1911年〜 英国式トロール船と久原の資本で始まり、日産傘下で国内最大の水産会社になるまで
- 1911年 田村汽船漁業部として創業
- 1919年 共同漁業として化
- 1934年 共同漁業が日本産業(日産コンツェルン)に合併
- 1937年 社名を日本水産に変更
- 1943年 日本海洋漁業統制を設立
- 1945年 日本水産に商号変更
国産第一号の鋼製トロール船から始めた資本漁業
明治政府は1897年に遠洋漁業奨励法を公布し[1]、漁船・漁具・乗組員への補助金で沖合遠洋漁業への転換を促した。汽船トロール漁業はその奨励に乗った新技術で、1908年に長崎の倉場富三郎氏が英国から購入した鋼製トロール汽船「深江丸」[2]が好成績をあげると、久原庄三郎の3男に生まれた[4]田村市郎氏が、大阪鉄工所桜島工場[5]で国産第一号の鋼製トロール汽船「第一丸」(199総トン)[6]を建造した。ところが第一丸の瀬戸内海での試験操業は期待した成果に届かず[7]、田村市郎氏は差を設計と漁法の未熟さと判断し、1910年7月、造船監督として国司浩助氏を英国へ派遣[8]した。国司浩助氏がスミス造船所へ発注した188.84総トンの船は1911年3月に竣工[9]し、湊丸と名付けて自ら乗り込み[10]、2カ月余りで回航した。湊丸の到着とともに1911年5月、田村市郎氏は下関に田村汽船漁業部を興し[11]、国司浩助氏を責任者としてトロール漁業の経営に着手[12]した。 [3]
- [1]1897年 遠洋漁業奨励法の公布(漁船・漁具・乗組員へ補助金)
- [2]1908年 倉場富三郎が英国から鋼製トロール汽船「深江丸」を購入
- [6]田村市郎 国産第一号の鋼製トロール汽船「第一丸」(199総トン)を建造
- [3]深江丸は第一丸より6カ月早く操業し好成績
- [5]第一丸の建造所 大阪鉄工所(のちの日立造船)桜島工場
- [7]第一丸の瀬戸内海での試験操業は成果が期待に届かず
- [4]田村市郎は久原庄三郎の3男
- [8]1910年7月 国司浩助を造船監督として英国へ派遣
- [9]湊丸 総トン数188.84トン・1911年3月竣工(英スミス造船所)
- [10]国司浩助 湊丸と命名し自ら乗り込んで2カ月余りで日本へ回航
- ニッスイ 有価証券報告書【沿革】
- [11]1911年5月 田村汽船漁業部を創立(下関港を根拠地にトロール漁業へ着手)
- [12]国司浩助 田村汽船漁業部の責任者としてトロール漁業を統括
トロール漁業は1912年に船数139隻へ膨らみ[13]、漁獲物の供給が需要を上回って各社の経営が悪化した。窮状に対処する企業合同で、1914年に資本金200万円・トロール漁船25隻の共同漁業が創立[14]された。第一次大戦が始まると各社は持ち船を掃海用や潜水艦の見張り用として欧州諸国へ高く売り、1917年には国内のトロール汽船が7隻を残すだけ[15]となった。共同漁業も船の売却で思いがけない利益をあげて1917年に14割の配当を実施[16]したが、経営規模は縮み、1918年には資本金を30万円へ減資[17]した。田村市郎氏はこの縮んだ共同漁業の株式の大半を手に入れ、1919年、自ら経営してきた日本トロールを吸収合併して資本金500万円の共同漁業とした[18]。翌1920年2月には国司浩助氏の発案で、日本初の民間水産研究機関となる早鞆水産研究会[19]を下関に設け、ディーゼルトロール船の導入と船内急速冷凍装置の開発[20]にあたらせた。
- [13]1912年 トロール汽船139隻へ増加・供給過剰で各社の経営悪化
- [14]1914年 共同漁業の創立(資本金200万円・トロール漁船25隻)
- [15]1917年 国内のトロール汽船が7隻を残すのみ(大戦下の船舶売却)
- [16]1917年 共同漁業が14割配当
- [17]1918年 共同漁業が資本金30万円へ減資
- 日本水産50年史(日本水産、1961年)
- [18]1919年 田村市郎が共同漁業株の大半を取得し日本トロールを吸収合併(資本金500万円)
