産庁長官へ署名を添えた陳情書を提出
    • [149]1970年代の二つの危機(第1次石油ショックと200カイリ規制)
    • [150]漁撈・加工・海運の三部門体制
    • [151]海外漁場からの締め出しと入漁料負担
    • [152]チリ・アルゼンチン・ニュージーランドでの合弁事業と共同操業方式の導入
    • [153]1977年度 売上高3796億円・経常利益117億円・当期利益30億円
    • [154]1978年度 売上高3746億円・経常利益112億円・当期利益28億円
    • [155]1978年の漁獲量は1972年比50%
    • [156]漁獲減を商事部門の買付拡大と開発輸入で補填
    • [157]単体当期純利益 1974年3月期40億円が最高・1980年代は20億円台

越前丸に投じた120億円と、1.39%という自己評価

1980年6月、大口駿一氏が社長へ就いた[158]。東京大学法学部を卒業して農林省へ入り、水産庁生産部長・蚕糸局長・食糧庁長官を経て1968年6月に農林事務次官[159]、1969年11月に退官した官僚で、1970年8月に中井春雄社長の招きで日本水産顧問となり[160]、1971年11月常務、1973年5月専務、1975年1月副社長[161]を経ての昇格だった。日ソ漁業委員会の政府代表を務めた[162]国際派で、社長就任の時点でも北西大西洋漁業協力機構の政府代表[163]を兼ねていた。前任の小副川十郎氏は相談役へ退いた[164]。日本水産へ移って早々に全国の事業所を巡った際、従業員から同社の印象を問われ、こんな官僚的な会社はないと言い切った[165]逸話が残る。

  • 日経ビジネス 1980年8月25日号「新社長登場 大口駿一氏(日本水産)」
    • [158]1980年6月 大口駿一が社長へ就任
    • [159]農林省で水産庁生産部長・蚕糸局長・食糧庁長官を歴任し1968年6月に農林事務次官
    • [160]1970年8月 中井春雄社長の招きで日本水産顧問に就任
    • [161]1971年11月常務・1973年5月専務・1975年1月副社長
    • [162]日ソ漁業委員会の政府代表を歴任
    • [163]就任時点で北西大西洋漁業協力機構の政府代表を兼務
    • [164]前社長の小副川十郎は相談役へ
    • [165]大口駿一 入社直後に日本水産を官僚的と評した逸話

大口駿一社長のもとで、日本水産は漁場を半分失いながら漁労への集中投資を止めなかった[166]。1983年9月22日、瀬戸内海に浮かぶ広島県因島の内海造船田熊工場で、大型トロール船「越前丸」(2800総トン)が進水[167]した。総工費約30億円を投じた省エネ型の新造船[168]で、1980年以降の新鋭トロール船建造は越前丸を含めて4隻、約120億円の大型投資をトロール船だけに集中[169]させた。岸本純一副社長は「陸上施設なら1工場に10億円もかければ最新の加工設備が持てる[170]」と述べ、漁労への重点投資ぶりを自ら示した。同じころ同業他社は脱漁労と総合食品メーカー化を打ち出しており、ニチロ・極洋・宝幸水産・ホウスイはトロール漁業からの撤退を決めていた[171]

  • 日経ビジネス 1983年10月31日号
    • [166]漁場半減下でも漁労への集中投資を継続
    • [167]1983年9月 広島県因島の内海造船田熊工場で「越前丸」(2800総トン)が進水
    • [168]越前丸の総工費 約30億円(省エネ型)
    • [169]1980年以降の新造トロール船4隻・投資額約120億円
    • [170]岸本純一副社長「陸上施設なら1工場に10億円もかければ最新の加工設備が持てる」
  • 日経ビジネス 1991年8月19日号「脱漁労、待ったなし」
    • [171]同業他社の脱漁労・総合食品メーカー化とトロール漁業撤退

投資が漁労へ向かった理由は利益の出どころにあり、1983年時点の売上構成は自社漁労が16%、商事部門が54%、加工品部門が29%[172]で、水産会社としての売上高は775億円、水産商社として2616億円、食品メーカーとして1404億円[173]という複合体だった。ところが利益はほとんどを漁労部門に依存[174]し、加工部門は1982年度にようやく宣伝費や事務経費を負担したうえで黒字へ転換[175]したばかり、商事部門の売上高利益率は1%にも届かなかった[176]。大口駿一社長は「水産業界という小さな土でこそ、そこそこの業績とみてもらえても、食品という広いグラウンドに身を置けば、売上高経常利益率で1.39%では低収益会社[177]」と言い切った。

