ビックカメラの創業者である新井隆司氏が持っていた元手は、資本ではなく技術だった。5歳で亡くした母の写真を引き伸ばそうとして写真屋に断られ、合成と修正を独学で覚えたことが、仏壇用写真の複写という商売になった。1968年3月に高崎で始めた現像所も、用地こそ借りたが建物は自分でセメントを練って建て、設備は現像機以外ほとんど手製、店は一坪、初日の売上は700円である。元手が薄い代わりに、値段と速さは自分で決められた。相場10円の白黒プリントを7円にし、3時間で仕上げる。安く速くという二つの条件を自前で握ったことが、のちの量販店の値付けの原型になった。この順序は逆にならない。安く売れる仕組みを持たないまま安値だけを出せば、店は保たない。
この会社の分かれ目は、伸びている最中に店を閉じたところにある。設立3年で40店に達した現像チェーンは群馬県下で最大級になったが、年中無休と10時間営業が人件費を膨らませ、新井氏は各店の巡回だけで毎日350キロを走っていた。順調に見える時期に40店を6店へ絞り、空いた資源を単価の高いカメラ販売へ寄せている。整理の直後に第一次石油危機が来たため、40店のままなら倒産していたかもしれないと新井氏はのちに振り返った。1980年10月に池袋北口店が火事を出したときも、動き方は同じだった。水浸しの店を当日10時に開けたことでメーカーの信用が増し、裏のビルの持ち主から誘われて壁を抜き、売場は2倍になっている。ビックカメラが東京で足場を得たのは、伸びている最中に縮め、非常時にも休まなかったからである。
ビックカメラの創業者である新井隆司氏が最初に売ったのは、カメラでも現像でもなく、仏壇に飾る写真の複写だった。1946年5月に群馬県で生まれた新井氏は、5歳で母を亡くしている。思い出は小さな写真一枚だけで、高校1年のときに引き伸ばしを頼んだ写真屋からは、そんな技術は持っていないと断られた。新井氏は写真の合成技術とエアブラシによる修正を独学で研究し、試行錯誤の末に思い描いた通りの一枚を自分で作った。同じ思いの人が他にもいるはずだと考えて葬儀店を回り、仏壇に飾る写真の作成を請け負うようになる。1枚3,500円で、多いときは一晩に10件の複写を頼まれた。断られた技術を自分で持つところから商売が立ち上がった。
高校を出た新井氏は群馬に留まらず、まず薬の商いで東京へ出ている。1965年に群馬県立高崎工業高校を卒業したあと、実家の薬局を手伝った縁で薬の世界に入り、仲介まがいの仕事で500万円の元手を作った。1966年には大塚駅前に薬局を開設している。ところが経営が安定し始めた頃、父が心臓を患って床に伏した。兄が米国に留学中で男手は新井氏一人だったため、薬局を他人へ譲って高崎へ引き揚げた。高崎で選んだのは、売るだけの商いではなく高校時代のアルバイトで身につけた現像の技術を使う仕事だった。高校時代から東京でひと花咲かせたいと考えていた新井氏にとって、この帰郷は東京での最初の挫折だった。
ビックカメラの原点は、1968年3月に群馬県高崎市中大類町へ設けられた株式会社高崎DPセンターである。現像所の用地は借りられたが、建物は新井氏が自らセメントを練って仕上げ、設備も現像機以外はほとんど手製だった。店舗は立地こそ一等地に取ったものの、広さはわずか一坪のミニショップにすぎない。開店初日の売上は700円だった。それでもこの商売は必ず伸びるという確信があり、根拠は値段と速さに置かれていた。当時のサービス判白黒プリントは相場が10円だったが、これを7円に下げ、3時間のスピード仕上げを売り物にした。注文は殺到し、1カ月後には十分に採算の合う商売になった。技術者志望だった新井氏にとって、現像は手を動かして値段を作れる商売でもあった。
