帝人 の歴史

更新:

1918年、秦逸三・久村清太が山形県米沢市で創業。鈴木商店からの独立、大屋晋三氏の経営、1978年の減量経営、アラミド繊維と医薬フェブリクまでの沿革と経緯を執筆。

創業

1918年

創業者

秦逸三・久村清太

創業地

山形県米沢市

直近売上高(2026/3)

8,732億円

帝人:長期業績の推移(売上高・利益率)売上高(億円純利益率(%)
1997年3月期2026年3月期
Q なぜ1927年に親会社・鈴木商店を失った帝人は独立企業として残れたのか
A 親会社を失っても祖業レーヨンが当時の成長市場だったため、後ろ盾なしでも事業として自立できたからである。1918年に鈴木商店の支援で米沢に設立された帝国人造絹糸は、輸入品が高い人絹市場で短期間に上位へ進んだ。1927年に鈴木商店が昭和金融恐慌で倒れた後も、株主異動で経営基盤を組み直して独立企業として残った大屋晋三社長は後年、人絹隆盛期について『1931年までは帝人の実質利益は、他の人絹会社すべてを合わせたものも凌いでいた』と語っている
Q なぜ1957年に大屋晋三社長は祖業レーヨンを捨ててポリエステル「テトロン」に賭けたのか
A アセテートで市場拡大を逃した苦い経験から、より大きな衣料用途が見込めるポリエステルへ自社の判断で賭けたからである。1955年に量産したアセテートは用途が限られ売上に結びつかなかった。そこで1957年1月に英国ICI社と技術提携し『テトロン』でポリエステルへ参入、1962年にナイロンを加え、1971年に祖業レーヨンの生産から撤退した。大屋晋三社長は『ポリエステル繊維先行を主張し、決定した。まさに、経営者としての重大責任である意思決定の厳粛なる決定的瞬間であった』と語っている
Q なぜ2022年就任の内川哲茂社長は新規投資より過去の事業の後始末を優先したのか
A 参入は速いが撤退と資本回収の検証が弱く、広げた事業を勝ちきれない低収益体質を長く抱えてきたためである。2022年に就任した内川哲茂社長は、まず資本回収の検証を前に置いた。2024年からの中期経営計画では新規投資を強みのある領域に絞り、2017年買収の米CSP由来で川下まで広げた自動車部品の収益化を確かめ直す整理へ資源を回した。新事業を増やすより、過去に広げた事業の後始末を済ませる構造改革へ経営の主たる手を移している。

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1918年〜 帝国人絹の設立と鈴木商店からの独立および合成繊維メーカーへの転身

帝人の業績推移:単体

売上高(億円)純利益率(%)
  1. 1918年 帝国人絹を設立
  2. 1926年 広島工場を新設
  3. 1927年 鈴木商店から独立
  4. 1934年 三原工場の新設
  5. 1957年 ポリエステルに参入
  6. 1968年 未来事業本部の発足と、繊維一本足からの多角化 テトロンの次の柱をどこに求めるか——大屋晋三社長のトップダウンは50超の新規事業をどこへ導いたか
  7. 1978年 減量経営による約2,600名の人員削減 赤字に転じた主力・繊維事業を前に、社長・大屋晋三氏はなぜ「4人に1人」の人減らしに踏み切ったか

金子直吉氏の支援と鈴木商店系人絹の誕生

帝人の祖業は、東工業が1915年に米沢へ設けた分工場[1]『米沢人造絹糸所』の操業にさかのぼり、その人造絹糸部が1918年に分離独立してわが国最古の化繊会社となった。[2]鈴木商店の大番頭として知られた金子直吉氏は、米沢高等工業学校の講師として人造絹糸の研究をした秦逸三氏と、皮革分野の研究者であった久村清太氏の技術開発を支援し、1918年に資本金500万円で『帝国人造絹糸』を山形県米沢市に設立した[3]。金子氏が資金調達と事業設計の全体像を担い、秦氏と久村氏が人造絹糸の製造技術開発を担当するという役割分担のもとで立ち上がった。設立当初の米沢工場は当時の技術水準からみれば試験的な生産拠点にとどまり、本格的な量産体制の構築は後の岩国工場の新設を待たねばならなかった[4]。後に大屋晋三社長が『人絹というものは非常に有望』と回想したとおり、創業期の帝人は成長市場の入口に立った後発参入者として出発した。