  • 日経ビジネス 1983年10月31日号
    • [172]1983年の売上構成 自社漁労16%・商事54%・加工29%
    • [173]水産775億円・水産商社2616億円・食品メーカー1404億円の複合体
    • [174]利益はほとんどが漁労部門由来
    • [175]加工部門は1982年度に宣伝費・事務経費を負担したうえで黒字転換
    • [176]商事部門の売上高利益率は1%未満
    • [177]大口駿一社長 売上高経常利益率1.39%を低収益会社と自己評価
  • 日経ビジネス 1980年8月25日号「新社長登場 大口駿一氏(日本水産)」
    • [158]1980年6月 大口駿一が社長へ就任
    • [159]農林省で水産庁生産部長・蚕糸局長・食糧庁長官を歴任し1968年6月に農林事務次官
    • [160]1970年8月 中井春雄社長の招きで日本水産顧問に就任
    • [161]1971年11月常務・1973年5月専務・1975年1月副社長
    • [162]日ソ漁業委員会の政府代表を歴任
    • [163]就任時点で北西大西洋漁業協力機構の政府代表を兼務
    • [164]前社長の小副川十郎は相談役へ
    • [165]大口駿一 入社直後に日本水産を官僚的と評した逸話
  • 日経ビジネス 1983年10月31日号
    • [166]漁場半減下でも漁労への集中投資を継続
    • [167]1983年9月 広島県因島の内海造船田熊工場で「越前丸」(2800総トン)が進水
    • [168]越前丸の総工費 約30億円(省エネ型)
    • [169]1980年以降の新造トロール船4隻・投資額約120億円
    • [170]岸本純一副社長「陸上施設なら1工場に10億円もかければ最新の加工設備が持てる」
    • [172]1983年の売上構成 自社漁労16%・商事54%・加工29%
    • [173]水産775億円・水産商社2616億円・食品メーカー1404億円の複合体
    • [174]利益はほとんどが漁労部門由来
    • [175]加工部門は1982年度に宣伝費・事務経費を負担したうえで黒字転換
    • [176]商事部門の売上高利益率は1%未満
    • [177]大口駿一社長 売上高経常利益率1.39%を低収益会社と自己評価
  • 日経ビジネス 1991年8月19日号「脱漁労、待ったなし」
    • [171]同業他社の脱漁労・総合食品メーカー化とトロール漁業撤退

撤退の連続と、上場以来初の経常赤字が強いた減船

陸上の加工部門では撤退が続き、1959年から10年余りをかけて市場確保に取り組みながら敗退したマヨネーズ[178]、1965年から8年で撤退した即席ラーメン[179]、1962年に始めて1971年まで売ったチーズ[180]、1975年から1977年で早々に引いたレトルト食品[181]と、参入した領域はいずれも残らなかった。冷凍食品、ちくわやカニ風味などの水産練り製品、魚肉ソーセージでは業界のトップグループ[182]にあり販売量では健闘したが、競争が激しく利益率は低く抑えられたまま[183]だった。1982年11月には、いわしやさばの魚油に含まれる不飽和脂肪酸EPAの栄養補助食品を発売[184]し、医薬品では持田製薬と提携して臨床試験に入り[185]、ムラサキウニの糖たんぱくを活用した抗ガン剤の研究をサントリーと共同で[186]進めた。

  • 日経ビジネス 1983年10月31日号
    • [178]1959年から10年余で敗退したマヨネーズ事業
    • [179]1965年参入・8年で撤退した即席ラーメン
    • [180]1962年開始・1971年まで販売したチーズ
    • [181]1975年から1977年で撤退したレトルト食品
    • [182]冷凍食品・水産練り製品・魚肉ソーセージは業界トップグループ
    • [183]販売量は健闘も競争激化で利益率は低位
    • [185]持田製薬と提携し医薬品の臨床試験に着手
    • [186]サントリーと共同でムラサキウニ糖たんぱく由来の抗ガン剤を研究
  • ニッスイ 有価証券報告書【沿革】
    • [184]1982年11月 EPA栄養補助食品の販売を開始

1988年、同社は「近未来構想」を発表し、1995年をメドに水産と加工食品へ総合物流・サービス・ファインケミカルを加えた5事業[187]を経営の柱とするリストラの目標を掲げた。同年12月にはチリのサケ養殖会社SALMONES ANTARTICAを買収[188]し、天然魚だけに依存しない道も開いた。ところが国井康夫常務は「予想以上に早く漁場から締め出されてしまった[189]」と述べ、新規事業へ資金を投入する余裕がなくなり[190]、リストラの速度を落としたと認めた。10年以上前から脱漁労を掲げながら、魚で食べてこられた現実が危機感を鈍らせて[191]いた。

