川島浩氏は父親である川上源一氏(当時会長)の意向に翻弄された経営者であった。河島社長の解任事件を受けて、父親の命令によってヤマハの社長に就任した。社長就任後は多角化を推進すべく機能別から事業別の組織に転換し、社名も「日本楽器製造」から「ヤマハ」に変更した。ところが、組織や社名といった対外的な器は磨いたものの、各事業の収益性には多くの課題が山積した。この結果、ヤマハの業績が悪化して1992年に希望退職者の募集を決定。これが労働組合の怒りを買い、ヤマハから川上源一氏(会長)・川上浩氏(社長)が追放されるに至った。この意味で、父親に翻弄された面では、川上浩氏も悲劇の経営者であった。