安さと速さで客を集めた結果、設立から3年目にはチェーン店が40店に達し、群馬県下で最大級のフィルム現像会社になった。しかし店舗数の多さは、そのまま経営の負担へ変わる。年中無休と午前10時から午後8時までの10時間営業をセールスポイントにしていたため人員効率が悪く、人件費が急膨張した。現金を小口で受ける商いのため会計事務も繁雑になった。この頃の新井氏の仕事は各店の管理のため車で回ることだけに追われ、走行距離は毎日350キロに達していた。事業計画を立てる余裕がなく、このままでは経営の責任が取れなくなると考えるようになった。この現像チェーンはカメラ販売部門を内部に抱えており、のちにそこだけが切り出される。伸びている最中に縮めなければ止まらない構造だった。
新井氏は40店を6店へ絞り込んだ。事業は順調に進んでいるのになぜ、といぶかる人もいた。ただしこの整理は撤退ではなく、規模の縮小と同時にDPEより高付加価値のカメラ販売部門へ主力を移す組み替えだった。1972年には販売部門を分離して株式会社ビックカラーを設立し、カメラと関連商品の販売を本体に据えている。店舗の整理が済んだ直後に第一次石油危機が日本を襲った。40店のままなら倒産の危機に見舞われていたかもしれないと、新井氏はのちに書いている。高崎の会社が第一次石油危機を乗り切って経営的に安定したことが、次の東京進出の元手になった。現像は薄利で人手を食い、カメラは単価が高く在庫で戦える商材であり、店数ではなく一店の中身へ資源を寄せる判断だった。
群馬県内ではカメラ販売会社として知られ、第一次石油危機も乗り越えて経営が安定していた高崎の会社は、1978年4月に株式会社ビックカラーから株式会社ビックカメラ(高崎)へと社名を改めた。BIGではなくBICと綴るこの名には、規模の大きさだけでなく奥行きも備えた企業になりたいという思いが込められたとされる。新井氏の説明では、一番の深さ・一番の高さ・一番の広さをまとめて漢字で表すと空になる。残っていたのは、東京へ出たいという気持ちだけだった。現像の略号を外してカメラを社名へ置いたことで、業態の転換は名前の上でも確定した。
東京での事業展開に着手したのは1977年である。新井氏はまず市場調査に着手し、店の立地の条件を、土地代が安く、街には若者が多く、バイタリティーのあるところの3つに置いた。白羽の矢を立てたのが池袋で、当時の駅北口は環境が悪く、若者があまり寄りつく場所ではなかった。それでも新宿や渋谷に比べればイメージは良くない反面、乗降客が多く土地も安く、駅の近くに店を設ければ乗降客を呼べると新井氏は考えていた。1978年5月、東京都豊島区西池袋に東京支店が開かれた。高崎から上京したのは新井氏一人で、物件選びから社員の採用まで自分でこなしている。基礎の固まった高崎の販売会社を崩さないためで、苦労はやりたいと思っている者がかぶればいいという考えだった。
1978年5月に開いた東京支店が3年目に入った1980年10月21日の深夜、この店が火事を出した。近くの寮に社員と住んでいた新井氏は店へ駆けつけ、預かっていたフィルムと修理依頼のカメラを運び出している。鎮火したのは朝の5時だった。年中無休を看板にして固定客が付き始めた頃だったため、その日もなんとしても営業すると決めた。水浸しの店内を社員と急いで片付け、10時にはシャッターを上げている。見舞いに来たメーカーの担当者が10時から開店しているのを見て、頑張って客を大事にする店だと認めるようになり、業界内での信用も高まった。仕事に慣れて緩みの出ていた社員に活気が戻ったのもこのときである。店を傾けかねない失火が信用を厚くしたのは、休まないという看板を火事の日にも守ったからである。
