ビックカメラ の歴史

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創業 1968年
創業者 新井隆司
創業地 群馬県高崎市
創業 1968年、新井隆司氏が群馬県高崎市で写真フィルムの現像とプリントを扱う"高崎D
1968年、新井隆司氏が群馬県高崎市で写真フィルムの現像とプリントを扱う"高崎DPセンター"を開設した。1970年代にカメラ販売へ広げたのち、1978年に本拠を東京・池袋へ移し、写真機・カメラの量販店として再出発する。秋葉原と新宿西口という当時の激戦区を外し、乗降客が多いのに需要の捌けていない池袋を選んだ判断だった。1980年6月に株式会社ビックカメラを設立し、同年11月に豊島区へ池袋店を開設して物品販売事業を始める。以後は1989年12月の渋谷店、1991年4月の横浜西口店、1992年9月の池袋本店と、首都圏のターミナル駅前へ集中して出店した。ただし当時の家電量販で伸びていたのは、郊外ロードサイドに数千平方メートルの売場を確保するヤマダ電機やコジマのほうである。
決断 値引きを現金で渡すのをやめ、次の来店の権利として渡してきた。1992年12月に導
値引きを現金で渡すのをやめ、次の来店の権利として渡してきた。1992年12月に導入したビックポイントカードは、値引きで粗利を細らせる代わりに還元を次回の買い物へ充当する仕組みで、のちに家電量販の標準となった。同じ売場へ何度も来る客を前提に置いたため、扱う品目も家電の外へ広がる。2001年11月にはビック酒販を設立して酒類・食品・医薬品を並べ、2003年10月に"ビックカメラ.com"を開設して通販へ参入した。2005年1月にはソフマップとの資本業務提携から段階的な取り込みを始め、自前では作りにくいPCと中古買取の売場を加えている。駅前の一店で受けられる需要を増やしたことが、店舗数を増やさずに1店あたりの売上を積む条件を作った。
現況 売上の99%は物を売る事業だが、利益率がいちばん高いのは放送である。2025年8
売上の99%は物を売る事業だが、利益率がいちばん高いのは放送である。2025年8月期の連結売上高は9,745億円、営業利益は303億円で、いずれも過去最高となった。セグメントは物品販売が売上9,620億円・利益298億円、BSデジタル放送が110億円・利益20億円で、売上比1.1%の放送が18.6%の営業利益率を出す一方、物販は3.1%にとどまる。放送は1999年8月に日本ビーエス放送企画を設立して始めた事業にあたる。2021年12月には子会社ソフマップが中古スマートフォン専業のじゃんぱらを取得し、新品販売と買取・中古販売をグループ内でつないだ。2024年10月公表の中期経営計画は、2029年8月期に連結売上高1兆1,000億円・営業利益400億円を掲げている。
競合 郊外の店舗網は自前で作らず、失速した同業ごと取得して手に入れた。1980年代以降
郊外の店舗網は自前で作らず、失速した同業ごと取得して手に入れた。1980年代以降の家電量販は、郊外ロードサイドで伸びるヤマダ電機・コジマと、都心ターミナルのヨドバシカメラ・ビックカメラに分かれ、同社は池袋・渋谷・横浜西口と駅前だけを厚くしてきた。2012年6月にコジマを子会社化したのは、2011年5月期に純損失73億円を計上した郊外大手を、約141億円の増資引受で議決権50.06%まで取り込む取引である。訪日客が2014年の1,300万人台から2016年の2,403万人へ増えると、駅前の立地はそのまま免税需要の受け口になった。2026年6月には首位のヤマダホールディングスが5位のエディオンとの経営統合を発表した。訪日と国内の需要を同じ一店で受ける配置が、店舗数で及ばないまま利益を伸ばす条件になっている。
長期業績の推移 1978〜2026年
ビックカメラ:長期業績の推移(売上高・利益率)売上高(億円)純利益率(%)
2001年8月期〜2025年8月期

第1章 1968年〜 現像業から量販店への業態転換高崎DPセンター40店の整理から池袋北口店へ

筆者考察y.sugiura, author

ビックカメラの創業者である新井隆司氏が持っていた元手は、資本ではなく技術だった。5歳で亡くした母の写真を引き伸ばそうとして写真屋に断られ、合成と修正を独学で覚えたことが、仏壇用写真の複写という商売になった。1968年3月に高崎で始めた現像所も、用地こそ借りたが建物は自分でセメントを練って建て、設備は現像機以外ほとんど手製、店は一坪、初日の売上は700円である。元手が薄い代わりに、値段と速さは自分で決められた。相場10円の白黒プリントを7円にし、3時間で仕上げる。安く速くという二つの条件を自前で握ったことが、のちの量販店の値付けの原型になった。この順序は逆にならない。安く売れる仕組みを持たないまま安値だけを出せば、店は保たない。

この会社の分かれ目は、伸びている最中に店を閉じたところにある。設立3年で40店に達した現像チェーンは群馬県下で最大級になったが、年中無休と10時間営業が人件費を膨らませ、新井氏は各店の巡回だけで毎日350キロを走っていた。順調に見える時期に40店を6店へ絞り、空いた資源を単価の高いカメラ販売へ寄せている。整理の直後に第一次石油危機が来たため、40店のままなら倒産していたかもしれないと新井氏はのちに振り返った。1980年10月に池袋北口店が火事を出したときも、動き方は同じだった。水浸しの店を当日10時に開けたことでメーカーの信用が増し、裏のビルの持ち主から誘われて壁を抜き、売場は2倍になっている。ビックカメラが東京で足場を得たのは、伸びている最中に縮め、非常時にも休まなかったからである。

ビックカメラの首都圏出店(累計店舗数) 1980年11月の池袋店から1991年4月の横浜西口店まで(店)

1 池袋店 2 池袋東口店 3 渋谷店 4 横浜西口店
  • 有価証券報告書【沿革】に記載された開店だけを数えた累計。

1961年〜仏壇用写真の複写と大塚駅前の薬局

ビックカメラの創業者である新井隆司氏が最初に売ったのは、カメラでも現像でもなく、仏壇に飾る写真の複写だった。1946年5月に群馬県で生まれた新井氏は、5歳で母を亡くしている。思い出は小さな写真一枚だけで、高校1年のときに引き伸ばしを頼んだ写真屋からは、そんな技術は持っていないと断られた。新井氏は写真の合成技術とエアブラシによる修正を独学で研究し、試行錯誤の末に思い描いた通りの一枚を自分で作った。同じ思いの人が他にもいるはずだと考えて葬儀店を回り、仏壇に飾る写真の作成を請け負うようになる。1枚3,500円で、多いときは一晩に10件の複写を頼まれた。断られた技術を自分で持つところから商売が立ち上がった。

  • 創業者精神 独力で優良企業を築いた経営者列伝(日経ベンチャー編、1993年)「火事でも営業、信用得る」(新井隆司)
    • [1]新井隆司氏は葬儀店を回り、仏壇に飾る写真の作成を引き受けるようになった。これが商売の第一歩だった
    • [2]新井隆司氏は1946年(昭和21年)5月、群馬県生まれ。5歳のときに母を亡くした
    • [3]母の思い出はほんの小さな写真一枚だけで、高校1年のときに引き伸ばそうと近くの写真屋を訪ねたが、そんな技術は持っていないと断られた
    • [5]同じ思いをしている人が他にもいるに違いないと考え、葬儀店を回って仏壇に飾る写真の作成を引き受けた
    • [6]複写は1枚3,500円で、多いときは一晩で10件の注文を受けた
  • NTT business 1995年6月号「人が本当に喜ぶことを追求するとより豊かな生活が見えてくる」(新井隆司)
    • [4]母の写真を復元したい一心で、写真の合成技術やエアブラシによる修正を独学で研究し、イメージ通りの写真を自分で作った

