直近の経営方針: 期間の定め無し 期間の定め無し
任天堂:経営計画を定めず

歴史的背景

任天堂は1889年に花札の製造から事業を開始して以降、一貫して娯楽を商品とする事業を展開してきた。娯楽は生活必需品ではなく、流行や技術、社会環境の変化によって需要が大きく変動しやすい特性を持つ。このため、同社の業績は歴史的に見ても安定成長ではなく、ヒット商品の有無によって大きな振れを伴ってきた。

1960年代にはトランプ事業の成熟を受けて多角化を試みたが定着せず、1983年のファミリーコンピュータ、2004年のニンテンドーDS、2006年のWii、2017年のNintendo Switchなど、特定の製品が市場構造そのものを変える局面で業績が大きく伸長する一方、後継機が振るわない時期には減収・赤字も経験している。こうした歴史から、娯楽企業である任天堂にとって中長期の数値計画や特定指標の設定は、実態にそぐわないという前提認識が形成されてきた。

経営指針

任天堂の経営指針の中核は、ハードウェアの性能競争や技術指標の達成ではなく、「誰もが楽しめる娯楽の体験」を起点に発想する点にある。高性能化やスペック向上そのものを目的とせず、年齢やゲーム経験を問わず参加できる遊びのシーンをどのように設計できるかを重視してきた。

この思想は、ファミリーコンピュータにおける低価格設計とソフト重視の構造、ニンテンドーDSやWiiにおける直感的操作、Nintendo Switchにおける利用シーンの統合といった形で具体化されている。ハードとソフトを分離せず、体験全体としての面白さを設計することが、同社の娯楽創造の基本姿勢であり、固定的な経営計画や数値目標を置かない理由ともなっている。

Author’s Questions

  1. ボラティリティが大きい事業で経営計画を持たない状態を、株主にどのように説明できるのか

    任天堂は娯楽企業として、ヒット商品の有無によって業績が大きく変動する構造を持つ一方で、中長期の数値計画や特定の経営指標を意図的に設定していない。このような経営姿勢は、安定成長や計画達成を重視する株主に対して、どのような事業構造の理解を前提として説明されているのか。任天堂は、計画ではなく何をもって事業の持続性や企業価値の源泉を伝えようとしているのか。

  2. なぜ任天堂は、ハードウェアの性能競争から距離を取り続けてきたのか

    ゲーム機市場では、処理性能や映像表現の高度化が競争軸になりやすい中で、任天堂は一貫して性能指標そのものを前面に出してこなかった。性能を抑制する判断は、開発コストや価格設定の問題だけで説明できるのか、それとも「誰もが楽しめる娯楽」という思想を守るための必然だったのか。性能競争に参加しない選択は、どのような事業リスクと引き換えに成立しているのか。

  3. ソフトウェアと体験設計を重視する経営は、なぜ長期的に維持できているのか

    任天堂は、ハードとソフトを一体で設計し、遊びの体験全体を価値の源泉としてきたが、このモデルはヒットに依存しやすく、再現性が低いとも言える。にもかかわらず、世代を超えて同様の思想が維持されているのはなぜなのか。個別タイトルの成功ではなく、組織や開発体制、意思決定のどの部分が、この経営スタイルを支えているのか。

売上
任天堂:売上高
■単体 | ■連結 (単位:億円)
16,718億円
売上高:2024/3
利益
任天堂:売上高_当期純利益率
○単体 | ○連結 (単位:%)
29.3%
利益率:2024/3
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1889

任天堂の創業

背景:セメント販売と娯楽業を兼業

1889年、山内房治郎は京都市内で花札の製造を開始した。これが任天堂の創業年に相当するが、花札は山内家にとって最初の事業ではなかった。1885年に創業した灰孝本店によるセメント販売業が先行して存在しており、山内家はすでに商業活動を通じた収益基盤を有していた。当時の京都では近代化に伴う建築需要の増加を背景に、セメント販売業は拡大局面にあった。

その後、山内家は1918年に小野田セメントと契約を締結し、1934年には三井物産・小野田セメント京都代理店として事業を展開している。こうした既存事業は、資金の蓄積に加え、取引関係の構築や商流運営の経験をもたらしていた。同族商家として単一事業に依存しない経営姿勢が、この段階で形成されていた。

決断:既存収益を背景に花札製造へ参入

花札製造への参入は、既存のセメント販売業で得た収益と商業経験を背景に行われた。花札は当時、一定の需要が存在する娯楽商品であり、生活必需品ではないものの、継続的な消費が見込まれる分野であった。山内房治郎は、製造と流通を組み合わせた事業として花札を位置付けた。

販売面では、国内有力タバコ会社であった村井兄弟商会の販路を活用する判断が取られた。花札とタバコは購買層の重なりが大きく、既存流通網を通じた販売拡大が可能であった。1902年にはカルタの製造にも参入し、製品群の拡張が進められた。

