滝崎武光氏の三度目の起業とリード電機
かつて2度会社を潰したキーエンスの創業者が、三度目の起業で選んだビジネスは、売れる市場ではなく、値段を自分で決められる市場だった。リード電機(現キーエンス)の祖業である自動線材切断機は営業利益率20%を出していたが、創業者の滝崎武光氏は1982年に事業を売却。黒字の事業を捨てられたのは、主力事業に育った金属板二枚送り検出器の高収益を優先したためであった。数億円の金型を守るセンサーに「8万5000円」のプライシングは、原価は値段の根拠にならない。買い手が避けられる損失の大きさが販売価格の根拠になり、その差額がそのまま利益率として残る。こうして、高収益体質のキーエンスが、1980年代の創業期に確立された。
値付けを自分で握るには、二つのものをやめる必要があった。一つは代理店である。他社に無い製品の価値を説明できるのは作った側だけだという理屈から、創業の時点で直販を選んだ。もう一つは工場で、ノウハウの要る25%だけを子会社クレポに残し、残る75%は協力会社へ出し、ファブレスを志向した。そして、付加価値の高い開発と営業の2工程だけを手元に置き、残りは外注を主体とした。1986年3月期に売上高営業利益率39.4%という水準に達した理由は、取捨選択がビジネスとして結実した結果であった。
滝崎武光氏は1945年に生まれた。1964年に兵庫県立尼崎工業高校を卒業した後、外資系のプラント制御機器メーカーで電子制御を学んだ。最初に独立して興した電子機器メーカーは解散に追い込まれ、次いで興した、機械を組み立てる下請け会社も立ち行かなくなった。それでも1972年3月、27歳で三度目となる起業に踏み切り、兵庫県伊丹市でリード電機を個人創業して自動制御機器と電子応用機器の開発・製造・販売を始めた。手始めの製品は電線メーカー向けの自動線材切断機で、電子制御によって小型化した点を差別化要因に、古河電工や住友電工など尼崎周辺の電線メーカーへ供給した。
祖業の自動線材切断機は電線メーカーの製造現場で使う地味な産業用機械だったが、営業利益率は20%に達した。1973年4月には工場自動化用の各種センサを開発し、製造販売を開始した。1974年5月、滝崎武光氏は『産業界の合理化、省力化に対する非常に大きな需要に応えるため、株式会社組織に改組』(証券アナリストジャーナル 1987年12月号)し、兵庫県尼崎市にリード電機株式会社を設立した。個人創業から株式会社化までは2年2カ月を要した。会社を潰さず永続させるにはどうすればよいかという問いから、滝崎武光氏は最小の資本と人で最大の付加価値を上げる合理性の追求へ行き着き、売上規模の拡大よりも利益率を優先する判断基準を据えた。
株式会社としての初年度にあたる1975年3月期の売上高は1200万円にとどまり、翌年度に黒字へ転じた。創業当時の経営目標は、まず会社を潰さずに続けることであり、与えられた経営資源から最高の結果を引き出すことを滝崎武光氏は自らの務めとした。年商が1億円に達するまでには設立から5年を要したが、続く5年で10億円の水準へ乗り、さらに次の5年で100億円を超えた。5年で10倍という階段を三度上り、設立15年で年商1200万円の企業が100億円規模へ達した。伸び率は設立後13年間を通じて年1.5倍から1.8倍で推移し、増収増益は13期連続に及んだ。倒産を二度経験した創業者が最初に据えたのは成長の速度ではなく、下振れしても潰れない損益の形だった。
1973年、滝崎武光氏はプレス加工の現場で金型が破損する課題に着目し、磁気を利用して非接触で金属板の二枚送りを検出する金属板二枚送り検出器を開発した。数億円規模の金型を守るセンサーに8万5000円という単価を付け、原価積み上げではなく顧客が得る導入効果を基準に価格を決める付加価値価格の方針を据えた。製品はトヨタ自動車への採用を皮切りに、日産自動車、三菱自動車工業、本田技研工業など主要自動車メーカーへ広がった。1977年時点の品揃えは、この検出器のほか微小位検出スイッチ、D.F DETECTOR、金属片通過確認スイッチ、継目検出器で、いずれも金属を非接触で捉える用途に集中していた。滝崎武光氏は『他社にない製品なので、商社、代理店を通じてPRすると、当社製品の価値がうまく顧客に伝わらない』と述べ、創業時から最終ユーザーへ直接販売する体制を敷いた。
