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      "title": "日本銀行法二十五条による特別融資の受け入れと、新旧勘定分離による再建",
      "subtitle": "看板を残して債務を切り離せるか——史上初の日銀特融を四年余で完済するまで",
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      "issue": "経営危機の処理と再建の枠組み",
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        {
          "label": "概要",
          "text": "1965年5月28日夜、大蔵省と日本銀行は主力銀行首脳を日銀氷川寮に集め、田中角栄蔵相の決断で日本銀行法二十五条による無担保・無制限の特別融資を決めた。山一證券への融資は6月7日を皮切りに282億円に達した。同社は1966年に新旧勘定分離で債務と営業を切り分け、1969年9月30日に完済した。"
        },
        {
          "label": "背景",
          "text": "増資の急増による株式の供給超過で証券不況が深まり、1964年9月期の全国証券会社の最終損益は272億円の赤字となった。山一證券は同期に34億円余の欠損を計上し、純財産額70億円に対して運用預かりを477億円抱えていた。運用預かりは銀行預金に近い性格を持ち、解約は資金繰りを直撃した。"
        },
        {
          "label": "内容",
          "text": "日本興業銀行出身で日産化学工業社長だった日高輝氏を社長に迎え、銀行借入金の元利のタナ上げと支店網の縮減を進めた。再建策がまとまらないうちに新聞報道で取り付け騒ぎが起き、特融に至った。1966年7月に新会社を設立して9月に営業を譲渡し、旧会社「株式会社山一」が債務を負った。"
        },
        {
          "label": "含意",
          "text": "新会社の商号を変える案もあったが、日高氏は約80店の看板を替える費用を返済に回すべきだと考えて名称を残した。当初は完済に18年8か月を要する計算だったが、市況の回復と日本証券保有組合の解散に伴う還付金67億3000万円に支えられ、4年余で終えた。"
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            "note": "「法人の山一」と呼ばれた証券業界の雄。野村・大和・日興と並ぶ四大証券の一角で、1962年には支店112店を数えた"
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      "dates": {
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        "summary": "証券不況で運用預かりの解約が資金繰りを直撃し、信用システムへの波及を防ぐため日銀法二十五条の特別融資を受けたうえ、商号を変えずに債務と営業を切り分ける新旧勘定分離で返済した"
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          "title": "余剰株式の凍結機関として日本共同証券が設立され、ダウ平均千二百円の防衛が始まる"
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          "title": "1964年9月期に約34億5000万円の欠損。全国証券会社の最終損益は272億円の赤字"
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          "title": "日本興業銀行出身で日産化学工業社長だった日高輝氏が社長に就任"
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          "title": "証券会社を組合員とする日本証券保有組合が設立"
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          "title": "田中角栄蔵相の決断で日本銀行法二十五条による無担保・無制限の特別融資が決定",
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          "title": "新旧両社を合併して日銀特融を完済"
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          "title": "自ら廃止していた上場を東京証券取引所第二部で回復"
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      "snapshot": {
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              "sub_title": "増資の急増が招いた証券不況",
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                  "text": "1960年代前半の証券不況は、増資の急増による株式の供給超過から始まった。1961年の増資額は額面ベースで6738億円に達し、前年の3472億円から一気に膨らんだ。株価が下降に転じた1962年も6002億円の高水準が続き、1964年には5300億円台へ戻っている。東京証券取引所第一部の上場株式数は1961年に前年比140億株、43%近く増えた。1961年半ばには日銀が引き締めに転じており、市場が消化しきれる供給量ではなかった。",
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                      "fact": "1961年の増資額は額面金額ベースで6738億円（1960年は3472億円）に達し、株価が下降に転じた1962年も6002億円と高水準を持続、1964年には5300億円台に戻った。東証一部の上場株式数は1961年に前年比140億株・43%近く増えた",
                      "原文": "例えば昭和三十六年の増資額は額面金額ベースで六七三八億円(三十五年は三四七二億円)に達し、株価が下降に転じた三十七年も六〇〇二億円と高水準を持続した。",
                      "source": "日本産業史 第3巻（日本経済新聞社、1994年）「証券－証券恐慌乗り越え土台固め」",
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                {
                  "text": "業界は膨れあがった株式を投資信託や無理な営業で吸収しようとした。投資信託は資産の8割前後を株式に回し、組み入れ株式の時価総額は全上場株式の1割前後に達していた。それでも株価は下げ続け、東証修正平均は1961年7月18日の1829円74銭から1965年7月12日の1020円49銭まで、ピークを44%下回る水準へ落ちた。1964年1月に日本共同証券、1965年1月に日本証券保有組合が凍結機関として設けられたが、歯止めはかからなかった。",
