1958年〜 ヨーカ堂からセブンイレブン創造と全国ドミナントチェーンへの成長
- 1958年株式会社ヨーカ堂を設立
- 1972年イトーヨーカ堂が東証第2部に株式上場
- 1973年ヨークベニマルと業務提携
- 1973年米デニーズと業務提携・レストラン事業に参入
- 1973年米セブンイレブンと業務提携
- 1974年セブンイレブン1号店を豊洲に開業
- 1989年製造・配送体制を総点検し共同配送・単品管理による鮮度経営を確立
セブン&アイHDの業績推移:単体
出所:有価証券報告書等
業界十位に甘んじた関東ドミナントの14年
1920年に吉川敏雄が浅草で洋品店「羊華堂」を創業し、1940年に暖簾分けで伊藤譲が独立したが、戦災で店舗を焼失した。1946年に北千住へ拠点を移して戦後の再出発をはかり、1956年に伊藤譲が逝去したのち義弟の伊藤雅俊が事業を継いだ。当時の日本の小売りは家族経営の零細店舗が9割以上を占め、セルフサービスで多品目を扱う業態は乏しかった。欧米視察でスーパーマーケットの可能性に着目した伊藤雅俊は、1958年4月に株式会社ヨーカ堂を設立し、洋品店から総合スーパーへ業態を切り替えた。日用品・医薬品・化粧品・加工食品を一店舗で扱う品揃えを掲げ、関東を中心に特定地域へ店舗を集中させるドミナントで網を組んだ。創業時の資本金は約3,000万円で、規模では地方チェーンの域を出なかった。
東京都北部と埼玉県を軸にドミナントで店舗網を築き、1972年2月末で27店、売上高477億円に達し、同月に東証第二部へ上場した。しかし同時期のスーパー業界の売上高ランキングでは、資本力で拡大するダイエーや西友の後塵を拝して10位にとどまり、上位との規模差は歴然としていた。1960年代から70年代前半は、全国チェーンを目指す競合が借入を膨らませて多角化と広域出店に走った時期だった。イトーヨーカ堂は逆に関東の地域深耕を選び、店舗数を量で追わず、欧米の先進業態から次の成長源を探す道を採った。伊藤雅俊はこの規模制約を経営の現実として受け止め、米国での新業態視察に自ら足を運んだ。 [1]
- 証券 24(9)(282)
- [1]1972年2月末 27店・売上高477億円
- 証券 24(9)(282)
- [1]1972年2月末 27店・売上高477億円
商圏連動の出店と低地価政策という成長設計
店舗の規模は商圏の大きさに比例させる、という出店の物差しを伊藤雅俊は早くから明文化していた。1960年に開いた500坪の店は当時の関東で最大級だったが、1966年には1,000坪、1972年には3,000坪が標準になり、商圏の拡大に合わせて売場を広げた。狙ったのは首都圏を取り巻く郊外で、オフィス勤めを経た31歳前後のヤングファミリーである。男女とも購買力が旺盛で、既存の商品に不満を抱く年齢層に、伊藤は「不満のあるところマーケットあり」という持論で照準を合わせた。商圏を読み違えれば過大投資になりかねず、規模と立地の見極めが投資判断の柱だった。 [2][3][4]
- 証券アナリストジャーナル(1972-12)伊藤雅俊
- [2]店舗規模は500坪(1960年開店)→1,000坪(1966年)→3,000坪(1972年現在)と拡大
- [3]ヤングファミリー(31歳前後)市場を狙い「不満のあるところマーケットあり」を持論とした
- [4]店舗規模は商圏に比例させ、過大投資を避ける投資判断
低地価政策は、この出店戦略を採算面から支えた。衣料専門店が成り立つには坪当たり月200万円以上の売上げが要るのに対し、イトーヨーカ堂は当たり20万〜30万円の地価が低い場所に店を構え、総合スーパーの広い売場を安く確保した。1967年に食料品を扱い始めて品目を増やし、来店頻度の高い日常消費を取り込んだ。今後モータリゼーションが進めば郊外の広い土地に店が要るとも読み、車社会の到来を出店地の選定に織り込んだ。変化の激しい現代を先取りするタイミングこそ投資決定の条件であり、関東ドミナントの店づくりを貫いた考えだった。 [5][6][7]
- 証券アナリストジャーナル(1972-12)伊藤雅俊
- [5]衣料専門店は当たり200万円以上、自社は当たり20万〜30万円の低地価地に出店
- [6]1967年(発言の5年前)から食料品の取り扱いを開始
- [7]モータリゼーション進展を見越し車社会・変化先取りを投資条件とした
- 証券アナリストジャーナル(1972-12)伊藤雅俊
