キーエンスの創業者である滝崎武光氏の経歴は異色である。最終学歴は高校卒業(尼崎工業高校)であり、高校在学中は学生運動における指導的立場にあったという。だが、滝崎武光氏は「イデオロギー」では世の中は変化しないと観念し、ビジネスを通じて「世の中を変化させる」道を模索し、起業家に転身した。
高校卒業後に外資系のプラント制御機器メーカーを経て、1度目の起業にチャレンジするも倒産の憂き目にあった。この時の事業は「電子機器メーカー」であったという。
続いて、2度目に起業のチャレンジを試みるも、2度目と同様に倒産した。2度目の事業はメーカーの組み立て下請けであったという。すなわち、高校卒業後の約10年間に2つのビジネスを起こしたものの、失敗に終わった。
そして、1972年に滝崎武光氏(当時27歳)はキーエンスの前身となる「リード電機」を個人創業した。創業地は兵庫県伊丹市であり、1974年の法人化の時点で兵庫県尼崎市内に移転した。滝崎武光氏にとってキーエンスは「3度目」の起業のチャレンジとなった。
| 年 | 出来事 |
| 1945 | 生まれ |
| 1964 | 尼崎工業高校・卒業 |
| n/a | 1社目を起業するも倒産 |
| n/a | 2社目を起業するも倒産 |
| 1972 | リード電機を個人創業(現キーエンス) |
| 1974 | リード電機株式会社・代表取締役社長 |
| 2000 | キーエンス・代表取締役会長 |
| 2015 | キーエンス・取締役名誉会長 |
商品を通じて世の中を変えたい。常にそう思っています。今はセンサーを作っていますが、何もセンサーにこだわる必要はない。キーエンスの企業規模から考えて、今はセンサーを主力にしているだけで、仮の姿なんです。時代が移り、環境が変わったなら、事業内容だって変わって構わない。
それ以外には、理念というか、イデオロギーを強調する気はありません。というのは、私が高校に通っていた頃は学園紛争が花盛りで、私も運動を指導する立場についた。そこで「イデオロギーは結局好き嫌いの世界だ」ということを痛感しました。それがきっかけとなって、数字で勝負できる事業家を目指すようになりました。そもそもイデオロギーへのあきらめが創業のきっかけとなったんですから、経営には折り込まない方がうまくいうというのが私の持論なんです。(略)
最近は理念を前面に押し出すのが流行なのか、経営者同士の集まりでも「これからは団子より花でっせ」というような人がいるんですが、そうなっては事業家とは言えません。事業家の第一の条件は、総資産をうまく使って高い利益を上げることです。利益が上がらない、すなわち社員に対して付加価値の低い仕事しか与えられないのは、事業家として最悪です。
キーエンスの祖業は電線メーカー向けの「自動線材切断機」の製造であった。すなわち、創業期はファブレスではなく、工場で製品を生産することで商売をしていた。当時の切断機は大型のものが一般的であったが、滝崎氏は電子制御によって小型化できると判断。従来よりも小型の切断機を開発することで、電線メーカーへの納入に成功した。
なお、キーエンスの拠点が兵庫県尼崎市であったことから、切断機の納入先は古河電工(尼崎市内に工場)や住友電工(伊丹市内に工場)など、尼崎周辺に生産拠点を構えるメーカーであったと推定される。
1982年にキーエンスは祖業だった自動線材切断機(推定売上高9000万円/年)を他社に事業譲渡して撤退した。この事業は業績不振ではなく営業利益率20%超であったが、当時は主力事業をセンサーに転換しており、センサー販売の営業利益率(約40%)の方が高いことを理由に、切断機事業から撤退した。
キーエンスは業容を縮小する2つの決断をしたことがある。一つは、82年に創業時の事業である自動線材切断機の製造・販売権をそっくり他社に売却したことだ。この機械は電線の切断に使う電線メーカー向けの商品。別に不採算事業だったというわけではない。営業利益率20%の立派な収益事業だった。売り上げに占める割合も約1割あった。にもかかわらず、あっさりと手放したのだ。(略)
滝崎社長の頭の中には、明快な方針があった。「切断機は営業利益率40%のFAセンサーに比べると利益率が低い。商品内容も異なるので開発にも無駄が生じる。FAセンサーの仕事が増えているのだから、そちらに特化した方が収益力は強まる」
創業期からキーエンスは顧客への直販体制を採用していた。製品が特殊な仕様であることから、代理店経由で販売するとメリットが訴求しにくいためであった。
