{"spec_version":"3","endpoint":"history","stock_code":"onoda-cement","company_name":"小野田セメント","content_lang":"ja","meta_lang":"en","canonical_url":"https://the-shashi.com/tse/onoda-cement/","api_url":"/api/onoda-cement/history.json","updated":"2026-08-05","license":"© 2026 Yutaka Sugiura. All rights reserved.","attribution":"The社史 (the-shashi.com) — https://the-shashi.com/tse/onoda-cement/","title":"小野田セメントの歴史概略","sections":[{"start_year":1880,"end_year":1900,"main_title":"旧士族の授産事業から生まれたわが国最初の民営セメント会社","subsections":[{"title":"萩の旧士族が国産セメントに向かうまで","text":"初代社長となる笠井順八氏は、1835年に萩で生まれ、1855年から萩藩の呉服方御用紙方を振出しに藩財政関係の役職を歴任した。廃藩後は山口県の官吏となり、勧業局や出納課など殖産興業と県財政に関わる職についたが、1877年5月に県吏を辞し、従事すべき事業を探す日々を送った。1879年春、セメントの国産を主張していた平岡通義氏が山口へ帰省し、東京の深川で工部省がセメントを製造していると伝えた。話を伝え聞いた笠井氏は知人の荒川佐兵衛氏と手探りの実験を試み、1880年1月には大理石と有帆川尻の泥土を携えて上京した。二人が訪ねた官営深川工作分局では、大技長の宇都宮三郎氏が、小野田には石炭があり石灰石は対岸の恒見にあるという説明に賛意を示し、技術問題を教示した。\n\n事業資金に乏しかった笠井氏は政府の起業基金の貸付を仰ぐことにし、1880年5月、山口県庁へ就産金拝借願を提出した。願書は創立の動機を二つ挙げている。第1は出資者の生計を確立して「自営力食ノ道ニ就カン」とすることであり、第2はセメントの輸入防遏で、「外国ノ泥土ヲ以テ金貨ニ交換スルハ実ニ国ノ為ニ概嘆スルノミ」（小野田セメント百年史、1981年）と記した。深川工作分局の経験から算出した事業資金の見積は6万1600円だった。山口県令の関口隆吉氏の上申を受け、内務卿の松方正義氏は1880年8月5日、2万5000円の貸下げを認可した。5カ年の無利子据置、以後は年利4%で15カ年賦という当時としてきわめて有利な条件で、貸下金は同年10月30日に笠井氏らの手へ渡った。","references":[{"title":"小野田セメント百年史（小野田セメント、1981年）第1章第1節 創業の歴史的背景","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"小野田セメント百年史（小野田セメント、1981年）第1章第2節 「セメント製造会社」の設立","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"小野田セメント百年史（小野田セメント、1981年）第1章第2節 創立当初の株主と役員","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"小野田セメント百年史（小野田セメント、1981年）第1章第3節 1.工場の建設と製造の開始","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]},{"title":"金禄公債を抵当に置いた「無類ノ変体」の出資形態","text":"セメント製造会社規則は全文8条60節からなり、第2条第1節は資本を金禄公債証書の額面8万8000円と定めた。同じ時期に各地で設立された国立銀行では、株主が公債で出資すると所有権が銀行へ移り、一種の現物出資の形態をとった。これに対して第2条第3節は、公債の所有権を出資した株主の手に残し、会社へは抵当として使う運用権だけを委任すると規定した。ただし第8条第2節は、営業上の蹉跌によって損失が生じたときは預かった公債で償却すると定めており、基本的な性格は現物出資に近かった。笠井氏は後年、この社則を今から見れば類のない変則だったと振り返った。\n\n笠井氏は山口へ帰って出資者を募り、荒川氏や自身を含む39名の賛同を得た。1881年3月24日、発起人総代として山口県令の原保太郎氏へ設立願書を提出し、同年5月3日に認可の示達を受けた。この日が創立日とされ、わが国最初の民営セメント製造会社が生まれた。