結果:花札とカルタの任天堂としてブランド確立

花札およびカルタの製造と販売を通じて、任天堂は娯楽を商品として継続的に供給する事業形態を形成した。規模は限定的であったが、製造工程の管理、流通網の活用、商品構成の調整といった経験が蓄積された。

同族経営の下で事業が長期にわたり継続されたことで、短期的な業績変動に左右されにくい運営体制が維持された。花札製造は、任天堂が娯楽を事業として明確に定義した最初の局面となった。

概要
娯楽事業の原点

花札製造は、任天堂にとって最初の製造業であると同時に、娯楽を商品として継続的に提供する事業類型を定義した出来事であった。既存のセメント販売事業による収益を背景に、製造と流通(特にタバコ販路)を重視する体制が構築された点に特徴がある。任天堂にとっては娯楽企業としての創業にあたり、後年の多角化や業態転換においても、娯楽を中核とする事業が維持されていった。

1885年
灰孝本店を創業(セメント販売)
1889年
花札の販売を開始(任天堂の創業年に相当)
1906年
かるたの販売を開始
1927年
カルタ事業とセメント販売業を分離
1947
11月

株式会社任天堂を設立

背景:戦前事業と法人形態の分離再編

1933年、山内家は花札およびカルタの製造販売を行う事業体として、合名会社山内任天堂を設立した。戦前期の任天堂は、家業としての製造販売を継続しながら事業を運営しており、法人形態は同族経営に適した合名会社が採用されていた。戦時下から終戦直後にかけて、物資統制や流通制約の影響を受けつつも、花札・骨牌事業は継続されていた。

終戦後、日本社会では企業制度の再編が進み、株式会社形態による事業運営が一般化していった。また、山内家内部では経営承継を見据えた資産管理と事業運営の整理が課題となっていた。戦前から継続してきた合名会社の枠組みは、事業拡大や承継の観点から再検討を要する状況に置かれていた。

決断:株式会社丸福設立による事業継承

1947年11月20日、山内家は株式会社丸福を設立し、合名会社山内任天堂から花札およびカルタの販売部門を継承した。1950年には製造部門も同社に移管され、事業運営の主体は株式会社丸福へと一本化された。これにより、製造と販売を統合した株式会社形態での事業運営が開始された。

この法人再編は、山内積良の病によって顕在化した相続問題への対応でもあった。山内家の事業資産を一つの株式会社に集約することで、承継の円滑化と経営の安定化を図る狙いがあった。その後、株式会社丸福は1951年に任天堂骨牌株式会社、1963年に任天堂株式会社へと商号を変更し、現在の任天堂へとつながっていく。

1933年
合名会社山内任天堂を設立
1947年
株式会社丸福を設立(山内任天堂から事業譲受)
1951年
株式会社丸福から「任天堂骨牌株式会社」に商号変更
1952年
本社および工場を移転(東京市東山区福稲上高松町60)
1963年
任天堂骨牌株式会社から「任天堂株式会社」に商号変更
1949

山内溥氏が社長就任

背景:山内積良氏の急逝と後継不在

1949年、任天堂の取締役社長であった山内積良が66歳で急逝した。当時の任天堂は花札・トランプを主力とする従業員百人規模の企業であり、経営の中核を担っていた積良の突然の死は、事業継続そのものを揺るがす事態であった。家業としての色合いが強く、明確な後継体制は整えられていなかった。

積良の婿養子である山内鹿之丞は浪費癖が強く、経営者としての資質に疑問が持たれていたため、後継者とはならなかった。このため、積良の孫であり、当時早稲田大学に在学中であった山内溥が後継者として選ばれることとなった。22歳の学生が社長に就任するという異例の決定に対し、周囲からは懐疑的な見方が強く、「任天堂もこれで終わりだ」との声も広がっていた。

決断:1949年に22歳で社長就任

1949年、山内溥は任天堂の社長に就任し、突如として家業の経営を担う立場に立たされた。経験も実績も乏しい若年の社長就任であったが、山内はこの状況を受け入れ、自らが経営の最終責任を負う体制を明確にした。以後、任天堂の経営判断は山内個人の決断に集約されることとなった。

社長就任後、山内は従来の家内工業的な生産体制を見直し、カルタ生産の近代化に踏み出す方針を示した。下請けや人海戦術に依存していた製造工程からの脱却を目指し、機械による量産体制への転換と、生産拠点の集約を構想した。この判断は、当時の花札業界では例の少ないものであり、若年社長による強い意思決定として社内外に受け止められた。

証言
『任天堂商法の秘密』

仙台社長で祖父に当たる山内積良が突然、病に倒れ、東京から呼び戻された山内溥は、急遽家業を引き継ぐことになった。山内溥、22歳の時である。

22歳の青年社長といえば聞こえはいいが、周囲の目は冷ややかだった。当時の任天堂はまだ、花札やトランプだけを扱う従業員百人程度の企業である。その大黒柱とも頼むべき社長が死んだということで、親類を含めた周囲の誰もが「任天堂もこれで終わったな」と囁きあった。山内溥自身、「東京の大学でしたい放題のことをして遊んだ」というくらい放蕩を重ねていたとあっては、それも無理からぬところであった。前途多難の出発だった。しかし、任天堂もこれでおわりだと言われて、山内は無性に腹が立った。