  • 日経ビジネス 1991年8月19日号「脱漁労、待ったなし」
    • [187]1988年 近未来構想(1995年メドに水産・加工食品・総合物流・サービス・ファインケミカルの5事業)
    • [189]国井康夫常務「予想以上に早く漁場から締め出されてしまった」
    • [190]新規事業への投資余力を失いリストラが減速
    • [191]10年以上前から脱漁労を掲げながら危機感が鈍化
  • ニッスイ 有価証券報告書【沿革】
    • [188]1988年12月 チリのサケ養殖会社SALMONES ANTARTICAを買収

1990年10月、米沢邦男副社長は「外国の200カイリ水域内で、日の丸の国旗の下で操業する遠洋漁業は、ほとんど壊滅してしまった[192]といえます」と語り、1975年に374万トンあった漁獲は買い付けを含めても数十万トン[193]に届くかどうかだと述べた。同社は1990年3月期に上場以来初の経常赤字2億6000万円[194]を計上し、1991年3月期も14億円の経常赤字[195]を出した。5000トン級トロール船の係船料が月5000万円にのぼる[196]なか、トロール船を14隻から8隻へ減らす減船[197]を決めた。ニチロ・極洋・宝幸水産・ホウスイがすでにトロール漁業からの撤退を決めて[198]おり、同社の減船はそれに続いた。単体の決算は1995年3月期に11億円、1996年3月期に43億円、1999年3月期に27億円の当期純損失[199]を出した。

  • 日経産業新聞(1990年10月31日)「200海里の衝撃」
    • [192]1990年10月 米沢邦男副社長が遠洋漁業の壊滅を明言
    • [193]遠洋漁業の漁獲 1975年374万トン→買付含め数十万トン
  • 日経ビジネス 1991年8月19日号「脱漁労、待ったなし」
    • [194]1990年3月期 上場以来初の経常赤字2億6000万円
    • [195]1991年3月期 経常赤字14億円
    • [196]5000トン級トロール船の係船料は月5000万円
    • [197]トロール船を14隻から8隻へ減船
    • [198]ニチロ・極洋・宝幸水産・ホウスイが先行してトロール漁業から撤退
  • ニッスイ 財務データ(単体長期業績)
    • [199]単体当期純損失 1995年3月期11億円・1996年3月期43億円・1999年3月期27億円
  • 日経ビジネス 1983年10月31日号
    • [178]1959年から10年余で敗退したマヨネーズ事業
    • [179]1965年参入・8年で撤退した即席ラーメン
    • [180]1962年開始・1971年まで販売したチーズ
    • [181]1975年から1977年で撤退したレトルト食品
    • [182]冷凍食品・水産練り製品・魚肉ソーセージは業界トップグループ
    • [183]販売量は健闘も競争激化で利益率は低位
    • [185]持田製薬と提携し医薬品の臨床試験に着手
    • [186]サントリーと共同でムラサキウニ糖たんぱく由来の抗ガン剤を研究
  • ニッスイ 有価証券報告書【沿革】
    • [184]1982年11月 EPA栄養補助食品の販売を開始
    • [188]1988年12月 チリのサケ養殖会社SALMONES ANTARTICAを買収
  • 日経ビジネス 1991年8月19日号「脱漁労、待ったなし」
    • [187]1988年 近未来構想(1995年メドに水産・加工食品・総合物流・サービス・ファインケミカルの5事業)
    • [189]国井康夫常務「予想以上に早く漁場から締め出されてしまった」
    • [190]新規事業への投資余力を失いリストラが減速
    • [191]10年以上前から脱漁労を掲げながら危機感が鈍化
    • [194]1990年3月期 上場以来初の経常赤字2億6000万円
    • [195]1991年3月期 経常赤字14億円
    • [196]5000トン級トロール船の係船料は月5000万円
    • [197]トロール船を14隻から8隻へ減船
    • [198]ニチロ・極洋・宝幸水産・ホウスイが先行してトロール漁業から撤退
  • 日経産業新聞(1990年10月31日)「200海里の衝撃」
    • [192]1990年10月 米沢邦男副社長が遠洋漁業の壊滅を明言
    • [193]遠洋漁業の漁獲 1975年374万トン→買付含め数十万トン
  • ニッスイ 財務データ(単体長期業績)
    • [199]単体当期純損失 1995年3月期11億円・1996年3月期43億円・1999年3月期27億円