失火を謝って周囲のビルを回るうちに、店の裏のビルのオーナーから、良かったらこのビルを使ってみないかと誘いを受けた。業容を拡大したいと考えていた新井氏はこれを受け、二つのビルの壁をぶち抜きで使うことにして、売場面積は一挙に二倍へ広がった。その翌月の1980年11月21日、東京都豊島区西池袋に株式会社ビックカメラが設立される。新会社は株式会社ビックカメラ(高崎)の東京支店を引き継ぎ、自社店舗として事業を開始した。同月に開いた池袋店は、のちに池袋北口店へ店名を変えている。一号店を開いて以来、減収の年は一度もなかった。1981年11月、共同で金融事業を営むために東京カメラ流通協同組合が設立された。池袋東口店の開店は1982年6月である。その後も駅前への出店が重なった。1989年12月には渋谷店、1991年4月には横浜西口店が開いた。
1990年代のビックカメラが広げたのは店の数ではなく、一つの売場で受けられる需要を最大化し、ポイントで顧客獲得の粘着性を高めたことにある。1996年の時点でも店舗は池袋5店、渋谷2店、横浜1店の合計8店にすぎない。1992年9月に池袋本店を開店し、12月にビックポイントカードを導入した。値引きを現金で返さず次の買い物に使える残高として渡す以上、同じ客が同じ売場へ何度も来ることが前提になる。だから増やしたのは扱う品目のほうだった。羽毛布団、生花、スポーツ用品、酒、化粧品、玩具と広げ、カメラと家電の専門店は総合ディスカウントストアへ変わった。新井氏がこれを専門店の集合体と呼んだのは、寄せ集めではなく分野ごとに専門店と並ぶ深さを持たせる意味だった。
この時期のもう一つの特徴は、安さの中身を自分で決めるところまで事業を広げたことである。池袋本店の平均粗利益率は5から9%で、定価20万円のカメラを14万円で仕入れ、15万円で売った。問屋を外してメーカー販社から直接仕入れ、土日に1日1,000台を捌く量があって初めて成り立つ構造である。値札は毎日の他店調査に応じて下げ、年末のビデオテープの値は1時間に3回書き換えられた。ただし安さだけでは売場は保たない。1992年に東京羽毛工房を設けて品質を自ら決めた羽毛ふとんを作り、1993年に東京サービスステーションを設けて修理を自前に置いたのは、安いという評判を品質と保守の側から支えるためだった。1999年に設立した日本ビーエス放送企画だけは、その延長にはない別の賭けである。
1992年は、ビックカメラが池袋の売場を作り替えた年だった。6月に池袋東口駅前店を開店し、9月には東京都豊島区へ池袋本店を開店している。同じ6月に埼玉県朝霞市の商品センターを閉じ、新座市へ移して在庫の置き場も作り直した。翌1993年2月には渋谷東口店を開店した。1996年の時点で店舗は池袋5店、渋谷2店、横浜1店の合計8店で、駅前に店を重ねる出店が続いている。1998年4月には本部部門を東京都豊島区高田へ移し、10月には新座商品センターを閉じて東京都板橋区に前野町商品センターを開設した。店の数を散らすのではなく、同じ駅前で一店あたりの受け皿を大きくする置き方だった。
1992年12月、ビックカメラは顧客獲得のためビックポイントカードを導入し、ポイントサービスを開始した。翌1993年4月にはビック商品券の販売も始めている。1996年の時点で、カメラの店頭価格はメーカー希望小売価格に対して平均3割から4割5分引きだった。高級機種や新製品の値引率は約2割5分と低く、発売から年数が経つにつれて高くなり、なかには6割引きのカメラもあった。家電製品も3割引き、4割引きが当たり前という水準にある。1999年1月には新決済システムのジェイデビット決済を、実証実験とともに取り扱い始めた。値引きの幅を商品の鮮度で変え、圧縮した粗利の一部をポイントとして次の来店へ繰り延べる組み立てだった。
1993年3月、家電商品の取付と修理を目的として株式会社東京サービスステーションが設立された。新井氏は、いくら性能が良くても使いこなせないものには価値がないと考えていた。撮りたいときに撮れないカメラはただの荷物だという言い方をしている。高齢化が進めばビデオや留守番電話を使えない人が増え、故障したときはさらに分からなくなる。だからこそメンテナンスなどのアフターサービスが要ると考え、サービスセンターを別会社として設けて力を入れ始めた。1996年3月には不動産の賃貸・管理を目的として株式会社ビックカメラビルディングを設立し、店舗の器も自前で持ち始めている。安く売る店が売りっぱなしになれば、次の来店は来ない。