- [19]1920年2月 早鞆水産研究会を下関に創立(国司浩助の発案・日本初の民間水産研究機関)
- [20]早鞆水産研究会の役割 ディーゼルトロール船の導入推進・船内急速冷凍装置の開発
共同漁業は大正から昭和初期にかけて、手繰漁業や冷凍・冷蔵・問屋・陸上運送・製函を営む諸社を吸収合併[21]あるいは傘下に収めて組織を広げた。1929年11月には漁業根拠地を下関から戸畑へ移すと発表[22]し、1930年に移転を完了[23]して、わが国資本漁業の最大手となった[24]。もっとも規模の拡大は収益の拡大に直結せず、利益金は1930年下期の111万円を頂点に1931年下期の82万円へ減り[25]、昭和恐慌下で2割を超えて落ち込んだ。資本金は1926年の574万円から1933年6月に1500万円へ積み増され[26]、株主数も1927年の447名から1354名へ増えた[27]が、利益金は1932年から1934年上期まで86万〜95万円の水準で足踏み[28]した。
- [21]大正〜昭和初期 手繰漁業・冷凍・冷蔵・問屋・陸上運送・製函の諸社を吸収合併/傘下化
- [22]1929年 根拠地を戸畑漁港へ移転・わが国資本漁業の最大手へ
- [23]1930年 共同漁業が下関市から戸畑市への移転を完了
- ニッスイ 有価証券報告書【沿革】
- [24]共同漁業 わが国資本漁業の最大手
- 日本水産50年史(日本水産、1961年)
- [25]共同漁業の利益金 1930年下期111万円→1931年下期82万円
- [26]資本金 1926年574万円→1933年6月1500万円
- [27]株主数 1927年447名→1933年6月1354名
- [28]共同漁業の利益金 1932年〜1934年上期は86万〜95万円で横ばい
- [1]1897年 遠洋漁業奨励法の公布(漁船・漁具・乗組員へ補助金)
- [2]1908年 倉場富三郎が英国から鋼製トロール汽船「深江丸」を購入
- [6]田村市郎 国産第一号の鋼製トロール汽船「第一丸」(199総トン)を建造
- [13]1912年 トロール汽船139隻へ増加・供給過剰で各社の経営悪化
- [14]1914年 共同漁業の創立(資本金200万円・トロール漁船25隻)
- [15]1917年 国内のトロール汽船が7隻を残すのみ(大戦下の船舶売却)
- [16]1917年 共同漁業が14割配当
- [17]1918年 共同漁業が資本金30万円へ減資
- [3]深江丸は第一丸より6カ月早く操業し好成績
- [5]第一丸の建造所 大阪鉄工所(のちの日立造船)桜島工場
- [7]第一丸の瀬戸内海での試験操業は成果が期待に届かず
- [4]田村市郎は久原庄三郎の3男
- [8]1910年7月 国司浩助を造船監督として英国へ派遣
- [9]湊丸 総トン数188.84トン・1911年3月竣工(英スミス造船所)
- [10]国司浩助 湊丸と命名し自ら乗り込んで2カ月余りで日本へ回航
- ニッスイ 有価証券報告書【沿革】
- [11]1911年5月 田村汽船漁業部を創立(下関港を根拠地にトロール漁業へ着手)
- [24]共同漁業 わが国資本漁業の最大手
- [12]国司浩助 田村汽船漁業部の責任者としてトロール漁業を統括
- 日本水産50年史(日本水産、1961年)
- [18]1919年 田村市郎が共同漁業株の大半を取得し日本トロールを吸収合併(資本金500万円)
- [25]共同漁業の利益金 1930年下期111万円→1931年下期82万円
- [26]資本金 1926年574万円→1933年6月1500万円
- [27]株主数 1927年447名→1933年6月1354名
- [28]共同漁業の利益金 1932年〜1934年上期は86万〜95万円で横ばい
- [19]1920年2月 早鞆水産研究会を下関に創立(国司浩助の発案・日本初の民間水産研究機関)