概要
意図しない事業承継

1949年の社長就任は、後継不在という非常事態の中で経営責任を一人に集約する決断であった。家内工業的体制からの転換を志向した初期方針は、以後の任天堂経営の前提条件を形作る出発点となった。

1949年
山内溥氏が社長就任
就任時年齢 22
1952年
製造拠点を本社工場に集約
1955年
ストライキが発生
1953

国産初のプラスチック製トランプを発売

背景:1950年代前半の手工業依存と成長制約

1950年代前半の日本において、トランプや花札の製造は依然として紙製品を前提とした手工業的生産が中心であり、耐久性や品質のばらつきが課題となっていた。特にトランプは子供の遊具として使用されることが多く、紙製では破損しやすく、繰り返し使用に耐えない点が構造的な制約となっていた。

任天堂も例外ではなく、戦後の混乱期を経て需要は回復しつつあったものの、生産は人手に依存し、規模拡大には限界があった。1950年代初頭の段階で、花札・カルタを含む同社の製造体制は、家内工業からの脱却途上にあり、製品品質の安定化と量産化が次の成長に向けた前提条件として浮上していた。

決断:1953年にプラスチックトランプ量産開始

1953年、任天堂は国産初となるプラスチック製トランプの量産を開始した。従来主流であった紙製トランプに代え、耐久性に優れるプラスチック素材を採用することで、製品寿命を大幅に延ばすことを狙った判断であった。当時、日本国内ではプラスチックトランプの量産は技術的に困難とされていた。

このため任天堂は、製造装置を外部調達に頼らず、自社で内製化する方針を採用した。生産設備そのものを開発対象とし、加工工程を含めた量産技術を社内に蓄積することで、安定供給と品質統一を実現した。その後も1959年には台紙貼合機や自動切断機を自社開発し、トランプ製造の合理化を段階的に進めていった。

結果:量産優位確立と市場独占へ進展

量産体制の確立により、任天堂のトランプ事業は生産性で競合を大きく上回るようになった。1961年6月期時点では、トランプ工場は従業員156名で生産高3.7億円を計上し、カルタ工場を上回る生産効率を示していた。手工業的生産から脱却できなかった同業の零細企業との差は拡大していった。

さらに1959年には米国ディズニーと提携し、日本国内におけるキャラクタートランプの独占販売権を取得した。1960年以降はテレビCMなどを活用した販売促進を行い、全国の問屋および百貨店への直接販売を通じて販路を拡大した。その結果、1960年代初頭にはトランプの国内シェア約80%を確保し、1962年には証券取引所への株式上場を果たすに至った。

FY1961時点の生産状況
工場名 生産能力 従業員 敷地面積 建物面積
トランプ工場 3.7億円 156名 1706㎡ 1468㎡
かるた工場 2.1億円 202名 4063㎡ 2351㎡
証言
野田経済

トランプ類は国内ではほぼ半独占的な地位にあり、80%の占拠率をもち、トランプといえばすぐ任天堂と連想されるほどの存在、しかも、今後とも20%の伸びは期待できるという。トランプの場合、多くの人々が認めているように、売上の決め手となるのはアイデアと生産方式。同社の場合、ここまでのしあがってきたのは、今度の浮世絵トランプでもわかるように、新しいアイデアの開発がなんといっても、ものをいっている。ディズニートランプや立体印刷トランプのように、他社が容易に真似できず、しかも子供からワッと人気を呼ぶトランプの開発を、目標としている。なかでもディズニートランプは同社が万全の自信を持って1960年に発売したもの。

概要
ディズニー提携でシェア確保

1959年のディズニーとの提携により、任天堂はキャラクタートランプの独占販売権を獲得した。量産体制の確立と並行して商品企画と広告展開を強化したことで需要を喚起し、全国の問屋・百貨店を通じた販売拡大が進んだ。その結果、1960年代初頭にはトランプ市場で高いシェアを確保するに至った。

1953年
本社工場を新設移転(京都市東山区高松)
1953年
国産初のプラスチック製トランプを発売
1959年
台紙貼合機・自動切断期を自社製造
1959年
ディズニープロ社から独占販売権を取得
1960年
ディズニートランプを国内発売
1960

食品とタクシーに参入

背景:トランプの市場規模を悲観

1950年代後半、任天堂はトランプ事業の量産化と国内市場での高いシェアによって一定の収益基盤を確立していた。しかし、娯楽用カードという製品特性から、国内外を含めた市場規模そのものは限定的であり、事業規模の拡大には構造的な上限が存在していた。

1956年、山内溥は渡米視察を行い、全米最大手のトランプメーカーの工場を訪問した。そこで確認した生産規模と事業規模は、トランプ産業全体の天井を強く意識させるものであった。この経験を通じて、任天堂をトランプ専業の会社として成長させ続けることへの懸念が、経営者自身の問題意識として明確になっていった。