株主の裾野は広く、1884年1月の株主名簿では株主総数147名のうち10株以下の中小株主が126名を数え、株主総数の85.7%を占めた。20株以上の株主は6名にとどまり、80株を持つ笠井氏が筆頭株主だった。規則は会社の閉鎖や社長・取締の選任を株主の協議と投票にゆだねた一方、株主総会と議決権に関する規定を欠いていた。","references":[{"title":"小野田セメント百年史（小野田セメント、1981年）第1章第1節 創業の歴史的背景","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"小野田セメント百年史（小野田セメント、1981年）第1章第2節 「セメント製造会社」の設立","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"小野田セメント百年史（小野田セメント、1981年）第1章第2節 創立当初の株主と役員","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"小野田セメント百年史（小野田セメント、1981年）第1章第3節 1.工場の建設と製造の開始","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]},{"title":"徳利窯による製造開始と官庁試験による品質の公認","text":"工場の建設は1882年に本格化し、1883年6月に石灰石と煽石の購入を始めて製造に着手した。製法はイギリスで行われていた湿式法で、白亜が産出しない日本では焼立の石灰を水に投じた乳汁を泥土と混ぜ、石灰6・泥土4の比率を標準とした。焼成には竪窯、俗にいう徳利窯を用いた。火袋の内面に耐火煉瓦を張った煉瓦造りで、1基の窯に12万5000個の煉瓦を要した。燃料と原料を交互に12〜13段積み重ねて点火し、焼塊を取り出すまでに平均7昼夜かかった。焼成が不均斉なため窯から出した焼塊は選別を要し、粉砕して得た精粉も風化が済むまでに数カ月を要した。\n\n品質は外部の試験によって裏づけられた。1884年、神戸鉄道局へ提出した見本品を同局の係官が試験したところ、「粘著力、伸開力共に東京深川の製品より稍々上等」（小野田セメント百年史、1981年）との評価を得て、継続的な注文につながった。1886年には農商務省分析課へ化学分析を、横浜鎮守府へ物理試験を願い出て、いずれからも「外国品に劣らざる優秀品と認定す」との証明書を受けた。もっとも風化不足によって品質の劣る製品が出荷されることもあり、高位安定の維持は容易ではなかった。徳利窯による操業の不安定さは、輪窯の導入と乾式法への転換を促す条件となった。","references":[{"title":"小野田セメント百年史（小野田セメント、1981年）第1章第1節 創業の歴史的背景","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"小野田セメント百年史（小野田セメント、1981年）第1章第2節 「セメント製造会社」の設立","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"小野田セメント百年史（小野田セメント、1981年）第1章第2節 創立当初の株主と役員","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"小野田セメント百年史（小野田セメント、1981年）第1章第3節 1.工場の建設と製造の開始","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]}]},{"start_year":1901,"end_year":1918,"main_title":"日清戦後恐慌と宗像事件、三井物産への販売権の全面委託","subsections":[{"title":"恐慌下の短期負債累積と井上馨氏の質問状","text":"日清戦争の賠償金を財源とする政府の積極財政は第2次の企業勃興を呼び、セメント会社の新増設が販売競争を激化させた。市況は崩れ、同業者による共同販売会社の設立も不成立に終わって、業界は長い不況に沈んだ。1900年から翌年にかけての銀行破綻は西日本から東日本へ波及し、多くの商工業者が破綻・廃業した。小野田セメントの経営指標にも変調が現れた。生産と販売が伸び悩む一方で売掛金と未収金が増え、その資金手当てのために支払手形と借入金が積み上がり、支払利子は1898年上期の8362円から1901年下期の3万8840円へ膨らんだ。折悪しく、ディーチュ窯を中心とする新工場を巨費で建設し終えた直後であり、機械の償却費と操業の不慣れが収益をさらに圧迫した。\n\n経営不振は、創立以来の後援者であり大株主でもあった井上馨氏に疑問を抱かせた。1900年12月26日、井上氏は東京で取締役4名を呼んで5時間にわたり経営上の問題を問いただし、あわせて取締役の田島信夫氏へ10カ条の質問状を託した。