金属板二枚送り検出器が拠って立ったのは、N極とS極が高速で入れ替わる交流磁界を用いて金属が1枚か2枚かを読み取る原理であり、滝崎武光氏はこの一つの原理から派生する磁気センサーを年に一つか二つの割合で発表し続けた。標準品を全量見込みで量産し、注文を受けてから作る生産はまったく取らないという方針のもと、同社は後発の商品でも業界最多の生産と販売を重ねてシェア首位を得た。最初に採用したのはトヨタ自動車の主力である元町工場だった。約1年後には工場指定を受け、他の主力工場にも広がった。設立以来5年間で積み上げた磁気応用センサーの中から、ミクロン単位の精度をもつ変位センサーを業界で初めて売り出したことが、成長を一段押し上げるきっかけになった。
1982年、滝崎武光氏は営業利益率20%の祖業だった自動線材切断機の製造・販売権を他社へ譲渡した。切断機は売上の約1割を占める黒字事業だったが、商品内容が異なるため開発に無駄が生じる点と、営業利益率40%のFAセンサーへ集中した方が収益力が強まる点を理由に事業から撤退した。翌1983年にかけては、1社で売上の3割近くを占めた大口の機械メーカー向け受注も、経営の安定を損なうとして意図的に絞った。二度の業容縮小はセンサーの商品開発の幅を広げ、取引先は3万5000社に達した。1981年3月期以降、同社は売上高経常利益率35%以上を保った。
創業期に定めた三つの原則が以後の経営の根幹となり、第一は代理店を介さず営業担当が顧客の製造現場へ直接足を運ぶ直販、第二は個々の顧客向けの特注品ではなくニーズを集約した標準品に絞る品揃え、第三は原価ではなく顧客が得る導入効果を基準とする付加価値価格である。計測制御機器や自動化用測定機器の市場規模はそれぞれ数十億円程度と小さく、同社は各製品で市場を創造して高いシェアを占め、プライスリーダーの位置を占めた。1983年には『電子機器、計測器の大手企業をしのぐ競争力を持ち、とくにリードスイッチを応用したレベルセンサーでは30%のシェア』(日経産業新聞 1983年12月1日)を得て、国産レベルセンサーで首位に立った。
製品群の拡大は段階を追って進み、1980年4月に光電センサの分野へ参入した。1983年4月には電子部品業界や家電業界向けに光ファイバー式のセンサを開発して本格進出を果たし、磁気センサと光電センサという二本の主力を揃えた。1985年3月にはアメリカに現地法人KEYENCE CORPORATION OF AMERICAを設立し、同年9月には大阪府高槻市に製造子会社クレポ株式会社を設立した。ただし自社では具体的な生産を行わず、ノウハウが鍵を握る約25%の製品だけを子会社で作り、残る75%は協力会社へ委託した。1984年11月には本社を大阪府高槻市へ移し、1986年には半導体レーザーを応用したセンサ、1987年9月にはプログラマブル・コントローラーを開発した。
営業所網は1979年9月に開いた東京営業所を起点に全国へ伸び、より多くのユーザーに直接売り込める販売体制ができた。本社のあった大阪府吹田市の江坂地区は、地下鉄に乗れば新幹線の新大阪駅へ5分で着く立地で、研究開発型の若い企業が集まっていたことから"ベンチャービジネスのメッカ"(日経産業新聞 1984年10月5日)と呼ばれていた。社名は1986年10月、リード電機から株式会社キーエンスに改めた。ブランド名と商号をそろえるための変更である。1986年3月期の売上高は60億8800万円で前期から44.1%伸び、売上高営業利益率は39.4%だった。
株式公開は、この会社にとって資金を取りに行く行事ではなかった。1987年10月の大証2部上場は上場諸費用8億5000万円を伴ったが、それを差し引いてもなお1988年3月期の経常利益は31億5000万円を見込めた。費用を除けば売上高経常利益率42%である。上場は既に出来上がっていた損益の形を外へ示す手続きであり、資金はその副産物だった。滝崎武光氏が公開の条件として挙げたのは社員200〜300人と売上高100億円という自社の到達度であって、相場の環境ではない。ブラックマンデーの直後に公開できたのも、外の相場が良くなるのを待つ理由が無かったからだと見るほうが筋が通る。
1991年4月に株価が任天堂を抜いたとき、滝崎武光氏はそれを発行済株式数次第の数字として退け、株主資本利益率と従業員1人当たり利益へ話を移した。この言い換えは高収益の使い道を示している。原価率20%が生む粗利は、30歳で年収1000万円という待遇と、760人のうち100人を研究開発に置く配置へ回った。値段を高く付けられる構造を、人を高く買う原資に変えたのである。1994年に建てた21階建ての本社へ化石を置き、センサー専業を仮の姿と呼んだのも同じ線上にある。1000億円までは今の製品で届くが、その先の3000億円は別の事業を要するという読みが、専業を否定する言葉の中身だった。守るべきは製品ではなく、値付けの自由を生む仕組みのほうである。