- [20]早鞆水産研究会の役割 ディーゼルトロール船の導入推進・船内急速冷凍装置の開発
- [23]1930年 共同漁業が下関市から戸畑市への移転を完了
- [21]大正〜昭和初期 手繰漁業・冷凍・冷蔵・問屋・陸上運送・製函の諸社を吸収合併/傘下化
- [22]1929年 根拠地を戸畑漁港へ移転・わが国資本漁業の最大手へ
日産コンツェルン傘下で進んだ合併と、田村家の経営の終わり
久原鉱業では1926年、田村市郎氏の弟にあたる社長の久原房之助氏が政界へ移るため辞意を表し、鮎川義介氏が後任社長に迎えられた[29]。鮎川義介氏は1928年に久原鉱業を持株会社へ改組して日本産業と改称[31]し、日産コンツェルンへ育てた。共同漁業では1933年に松崎社長が退き、会長に鮎川義介氏、社長に田村啓三氏が就いた[32]。翌1934年、本社を神戸から東京へ移したうえで、共同漁業は日本産業に合併された[33]。日本産業は同年6月に系列水産会社を統べる水産部を設置[34]し、トロール部門を傍系の豊洋漁業へ譲渡させ、豊洋漁業は資本金を1000万円へ増資して7月に社名を共同漁業へ改めた[35]。田村市郎氏が個人で興した会社は、創業から23年で財閥の水産部門となった[36]。 [30]
- 日本水産50年史(日本水産、1961年)
- [29]1926年 久原房之助が政界進出のため辞意・鮎川義介が久原鉱業社長へ
- [31]1928年 久原鉱業を持株会社へ改組し日本産業へ改称
- [32]1933年 共同漁業の会長に鮎川義介・社長に田村啓三
- [33]1934年 共同漁業が日本産業へ合併(本社を神戸から東京へ移転)
- [34]1934年6月 日本産業が水産部を設置し系列水産会社を統制
- [35]1934年7月 豊洋漁業が資本金1000万円へ増資し社名を共同漁業へ変更
- [36]1911年の個人創業から23年で財閥傘下の水産部門へ
- [30]田村市郎と久原房之助は兄弟(久原庄三郎の子)
日本産業は1934年5月、南氷洋捕鯨へ出漁する目的で資本金2000万円の日本捕鯨を設立[37]し、捕鯨母船アンタークチック号を買って図南丸と改めた[38]。南氷洋にはノルウェーと英国が先行して出漁しており[39]、国際的な取り決めが結ばれる前に自国の勢力を広げておく必要があった。日本産業は統制下の水産各社の合同も進め、1936年9月、北洋の母船式蟹漁業をほぼ独占していた日本合同工船と、この日本捕鯨を共同漁業へ合併させた[40]。共同漁業は1937年1月に旧中央水産販売所の事業全部を引き継ぎ[41]、同年3月には製氷・冷凍・冷蔵と缶詰を営む日本食料工業を合併して資本金を9150万円とし、社名を日本水産へ改めた[42]。この結果、トロール漁業は許可70隻のうち61隻を占め[43]、南氷洋捕鯨は図南丸以下3船団、母船式蟹漁業は蟹母船12隻[44]、製氷・冷凍は約300工場を傘下に収め、全国の約6割の勢力[45]となった。1938年9月には母船式フィッシュミール事業の新興水産を合併し、資本金は9300万円となった[46]。
- [37]1934年5月 日本産業が南氷洋捕鯨のため日本捕鯨を設立(資本金2000万円)
- [38]捕鯨母船 アンタークチック号を購入し図南丸へ改名
- [39]南氷洋捕鯨 ノルウェー・イギリスが先行出漁
- 日本水産50年史(日本水産、1961年)
- [40]1936年9月 日本合同工船・日本捕鯨を共同漁業へ合併
- [41]1937年1月 旧中央水産販売所の事業全部を継承
- [42]1937年3月 日本食料工業を合併し資本金9150万円・社名を日本水産へ変更
- [46]1938年9月 新興水産を合併し資本金9300万円
- [43]トロール漁業 許可70隻中61隻を占有
- [44]南氷洋捕鯨3船団・蟹母船12隻・製氷冷凍約300工場
- [45]全国の水産勢力の約6割を占有