2001年〜 北米ブランドの取得からのれんの重みを経て、社名から水産を外すまで

ニッスイの業績推移:連結

売上高(億円)純利益率(%)
  1. 2001年 ニュージーランドSEALORD GROUP LTD.へ資本参加
  2. 2001年 1億7500万ドルで米国首位ブランドを買った前例なき北米進出 輸出企業のままでよいか——垣添直也社長はなぜユニリーバから米国首位ブランドを一括取得したのか
  3. 2004年 黒瀬水産を子会社化
  4. 2005年 北米業務用水産冷凍食品会社KING&PRINCE SEAFOOD CORP.を買収
  5. 2009年 連結純損失を計上
  6. 2022年 日水製薬の全株式を売却
  7. 2022年 「日本水産」を捨てた業態転換 — 水産卒業・食品と養殖の双翼へ 創業以来の社名を下ろし、漁労依存の会社をどこへ組み替えようとしたか

1億7500万ドルで買った米国首位ブランドと連続買収

2001年8月17日、日本水産の米国子会社NIPPON SUISAN(U.S.A.)はユニリーバと売却契約を結び[200]、米国独占禁止法の審査通過を発効条件[201]として北米の家庭用水産冷凍食品事業を取得することで合意した。対価は1億7500万米ドルの現金で、買収は2001年10月に完了[202]した。取得したのは米国で家庭用冷凍水産首位のGorton'sとカナダ2位のBlueWater Seafoods[203]のブランド、マサチューセッツ州グロスターの本社、グロスター・クリーブランド・モントリオールの製造3拠点、従業員約750名[204]で、2000年実績は売上約2億5000万米ドル・EBITDA約2000万米ドル[205]だった。売主のユニリーバは、北米以外でこれらのブランドを成長させる余地は限定的[206]だとして手放した。

    • [200]2001年8月17日 NIPPON SUISAN(U.S.A.)がユニリーバと売却契約を締結
    • [201]米国独占禁止法の審査通過を発効条件とした契約
  • Unilever N.V. Form 20-F(2001年度・米国SEC提出)
    • [202]買収対価 1億7500万米ドル(2001年10月クロージング)
  • 開示資料(ゴートンズ買収)
    • [203]取得ブランドは米国首位Gorton'sとカナダ2位BlueWater Seafoods
    • [204]本社グロスター・製造3拠点・従業員約750名を承継
    • [205]2000年実績 売上約2億5000万米ドル・EBITDA約2000万米ドル
    • [206]売主ユニリーバの売却理由は北米以外での成長余地の限定

これ以前の海外展開は、1974年3月の合弁NIPPON SUISAN(U.S.A.)設立[207]や1988年のチリのサケ養殖会社買収[208]に見られるとおり、漁場アクセスの確保と水産物の輸出が柱[209]で、消費者に選ばれる現地ブランドを持たなかった。1983年に大口駿一社長が味の素のようなブランド力を身につけると号令[210]した総合食品メーカーへの脱皮は、20年近く積み残されていた。ゴートンズの取得で、同社は北米の家庭用市場で首位のブランドを保有する会社[211]となった。買収は続き、2005年7月にGORTON'Sが業務用のKING & PRINCE SEAFOODを、2006年4月にはF.W.BRYCEを取得[212]し、同月デンマークのNORDIC SEAFOOD、2007年10月にフランスのCITE MARINEへ資本参加[213]した。

  • ニッスイ 有価証券報告書【沿革】
    • [207]1974年3月 米国合弁NIPPON SUISAN(U.S.A.)を設立
    • [208]1988年 チリのサケ養殖会社を買収
    • [209]買収前の海外戦略は漁場アクセス確保と水産物輸出
    • [212]2005年7月 KING & PRINCE SEAFOOD、2006年4月 F.W.BRYCEを取得
    • [213]2006年4月 NORDIC SEAFOOD、2007年10月 CITE MARINEへ資本参加
  • 日経ビジネス 1983年10月31日号
    • [210]1983年 大口駿一社長が味の素並みのブランド力獲得を号令
  • 開示資料(ゴートンズ買収)
    • [211]北米家庭用市場で首位ブランドを保有する会社へ転換

2006年3月期末ののれんは186億円、その他無形資産は199億円で、合計385億円[214]と無形資産残高が頂点を打った。買収の翌2002年3月期には、連結で106億円の当期純損失[215]を計上した。2008年3月期には米国KING & PRINCE SEAFOODののれん評価減67億円[216]を含む減損損失を計上し、2009年3月期には米国ジョージア州の子会社のれん29億円とチリの工場用地12億円[217]を減損した。のれん残高は2006年3月期末の水準から2016年3月期末の14億円まで、規則償却と減損で圧縮[218]された。