滝崎武光社長が株式公開を構想し始めたのは、創業から10年を経て社員200〜300人・売上高100億円という到達点が視野に入った時期である。それまでの経営目標は会社を潰さずに続けることだったが、上場に目処が立った段階で次の水準を1000億円へ置き替え、経営者としての気の持ち方もそこで変わった。滝崎武光氏は後年、『うちの会社から業績を取り除いたら、何も残らないかもしれません』と語った。上場も新本社も社員の士気も、業績が先にあって初めて得られたものだという順序である。1987年3月期の売上高は73億2100万円、前期からの伸びは1.2倍にとどまり、100億円の線はなお先にあった。公開は資金の調達よりも、社内で積んできた数字を外部の物差しに載せる手続きだった。
1987年10月29日、キーエンスは大阪証券取引所市場第二部へ株式を上場した。世界の株式市場が暴落したブラックマンデーの直後という相場環境での公開だった。上場に伴う諸費用8億5000万円は初年度の損益を直撃し、1988年3月期の経常利益は同費用を差し引いて31億5000万円の見込みとなったが、費用を除けば40億円・売上高経常利益率42%の水準にあった。中間期にあたる1987年9月20日現在の売上高は44億6000万円で前年同期比30%増、経常利益は16億4000万円で同36.2%増。月次の伸び率も同年4〜6月の前年比1.2倍から11月には1.5倍まで戻した。公開から数日間は株価が任天堂を上回った。
上場前年の1987年3月期は、設立以来おおむね1.5倍から1.8倍で推移してきた伸び率が1.2倍へ落ち、経常利益も微増にとどまった。電機・自動車・精密といった輸出関連の顧客が円高を受けて設備投資を一時的に抑えたことが原因で、不況期には省力化投資としてセンサー需要がむしろ増えるという従来の型が、長期化した円高の前では働かなかった。設備投資と人員を1.5倍に増やしたため経費も同程度に膨らんだ。それでも赤字には遠く、損益分岐点は売上高の約50%、売上高経常利益率は8期連続で35〜40%を保っていた。売上が半分になっても損失を出さない構造が、公開の直前に一度試された形である。
営業担当は顧客から得た情報を開発部門に渡すものの、何を求めているかという要望の中身までは渡さない。顧客の声から開発を始めない、という方針があるためである。要望が出てから着手すると1、2年のうちに他社からも似た製品が並び、値段は競り合いで決まる。こうして1988年時点で持っていた製品は大分類で30数アイテムあり、うち90%が業界初のオリジナルで、そのまた70%が独占市場だった。狙うのは顧客自身がまだ気づいていない潜在需要であり、他社に無い製品を最初に出せばプライスリーダーとして価格を一方的に設定できる。クリーンルームで使えるもの、超小型のものというように特徴を絞った品揃えは、オムロン、アンリツ、松下電工といった同業と正面から競合しない位置を作った。
1989年3月期の売上構成は、光学・磁気センサーを中心とする検出制御機器が54.2%、検査・監視センサーなどの計測制御機器が33.5%、レーザ変位計や外径測定器などの自動化用測定機器が12.3%だった。計測制御機器はほとんど競合がなくシェアは98〜99%に達していた。三つの製品群を貫いていたのが、原価率20%・売上総利益80%という損益の形である。受注生産を一切行わず、自社の危険負担で生産計画を立てて標準品だけを売るため、個別の設計費と生産管理費が発生しない。加えて商社を通さない直販が流通の取り分を抑えた。粗利80%から経費40%弱を引いた残りが営業利益40%という構成は、値付けと原価と販路の三つが同じ方向を向いたときにだけ成り立つ。
生産の内訳は、ノウハウ性の高い約25%を100%出資子会社のクレポが担い、残る75%を協力会社へ委託する体制であり、キーエンス本体にはブルーカラー社員が一人もいなかった。生産工程は同じ作業の繰り返しであるため付加価値が低く、他社との差異化も利きにくい。そこで、どこでも作れる商品と価格競争の厳しい商品は外へ出し、技術の独自性が高い2〜3割だけを自社系列に残した。本体が抱えたのは生産管理と生産技術と品質管理で、労務管理は協力会社が引き受けた。物流も同じ考えで、商品センターは本社近くの1か所のみとし、全国への配送は宅配便を使って受注の翌日に届けた。伝票の発行も請求も集金も本社で一括し、営業所には顧客と関わる伝票を置かなかった。