高校を出た新井氏は群馬に留まらず、まず薬の商いで東京へ出ている。1965年に群馬県立高崎工業高校を卒業したあと、実家の薬局を手伝った縁で薬の世界に入り、仲介まがいの仕事で500万円の元手を作った。1966年には大塚駅前に薬局を開設している。ところが経営が安定し始めた頃、父が心臓を患って床に伏した。兄が米国に留学中で男手は新井氏一人だったため、薬局を他人へ譲って高崎へ引き揚げた。高崎で選んだのは、売るだけの商いではなく高校時代のアルバイトで身につけた現像の技術を使う仕事だった。高校時代から東京でひと花咲かせたいと考えていた新井氏にとって、この帰郷は東京での最初の挫折だった。

  • 創業者精神 独力で優良企業を築いた経営者列伝(日経ベンチャー編、1993年)「火事でも営業、信用得る」(新井隆司)
    • [7]新井隆司氏は高校卒業後に一度上京し、実家の薬局を手伝っていた縁から薬の世界に入った
    • [9]薬の世界でブローカーまがいの仕事をして500万円の元手を作り、1966年(昭和41年)に大塚駅前へ薬局を開店した
    • [10]薬局が軌道に乗ってきた頃、父が心臓を患って床に伏したという知らせが届いた
    • [11]兄が米国に留学中で男手は新井氏一人という事情があり、薬局を他人に譲って高崎へ引き揚げた
    • [12]もともと技術者志望で売るだけの仕事には不満があり、高崎へ戻ると高校時代のアルバイトで身につけた技術を生かして再びDPE業を始めることを思い立った
    • [13]高校時代から東京でひと花咲かせようという気持ちがあり、薬局を手放しての帰郷は東京勝負のつまずきだった
  • NTT business 1995年6月号「人が本当に喜ぶことを追求するとより豊かな生活が見えてくる」(新井隆司)
    • [8]新井隆司氏は1965年(昭和40年)に群馬県立高崎工業高校を卒業した

ビックカメラの原点は、1968年3月に群馬県高崎市中大類町へ設けられた株式会社高崎DPセンターである。現像所の用地は借りられたが、建物は新井氏が自らセメントを練って仕上げ、設備も現像機以外はほとんど手製だった。店舗は立地こそ一等地に取ったものの、広さはわずか一坪のミニショップにすぎない。開店初日の売上は700円だった。それでもこの商売は必ず伸びるという確信があり、根拠は値段と速さに置かれていた。当時のサービス判白黒プリントは相場が10円だったが、これを7円に下げ、3時間のスピード仕上げを売り物にした。注文は殺到し、1カ月後には十分に採算の合う商売になった。技術者志望だった新井氏にとって、現像は手を動かして値段を作れる商売でもあった。

  • ビックカメラ 有価証券報告書【沿革】
    • [14]提出会社の原点は、昭和43年3月に群馬県高崎市中大類町へ設立された株式会社高崎DPセンターである
  • 創業者精神 独力で優良企業を築いた経営者列伝(日経ベンチャー編、1993年)「火事でも営業、信用得る」(新井隆司)
    • [15]現像所の用地は借りたが、建物は自らセメントを練って完成させ、設備も現像機以外はほとんど手製だった
    • [16]店舗は立地こそ一等地にあったが、わずか一坪のミニショップにすぎなかった
    • [17]1968年3月に高崎市で高崎DPセンターを始めた初日の売上は700円だった
    • [19]当時のサービス判白黒プリントの相場は10円だったが、これを7円にし、3時間のスピード仕上げを売り物にした
    • [20]注文が殺到し、1カ月後には十分採算に合う商売になった
  • NTT business 1995年6月号「人が本当に喜ぶことを追求するとより豊かな生活が見えてくる」(新井隆司)
    • [18]新井隆司氏は写真に興味がわき、昭和43年に高崎でDPセンターを設立した
参考文献[1]-[20]
  • 創業者精神 独力で優良企業を築いた経営者列伝(日経ベンチャー編、1993年)「火事でも営業、信用得る」(新井隆司)
    • [1]新井隆司氏は葬儀店を回り、仏壇に飾る写真の作成を引き受けるようになった。これが商売の第一歩だった
    • [2]新井隆司氏は1946年(昭和21年)5月、群馬県生まれ。5歳のときに母を亡くした
    • [3]母の思い出はほんの小さな写真一枚だけで、高校1年のときに引き伸ばそうと近くの写真屋を訪ねたが、そんな技術は持っていないと断られた
    • [5]同じ思いをしている人が他にもいるに違いないと考え、葬儀店を回って仏壇に飾る写真の作成を引き受けた
    • [6]複写は1枚3,500円で、多いときは一晩で10件の注文を受けた
    • [7]新井隆司氏は高校卒業後に一度上京し、実家の薬局を手伝っていた縁から薬の世界に入った
    • [9]薬の世界でブローカーまがいの仕事をして500万円の元手を作り、1966年(昭和41年)に大塚駅前へ薬局を開店した
    • [10]薬局が軌道に乗ってきた頃、父が心臓を患って床に伏したという知らせが届いた
    • [11]兄が米国に留学中で男手は新井氏一人という事情があり、薬局を他人に譲って高崎へ引き揚げた
    • [12]もともと技術者志望で売るだけの仕事には不満があり、高崎へ戻ると高校時代のアルバイトで身につけた技術を生かして再びDPE業を始めることを思い立った
    • [13]高校時代から東京でひと花咲かせようという気持ちがあり、薬局を手放しての帰郷は東京勝負のつまずきだった
    • [15]現像所の用地は借りたが、建物は自らセメントを練って完成させ、設備も現像機以外はほとんど手製だった
    • [16]店舗は立地こそ一等地にあったが、わずか一坪のミニショップにすぎなかった
    • [17]1968年3月に高崎市で高崎DPセンターを始めた初日の売上は700円だった
    • [19]当時のサービス判白黒プリントの相場は10円だったが、これを7円にし、3時間のスピード仕上げを売り物にした
    • [20]注文が殺到し、1カ月後には十分採算に合う商売になった
  • NTT business 1995年6月号「人が本当に喜ぶことを追求するとより豊かな生活が見えてくる」(新井隆司)
    • [4]母の写真を復元したい一心で、写真の合成技術やエアブラシによる修正を独学で研究し、イメージ通りの写真を自分で作った
    • [8]新井隆司氏は1965年(昭和40年)に群馬県立高崎工業高校を卒業した
    • [18]新井隆司氏は写真に興味がわき、昭和43年に高崎でDPセンターを設立した
  • ビックカメラ 有価証券報告書【沿革】
    • [14]提出会社の原点は、昭和43年3月に群馬県高崎市中大類町へ設立された株式会社高崎DPセンターである

1971年〜40店から6店への整理とカメラ販売への主力移動

安さと速さで客を集めた結果、設立から3年目にはチェーン店が40店に達し、群馬県下で最大級のフィルム現像会社になった。しかし店舗数の多さは、そのまま経営の負担へ変わる。年中無休と午前10時から午後8時までの10時間営業をセールスポイントにしていたため人員効率が悪く、人件費が急膨張した。現金を小口で受ける商いのため会計事務も繁雑になった。この頃の新井氏の仕事は各店の管理のため車で回ることだけに追われ、走行距離は毎日350キロに達していた。事業計画を立てる余裕がなく、このままでは経営の責任が取れなくなると考えるようになった。この現像チェーンはカメラ販売部門を内部に抱えており、のちにそこだけが切り出される。伸びている最中に縮めなければ止まらない構造だった。