  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968年)
    • [1]帝人の前身は鈴木商店傘下・東工業が1915年(大正4年)に米沢へ設けた分工場「米沢人造絹糸所」での操業に始まる(明治百年)
    • [2]帝人はわが国最古の化繊会社(明治百年。1918年に東工業人造絹糸部が分離独立して設立)
  • 帝人 有価証券報告書 第159期(2025年3月期)【沿革】
    • [3]1918年6月 帝国人造絹絲(株)を設立し、山形県米沢市でレーヨンの生産を開始
    • [4]本格量産が岩国工場から始まった点は有報沿革と整合(1927年1月 岩国工場操業開始、レーヨンの生産拡大)

1926年2月には広島に工場を新設し、続く1927年1月には岩国工場が操業を開始して量産体制に移行[5]し、米沢の試験的段階から商業生産へ移った。しかし同じ1927年には昭和金融恐慌が発生し、親会社であった鈴木商店そのものが倒産した。帝人はそれまでのグループ依存の経営体質を継続できなくなったが、レーヨン事業自体は当時の国際市場で需要増が見込まれた成長分野であり、株主異動を通じて経営基盤を再構成した。のちに大屋晋三社長は人絹隆盛期の帝人を振り返り『1931年までは帝人の実質利益は、他の人絹会社すべてを合わせたものも凌いでいた』と語っている。独立後は1934年に三原工場を新設するとともに第二帝国人造絹糸を設立し、非能率な米沢・広島の両工場を閉鎖した[6]。1937年末にはレーヨン糸の生産能力が日産141屯強に達し、わが国最大のレーヨン糸メーカーとなった[7]。鈴木商店という後ろ盾から離れた独立企業として運営する体制が整い、戦後の合成繊維メーカーへ転じる素地が築かれた。

  • 帝人 有価証券報告書 第159期(2025年3月期)【沿革】
    • [5]1926年2月に広島工場を新設し、1927年1月に岩国工場が操業を開始してレーヨンの量産体制に移行した
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968年)
    • [6]1934年(昭和9年)三原工場を新設するとともに第二帝国人造絹糸を設立し、米沢・広島の両工場を閉鎖した(明治百年)
    • [7]1937年(昭和12年)末にレーヨン糸日産141屯強となり、わが国最大のレーヨン糸メーカーとなった(明治百年)

設備面の不均衡はしばらく尾を引いた。1953年の回想で大屋晋三社長は、自社の生産拠点について『能率の良い新鋭岩国工場があれば、旧式で能率の低い広島工場、むしろ原始的とさえいうべき米沢工場を併せ持っていた』と述べ[8]、草創期から戦時期にかけて複数世代の設備が並存していた事情を率直に語っている。人絹ブームが無名の後発企業を短期間で業界上位へ押し上げた当時の勢いも、同じ回想で『非常に会社がよくなって』と振り返られている。同社長は入社当時を、名もない帝人が人絹という商品の伸びに乗って業績を上げ、失業した先輩や自分が羨んだ地位にいた同輩が次々と帝人へ移ってきて、十年先輩の者が自分の下に付いたと語っており[9]、人絹が生んだ待遇の落差を人の動きから説明している。新旧の生産設備の混在は戦後の設備投資判断と合成繊維転換の前提条件を形づくり、祖業であるレーヨン事業の将来をどう扱うかという問題を経営の中央に置かざるを得ない出発点となった。

  • ダイヤモンド 1953年4月号
    • [8]1953年の回想で大屋晋三は自社の生産拠点について、能率の良い新鋭の岩国工場に対し、旧式で能率の低い広島工場、むしろ原始的とさえいうべき米沢工場を併せ持っていたと述べている
    • [9]大屋晋三は、名もない帝人が人絹という商品の伸長で業績を上げ、失業した先輩や自分が羨んだ地位にいた同輩が入社してきて10年先輩の者が自分の下についたと回想している
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968年)
    • [1]帝人の前身は鈴木商店傘下・東工業が1915年(大正4年)に米沢へ設けた分工場「米沢人造絹糸所」での操業に始まる(明治百年)
    • [2]帝人はわが国最古の化繊会社(明治百年。1918年に東工業人造絹糸部が分離独立して設立)
    • [6]1934年(昭和9年)三原工場を新設するとともに第二帝国人造絹糸を設立し、米沢・広島の両工場を閉鎖した(明治百年)
    • [7]1937年(昭和12年)末にレーヨン糸日産141屯強となり、わが国最大のレーヨン糸メーカーとなった(明治百年)
  • 帝人 有価証券報告書 第159期(2025年3月期)【沿革】
    • [3]1918年6月 帝国人造絹絲(株)を設立し、山形県米沢市でレーヨンの生産を開始
    • [4]本格量産が岩国工場から始まった点は有報沿革と整合(1927年1月 岩国工場操業開始、レーヨンの生産拡大)
    • [5]1926年2月に広島工場を新設し、1927年1月に岩国工場が操業を開始してレーヨンの量産体制に移行した
  • ダイヤモンド 1953年4月号
    • [8]1953年の回想で大屋晋三は自社の生産拠点について、能率の良い新鋭の岩国工場に対し、旧式で能率の低い広島工場、むしろ原始的とさえいうべき米沢工場を併せ持っていたと述べている
    • [9]大屋晋三は、名もない帝人が人絹という商品の伸長で業績を上げ、失業した先輩や自分が羨んだ地位にいた同輩が入社してきて10年先輩の者が自分の下についたと回想している

