インフラへの投資を焦ってはいけない

Yutaka Sugiura
version1.0 2021-08-28

要旨

この項目では、1977年に東急電鉄が開通させた新玉川線(現・田園都市線・二子玉川駅〜渋谷駅)の地下化プロジェクトを取り上げる。

当時、東急電鉄の売上高が約440億円に対して、投資予定額は727億円であり、売上高を超過する水準に及んだ。あまりに膨大な投資額であったために、経営陣が将来性を悲観して「採算は取れない」と匙を投げたほどであった。

新玉川線の建設におけるブレイクスルーは、1950年に策定された銀座線との直通案(最大6両編成)を放棄し、1968年に策定された半蔵門線への直通案(最大10両編成)を採用したことで、輸送量を確保したことにある。焦って着工するのではなく、時間をかけてでも、投資対効果を十分に検討した上で着工判断をしたことが功を奏した。

新玉川線の開業後は、都心に直通するという利便性により乗客数が増加。田園都市線から新玉川線(二子玉川〜渋谷)を経て地下鉄半蔵門線を乗り換えなしで利用できることから、日本屈指の混雑路線となった。1990年頃からは、開業当初は全く想定しなかった「地下の渋谷駅のキャパシティーが狭い」という贅沢な悩みを抱えた。

社会的利益

新玉川線の開業でもたらされた社会的利益は、沿線の宅地および商業地における資産価値の向上であった。

特に、渋谷駅の乗降客数も増加したことから、商業地域としての渋谷の付加価値が上向くことになった。加えて、田園都市線の利便性が向上したことを受けて、ベッドタウンとしての多摩田園都市の資産価値も増大した。

この結果、東急としては、田園都市線と新玉川線の営業収入に加え、東急百貨店(渋谷)における集客の増加、多摩田園都市における所有地の資産価値の増加というリターンを得た。

教訓の抽出

本項目では「インフラへの投資を焦ってはいけない」という学びを導出したい。

建築・鉄道・ITシステムといった基盤技術は常に変化しており、計画当初の技術的な前提が、将来の技術的な正とは限らない。現時点の常識に囚われた場合、思わぬ技術的負債が将来に残る可能性もある。東急の新玉川線の場合は、最大6両編成しか走行できない地下鉄銀座線との直通運転が潜在的な技術的負債に相当しており、これを回避して半蔵門線(最大10両編成)との直通運転を決めたことに大きな意味があった。

このように、焦って現時点における常識的な基盤技術を前提とするのではなく、将来の技術動向を十分に検討した上で投資を実行することが重要となる。そのための検討時間を惜しんではいけない。

ただし、現時点の「技術的なトレンドを無視する」という大胆な意思決定が要求される場合も多く、簡単なことではない。技術の専門家であっても技術的な変遷に疎かったり、特定技術に過剰な思い入れがある場合、技術選択において過ちを犯す可能性があることには、くれぐれも留意されたい。

プロジェクト詳細
新玉川線(二子玉川〜渋谷)の建設プロジェクト 1950年〜1977年
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時代背景

++ Context ++

多摩田園都市の開発が進む

高度経済成長期を通じて、首都圏に住むサラリーマン家庭が直面したのが「都心部は土地が高くてマイホームを建てることができない」という問題であった。

都心部では長屋が壊されて雑居ビルが次々と新築された時代であり、地価の観点からとてもマイホームを購入できる状態ではなかった。加えて当時の技術ではマンションの建設コストも高く、都心部に建設された3階建以上の大規模なマンションは「高級品」という扱いで、サラリーマンにとって無縁な生活スタイルだった。

このため、一般的な大企業に勤務するサラリーマンは、若いうちは会社が提供する都内の社宅で過ごし、結婚して家族ができたら郊外のマイホームや団地に入居することが多くなった。首都圏では1950年代後半から郊外における団地や宅地の開発が進み、神奈川県の多摩田園都市などの大規模な郊外開発が進行した。

東急が田園都市線を開業(1966年)

東急電鉄は、関東における鉄道会社の中で、郊外の宅地開発に最も積極的な会社であった。

東急の創業者である五島慶太は、鉄道建設と宅地開発を両輪で進めるというビジネスモデルにこだわりを持つ人物で、大正時代の1923年に目黒〜蒲田における鉄道路線(目黒蒲田電鉄)を開業。以降、東京郊外における鉄道路線を相次いで開業ないし買収することによって東急グループの業容を拡大させた。