質問は工場火災の実損額、重役会議が機能しているか、帳簿の不備、1樽当たり製造原価の見込み違いにおよび、最後は笠井順八社長と笠井真三氏をはじめとする重役に、株主への責任を取る覚悟があるかを問うた。井上氏は毛利家など在京の資産家を説得し、公称資本10万円を60万円へ、さらに100万円へ増やす際に株主となってもらっており、その徳義上の責任を問う立場にあった。笠井社長は翌1901年1月、田島氏宛に詳細な回答を送った。\n\n1901年5月中旬、笠井社長は対策を練るため上京し、大株主の毛利家や井上氏と協議して東京で重役会を開くことにした。その最中に、神戸出張所の主要取引先だった大阪市江戸堀の宗像商店が突如廃業し、店主の宗像半之輔氏が5月18日に失踪した。調査の結果、宗像氏は長年の取引関係を背景に保管を委せられていた神戸出張所裏書の約束手形を私用し、大阪の各銀行から多額の現金を詐取していたと判明した。手形は三井銀行大阪支店の2万5440円を最大に9行へおよび、委任状のある分4万4610円と委任状のない分6万3005円を合わせて10万7615円に達した。支払期限が旬日に迫るものが少なくなかった。","references":[{"title":"小野田セメント百年史（小野田セメント、1981年）第2章第6節 明治33年恐慌と事業の整理","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"小野田セメント百年史（小野田セメント、1981年）第3章第3節 1.三井物産の販売活動","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"小野田セメント百年史（小野田セメント、1981年）むすび","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]},{"title":"社長の私財提供と三井物産への一手販売委託","text":"手形は宗像氏が振り出したもので、小野田セメントの関知しないものだったが、裏書があるため徳義上の債務と認めた。1901年7月の臨時株主総会で調査委員会を設け、宗像関係の債務を含む経理の全面調査に踏み切った。同年11月29日の総会で承認された報告によれば、宗像事件に関する損害金は16万3311円17銭3厘にのぼり、同年下期決算へ計上された。総会は借入金と約束手形を社債40万円へ借り替えることを決めた。笠井順八社長は辞任し、動産・不動産・有価証券にわたる私財の全部を損失の補塡に差し出した。総会はこれを受領すると議決しつつ、不動産と諸株券およびその代金を除く動産をことごとく返付することも決めた。\n\n1901年12月21日、小野田セメントは三井物産合名会社と製品の一手販売契約を締結した。販売を全面的に委託し、自らは製造に専念する分担がここで固まった。経営の立て直しは、債権者である毛利家の意向を受けて1901年11月に就任した河北勘七専務取締役が担った。河北専務が1906年1月に辞任を申し出た後は、三井に旧縁のある福原栄太郎氏が専務取締役に選ばれた。生産の側では、ヨーロッパ留学から帰った笠井真三氏が技師長として技術改良を陣頭で指揮し、1904年1月に取締役へ選任された。財務の整理は1903年11月の減資と社債50万円の発行、翌年の資産整理を経て一段落した。","references":[{"title":"小野田セメント百年史（小野田セメント、1981年）第2章第6節 明治33年恐慌と事業の整理","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"小野田セメント百年史（小野田セメント、1981年）第3章第3節 1.三井物産の販売活動","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"小野田セメント百年史（小野田セメント、1981年）むすび","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]},{"title":"輸出が支えた日露戦争期のフル操業と大阪築港","text":"国内では、経営危機の時期に得た大阪築港工事への納入権が販売を下支えした。工事への供給は国内向けの2割から4割を占め、納入総額は87万3408円、平均単価は3.68円に達した。市況が1樽3円前後へ下げた時期の価格としては好条件だった。一方、三井物産の各支店はセメント商内にほとんど経験がなく、地方事業の入札慣行にも不慣れで、国内に独自の営業地盤を広げるには限界があった。東京では特約店を通じた卸売の拡大が課題として残り、1909年当時も卸先は二、三軒にとどまっていた。海軍への納入は、三井鉱山が400万円を投じた三池築港工事で笠井技師長が重ねた試験を機に道が開けた。