1937年の改称で日本水産は、トロール漁業・以西底曳網漁業・母船式蟹漁業・母船式捕鯨業・近海捕鯨業[47]といった資本漁業に加え、製氷・冷凍・冷蔵と水産加工、水産物の販売、それらに関連する投資の4部門[48]を持つ会社となった。1940年の規模は役員27名[49]、陸上勤務者6100名と海上勤務者7100名を合わせた従業員13227名、所有船舶237隻・総トン数14万4千トン[50]で、事業地は内地のほか朝鮮・台湾・中国全土に及んだ[51]。投資会社は1927年の10社から157社へ増え[52]、内訳は漁業関係13社、製氷冷蔵関係59社[53]、販売関係45社、加工関係9社、その他31社だった。株主数は1937年1月の32893名から1938年1月に26064名へ減った[54]。
- 日本水産50年史(日本水産、1961年)
- [47]4大部門(資本漁業/製氷冷凍冷蔵・水産加工/販売/投資)の総合経営
- [48]水産物の販売と関連投資を含む4部門構成
- [49]1940年 役員27名
- [50]1940年 従業員13227名・船舶237隻・総トン数14万4千トン
- [51]事業地は内地・朝鮮・台湾・中国全土
- [52]投資会社 1927年10社→1940年157社
- [53]投資会社の内訳 漁業13・製氷冷蔵59・販売45・加工9・その他31
- [54]株主数 1937年1月32893名→1938年1月26064名
- 日本水産50年史(日本水産、1961年)
- [29]1926年 久原房之助が政界進出のため辞意・鮎川義介が久原鉱業社長へ
- [31]1928年 久原鉱業を持株会社へ改組し日本産業へ改称
- [32]1933年 共同漁業の会長に鮎川義介・社長に田村啓三
- [33]1934年 共同漁業が日本産業へ合併(本社を神戸から東京へ移転)
- [34]1934年6月 日本産業が水産部を設置し系列水産会社を統制
- [35]1934年7月 豊洋漁業が資本金1000万円へ増資し社名を共同漁業へ変更
- [36]1911年の個人創業から23年で財閥傘下の水産部門へ
- [40]1936年9月 日本合同工船・日本捕鯨を共同漁業へ合併
- [41]1937年1月 旧中央水産販売所の事業全部を継承
- [42]1937年3月 日本食料工業を合併し資本金9150万円・社名を日本水産へ変更
- [46]1938年9月 新興水産を合併し資本金9300万円
- [47]4大部門(資本漁業/製氷冷凍冷蔵・水産加工/販売/投資)の総合経営
- [48]水産物の販売と関連投資を含む4部門構成
- [49]1940年 役員27名
- [50]1940年 従業員13227名・船舶237隻・総トン数14万4千トン
- [51]事業地は内地・朝鮮・台湾・中国全土
- [52]投資会社 1927年10社→1940年157社
- [53]投資会社の内訳 漁業13・製氷冷蔵59・販売45・加工9・その他31
- [54]株主数 1937年1月32893名→1938年1月26064名
- [30]田村市郎と久原房之助は兄弟(久原庄三郎の子)
- [37]1934年5月 日本産業が南氷洋捕鯨のため日本捕鯨を設立(資本金2000万円)
- [38]捕鯨母船 アンタークチック号を購入し図南丸へ改名
- [39]南氷洋捕鯨 ノルウェー・イギリスが先行出漁
- [43]トロール漁業 許可70隻中61隻を占有
- [44]南氷洋捕鯨3船団・蟹母船12隻・製氷冷凍約300工場
- [45]全国の水産勢力の約6割を占有
水産統制令が切り分けた漁撈会社と、船腹の壊滅
日中戦争による影響は少なく好調を持続していた[55]が、1943年3月、水産統制令にもとづき、日本水産の漁撈部門を中心に日本海洋漁業統制が設立[56]された。製氷・冷凍・冷蔵と販売の部門は帝国水産統制へ移され[57]、こちらは戦後の日本冷蔵、現在のニチレイとなった。日本海洋漁業統制は資本金9426万2000円の純然たる漁撈会社[58]として再出発し、社長には植木憲吉氏が就いた[59]。統制令は、漁って獲る部門と、獲ったものを冷やして売る部門とを別会社へ切り分け、日本水産は前者だけを担う会社として戦時経済に組み込まれた[60]。