類似業界では、当時はオムロン(京都本社)が代理店経由の販売体制をとっており、この点でキーエンスは競合と明確に差別化を図った。
大きな特徴は直販体制をとっていて、商社、代理店制度をとっていないということである。これは創業当初からで、なぜそうしたかというと、他社にない製品なので、商社、代理店を通じてPRすると、当社製品の価値がうまく顧客に伝わらないと考えたためである。代理店にはユーザーの事情で伝票を通すこともあるが、実際の商談はすべて当社が行なっており、最終ユーザーまで把握している。
キーエンスの歴史における転機は、1974年のトヨタ自動車へのセンサ納入である。
1970年代初頭のトヨタ自動車はプレス加工において、板金の二重送りという失敗によって高額な金型が壊れるという事故に悩まされていた。このことを知った滝崎武光は、トヨタ自動車に板金の二重送りを未然に防ぐ「交流磁界を用いた磁気センサ」を提案し、納入に成功した。
1970年代を通じて、キーエンスの製品はセンサが中心となったが、いずれも金属片の検知機器が中心であった。すなわち、工場の生産現場において「異物としての金属」が混入していないかを検知するための装置であり、生産性に貢献する製品群であった。
これらのセンサーは設置しなくても生産ラインを止めることにはならないが、異常発生を未然に防ぐことができ、結果として歩留まりが向上することから、生産現場では必需品となった。加えて、センサーの設置に対する費用対効果が大きいことから、結果としてこれらのセンサの値付けにおいて、原価ベースではなく、設置コストの対価を基準に据えることができた。
具体的には、1975年時点で金属2枚送り検知器の単価は85,000円であった。
センサーの製造にあたって、キーエンスは受注生産(カスタム品)を行わず、カタログの標準品の販売に特化した。これは、カスタム品に対応した場合、設計や生産にかかるコストが増加するためであった。そこで、キーエンスとしては汎用的な標準品を企画開発した上で、センサを顧客に提供する方式をとった。
これにより製品原価(仕入れ価格)を抑制することでコストダウンを実施。工場の生産現場で使うセンサーは、一つのラインで複数のセンサーを設置するため、コストダウンによって需要が開ける面もあった。この結果、コストダウンによって売上を拡大しつつ、利益を確保するに至った。
| 製品名 | 機能 | 用途(推定) |
| 微小位検出スイッチ | 金属物体の極小位置を検知 | - |
| 金属板2枚送り検出器 | 無接触で検知。2枚送り時に信号を発火 | 自動車工場など |
| D.F DETECTOR | 金属の組成変化を検知 | 鉄鋼メーカー |
| 金属片通過確認スイッチ | 微小金属片を検知 | 金属加工メーカー |
| 継目検出器 | 穴の有無を検出 | - |
48年(注:1973年)、現在のFA用センサーの専門メーカーとなるきっかけになる製品を開発した。そのセンサーは、プレス加工における金属板の自動供給装置の送りミス検出に使用されるものである。プレス加工の多いのが自動車産業で、この自動車産業の金型の保護に使用されるセンサーを開発した。自動車は、ボディーをはじめ金属加工のいろいろな部品がプレス加工されてできている。これらの金型は、相当高価なもので数億円するものもある。その当時、それらの金型を保護するものがあるにはあったが、非常に不安定なもので、時折、金型を壊すことがあったので、プレス加工工程では問題になっていた。その時、当社が開発した磁気応用センサーが非常に安定して確認できるということで採用されたのである。(略)
これが自動車関係、特にトヨタ自動車に採用され、約1年後に工場指定となり、トヨタ自動車の主力工場で使用されるようになった。これを皮切りに、日産自動車、三菱自工、本田技研、その他自動車メーカー、オートバイ・メーカーなどに多数採用されるようになった。(略)
それ以降、交流磁界を応用した磁気センサーを数々発表し、大体、年間1つないし2つの割合で開発してきた。
1974年5月に滝崎武光氏は、個人事業であったリード電機を株式会社化に組織変更を実施して、リード電機株式会社を設立した。設立地は尼崎市であり、1977年時点の本社所在地は「尼崎市長洲西通1-10(尼崎ステーションビル6階)」であり、工場として「池田」と「東大阪」の2拠点を運営していた。