1989年12月に東京証券取引所市場第二部へ上場し、翌1990年9月には東証と大証の市場第一部へ移った。大証2部での公開から3年足らずである。1991年3月期の売上高は262億6700万円、経常利益は129億2800万円に達し、売上高経常利益率は49%となった。同年4月下旬には株価が任天堂を抜き、以後しばらく日本一の水準が続いた。滝崎武光氏は『株価は発行済み株式数に左右されますから、あまり意味がない』と語った。経営が見るべき指標は株主資本利益率と従業員1人当たり利益だという立場である。公募増資で得た資金は一時的に手元へ滞留し、大阪・東京・名古屋の研究所と営業所の建設に充てる計画が置かれていた。
1991年時点の社員は760人で、うち約100人が研究開発に携わった。平均年齢は28歳と若く、給与はメーカーのなかでも上位にあり、30歳を過ぎれば年収1000万円に達する水準だった。特別な給与体系を敷いたわけではないと断りつつ、滝崎武光氏は『将来は株価だけではなく、給与も日本一にしたい』と語った。役職の配り方も年齢構成に合わせ、課長の職位は30歳を超えてから与えた。30歳で部長に就けば、役員へ上がらない限り退職まで同じ職位にとどまる者が出るという理由である。直販の営業要員は1988年の約180人から1990年には250人へ増え、さらに1000人規模まで広げる方針が置かれた。人を増やすほど1人当たりの利益は薄まるはずで、待遇を上げ続けられたのは値付けの自由が手元にあったからである。
新本社と研究所の建物は、淀川のほとりに建つ21階建てのビルだった。完成は1994年8月で、場所は大阪市、本社の機能もここへ移った。滝崎武光氏は植栽の一本に至るまで自分で監修し、そこに創業21年目で一から出直すという意図を込めた。建設と並行して、社内では経営理念を改めるかどうかも話し合われた。議論は重ねられたものの、理念の中身は手つかずのまま残された。理念が創業時から動いていないことを示すしるしとして、館内には化石が置かれた。化石に託した意味は『適者生存、環境に合わせて生きていくということです』で、三葉虫や恐竜のような滅びる側には回らないという戒めでもある。センサーを主力とする今の形は、会社の規模に合わせた当座のものにとどまり、専業のメーカーを目指す考えは最初からなかった。社内には3000億円という目標があり、1000億円まではFA用センサーを主力とする構造のまま到達できると見ていた。
3000億円の社内目標を掲げた滝崎武光社長は1995年1月、規模の拡大を望みつつ『値段を安くして量を増やすという方法だけでは、最悪なんですね』と語った。滝崎武光社長は、コスト削減だけでは付加価値は生まれず、付加価値を加えた製品の価格は従来品を上回るのが自然だと考えた。企画と開発を手元に置き、生産を外部へ委託するファブレス経営はこの時期も続いた。1997年3月には、設備を持つ会社は稼働を保つために仕事を探す必要があり、名の通った会社から受託の打診が来るほどだと説明した。売上高は1995年3月期の387億円から、1996年3月期に490億円へ増加した。工場の稼働を埋めるために値引きするという動機を、ファブレスは最初から生まなかった。
社員が増えて開発に携わる人が広がるにつれ、新製品の打率は徐々に下がると、滝崎武光社長は1995年1月に認めた。日常業務やコストダウンの判断は現場に完全に委ねた一方、付加価値を生む開発には再び間接的に関与すると決めた。不況で顧客の予算が絞られて導入の検討が長引き、売上高に占める新製品の比率は低下していた。1997年3月には、開発のタネを多く蒔き、芽が出てから市場浸透の時間と1人当たり付加価値で間引く手順を示した。売上高は1997年3月期に589億円となった。権限を委ねるほど下がる打率を、創業者の目利きと間引きの規律で補う体制だった。
1997年3月期に当期純利益134億円を計上するなか、滝崎武光社長が警戒したのは役員の規律の緩みだった。取締役は社長を含めて4人で、権限を現場に下ろしたうえ、30代で取締役にすれば外せなくなるとして増やさなかった。大企業では会長・監査役・相談役に会社の将来を考えない人が座り、規律を乱しているとみた。歯止めとして、役員と年配の社員の退職金や年金を、退職後の会社の業績に応じて数年かけて払う仕組みを検討した。引退の近い者にも会社の将来を見据えさせ、後輩に良い影響を残させる狙いだった。処遇を業績に結びつける考えを、現役の期間から退職後にまで広げた構想だった。