決断:娯楽以外の事業にも多角化

1960年、任天堂はトランプ事業以外の収益源を模索し、非娯楽分野を含む多角化に踏み出した。まず子会社としてダイヤ交通株式会社を設立し、タクシー事業への参入を決定した。これは既存事業と技術的な連続性を持たない分野であり、安定的な収益基盤の確立を狙った判断であった。

続いて1964年には近江絹糸との合弁により加工食品事業に参入し、キャラクターを活用した食品の製造・販売を開始した。任天堂は1960年代前半を通じて、トランプに依存しない事業構造への転換を目指し、複数の新規事業を並行して展開していった。

結果:多角化は定着せず長期低迷へ

しかし、これらの新規事業はいずれも競争優位性を確立できず、主力事業として育成されるには至らなかった。1965年以降の景気後退局面では、本業であるトランプの需要が低迷し、流通在庫の増加によって工場稼働率は大きく低下した。営業利益は一定水準を維持していたものの、収益構造の不安定さが顕在化した。

結果として、トランプ事業の収益によって新規事業を育成する構想は成立せず、1969年にはタクシー事業を名鉄グループに譲渡し、加工食品事業からも撤退した。1960年代後半の任天堂は、本業停滞と多角化失敗が重なり、長期的な業績低迷局面に入ることとなった。

証言
山内溥(任天堂・当時社長)

昭和40年代(注:1965年〜1975年)は日本の高度成長時代で、様々な企業が大変成長して躍進を遂げた時代です。私どもの任天堂は元々京都でトランプやカルタを作っていた家内工業でしたが、トランプやカルタが売れなくなりましたので、次第に他のことをしなくてはならない必要に迫られて転身を図ったのです。その40年代を振り返ってみますと、いろいろな企業が大躍進を遂げられたのに、任天堂は一向にパッとせず、トンネルの中から抜けられず長い低迷の期間でした。

1960年
ダイヤ交通株式会社を設立
1963年
三旺食品株式会社を合弁設立
1963年
任天堂株式会社に商号変更
1969年
タクシー事業を名鉄グループに譲渡
1969年
加工食品事業から撤退
1962

大阪証券取引所第2部に株式上場

-

任天堂・大株主(1962年4月時点・上場前)
名称 続柄 保有比率
山内溥 社長 18.2%
山内任天堂 資産管理会社(山内家) 15.6%
京都銀行 - 10.0%
山内君(きみ) 溥氏の母親 6.2%
任天堂商事 販売会社? 4.1%
1962年
大阪証券取引所第2部に株式上場
資本金 2 億円
1970年
大阪証券取引所第1部に株式上場
1963
任天堂株式会社に商号変更
1965
減収減益
1966

総合室内ゲーム企業を目指す方針決定

背景:トランプ需要一巡による成長鈍化

1960年代半ば、任天堂はトランプ事業によって国内市場で高いシェアを確保していたが、需要は次第に一巡し、売上成長は鈍化していた。市場を独占していても、娯楽用カードという製品特性上、数量拡大には限界があり、事業規模の伸びは頭打ちとなっていた。

また、1960年代前半に試みたタクシーや加工食品など非娯楽分野への多角化は定着せず、主力事業に代わる収益の柱を確立できていなかった。このため、任天堂はトランプ専業の枠組みを維持したままでは中長期的な成長が見込めない状況に直面していた。

決断:総合室内ゲーム企業への軌道修正

1966年、任天堂は事業方針を見直し、トランプ中心の事業構造から、室内で遊ぶ娯楽機器全般を手掛ける企業へと転換する方針を定めた。非娯楽分野ではなく、遊びの延長線上にある製品領域で多角化を進める判断であった。

この方針の下、1966年には玩具「ウルトラハンド」を発売し、続いて光線銃SPなどの家庭用娯楽機器を市場に投入した。さらに1968年には家庭用ピッチングマシン「ウルトラマシン」を発売するなど、機械仕掛けの室内ゲーム分野へと製品展開を広げていった。任天堂は、玩具と機械を組み合わせた新しい娯楽の創出を志向するようになった。

結果:機械式ゲームから電子化への布石

この方針転換により、任天堂はトランプ依存から徐々に脱却し、室内ゲーム機器を軸とした製品ポートフォリオを形成していった。1970年代初頭にかけては、事務機「コピラス」の発売や、レーザークレー射撃システムの開発など、機械と電子技術を組み合わせた製品にも取り組むようになった。

これらの試行錯誤は、必ずしもすべてが継続的な収益源となったわけではないが、任天堂がカード製造業からエレクトロニクスを含む娯楽機器メーカーへと性格を変えていく過程を形作った。1966年の方針決定は、その後の電子ゲーム分野への進出を可能にする前提条件となった。

概要
遊び領域への再集中

非娯楽分野での多角化から方針転換し、再び室内ゲームに集中したことが後の電子ゲーム展開(ファミコンの開発)への布石となった。ただしこの時期の電子機器を使ったゲームはマイクロプロセッサーの発明前後に位置しており、画期的なゲームの開発には時間を要した。ただし、1966年の決定は、任天堂の事業領域を根本から定義し直す起点となった。