  • 創業者精神 独力で優良企業を築いた経営者列伝(日経ベンチャー編、1993年)「火事でも営業、信用得る」(新井隆司)
    • [21]設立から3年目にはチェーン店が40店に達し、群馬県下では最大級のフィルム現像会社となった
    • [22]店舗数の多さが逆に経営の負担になってきた
    • [23]年中無休と午前10時から午後8時までの10時間営業をセールスポイントにしていたため人員効率が悪く、人件費が急膨張した
    • [24]目銭商売のため会計事務なども繁雑になった
    • [25]この頃の仕事は各店の管理のため車で回ることだけに追われ、毎日350キロも走っていた
    • [26]事業計画を立てるゆとりが全くなく、このままでは経営の責任が取れなくなると考えるようになった
  • ビックカメラ 有価証券報告書【沿革】
    • [27]株式会社高崎DPセンターは、その後カメラ販売部門を分離して株式会社ビックカラーを設立した

新井氏は40店を6店へ絞り込んだ。事業は順調に進んでいるのになぜ、といぶかる人もいた。ただしこの整理は撤退ではなく、規模の縮小と同時にDPEより高付加価値のカメラ販売部門へ主力を移す組み替えだった。1972年には販売部門を分離して株式会社ビックカラーを設立し、カメラと関連商品の販売を本体に据えている。店舗の整理が済んだ直後に第一次石油危機が日本を襲った。40店のままなら倒産の危機に見舞われていたかもしれないと、新井氏はのちに書いている。高崎の会社が第一次石油危機を乗り切って経営的に安定したことが、次の東京進出の元手になった。現像は薄利で人手を食い、カメラは単価が高く在庫で戦える商材であり、店数ではなく一店の中身へ資源を寄せる判断だった。

  • 創業者精神 独力で優良企業を築いた経営者列伝(日経ベンチャー編、1993年)「火事でも営業、信用得る」(新井隆司)
    • [28]思い切って店舗の縮小に踏み切り、40店を6店に絞り込んだ
    • [29]当時は事業が順調に進んでいるのになぜ、といぶかる人もいた
    • [30]規模縮小と同時に、DPEよりも高付加価値のカメラ販売部門に主力を移した
    • [32]店舗の整理が済んだ直後に第一次石油危機が日本を襲った
    • [33]40店のままだったら倒産の危機に見舞われていたかもしれないと新井隆司氏は述べている
    • [34]高崎の会社が第一次石油危機も乗り切り、経営的に安定していたことから東京の市場調査に乗り出した
  • NTT business 1995年6月号「人が本当に喜ぶことを追求するとより豊かな生活が見えてくる」(新井隆司)
    • [31]1972年(昭和47年)、DPセンターの販売部門を独立させて株式会社ビックカラーを設立した

群馬県内ではカメラ販売会社として知られ、第一次石油危機も乗り越えて経営が安定していた高崎の会社は、1978年4月に株式会社ビックカラーから株式会社ビックカメラ(高崎)へと社名を改めた。BIGではなくBICと綴るこの名には、規模の大きさだけでなく奥行きも備えた企業になりたいという思いが込められたとされる。新井氏の説明では、一番の深さ・一番の高さ・一番の広さをまとめて漢字で表すと空になる。残っていたのは、東京へ出たいという気持ちだけだった。現像の略号を外してカメラを社名へ置いたことで、業態の転換は名前の上でも確定した。

  • 創業者精神 独力で優良企業を築いた経営者列伝(日経ベンチャー編、1993年)「火事でも営業、信用得る」(新井隆司)
    • [35]高崎でDPE業を始めてから10年近くが経ち、カメラ販売会社として群馬県下では名前も通っていた
    • [40]その間も新井隆司氏の心の中でくすぶっていたのは、東京で勝負してみたいという気持ちだった
  • ビックカメラ 有価証券報告書【沿革】
    • [36]株式会社ビックカラーは昭和53年4月に株式会社ビックカメラ(高崎)へ商号を変更した
  • NTT business 1995年6月号「人が本当に喜ぶことを追求するとより豊かな生活が見えてくる」(新井隆司)
    • [37]ビックカメラという社名はBIGではなくBICである
    • [38]ただ大きいだけではなく、深みのある大きな企業を目指したいという願いを込めて命名した
    • [39]深さでいえば一番深く、高さなら一番高いし、広さなら一番広い。これを漢字で表すと空になると新井隆司氏は説明した
参考文献[21]-[40]
  • 創業者精神 独力で優良企業を築いた経営者列伝(日経ベンチャー編、1993年)「火事でも営業、信用得る」(新井隆司)
    • [21]設立から3年目にはチェーン店が40店に達し、群馬県下では最大級のフィルム現像会社となった
    • [22]店舗数の多さが逆に経営の負担になってきた
    • [23]年中無休と午前10時から午後8時までの10時間営業をセールスポイントにしていたため人員効率が悪く、人件費が急膨張した
    • [24]目銭商売のため会計事務なども繁雑になった
    • [25]この頃の仕事は各店の管理のため車で回ることだけに追われ、毎日350キロも走っていた
    • [26]事業計画を立てるゆとりが全くなく、このままでは経営の責任が取れなくなると考えるようになった
    • [28]思い切って店舗の縮小に踏み切り、40店を6店に絞り込んだ
    • [29]当時は事業が順調に進んでいるのになぜ、といぶかる人もいた
    • [30]規模縮小と同時に、DPEよりも高付加価値のカメラ販売部門に主力を移した
    • [32]店舗の整理が済んだ直後に第一次石油危機が日本を襲った
    • [33]40店のままだったら倒産の危機に見舞われていたかもしれないと新井隆司氏は述べている
    • [34]高崎の会社が第一次石油危機も乗り切り、経営的に安定していたことから東京の市場調査に乗り出した
    • [35]高崎でDPE業を始めてから10年近くが経ち、カメラ販売会社として群馬県下では名前も通っていた
    • [40]その間も新井隆司氏の心の中でくすぶっていたのは、東京で勝負してみたいという気持ちだった
  • ビックカメラ 有価証券報告書【沿革】
    • [27]株式会社高崎DPセンターは、その後カメラ販売部門を分離して株式会社ビックカラーを設立した
    • [36]株式会社ビックカラーは昭和53年4月に株式会社ビックカメラ(高崎)へ商号を変更した
  • NTT business 1995年6月号「人が本当に喜ぶことを追求するとより豊かな生活が見えてくる」(新井隆司)
    • [31]1972年(昭和47年)、DPセンターの販売部門を独立させて株式会社ビックカラーを設立した
    • [37]ビックカメラという社名はBIGではなくBICである
    • [38]ただ大きいだけではなく、深みのある大きな企業を目指したいという願いを込めて命名した
    • [39]深さでいえば一番深く、高さなら一番高いし、広さなら一番広い。これを漢字で表すと空になると新井隆司氏は説明した