  • ニッスイ 有価証券報告書(連結財務諸表)
    • [214]2006年3月期末 のれん186億円・その他無形資産199億円(合計385億円)
    • [215]2002年3月期 連結当期純損失106億円
    • [218]のれん残高 2016年3月期末に14億円まで圧縮
  • ニッスイ 有価証券報告書(連結財務諸表・減損損失の内訳)
    • [216]2008年3月期 KING & PRINCE SEAFOODののれん評価減67億円
    • [217]2009年3月期 ジョージア州子会社のれん29億円・チリ工場用地12億円を減損
    • [200]2001年8月17日 NIPPON SUISAN(U.S.A.)がユニリーバと売却契約を締結
    • [201]米国独占禁止法の審査通過を発効条件とした契約
  • Unilever N.V. Form 20-F(2001年度・米国SEC提出)
    • [202]買収対価 1億7500万米ドル(2001年10月クロージング)
  • 開示資料(ゴートンズ買収)
    • [203]取得ブランドは米国首位Gorton'sとカナダ2位BlueWater Seafoods
    • [204]本社グロスター・製造3拠点・従業員約750名を承継
    • [205]2000年実績 売上約2億5000万米ドル・EBITDA約2000万米ドル
    • [206]売主ユニリーバの売却理由は北米以外での成長余地の限定
    • [211]北米家庭用市場で首位ブランドを保有する会社へ転換
  • ニッスイ 有価証券報告書【沿革】
    • [207]1974年3月 米国合弁NIPPON SUISAN(U.S.A.)を設立
    • [208]1988年 チリのサケ養殖会社を買収
    • [209]買収前の海外戦略は漁場アクセス確保と水産物輸出
    • [212]2005年7月 KING & PRINCE SEAFOOD、2006年4月 F.W.BRYCEを取得
    • [213]2006年4月 NORDIC SEAFOOD、2007年10月 CITE MARINEへ資本参加
  • 日経ビジネス 1983年10月31日号
    • [210]1983年 大口駿一社長が味の素並みのブランド力獲得を号令
  • ニッスイ 有価証券報告書(連結財務諸表)
    • [214]2006年3月期末 のれん186億円・その他無形資産199億円(合計385億円)
    • [215]2002年3月期 連結当期純損失106億円
    • [218]のれん残高 2016年3月期末に14億円まで圧縮
  • ニッスイ 有価証券報告書(連結財務諸表・減損損失の内訳)
    • [216]2008年3月期 KING & PRINCE SEAFOODののれん評価減67億円
    • [217]2009年3月期 ジョージア州子会社のれん29億円・チリ工場用地12億円を減損

純損失162億円が示した相場と為替への従属

2009年3月期、リーマン・ショック後の魚価下落と為替差損、のれんの減損が重なり[219]、日本水産は164億円の特別損失を計上して162億円の当期純損失[220]に落ちた。営業利益は32億円の黒字[221]を保っており、損失は本業ではなく抱えた資産と相場から出ていた。連結売上高は前期の5339億円から5052億円へ減り[222]、食品事業は12億円の営業損失を出した[223]。2010年3月期の当期純利益は0億円、2011年3月期は東日本大震災の影響で9億円の純損失、2013年3月期は46億円の純損失[224]と、営業段階で黒字を保ちながら最終損益が振れる期が続いた。

  • ニッスイ 有価証券報告書(連結財務諸表)
    • [219]2009年3月期 魚価下落・為替差損・のれん減損の重複
    • [220]2009年3月期 特別損失164億円・当期純損失162億円
    • [221]2009年3月期 営業利益32億円の黒字
    • [222]連結売上高 2008年3月期5339億円→2009年3月期5052億円
    • [224]2011年3月期 純損失9億円・2013年3月期 純損失46億円
  • ニッスイ 有価証券報告書(セグメント情報)
    • [223]2009年3月期 食品事業は営業損失12億円

損失の中身は海外事業の整理でもあり、2012年3月期には青森県八戸市の水産関連ののれん17億円[225]を減損し、アルゼンチンのトロール工船3億円とインドネシアのえび養殖設備2億円[226]を事業整理損に含めた。2013年3月期にはブラジルの養殖事業のリース資産など45億円[227]を整理損に計上した。2008年の金融危機で魚の需要が急減すると、水産大手の水産部門の営業利益は10億円と前年から9割近く減った[228]。2011年12月時点で、日本水産は翌2012年3月期の営業利益の8割弱を非水産で稼ぐ見通し[229]に立っていた。