\n\n三井物産が力量を発揮したのは輸移出だった。主な仕向先は併合前の朝鮮と関東州を中心とする東アジアで、1904年から1906年にはサンフランシスコ震災後の需給逼迫を受けたアメリカ向けも伸びた。日本ポルトランドセメント同業会の集計から算出した小野田セメントの輸出シェアは内地向けシェアを大幅に上回り、50%以上を数度記録した。日露戦争の勃発で市況が落ち込んだ時期にも、小野田セメントはフル操業を維持して生産量を落とさなかった。それを可能にしたのは輸出への注力と三井物産との協力体制であり、当時の記録は「小野田丈ケハ別ニ製造力ヲ減ラスコトモナク」（小野田セメント百年史、1981年）操業を続けたと伝える。\n\n委託販売は、市場の動きから生産計画が離れる危うさを伴った。そこで小野田セメントは三井物産の各支店に、売約の成否を問わず見積明細と結果表を通知すること、毎月少なくとも1回は受払報告書を作成して通知することを求めた。この販売細則を審議する場として、1909年7月24日と26日、三井物産大阪支店で第1回セメント打合会議が開かれた。三井物産のセメント首部と各支店の販売担当者に加え、小野田セメントからは福原栄太郎専務、飯田取締役、大木技師、青木販売課員が出席した。打合会議は1910年9月に大阪、1912年5月に門司、1913年12月に小野田で重ねられ、第4回は回転窯を据えた本社工場の見学を兼ねた。","references":[{"title":"小野田セメント百年史（小野田セメント、1981年）第2章第6節 明治33年恐慌と事業の整理","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"小野田セメント百年史（小野田セメント、1981年）第3章第3節 1.三井物産の販売活動","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"小野田セメント百年史（小野田セメント、1981年）むすび","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]}]},{"start_year":1919,"end_year":1945,"main_title":"第3次セメント聯合会への不参加と外地生産への傾斜","subsections":[{"title":"重要産業統制法の発動と訣別声明書の公表","text":"1934年、業界の安定をめぐる交渉は行き詰まった。小野田セメントは、増産中止だけを行っても業界は安定せず一時を糊塗するにすぎないとして商工省の裁定案を拒み、同業13社との2カ月にわたる交渉も決裂した。商工省は1934年11月29日、重要産業統制法をセメント産業に発動した。同法第2条が適用された事例は、この一件が唯一である。発動の9日前にあたる11月20日、小野田セメントは関東州小野田セメント製造株式会社と朝鮮小野田セメント製造株式会社を設立し、大連工場と鞍山工場を前者へ、平壌工場と川内工場を後者へ賃貸する契約を結んだ。海外4工場を統制法の拘束の外へ置く処置だった。\n\n小野田セメントは第3次セメント聯合会へ加盟できない旨を声明し、あわせて訣別声明書を公表した。声明は過去の聯合会と統制会を、製造業者の利益保護に偏って需要者の利益への配慮を欠いたものと批判した。もう一つの論点は規約の設計にあった。すべての議決を多数決とし根本規約まで改変できる制度のもとで加盟すれば、生産販売の一切を他の一部同業者の自由にゆだねる結果になるとして、株主総会の承認を得られる見込みはないと述べた。関東州と朝鮮を分離した理由には、満州国の出現で関東州と満鉄附属地の経済関係が従来と変わったこと、内地の統制法令が外地を保護しないことを挙げた。\n\n不参加を声明した小野田セメントは、行動を共にした大分・太平・電化の3社と、別の理由で聯合会に加わらなかった東洋の1社とともに情報を持ち寄っていた。1935年11月、この5社に朝鮮小野田・関東州小野田・満州小野田・哈爾賓社の海外4社を加えてセメント懇話会を結成した。結成時の加盟各社の月産能力は合計24万5650トンで、聯合会加盟各社の約3分の1にとどまった。懇話会は毎月1回の例会を開き、重要産業統制法、内地・外地・満州の需給、輸出、会員外同業者との協調などを協議した。のちに東北社が会員として、三井物産が客員として懇話会へ加わった。","references":[{"title":"小野田セメント百年史（小野田セメント、1981年）第6章第3節 1.