五島慶太は、多摩田園都市のポテンシャルにも早く気づき、果樹園地帯だった多摩丘陵の再開発を1953年に決めた。ここでも宅地開発と鉄道路線の敷設を同時並行で進めることによって、乗客を創造するビジネスモデルを推し進めた。

そして、1966年に東急電鉄は多摩田園都市を貫く鉄道路線「田園都市線」を溝の口駅〜長津田駅間で部分開業した。これが、多摩田園都市と都心が鉄道によって結ばれるきっかけとなり、多摩田園都市が東京のベッドタウンとして発展する第一歩になった。

ただし、開業当初の田園都市線は、溝の口から都心方面へは二子玉川を経て、大井町駅に直通するものであった。渋谷方面に向かうには二子玉川で旧玉川線(路面電車)ないし自由が丘で東横線に乗り換える必要があり、この時期の多摩田園都市から都心部へのアクセスは良好とは言えなかった。

国道246号線の交通量増加による旧玉川線の廃止

新玉川線の開業前において、渋谷と二子玉川を結んだのが旧玉川線(通称:玉電)であった。この路線は今でこそ地下化されて10両編成の車両が行き交う東急の基幹路線になっているが、かつては1両ないし2両編成の短い電車が、国道246号線の上を走る実質的な路面電車であった。

このため、1960年代に自動車が普及したことは、旧玉川線にとって大きな痛手となった。交通渋滞に電車が巻き込まれることが当たり前となり、二子玉川〜渋谷の電車による移動で40分(現在は15分程度)かかることも珍しくなかったという。このため、旧玉川線は「じゃま電」と揶揄されて、自動車交通にとって不要な存在と見做されるようになった。

そこで、東急は旧玉川線の地下化を模索した。同じ区間を新玉川線として建設できれば、二子玉川からは田園都市線に直通させることが可能となり、渋谷駅へのアクセスが向上することが期待された。

「【昭和原風景】Landscape on Showa era in Japan」By 荻原二郎(写真家)

プロジェクトの構想

++ Strategy ++

沿線の付加価値向上

新玉川線の開通は、田園都市線の利便性向上と、渋谷駅周辺の付加価値の向上という2つが実現できるメリットが想定された。

第一に、田園都市線との利便性の向上は、従来は大井町方面に直通していた運行体系を、渋谷方面に直通させることで、東急が開発を主導した多摩田園都市の利便性が増すことを意味した。これは多摩田園都市の付加価値の向上を意味し、ニュータウンの開発主体である東急にとっても大きなメリットであった。

第二に、渋谷駅への新しい路線の乗り入れによって、乗降客数が増加し、渋谷駅周辺の商業の発展が期待された。東急は1967年に東急百貨店本店(道玄坂)を開業しており、新玉川線の渋谷駅の開業による集客増加も期待された。

よって、新玉川線の開業は運輸による営業収入を確保するだけにとどまらず、多摩田園都市および渋谷駅周辺という、沿線地域の付加価値を向上させるという狙いもあった。

プロジェクトの実行

++ Execution ++

地下鉄銀座線の直通案を見送り

1950年に東急電鉄は、路面電車として運行していた旧玉川線(渋谷〜二子玉川)を地下化する計画を立案した。時を同じくして、東京都は都心部における混雑問題を解消するために地下鉄と私鉄の相互直通運転を本格化させる計画を立てていた。

当初、行政と東急電鉄で議論されたのが、新玉川線(二子玉川〜渋谷)と、地下鉄銀座線(渋谷〜浅草)を直通させる計画であった。銀座線は集電法式が特殊なこともあり6両編成までしか対応できないデメリットがあったが、1950年代の旧玉川線は1両ないし2両での運行であり、輸送力を賄えると判断されたものと思われる。

「銀座線、聖橋」by nobmiho430

これらの議論を経て、1959年に東急電鉄は、銀座線との相互直通運転を前提とした「二子玉川〜渋谷」における鉄道敷設の免許を取得し、1963年の開業が予定された。

ところが、地下鉄の敷設には莫大な投資が必要であり、1960年の時点で工事費のみで70億円の投資金額が予想されていた。1960年度の東急電鉄の収入(売上高)は92億円であり、東急電鉄の社内で慎重な議論が交わされ、着工の正式決定を見送った。

加えて、1964年に東京オリンピックが開催されたのを契機に、国道246号線の改修工事が実施されたため、新玉川線の建設が難しい状況に陥った。このため、1959年に新玉川線の免許を取得したものの、長らく計画は塩漬けにされた。