1977年〜池袋北口店の失火と東京での会社設立

東京での事業展開に着手したのは1977年である。新井氏はまず市場調査に着手し、店の立地の条件を、土地代が安く、街には若者が多く、バイタリティーのあるところの3つに置いた。白羽の矢を立てたのが池袋で、当時の駅北口は環境が悪く、若者があまり寄りつく場所ではなかった。それでも新宿や渋谷に比べればイメージは良くない反面、乗降客が多く土地も安く、駅の近くに店を設ければ乗降客を呼べると新井氏は考えていた。1978年5月、東京都豊島区西池袋に東京支店が開かれた。高崎から上京したのは新井氏一人で、物件選びから社員の採用まで自分でこなしている。基礎の固まった高崎の販売会社を崩さないためで、苦労はやりたいと思っている者がかぶればいいという考えだった。

  • 創業者精神 独力で優良企業を築いた経営者列伝(日経ベンチャー編、1993年)「火事でも営業、信用得る」(新井隆司)
    • [41]東京での事業展開に着手したのは1977年(昭和52年)である
    • [42]店の立地では土地代が安く、街には若者が多く、バイタリティーのあるところを探した
    • [43]白羽の矢を立てたのが池袋で、当時の駅北口は環境が悪く、若者があまり寄りつく場所ではなかった
    • [46]高崎から上京したのは新井隆司氏だけで、物件選びから社員の採用まで全部一人でこなした
    • [47]高崎から誰も連れてこなかったのは、基礎の固まっている販売会社がガタガタになるのを恐れたことと、苦労はやりたいと思っている者がかぶればいいという考えからだった
  • NTT business 1995年6月号「人が本当に喜ぶことを追求するとより豊かな生活が見えてくる」(新井隆司)
    • [44]当時の池袋は新宿・渋谷に比べるとイメージが良くなかった反面、乗降客の多い駅で土地が安いという利点があり、駅の近くに店舗を設ければ乗降客を呼べると考えた
  • ビックカメラ 有価証券報告書【沿革】
    • [45]昭和53年5月、東京都豊島区西池袋に東京支店を開設した

1978年5月に開いた東京支店が3年目に入った1980年10月21日の深夜、この店が火事を出した。近くの寮に社員と住んでいた新井氏は店へ駆けつけ、預かっていたフィルムと修理依頼のカメラを運び出している。鎮火したのは朝の5時だった。年中無休を看板にして固定客が付き始めた頃だったため、その日もなんとしても営業すると決めた。水浸しの店内を社員と急いで片付け、10時にはシャッターを上げている。見舞いに来たメーカーの担当者が10時から開店しているのを見て、頑張って客を大事にする店だと認めるようになり、業界内での信用も高まった。仕事に慣れて緩みの出ていた社員に活気が戻ったのもこのときである。店を傾けかねない失火が信用を厚くしたのは、休まないという看板を火事の日にも守ったからである。

  • ビックカメラ 有価証券報告書【沿革】
    • [48]昭和53年5月、東京都豊島区西池袋に東京支店を開設した
  • 創業者精神 独力で優良企業を築いた経営者列伝(日経ベンチャー編、1993年)「火事でも営業、信用得る」(新井隆司)
    • [49]東京・池袋の北口に店を構えて3年目の1980年10月21日深夜、店が火事を出した
    • [50]近くの寮に社員と一緒に住んでいた新井隆司氏は店に駆けつけ、預かっていたフィルムと修理依頼のカメラを運び出した
    • [51]被害は最小限に食い止められ、朝の5時に鎮火した
    • [52]年中無休を看板にし固定客も付き始めた頃だっただけに、その日もなんとしても営業しようと決めた
    • [53]水浸しになった店内を社員と大急ぎで片付け、10時にはシャッターを上げることができた
    • [54]見舞いにきたメーカーの人たちが10時から開店しているのを見て、頑張って客を大事にする店だと認めてくれるようになり、業界内での信用も高まった
    • [55]仕事に慣れて気の緩みが出始めていた社員に活気が戻った

失火を謝って周囲のビルを回るうちに、店の裏のビルのオーナーから、良かったらこのビルを使ってみないかと誘いを受けた。業容を拡大したいと考えていた新井氏はこれを受け、二つのビルの壁をぶち抜きで使うことにして、売場面積は一挙に二倍へ広がった。その翌月の1980年11月21日、東京都豊島区西池袋に株式会社ビックカメラが設立される。新会社は株式会社ビックカメラ(高崎)の東京支店を引き継ぎ、自社店舗として事業を開始した。同月に開いた池袋店は、のちに池袋北口店へ店名を変えている。一号店を開いて以来、減収の年は一度もなかった。1981年11月、共同で金融事業を営むために東京カメラ流通協同組合が設立された。池袋東口店の開店は1982年6月である。その後も駅前への出店が重なった。1989年12月には渋谷店、1991年4月には横浜西口店が開いた。

  • 創業者精神 独力で優良企業を築いた経営者列伝(日経ベンチャー編、1993年)「火事でも営業、信用得る」(新井隆司)
    • [56]失火を謝って周囲のビルを回るうち、店の裏のビルのオーナーから、良かったらこのビルを使ってみないかと誘いを受けた
    • [57]二つのビルの壁をぶち抜きで使うことにし、売り場面積が一挙に二倍に広がった
  • ビックカメラ 有価証券報告書【沿革】
    • [58]昭和55年11月21日、東京都豊島区西池袋に株式会社ビックカメラを設立した
    • [59]新会社は株式会社ビックカメラ(高崎)の東京支店を引き継ぎ、自社店舗として事業を開始した
    • [60]昭和55年11月、東京都豊島区に池袋店(後に池袋北口店へ店名変更)を開店し、カメラ等の物品販売事業を開始した
    • [62]昭和56年11月、共同金融事業を目的に東京カメラ流通協同組合を設立した
    • [63]昭和57年6月、東京都豊島区に池袋東口店を開店した
    • [64]1989年12月に東京都渋谷区へ渋谷店、1991年4月に神奈川県横浜市西区へ横浜西口店を開店した
  • 近代企業リサーチ 1996年5月25日号「ビックカメラ池袋本店(東京都豊島区、総合DS)」
    • [61]一号店の出店以来、売上が下がったことはない
参考文献[41]-[64]
  • 創業者精神 独力で優良企業を築いた経営者列伝(日経ベンチャー編、1993年)「火事でも営業、信用得る」(新井隆司)
    • [41]東京での事業展開に着手したのは1977年(昭和52年)である
    • [42]店の立地では土地代が安く、街には若者が多く、バイタリティーのあるところを探した
    • [43]白羽の矢を立てたのが池袋で、当時の駅北口は環境が悪く、若者があまり寄りつく場所ではなかった
    • [46]高崎から上京したのは新井隆司氏だけで、物件選びから社員の採用まで全部一人でこなした
    • [47]高崎から誰も連れてこなかったのは、基礎の固まっている販売会社がガタガタになるのを恐れたことと、苦労はやりたいと思っている者がかぶればいいという考えからだった
    • [49]東京・池袋の北口に店を構えて3年目の1980年10月21日深夜、店が火事を出した
    • [50]近くの寮に社員と一緒に住んでいた新井隆司氏は店に駆けつけ、預かっていたフィルムと修理依頼のカメラを運び出した
    • [51]被害は最小限に食い止められ、朝の5時に鎮火した
    • [52]年中無休を看板にし固定客も付き始めた頃だっただけに、その日もなんとしても営業しようと決めた
    • [53]水浸しになった店内を社員と大急ぎで片付け、10時にはシャッターを上げることができた
    • [54]見舞いにきたメーカーの人たちが10時から開店しているのを見て、頑張って客を大事にする店だと認めてくれるようになり、業界内での信用も高まった
    • [55]仕事に慣れて気の緩みが出始めていた社員に活気が戻った
    • [56]失火を謝って周囲のビルを回るうち、店の裏のビルのオーナーから、良かったらこのビルを使ってみないかと誘いを受けた
    • [57]二つのビルの壁をぶち抜きで使うことにし、売り場面積が一挙に二倍に広がった
  • NTT business 1995年6月号「人が本当に喜ぶことを追求するとより豊かな生活が見えてくる」(新井隆司)
    • [44]当時の池袋は新宿・渋谷に比べるとイメージが良くなかった反面、乗降客の多い駅で土地が安いという利点があり、駅の近くに店舗を設ければ乗降客を呼べると考えた
  • ビックカメラ 有価証券報告書【沿革】
    • [45]昭和53年5月、東京都豊島区西池袋に東京支店を開設した
    • [48]昭和53年5月、東京都豊島区西池袋に東京支店を開設した
    • [58]昭和55年11月21日、東京都豊島区西池袋に株式会社ビックカメラを設立した
    • [59]新会社は株式会社ビックカメラ(高崎)の東京支店を引き継ぎ、自社店舗として事業を開始した
    • [60]昭和55年11月、東京都豊島区に池袋店(後に池袋北口店へ店名変更)を開店し、カメラ等の物品販売事業を開始した
    • [62]昭和56年11月、共同金融事業を目的に東京カメラ流通協同組合を設立した
    • [63]昭和57年6月、東京都豊島区に池袋東口店を開店した
    • [64]1989年12月に東京都渋谷区へ渋谷店、1991年4月に神奈川県横浜市西区へ横浜西口店を開店した
  • 近代企業リサーチ 1996年5月25日号「ビックカメラ池袋本店(東京都豊島区、総合DS)」
    • [61]一号店の出店以来、売上が下がったことはない