- [2]店舗規模は500坪(1960年開店)→1,000坪(1966年)→3,000坪(1972年現在)と拡大
- [3]ヤングファミリー(31歳前後)市場を狙い「不満のあるところマーケットあり」を持論とした
- [4]店舗規模は商圏に比例させ、過大投資を避ける投資判断
- [5]衣料専門店は当たり200万円以上、自社は当たり20万〜30万円の低地価地に出店
- [6]1967年(発言の5年前)から食料品の取り扱いを開始
- [7]モータリゼーション進展を見越し車社会・変化先取りを投資条件とした
本体を5倍速で追い抜いた子会社の誕生
次の成長源は本体の外から生まれた。1973年5月に米デニーズと組んでレストラン業へ入り、同年11月には米サウスランド社と提携してセブンイレブンの国内展開権を得た。ロイヤリティは売上高の0.5%という低率で契約がまとまった。米国のセブンイレブンが1955年から1965年に500店から5,000店へ伸びたのに対し、日本のコンビニエンスストアは20年ほど遅れており、伊藤雅俊はその遅れを成長余地と読んで踏み込んだ。1974年5月、東京都江東区豊洲の酒屋を一号店として開業し、酒販免許を持つ既存店の転換を軸に商圏を引き継いだ。直営ではなくフランチャイズを選んだのは、零細店主の生業を残しつつ商品力と物流を本部が担う分業を組むためだった。
関東の特定地域に絞ってフランチャイズ契約で店舗転換を積み上げ、1976年に国内100店、1978年に500店を超え、一号店から5年で591店に届いた。総合スーパーを20年かけて27店に広げた本体とは対照的な伸びで、1974年12月の読売新聞は「イトーヨーカ堂には連日、数十件の問い合わせがあり、ダイエーにも計画発表以来、問い合わせが殺到しているという」(読売新聞 1974/12/17)と加盟希望の殺到を伝えた。出店速度は商店街との摩擦も生み、1978年7月には東京都江東区で「一時は反対派100人、スーパー側警備員など200人がにらみ合い、城東署員45人が出動して警戒に当たった」(読売新聞 1978/7/12)とも報じられた。 [8][9]
- 読売新聞(1974-12-17)
- [8]1974年12月 加盟希望が殺到(読売新聞)
- 読売新聞(1978-07-12)
- [9]1978年7月 江東区で商店街との衝突(読売新聞)
1980年代に入ると、セブンイレブンはコーヒー・弁当・ハンバーガー・サンドウィッチを即食に加え、店舗数は1983年に1,600店へ達した。都内加盟店1店で月7,846杯、1日260杯のコーヒーが売れた事例も紹介された。利益分配は店の総利益の45%を本部が取り残りをオーナーが得る設計で、両者の関係は「2人3脚」(日経ビジネス 1983/2/21)と評された。1985年には日経流通新聞が「新しい消費者ニーズに関する情報を武器に、商品開発の主導権を握り始めた」(日経流通新聞 1985/12/2)と指摘し、POSと単品管理で仕入れの判断を本部が握る仕組みが定着した。1994年の日経新聞は「セブン―イレブン、味の素、伊藤忠連合のパン市場への参入は既存業界を巻き込んだ全面戦争に発展しそうだ」(日経新聞 1994/4/5)と伝え、加盟店網を生かした商品開発は既存メーカーを揺さぶる段階へ進んだ。 [10][11][12][13]
- 日経ビジネス(1983-02-21)
- [10]1983年に店舗数1,600店、利益分配は総利益の45%を本部が取得
- [11]都内加盟店1店で月7,846杯・1日約260杯のコーヒー販売
- 日経流通新聞(1985-12-02)
- [12]1985年 情報を武器に商品開発の主導権(日経流通新聞)
- 日経新聞(1994-04-05)
- [13]1994年 パン市場参入で既存業界と全面戦争(日経新聞)
- 読売新聞(1974-12-17)
- [8]1974年12月 加盟希望が殺到(読売新聞)
- 読売新聞(1978-07-12)
- [9]1978年7月 江東区で商店街との衝突(読売新聞)
- 日経ビジネス(1983-02-21)
- [10]1983年に店舗数1,600店、利益分配は総利益の45%を本部が取得
- [11]都内加盟店1店で月7,846杯・1日約260杯のコーヒー販売
- 日経流通新聞(1985-12-02)
- [12]1985年 情報を武器に商品開発の主導権(日経流通新聞)
- 日経新聞(1994-04-05)
- [13]1994年 パン市場参入で既存業界と全面戦争(日経新聞)