大屋晋三社長の主導によるアセテートからポリエステルへの転換

戦後の経営再建期に大屋晋三氏が社長に就任し、合成繊維分野への進出を主導した。1955年11月には松山工場で国内初のアセテート[10]繊維の量産を開始したが、国内市場での用途は限定的な範囲にとどまり、市場は期待されたような規模にまで拡大しなかった。量産開始から3年が経過した時点でも半期売上高は経営陣の当初の期待を下回る水準にとどまり、アセテート繊維への集中的な資本投資は帝人本体の売上拡大に結びつかなかった。合成繊維多角化の初期における苦い経験が、後のポリエステルとナイロン参入の判断に際して大屋晋三社長の意思決定に影響を与える技術文化の底流となった。

  • 帝人 有価証券報告書 第159期(2025年3月期)【沿革】
    • [10]1955年11月 アセテートに参入。なお有報沿革は「1955年10月 松山工場操業開始、アセテートの生産開始」と月が異なる

1947年に大屋晋三社長が政界に進出して社を離れた期間は、合成繊維への転換が遅れる一因となった。1965年の著書は、留守を預かった経営陣に達識と断行の士がおらず、体質改善を求める社内の声に対しては人絹の座り心地の良さに安住して、ものになるかわからないものへ手を出せばレーヨンの利益を食いつぶすと合繊会社を冷笑する声さえあったと記す[11]。同じ著書で大屋晋三社長は当時の社内空気を『人絹ブームでもうけた利潤は、合繊に再投資されず、レジャーに再投資されていたのである』と書き、『そのころ、帝人では、ゴルフがうまくならないと、出世できないというので、上から下までゴルフに熱中した』とまで振り返っている。1953年の回想では、試験済みのレーヨンを復元することが終戦直後の常識では無難な措置であり、東レがまだ評価の定まらないナイロンへ大金を投じたのはむしろ危険な試みと見られていたと整理したうえで[12]、自社の判断について『穏健にして常識的と目されたわが帝人は、はるかにその後塵を拝さねばならなくなった』『これがすなわち帝人が衰退した第一の原因である』と述べた。首脳がレーヨンという商品の寿命を見抜けなかったという率直な失敗認識が、次の攻勢の出発点となった。

  • 『私の経営理念 : 一流企業の首脳は語る』(東洋経済新報社, 1965年)
    • [11]1947年の政界進出で大屋晋三に社を顧みる暇がなく、留守を守った経営者のなかに達識・断行の士がいなかったため、帝人はレーヨンから合成繊維への転換という情勢を的確につかめなかった。社内には合繊会社を冷笑する声があり、人絹ブームの利潤は合繊に再投資されずレジャーに再投資されていたと記す
  • ダイヤモンド 1953年4月号
    • [12]終戦直後の常識では試験済みのレーヨンを復元するのが無難な措置で、東レがまだ良否の定まらないナイロンに大金を投じたのは危険な試みであった。大屋晋三はレーヨン復元を選んだことを帝人が衰退した第一の原因とし、首脳がレーヨンの商品としての生命を見抜く能力を欠いたと述べている

1957年1月、帝人は英国のICI社と技術提携を結び、ポリエステル繊維への参入を決定した。東レとの業界共同導入という枠組みのもとで『テトロン』の商標で販売を開始し、ポリエステルは優れた染色性と耐久性で主に衣料用途に適した新市場を国内に形成した。大屋晋三社長自身は後年『ポリエステル繊維先行を主張し、決定した。まさに、経営者としての重大責任である意思決定の厳粛なる決定的瞬間であった』と自負を語り[13]、同時代にアクリル繊維へ傾斜した東洋紡や三菱レーヨン、旭化成が同系繊維で苦戦したことを引き合いに、分岐を意識した選択であったと位置づけている。1962年には米アライドケミカル社との技術提携を通じてナイロン分野にも参入し、合成繊維三分野体制の構築が進んだ。1971年には創業以来の主力事業であったレーヨン生産から撤退する決断を下し、祖業を放棄して合成繊維メーカーとしての再定義を終えた。