第2章 1992年〜 カメラ専門店からの多角化池袋本店の薄利多売から生毛工房・BS放送へ

筆者考察y.sugiura, author

1990年代のビックカメラが広げたのは店の数ではなく、一つの売場で受けられる需要を最大化し、ポイントで顧客獲得の粘着性を高めたことにある。1996年の時点でも店舗は池袋5店、渋谷2店、横浜1店の合計8店にすぎない。1992年9月に池袋本店を開店し、12月にビックポイントカードを導入した。値引きを現金で返さず次の買い物に使える残高として渡す以上、同じ客が同じ売場へ何度も来ることが前提になる。だから増やしたのは扱う品目のほうだった。羽毛布団、生花、スポーツ用品、酒、化粧品、玩具と広げ、カメラと家電の専門店は総合ディスカウントストアへ変わった。新井氏がこれを専門店の集合体と呼んだのは、寄せ集めではなく分野ごとに専門店と並ぶ深さを持たせる意味だった。

この時期のもう一つの特徴は、安さの中身を自分で決めるところまで事業を広げたことである。池袋本店の平均粗利益率は5から9%で、定価20万円のカメラを14万円で仕入れ、15万円で売った。問屋を外してメーカー販社から直接仕入れ、土日に1日1,000台を捌く量があって初めて成り立つ構造である。値札は毎日の他店調査に応じて下げ、年末のビデオテープの値は1時間に3回書き換えられた。ただし安さだけでは売場は保たない。1992年に東京羽毛工房を設けて品質を自ら決めた羽毛ふとんを作り、1993年に東京サービスステーションを設けて修理を自前に置いたのは、安いという評判を品質と保守の側から支えるためだった。1999年に設立した日本ビーエス放送企画だけは、その延長にはない別の賭けである。

ビックカメラが品目・機能ごとに設けた会社(累計) 1992年8月の東京羽毛工房から1999年8月の日本ビーエス放送企画まで(社)

1 東京羽毛工房 2 東京サービスステーション 3 ビックパソコン館 4 EURO COMFORT 5 ビックカメラビルディング 6 日本ビーエス放送企画
  • 有価証券報告書【沿革】に記載された設立だけを数えた累計。

1992年〜池袋本店の開店とビックポイントカードの導入

1992年は、ビックカメラが池袋の売場を作り替えた年だった。6月に池袋東口駅前店を開店し、9月には東京都豊島区へ池袋本店を開店している。同じ6月に埼玉県朝霞市の商品センターを閉じ、新座市へ移して在庫の置き場も作り直した。翌1993年2月には渋谷東口店を開店した。1996年の時点で店舗は池袋5店、渋谷2店、横浜1店の合計8店で、駅前に店を重ねる出店が続いている。1998年4月には本部部門を東京都豊島区高田へ移し、10月には新座商品センターを閉じて東京都板橋区に前野町商品センターを開設した。店の数を散らすのではなく、同じ駅前で一店あたりの受け皿を大きくする置き方だった。

  • ビックカメラ 有価証券報告書【沿革】
    • [65]平成4年9月、東京都豊島区に池袋本店を開店した
    • [66]平成4年6月、東京都豊島区に池袋東口駅前店を開店した
    • [67]平成4年6月、朝霞商品センターを閉鎖し、埼玉県新座市に新座商品センターを開設した
    • [68]平成5年2月、東京都渋谷区に渋谷東口店を開店した
    • [70]平成10年4月に本部部門を東京都豊島区高田へ移転し、同年10月に新座商品センターを閉鎖して東京都板橋区に前野町商品センターを開設した
  • 近代企業リサーチ 1996年5月25日号「ビックカメラ池袋本店(東京都豊島区、総合DS)」
    • [69]1996年時点で池袋5店、渋谷2店、横浜1店の合計8店舗を展開していた

1992年12月、ビックカメラは顧客獲得のためビックポイントカードを導入し、ポイントサービスを開始した。翌1993年4月にはビック商品券の販売も始めている。1996年の時点で、カメラの店頭価格はメーカー希望小売価格に対して平均3割から4割5分引きだった。高級機種や新製品の値引率は約2割5分と低く、発売から年数が経つにつれて高くなり、なかには6割引きのカメラもあった。家電製品も3割引き、4割引きが当たり前という水準にある。1999年1月には新決済システムのジェイデビット決済を、実証実験とともに取り扱い始めた。値引きの幅を商品の鮮度で変え、圧縮した粗利の一部をポイントとして次の来店へ繰り延べる組み立てだった。

  • ビックカメラ 有価証券報告書【沿革】
    • [71]平成4年12月、ビックポイントカードを導入し、顧客獲得のためポイントサービスを開始した
    • [72]平成5年4月、ビック商品券の販売を開始した
    • [76]平成11年1月、新決済システムのジェイデビット決済を実証実験とともに取扱い開始した
  • 近代企業リサーチ 1996年5月25日号「ビックカメラ池袋本店(東京都豊島区、総合DS)」
    • [73]メーカー希望小売価格と比較した販売価格は平均30〜45%引きだった
    • [74]高級機種や新製品は値引率が約25%引きと低く、発売から年数が経つにつれて値引率が高くなり、なかには60%引きのカメラもあった
    • [75]家電製品も3割引き、4割引きは当たり前という価格だった

1993年3月、家電商品の取付と修理を目的として株式会社東京サービスステーションが設立された。新井氏は、いくら性能が良くても使いこなせないものには価値がないと考えていた。撮りたいときに撮れないカメラはただの荷物だという言い方をしている。高齢化が進めばビデオや留守番電話を使えない人が増え、故障したときはさらに分からなくなる。だからこそメンテナンスなどのアフターサービスが要ると考え、サービスセンターを別会社として設けて力を入れ始めた。1996年3月には不動産の賃貸・管理を目的として株式会社ビックカメラビルディングを設立し、店舗の器も自前で持ち始めている。安く売る店が売りっぱなしになれば、次の来店は来ない。