  • ニッスイ 有価証券報告書(連結財務諸表・減損損失の内訳)
    • [225]2012年3月期 青森県八戸市の水産関連のれん17億円を減損
    • [226]2012年3月期 アルゼンチンのトロール工船3億円・インドネシアのえび養殖設備2億円を事業整理損へ
    • [227]2013年3月期 ブラジル養殖事業のリース資産など45億円を整理損に計上
  • 日本経済新聞(2011年12月8日)「マルハニチロや日本水産、収益安定へ『非水産』シフト」
    • [228]2008年の金融危機で水産部門の営業利益が10億円へ(前年比9割近い減)
    • [229]2012年3月期は営業利益の8割弱を非水産で稼ぐ見通し

立て直しを支えたのは国内の食品事業で、2017年6月に社長へ就いた的埜明世[230]のもとで、2018年3月期の連結売上高は6772億円、営業利益は232億円[231]となり、食品事業の売上高3253億円・利益129億円が水産事業の2839億円・110億円を上回った[232]。1999年に発売した冷凍総菜「おべんとうに便利」[233]は、凍ったまま弁当箱に入れられる自然解凍型のきんぴらごぼうやひじきの煮つけを揃え、2004年度に前年比5%増の60億円と発売時の8倍[234]に育っていた。浜田晋吾社長は後年、2000年ごろからの海外投資が2010年ごろに失敗の頂点を迎え[235]、不採算事業の整理で出血を止めたのが5〜6年前だったと振り返った。

  • ニッスイ 有価証券報告書(役員の状況)
    • [230]2017年6月 的埜明世が社長へ就任
  • ニッスイ 有価証券報告書(連結財務諸表)
    • [231]2018年3月期 連結売上高6772億円・営業利益232億円
  • ニッスイ 有価証券報告書(セグメント情報)
    • [232]2018年3月期 食品事業3253億円・利益129億円/水産事業2839億円・利益110億円
  • 週刊東洋経済 2005年7月30日号「マーケティングの達人に会いたい 第89回 日本水産」
    • [233]1999年発売の自然解凍型冷凍総菜「おべんとうに便利」
    • [234]2004年度 売上60億円(前年比5%増・発売時の8倍)
  • 週刊東洋経済 2024年2月10日号「トップに直撃 ニッスイ 社長 浜田晋吾『水産会社から食の企業へ 中計の達成にも手応え』」
    • [235]浜田晋吾社長 2000年ごろからの海外投資は2010年ごろに失敗の頂点
  • ニッスイ 有価証券報告書(連結財務諸表)
    • [219]2009年3月期 魚価下落・為替差損・のれん減損の重複
    • [220]2009年3月期 特別損失164億円・当期純損失162億円
    • [221]2009年3月期 営業利益32億円の黒字
    • [222]連結売上高 2008年3月期5339億円→2009年3月期5052億円
    • [224]2011年3月期 純損失9億円・2013年3月期 純損失46億円
    • [231]2018年3月期 連結売上高6772億円・営業利益232億円
  • ニッスイ 有価証券報告書(セグメント情報)
    • [223]2009年3月期 食品事業は営業損失12億円
    • [232]2018年3月期 食品事業3253億円・利益129億円/水産事業2839億円・利益110億円
  • ニッスイ 有価証券報告書(連結財務諸表・減損損失の内訳)
    • [225]2012年3月期 青森県八戸市の水産関連のれん17億円を減損
    • [226]2012年3月期 アルゼンチンのトロール工船3億円・インドネシアのえび養殖設備2億円を事業整理損へ
    • [227]2013年3月期 ブラジル養殖事業のリース資産など45億円を整理損に計上
  • 日本経済新聞(2011年12月8日)「マルハニチロや日本水産、収益安定へ『非水産』シフト」
    • [228]2008年の金融危機で水産部門の営業利益が10億円へ(前年比9割近い減)
    • [229]2012年3月期は営業利益の8割弱を非水産で稼ぐ見通し
  • ニッスイ 有価証券報告書(役員の状況)
    • [230]2017年6月 的埜明世が社長へ就任
  • 週刊東洋経済 2005年7月30日号「マーケティングの達人に会いたい 第89回 日本水産」
    • [233]1999年発売の自然解凍型冷凍総菜「おべんとうに便利」
    • [234]2004年度 売上60億円(前年比5%増・発売時の8倍)
  • 週刊東洋経済 2024年2月10日号「トップに直撃 ニッスイ 社長 浜田晋吾『水産会社から食の企業へ 中計の達成にも手応え』」
    • [235]浜田晋吾社長 2000年ごろからの海外投資は2010年ごろに失敗の頂点