  • 『私の経営理念 : 一流企業の首脳は語る』(東洋経済新報社, 1965年)
    • [13]大屋が社長に復帰した当時にポリエステル繊維先行を主張・決定したことを、経営者としての重大責任である意思決定の決定的瞬間と位置づけ、同系繊維のアクリルで東洋紡・三菱レーヨン・旭化成が苦しんだことと対比している
  • 帝人 有価証券報告書 第159期(2025年3月期)【沿革】
    • [10]1955年11月 アセテートに参入。なお有報沿革は「1955年10月 松山工場操業開始、アセテートの生産開始」と月が異なる
  • 『私の経営理念 : 一流企業の首脳は語る』(東洋経済新報社, 1965年)
    • [11]1947年の政界進出で大屋晋三に社を顧みる暇がなく、留守を守った経営者のなかに達識・断行の士がいなかったため、帝人はレーヨンから合成繊維への転換という情勢を的確につかめなかった。社内には合繊会社を冷笑する声があり、人絹ブームの利潤は合繊に再投資されずレジャーに再投資されていたと記す
    • [13]大屋が社長に復帰した当時にポリエステル繊維先行を主張・決定したことを、経営者としての重大責任である意思決定の決定的瞬間と位置づけ、同系繊維のアクリルで東洋紡・三菱レーヨン・旭化成が苦しんだことと対比している
  • ダイヤモンド 1953年4月号
    • [12]終戦直後の常識では試験済みのレーヨンを復元するのが無難な措置で、東レがまだ良否の定まらないナイロンに大金を投じたのは危険な試みであった。大屋晋三はレーヨン復元を選んだことを帝人が衰退した第一の原因とし、首脳がレーヨンの商品としての生命を見抜く能力を欠いたと述べている

未来事業本部と繊維多角化の試行錯誤

1968年、帝人は社内に『未来事業本部』という独立性の高い新規事業組織を新設し、当時としては前例の少ない組織改革に踏み切った。大屋晋三社長のトップダウンで打ち出された構想であり、社外から約100名の専門人材を中途採用で集めて専属組織として新規事業開発の第一線に投入する取り組みだった。大屋晋三社長は1963年のインタビューで『従来ぜんぜん手がけていなかったものを採り入れても、案外短時間に成功するポシビリティが出てきます』『なんでもいいから、我々の技術、経験から万能な範囲にある儲かるもの、資本効率のいいものを採り入れていこうとしているのです』と語り、繊維事業からの多角化構想を公言していた。化学や電気、機械工学から数学まで自社の技術が広い分野にまたがることを根拠に、儲からなくなったビスコースの改良に固執するより新しい技術分野を探すほうが資本効率も上がると説く一方、具体的かつ体系的にはまだ語る段階にないとも認めていた[14]。1969年には『積極的な未来の可能性に挑戦するという、基本的態度がなければ、未来事業は成立し得ない』と述べ[15]、危険を引き受ける組織文化の構築を訴えた。

  • 「成功の秘訣」(1963年)
    • [14]大屋晋三は1963年に、近代産業に共通する基本技術は化学・電気・機械工学から数学まで広くおよび、それを展開すれば人のやらないタチのいいものに当たる機会があるとして、儲からなくなったビスコースの改良に固執するより新しい技術分野を探すほうが資本効率も上がり社業も向上すると説いた。一方で具体的かつ体系的にはまだ話せる段階にないとも認めている
  • 経済人 1969年5月号「未来論的立場からみた企業のあり方・大屋晋三」
    • [15]積極的に未来の可能性へ挑戦する基本的態度がなければ未来事業は成立し得ないとして、あえて危険をおかす態度を企業全体で盛り立てることを未来事業成功の要諦とした

しかし新規事業の具体的な対象分野や撤退基準は経営陣の側で定められておらず、子会社設立や海外企業との合弁を通じて情報産業・教育産業・エネルギー開発・ファインケミカルなど50を超える事業領域が展開された。1970年の大阪万博をピークとする未来ブームのなかで発足した未来事業本部は、発足1年の時点では、予想もされない新事業が飛び出して帝人の企業像を一変させるかもしれないから長い目で見守るべきだという期待混じりの評価を業界誌から受けていた[16]。だが1970年代前半のドルショックとオイルショックの嵐に見舞われ、複数の領域で撤退や縮小に追い込まれた。各事業間の技術的関連性は乏しく、結果として経営資源が社内で分散したが、医薬品分野では一定の事業継続と技術蓄積が図られ、繊維以外の柱として残る候補が絞り込まれた。