1966年
おもちゃ「ウルトラバハンド」を発売
1966年
「光線銃SP」を発売
1968年
家庭用ピッチングマシン「ウルトラマシン」の発売
1972年
事務機「コピラス」を発売
1973年
レーザークレー射撃システムを開発
1975
8月

レジャー機器の販売不振。過剰在庫により減収減益へ

オイルショック後の不況も重なったことで販売が低迷した。特に、1975年度にはレーザークレーのブーム終焉も重なり、大幅な減収となった。この結果、1975年2月期(半期実績)の売上高42億円に対して、売上債権31億円および棚卸し資産20億円を抱え込み、在庫の倒産の危機に陥った。

1977
テレビゲーム・アーケードゲームに参入
1983
東京証券取引所第1部に株式上場
1983
7月

ファミリーコンピュータを発売

背景:ゲームウォッチ後の次なる成長手段模索

1980年代初頭の任天堂は、携帯型ゲーム機「ゲーム&ウォッチ」のヒットによって一時的な成長を遂げていたが、そのブームは次第に終息しつつあった。単一商品の成功に依存した事業構造は不安定であり、次の成長を支える新たな柱の確立が経営上の課題として顕在化していた。

1981年、任天堂は次世代の主力商品として家庭用テレビゲーム機に焦点を定め、社内で新型ゲーム機の検討を開始した。当時の家庭用ゲーム機は価格帯が3万円前後と高価で、普及には制約があった。任天堂はこの状況を踏まえ、価格と性能の両立によって家庭への普及を狙う戦略を検討するに至った。

決断:低価格本体とソフト収益モデルで参入

1983年7月、任天堂は家庭用テレビゲーム機「ファミリーコンピュータ」を14,800円で発売した。本体価格を低く抑える代わりに、ゲームカセットの販売によって収益を確保する方針を採用し、ソフトウェアの小売価格は4,500円から5,500円に設定された。

この価格戦略を実現するため、任天堂は1983年に宇治工場を新設し、ファミリーコンピュータの量産体制を構築した。当時、ゲーム&ウォッチのブームは終息しており、ファミコンが成功しなければ設備投資を回収できない状況にあった。加えて、画像処理に特化したカスタムCPUを自社で設計し、製造はリコーに委託することで、性能とコストの両立を図った。

結果:家庭用ゲーム市場を形成する主力商品に

ファミリーコンピュータは低価格と高い表現力によって家庭に急速に普及し、発売後まもなく社会現象となった。任天堂はソフトウェアの品質管理を重視し、発売当初は自社ソフトに限定した展開を行った。その後、1984年からはサードパーティーの参入を認めつつ、制作本数を制限することで粗製濫造を防止した。

1985年以降、「スーパーマリオブラザーズ」などのヒット作や、他社ソフトの充実によって市場は拡大し、1986年にはファミリーコンピュータの累計販売台数が600万台を突破した。ファミコン発売前の1981年に239億円であった任天堂の売上高は、1989年には2,912億円に達し、家庭用ゲーム事業は同社の中核事業として確立された。

証言
山内溥(任天堂・当時社長)

相当の決断も何もないですよ。そこに行くしか道がない時は迷うこともないでしょう。決断というのは右へ行くか左へ行くか、どっちへ行こうかという時に、右とか左とかを決めることでしょう。ところがうちの場合、企業がここで潰れるかもしれない、会社更生法を申請するか、それとも実直に耐え抜いて頑張るのか、という時ですから、とにかくもうそこにしか行くところがない。ファミコンでやるしかなかったのだから

概要
ソフトウェアで収益確立

本体価格を抑え、ソフトウェアで収益を回収するモデルを採用したことで、家庭用ゲーム機の普及が進んだ。ファミリーコンピュータは家庭用ゲーム市場そのものを拡大し、任天堂の事業構造を大きく転換させた。

1983年
家庭用TVゲーム機「ファミリーコンピュータ」を発売
本体価格 14800
1983年
任天堂がソフト「マリオブラザーズ」を発売
100 万本
1983年
CPUをリコーから購入
仕入価格 2000 円/個
1984年
サードパーティーに開放
1984年
ハドソンが『ロードランナー』を発売
100 万本
1984年
ナムコが『ゼビウス』を発売
100 万本
1986

ファミコンが社会現象

1990

欧米に現地法人を新設

-

1990年
Nintendo of Europe GmbH.を設立(ドイツ)
1993年
Nintendo France S.A.R.L.を設立(フランス)
1996

テレビゲーム機NINTENDO64を発売

1990年代にソニーがプレーステーションを発売したのに対抗し、任天堂も64bitのテレビゲーム機「Nintendo64」を発売。この頃から任天堂とソニーの2社での激しい競争が火蓋を切った。