「日本水産」を捨てた業態転換と、獲る漁業から作る漁業へ

2020年6月、浜田晋吾氏が社長へ就いた[236]。2022年4月20日、同社は長期ビジョン「Good Foods 2030」と中期経営計画「Good Foods Recipe1」を策定[237]し、2024年3月期に売上高7900億円・営業利益320億円[238]を掲げた。2022年4月には持分法適用会社のホウスイの全株式を売り[239]、同年9月には日水製薬の全株式を島津製作所へ譲って医薬事業から退いた[240]。そして2022年12月、1937年から使ってきた商号「日本水産」を「ニッスイ」へ改めた[241]浜田晋吾社長は、水産物だけにとらわれず食品やファインケミカルへ事業を広げ[242]、広く食を提供する会社を目指すと述べた。

2023年3月期、食品事業の売上高3820億円が水産事業の3283億円を上回り[243]、グループ最大の事業となった。ただし利益では水産事業186億円が食品事業114億円を上回って[244]おり、稼ぎ手はなお水産にあった。2025年3月期には食品事業の売上高4710億円・利益287億円が水産事業の3640億円・84億円を[245]売上でも利益でも上回った。地域別では北米1669億円・欧州1668億円が並び[246]、2018年3月期の866億円・883億円からいずれも約2倍[247]へ広がった。連結売上高は2025年3月期の8861億円から2026年3月期に9313億円へ増え[248]、営業利益は404億円、営業利益率は4.3%となった。

  • ニッスイ 有価証券報告書(セグメント情報)
    • [243]2023年3月期 食品事業3820億円が水産事業3283億円を上回る
    • [244]2023年3月期 利益は水産事業186億円が食品事業114億円を上回る
    • [245]2025年3月期 食品事業4710億円・利益287億円/水産事業3640億円・利益84億円
  • ニッスイ 有価証券報告書(連結・地域別売上高)
    • [246]2025年3月期 北米1669億円・欧州1668億円
    • [247]地域別売上 2018年3月期 北米866億円・欧州883億円から約2倍へ
  • ニッスイ 有価証券報告書(連結財務諸表)
    • [248]連結売上高 2025年3月期8861億円→2026年3月期9313億円

獲る漁業から作る漁業への移行は、200カイリ規制で遠洋漁業が難しくなった時期[249]にさかのぼる。1986年にタイでエビ養殖を始め、1987年に宮城県でギンザケの飼料生産と委託養殖[250]に入り、1988年にチリのサルモネス・アンタルティカを買収[251]した。2004年1月には宮崎県串間市で黒瀬水産を子会社化してブリ養殖へ入り[252]、2022年には種苗をすべて人工種苗に切り替えて完全養殖を実現[253]し、年5回の種苗採集で通年出荷を可能にした。2026年1月、ニッスイはサルモネス・アンタルティカを通じてチリのペスケラ・ヤドランを1億3300万米ドル、約205億円で完全子会社化[254]した。マグロ養殖では飼育期間の長い従来型で斃死が減益要因となったため短期養殖へ移し[255]、国内サーモン養殖を約3000トンから1万トンへ広げる方針[256]を示している。