  • ダイヤモンド 1969年4月28日号
    • [16]未来事業部門の発足1年を伝える1969年の記事は、いまや断絶の時代であり、今後予想もされない新事業が飛び出して帝人のイメージを180度転換させることになるとも限らないとして、長い目でこの部門を見守るとしている

1978年には繊維事業の生産調整策[17]として名古屋工場の全面閉鎖を実施し、約2650名に及ぶ人員削減を断行する経営判断を下した。社員数のおよそ4分の1に相当する規模の削減であり、繊維事業の構造的な縮小と並行する形で未来事業の整理と選別が進められた。1976年時点の業界観測では、情報産業・教育産業・エネルギー開発・食料資源開発・輸送関連産業・ファインケミカルなど手を染めた分野は多彩だが際立った成果はあげられず、重荷となって撤退途上の分野も多いため、テトロン一本足からの脱却は今後へ持ち越されたと見られていた[18]。最終的には医薬品を将来の重点領域として絞り込む流れがここから始まり、後の帝人の事業構造転換を支える軸となった。大屋晋三社長が公言していた『資本効率のいいもの』という選別基準が、10年を経て具体的な事業構成として姿を現し始めた時期である。

  • 日経ビジネス 1978年10月23日号(日経マグロウヒル社)
    • [17]1978年9月末までの半年間で約2,650名(応募1,550名・専従会社移籍700名・自然減400名)が退職。timelineの「約2600名」は概数表記で、日経ビジネス1978/10/23号の逐語証言(「2650人がやめた」)と符合する本文「約2650名」が一次資料と一致
  • 週刊東洋経済 1976年9月4日号
    • [18]1976年の業界観測では、情報産業・教育産業・エネルギー開発・食料資源開発・輸送関連産業・ファインケミカルなど帝人が手を染めた分野は多彩だが際立った成果はあげえず、重荷となって撤退途上の分野も多いため、長期戦略としてのテトロン一本足からの脱却は今後に持ち越されたとされる
  • 「成功の秘訣」(1963年)
    • [14]大屋晋三は1963年に、近代産業に共通する基本技術は化学・電気・機械工学から数学まで広くおよび、それを展開すれば人のやらないタチのいいものに当たる機会があるとして、儲からなくなったビスコースの改良に固執するより新しい技術分野を探すほうが資本効率も上がり社業も向上すると説いた。一方で具体的かつ体系的にはまだ話せる段階にないとも認めている
  • 経済人 1969年5月号「未来論的立場からみた企業のあり方・大屋晋三」
    • [15]積極的に未来の可能性へ挑戦する基本的態度がなければ未来事業は成立し得ないとして、あえて危険をおかす態度を企業全体で盛り立てることを未来事業成功の要諦とした
  • ダイヤモンド 1969年4月28日号
    • [16]未来事業部門の発足1年を伝える1969年の記事は、いまや断絶の時代であり、今後予想もされない新事業が飛び出して帝人のイメージを180度転換させることになるとも限らないとして、長い目でこの部門を見守るとしている
  • 日経ビジネス 1978年10月23日号(日経マグロウヒル社)
    • [17]1978年9月末までの半年間で約2,650名(応募1,550名・専従会社移籍700名・自然減400名)が退職。timelineの「約2600名」は概数表記で、日経ビジネス1978/10/23号の逐語証言(「2650人がやめた」)と符合する本文「約2650名」が一次資料と一致
  • 週刊東洋経済 1976年9月4日号
    • [18]1976年の業界観測では、情報産業・教育産業・エネルギー開発・食料資源開発・輸送関連産業・ファインケミカルなど帝人が手を染めた分野は多彩だが際立った成果はあげえず、重荷となって撤退途上の分野も多いため、長期戦略としてのテトロン一本足からの脱却は今後に持ち越されたとされる

1979年〜 医薬品事業の確立とアラミド繊維買収による高機能素材への集中

帝人の業績推移

売上高(億円)純利益率(%)
  1. 1980年 新薬「ベニロン」を発売
  2. 1983年 帝人システムテクノロジーを設立
  3. 1985年 宇都宮工場を新設
  4. 2000年 アコーディス社のアラミド繊維事業を買収
  5. 2001年 社外委員が社長候補を審査する後継者選抜システムの構築と長島徹社長の選出 社長の椅子を誰の目にも見える手続きに載せる——安居祥策社長はどこまで人事の恣意を排そうとしたか
  6. 2003年 杏林製薬の買収を撤回
  7. 2011年 フェブリク(フェブキソスタット)の創製と発売 優先度の低い創薬テーマを、たった1名から約20年続けた末に、繊維に代わる収益柱を得た判断

