帝人 の歴史

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沿革

1918〜2026年 1918年に秦逸三氏と久村清太氏が山形県米沢市に設立した帝国人造絹糸が起源。1957年に英ICIとの技術提携でポリエステル「テトロン」へ参入し、2000年には蘭アコーディスからアラミド繊維事業を買収した。アラミドでデュポンと世界を二分する位置を得た、国内最古の化繊会社である。

沿革

1918年に秦逸三氏と久村清太氏が山形県米沢市に設立した帝国人造絹糸が起源。

1957年に英ICIとの技術提携でポリエステル「テトロン」へ参入し、2000年には蘭アコーディスからアラミド繊維事業を買収した。アラミドでデュポンと世界を二分する位置を得た、国内最古の化繊会社である。

1918年〜転換期帝国人絹の設立とポリエステル参入による合成繊維メーカーへの転身

  1. 帝国人絹を設立
  2. 広島工場を新設
  3. 鈴木商店から独立
  4. 三原工場の新設
  5. 大屋晋三氏が社長就任
  6. 帝人化成を設立
  7. 東京・大阪・名古屋証券取引所に上場
  8. アセテートに参入
  9. ポリエステルに参入
  10. ナイロンに参入
  11. 帝人に商号変更
  12. 子会社を設立
  13. 未来事業本部を発足
  14. 徳山工場を新設
  15. 愛媛工場を新設
  16. 岐阜工場を新設
  17. メタ系アラミド繊維「コーネックス」生産開始
  18. レーヨン生産から撤退
  19. 約2600名の人員削減
帝人売上高1978年3月期3,461億円

1979年〜転換期新薬「ベニロン」の発売とナイロン事業のデュポン合弁移管

  1. 新薬「ベニロン」を発売
  2. 帝人システムテクノロジーを設立
  3. 宇都宮工場を新設
  4. 岩国工場で医薬品の生産開始
  5. ナイロンをデュポン合弁に移管
  6. アドバイザリーボードを導入
  7. 東邦レーヨンに資本参加
  8. アコーディス社のアラミド繊維事業を買収
帝人売上高2000年3月期6,042億円

2001年〜長島徹社長の選定と杏林製薬買収の撤回

  1. フィルムをデュポン合弁に移管
  2. 5人の候補から長島徹氏を次期社長に選定(11月社長交代)
  3. 杏林製薬の買収を撤回
  4. 帝人製機をナブテスコに移管
帝人売上高2010年3月期7,658億円

2011年〜転換期CSP HD買収とフィルム事業譲渡による事業ポートフォリオの組み替え

  1. 痛風・高尿酸血症治療剤「フェブリク」を発売
  2. 持株会社体制へ移行
  3. 最終赤字に転落
  4. CSP HDを買収
  5. ポリエステルフィルムを事業譲渡
  6. 武田薬品から4製品の販売権を買収
  7. 森山直彦氏が代表取締役に就任
  8. インフォコムの売却に関する基本契約を決議
  9. 北米の自動車向け複合材料事業で減損損失を計上
  10. 帝人ファーマで糖尿病薬の販売権の減損損失を計上
  11. 北米自動車事業の株式譲渡を実行
  12. デュポン帝人アドバンスドペーパー株式の譲渡を決議
  13. トワロン事業で減損損失を計上
  14. 医薬事業の構造改革で減損損失を計上
帝人売上高2026年3月期8,732億円

系譜

前身は1918年設立の帝国人絹。1962年に帝人へ商号を変更し、2000年にアコーディス社のアラミド繊維事業を買収した。2013年に持株会社体制へ移行し、2017年にCSP HDを買収。クロスボーダーM&Aで事業ポートフォリオを組み替えた。

系譜

前身は1918年設立の帝国人絹。

1962年に帝人へ商号を変更し、2000年にアコーディス社のアラミド繊維事業を買収した。2013年に持株会社体制へ移行し、2017年にCSP HDを買収。クロスボーダーM&Aで事業ポートフォリオを組み替えた。

1918年 1962年 1999年2000年 2013年 2017年 2026年 帝国人造絹糸 1918年帝国人絹を設立 帝人 1962年帝人に商号変更 東邦レーヨン 1999年資本参加 アコーディスのアラミド 2000年アラミド事業買収 帝人 2013年持株会社体制へ CSP HD 2017年買収 ポリエステルフィルム 2017年事業譲渡
長期業績の推移 1949〜2026年

業績

帝人:歴代社長と長期業績の推移売上高(億円)純利益率(%)
1970年3月期〜2026年3月期

第1章 1918年〜 帝国人絹の設立とポリエステル参入による合成繊維メーカーへの転身

1918年〜金子直吉氏の支援と鈴木商店系人絹の誕生

帝人の祖業は、東工業が1915年に米沢へ設けた分工場"米沢人造絹糸所"の操業にさかのぼり、その人造絹糸部が1918年に分離独立してわが国最古の化繊会社となった。鈴木商店の大番頭として知られた金子直吉氏は、米沢高等工業学校の講師として人造絹糸の研究をした秦逸三氏と、皮革分野の研究者であった久村清太氏の技術開発を支援し、1918年に資本金500万円で"帝国人造絹糸"を山形県米沢市に設立した。金子氏が資金調達と事業設計の全体像を担い、秦氏と久村氏が人造絹糸の製造技術開発を担当するという役割分担のもとで立ち上がった。設立当初の米沢工場は当時の技術水準からみれば試験的な生産拠点にとどまり、本格的な量産体制の構築は後の岩国工場の新設を待たねばならなかった。後に大屋晋三社長が『人絹というものは非常に有望』と回想したとおり、創業期の帝人は成長市場の入口に立った後発参入者として出発した。

  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968年)
    • [1]帝人の前身は鈴木商店傘下・東工業が1915年(大正4年)に米沢へ設けた分工場「米沢人造絹糸所」での操業に始まる(明治百年)
    • [2]帝人はわが国最古の化繊会社(明治百年。1918年に東工業人造絹糸部が分離独立して設立)
  • 帝人 有価証券報告書 第159期(2025年3月期)【沿革】
    • [3]1918年6月 帝国人造絹絲(株)を設立し、山形県米沢市でレーヨンの生産を開始
    • [4]本格量産が岩国工場から始まった点は有報沿革と整合(1927年1月 岩国工場操業開始、レーヨンの生産拡大)