1992年8月、寝具の製造・販売を目的として株式会社東京羽毛工房が設立された。1995年6月には株式会社生毛工房へ商号を変更している。羽毛ふとんは価格がまちまちなのにどれも同じように見え、何を選べばよいか分からないと新井氏は見ていた。ブランド名を付加価値にして高級品にしたものがある一方、羽毛ふとんとは名ばかりでフェザーが多くダウンの少ない品質の劣るものもあった。そこで安心価格ゾーンに置き、品質を徹底して追求した羽毛ふとんを自ら開発した。1995年7月には寝具製品の原材料を確保するため、EURO COMFORT SP.ZO.Oを設けている。売り物を仕入れるのではなく作る側へ回ったのは、安さの中身を自分で説明できるようにするためだった。
ビックカメラは1990年代半ばまでに、羽毛布団や生花、スポーツ用品、酒、化粧品、玩具へ取扱いを急速に広げた。1992年頃に始めた生花では、他店なら1本500円以上する大きな3Lサイズのバラを1本250円で並べ、客を集めた。花が高くつくのは売れずに枯れる分が値段に上乗せされているからで、仕入れた当日に売り切ってしまえばよいという考え方だった。店はすでに、カメラと家電の専門ディスカウントストアから総合ディスカウントストアへ姿を変えていた。狙ったのは、目当ての品を買えばすぐ帰る男性客向けの店ではなく、子供連れの家族でも買い物を楽しめる専門店の集まりで、新井氏はこれを、より豊かな生活を提供する専門店の集合体と呼んでいる。
新井氏は、もともと安いものや良くないものが安くても当たり前であり、良いものが安くなくては安いとはいえないと述べている。取引の基本は共存共栄であり、メーカーとの互いのパイプを太くすることが大切だとしている。店側の言い分は、価格を破壊しているのではなく適正な値段で売っているというものだった。定価に当たり前のように織り込まれてきた無駄な費用を省けば値段は下げられる、という理屈である。組織の面では、1994年10月にパソコン販売部門を切り出して株式会社ビックパソコン館を設け、同社は2001年4月に株式会社ビックピーカンへ商号を改めた。品目ごとに会社を分けても、値段の考え方は一つに揃えていた。
定価20万円の高級カメラなら、仕入れは14万円、売値は15万円という計算になる。大きく値を下げられたのは、包装費などの経費を削り、平均の粗利益率を5から9%にとどめたからだった。池袋本店のカメラ売場では土曜と日曜に1日およそ1,000台が売れ、それを背景に問屋を通さずメーカー販社からじかに仕入れていた。良い商品を安く出すには、各メーカーとの取引で大量に仕入れることだと新井氏は語っていた。家電製品でも粗利益率は数%にとどまり、メーカー販社とじかに取引していた。値段の安さは、値引きを決めたから生まれたのではなく、売れる量と絞った経費から差し引きで作られていた。
よく売れるのは2万円前後のコンパクトカメラで、高級機は月に数台しか売れない。売れ筋に絞り込む同業が多いなかで、池袋本店はあまり売れない機種も充実させ、カメラだけで約3,000機種を揃えていた。受注生産が普通で200万円から300万円する1,000ミリの交換レンズまで在庫として常備している。一方で、毎日周辺の競合ディスカウントストアへ店員が価格調査に出掛け、自店より安い商品があれば即座に値を下げた。年末の安売りの中核商品として並べるビデオテープは、1時間に3回も価格が変わることがあった。新井氏は、専門店の集合体として成長した以上スペシャリストの育成も要るとし、人材は現場で物を見ながら覚えるのが一番早いと述べていた。品揃えで客を呼び、価格で逃がさないという二枚の仕掛けが、同じ売場に重ねられていた。