1998
4月

ポケモン株式会社を共同設立

背景:携帯ゲーム機市場の成熟と停滞懸念

1990年代半ば、任天堂の携帯ゲーム機「ゲームボーイ」は長期にわたり市場を牽引してきたが、発売から時間が経過し、ハードウェアとしての新規性は低下していた。携帯ゲーム機市場では、ハードの性能向上や次世代機への移行が意識される段階に入り、既存機種の販売持続性が課題となっていた。

また、ゲームボーイは子供向け娯楽として定着していたものの、利用シーンや遊び方は固定化しつつあり、新たな需要を喚起できなければ販売台数は頭打ちになる可能性があった。1990年代半ばの時点で、任天堂にとってゲームボーイ事業は依然として重要である一方、成長を継続できるかどうかは不透明な状況にあった。

決断:ポケットモンスターを軸に展開を拡張

1996年、任天堂はゲームボーイ向けソフトとして「ポケットモンスター(赤・緑)」を発売した。続いて同年に「ポケットモンスター(青)」を投入し、ゲームソフトとしての展開を強化した。ポケットモンスターは通信機能を活用した対戦・交換要素を備え、従来の携帯ゲームとは異なる遊び方を提示した。

その後、1996年にはポケモンカードの販売を開始し、1997年にはテレビアニメの放映を開始するなど、ゲームの枠を超えたメディア展開が進められた。1997年には需要増加を受けてゲームボーイの増産を決定し、1998年には「ポケットモンスター(ピカチュウ)」を発売した。さらに同年、ポケモン関連事業を統合管理するため、ポケモンセンター株式会社(現・株式会社ポケモン)を共同設立し、任天堂は約32%を出資した。

結果:ゲームボーイの販売回復と長期化

ポケットモンスターの展開は、ゲームボーイの販売動向に大きな影響を与えた。1998年には映画「ミュウツーの逆襲」が公開され、1999年には「ポケットモンスター(金・銀)」を発売するなど、継続的な話題創出によって需要が維持された。これにより、発売から年数が経過していたゲームボーイは再び市場で存在感を高めた。

2000年にはゲームボーイの販売が好調に推移し、累計販売台数は1億台を突破した。携帯ゲーム機として異例の長寿命化を実現した背景には、ハードウェア更新ではなく、ソフトウェアとキャラクター展開によって需要を喚起した点があった。2001年には後継機である「ゲームボーイアドバンス」が発売され、ゲームボーイ事業は次世代機への円滑な移行局面を迎えることとなった。

概要
ポケモンで需要喚起

ポケットモンスターの社会的なヒットとアニメ放映によって、成熟していたゲームボーイ市場は再活性化した。ハード更新に頼らず、ソフトとIP展開によって販売を伸ばした点が携帯ゲーム機としてのゲームボーイの特徴となった。

1996年
ポケットモンスター(赤・緑)を発売
1996年
ポケットモンスター(青)を発売
1996年
ポケモンカードの販売開始
1997年
ポケットモンスターのアニメ放映開始
1997年
ゲームボーイの増産決定
1998年
ポケットモンスター(ピカチュウ)を発売
1998年
ポケモンセンター株式会社を共同設立(現・株式会社ポケモン)
任天堂の推定出資比率 32 %
1998年
ポケットモンスター映画公開(ミュウツーの逆襲)
1999年
ポケットモンスター(金・銀))を発売
2000年
ゲームボーイの販売好調
累計販売台数 1 億台突破
2001年
携帯ゲーム機「ゲームボーイアドバンス」を発売
2001
家庭用TVゲーム機「ゲームキューブ」を発売
2002

山内溥氏が社長退任・岩田聡氏が社長就任

1949年から任天堂の社長を歴任した山内溥氏は、高齢であることを受けて社長を退任した。後任には叩き上げの岩田聡氏を指名し、任天堂は4代にわたって続いた同族経営に終止符を打った。

2002年
岩田聡が任天堂社長に就任
社長就任事 42
2015年
岩田聡氏が急逝(55歳)
社長退任事 55
2004
12月

携帯ゲーム機「ニンテンドーDS」を発売

背景:ゲームボーイ後継機を巡る転換点

2000年代初頭、任天堂の携帯ゲーム機事業は「ゲームボーイ」シリーズによって長期的な成功を収めていた。ゲームボーイアドバンスも一定の販売実績を上げていたが、携帯ゲーム機市場では性能向上や高精細化を軸とした競争が進みつつあり、従来型の延長線上にある後継機だけでは差別化が難しくなっていた。

また、携帯電話や携帯型電子機器の普及により、娯楽の選択肢は多様化していた。携帯ゲーム機は子供向け娯楽という位置付けが強く、需要層の拡大が課題となっていた。このため任天堂は、従来のゲーム体験とは異なる軸で新しい需要を喚起する必要に迫られていた。

決断:2004年にニンテンドーDSを発売

2004年12月、任天堂は携帯ゲーム機「ニンテンドーDS」を発売した。DSは二つの画面を備え、そのうち一つにタッチ操作を採用するという、従来の携帯ゲーム機とは異なる構成を特徴としていた。これは処理性能の競争ではなく、操作性と体験の変化によって新しい遊び方を提示する狙いに基づくものであった。