1926年2月には広島に工場を新設し、続く1927年1月には岩国工場が操業を開始して量産体制に移行し、米沢の試験的段階から商業生産へ移った。しかし同じ1927年には昭和金融恐慌が発生し、親会社であった鈴木商店そのものが倒産した。帝人はそれまでのグループ依存の経営体質を継続できなくなったが、レーヨン事業自体は当時の国際市場で需要増が見込まれた成長分野であり、株主異動を通じて経営基盤を再構成した。のちに大屋晋三社長は人絹隆盛期の帝人を振り返り『1931年までは帝人の実質利益は、他の人絹会社すべてを合わせたものも凌いでいた』と語っている。独立後は1934年に三原工場を新設するとともに第二帝国人造絹糸を設立し、非能率な米沢・広島の両工場を閉鎖した。1937年末にはレーヨン糸の生産能力が日産141屯強に達し、わが国最大のレーヨン糸メーカーとなった。鈴木商店という後ろ盾から離れた独立企業として運営する体制が整い、戦後の合成繊維メーカーへ転じる素地が築かれた。

  • 帝人 有価証券報告書 第159期(2025年3月期)【沿革】
    • [5]1926年2月に広島工場を新設し、1927年1月に岩国工場が操業を開始してレーヨンの量産体制に移行した
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968年)
    • [6]1934年(昭和9年)三原工場を新設するとともに第二帝国人造絹糸を設立し、米沢・広島の両工場を閉鎖した(明治百年)
    • [7]1937年(昭和12年)末にレーヨン糸日産141屯強となり、わが国最大のレーヨン糸メーカーとなった(明治百年)

設備面の不均衡はしばらく尾を引いた。1953年の回想で大屋晋三社長は、自社の生産拠点について『能率の良い新鋭岩国工場があれば、旧式で能率の低い広島工場、むしろ原始的とさえいうべき米沢工場を併せ持っていた』と述べ、草創期から戦時期にかけて複数世代の設備が並存していた事情を率直に語っている。人絹ブームが無名の後発企業を短期間で業界上位へ押し上げた当時の勢いも、同じ回想で『非常に会社がよくなって』と振り返られている。名もない帝人が人絹という商品の伸びに乗って業績を上げると、失業した先輩や大屋自身が羨んだ地位にいた同輩が次々と帝人へ移り、十年先輩の者が大屋の下に付いた。新旧の生産設備の混在は戦後の設備投資判断と合成繊維転換の前提条件を形づくり、祖業であるレーヨン事業の将来をどう扱うかという問題を経営の中央に置かざるを得ない出発点となった。

  • ダイヤモンド 1953年4月号
    • [8]1953年の回想で大屋晋三は自社の生産拠点について、能率の良い新鋭の岩国工場に対し、旧式で能率の低い広島工場、むしろ原始的とさえいうべき米沢工場を併せ持っていたと述べている
    • [9]大屋晋三は、名もない帝人が人絹という商品の伸長で業績を上げ、失業した先輩や自分が羨んだ地位にいた同輩が入社してきて10年先輩の者が自分の下についたと回想している
参考文献[1]-[9]
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968年)
    • [1]帝人の前身は鈴木商店傘下・東工業が1915年(大正4年)に米沢へ設けた分工場「米沢人造絹糸所」での操業に始まる(明治百年)
    • [2]帝人はわが国最古の化繊会社(明治百年。1918年に東工業人造絹糸部が分離独立して設立)
    • [6]1934年(昭和9年)三原工場を新設するとともに第二帝国人造絹糸を設立し、米沢・広島の両工場を閉鎖した(明治百年)
    • [7]1937年(昭和12年)末にレーヨン糸日産141屯強となり、わが国最大のレーヨン糸メーカーとなった(明治百年)
  • 帝人 有価証券報告書 第159期(2025年3月期)【沿革】
    • [3]1918年6月 帝国人造絹絲(株)を設立し、山形県米沢市でレーヨンの生産を開始
    • [4]本格量産が岩国工場から始まった点は有報沿革と整合(1927年1月 岩国工場操業開始、レーヨンの生産拡大)
    • [5]1926年2月に広島工場を新設し、1927年1月に岩国工場が操業を開始してレーヨンの量産体制に移行した
  • ダイヤモンド 1953年4月号
    • [8]1953年の回想で大屋晋三は自社の生産拠点について、能率の良い新鋭の岩国工場に対し、旧式で能率の低い広島工場、むしろ原始的とさえいうべき米沢工場を併せ持っていたと述べている
    • [9]大屋晋三は、名もない帝人が人絹という商品の伸長で業績を上げ、失業した先輩や自分が羨んだ地位にいた同輩が入社してきて10年先輩の者が自分の下についたと回想している

1955年〜大屋晋三社長の主導によるアセテートからポリエステルへの転換

戦後の経営再建期に大屋晋三氏が社長に就任し、合成繊維分野への進出を主導した。1955年11月には松山工場で国内初のアセテート繊維の量産を開始したが、国内市場での用途は限定的な範囲にとどまり、市場は期待されたような規模にまで拡大しなかった。量産開始から3年が経過した時点でも半期売上高は経営陣の当初の期待を下回る水準にとどまり、アセテート繊維への集中的な資本投資は帝人本体の売上拡大に結びつかなかった。合成繊維多角化の初期における苦い経験が、後のポリエステルとナイロン参入の判断に際して大屋晋三社長の意思決定に影響を与える技術文化の底流となった。

  • 帝人 有価証券報告書 第159期(2025年3月期)【沿革】
    • [10]1955年11月 アセテートに参入。なお有報沿革は「1955年10月 松山工場操業開始、アセテートの生産開始」と月が異なる

1947年に大屋晋三社長が政界に進出して社を離れた期間は、合成繊維への転換が遅れる一因となった。1953年の回想は、すでに試験を終えたレーヨンの生産を元へ戻すのが終戦直後の常識からみて穏当な手であり、評価の固まっていないナイロンに東レが巨額を注いだことのほうがかえって危うい挑戦と受け取られていたと整理し、そのうえで自社の判断について『穏健にして常識的と目されたわが帝人は、はるかにその後塵を拝さねばならなくなった』『これがすなわち帝人が衰退した第一の原因である』と語った。留守を任された経営陣には先を見通して決断できる人物がいなかった、と書いたのは1965年の著書である。社内から体質を改めるべきだという声が出ても、人絹がもたらす居心地の良さに甘んじ、成り行きの見えないものに手を出せばレーヨンで得た利益が消えると言って、合繊に乗り出した会社をあざ笑う者までいたという。大屋晋三社長はこの本で、当時の社内の空気を『人絹ブームでもうけた利潤は、合繊に再投資されず、レジャーに再投資されていたのである』と記し、『そのころ、帝人では、ゴルフがうまくならないと、出世できないというので、上から下までゴルフに熱中した』とまで回顧している。レーヨンという商品がいつまで持つかを首脳が読み違えたと率直に認めたことが、次に攻めへ転じる起点になった。