金融面での難しさは、1960年に経済雑誌のダイヤモンドも言及している。1960年の時点では工事が順調に進むと思われていたが、実際には遅々として進まなかった。

新玉川線--。計画によると、渋谷〜二子玉川間約9kmをを地下と高架で結び、地下鉄銀座線と相互直通乗り入れをする。この所用資金が工事費のみで約70億円。

新玉川線の工事施工認可申請は2月早々にだす予定なので、早ければ5月、遅くて8月までには認可がおりる。着工は今年末ごろになろう。

新玉川線で一番の問題となるのは、その資金調達である。(中略)

資金計画では、年間18億円相当をこの新玉川線に投資する。(筆者注:同じ時期に東急が投資した)伊東下田線と違って、当社直接の建設であるから、一般改良工事もあわせて考えねばならない。借入金も増加して、資金繰りは大繁忙をきたすことになるのである。

1960/2/6ダイヤモンド「東京急行は2大計画に着手」

地下鉄半蔵門線の直通案で確定

1968年に東京都交通審議会は、新玉川線について「渋谷駅で地下鉄11号(半蔵門線)に直通すべき」という方針を取りまとめ、新玉川線のプロジェクトが再び動き出した。

従来の計画では地下鉄銀座線との乗り入れが検討されたが、最大6両という輸送量がボトルネックになることが予想されたことから、新しい地下鉄路線(11号線)と直通させて、最大10両での運行を可能にする計画に変更された。

地下鉄半蔵門線は、渋谷駅から表参道・青山一丁目・永田町・半蔵門に至る路線で、最終的には大手町・押上までの開通が計画されており、東急にとっては都心部のオフィス街へのアクセスを確保できる点も魅力であった。

半蔵門線への乗り入れ決定を受けて、1969年に東急電鉄は旧玉川線を廃止し、新玉川線の地下化工事を一部区間で着工。同時にこの区間は鉄道路線が消滅したことから、二子玉川〜渋谷は一時的にバス輸送に転換された。

だが、肝心の建設計画は投資金額の観点で順調には進まなかった。新玉川線は二子玉川〜渋谷を国道246号線の地下をほぼ沿う形で計画されたことから大規模工事が必要であり、東急の経営陣は新玉川線の本格着工の決断を下すことができなかった。

なお、1973年度の時点で東急電鉄の売上高が約440億円に対して、新玉川線の投資には727億円が必要とされた。よって、計画が失敗すれば東急の財務体質が著しく悪化することは明白であった。このため、会社が財務リスクを背負ってまで、新玉川線を建設するかどうかが焦点となる。

資金調達

++ Finance ++

鉄建公団に対して25年の長期割賦方式で支払い

最大の問題であった727億円の資金調達に明るい見通しが通ったのが、1972年に施行された日本鉄道建設公団法の改正であった。

この法律改正によって、鉄道事業者が新線開業などの設備投資を行う場合、その建設費を日本鉄道建設公団が支払う代わりに、長期にわたって鉄道会社が鉄建公団に支払うというスキームが可能になった。これにより、鉄道事業者は金利負担を軽減しつつ、巨額投資を行うことが可能となった。

東急電鉄は鉄建公団のスキームを活用して、727億円の投資費用に関して、鉄建公団に対して25ヵ年の長期にわたる割賦方式で支払う方針を決定。これにより、新玉川線の建設が正式に決定され、二子玉川〜渋谷における地下化工事に着手した。

新玉川線の建設に携わった東急電鉄・山戸取締役は、日本鉄道建設公団法の改正が、投資の後押しになったと回想している。

会社をして新玉川線の着手に踏み切らせたものは、1972年に施行された日本鉄道建設公団法の改正であった。

当時の金利水準からいって、地下鉄建設という膨大な資金を必要とする事業を通常の資金調達によると、金利負担が経営を圧迫し、その後の企業活動を相当に阻害することは論をまたない。

これが鉄建公団の費用によって建設され、25年間にわたる長期割賦方式となったことは、会社にとっては(鉄道敷設の)免許取得以来の朗報であった。

1978/05交通公論「新玉川線20年」

当事者の心境

++ Thinking ++

五島昇(社長)「執念だけで突っ走った」

新玉川線の建設における最高意思決定者は、東急電鉄の当時社長であった五島昇である。東急の創業者である五島慶太の長男であり、東急の2代目として経営にあたった。

新玉川線の建設失敗は会社に財務的な経営危機をもたらすことから、五島昇は最後まで投資すべきか迷ったという。そのうえで、投資を実行する際は「執念」で押し通したと回想している。