消費不況といわれた年にも13から14%の伸びを保ち、一号店を開いてから減収の年はなかった。1995年4月期には売上高が1,007億円に届いた。1999年4月、首都圏の外となる福岡県福岡市中央区に天神店を開き、6月には神奈川県横浜市港北区へ新横浜店を出した。同年8月には放送事業のための日本ビーエス放送企画株式会社を設立し、同社は12月に日本ビーエス放送株式会社と商号を改めた。11月には期間限定で、100人に1人無料キャンペーンという販売促進策を始めている。物を安く売る会社が電波の事業へ出たことは、扱う品目の拡張とは性質の違う一歩だった。
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|---|---|---|---|---|
| 1968〜1991年現像業から量販店への業態転換 | 会社設立、池袋店を開店しカメラ等の物品販売事業に参入 | ★ | ||
| 東京カメラ流通協同組合を設立 | ★ | |||
| 渋谷店を開店 | ★ | |||
| 1992〜1999年カメラ専門店からの多角化 | 東京羽毛工房(1995年生毛工房に商号変更)を設立 | ★ | ||
| 池袋本店を開店 | ★ | |||
| ビックポイントカードを導入しポイントサービスを開始 | ★★ | |||
| 天神店を開店 | ★ | |||
| 日本ビーエス放送企画を設立、後にBSデジタル放送「BS11」を開始 | ★★ | |||
| 2000〜2011年有楽町店とビックカメラ.com、ジャスダック上場とソフマップの子会社化 | 有楽町店を開店 | ★ | ||
| ビック酒販を設立 | ★ | |||
| インターネットショッピングサイト「ビックカメラ.com」を開設 | ★★ | |||
| 宮嶋宏幸 | ソフマップの増資引受により同社が子会社に | ★★ | ||
| 宮嶋宏幸 | ジャスダック証券取引所に株式を上場 | ★ | ||
| 宮嶋宏幸 | 時間をかけた段階的な取り込みと、完全子会社化への到達 2005年から2010年にかけて、ビックカメラが中古パソコンの雄ソフマップを、資本業務提携・増資引受・株式交換の3段階で取り込み、完全子会社化した経営判断。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 宮嶋宏幸 | ドラッグ事業を有楽町店で開始 | ★ | ||
| 2012〜2026年コジマの子会社化とビックロ、日本橋三越出店と中期経営計画Vision 2029 | 宮嶋宏幸 | 郊外型量販店の傘下入りによる、「都市×郊外」の連合の形成 2012年、ビックカメラがコジマの第三者割当増資141億18百万円を引き受けて議決権の50.06%を握り、子会社化した経営判断。全国44都道府県に202店舗を持つ郊外型チェーンがグループに入った。 詳細を読む | ★★★ | |
| 宮嶋宏幸 | ビックロ新宿東口店を開店 | ★ | ||
| 宮嶋宏幸 | オリジナルSIMカード「BIC SIM」の専用受付カウンター設置 | ★ | ||
| 宮嶋宏幸 | ビックカメラ日本橋三越を開店 | ★ | ||
| 木村一義 | ソフマップがじゃんぱらの株式を取得 | ★ | ||
| 秋保徹 | ラネットがTDM準備会社を設立、後にTDモバイル事業を吸収分割で承継 | ★ | ||
| 秋保徹 | 中期経営計画「ビックカメラグループ中期経営計画~Vision 2029~」を策定 | ★ |
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事実根拠:出所(ビックカメラ)