  • ダイヤモンド 1953年4月号
    • [11]終戦直後の常識では試験済みのレーヨンを復元するのが無難な措置で、東レがまだ良否の定まらないナイロンに大金を投じたのは危険な試みであった。大屋晋三はレーヨン復元を選んだことを帝人が衰退した第一の原因とし、首脳がレーヨンの商品としての生命を見抜く能力を欠いたと述べている
  • 『私の経営理念 : 一流企業の首脳は語る』(東洋経済新報社, 1965年)
    • [12]1947年の政界進出で大屋晋三に社を顧みる暇がなく、留守を守った経営者のなかに達識・断行の士がいなかったため、帝人はレーヨンから合成繊維への転換という情勢を的確につかめなかった。社内には合繊会社を冷笑する声があり、人絹ブームの利潤は合繊に再投資されずレジャーに再投資されていたと記す

1957年1月、帝人は英国のICI社と技術提携を締結し、ポリエステル繊維への参入を決定した。東レとの業界共同導入という枠組みのもとで"テトロン"の商標で販売を開始し、ポリエステルは優れた染色性と耐久性で主に衣料用途に適した新市場を国内に形成した。大屋晋三社長自身は後年『ポリエステル繊維先行を主張し、決定した。まさに、経営者としての重大責任である意思決定の厳粛なる決定的瞬間であった』と自負を語り、同時代にアクリル繊維へ傾斜した東洋紡や三菱レーヨン、旭化成が同系繊維で苦戦したことを引き合いに、分岐を意識した選択であったと位置づけている。1962年には米アライドケミカル社との技術提携を通じてナイロン分野にも参入し、合成繊維三分野体制の構築が進んだ。1971年には創業以来の主力事業であったレーヨン生産から撤退する決断を下し、祖業を放棄して合成繊維メーカーとしての再定義を終えた。

  • 『私の経営理念 : 一流企業の首脳は語る』(東洋経済新報社, 1965年)
    • [13]大屋が社長に復帰した当時にポリエステル繊維先行を主張・決定したことを、経営者としての重大責任である意思決定の決定的瞬間と位置づけ、同系繊維のアクリルで東洋紡・三菱レーヨン・旭化成が苦しんだことと対比している
参考文献[10]-[13]
  • 帝人 有価証券報告書 第159期(2025年3月期)【沿革】
    • [10]1955年11月 アセテートに参入。なお有報沿革は「1955年10月 松山工場操業開始、アセテートの生産開始」と月が異なる
  • ダイヤモンド 1953年4月号
    • [11]終戦直後の常識では試験済みのレーヨンを復元するのが無難な措置で、東レがまだ良否の定まらないナイロンに大金を投じたのは危険な試みであった。大屋晋三はレーヨン復元を選んだことを帝人が衰退した第一の原因とし、首脳がレーヨンの商品としての生命を見抜く能力を欠いたと述べている
  • 『私の経営理念 : 一流企業の首脳は語る』(東洋経済新報社, 1965年)
    • [12]1947年の政界進出で大屋晋三に社を顧みる暇がなく、留守を守った経営者のなかに達識・断行の士がいなかったため、帝人はレーヨンから合成繊維への転換という情勢を的確につかめなかった。社内には合繊会社を冷笑する声があり、人絹ブームの利潤は合繊に再投資されずレジャーに再投資されていたと記す
    • [13]大屋が社長に復帰した当時にポリエステル繊維先行を主張・決定したことを、経営者としての重大責任である意思決定の決定的瞬間と位置づけ、同系繊維のアクリルで東洋紡・三菱レーヨン・旭化成が苦しんだことと対比している

1968年〜未来事業本部と繊維多角化の試行錯誤

1968年、帝人は社内に"未来事業本部"という独立性の高い新規事業組織を新設し、当時としては前例の少ない組織改革に踏み切った。大屋晋三社長のトップダウンで打ち出された構想であり、社外から約100名の専門人材を中途採用で集めて専属組織として新規事業開発の第一線に投入する取り組みだった。大屋晋三社長は1963年のインタビューで『従来ぜんぜん手がけていなかったものを採り入れても、案外短時間に成功するポシビリティが出てきます』『なんでもいいから、我々の技術、経験から万能な範囲にある儲かるもの、資本効率のいいものを採り入れていこうとしているのです』と語り、繊維事業からの多角化構想を公言していた。化学や電気、機械工学から数学まで広くおよぶ基本技術を展開すれば、儲からなくなったビスコースの改良に固執するより資本効率も社業も上がる——大屋晋三が1963年に示した理路であり、構想はまだ具体的かつ体系的な段階に達していなかった。1969年には『積極的な未来の可能性に挑戦するという、基本的態度がなければ、未来事業は成立し得ない』と述べ、危険を引き受ける組織文化の構築を訴えた。

  • 「成功の秘訣」(1963年)
    • [14]大屋晋三は1963年に、近代産業に共通する基本技術は化学・電気・機械工学から数学まで広くおよび、それを展開すれば人のやらないタチのいいものに当たる機会があるとして、儲からなくなったビスコースの改良に固執するより新しい技術分野を探すほうが資本効率も上がり社業も向上すると説いた。一方で具体的かつ体系的にはまだ話せる段階にないとも認めている
  • 経済人 1969年5月号「未来論的立場からみた企業のあり方・大屋晋三」
    • [15]積極的に未来の可能性へ挑戦する基本的態度がなければ未来事業は成立し得ないとして、あえて危険をおかす態度を企業全体で盛り立てることを未来事業成功の要諦とした

未来事業本部が生まれたのは、1970年の大阪万博を頂点とする未来ブームのさなかだった。業界誌は発足1年の段階で、思いもよらない事業がそこから現れて帝人の姿を一変させる可能性があるとして、長く見守るよう求めており、その評価には期待が混じっていた。子会社の設立や海外企業との合弁によって、情報産業・教育産業・エネルギー開発・ファインケミカルなど手がけた事業領域は50を超えた一方、どの分野に出るか、いつ退くかの基準を経営陣は決めていなかった。そこへ1970年代前半のドルショックとオイルショックが襲い、いくつもの領域が撤退や縮小を迫られた。事業どうしに技術のつながりが薄かったために経営資源は社内で散ったが、医薬品では事業が続いて技術も蓄えられ、繊維の外で残せる候補はここに絞られていった。

  • ダイヤモンド 1969年4月28日号
    • [16]未来事業部門の発足1年を伝える1969年の記事は、いまや断絶の時代であり、今後予想もされない新事業が飛び出して帝人のイメージを180度転換させることになるとも限らないとして、長い目でこの部門を見守るとしている