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                      "fact": "投資信託は資産の8割前後を株式に回し組み入れ株式の時価総額は全上場株式の10%前後に達した。東証修正平均は1961年7月18日の1829.74円をピークに1965年7月12日の1020.49円まで下げ、ピークを44%下回った。1964年1月に日本共同証券、1965年1月に日本証券保有組合が設立された",
                      "原文": "それでも株式市場の活気は戻らず、株価(東証修正平均)は三十六年七月十八日の一八二九・七四円をピークにほぼ一貫して下げ続けた。",
                      "source": "日本産業史 第3巻（日本経済新聞社、1994年）「証券－証券恐慌乗り越え土台固め」",
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              "sub_title": "運用預かりという資金調達",
              "paragraphs": [
                {
                  "text": "当時の証券会社経営を象徴していたのが運用預かりであった。証券会社が顧客から主として割引金融債を預かり料を払って借り入れ、それを担保に銀行から融資を受ける仕組みで、重要な資金調達手段になっていた。証券会社にとっても投資家にとっても銀行預金と同じような性格を持つため、解約はただちに資金繰りを圧迫する。しかも他社に波及し、銀行にも影響が及んで信用システムにひびが入る危険をはらんでいた。",
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                    {
                      "fact": "運用預かりは証券会社が顧客から主として割引金融債を預かり料を払って借り入れ、それを担保に銀行から融資を受けるもので、当時の証券会社にとって重要な資金調達手段だった。証券会社にとっても投資家にとっても銀行預金と同じような性格を持ち、解約はただちに資金繰りを圧迫し、他社や銀行に波及して信用システムにひびが入る危険があった",
                      "原文": "運用預かりというのは、証券会社が顧客から主として割引金融債を預かり料を払って借り入れることで、証券会社は、それを担保に銀行から融資を受けていた。",
                      "source": "日本産業史 第3巻（日本経済新聞社、1994年）「証券－証券恐慌乗り越え土台固め」",
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                },
                {
                  "text": "規模は自己資本を大きく超えていた。大蔵省は1963年7月の理財局長通達で運用預かりを純財産額の2倍程度に抑えるよう指導していたが、不況の深刻化で通達は事実上反故にされていた。1965年5月26日の衆議院予算委員会では、1964年9月期末の山一證券の純財産額70億円に対し、運用預かりが477億円に達していたことが明らかにされた。1965年3月末の運用預かりは555億円、借入金は長短合わせて725億円、借入有価証券は853億円であった。",
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                      "fact": "大蔵省は1963年7月の理財局長通達で運用預かり額を純財産額の2倍程度に抑えるよう指導していたが証券不況の深刻化で事実上反故にされ、1965年5月26日の衆院予算委員会で1964年9月期末の山一証券の純財産額70億円に対し運用預かり477億円と明らかにされた",
                      "原文": "なお五月二十六日の衆院予算委員会で明らかにされたところによると、三十九年九月期末で山一証券の純財産額は七〇億円、これに対し運用預かりは四七七億円だった。",
                      "source": "日本産業史 第3巻（日本経済新聞社、1994年）「証券－証券恐慌乗り越え土台固め」",
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                    {
                      "fact": "1965年3月末の借入金は長短合わせて725億円、借入有価証券は853億円、顧客からの運用預かりは555億円で、2〜4月は毎月3億円の赤字、金利負担は月間約2億円だった",
                      "原文": "それによると、四十年三月末の借入金は、長短合わせて七二五億円、借入有価証券は八五三億円にのぼり、二-四月でみると、毎月三億円の赤字を計上していた。",
                      "source": "日本産業史 第3巻（日本経済新聞社、1994年）「証券－証券恐慌乗り越え土台固め」",
                      "url": "https://dl.ndl.go.jp/pid/13095823"
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          "label": "決断",
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              "sub_title": "外から来た社長と、漏れた再建策",
              "paragraphs": [
                {
                  "text": "1964年10月、日本興業銀行の中山素平氏が、日産化学工業の社長だった日高輝氏を赤坂の料亭に呼び、山一の支援を持ちかけた。日高氏は一度断ったが、富士銀行の岩佐凱実氏、三菱銀行の宇佐美洵氏、そして小池厚之助氏と同郷の先輩にあたる小林中氏から相次いで説得され、11月24日の株主総会で取締役に選任された。財務の実態は、就任前に誰からも知らされていない。",
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                    {
                      "fact": "1964年10月、中山素平が赤坂の料亭で日高輝に「山一証券が苦しくなっている。テルさんに手伝ってもらえまいか」と持ちかけ、日高は一蹴したが、岩佐凱実（富士銀）・宇佐美洵（三菱銀）・小林中の説得を受けて1964年11月24日の株主総会で取締役に選任された。小林中は証券業界の最高顧問で小池厚之助会長の同郷の先輩だった",
                      "原文": "そのうちに「山一証券が苦しくなっている。テルさんに手伝ってもらえまいか」ともらした。まさに寝耳に水である。",
                      "source": "私の履歴書 日高輝（日本経済新聞連載、1975年）",