- [55]日中戦争下でも業績は好調を持続
- [57]冷蔵・販売部門は帝国水産統制へ(現ニチレイ)
- [58]日本海洋漁業統制 資本金9426万2000円の漁撈専業会社
- [59]日本海洋漁業統制の社長は植木憲吉
- [60]統制令による漁撈部門と冷蔵・販売部門の分離
- ニッスイ 有価証券報告書【沿革】
- [56]1943年3月 水産統制令により日本海洋漁業統制を設立(漁撈部門中心)
太平洋戦争の激化とともに、漁船の徴用と沈没、従業員の召集、資材の不足が重なって生産は落ち込み[61]、遠洋漁業の操業海面が戦場となり内地の空襲が激しくなると生産は激減[62]した。最盛時に257隻・約13万6000トンを保有していた船舶は、終戦時には75隻・約2万トン[63]となった。隻数で7割、船腹量で8割以上を失った[64]勘定になる。漁業許可も漁場の知識も残ったが、それを使う手段である船が消えた状態で、日本水産は終戦を迎えた[65]。
- [61]戦時の漁船徴用・沈没・召集・資材不足による生産低下
- [62]遠洋漁場の戦場化と内地空襲による生産激減
- [63]船舶 最盛時257隻・約13万6000トン→終戦時75隻・約2万トン
- [64]隻数で約7割・船腹量で約85%を喪失
- [65]漁業許可は残り船舶を喪失した状態で終戦
1945年12月、水産統制令の廃止とともに商法上の株式会社へ戻り、社名も日本水産へ復した[66]。ただし同じ月に制限会社の指定を受け、翌1946年8月には特別経理会社[67]、1948年2月には過度経済力集中排除法の指定対象[68]となった。マッカーサーラインが漁区を制限し[69]、経営は困難を極めた。戦前に株式を集中保有していた日産系の持株構造は財閥解体で分解され[70]、創業者の田村家も経営には戻らなかった。1949年6月に増井進氏の後を受けて代表取締役となった鈴木九平氏が1950年6月に社長へ就き[71]、創業家でも財閥でもない経営者が会社を率いた。
- ニッスイ 有価証券報告書【沿革】
- [66]1945年12月 水産統制令廃止・社名を日本水産へ復帰
- [67]1945年12月制限会社・1946年8月特別経理会社の指定
- [68]1948年2月 過度経済力集中排除法の指定
- [69]マッカーサーラインによる漁区制限
- [71]1949年6月 増井進の後任として鈴木九平が代表取締役・1950年6月に社長就任
- 日本水産50年史(日本水産、1961年)
- [70]財閥解体で日産系の持株構造が分解
- [55]日中戦争下でも業績は好調を持続
- [57]冷蔵・販売部門は帝国水産統制へ(現ニチレイ)
- [58]日本海洋漁業統制 資本金9426万2000円の漁撈専業会社
- [59]日本海洋漁業統制の社長は植木憲吉
- [60]統制令による漁撈部門と冷蔵・販売部門の分離
- [61]戦時の漁船徴用・沈没・召集・資材不足による生産低下
- [62]遠洋漁場の戦場化と内地空襲による生産激減
- [63]船舶 最盛時257隻・約13万6000トン→終戦時75隻・約2万トン
- [64]隻数で約7割・船腹量で約85%を喪失
- [65]漁業許可は残り船舶を喪失した状態で終戦
- [67]1945年12月制限会社・1946年8月特別経理会社の指定
- [68]1948年2月 過度経済力集中排除法の指定
- [69]マッカーサーラインによる漁区制限
- [71]1949年6月 増井進の後任として鈴木九平が代表取締役・1950年6月に社長就任
- ニッスイ 有価証券報告書【沿革】
- [56]1943年3月 水産統制令により日本海洋漁業統制を設立(漁撈部門中心)
- [66]1945年12月 水産統制令廃止・社名を日本水産へ復帰
- 日本水産50年史(日本水産、1961年)
- [70]財閥解体で日産系の持株構造が分解