1976年の業界の見立てでは、情報産業・教育産業・エネルギー開発・食料資源開発・輸送関連産業・ファインケミカルと手がけた分野こそ幅広いものの、目立った成果を出したものはなく、負担になって退きつつある分野も少なくないため、テトロン頼みの体質を抜け出すことは先の課題として残されたとされた。その後1978年、会社は繊維事業の生産調整策として名古屋工場を全面的に閉め、約2650名の人員を減らす判断を下した。これは全社員の約4分の1に及ぶ規模であり、未来事業の整理と選別も、繊維事業の構造的な縮小と歩調を合わせて進んだ。大屋晋三社長がかねて口にしていた『資本効率のいいもの』という選別の基準が、10年たって具体的な事業の構成として見え始めたのがこの時期で、医薬品を将来の重点へ据える絞り込みもここから始まり、のちに帝人が事業構造を転換する際の軸となった。

  • 週刊東洋経済 1976年9月4日号
    • [17]1976年の業界観測では、情報産業・教育産業・エネルギー開発・食料資源開発・輸送関連産業・ファインケミカルなど帝人が手を染めた分野は多彩だが際立った成果はあげえず、重荷となって撤退途上の分野も多いため、長期戦略としてのテトロン一本足からの脱却は今後に持ち越されたとされる
  • 日経ビジネス 1978年10月23日号(日経マグロウヒル社)
    • [18]1978年9月末までの半年間で約2,650名(応募1,550名・専従会社移籍700名・自然減400名)が退職。timelineの「約2600名」は概数表記で、日経ビジネス1978/10/23号の逐語証言(「2650人がやめた」)と符合する本文「約2650名」が一次資料と一致
参考文献[14]-[18]
  • 「成功の秘訣」(1963年)
    • [14]大屋晋三は1963年に、近代産業に共通する基本技術は化学・電気・機械工学から数学まで広くおよび、それを展開すれば人のやらないタチのいいものに当たる機会があるとして、儲からなくなったビスコースの改良に固執するより新しい技術分野を探すほうが資本効率も上がり社業も向上すると説いた。一方で具体的かつ体系的にはまだ話せる段階にないとも認めている
  • 経済人 1969年5月号「未来論的立場からみた企業のあり方・大屋晋三」
    • [15]積極的に未来の可能性へ挑戦する基本的態度がなければ未来事業は成立し得ないとして、あえて危険をおかす態度を企業全体で盛り立てることを未来事業成功の要諦とした
  • ダイヤモンド 1969年4月28日号
    • [16]未来事業部門の発足1年を伝える1969年の記事は、いまや断絶の時代であり、今後予想もされない新事業が飛び出して帝人のイメージを180度転換させることになるとも限らないとして、長い目でこの部門を見守るとしている
  • 週刊東洋経済 1976年9月4日号
    • [17]1976年の業界観測では、情報産業・教育産業・エネルギー開発・食料資源開発・輸送関連産業・ファインケミカルなど帝人が手を染めた分野は多彩だが際立った成果はあげえず、重荷となって撤退途上の分野も多いため、長期戦略としてのテトロン一本足からの脱却は今後に持ち越されたとされる
  • 日経ビジネス 1978年10月23日号(日経マグロウヒル社)
    • [18]1978年9月末までの半年間で約2,650名(応募1,550名・専従会社移籍700名・自然減400名)が退職。timelineの「約2600名」は概数表記で、日経ビジネス1978/10/23号の逐語証言(「2650人がやめた」)と符合する本文「約2650名」が一次資料と一致

第2章 1979年〜 新薬「ベニロン」の発売とナイロン事業のデュポン合弁移管ベニロンから東邦レーヨン買収に至る収益源の組み替え

筆者考察y.sugiura, author

帝人が1980年代に手放したのは事業そのものよりも、一人の経営者の勘に委ねる意思決定だった。石油開発をはじめとする大屋晋三の未来事業は役員への相談を経ずに始まり、失敗しても止める仕組みを持たなかった。徳末知夫が七つの事業本部を会長・社長・3副社長で分掌させ、毎週の副社長会議で優先順位を決めたのは、同じ額の資金を同じ分野へ投じるにしても、誰がどの根拠で決めたかを残す仕組みへ変えるためである。分掌役員は指揮命令の権限を持たず、観察して意見を上げる役目に絞られた。命令の系統を増やさずに、見る目だけを増やしたのである。東レと旭化成工業に経常利益で2倍以上の差をつけられた1980年3月期は、その形を変えなければ次の収益源も同じ終わり方をすると告げる数字だった。

その形が最も長く効いたのが医薬である。1972年に始めた研究が1980年のベニロンとして実を結ぶまでに8年、全国を自社の営業網で覆うまでにさらに16年かかった。在宅酸素療法では、部下のいない課長が1台98万円の機械を自ら運ぶところから始まり、健康保険の適用を待って直接販売とレンタルへ組み替え、患者の6割を占めるに至る。1996年3月期には売上高の18%しか占めない医薬事業が経常利益の半分以上を稼いだ。繊維で築いた規模は繊維のままでは守れず、時間をかけた分野だけが利益の出所として残ったのである。1999年にポリエステルフィルムをデュポンとの折半出資へ移し、東邦レーヨンから炭素繊維を買ったのは、残った収益源にも同じだけの時間はもう無いという判断だった。

大屋晋三の死後に戻した単体経常利益 1979年3月期〜1985年3月期(億円)

110 1979年3月期 141 1980年3月期 113 1981年3月期 143 1982年3月期 135 1983年3月期 204 1984年3月期 277 1985年3月期
  • 出所は帝人の単体業績(会社年鑑)。連結は含まない。

1979年〜石油開発の清算と徳末知夫社長が敷いた分掌制

1980年3月9日、通算26年にわたって社長の座にあった大屋晋三氏が85歳で死去し、4月10日付で副社長の徳末知夫氏が社長へ昇格した。新体制がまず向き合ったのは、大屋時代に広げた未来事業の後始末である。石油開発をはじめとする中核の新規事業が軒並み失敗に終わったことは、東レと旭化成工業に業績で差を広げられた最大の原因とみられていた。1980年3月期の経常利益は、東レの320億3200万円、旭化成工業の313億6800万円に対し、帝人は140億6500万円にとどまる。石油開発は大屋氏の独走で始められ、当時を知る役員は『石油事業については、われわれにほとんど相談がなかった』と証言している。日常業務では部下に任せきる分権的な経営者が、新規事業に限って独断を通したところに、後始末の重さの源があった。

  • 日経ビジネス 1980年6月16日号
    • [19]大屋晋三は1980年3月9日に85歳で死去した。社長在任は通算26年に及んだ
    • [20]副社長だった徳末知夫が1980年4月10日付で社長へ昇格した
  • 日経ビジネス 1980年10月20日号
    • [21]大屋前社長が推進した石油開発などの未来事業の目玉が軒並み失敗し、東レ・旭化成工業に業績面で引き離された最大の原因とされた
    • [23]石油開発は大屋社長の独走で始められ、役員には事前の相談がほとんど無かったと当時の役員が証言した
  • 日経ビジネス 1980年10月20日号 /帝人 単体業績(会社年鑑・1980年3月期)
    • [22]1980年3月期の経常利益は東レ320億3200万円、旭化成工業313億6800万円、帝人140億6500万円。帝人の単体経常利益は会社年鑑でも141億円