医薬品事業の確立と主力製品フェブリクの誕生

1980年2月、帝人は長年の研究開発の末に新薬『ベニロン』を発売し[19]、およそ10年にわたる継続的な研究開発投資が販売として実った[20]。同年のインタビューで経営陣は『具体的な事業としては、向こう5年は医療、医薬関係を中心にしてやっていかなければならない。医薬は研究に着手して約10年になるが、研究開発費として膨大な資金を投じた』『だからあれもこれもというわけにはいかない』と語り、未来事業本部の多角化から医薬への集中へ方針を変えると社内外に明言した。向こう5年は医療と医薬の関係分野を中心に据えるとしたうえで、新薬開発と販売網の整備に今後も相当の負担がかかるため、あれもこれもと手を広げるわけにはいかないと述べており、50を超える領域へ広げた多角化の看板を下ろす宣言でもあった。1985年には宇都宮工場で『テトロン』フィルムの増産体制が整えられ、1989年には岩国工場で医薬品の本格生産が始まった[21]

  • 帝人 有価証券報告書 第159期(2025年3月期)【沿革】
    • [19]1980年2月 新薬「ベニロン」を発売(timeline一致。有報沿革は帝人医薬による「ベニロン」「ラキソベロン」販売開始と記載)
    • [21]1985年8月の宇都宮工場操業開始は「テトロン」フィルムの生産拡大、医薬品の本格生産は1989年10月の岩国工場から
  • 日経ビジネス 1980年10月20日号
    • [20]医薬研究着手から約10年という期間は経営陣発言(「医薬は研究に着手して約10年になる」)と一致

1982年の取材記事は、医薬品分野への経営資源の傾斜を具体的な数字で伝えている。技術系の大卒採用者のうち3分の1以上が医薬部門に配属され、研究開発費は年間30億円規模に達した。売上高のウエートに比べて破格の人材配分であり、重症感染症治療剤『ベニロン』は販売開始後2年足らずで月間売上高15億円(薬価ベース)に急成長した[22]。1976年時点では医薬品はビタミン剤や止血剤など医家向け4品目のテスト段階で、1978年の発売を予定しながら赤字が累積していた[23]から、わずか5〜6年での反転である。繊維事業で培った有機化学合成の技術を直接応用できる隣接領域として医薬品分野を戦略的に置いた経営判断が、後の医薬品事業の成長を準備した。

  • 日経産業新聞(1982年1月11日)
    • [22]1982年の記事は、ここ3〜4年の技術系大卒採用者のうち3分の1以上が医薬部門に配属され、研究開発費は年間30億円を投じ、重症感染症治療剤「ベニロン」が販売開始後2年たたずに月間売上高15億円(薬価ベース)へ急成長したと伝える
  • 週刊東洋経済 1976年9月4日号
    • [23]1976年時点で医薬品はビタミン剤・止血剤など医家向け4品目をテスト中で、1978年に発売予定だがまだ赤字が累積していた

1991年には高尿酸血症治療薬フェブキソスタットの化学合成に成功し、長期にわたる臨床試験を経て2011年5月に『フェブリク錠』として国内市場で発売した[24]。従来薬を超える尿酸値低下効果が臨床現場で確認され、従来の痛風治療の枠組みを超えて高尿酸血症そのものを適応症として医薬品の製造販売承認を取得する画期的な医薬品となった。年間売上高はピーク時に約380億円に達し、帝人の医薬品事業における最大製品としての地位を築いた。基礎研究開始から発売までおよそ20年を要した長期の医薬品プロジェクトであり、繊維事業で培われた辛抱強い技術投資文化の成果である。

  • 帝人 有価証券報告書 第159期(2025年3月期)【沿革】
    • [24]2011年5月 「フェブリク錠」(TMX-67)を国内発売
  • 帝人 有価証券報告書 第159期(2025年3月期)【沿革】
    • [19]1980年2月 新薬「ベニロン」を発売(timeline一致。有報沿革は帝人医薬による「ベニロン」「ラキソベロン」販売開始と記載)
    • [21]1985年8月の宇都宮工場操業開始は「テトロン」フィルムの生産拡大、医薬品の本格生産は1989年10月の岩国工場から
    • [24]2011年5月 「フェブリク錠」(TMX-67)を国内発売
  • 日経ビジネス 1980年10月20日号
    • [20]医薬研究着手から約10年という期間は経営陣発言(「医薬は研究に着手して約10年になる」)と一致
  • 日経産業新聞(1982年1月11日)
    • [22]1982年の記事は、ここ3〜4年の技術系大卒採用者のうち3分の1以上が医薬部門に配属され、研究開発費は年間30億円を投じ、重症感染症治療剤「ベニロン」が販売開始後2年たたずに月間売上高15億円(薬価ベース)へ急成長したと伝える
  • 週刊東洋経済 1976年9月4日号
    • [23]1976年時点で医薬品はビタミン剤・止血剤など医家向け4品目をテスト中で、1978年に発売予定だがまだ赤字が累積していた