  • ビックカメラ 有価証券報告書【沿革】
    • [77]平成5年3月、家電商品の取付・修理を目的に株式会社東京サービスステーションを設立した
    • [82]平成8年3月、不動産の賃貸・管理を目的に株式会社ビックカメラビルディングを設立した
  • NTT business 1995年6月号「人が本当に喜ぶことを追求するとより豊かな生活が見えてくる」(新井隆司)
    • [78]いくら性能が良くても、難しくて使いこなせないものは価値がないと新井隆司氏は述べた
    • [79]撮りたい時に撮れないカメラはただの荷物だと新井隆司氏は述べた
    • [80]高齢化社会へ進むとビデオや留守番電話を使えない人が増え、故障した場合はまったく分からなくなるとみていた
    • [81]メンテナンスなどのアフターサービスが必要になるとして、サービスセンターという別会社を設けてアフターサービスに力を入れ始めた
参考文献[65]-[82]
  • ビックカメラ 有価証券報告書【沿革】
    • [65]平成4年9月、東京都豊島区に池袋本店を開店した
    • [66]平成4年6月、東京都豊島区に池袋東口駅前店を開店した
    • [67]平成4年6月、朝霞商品センターを閉鎖し、埼玉県新座市に新座商品センターを開設した
    • [68]平成5年2月、東京都渋谷区に渋谷東口店を開店した
    • [70]平成10年4月に本部部門を東京都豊島区高田へ移転し、同年10月に新座商品センターを閉鎖して東京都板橋区に前野町商品センターを開設した
    • [71]平成4年12月、ビックポイントカードを導入し、顧客獲得のためポイントサービスを開始した
    • [72]平成5年4月、ビック商品券の販売を開始した
    • [76]平成11年1月、新決済システムのジェイデビット決済を実証実験とともに取扱い開始した
    • [77]平成5年3月、家電商品の取付・修理を目的に株式会社東京サービスステーションを設立した
    • [82]平成8年3月、不動産の賃貸・管理を目的に株式会社ビックカメラビルディングを設立した
  • 近代企業リサーチ 1996年5月25日号「ビックカメラ池袋本店(東京都豊島区、総合DS)」
    • [69]1996年時点で池袋5店、渋谷2店、横浜1店の合計8店舗を展開していた
    • [73]メーカー希望小売価格と比較した販売価格は平均30〜45%引きだった
    • [74]高級機種や新製品は値引率が約25%引きと低く、発売から年数が経つにつれて値引率が高くなり、なかには60%引きのカメラもあった
    • [75]家電製品も3割引き、4割引きは当たり前という価格だった
  • NTT business 1995年6月号「人が本当に喜ぶことを追求するとより豊かな生活が見えてくる」(新井隆司)
    • [78]いくら性能が良くても、難しくて使いこなせないものは価値がないと新井隆司氏は述べた
    • [79]撮りたい時に撮れないカメラはただの荷物だと新井隆司氏は述べた
    • [80]高齢化社会へ進むとビデオや留守番電話を使えない人が増え、故障した場合はまったく分からなくなるとみていた
    • [81]メンテナンスなどのアフターサービスが必要になるとして、サービスセンターという別会社を設けてアフターサービスに力を入れ始めた

1992年〜生毛工房の羽毛ふとんと専門店の集合体

1992年8月、寝具の製造・販売を目的として株式会社東京羽毛工房が設立された。1995年6月には株式会社生毛工房へ商号を変更している。羽毛ふとんは価格がまちまちなのにどれも同じように見え、何を選べばよいか分からないと新井氏は見ていた。ブランド名を付加価値にして高級品にしたものがある一方、羽毛ふとんとは名ばかりでフェザーが多くダウンの少ない品質の劣るものもあった。そこで安心価格ゾーンに置き、品質を徹底して追求した羽毛ふとんを自ら開発した。1995年7月には寝具製品の原材料を確保するため、EURO COMFORT SP.ZO.Oを設けている。売り物を仕入れるのではなく作る側へ回ったのは、安さの中身を自分で説明できるようにするためだった。

  • ビックカメラ 有価証券報告書【沿革】
    • [83]平成4年8月、寝具の製造・販売を目的に株式会社東京羽毛工房を設立した
    • [84]株式会社東京羽毛工房は平成7年6月に株式会社生毛工房へ商号を変更した
    • [88]平成7年7月、寝具製品の原材料確保を目的にEURO COMFORT SP.ZO.Oを設立した
  • NTT business 1995年6月号「人が本当に喜ぶことを追求するとより豊かな生活が見えてくる」(新井隆司)
    • [85]羽毛ふとんは価格がまちまちなのにどれも同じように見え、何を選んだらいいのか分からないと新井隆司氏は述べた
    • [86]ブランド名などを付加価値につけて高級品にしたものや、羽毛ふとんとは名ばかりでフェザーが多くダウンが少ない品質の劣るものがあった
    • [87]安心価格ゾーンでクオリティを徹底的に追求した羽毛ふとんをつくろうと商品開発を手がけた

ビックカメラは1990年代半ばまでに、羽毛布団や生花、スポーツ用品、酒、化粧品、玩具へ取扱いを急速に広げた。1992年頃に始めた生花では、他店なら1本500円以上する大きな3Lサイズのバラを1本250円で並べ、客を集めた。花が高くつくのは売れずに枯れる分が値段に上乗せされているからで、仕入れた当日に売り切ってしまえばよいという考え方だった。店はすでに、カメラと家電の専門ディスカウントストアから総合ディスカウントストアへ姿を変えていた。狙ったのは、目当ての品を買えばすぐ帰る男性客向けの店ではなく、子供連れの家族でも買い物を楽しめる専門店の集まりで、新井氏はこれを、より豊かな生活を提供する専門店の集合体と呼んでいる。

  • 近代企業リサーチ 1996年5月25日号「ビックカメラ池袋本店(東京都豊島区、総合DS)」
    • [89]ここ数年で羽毛布団、生花、スポーツ用品、酒、化粧品、玩具など取扱い商品を急速に拡大した
    • [90]生花の販売は取材の四年前に始め、他店では1本500円以上する大きい3Lサイズのバラを1本250円で販売して人気を集めた
    • [91]生花の価格が高いのは売れ残って枯れてしまう分も含まれているためで、仕入れたその日のうちに全部の花を売り切ってしまえばよいという考えだった
    • [92]カメラや家電製品の専門ディスカウントストアから総合ディスカウントストアへ変貌を遂げていた
    • [93]男性の客が目当ての商品を買ったらすぐに帰ってしまう専門ディスカウントストアではなく、子供を連れた家族連れでもショッピングが楽しめる専門店の集合体を目指していた
  • NTT business 1995年6月号「人が本当に喜ぶことを追求するとより豊かな生活が見えてくる」(新井隆司)
    • [94]ビックカメラは単なる流通業という枠を超え、より豊かな生活を提供する専門店の集合体へ発展したと位置づけられた

新井氏は、もともと安いものや良くないものが安くても当たり前であり、良いものが安くなくては安いとはいえないと述べている。取引の基本は共存共栄であり、メーカーとの互いのパイプを太くすることが大切だとしている。店側の言い分は、価格を破壊しているのではなく適正な値段で売っているというものだった。定価に当たり前のように織り込まれてきた無駄な費用を省けば値段は下げられる、という理屈である。組織の面では、1994年10月にパソコン販売部門を切り出して株式会社ビックパソコン館を設け、同社は2001年4月に株式会社ビックピーカンへ商号を改めた。品目ごとに会社を分けても、値段の考え方は一つに揃えていた。