徳末知夫氏は1980年6月から、社長と会長、3人の副社長が七つの事業本部を分掌する体制を敷いた。分掌役員は担当事業本部長へ指揮命令する権限を持たず、第三者の立場で各本部を観察して社長へ意見具申する役目に限られる。事業本部長が社長と直結するだけでは各本部の独善的な意見しか届かないという反省が背景にあり、毎週1回は社長と会長、3副社長が集まる副社長会議で全社の優先順位を決めた。徳末氏は『これまであちこちで勝手に小さな花火を上げていた点を改めて、一つの大きな花火に力を結集して行く』と述べ、分散していた力の集約を新体制の目的に据えている。就任に際しては効率重視の路線への転換も説き、『夢は大きい方がいいけど、もうかりそうだから、あれもこれもやるというのは、もうこれからはダメです』と語った。大屋時代の役員会が独演会に終始していた状態からすれば、これは議論の場そのものを作り直す作業だった。

  • 日経ビジネス 1980年10月20日号
    • [24]1980年6月から、社長・会長・3副社長のトップ層が七つの事業本部を分けて分掌する体制を採った
    • [25]分掌役員は担当事業本部長への指揮命令権を持たず、第三者の立場で観察して社長へ意見具申する役目に限られた
    • [26]毎週1回、社長・会長・3副社長が副社長会議を開き、全社の優先順位を念頭に案件を処理した
    • [27]徳末知夫は組織の風通しを良くして力を一つに結集することを新体制の目的とした
    • [29]以前の役員会は大屋社長のほぼ独演会に終始し、役員が社外で批判すれば社長の耳に入る状態だった
  • 日経ビジネス 1980年6月16日号
    • [28]徳末知夫は社長就任にあたり効率重視の堅実な路線への転換を説いた

繊維事業の縮小は、行き場を失う中高年の従業員を社内に残した。帝人はその受け皿として1977年4月に帝人三原興産を設立し、1981年には従業員170人、平均年齢55歳の会社として運営していた。仕事は畳作りとふすま張り、除塵粘着布タクロスの生産、規格外ナイロン糸の巻き替えに及び、売上高約5億円のうち7割余りを帝人からの委託事業収入が占める。事務作業を分類して伝票へ落とし、170人を社長も含めた6人の事務管理要員で回したことが、設立以来赤字を出さない要因になった。帝人の定年が55歳だった当時に興産会社の定年を60歳と定め、1981年6月に本体が60歳へ延ばすと興産会社は65歳へ延長している。賃金は3割ほど下がるが、退職金を含めれば受取額の合計がほぼ変わらないように設計されていた。松山と岩国にも同じ型の会社を置いた。

  • 日経ビジネス 1981年8月10日号
    • [30]帝人三原興産は1977年4月、中高年齢従業員のための受け皿会社として広島県三原市の帝人三原工場内に設立された
    • [31]1981年時点の帝人三原興産は従業員170人、平均年齢55歳
    • [32]畳作り・ふすま張り・除塵粘着布タクロスの生産・規格外ナイロン糸の巻き替え・グループ向けの印刷と配送などを手がけ、売上高約5億円の7割余りが帝人からの委託事業収入だった
    • [33]事務作業を分類して伝票化・コード化し、170人の従業員に対し事務管理要員を社長を含め6人で済ませた。設立以来赤字は無く無借金経営だった
    • [34]帝人の定年が55歳の時に興産会社の定年は60歳、1981年6月に帝人が定年を60歳へ延長したのに伴い興産会社は65歳へ延ばした
    • [35]興産会社の賃金は帝人勤務時より3割ほど減るが、退職金などを含めれば帝人で60歳まで勤める場合と受取額の合計がほぼ変わらないようにした
    • [36]帝人は三原のほか松山に愛媛興産、岩国市に山口興産と、各工場に同じ型の中高年会社を設けた
参考文献[19]-[36]
  • 日経ビジネス 1980年6月16日号
    • [19]大屋晋三は1980年3月9日に85歳で死去した。社長在任は通算26年に及んだ
    • [20]副社長だった徳末知夫が1980年4月10日付で社長へ昇格した
    • [28]徳末知夫は社長就任にあたり効率重視の堅実な路線への転換を説いた
  • 日経ビジネス 1980年10月20日号
    • [21]大屋前社長が推進した石油開発などの未来事業の目玉が軒並み失敗し、東レ・旭化成工業に業績面で引き離された最大の原因とされた
    • [23]石油開発は大屋社長の独走で始められ、役員には事前の相談がほとんど無かったと当時の役員が証言した
    • [24]1980年6月から、社長・会長・3副社長のトップ層が七つの事業本部を分けて分掌する体制を採った
    • [25]分掌役員は担当事業本部長への指揮命令権を持たず、第三者の立場で観察して社長へ意見具申する役目に限られた
    • [26]毎週1回、社長・会長・3副社長が副社長会議を開き、全社の優先順位を念頭に案件を処理した
    • [27]徳末知夫は組織の風通しを良くして力を一つに結集することを新体制の目的とした
    • [29]以前の役員会は大屋社長のほぼ独演会に終始し、役員が社外で批判すれば社長の耳に入る状態だった
  • 日経ビジネス 1980年10月20日号 /帝人 単体業績(会社年鑑・1980年3月期)
    • [22]1980年3月期の経常利益は東レ320億3200万円、旭化成工業313億6800万円、帝人140億6500万円。帝人の単体経常利益は会社年鑑でも141億円
  • 日経ビジネス 1981年8月10日号
    • [30]帝人三原興産は1977年4月、中高年齢従業員のための受け皿会社として広島県三原市の帝人三原工場内に設立された
    • [31]1981年時点の帝人三原興産は従業員170人、平均年齢55歳
    • [32]畳作り・ふすま張り・除塵粘着布タクロスの生産・規格外ナイロン糸の巻き替え・グループ向けの印刷と配送などを手がけ、売上高約5億円の7割余りが帝人からの委託事業収入だった
    • [33]事務作業を分類して伝票化・コード化し、170人の従業員に対し事務管理要員を社長を含め6人で済ませた。設立以来赤字は無く無借金経営だった
    • [34]帝人の定年が55歳の時に興産会社の定年は60歳、1981年6月に帝人が定年を60歳へ延長したのに伴い興産会社は65歳へ延ばした
    • [35]興産会社の賃金は帝人勤務時より3割ほど減るが、退職金などを含めれば帝人で60歳まで勤める場合と受取額の合計がほぼ変わらないようにした
    • [36]帝人は三原のほか松山に愛媛興産、岩国市に山口興産と、各工場に同じ型の中高年会社を設けた