第3次セメント聯合会への不参加","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"小野田セメント百年史（小野田セメント、1981年）むすび","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}],"quotes":[{"speaker":"小野田セメント製造株式会社","role":"第3次セメント聯合会への不参加を表明した訣別声明書","date":"1934-12","text":"過去第二次聯合会及統制会は、セメント製造業者の利益保護に過ぎ、需要者の利益を考慮すること足らざりき\nこれに加盟することは会社の生産販売の一切を他一部同業者の自由に委する結果となる、斯くの如き会社存立に関する重大案件は株主総会に諮るを要し、恐らくその承認を得ること不可能なるべし","source":"小野田セメント百年史（小野田セメント、1981年）第6章第3節 1.第3次セメント聯合会への不参加","paragraph":2}]},{"title":"乱売合戦の全国化と笠井・金子協定による終息","text":"重要産業統制法の発動は業界の安定をもたらさなかった。発端は1935年1月、鉄道省の前年度追加引合い6万3500トンをめぐる契約獲得戦だった。基準価格の引き下げが不十分だとみた小野田・大分・太平の3社は基準を下回る値段で臨み、約45%を獲得した。アウトサイダーの常陸社が得た約6%と合わせると、4社で過半を制した。廉売合戦は九州から中国・阪神・中京・関東・東北へ波及した。朝鮮では聯合会側が1935年2月に廉売補償制度を設けてダンピング出荷に踏み切り、仁川沖着の値段は50kg袋当たり1935年初めの1円5銭から1円が翌年初めには75銭前後となり、1年で30%弱下がった。\n\n重要産業統制法は5年間の臨時立法で、1936年8月10日限りで失効する定めだった。商工省は改正案を1936年5月20日の第69帝国議会で無修正のまま通過させ、企業の新設に許可制を導入する道と、外地へ適用する道を開いた。改正法の施行前に業界の混乱を収めるため、商工省は小野田セメントの笠井真三社長と浅野社の金子専務にトップ会談を要請した。会談は1936年6月上旬に始まり、7月下旬に笠井・金子協定が成立した。内地と外地の設備拡張を当該会社の能力の2割以内に抑えること、1937年度の朝鮮の需要を68万トンと想定して内地からの移入20万トンと朝鮮業者の出荷48万トンに配分することなどを骨子とした。","references":[{"title":"小野田セメント百年史（小野田セメント、1981年）第6章第3節 1.第3次セメント聯合会への不参加","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"小野田セメント百年史（小野田セメント、1981年）むすび","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]},{"title":"外地工場への生産の傾斜と敗戦による喪失","text":"協定と並行して、小野田セメントは朝鮮と満州で増産を断行した。川内支社工場は1935年1月に第1期拡張を終え、さらに110万円を投じた第2期拡張が1936年8月に完成し、生産能力で社内の首位を占めた。第2期拡張では、焼成燃料を普通の回転窯の約半分に抑えるレポルキルンを採用した。1936年6月には古茂山工場で年産15万トンの回転窯に火を入れ、8月から出荷を始めた。満州では1934年4月に鞍山工場が満鉄鞍山製鉄所の鉱滓を使う高炉セメントの生産を開始し、1936年4月には泉頭工場が生産に入った。\n\n増産の中身は、内地ではなく外地に偏っていた。生産能力は1932年の141万4000トンから1937年の225万5000トンへ、6年間で1.6倍に増えた。生産量は同じ6年間で64万5332トンから144万4244トンへ2.2倍に伸びたが、内地工場の比率は50.2%から36.0%へ下がり、在満工場は16.9%から25.1%へ、在鮮工場は32.9%から38.9%へ上がった。1937年には外地工場の生産高比が64.0%に達した。業界全体に占める小野田セメントのシェアも1932年の19.3%から1937年の25.6%へ回復した。外地工場が内地の高率な生産制限を受けなかったことが、この伸びを支えた。\n\n外地への傾斜は、1945年の敗戦とともに反転した。1909年5月の大連支社工場の操業開始を皮切りに、平壌・川内・鞍山・泉頭・古茂山・小屯・三陟と外地に工場を重ね、敗戦の年には生産能力の6割を外地工場が占めた。受託工場を含めると海外に18工場、月産21万トンの能力を持ち、生産能力では国内の約1.5倍、利益では国内をはるかに上回った。敗戦の結果、これらの外地工場はすべて、何らの補償も得られないまま失われた。海外工場の生産比率と利益貢献度の高さは、戦前の日本の大企業のなかでも有数のものだった。","references":[{"title":"小野田セメント百年史（小野田セメント、1981年）第6章第3節 1.