1998年3月末の時価総額と実質株主資本から試算した1998年7月の企業価値創出度ランキングで、キーエンスは3位だった。キーエンスの創出度は3.84倍、株主からみた企業価値は5511億円だった。1位はセブン‐イレブン・ジャパンの7.94倍、2位はNTTデータ通信の4.68倍で、ファナックは1.01倍の50位だった。記事は上位の共通点を、本業の利益率の高さと経営効率の良さが株式市場で評価されたことに求めた。1998年3月期の売上高は709億円、当期純利益は164億円だった。資本に比べて厚い利益を、株式市場が時価総額で認めた結果の順位だった。
高い評価の直後、1999年3月期の売上高は651億円となり、前期の709億円から減少した。当期純利益も164億円から131億円へ減ったが、売上高に対する比率は約20%を保った。売上高の減少幅は約8%で、滝崎武光社長が1995年1月に見積もった不景気の影響10%程度の範囲に収まった。損益分岐点の高い会社は売上高が1、2割減ると苦しむが、キーエンスは余裕のない経営をしてこなかったという見立てである。予算が削られても良い新製品は売れるというのが、滝崎武光社長の考えだった。減収の背景には、1997年のアジア通貨危機と国内の設備投資の抑制でFA機器の需要が冷え込んだことがあるとみられる。
減収を1期で終え、2000年3月期の売上高は788億円、当期純利益は193億円へ回復した。2000年12月、滝崎武光氏は代表取締役会長となり、佐々木道夫氏が代表取締役社長に就任した。1957年3月生まれの佐々木道夫氏は1982年3月に入社し、1992年9月からKS事業部長を務めた。1999年6月に取締役APSULT事業部長となり、同年8月には事業推進部長を兼ねた。滝崎武光社長は1997年3月、息子に後を継がせず、縁故採用も一切禁じると明言していた。事業部を率いた43歳の生え抜きへの交代は、血縁を経営から外すという創業者の言葉を実地に移したものだった。
2001年9月、キーエンスは中国に現地法人KEYENCE (CHINA) CO.,LTD.を設立した。2003年10月時点の利益率40%は、ファブレスの生産と直販のコンサルティング営業に支えられていた。2009年3月期にも、佐々木道夫社長は海外市場を中心に営業の人員と営業所を拡充したと報告した。同期の地域別売上高は、日本が前期比18.7%減、北中米が18.5%減だった一方、その他の地域は8.7%減にとどまった。佐々木道夫社長は製造業の省人化と品質向上の世界的な流れを挙げ、『We view these global trends as having great potential for expanding our business.』(訳:こうした世界の潮流は当社の事業拡大に大きな可能性を持つとみている)と述べた。顧客の工場が中国をはじめ海外へ移るにつれ、直販の営業も同じ土地に置く必要が生じた。
2009年3月期の売上高は前期の2006億円から1653億円へ、営業利益は1024億円から734億円へ減少した。佐々木道夫社長は世界的な金融危機の影響として、『capital investment in the manufacturing industry, which is closely interlinked with our Group operations, has decreased significantly.』(訳:当社グループの事業と密接に連動する製造業の設備投資が大きく減少した)と説明した。減益のなかでも、超小型の干渉分光方式のレーザ変位センサや超高速の画像処理システムを新製品として出した。2009年4月には、キーエンスはジャストシステムと資本・業務提携契約を締結した。佐々木道夫社長は同じメッセージで、日本経済は輸出と生産の減少が続き、長い停滞に陥る公算が大きいとみた。センサー以外の事業への出資と、底の見えない受注環境の双方を抱えて、キーエンスは2010年代に入った。