  • NTT business 1995年6月号「人が本当に喜ぶことを追求するとより豊かな生活が見えてくる」(新井隆司)
    • [95]もともと安いもの、良くないものが安くても当たり前で、良いものが安くなくては安いとはいえないと新井隆司氏は述べた
    • [96]取引の基本は共存共栄であり、メーカーとのパイプを太くすることが大切だと考えていた
  • 近代企業リサーチ 1996年5月25日号「ビックカメラ池袋本店(東京都豊島区、総合DS)」
    • [97]よく価格破壊などといわれるが決してそうではなく、適正な価格で販売していると店側は説明した
    • [98]いままでの定価の中に当然のように含まれていた余分なコストを取り除くことで価格は引き下げられる
  • ビックカメラ 有価証券報告書【沿革】
    • [99]平成6年10月、パソコン販売部門を分離して株式会社ビックパソコン館を設立した
    • [100]株式会社ビックパソコン館は平成13年4月に株式会社ビックピーカンへ商号を変更した
参考文献[83]-[100]
  • ビックカメラ 有価証券報告書【沿革】
    • [83]平成4年8月、寝具の製造・販売を目的に株式会社東京羽毛工房を設立した
    • [84]株式会社東京羽毛工房は平成7年6月に株式会社生毛工房へ商号を変更した
    • [88]平成7年7月、寝具製品の原材料確保を目的にEURO COMFORT SP.ZO.Oを設立した
    • [99]平成6年10月、パソコン販売部門を分離して株式会社ビックパソコン館を設立した
    • [100]株式会社ビックパソコン館は平成13年4月に株式会社ビックピーカンへ商号を変更した
  • NTT business 1995年6月号「人が本当に喜ぶことを追求するとより豊かな生活が見えてくる」(新井隆司)
    • [85]羽毛ふとんは価格がまちまちなのにどれも同じように見え、何を選んだらいいのか分からないと新井隆司氏は述べた
    • [86]ブランド名などを付加価値につけて高級品にしたものや、羽毛ふとんとは名ばかりでフェザーが多くダウンが少ない品質の劣るものがあった
    • [87]安心価格ゾーンでクオリティを徹底的に追求した羽毛ふとんをつくろうと商品開発を手がけた
    • [94]ビックカメラは単なる流通業という枠を超え、より豊かな生活を提供する専門店の集合体へ発展したと位置づけられた
    • [95]もともと安いもの、良くないものが安くても当たり前で、良いものが安くなくては安いとはいえないと新井隆司氏は述べた
    • [96]取引の基本は共存共栄であり、メーカーとのパイプを太くすることが大切だと考えていた
  • 近代企業リサーチ 1996年5月25日号「ビックカメラ池袋本店(東京都豊島区、総合DS)」
    • [89]ここ数年で羽毛布団、生花、スポーツ用品、酒、化粧品、玩具など取扱い商品を急速に拡大した
    • [90]生花の販売は取材の四年前に始め、他店では1本500円以上する大きい3Lサイズのバラを1本250円で販売して人気を集めた
    • [91]生花の価格が高いのは売れ残って枯れてしまう分も含まれているためで、仕入れたその日のうちに全部の花を売り切ってしまえばよいという考えだった
    • [92]カメラや家電製品の専門ディスカウントストアから総合ディスカウントストアへ変貌を遂げていた
    • [93]男性の客が目当ての商品を買ったらすぐに帰ってしまう専門ディスカウントストアではなく、子供を連れた家族連れでもショッピングが楽しめる専門店の集合体を目指していた
    • [97]よく価格破壊などといわれるが決してそうではなく、適正な価格で販売していると店側は説明した
    • [98]いままでの定価の中に当然のように含まれていた余分なコストを取り除くことで価格は引き下げられる

1996年〜薄利多売の値付けと天神店・BS放送への拡張

定価20万円の高級カメラなら、仕入れは14万円、売値は15万円という計算になる。大きく値を下げられたのは、包装費などの経費を削り、平均の粗利益率を5から9%にとどめたからだった。池袋本店のカメラ売場では土曜と日曜に1日およそ1,000台が売れ、それを背景に問屋を通さずメーカー販社からじかに仕入れていた。良い商品を安く出すには、各メーカーとの取引で大量に仕入れることだと新井氏は語っていた。家電製品でも粗利益率は数%にとどまり、メーカー販社とじかに取引していた。値段の安さは、値引きを決めたから生まれたのではなく、売れる量と絞った経費から差し引きで作られていた。

  • 近代企業リサーチ 1996年5月25日号「ビックカメラ池袋本店(東京都豊島区、総合DS)」
    • [101]定価20万円のカメラの仕入れ価格は14万円、販売価格は15万円だった
    • [102]包装費などの経費も圧縮し、平均粗利益率を5〜9%の範囲に抑えることで大幅な値引を可能にした
    • [103]土曜・日曜には池袋本店だけで1日に約1,000台のカメラが売れた
    • [104]大量の商品は問屋を通さずメーカー販社から直接仕入れており、大量販売による大量仕入・流通経路の短縮で仕入れ価格を抑えた
    • [106]家電製品も粗利益率はわずか数%で、商品はメーカー販社から直接仕入れていた
  • NTT business 1995年6月号「人が本当に喜ぶことを追求するとより豊かな生活が見えてくる」(新井隆司)
    • [105]より良い商品をより安く提供するには、各メーカーとの取り引きにおいて商品を大量に仕入れることだと新井隆司氏は述べた

よく売れるのは2万円前後のコンパクトカメラで、高級機は月に数台しか売れない。売れ筋に絞り込む同業が多いなかで、池袋本店はあまり売れない機種も充実させ、カメラだけで約3,000機種を揃えていた。受注生産が普通で200万円から300万円する1,000ミリの交換レンズまで在庫として常備している。一方で、毎日周辺の競合ディスカウントストアへ店員が価格調査に出掛け、自店より安い商品があれば即座に値を下げた。年末の安売りの中核商品として並べるビデオテープは、1時間に3回も価格が変わることがあった。新井氏は、専門店の集合体として成長した以上スペシャリストの育成も要るとし、人材は現場で物を見ながら覚えるのが一番早いと述べていた。品揃えで客を呼び、価格で逃がさないという二枚の仕掛けが、同じ売場に重ねられていた。

  • 近代企業リサーチ 1996年5月25日号「ビックカメラ池袋本店(東京都豊島区、総合DS)」
    • [107]最もよく売れるのは2万円前後の価格帯のオートフォーカスのコンパクトカメラで、コンタックスなどの高級カメラは月に数台しか売れなかった
    • [108]売れ筋機種に商品構成を絞り込むディスカウントストアが多いなか、池袋本店はあまり売れない機種のアイテム数も充実させ、約3,000機種のカメラを揃えていた
    • [109]受注生産が普通で200〜300万円もする1,000ミリの交換レンズでも在庫として常備していた
    • [110]毎日、周辺の競合するディスカウントストアに店員が価格調査に出掛け、自店よりも安い価格の商品があると即座にその商品の価格を引き下げた
    • [111]年末に安売りの目玉商品として販売されるビデオテープは、1時間に3回も価格が変更されることがあった
  • NTT business 1995年6月号「人が本当に喜ぶことを追求するとより豊かな生活が見えてくる」(新井隆司)
    • [112]専門店の集合体という形で成長してきたためスペシャリストの育成も大切と考え、人材育成は習うより慣れろで、現場で物を見ながら学ぶのが一番早いとした