発売当初、ニンテンドーDSは一定の注目を集めたものの、直後から爆発的なヒットに至ったわけではなかった。任天堂は、従来のゲームユーザーに限定されない利用シーンを想定し、ソフトウェア開発を進める方針を継続した。ハードウェアと同時に、操作特性を生かした新ジャンルのソフト投入を前提とした展開であった。

結果:年齢層拡大と携帯機の長期ヒット

2005年5月に発売された「脳を鍛える大人のDSトレーニング」は、ニンテンドーDSの位置付けを大きく変える契機となった。従来は子供中心であった携帯ゲーム機の利用層が、このタイトルを通じて大人や高齢者へと広がり、DSの需要は急速に拡大した。

その後、ニンテンドーDSは改良機種であるDSiの投入などを経て販売を伸ばし、2009年には累計販売台数が1億台を突破した。一方で、2011年に発売された後継機「ニンテンドー3DS」は、立体視という新要素を打ち出したものの、DS期に見られたような決定的ヒットソフトに恵まれず、販売規模は前世代を下回った。DSは携帯ゲーム機における需要層拡張の象徴的な事例として位置付けられることとなった。

概要
非ゲーム層から支持

ニンテンドーDSは操作性と用途を広げることで、携帯ゲーム機の利用層を子供以外に拡大。ソフト次第で需要が拡大する構造を示し、携帯機ビジネスの前提条件を変えた。

2004年
ニンテンドーDSを発売
2008年
ニンテンドーDSiを発売
2009年
ニンテンドーDSで累計1億台を突破
累計販売台数 1 億台突破
2011年
ニンテンドー3DSを発売
2006

家庭用TVゲーム機「Wii」を発売

背景:家庭用ゲーム機市場の変化

2000年代半ば、家庭用ゲーム機市場では高性能化を軸とした競争が進み、操作の複雑化や価格上昇が進行していた。一方で、ゲーム人口は必ずしも拡大しておらず、家庭内でゲームを楽しむ層と、それ以外の層との分断が生じていた。高性能機は一部の熱心なユーザーに支持される一方、家族全員で楽しむ娯楽としての位置付けは弱まりつつあった。

任天堂は、携帯ゲーム機ではニンテンドーDSを通じて利用者層の拡張に一定の成果を上げていたが、据置型ゲーム機では同様の広がりを実現できていなかった。このため、処理性能の競争から距離を置き、家庭内での利用シーンそのものを再定義する必要があるとの問題意識が形成されていた。

決断:2006年にWiiを発売

2006年、任天堂は家庭用テレビゲーム機「Wii」を発売した。Wiiは直感的な操作を可能とする専用コントローラーを採用し、ゲーム経験の有無にかかわらず参加できることを重視した設計であった。任天堂はファミリー層を主要な利用者として想定し、「Wii Sports」など、ハードウェアの特性を活かした自社ソフトと同時に市場投入した。

この方針により、Wiiは個人向けの高性能機とは異なるポジションを確立した。家庭内で複数人が同時に楽しむ利用シーンを前提としたことで、ゲームを日常的に遊ばない層にも訴求する構造を持っていた。任天堂はWiiを通じて、据置型ゲーム機においても利用者層の拡張を狙った。

結果:Wiiの成功とWii Uの苦戦

Wiiはファミリー層を中心に支持を獲得し、発売後から販売を伸ばした。2009年までに累計販売台数は5,000万台に達し、同時期のニンテンドーDSと並んで任天堂の業績を牽引する主力製品となった。2009年度においては、携帯機と据置機の双方でヒット商品を持つ構造が形成されていた。

一方、2012年12月に発売された後継機「Wii U」は、Wiiの成功を引き継ぐことができなかった。自社の有力ソフト投入が想定より遅れたことで、プラットフォームの勢いを維持できず、さらに「Wii」と「Wii U」の違いが十分に伝わらなかった。結果として、Wii Uは販売面で苦戦し、Wiiの販売減少を補うには至らず、2012年以降の業績悪化要因の一つとなった。

証言
岩田聡(任天堂・社長)

Wii Uについては、1月の経営方針説明会でお話ししたときの見通し以上に、自社の有力ソフトの発売間隔が空いてしまいましたので、プラットフォームの勢いを維持することができていません。

それに加えて、現状ではまだWii Uの製品価値をしっかりとお伝えできていないということが大変大きな課題になっています。Wii Uが、「単にGamePadが付いているWiiに過ぎない」との誤解があったり、さらには、「GamePadはWiiの周辺機器だ」と誤解されている方までおられたりして、私たちがお伝えしなければならないことをお伝えしきれていない状況で、私たち自身の努力不足を痛感しています。

概要
新たなゲーム体験を提供

Wiiは直感的な操作と家族全員で楽しめる設計により、据置型ゲーム機においても利用者層の拡大を実現。Wii Uはその成功を引き継げなかったが、Wiiのアプローチは家庭用ゲーム機の可能性を広げ、のちのSwicth開発にも影響を与えた。