2010年3月期の連結売上高は1361億円となり、前期の1653億円から縮小した。佐々木道夫社長は同期の年報で、営業の取り組みを『In the sales field, we made efforts to intensify our human resources and expand our sales offices, targeting overseas markets in particular.』(訳:営業では、とりわけ海外市場に向けて人員を強化し、営業所を拡充した)と株主に報告した。2010年12月、山本晃則氏が代表取締役社長に就任し、佐々木道夫氏は取締役特別顧問となった。山本晃則氏は1987年に入社し、FIGNA事業部長を経て2009年に取締役事業推進部長兼MECT事業部長を務めた。交代後の2011年3月期に、連結売上高は1848億円へ回復した。事業部を率いた経歴の社長に、需要が戻る局面での受注の拡大を委ねた人事と読める。
2011年5月にブラジル、同年8月にインドで現地法人を設立した。前年の年報で佐々木道夫社長は、新興国の一部に高い成長を見込む一方、全体の回復と設備投資の戻りは鈍いと見通していた。山本晃則社長は2013年の年報で、海外経済の減速により国内の輸出と生産の伸びが鈍り、製造業の投資が減ったと説明した。同じ年報は、米国と中国で景気が底を打つ動きがある一方、欧州は債務危機で回復が遅れたと記した。そのうえで営業の施策を『In the sales field, we made efforts to expand our overseas sales offices and to increase our human resources.』(訳:営業では、海外の営業所の拡充と人員の増強に努めた)と示した。国内の製造業が投資を抑えた時期に、工場の新設が続く新興国へ営業の人員を先に配置し、国内の減速を補う売上を海外に求めた。
2013年7月にインドネシア、2014年3月にベトナムで現地法人を設立した。2014年3月期の売上高は、国内が1459億56百万円、海外が1190億53百万円だった。2015年3月期の連結売上高は3340億34百万円となり、海外の1689億21百万円が国内の1651億13百万円を上回った。山本晃則社長は同期の年報で、中国などの成長が鈍る一方、米国など先進国で景気の回復が続いたと記した。海外の売上については『we worked to enhance our sales capabilities by expanding the number of our sales offices and increasing staff numbers, resulting in sales of JPY 168,921 million.』(訳:営業所の数を増やし人員を増強して販売力を高め、売上高1689億21百万円を計上した)と説明した。海外の成長は市場の景気よりも営業拠点と人員の数で決まるという見立てが、3期分の年報に一貫していた。
2015年3月21日、創業者の滝崎武光氏は代表取締役会長を退任し、取締役名誉会長に就任した。取締役会は2015年2月2日にこの異動を決め、設立40周年にあたる期を節目とすると理由を示した。名誉会長の役割は、グループ運営への助言とリーダー層の人材育成とされた。滝崎武光氏は1972年にリード電機を創業し、1974年の会社設立から社長、2000年12月から代表取締役会長を務めた。異動後の2015年6月期末にも、滝崎武光氏は468万8618株を持つ取締役として役員欄に名を連ねた。代表権を返上したのちも取締役会には残り、創業者の関与は執行から助言と人材育成へ移った。
山本晃則社長の在任中に、キーエンスは決算期の途中変更を3度くり返した。最初は2012年で、3月21日から6月20日までの3か月を第41期とし、続く第42期を9か月とした。2015年5月7日には、同じ3か月と9か月の変則決算を再び株主総会に諮ると発表した。理由は法人税率の引き下げを早く受けるためで、従来の期のままでは適用が2016年3月21日以降に遅れるとした。2016年4月27日にも、同年度の税制改正による税率引き下げを早く受けるとして、第47期を3か月、第48期を9か月とする変更を発表した。2017年4月の開示では業績予想を公表していないと明記し、期間の違いから前期比も載せなかった。前年と並べられない決算と予想の不開示が重なり、投資家には比べにくい開示と映った。
2016年12月5日、取締役会は2017年1月21日付で普通株式1株を2株に分割すると決めた。目的は、投資単位あたりの金額を引き下げ、流動性の向上と投資家層の拡大を図ることとした。同じ日に、株式会社ティ・ティを売出人とする普通株式150万株の売出しも決議した。売出しの目的は、株式の分布状況の改善と流動性の向上と説明した。売出人の株式会社ティ・ティと株主の滝崎武光氏は、受渡しから180日目までの売却を控えると共同主幹事会社と合意した。分割で1単位の金額を下げ、売出しで市場に流通する株数を増やして、株主の顔ぶれを広げる施策を同じ日にそろえた。