法人化した理由は、トヨタ自動車との取引にあたって法人口座が必要であったためと推察される。法人化を遅らした理由は、滝崎氏がビジネスに数回失敗しており、株式会社の設立をギリギリまで見送っていたという可能性もある。
1973年4月に開発・発売した磁気応用センサ「金属二枚送り検出器」が自動車業界を中心に多数受け入れられ、会社としての基礎と方向が定まったので組織を改め、1974年5月にリード電機株式会社を設立し、今年で16年目になる。この間、1986年10月にブランドと商号の統一を図るため、社名を株式会社キーエンスに変更した。
1982年の時点でキーエンスの祖業であった「自動線材切断機」は営業利益率が20%(1989/5/22日経ビジネス)の高収益事業であったが。しかし、創業者の滝崎武光氏はセンサ事業(営業利益率40%)よりも収益性が低いことを理由に撤退を決断。
また、顧客の一極集中によるリスクを防ぐために、当時、キーエンスの売上高の20%を占めていた某機械メーカーとの取引縮小を決断するなど、値下げ圧力を回避する方向にビジネスを変えた。
製造子会社としてクレボを設立し、全製品のうちノウハウが鍵を握る25%の製品を子会社で生産。残りの75%はファブレスとして協力会社に製造を委託した。キーエンスは製品開発・企画・販売に注力し、採算が悪化する受注生産はせずに、標準品を販売することで利益率の確保を目論んだ。なお、生産量の目安は月産50個〜1万個とレンジが広いが、他社比較で「より多く量産できる個数」を生産量として定義していた。
1987年10月にキーエンスは大阪証券取引所第2部に株式を上場し、公募増資によって約209億円を資金調達した。キーエンスの上場は、日本屈指の高収益企業(FY1986 売上高73億円, 経常利益26億円)として注目集めた。
資本政策の観点では、上場後の1989年3月時点で、武崎武光氏が株式25.69%を保有。同氏の資産管理会社である(株)ティ・ティも18.84%を保有しており、滝崎家が45%を保有する資本政策となった。これは上場前の増資にあたって、滝崎家は希薄化を最小限に抑える資本政策を行っており、この結果として上場後も株式保有比率を高い水準でキープした。
キーエンスの株価高騰により滝崎氏の資産も膨れ上がる構造となっており、滝崎氏は株価高騰とともに日本を代表する資産家として認知されるに至った。2021年には創業者である滝崎氏の資産が4.2兆円となり、ユニクロ(ファストリ)の柳井氏、ソフトバンクの孫正義氏を抑えて、日本一の資産家となっている。
| 名称 | 保有比率 | 備考 |
| 滝崎武光 | 25.69% | キーエンス創業者 |
| 株式会社ティ・ティ | 18.84% | 滝崎家の資産管理会社 |
| 岡本光一 | 2.93% | - |
| 三和銀行 | 2.83% | - |
| 大和銀行 | 2.51% | - |
| 太陽生命保険 | 1.89% | - |
| 滝崎美弥子 | 1.66% | 創業家 |
1989年および1991年にかけて、キーエンスは2度の公募増資を実施。1989年には176億円、1991年には216億円の資金調達を実施した。
これらの資金調達によって、キーエンスの自己資本比率は90%以上という驚異的な水準に至った。
| 年度 | 負債の部合計 | 資本の部合計 | 自己資本比率 |
| 1987/3 | 28億円 | 47億円 | 62.6% |
| 1988/3 | 29億円 | 272億円 | 90.3% |
| 1989/3 | 49億円 | 474億円 | 90.6% |
1991年時点でキーエンスの社員は平均年齢28歳であり、30歳を過ぎた社員に対しては「年収約1000万円」の給与水準を提示した。滝崎氏は、社員にとっての仕事のやりがい以上に、給与として還元することにこだわっており、創業3年目から営業利益の社員への還元を進めてきた。
具体的には「営業利益の一部から半分を毎月の給与に加算して、残り半分を積み立てて賞与に加算するルール」(滝崎氏・2003/10/27日経ビジネス)を策定して運用した。
キーエンスの社員は基本給は少ないものの、業績連動賞与で多額の報酬を得る賃金体系となっている。
人の採用では常に苦労しています。とはいえ、会社の規模を考えれば、その時その時で最高の人が来てくれていると思いますよ。うちはメーカーではトップクラスの給与を支払っている。30歳過ぎて年収1000万円に手が届きます。と言っても、特別な給与体系を採用しているわけではない。人を集めるには、仕事のやりがいも大切ですが、やはり数字に現れる待遇が良くないといけません。将来は株価だけではなく、給与も日本一にしたいですね。