第3次セメント聯合会への不参加","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"小野田セメント百年史（小野田セメント、1981年）むすび","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]}]},{"start_year":1946,"end_year":1994,"main_title":"三井物産との断絶と集排法を越えた再建、そして秩父小野田へ","subsections":[{"title":"財閥解体による三井物産との関係断絶","text":"敗戦により戦時経済統制が解かれると、小野田セメントと三井物産は一手販売の復活へ向けた検討に入った。1945年12月10日と11日にはセメント打合会を開き、配給統制会社の解散後の販売問題、販売網と特約店の整備、代金回収の改善などを協議した。1946年3月23日、小野田セメントは三井関係として制限会社に指定された。三井物産が1883年末から小野田セメントの製品を扱い、1901年12月に一手販売を委託され、三井本社などが約18%の株式を保有していたことから、三井系の傍系会社という位置づけが一般になっていた。指定によって資産の処分が制限され、役員給与や賞与、配当にも制約がおよび、経営は強い掣肘を受けた。\n\n関係の再開は認められなかった。財閥解体と独占禁止をめぐるGHQの態度は強硬で、1946年7月8日、三井物産との一手販売契約を解除するよう小野田セメントへ申渡しがあった。1901年から四十数年続いた関係は、ここで断たれた。三井物産自身も1947年7月3日にGHQから解散指令を受け、従業員は200社余の会社へ分かれた。もっとも、新たに設立された三井物産系商社との取引まで消えたわけではなく、第一通商や互洋貿易は小野田セメントの輸出代理店を務めた。第一通商の社長に就いた岡本忠氏は、戦後の短い期間ながら小野田セメントの取締役を兼ねていた。\n\n1948年2月8日、持株整理委員会は鉱工業257社を過度経済力集中排除法の指定会社第1次分として発表し、セメントでは小野田・日本・磐城・大阪窯業・宇部興産の5社が指定された。小野田セメントは指定の解除を陳情した。意見書は、多数の工場を抱えるに至ったのは救済的合併と戦時中の企業整備によるもので市場支配を目的としたものではないと述べ、地区別に分割すればかえって地域的独占といえる有力会社を生むと力説した。分割は生産減と品質低下、生産原価の高騰、金融の停滞を招くとも訴えた。GHQのウェルシュ反トラスト課長は主張を認めず、役員を呼び出して分割案の提出を何回も迫った。","references":[{"title":"小野田セメント百年史（小野田セメント、1981年）戦後編第1章第3節 「経済民主化」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"小野田セメント百年史（小野田セメント、1981年）むすび","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"会社年鑑 1986年版（日本経済新聞社、1985年）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}],"quotes":[{"speaker":"小野田セメント","role":"過度経済力集中排除法の指定解除を求めた意見書","date":"1948","text":"日本のセメント業は現状の儘で常に自由競争を行うことができる。従って小野田社分割の必要を認めない\n地域別には概して有力ならざる工場が多数集まって、比較的大きな全国能力比を占むる一つの会社を偶々形成しているにすぎない","source":"小野田セメント百年史（小野田セメント、1981年）戦後編第1章第3節 「経済民主化」","paragraph":3}]},{"title":"集排法による分割の回避と経営陣の刷新","text":"「米ソ間の冷戦の兆しが見えてきているから、しばらく我慢して時間を稼げ」（小野田セメント百年史、1981年）という元外交官の示唆を受け、小野田セメントは再編成計画の提出を見合わせた。集排法の指定解除は1948年5月1日に194社、同年7月1日に31社と進んだが、小野田セメントはそのいずれにも含まれなかった。一時は分割やむなしと考えざるを得ないところまで至った。しかし1949年6月17日、持株整理委員会は過度経済力集中排除法に基づく指定と指令を取り消す指令を出し、1943年7月に買収した田原工場も分離せずに存続した。1949年11月22日には制限会社の指定も解除された。\n\n経営陣は追放令に揺さぶられた。1947年1月4日の公職追放令改正で財界追放の内容が定まり、施行令別表の「有力な会社、金融機関その他の団体」に小野田セメントの名も含まれた。同年4月11日、常務取締役以上の国吉喜一氏、山本義人氏、渡部生一氏が辞任した。