2006年
家庭用TVゲーム機「Wii」を発売
2009年
Wiiで販売台数5000万台を突破
累計販売台数 5000 万台突破
2012年
家庭用TVゲーム機「Wii U」を発売
2013年
WiiUの販売苦戦
2009
3月

売上高で過去最高を記録

WiiおよびDSの販売好調により、2009年3月期に過去最高となる連結売上高1.8兆円を記録。

2014
3月

3DSとWiiUが不振・最終赤字に転落

2010年までの任天堂は「DS」と「Wii」の2機種のヒットによって売上を確保したが、それぞれの後継機種「3DS」「Wii U」について販売に苦戦した。

この結果、2009年3月期をピークとして、以降は2017年3月期まで8期連続の減収となった。また、2012年3月期および2014年3月期において最終赤字に転落した。

2011年
ニンテンドー3DSを発売
2013年
WiiUの販売苦戦
2014年
最終赤字に転落
当期純利益 -232 億円
2017年
8期連続減収
連続減収 8
2015

DeNAと業務資本提携を締結

スマホ向けのゲームに関する協業に向けて、DeNAと業務資本提携を締結。任天堂はDeNAの株式10%を220億円で取得し、DeNAも任天堂の株式1.24%を取得した。

2017
3月

併用型ゲーム機「Nintendo Switch」を発売

背景:携帯機と据置機の分断が限界に到達

2010年代半ば、任天堂は携帯型ゲーム機と据置型ゲーム機を並行して展開していたが、両市場ともに課題を抱えていた。携帯機ではニンテンドー3DSが一定の販売実績を上げていたものの、スマートフォン向けゲームの普及により成長余地は縮小していた。一方、据置機のWii Uは、ソフト投入の遅れや製品価値の訴求不足によって販売が伸び悩み、後継機としての役割を十分に果たせていなかった。

この結果、任天堂は「携帯用」「テレビ用」という従来のゲーム機区分そのものが、ユーザーの利用実態と乖離しつつあるという状況に直面していた。家庭内と外出先を横断して同一のゲーム体験を提供できない構造は、ハードウェアの開発効率やソフト資産の活用面でも制約となっており、事業構造の再設計が求められていた。

決断:併用型ゲーム機Nintendo Switchを投入

2017年3月、任天堂は併用型ゲーム機「Nintendo Switch」を発売した。Switchは本体をドックに接続することでテレビ出力が可能であり、取り外せば携帯ゲーム機として利用できる構造を採用した。これにより、従来別系統であった携帯機と据置機の境界を取り払い、単一プラットフォームに集約する方針を明確にした。

Nintendo Switchは、3DSおよびWii Uの実質的な後継機として位置付けられ、希望小売価格は約33,000円に設定された。発売と同時に、プラットフォームの魅力を示すため、任天堂は有力な自社タイトルを計画的に投入する体制を整え、ハードとソフトを一体で立ち上げる戦略を採用した。

結果:ヒット作連鎖で業績回復へ転換

Nintendo Switchは、発売直後から有力タイトルの投入によって市場での存在感を高めた。2017年中には「ゼルダの伝説」「スプラトゥーン2」「スーパーマリオ オデッセイ」などの主要タイトルが相次いで発売され、ハード販売は堅調に推移した。その結果、2018年3月期には8期連続減収に終止符が打たれ、売上高は前年度比で大幅に増加した。

さらに2020年3月には「あつまれ どうぶつの森」が発売され、コロナ禍による室内娯楽需要の拡大と相まって大きな販売増につながった。これによりSwitchの累計販売台数は継続的に伸長し、2021年には有機ELモデルも投入された。Nintendo Switchは、長期低迷期にあった任天堂の業績を回復局面へ転換させる中核製品として位置付けられることとなった。

概要
ゲーム機の概念を刷新

携帯機と据置機を統合する構造により、ハードとソフトを単一基盤に集約したことが回復の起点となった。Nintendo Switchは、任天堂の製品体系と業績構造を同時に立て直した。

2017年
併用型ゲーム機「Nintendo Switch」を発売
希望小売価格 32798
2017年
Switch「マリオカート8 デラックス」を発売
販売本数(2024/10) 6290 万本
2018年
オンラインサービス「Nintendo Switch Online」を開始
2020年
Switch「あつまれ どうぶつの森」を発売
販売本数(2024/10) 4585 万本
2021年
有機ELモデルの「Nintendo Switch」を発売
2020
マイクロソフトが任天堂の買収を議論
2020

バリューアクトが株式保有

バリューアクト・キャピタル・マネジメントは、任天堂の株式11億ドル相当の保有を公表。任天堂のガバナンス強化や企業価値向上を促す目的で、株主提案を行う可能性が指摘された。

2022
3月

Nintendo Switchの販売好調

「あつまれ どうぶつの森」などの販売好調により、Nintendo Switchの累計販売台数が1億台を突破

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