1980年〜ベニロンと酸素濃縮器が育てた第3の収益源

帝人が医薬品の研究に着手したのは1972年で、日米政府間協定で繊維製品の対米輸出枠ができ、各社が多角化へ走り出した時期にあたる。広げた未来事業のうち医薬は、1980年に重症感染症治療薬ベニロンと緩下剤ラキソベロンの発売にこぎ着け、翌1981年にも2つの新薬を出した。1980年、徳末知夫氏は『向こう5年は医療、医薬関係を中心にしてやっていかなければならない』と語り、医薬を経営の軸に置く考えを打ち出した。ベニロンは2.5グラムあたりの薬価が6万円近い高付加価値品で、すでに年商100億円を狙えるとみられていた。発売時の販売は藤沢薬品工業という製薬大手との提携に任せ、並行して30人ほどの営業部隊を社内に組み、東京都内の一部の病院には自前の経路で売り始めており、未来事業からの撤退が相次ぐなかで、10年研究を続けた一つの分野に資源を集めた選択だった。

  • 日経ビジネス 1997年3月10日号
    • [37]帝人が医薬品の研究を始めたのは1972年。日米政府間協定の調印で繊維製品の対米輸出枠ができ、繊維メーカー各社が多角化に走り出した時期だった
    • [38]1980年に重症感染症治療薬ベニロンと緩下剤ラキソベロン、1981年にも2つの新薬を発売した
    • [41]新薬の発売にあたり藤沢薬品工業と提携して販売を委託する一方、社内にも30人の営業部隊を発足させ、東京都内の一部の病院向けに自社ルートでの販売に着手した
  • 日経ビジネス 1980年10月20日号
    • [39]徳末知夫は1980年時点で、向こう5年は医療・医薬関係を中心に未来事業を展開する方針を示した
    • [40]ベニロンは薬価が2.5グラム当たり6万円近い高付加価値商品で、潜在的に年商100億円の実力があると評価された

工業用に開発した酸素富化膜を医療へ転用したものが、在宅酸素療法の酸素濃縮器である。国産第1号のマイルドサンソTO-40は重さ55キログラム、1台98万円。健康保険の適用がなく個人契約で売るほかなかった。1982年8月に秘書課長から帝人医薬へ出向した森田孝氏は、2か月後に発足した医療器課の課長となるが、部下のいない1人の組織で、販売も回収も点検も自ら担う。1983年10月に帝人医薬が本体へ合併されると、その組織は7人へ広がる。1985年3月に健康保険の適用となると、帝人は直接販売と専任担当者制、レンタル方式を組み合わせた。入退院を繰り返す患者へ病院を通した貸与は機械の回収を容易にし、月々のレンタル収入が売上高の振れを小さくした。1996年には全国5万人を超える患者のうち、およそ6割を帝人が占めた。

  • 日経ビジネス 1996年2月19日号
    • [42]帝人が工業用に開発した酸素富化膜(ガス分離膜)の技術を医療へ応用したものが酸素濃縮器である
    • [43]国産第1号の酸素濃縮器マイルドサンソTO-40は重さ55キログラム、1台98万円。当時は健康保険の適用が無く個人契約だった
    • [44]森田孝は1982年8月に秘書課長から帝人医薬へ出向し、2か月後に発足した医療器課の課長に就いたが部下のいない1人の組織で、販売・代金回収・定期点検を1人で担った
    • [45]1983年10月に帝人医薬が帝人へ合併され、医療器課はサンソ医療推進部へ格上げされて7人体制になった
    • [46]在宅酸素療法は1985年3月に健康保険の適用となった
    • [47]帝人が採った事業の仕組みは直接販売・専任担当者体制・レンタル方式の3つだった
    • [48]入退院を繰り返す患者へ病院を通じて貸与するレンタル方式は機械の引き揚げを容易にし、月々のレンタル収入で売上高の振れを小さくした
    • [49]1996年時点で在宅酸素療法を受ける患者は全国で5万人を超え、そのうち帝人のシェアは約60%だった

全国での自社販売は当初1998年の開始を計画していたが、1年半早まる。1994年の暮れ、販売提携先の藤沢薬品工業が5500人の社員を5000人まで絞り込む計画を発表し、その一環として帝人へ医薬情報担当者の移籍を提案してきたからである。1995年9月、帝人は提携の解消と1996年10月の全国自社販売の開始、そして藤沢薬品の医薬情報担当者85人の受け入れを発表する。移籍の対象は40歳前後が中心で、第2次石油ショック後の1978・1979年度に採用を絞り込んだ帝人には手薄な年齢層にあたる。社内の他部門から70人、中途採用で30人を加えて営業部員を420人へ増やし、全国を11支店32営業所で覆った。1996年3月期の医薬事業の売上高は545億円と単体売上高の18%を占め、経常利益では半分以上を稼ぐ部門になっていた。