消費不況といわれた年にも13から14%の伸びを保ち、一号店を開いてから減収の年はなかった。1995年4月期には売上高が1,007億円に届いた。1999年4月、首都圏の外となる福岡県福岡市中央区に天神店を開き、6月には神奈川県横浜市港北区へ新横浜店を出した。同年8月には放送事業のための日本ビーエス放送企画株式会社を設立し、同社は12月に日本ビーエス放送株式会社と商号を改めた。11月には期間限定で、100人に1人無料キャンペーンという販売促進策を始めている。物を安く売る会社が電波の事業へ出たことは、扱う品目の拡張とは性質の違う一歩だった。

  • 近代企業リサーチ 1996年5月25日号「ビックカメラ池袋本店(東京都豊島区、総合DS)」
    • [113]一号店の出店以来売上が下がったことはなく、消費不況といわれた年でも13〜14%の高い売上の伸び率を維持していた
    • [114]1995年4月期の年間売上は1,007億円だった
  • ビックカメラ 有価証券報告書【沿革】
    • [115]平成11年4月、福岡県福岡市中央区に天神店を開店した
    • [116]平成11年6月、神奈川県横浜市港北区に新横浜店を開店した
    • [117]平成11年8月、放送事業を目的に日本ビーエス放送企画株式会社を設立し、同年12月に日本ビーエス放送株式会社へ商号変更した
    • [118]平成11年11月、新たな販売促進策として100人に1人無料キャンペーンを期間限定で開始した
参考文献[101]-[118]
  • 近代企業リサーチ 1996年5月25日号「ビックカメラ池袋本店(東京都豊島区、総合DS)」
    • [101]定価20万円のカメラの仕入れ価格は14万円、販売価格は15万円だった
    • [102]包装費などの経費も圧縮し、平均粗利益率を5〜9%の範囲に抑えることで大幅な値引を可能にした
    • [103]土曜・日曜には池袋本店だけで1日に約1,000台のカメラが売れた
    • [104]大量の商品は問屋を通さずメーカー販社から直接仕入れており、大量販売による大量仕入・流通経路の短縮で仕入れ価格を抑えた
    • [106]家電製品も粗利益率はわずか数%で、商品はメーカー販社から直接仕入れていた
    • [107]最もよく売れるのは2万円前後の価格帯のオートフォーカスのコンパクトカメラで、コンタックスなどの高級カメラは月に数台しか売れなかった
    • [108]売れ筋機種に商品構成を絞り込むディスカウントストアが多いなか、池袋本店はあまり売れない機種のアイテム数も充実させ、約3,000機種のカメラを揃えていた
    • [109]受注生産が普通で200〜300万円もする1,000ミリの交換レンズでも在庫として常備していた
    • [110]毎日、周辺の競合するディスカウントストアに店員が価格調査に出掛け、自店よりも安い価格の商品があると即座にその商品の価格を引き下げた
    • [111]年末に安売りの目玉商品として販売されるビデオテープは、1時間に3回も価格が変更されることがあった
    • [113]一号店の出店以来売上が下がったことはなく、消費不況といわれた年でも13〜14%の高い売上の伸び率を維持していた
    • [114]1995年4月期の年間売上は1,007億円だった
  • NTT business 1995年6月号「人が本当に喜ぶことを追求するとより豊かな生活が見えてくる」(新井隆司)
    • [105]より良い商品をより安く提供するには、各メーカーとの取り引きにおいて商品を大量に仕入れることだと新井隆司氏は述べた
    • [112]専門店の集合体という形で成長してきたためスペシャリストの育成も大切と考え、人材育成は習うより慣れろで、現場で物を見ながら学ぶのが一番早いとした
  • ビックカメラ 有価証券報告書【沿革】
    • [115]平成11年4月、福岡県福岡市中央区に天神店を開店した
    • [116]平成11年6月、神奈川県横浜市港北区に新横浜店を開店した
    • [117]平成11年8月、放送事業を目的に日本ビーエス放送企画株式会社を設立し、同年12月に日本ビーエス放送株式会社へ商号変更した
    • [118]平成11年11月、新たな販売促進策として100人に1人無料キャンペーンを期間限定で開始した

第3章 2000-2011 (気が向いたら執筆します!) 有楽町店とビックカメラ.com、ジャスダック上場とソフマップの子会社化

第4章 2012-2026 (気が向いたら執筆します!) コジマの子会社化とビックロ、日本橋三越出店と中期経営計画Vision 2029

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歴史年表 1980〜2024年

ビックカメラの沿革1980〜2024年における主な出来事を抜粋

時代年月社長・CEO出来事重要度
1968〜1991年現像業から量販店への業態転換会社設立、池袋店を開店しカメラ等の物品販売事業に参入★
東京カメラ流通協同組合を設立★
渋谷店を開店★
1992〜1999年カメラ専門店からの多角化東京羽毛工房(1995年生毛工房に商号変更)を設立★
池袋本店を開店★
ビックポイントカードを導入しポイントサービスを開始★★
天神店を開店★
日本ビーエス放送企画を設立、後にBSデジタル放送「BS11」を開始★★
2000〜2011年有楽町店とビックカメラ.com、ジャスダック上場とソフマップの子会社化有楽町店を開店★
ビック酒販を設立★
インターネットショッピングサイト「ビックカメラ.com」を開設★★
宮嶋宏幸ソフマップの増資引受により同社が子会社に★★
宮嶋宏幸ジャスダック証券取引所に株式を上場★
宮嶋宏幸時間をかけた段階的な取り込みと、完全子会社化への到達

2005年から2010年にかけて、ビックカメラが中古パソコンの雄ソフマップを、資本業務提携・増資引受・株式交換の3段階で取り込み、完全子会社化した経営判断。

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★★★
宮嶋宏幸ドラッグ事業を有楽町店で開始★
2012〜2026年コジマの子会社化とビックロ、日本橋三越出店と中期経営計画Vision 2029宮嶋宏幸郊外型量販店の傘下入りによる、「都市×郊外」の連合の形成

2012年、ビックカメラがコジマの第三者割当増資141億18百万円を引き受けて議決権の50.06%を握り、子会社化した経営判断。全国44都道府県に202店舗を持つ郊外型チェーンがグループに入った。

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★★★
宮嶋宏幸ビックロ新宿東口店を開店★
宮嶋宏幸オリジナルSIMカード「BIC SIM」の専用受付カウンター設置★
宮嶋宏幸ビックカメラ日本橋三越を開店★
木村一義ソフマップがじゃんぱらの株式を取得★
秋保徹ラネットがTDM準備会社を設立、後にTDモバイル事業を吸収分割で承継★
秋保徹中期経営計画「ビックカメラグループ中期経営計画~Vision 2029~」を策定★
出典・参考 4件
出典・参考
  • ビックカメラ 有価証券報告書【沿革】
  • 創業者精神 独力で優良企業を築いた経営者列伝(日経ベンチャー編、1993年)「火事でも営業、信用得る」(新井隆司)
  • NTT business 1995年6月号「人が本当に喜ぶことを追求するとより豊かな生活が見えてくる」(新井隆司)
  • 近代企業リサーチ 1996年5月25日号「ビックカメラ池袋本店(東京都豊島区、総合DS)」

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