アラミド繊維買収と高機能素材分野への集中

1999年4月に帝人はアドバイザリーボードを導入し、前デュポン会長のジョン・クロールら外部有識者が社長の業績評価や中長期の経営方針に対して意見を述べる独自の仕組みを整えた。同年6月には日清紡績から株式を取得する形で東邦レーヨンに資本参加し、炭素繊維分野における生産能力と関連技術を獲得する戦略的なM&Aを断行した。2001年には東邦レーヨンを東邦テナックスへ社名変更し、炭素繊維事業をグループ経営の中核に置く方針を社内外に明示した。コーポレート・ガバナンスの先進的な仕組みの導入と炭素繊維事業の中核化という、2つの重要な経営改革が並行して動き始めた時期だった。

2000年10月にはオランダのアコーディス社からパラ系アラミド繊維『トワロン』事業を買収する決断を下した。自社での増設ではなくM&Aを通じて高性能繊維の生産能力と既存顧客基盤を取得する経営判断であり、世界のアラミド繊維市場で一位二位を争う位置に帝人が名実ともに立つ節目となった。光ファイバーや自動車安全部材などの用途で販売が伸び、高機能繊維が帝人における重点事業として確立された転換点だった。汎用性の高い従来型の繊維事業からの構造的な脱却と高機能素材への集中という方向性がここで鮮明となり、後の自動車部品分野への本格的な事業展開を支える経営上の基盤となった。

2012年〜 自動車部品事業の買収と医薬品事業の再構成および資本効率改革

帝人の業績推移:連結

売上高(億円)純利益率(%)
  1. 2013年 持株会社体制へ移行
  2. 2015年 最終赤字に転落
  3. 2017年 CSP HDを買収
  4. 2017年 ポリエステルフィルムを事業譲渡
  5. 2021年 武田薬品から4製品の販売権を買収

自動車複合材事業の買収統合と収益性の課題

2017年1月、帝人は米国の自動車部品メーカーであるCSP社を約850億円で買収決定した[25]。ガラス繊維複合材を用いた構造部品の量産能力と北米自動車メーカー各社との販路を取得し、従来は素材供給の段階にとどまっていた顧客接点を完成部品のレベルまで拡張する戦略的狙いが打ち出された案件だった。当時の経営陣はCSPの競争力について、軽量で射出成型による量産が可能で安価な部品であれば10〜20年は勝負できると説明し[26]、さらに完成車の生産システムを丸ごと供給するフルターンキー方式を究極形に据えるという、素材供給から完成車生産受託までを視野に入れた構想も示していた。

  • 帝人 有価証券報告書 第159期(2025年3月期)【沿革】
    • [25]2017年1月 米CSP HD(Continental Structural Plastics Holdings・自動車向け複合材料成形メーカー、現Teijin Automotive Technologies NA Holdings)を買収
  • 日経ビジネス(日経BP, 2017年6月19日)
    • [26]経営陣のCSP競争力説明(軽量・射出成型・安価なら10〜20年は勝負できる/フルターンキーが究極形)は日経ビジネス2017年6月19日号の経営陣発言と一致

2018年にはドイツのBrinkグループをはじめとする欧州の自動車内装材メーカー群も相次いで追加取得し、2021年にはこれら一連のグローバル買収事業を米国のTeijin Automotive Technologiesへと経営の一元化を図る形で集約する体制整備が進められた。しかし一連のクロスボーダー買収の後、米国拠点を中心として工場の生産性低下や現地での労働力確保の難航といった構造的な問題が顕在化した。設備更新や既存工程の改善への追加投資が継続的に必要となり、全体の収益を圧迫する厳しい経営環境が続いた。2015年3月期には最終赤字に転落するという苦境も経験しており、事業ポートフォリオ全体の見直しが経営上の最優先課題として残されたままの状況にある。

  • 帝人 有価証券報告書 第159期(2025年3月期)【沿革】
    • [25]2017年1月 米CSP HD(Continental Structural Plastics Holdings・自動車向け複合材料成形メーカー、現Teijin Automotive Technologies NA Holdings)を買収
  • 日経ビジネス(日経BP, 2017年6月19日)
    • [26]経営陣のCSP競争力説明(軽量・射出成型・安価なら10〜20年は勝負できる/フルターンキーが究極形)は日経ビジネス2017年6月19日号の経営陣発言と一致