  • 日経ビジネス 1997年3月10日号
    • [50]全国自社販売は当初1998年に開始する計画で、それが1年半早まった
    • [51]1994年暮れ、藤沢薬品工業は5500人の社員を4、5年先に5000人まで絞り込むリストラ計画を発表し、その一環として帝人へMRの大量移籍を提案した
    • [52]1995年9月、帝人は藤沢薬品との販売提携を解消し1996年10月に全国自社販売を開始すること、業務移管に伴い藤沢薬品のMR85人を移籍させることを発表した
    • [53]移籍者は40歳前後の社員が主な対象となった。帝人は第2次石油ショック後の1978・1979年度に採用を絞り込んでおり、その年齢層が手薄だった
    • [54]移籍者に加えて社内の他部門から70人、中途採用で30人を集め、医薬品の営業部員を総勢420人に増員した
    • [55]1996年10月に札幌・仙台・高崎・広島・福岡へ支店を開設し、全国を11支店32営業所で覆う完全自社販売の体制へ移行した
    • [56]1996年3月期の医薬事業本部の売上高は545億円で単体売上高の18%を占め、経常利益では半分以上を稼ぎ出した
参考文献[37]-[56]
  • 日経ビジネス 1997年3月10日号
    • [37]帝人が医薬品の研究を始めたのは1972年。日米政府間協定の調印で繊維製品の対米輸出枠ができ、繊維メーカー各社が多角化に走り出した時期だった
    • [38]1980年に重症感染症治療薬ベニロンと緩下剤ラキソベロン、1981年にも2つの新薬を発売した
    • [41]新薬の発売にあたり藤沢薬品工業と提携して販売を委託する一方、社内にも30人の営業部隊を発足させ、東京都内の一部の病院向けに自社ルートでの販売に着手した
    • [50]全国自社販売は当初1998年に開始する計画で、それが1年半早まった
    • [51]1994年暮れ、藤沢薬品工業は5500人の社員を4、5年先に5000人まで絞り込むリストラ計画を発表し、その一環として帝人へMRの大量移籍を提案した
    • [52]1995年9月、帝人は藤沢薬品との販売提携を解消し1996年10月に全国自社販売を開始すること、業務移管に伴い藤沢薬品のMR85人を移籍させることを発表した
    • [53]移籍者は40歳前後の社員が主な対象となった。帝人は第2次石油ショック後の1978・1979年度に採用を絞り込んでおり、その年齢層が手薄だった
    • [54]移籍者に加えて社内の他部門から70人、中途採用で30人を集め、医薬品の営業部員を総勢420人に増員した
    • [55]1996年10月に札幌・仙台・高崎・広島・福岡へ支店を開設し、全国を11支店32営業所で覆う完全自社販売の体制へ移行した
    • [56]1996年3月期の医薬事業本部の売上高は545億円で単体売上高の18%を占め、経常利益では半分以上を稼ぎ出した
  • 日経ビジネス 1980年10月20日号
    • [39]徳末知夫は1980年時点で、向こう5年は医療・医薬関係を中心に未来事業を展開する方針を示した
    • [40]ベニロンは薬価が2.5グラム当たり6万円近い高付加価値商品で、潜在的に年商100億円の実力があると評価された
  • 日経ビジネス 1996年2月19日号
    • [42]帝人が工業用に開発した酸素富化膜(ガス分離膜)の技術を医療へ応用したものが酸素濃縮器である
    • [43]国産第1号の酸素濃縮器マイルドサンソTO-40は重さ55キログラム、1台98万円。当時は健康保険の適用が無く個人契約だった
    • [44]森田孝は1982年8月に秘書課長から帝人医薬へ出向し、2か月後に発足した医療器課の課長に就いたが部下のいない1人の組織で、販売・代金回収・定期点検を1人で担った
    • [45]1983年10月に帝人医薬が帝人へ合併され、医療器課はサンソ医療推進部へ格上げされて7人体制になった
    • [46]在宅酸素療法は1985年3月に健康保険の適用となった
    • [47]帝人が採った事業の仕組みは直接販売・専任担当者体制・レンタル方式の3つだった
    • [48]入退院を繰り返す患者へ病院を通じて貸与するレンタル方式は機械の引き揚げを容易にし、月々のレンタル収入で売上高の振れを小さくした
    • [49]1996年時点で在宅酸素療法を受ける患者は全国で5万人を超え、そのうち帝人のシェアは約60%だった

1989年〜板垣宏の活性化運動から安居祥策の世界再編へ

1989年6月に社長へ就任した板垣宏氏は、就任から1年ほどを社員との対話に充て、意見のある者を公募して部長・課長・生産・営業・若手などの組をつくり、30回ほどの会合を重ねた。過去最高の経常利益を上げた1990年3月期の年から活性化運動を始めており、その動機は好況のただ中にあった。1993年6月、企業理念と行動指針がまとめられた。その下敷きは板垣氏の『10年もリストラをやっていると、どうしても社員の意識が内向きになってしまう』という認識で、効率主義を突き詰めた結果、利益は伸びても売上高は伸びず、事業の構成が成熟型へ寄ったという見立てである。行動指針は社員に、上司の言葉をうのみにせず疑問や反論を投げかけるよう求めた。権限委譲については、社長の職務に欠かせない権限だけを選んで手元に置き、残りは下へ渡す留保権限の考え方をとり、社長が決める案件はそれまでのほぼ半分に減った。

  • 日経ビジネス 1989年12月18日号
    • [57]板垣宏は1989年6月に帝人の10代目社長へ就任した。1930年8月生まれ、1953年京都大学工学部卒、1977年取締役
  • 日経ビジネス 1993年11月15日号
    • [58]板垣宏は社長就任後の1年ほど、意見のある社員を公募して部長・課長・生産・営業・女性社員・若手などの組をつくり、30回ほど対話の場を持った
    • [59]帝人は過去最高の経常利益を上げた1990年3月期の年から活性化運動を始めた
    • [60]帝人は1993年6月に企業理念と行動指針をまとめて発表した
    • [61]板垣宏は、効率は上がり利益も上がったが売上高は伸びず、事業のポートフォリオが成熟型になったとみていた
    • [62]行動指針は「上司の言うことを絶対とはしない。疑問、反論はどんどんぶつける」という内容を含んだ
    • [63]留保権限の考え方で社長が必要な権限だけを残して他を下位へ委譲し、社長の決定案件は従来の半分ほどになった

1997年6月に社長へ就任した安居祥策氏のもとで、株価は最安値で220円台まで下落し、株価純資産倍率は0.3倍まで下がった。市場の評価が解散価値を下回った理由を社内で調べさせると、投資家向け広報が不十分で会社の実態を知ってもらう努力が欠けていたと分かる。安居氏は投資家向け広報の部署を設け、技術や情報システム、人事を全社の視点で統括するチーフオフィサー制を導入し、取締役数を削減して執行役員制へ移した。1999年4月には前デュポン会長のジョン・クロール氏やキッコーマンの茂木友三郎社長ら6人のアドバイザリーボードを設け、社長の業績を評価して解任を勧告しうる仕組みとする。安居氏は『社員には業績評価の仕組みを導入しています。ですから、私以外は全員が1年間の目標を立てて達成度を評価されるわけです』と述べ、社員だけが評価される非対称を自ら埋める必要を説いた。入社から40年のうち20年を出向で過ごした、本命ではない後継者だった。

  • 日経ビジネス 1998年2月16日号
    • [64]安居祥策は1997年6月に社長へ就任した。1935年1月生まれ、1957年京都大学経済学部卒、同年帝国人造絹絲入社
  • 日経ビジネス 1999年11月1日号
    • [65]安居祥策の社長就任後、帝人の株価は最安値で220円台まで落ち込み、株価純資産倍率(PBR)は0.3倍まで下がった
    • [66]社内で調べた結果、投資家向け広報(IR)が不十分で会社の実態を知ってもらう努力が欠けていたことが分かった
    • [67]安居祥策のもとでIR部の設置、チーフオフィサー制(CTO・CIO・CHO)の導入、取締役数の削減と執行役員制の導入が行われた
    • [68]1999年4月、前デュポン会長のジョン・クロールやキッコーマンの茂木友三郎社長ら6人によるアドバイザリーボードを導入し、社長の業績を評価して解任勧告もありうる仕組みとした
    • [69]安居祥策は、社員が全員1年間の目標を立てて達成度を評価される以上、社長も評価されるべきだとしてアドバイザリーボードを設けた
    • [70]安居祥策は入社後40年のうち20年を出向で過ごし、海外10年・国内10年だった。社長就任は本命ではないとみられていた