  • 週刊東洋経済 2024年6月1日号「特集 全解剖 日本の魚ビジネス 現地ルポ2 養殖でブリを育てるニッスイの気概」
    • [249]養殖参入の契機は200カイリ規制による遠洋漁業の縮小
    • [250]1986年 タイでエビ養殖、1987年 宮城県でギンザケの飼料生産と委託養殖
    • [251]1988年 チリのサルモネス・アンタルティカを買収
    • [253]2022年 黒瀬水産が種苗を全て人工種苗へ切り替え完全養殖を確立
  • ニッスイ 有価証券報告書【沿革】
    • [252]2004年1月 黒瀬水産を子会社化しブリ養殖へ参入
    • [254]2026年1月 チリのペスケラ・ヤドランを1億3300万米ドル(約205億円)で完全子会社化
  • ニッスイ 2026年3月期 第3四半期 決算説明会 質疑応答
    • [255]マグロ養殖は斃死を受け短期養殖へ移行
    • [256]国内サーモン養殖を約3000トンから1万トンへ拡大する方針
  • ニッスイ 有価証券報告書(役員の状況)
    • [236]2020年6月 浜田晋吾が社長へ就任
    • [237]2022年4月20日 長期ビジョン「Good Foods 2030」と中計「Good Foods Recipe1」を策定
    • [238]中計目標 2024年3月期 売上高7900億円・営業利益320億円
  • ニッスイ 有価証券報告書【沿革】
    • [239]2022年4月 ホウスイの全株式を売却
    • [252]2004年1月 黒瀬水産を子会社化しブリ養殖へ参入
    • [240]2022年9月 日水製薬の全株式を島津製作所へ譲渡し医薬事業から撤退
    • [241]2022年12月 商号を日本水産からニッスイへ変更
  • 週刊東洋経済 2024年2月10日号「トップに直撃 ニッスイ 社長 浜田晋吾『水産会社から食の企業へ 中計の達成にも手応え』」
    • [242]浜田晋吾社長 水産物にとらわれず広く食を提供する会社を目指す
  • ニッスイ 有価証券報告書(セグメント情報)
    • [243]2023年3月期 食品事業3820億円が水産事業3283億円を上回る
    • [244]2023年3月期 利益は水産事業186億円が食品事業114億円を上回る
    • [245]2025年3月期 食品事業4710億円・利益287億円/水産事業3640億円・利益84億円
  • ニッスイ 有価証券報告書(連結・地域別売上高)
    • [246]2025年3月期 北米1669億円・欧州1668億円
    • [247]地域別売上 2018年3月期 北米866億円・欧州883億円から約2倍へ
  • ニッスイ 有価証券報告書(連結財務諸表)
    • [248]連結売上高 2025年3月期8861億円→2026年3月期9313億円
  • 週刊東洋経済 2024年6月1日号「特集 全解剖 日本の魚ビジネス 現地ルポ2 養殖でブリを育てるニッスイの気概」
    • [249]養殖参入の契機は200カイリ規制による遠洋漁業の縮小
    • [250]1986年 タイでエビ養殖、1987年 宮城県でギンザケの飼料生産と委託養殖
    • [251]1988年 チリのサルモネス・アンタルティカを買収
    • [253]2022年 黒瀬水産が種苗を全て人工種苗へ切り替え完全養殖を確立
    • [254]2026年1月 チリのペスケラ・ヤドランを1億3300万米ドル(約205億円)で完全子会社化
  • ニッスイ 2026年3月期 第3四半期 決算説明会 質疑応答
    • [255]マグロ養殖は斃死を受け短期養殖へ移行
    • [256]国内サーモン養殖を約3000トンから1万トンへ拡大する方針

ニッスイの沿革1911〜2024年における主な出来事を抜粋

年月社長・CEO出来事重要度
田村汽船漁業部として創業
共同漁業として化
共同漁業が日本産業(日産コンツェルン)に合併★★
社名を日本水産に変更
日本海洋漁業統制を設立
日本水産に商号変更
東京証券取引所に株式を上場
戸畑工場にて魚肉ソーセージの本格的生産を開始★★
報國水産を子会社化
日産水産研究所が日産研究所に商号変更
事業目的に農畜産物の生産・加工・売買を追加
八王子総合工場が竣工
日産研究所が日水製薬に商号変更
本社を移転
合弁会社NIPPON SUISAN(U.S.A.)を設立
合弁会社UNISEA, INC.を設立
チリ合弁会社EMPRESA DE DESARROLLO PESQUERO DE CHILE S.A.を設立
アルゼンチン合弁会社EXPLOTACION PESQUERA DE LA PATAGONIA S.A.を設立
事業目的に医薬品の製造・売買を追加
EPA(エイコサペンタエン酸)栄養補助食品の販売を開始★★
漁場半減下でも止めなかった約120億円のトロール船集中投資漁場が半分になっても、なぜ漁船へ資本を注いだのか——脱漁労の潮流に背いた大口駿一社長の資本配分 詳細を読む★★★
チリのサケ養殖会社SALMONES ANTARTICA S.A.を買収★★
チリにNIPPON SUISAN AMERICA LATINA S.A.を設立
日水製薬が東京証券取引所二部に上場
大分海洋研究センターが竣工
姫路総合工場が竣工
垣添直也日本クッカリーを設立
垣添直也ニュージーランドSEALORD GROUP LTD.へ資本参加★★
垣添直也1億7500万ドルで米国首位ブランドを買った前例なき北米進出輸出企業のままでよいか——垣添直也社長はなぜユニリーバから米国首位ブランドを一括取得したのか 詳細を読む★★★
垣添直也黒瀬水産を子会社化
垣添直也北米業務用水産冷凍食品会社KING&PRINCE SEAFOOD CORP.を買収
垣添直也連結純損失を計上★★
細見典男東京イノベーションセンターが竣工
細見典男連結純損失を計上
細見典男弓ヶ浜水産を設立
細見典男本社を移転
的埜明世的埜明世が代表取締役社長に就任
浜田晋吾浜田晋吾が代表取締役社長に就任
浜田晋吾日水製薬の全株式を売却★★
浜田晋吾「日本水産」を捨てた業態転換 — 水産卒業・食品と養殖の双翼へ創業以来の社名を下ろし、漁労依存の会社をどこへ組み替えようとしたか 詳細を読む★★★
田中輝田中輝が代表取締役社長に就任
出典・参考

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