2017年3月期は9か月の変則決算で、連結売上高は3163億47百万円、純利益は1206億80百万円だった。3か月決算だった前期との差異は、変則決算によるものとキーエンスは説明した。通常の12か月に戻った2018年3月期には、売上高5268億47百万円、純利益2105億95百万円を計上した。山本晃則社長は同期の年報で、米国の消費と設備投資の拡大、国内の設備投資の継続を背景に挙げた。製造業には生産の効率化と自動化、品質の向上が求められ、そこに事業拡大の余地があるとも記した。先進国の設備投資の拡大に、積み増してきた営業人員が応じ、利益の規模を押し上げた。
2018年3月期の地域別売上高は、海外が2805億87百万円、国内が2462億59百万円だった。海外のうち米国は787億98百万円、中国は644億35百万円だった。3年前の2015年3月期は、海外が1689億21百万円、国内が1651億13百万円だった。3年間の増加額は、海外の1116億66百万円が国内の811億46百万円を上回った。山本晃則社長は海外について、『we worked to enhance our sales capabilities, with a focus on recruitment and personnel training, resulting in sales of JPY 280,587 million.』(訳:採用と人材育成に重点を置いて販売力を高め、売上高2805億87百万円を計上した)と記した。先の方針には『The KEYENCE Group, in an effort to boost sales internationally, will continue to focus on product development and expanded sales capabilities.』(訳:キーエンスグループは海外での販売拡大に向け、製品開発と販売力の拡充に引き続き注力する)と掲げた。海外の営業人員を採り、育て続ける仕事が、次の社長に引き継がれる課題となった。
海外売上高が国内を上回った後の2019年10月31日、キーエンスの取締役会は中田有氏を代表取締役社長に選んだ。中田有氏は1974年生まれで、1997年に入社し、センサ事業部長を経て2019年6月に取締役に就任していた。社長の山本晃則氏は代表権のない取締役に退き、交代は同年12月21日付とした。就任後の2020年3月期、海外売上高は2917億円で、国内の2601億円を上回り続けた。中田有氏は同じ年報で『We recognize the need to strengthen the Group’s planning and development capabilities while also expanding overseas business operations.』(訳:企画開発力を強化しつつ、海外事業を拡大する必要があると認識している)と記した。海外比率の上昇を受け継ぐ社長に、45歳の事業部長出身者を充てた人事だった。
社長交代を決めた2019年10月31日、キーエンスは普通株式1株を2株に分割すると決議した。目的は投資単位当たりの金額を引き下げ、株式の流動性を高めて投資家層を広げることだった。分割は2019年11月21日付で実施し、発行済株式総数は2億4320万株余りとなった。定款の発行可能株式総数も同日付で3億株から6億株に改めた。2020年3月期の期末配当は分割後も1株100円とし、配当金総額は243億円から364億円に増える見込みとした。経営陣の入れ替えが株主還元の後退を意味しないと、同じ日の発表で示したとみられる。
感染症の流行が重なった2021年3月期、連結売上高は5381億円となり、前期の5518億円を下回った。営業利益は2768億円で、前期の2776億円とほぼ同じ水準を保った。中田有氏は2020年6月付の年報で、米中貿易摩擦と感染症の拡大が設備投資と生産を減速させたと説明した。営業については『In sales, we have made efforts to increase staff and expand our overseas sales offices.』(訳:営業面では人員の増強と海外営業拠点の拡充に努めた)と書いた。連結従業員数も2021年3月期に8380人と、前期の8419人から大きく減らさなかった。減収の期にも営業の人員と海外拠点を縮小しなかったことが、翌期以降の増収の前提となった。