企業再建のために余人をもって代え難いとして続けられた河内通祐社長の留任運動はGHQ方面にもおよんだが実らず、河内社長は同年6月25日をもって辞任した。以後は常務取締役の三戸康正氏が経営代表者を務め、朝鮮抑留から帰国した安藤豊禄氏が1947年11月1日に専務取締役へ就任した。安藤氏はのちに第7代社長となる。\n\n戦時中の企業整備で買収した工場の復元も進んだ。彦根工場は1944年6月10日に日本石綿盤製造との契約で買収したもので、社名を野沢石綿興業と改めた旧所有者が復元を求めた。従業員と労働組合による反対の陳情は実らず、1947年2月25日の臨時株主総会が満場一致で返還を可決し、同年11月19日に引き渡しを終えて彦根工場を廃止した。企業再建整備の計画は1950年2月13日に実行を完了し、減資も債権切り捨ても行わずに整理を終えた。復興需要による生産の増加と、インフレーションによる特別損失の相対的な減価が、この結末を支えた。","references":[{"title":"小野田セメント百年史（小野田セメント、1981年）戦後編第1章第3節 「経済民主化」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"小野田セメント百年史（小野田セメント、1981年）むすび","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"会社年鑑 1986年版（日本経済新聞社、1985年）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]},{"title":"三つの経営危機、多角化の到達点と秩父小野田への合流","text":"百年史のむすびは、決定的といえる経営危機を三つ数えている。第1は1901年下期に払込資本金の23%にあたる欠損を計上して内整理に入ったことで、三井物産との製品一手販売契約によって切り抜けた。第2は1945年の敗戦による外地工場の喪失と、財閥解体にともなう三井物産との関係断絶で、副業品の生産と朝鮮動乱ブームが危機の回避を助けた。第3は1964年から1965年にかけての金融難、7期にわたる無配、労働争議の頻発で、主力銀行の支援と1960年代後半の第2次高度成長が支えとなった。いずれも対応を一歩誤れば倒産に直結する深刻なものだった。\n\n三井物産との関係が切れた後も、三井グループとの距離は縮まった。小野田セメントは日本興業銀行に次いで三井銀行をメインバンクとし、1980年には同グループの社長会である二木会へ加入した。1981年5月3日、創立100周年を迎えた。この100年間に日本で生まれたセメント会社は個人経営を含めて100社を超えたが、大部分は合併されるか事業を閉じ、当時存在したのは小野田セメントを含め24社だった。その24社のセメント事業の平均社歴は41年強である。相談役で第7代社長の安藤豊禄氏は、一事業で倒れることもなく百年保ったことへの感謝を述べた。\n\n多角化はセメント6社のなかで最も先行した。『会社年鑑 1986年版』によれば、1985年3月期の売上高は2027億円で、うちセメントが1558億円、その他が469億円を占めた。セメント依存度は同年鑑が並べた6社のうち最も低く、その他部門の規模は他社を大きく引き離した。ただし売上高は1981年3月期の2513億円をピークに4期続けて減り、ピーク比では19%の減少となった。減収は6社に共通しており、内需そのものが縮んでいた。1994年10月、小野田セメントは秩父セメントと合併して商号を秩父小野田へ改め、1881年から続いた小野田セメントの名はここで消えた。","references":[{"title":"小野田セメント百年史（小野田セメント、1981年）戦後編第1章第3節 「経済民主化」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"小野田セメント百年史（小野田セメント、1981年）むすび","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"会社年鑑 1986年版（日本経済新聞社、1985年）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}],"quotes":[{"speaker":"安藤豊禄","role":"小野田セメント相談役（第7代社長）・創立100周年に際しての談話","date":"1981","text":"百年間倒れずにここまできて、相当の大をなすことができた\n一事業で倒れることもなく百年保った。そのこと自体に感謝の念を持たねばならないと思います","source":"小野田セメント百年史（小野田セメント、1981年）むすび","paragraph":2}]}]}],"summary":{"title":"サマリー","text":""},"auditVersion":2}