キーエンスの年間平均給与(単体決算)は、業績に連動しておりボラティリティが高いが、営業利益率が好調な2018年度に平均給与2000万円を突破した。
その後、コロナ禍における営業利益の減少時には再び1800万円台に沈んだが、業績回復とともに2021年度には過去最高となる2200万円台の平均給与を達成した。
2022年頃にキーエンスを取り扱った一般書籍が販売されるなど、キーエンスを解明するブーム事象が発生した。
不況により主要顧客である国内製造業の設備投資がストップ。キーエンスも販売不審へ
創業者の滝崎武光氏は会長として経営に従事。以後、キーエンス出身者が社長を歴任する体制へ
リーマンショックによる経済不況で、企業の設備投資がストップ。設備投資動向に業績が依存するキーエンスは減収減益に至った。
経営不振に陥っていたジャストシステムを救済するため、第三者割当増資により株式44%を45億円にて取得。異業種ながらも、キーエンスはジャストシステムの開発力を評価して出資を決めた。
1985年にキーエンスは米国現地法人を設立したことを皮切りに、海外展開に着手した。創業者の滝崎氏は海外売上比率30〜50%を目指したものの、1990年代および2000年代を通じて、キーエンスの売上構成比の大半は国内で占められた。
国内で業容を拡大する一方で、海外展開で伸び悩んだ理由は、新興国における生産設備の合理化のニーズが顕在化していなかったことにある。2000年代の中国などのアジアは、大量生産が重視される時代であり、高額なセンサーを導入して自動化を図るよりも、労働集約的に人員を投入するビジネスで経済成長を遂げていた。
2000年代まではグローバルでセンサーのニーズは成長過程にあらず、キーエンスのグローバル展開も苦戦を強いられていた。
この潮流が変化したのが、2008年のリーマンショック以降であった。不況に加えて為替変動などもあり、中国などの新興国でも「生産合理化」に対するニーズが高まった。
リーマンショックは、キーエンスの提供する「生産合理化」に対するニーズが新興国でも高まる契機となった。
2010年12月にキーエンスの社長に山本氏が就任。グローバル展開を積極化する方向に舵を切った。経営目標としては「海外売上高比率を早期に50%程度に引き上る方針」を掲げた(2011/10/28日経新聞)。ただし、キーエンスは投資額などの経営計画の詳細な開示を行なっておらず、競合に悟られない形で海外展開を本格化したものと推察される。
なお、グローバル展開は、海外でセンサーを販売する営業・サポート体制に投資を実施した。特にアメリカおよび中国において、営業・技術サポート拠点を広範囲に設置することで、受注から出荷までのリードタイムを短縮。顧客に対して「即納」という付加価値を提供することに注力したと推察される。
2022年時点の海外拠点の一覧は下記の通り。特に製造業が集積する「米国・中国・ドイツ」で緻密なサポート体制を確立したと推察される。
グローバルな直販営業を強化し、さらに付加価値の高い商品を開発していきたい
FY2014にキーエンスは海外売上比率50%を突破。リーマンショック後の「生産合理化」のニーズを新興国を中心に獲得することで業容を拡大した。売上面では1985年に進出した米国が貢献しつつも、中国を著しく伸ばした。また内訳は非開示だが「その他(日本・米国・中国以外)」の地域に関しても売り上げを拡大しており、東南アジアなどの新興国を中心にセンサーの拡販に成功したと推察される。
この結果、2010年代を通じてキーエンスはグローバル企業に変貌。高収益体質をキープし、売上成長と利益率を両立させる希有な企業として注目を集めた。
2015年ごろのキーエンスは株主との対話を避ける上場企業として投資家から問題視された。特に余剰となった現金の使い道に関する不透明さが不評を買った。
高収益を確保する一方で、用途がない資金が株主に還元されないこと受けて、海外の機関投資家を中心にキーエンスの経営陣に対する不信感が増大。2022年6月の株主総会において、中田社長に対する取締役の再任賛成比率は80.88%、名誉会長(創業者)である滝崎武光氏の取締役の再任賛成比率は86.69%であり、投資家からの信頼を喪失しつつある。
海外展開の好調で過去最高益へ