2024年6月14日の定時株主総会で、中田有氏の取締役選任への賛成比率は82.73%にとどまった。同じ議案で滝崎武光氏は87.79%、中野鉄也氏と山本寛明氏は92.79%の賛成を得た。取締役会は2021年11月時点で8名、うち社外取締役は2名で、議長は社長が務めていた。キーエンスは任意の指名・報酬委員会を置いていなかった。その理由を、独立社外取締役の助言を得ており、独立性と説明責任は十分担保されているためと説明した。議長を兼ね、指名の諮問機関を持たない取締役会の責任者として、反対票が社長個人に集まったと読める。
キーエンスは2022年12月23日、大阪府高槻市の土地を三菱自動車工業から取得する契約を結んだ。所在地は高槻市井尻二丁目、面積は5万2373.79平方メートルで、用途はロジスティクスセンター用地の予定とした。取得後も2024年3月までは、三菱自動車工業に土地を賃貸する予定だった。取引価格は相手先との取り決めにより公表しなかった。国内の有形固定資産は2022年3月期の167億円から、2023年3月期に462億円へ増えた。販売の拡大に合わせ、出荷を担う物流の用地を先に自社で確保する判断だった。
2023年3月期の連結売上高は9224億円、営業利益は4989億円となり、ともに過去最高を更新した。2022年3月期の売上高7551億円、営業利益4180億円から、それぞれ22.1%と19.3%増えた。キーエンスは増収増益の理由を、販売体制の強化と新商品の売上の寄与と説明した。連結従業員数は2022年3月期の8961人から、1年で1万580人に増えた。海外売上高は5743億円となり、前期の4450億円から1293億円増えた。営業利益の伸びが売上高に及ばなかったのは、人員の増強が利益に先行したためと推察される。
2024年3月期の海外売上高は6227億円で、国内の3446億円の1.8倍となり、連結売上高9673億円の64%を占めた。4年前の2020年3月期の海外売上高2917億円と比べ、2倍を超えた。営業利益は4950億円で、前期の4989億円をわずかに下回った。中田有氏は年報で国内について『In Japan, caution toward capital investment remained.』(訳:国内では設備投資への慎重さが続いた)と書いた。海外は欧米の設備投資が堅調で、『we worked to enhance our sales capabilities, with a focus on recruitment and personnel training, resulting in sales of JPY 622,720 million.』(訳:採用と人材育成を軸に営業力を強化し、売上高は6227億2000万円となった)と記した。国内の需要が鈍るなか、増収の大半を海外の営業人員の拡充で確保した期だった。
2025年5月20日、キーエンスはドイツ・アウクスブルクのCADENAS Technologiesの全株式を取得し、子会社にした。CADENAS社は3D CADの分野で約1000万人の利用者と部品メーカーを結ぶプラットフォームを運営していた。キーエンスはソフトウェアの拡販やインターネット事業に続く新領域として、M&Aの検討を進めていた。取得の理由は、設計とシミュレーションのデジタル化に欠かせない技術を得て、現場の商品と合わせた付加価値を生むことだった。連結売上高が1兆591億円に達した2025年3月期の直後の取得だった。2026年3月期の業績への影響は軽微と見込んだ。
2025年10月29日、キーエンスの取締役会は44歳の中野鉄也氏を社長に選び、就任を12月22日付とした。2004年入社の中野鉄也氏は制御システム事業部長を経て、2023年12月から取締役海外事業強化部長を務めていた。中田有氏は代表権のない取締役に退き、異動の理由は経営体制のさらなる強化とした。2025年6月の総会での賛成比率は、中野鉄也氏の93.02%に対し中田有氏は77.06%だった。交代時点の2025年3月期、海外売上高は6864億円で、国内の3728億円の1.8倍だった。海外比率6割超の会社と、株主の信任の立て直しを、海外事業の責任者に引き継がせた交代だった。
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事実根拠:出所(キーエンス)