五島昇社長の回想

私も自信は全くなかったし、東急グループの中で成功すると思っていた人間は一人もいなかっただろう。特に地下鉄の新玉川線はどう見ても採算が合うとは思えなかった...(中略)...執念だけで突っ走ったように思う

1989/03/14日経新聞朝刊p32「鉄道増強」

山戸松身(常務取締役)「失敗すれば経営危機に陥る」

新玉川線の建設を、実務面で担った責任者が東急電鉄の山戸常務取締役である。

727億円の投資に失敗することは、財務的な危機を会社にもたらすことを意味したため、判断は慎重にならざるを得なかったという。

山戸常務取締役の回想

新玉川線の性格に関する周辺条件は(銀座線ではなく半蔵門線に直通するという)ほぼ理想の形で整えられてきたが、それでも社内の情勢はなかなか全面着手には踏み切れなかった。

まかり間違えば「新玉川線は完成したが会社の経営は危機に瀕した」ということになりかねない。新玉川線の必要性は充分に認めながらも、会社の前途を考えれば軽々には着手に踏み切れないという苦悩が会社を支配した。

1978/05交通公論「新玉川線20年」

プロジェクトの帰結

++ Result ++

1. 運賃による営業収入の確保

1977年に東急は新玉川線(二子玉川〜渋谷)を開業し、田園都市線との直通運転を開始した。1978年からは地下鉄半蔵門線との相互直通運転を開始し、1989年には半蔵門線が三越前駅まで開業したことを受けて、多摩田園都市から大手町まで乗り換えなしで利用可能となった。

この結果、田園都市線(中央林間〜二子玉川)および新玉川線(二子玉川〜渋谷)における利便性が向上し、多摩田園都市から都心部へのアクセスが良くなった。この結果、乗客が増加して運賃収入を確保した。

特に、地下鉄銀座線との乗り入れ案を見送ったことで、田園都市線は最大10両編成での運行が可能となり、輸送力の確保に成功したことが大きかった。この点は、東急電鉄の山戸常務取締役によれば「幸運」の一つであったという。

山戸常務取締役による回想

歴史を語るのに「イフ」は禁物であるが、東京オリンピックの開催や社内の経済事情などがなく、免許後直ちに新玉川線が作られていたら今日どうなっていたであろうか。新玉川線は銀座線の延長線として建設され、膨張する区部や田園都市の人口と16m車6両連結という輸送限度にはさまれて、その対応に苦慮していたに違いない

思えば生みの陣痛に悩む期間が長かったこそ、新玉川線は理想な形で世に生まれてきたといえよう

1989/03/14日経新聞朝刊p32「鉄道増強」

2. 多摩田園都市の資産価値向上

新玉川線の開通により、多摩田園都市における都心部への利便性が向上したことで、沿線の資産価値が向上した。

この結果、多摩田園都市の開発を主導した東急電鉄は、膨大な含み益を確保する結果となった。

3. 渋谷における商業の発展

1970年代を通じて渋谷は商業の街としての性格を強くした。1973年におけるパルコの開業に始まり、1977年には東急系の109など、主要な商業施設が出揃った。そこへ新玉川線が開業したことを受けて、多摩田園都市線沿線から渋谷への流入が増え、渋谷が街全体として発展する契機となった。

早くも1978年には東急百貨店が好調な業績を残すなど、東急が意図した「渋谷における商圏の発展」が達成される形となった。

4. 渋谷駅における輸送キャパシティ問題

東急電鉄としては、新玉川線がこれほどまでに混雑路線になることは事前に予想することができず、結果として混雑の緩和が長期的な経営課題となっている。

特に、渋谷駅は1面2線の構造であり、朝夕のラッシュ時は限られたスペースで乗降客をさばく必要があるため、列車遅延や増発のボトルネックになっている。この点は、新玉川線が予想外の好調をもたらした結果生じた、予想外の問題であったとも言える。

「1991 東急田園都市線 Riding the Denentoshi Line 910226」By Lyle Hiroshi Saxon

ref.

  • 1953/09産業と経済「東京の衛生都市をつくること・五島慶太」
  • 1958「七十年の人生」五島慶太著
  • 1966/12実業の世界「都市開発にかける五島昇」
  • 1978/05交通公論「新玉川線20年」
  • 1986/06/23日経ビジネス「堅実に走る実業家たち」
  • 1989/03/14日経新聞朝刊p32「鉄道増強」
社史研究家 + webエンジニア
Yutaka Sugiura
updated: 2021-08-28