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ゴールドマンサックス(日本法人)の歴史

1869
*1
ゴールドマンサックス創業
創業

米国のニューヨークでゴールドマンサックスが創業。以降、証券業務を中心に業容を拡大する。

1970
*2
第3次資本自由化

日本政府は3度目となる「資本自由化」を決め、外資企業の日本進出する際の規制感を行うことを決めた。この緩和により、外資金融機関は日本に単独進出することが可能になる。ただし、規制緩和は不十分であり外資金融機関が東京証券取引所で有価証券を売買する際は、提携先の日本企業に手数料を支払うことを必須にとする厳しいハンデが課せられた。

1972
*3
メルリリンチが東京支店を設置

米系外資金融機関であるメリルリンチは将来的な規制緩和を見込んで日本進出を決断し、三井不動産の霞が関ビル内に東京支店を新設した。だが、メリルリンチは日本政府による有価証券の売買における規制の壁に阻まれ、日本市場におけるプレゼンスを示すことが難しく、メリルリンチ米国本社は日本政府に「規制緩和を要望する」という説得工作を続けた。

1974
*4
ゴールドマンが東京支店を設置

メリルリンチが東京に進出したことを受けて、1974年にゴールドマンサックスも東京支店を設置して日本進出を図る。だが、有価証券売買における規制を考慮して、日本では情報収集を事業の主体とした。

1985
*5
東証会員権を一部解放

1985年に日本政府は日米貿易摩擦という政治問題に決着をつけるため、自動車産業の日本から北米への輸出を認めさせる代わりに、日本における金融市場を外資企業にも解放することを決めた。その第一弾として、東証会員権を特定の外資企業に付与することを決め、日本市場の規制緩和を決断する。なお、日米貿易摩擦を考慮した規制緩和であったため、日本政府は東証会員権を米系外資金融機関に優先的に付与し、英系外資金融機関への付与を見送った。結果として、英系の外資金融機関は日本市場への進出で米系外資金融機関に遅れる形となり、貿易摩擦を政治利用した米国勢が有利となった。

1985
*6
東証会員権を獲得

ゴールドマンサックスは米系金融機関であったことから、優先的に東証会員権を付与された。この結果、ゴールドマンサックスやメリルリンチなどの「東証会員権」という名誉を獲得した外資企業が「外国の四大証券」として日本でのプレゼンスを示した。

1987
*7
ブラックマンデーにより株価が暴落するが、日本進出を継続

1987年のブラックマンデーによって世界的に株価が暴落し、外資系証券各社の業績が相次いで悪化した。このため、ブラックマンデーを境に、日本進出を試みていた多くの外資金融機関が日本での業容拡大を見送る。その一方で、ゴールドマンサックスのジョンワインバーグ(本社会長)は日本での業容拡大を決断。M&A部隊や、株式セールスなどの採用を積極化し、東京における人員増強を推し進めた。また、この頃からゴールドマンサックスは投資銀行業務で日本企業という顧客を獲得するために、夜の接待などのドブ板営業を本格化させる。

1994
*8
興銀元副頭取の石原秀夫を東京支店の経営責任者に据える

東証会員権取得後のゴールドマンサックスは日本での人員増強には成功したが、日本経済界からの信頼は今一歩であり、顧客獲得に相当の苦労を伴っていた。そこで、1994年にゴールドマンサックスは日本法人の責任者に、元興銀の副頭取である石原秀夫氏を迎えた。興銀という日本の財界の中枢に位置する重要人物をスカウトすることは業界内でも前代未聞であったが、この結果として、ゴールドマンサックスは営業面でほかの外資金融機関と比較して圧倒的な優位に立つ。なお、営業部隊の中心人物は持田昌典(同氏の父は家業を倒産させた。このため、同氏は幼少時代に苦労を強いられた)および槙原純(同氏の父は三菱商事元社長・槙原稔)の2名であり、ゴールドマンサックスは現地人(=日本人)を登用することで東京の現地化を徹底する

石原秀夫の発言(ゴールドマンサックス証券・元会長)
出所 : 1994/04/12日経金融新聞p3
1996
*9
年金福祉事業団から資産運用を受託

1996年にゴールドマンサックスは日本国内の年金福祉事業団から資産運用を委託された。外資金融機関への年金運用の委託はゴールドマンサックスが初の事例となり、資金調達面で重要な布石を打つ。

1998
*10
石原秀夫がソニーの社外取締役に就任

1990年代を通じて日本の資本市場がグローバルに解放される潮流の中で、日本を代表する企業であったソニーもグローバル市場を前提とした経営体制の確立を急いだ。そこで、ソニーは取締役会の改革を急ぎ、社外取締役としてゴールドマンサックスの石原秀夫を選任し、株主を重視する経営に舵を切った。日本を代表した企業の社外取締役にゴールドマン関係者が就任したことで、日本財界へのプレザンスを向上させる。

1998
*11
NTTドコモ上場の主幹事を獲得

1998年にゴールドマンサックスは、邦銀との競争の末にNTTドコモの株式上場における主幹事を獲得し、全世界の金融機関を驚かせた。1兆円を超えるメガディールをものにしたことで、ゴールドマンサックスは日本の経済界でのプレゼンスを確保する。以後、ゴールドマンサックスは大企業の上場や業界再編の裏方として躍進し、日本における投資銀行業務のビジネスを軌道に乗せた。

1998
*12
持田昌典が東京支店長に就任

1998年に石原秀夫が急逝したため、日本事業の責任者として持田昌典が東京支店長に就任した。なお、この過程で、熾烈な内部抗争があったと言われている。

2001
*13
ロシュによる中外製薬買収のアドバイザー

2001年に中外試薬はグローバル競争を生き残るために、スイス本社のロシュ社の傘下に下ることを決断した。この時、アドバイザーとしてゴールドマンサックスが抜擢され、業界再編の裏方として役割を担った。

2005
*14
経営難に陥ったユニバーサルスタジオジャパンの株式を取得

2001年にUSJは大阪桜島にユニバーサルスタジオジャパンを開業したが、巨額の投資費用が重荷となり自己資本比率が極度に低下した。このため、USJは単独での経営再建を諦め、ゴールドマンサックスに株式を売却することによって経営再建を図る。以後、USJはゴールドマンサックスが主導する形で経営再建をスタートさせ、2009年に同社を非上場化することで長期的な再建に取り組む姿勢を内外に示した。

2019
*15
3期連続の減収減益
業績低迷

ゴールドマン・サックス証券(東京)は2008年のリーマンショックを持ちこたえたものの、2016年を境に業績の悪化に転じた。2016年度の純利益221億円をピークに、2019年度まで3期連続の減収減益となる。受け入れ手数料業務では利益を確保するものの、トレーディング業務(株式等)で毎年数百億円の損失(2019年12期は424億円の損失)を計上しており同社の業績を悪化させる要因となっており、同社の斜陽化が進行しつつある。なお、2020年時点の現在もゴールドマン・サックス証券の代表取締役は持田昌典氏(66歳・2001年社長就任)であり、外資金融機関として異例の長さを記録している。