フェブリク特許切れと医薬品事業の再構成

帝人の医薬品事業における最大の主力製品であったフェブリク錠は、2022年に特許切れを迎えることが事前から確定しており、後発医薬品の大量参入による減収の影響が避けがたい問題として経営陣の前に重くのしかかっていた。有力な新薬パイプラインを自社内で欠いている状況のなかで、2021年4月には武田薬品工業から糖尿病治療薬4製品である『ネシーナ錠』『リオベル配合錠』『イニシンク配合錠』『ザファテック錠』の国内販売権を約1330億円という資本支出で取得した。帝人の医薬品事業における過去最大の投下資本の投入であり、医薬品事業の収益継続性を維持するための戦略的決断だった。

販売権取得後は年間248億円から275億円規模の安定した売上高を継続的に確保し、フェブリクの特許切れによる減収の影響を売上ベースでほぼ相殺した。ただし今回取得した4製品はいずれも医薬品のライフサイクルの成熟期にある製品群であり、糖尿病治療薬市場全体の将来的な縮小も中長期的には織り込まれている構造にある。自社創薬による本質的な成長ではなく、販売権取得によって時間を買う性格の投資であり、中長期的な医薬品事業の成長エンジンの確保という経営上の根本課題は、引き続き解決を求められる論点として残されたままの状態にある。

帝人の沿革1918〜2021年における主な出来事を抜粋

年月社長・CEO出来事重要度
帝国人絹を設立
広島工場を新設
鈴木商店から独立★★
三原工場の新設
大屋晋三氏が社長就任
帝人化成を設立
東京・大阪・名古屋証券取引所に上場
アセテートに参入
大屋晋三ポリエステルに参入★★
大屋晋三ナイロンに参入
大屋晋三帝人に商号変更
大屋晋三子会社を設立
大屋晋三未来事業本部の発足と、繊維一本足からの多角化テトロンの次の柱をどこに求めるか——大屋晋三社長のトップダウンは50超の新規事業をどこへ導いたか 詳細を読む★★★
大屋晋三徳山工場を新設
大屋晋三愛媛工場を新設
大屋晋三岐阜工場を新設
大屋晋三メタ系アラミド繊維「コーネックス」生産開始
大屋晋三レーヨン生産から撤退
大屋晋三減量経営による約2,600名の人員削減赤字に転じた主力・繊維事業を前に、社長・大屋晋三氏はなぜ「4人に1人」の人減らしに踏み切ったか 詳細を読む★★★
徳末知夫新薬「ベニロン」を発売★★
岡本佐四郎帝人システムテクノロジーを設立
岡本佐四郎宇都宮工場を新設
板垣宏岩国工場で医薬品の生産開始
板垣宏ナイロンをデュポン合弁に移管
安居祥策アドバイザリーボードを導入
安居祥策東邦レーヨンに資本参加
安居祥策アコーディス社のアラミド繊維事業を買収★★
長島徹フィルムをデュポン合弁に移管
長島徹社外委員が社長候補を審査する後継者選抜システムの構築と長島徹社長の選出社長の椅子を誰の目にも見える手続きに載せる——安居祥策社長はどこまで人事の恣意を排そうとしたか 詳細を読む★★★
長島徹杏林製薬の買収を撤回★★
長島徹帝人製機をナブテスコに移管
大八木成男フェブリク(フェブキソスタット)の創製と発売優先度の低い創薬テーマを、たった1名から約20年続けた末に、繊維に代わる収益柱を得た判断 詳細を読む★★★
大八木成男持株会社体制へ移行★★
鈴木純最終赤字に転落★★
鈴木純CSP HDを買収
鈴木純ポリエステルフィルムを事業譲渡
鈴木純武田薬品から4製品の販売権を買収
出典・参考
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968年)
  • 帝人 有価証券報告書 第159期(2025年3月期)【沿革】
  • ダイヤモンド 1953年4月号
  • 『私の経営理念 : 一流企業の首脳は語る』(東洋経済新報社, 1965年)
  • 「成功の秘訣」(1963年)
  • 経済人 1969年5月号「未来論的立場からみた企業のあり方・大屋晋三」
  • ダイヤモンド 1969年4月28日号
  • 日経ビジネス 1978年10月23日号(日経マグロウヒル社)
  • 週刊東洋経済 1976年9月4日号
  • 日経ビジネス 1980年10月20日号
  • 日経産業新聞(1982年1月11日)
  • 日経ビジネス(日経BP, 2017年6月19日)

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