デュポンとは以前から複数の合弁会社を組んでおり、両社で組むときは折半出資とする合意があったため、規模で勝る相手とも対等に資本を持ち合えた。この枠組みのもとで1999年、帝人は主力のポリエステルフィルム事業を折半出資の合弁会社へ移した。欧州と米国に一社だけで事業を築けば時間も資金もかさむので、統合のほうが両社の得になるというのが安居氏の判断で、同氏は『世界で本当にトップクラスにならないと生き残れない』と語っている。交渉に通訳は入らず、トップ同士が直接詰めた。同じ年には東邦レーヨンも買収し、東レとの比較で欠けていた炭素繊維事業を取得した。もっとも東邦レーヨンは再建の途中にあり、買収が成功だったかどうかがわかるのは10年ほど後だと見られていた。市場は再編を好感し、帝人の株価は一時、9年半ぶりに東レを上回った。収益源を自前で抱え続けるか、持ち分を半分に薄めてでも世界規模へ乗せるかという問いに、帝人は後者で答えた。

  • 日経ビジネス 1999年11月1日号
    • [71]帝人とデュポンには以前から複数の合弁会社があり、両社が組む場合や デュポンが日本企業と組む場合は折半出資を基本とする合意があった
    • [72]1999年、帝人はデュポンとポリエステルフィルム事業を統合する基本合意に達し、折半出資の合弁とした
    • [73]安居祥策は、帝人が独力で欧州から米国まで展開するには時間も資金もかかるため、デュポンと一緒になるほうが双方に利益があると説明した
    • [74]デュポンとの基本的な交渉は通訳を入れずトップ同士で進めた
    • [75]1999年、帝人は東邦レーヨンを買収し、出遅れていた炭素繊維を獲得した。東邦レーヨンの親会社は日清紡だった
    • [76]安居祥策は東邦レーヨン自身がリストラの最中であり、買収が安かったかどうかは10年ほど経たなければ結果が出ないと述べた
    • [77]1999年、帝人の株価は一時、9年半ぶりに東レを逆転した
参考文献[57]-[77]
  • 日経ビジネス 1989年12月18日号
    • [57]板垣宏は1989年6月に帝人の10代目社長へ就任した。1930年8月生まれ、1953年京都大学工学部卒、1977年取締役
  • 日経ビジネス 1993年11月15日号
    • [58]板垣宏は社長就任後の1年ほど、意見のある社員を公募して部長・課長・生産・営業・女性社員・若手などの組をつくり、30回ほど対話の場を持った
    • [59]帝人は過去最高の経常利益を上げた1990年3月期の年から活性化運動を始めた
    • [60]帝人は1993年6月に企業理念と行動指針をまとめて発表した
    • [61]板垣宏は、効率は上がり利益も上がったが売上高は伸びず、事業のポートフォリオが成熟型になったとみていた
    • [62]行動指針は「上司の言うことを絶対とはしない。疑問、反論はどんどんぶつける」という内容を含んだ
    • [63]留保権限の考え方で社長が必要な権限だけを残して他を下位へ委譲し、社長の決定案件は従来の半分ほどになった
  • 日経ビジネス 1998年2月16日号
    • [64]安居祥策は1997年6月に社長へ就任した。1935年1月生まれ、1957年京都大学経済学部卒、同年帝国人造絹絲入社
  • 日経ビジネス 1999年11月1日号
    • [65]安居祥策の社長就任後、帝人の株価は最安値で220円台まで落ち込み、株価純資産倍率(PBR)は0.3倍まで下がった
    • [66]社内で調べた結果、投資家向け広報(IR)が不十分で会社の実態を知ってもらう努力が欠けていたことが分かった
    • [67]安居祥策のもとでIR部の設置、チーフオフィサー制(CTO・CIO・CHO)の導入、取締役数の削減と執行役員制の導入が行われた
    • [68]1999年4月、前デュポン会長のジョン・クロールやキッコーマンの茂木友三郎社長ら6人によるアドバイザリーボードを導入し、社長の業績を評価して解任勧告もありうる仕組みとした
    • [69]安居祥策は、社員が全員1年間の目標を立てて達成度を評価される以上、社長も評価されるべきだとしてアドバイザリーボードを設けた
    • [70]安居祥策は入社後40年のうち20年を出向で過ごし、海外10年・国内10年だった。社長就任は本命ではないとみられていた
    • [71]帝人とデュポンには以前から複数の合弁会社があり、両社が組む場合や デュポンが日本企業と組む場合は折半出資を基本とする合意があった
    • [72]1999年、帝人はデュポンとポリエステルフィルム事業を統合する基本合意に達し、折半出資の合弁とした
    • [73]安居祥策は、帝人が独力で欧州から米国まで展開するには時間も資金もかかるため、デュポンと一緒になるほうが双方に利益があると説明した
    • [74]デュポンとの基本的な交渉は通訳を入れずトップ同士で進めた
    • [75]1999年、帝人は東邦レーヨンを買収し、出遅れていた炭素繊維を獲得した。東邦レーヨンの親会社は日清紡だった
    • [76]安居祥策は東邦レーヨン自身がリストラの最中であり、買収が安かったかどうかは10年ほど経たなければ結果が出ないと述べた
    • [77]1999年、帝人の株価は一時、9年半ぶりに東レを逆転した

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出典・参考 19件
出典・参考
  • 帝人 有価証券報告書 第159期(2025年3月期)【沿革】
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968年)
  • ダイヤモンド 1953年4月号
  • 『私の経営理念 : 一流企業の首脳は語る』(東洋経済新報社, 1965年)
  • 経済人 1969年5月号「未来論的立場からみた企業のあり方・大屋晋三」
  • ダイヤモンド 1969年4月28日号
  • 週刊東洋経済 1976年9月4日号
  • 日経ビジネス 1978年10月23日号(日経マグロウヒル社)
  • 日経ビジネス 1980年6月16日号
  • 日経ビジネス 1980年10月20日号
  • 日経ビジネス 1980年10月20日号 /帝人 単体業績(会社年鑑・1980年3月期)
  • 日経ビジネス 1981年8月10日号
  • 日経ビジネス 1989年12月18日号
  • 日経ビジネス 1993年11月15日号
  • 日経ビジネス 1996年2月19日号
  • 日経ビジネス 1997年3月10日号
  • 日経ビジネス 1998年2月16日号
  • 日経ビジネス 1999年11月1日号
  • 「成功の秘訣」(1963年)

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