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                    {
                      "fact": "山一の財務内容の実態は日高輝に説明されず、口説けば近寄らなくなると思われたのか誰からもその辺のことを聞かされなかった",
                      "原文": "いま振り返ってみると、山一の財務内容などの実態を私に説明して口説けば、私が近寄らなくなるとでも思われたのか、だれからもその辺のことを聞かされはしなかった。",
                      "source": "私の履歴書 日高輝（日本経済新聞連載、1975年）",
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                {
                  "text": "日高氏は大森治氏を長とする健全化委員会を置き、銀行借入金の元利のタナ上げと支店網の縮減という二正面作戦を進めた。ところが再建策がまとまらないうちに、地方支店の閉鎖を経営難と結びつける記事が1965年5月21日に西日本新聞へ載り、時事通信も配信する。同日午後1時半、丸の内の銀行倶楽部で主力三行と共同の記者会見が開かれたが、投資家は預けた証券の引き出しと投資信託の解約に走り、取り付け騒ぎが実際に起きた。",
                  "evidences": [
                    {
                      "fact": "1965年5月、再建策がまとまらないうちに主力三行の支援策と山一の立て直し策の動きが新聞に報道され、投資家が山一に預けていた証券の引き出しや投資信託の解約に走り、いわゆる取り付け騒ぎが実際に発生した",
                      "原文": "四十年五月、再建策がまとまらないうちにこれらの動きが新聞に報道され、投資家が山一に預けていた証券の引き出しや投資信託の解約に走った。いわゆる取り付け騒ぎが実際に発生したのである。",
                      "source": "日本産業史 第3巻（日本経済新聞社、1994年）「証券－証券恐慌乗り越え土台固め」",
                      "url": "https://dl.ndl.go.jp/pid/13095823"
                    },
                    {
                      "fact": "1965年5月21日未明に中山素平から電話があり、宮崎支店の閉鎖を山一の行き詰まりと関連づける記事が西日本新聞の朝刊に載り時事通信も流すと知らされ、同日午後1時半に丸の内の銀行倶楽部で三行と共同記者会見が行われた。5月28日には手当てした30億円前後が一日で引き出された",
                      "原文": "丸の内の銀行倶楽部で午後一時半から行われたこの記者会見では、山一証券の再建策発表という形で、金融について日銀の全面的な了解をとりつけていること、金利の負担軽減をはかること、子会社を整理して赤字の補てんに役立てることなどが、その骨子として明らかにされた。",
                      "source": "私の履歴書 日高輝（日本経済新聞連載、1975年）",
                      "url": "https://dl.ndl.go.jp/pid/11938568"
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              "sub_title": "日本銀行法二十五条と、看板を残す選択",
              "paragraphs": [
                {
                  "text": "1965年5月28日の夜、大蔵省と日本銀行は主力銀行首脳を日銀氷川寮に集めて対策を協議し、田中角栄蔵相の決断で日本銀行法二十五条による無担保・無制限の特別融資が決まった。発表文は、政府および日銀は証券界の必要とする資金について関係主要銀行を通じて日銀が特別融資を行うと述べ、さしあたり山一證券については主要三行がこの融資を行うとした。日銀が直接貸すのではなく、主力三行を通す形が採られている。",
                  "evidences": [
                    {
                      "fact": "1965年5月28日の夜、大蔵省・日銀が主力銀行首脳を日銀氷川寮に集めて対策を協議し、田中角栄蔵相の決断で日銀法二十五条による無担保・無制限の特別融資が決まった。発表文は「政府および日銀は現段階において証券界の必要とする資金については、関係主要銀行を通じて日銀が特別融資を行うことを決定した。さしあたり山一証券については主要三行がこの融資を行うことを決めた」と述べている",
                      "原文": "事態を重視した大蔵省、日銀は、五月二十八日の夜、主力銀行首脳を日銀氷川寮に集め、対策を協議、田中(角栄)蔵相の決断で、日銀法二十五条による無担保、無制限の特別融資が決まった。",
                      "source": "日本産業史 第3巻（日本経済新聞社、1994年）「証券－証券恐慌乗り越え土台固め」",
                      "url": "https://dl.ndl.go.jp/pid/13095823"
                    },
                    {
                      "fact": "山一への日銀特融は1965年6月7日を皮切りに合計282億円に達し、大井証券に対しても計53億円の日銀特融が実施された",
                      "原文": "こうして山一への日銀特融は六月七日を皮切りに合計二八二億円に達した。さらに大井証券に対しても計五三億円の日銀特融が実施された。",
                      "source": "日本産業史 第3巻（日本経済新聞社、1994年）「証券－証券恐慌乗り越え土台固め」",
                      "url": "https://dl.ndl.go.jp/pid/13095823"
                    }
                  ]
                },
                {
                  "text": "返済の枠組みには、戦後の金融機関再建整備で使われた新旧勘定分離が採られた。1966年7月7日に新会社を設立して9月1日に営業を譲り受け、旧会社に特融分と主力三行の債権を残し、新会社が挙げた利益で旧会社が債務を返す形とした。新会社は募集設立で120億円余の申し込みを集め、払込資本金90億円・株主85で発足している。商号を変えるべきだという意見もあったが、日高氏は約80店の看板を替える費用を返済に回すべきだと考え、名称を残した。",
                  "evidences": [
                    {
                      "fact": "山一証券は新旧会社に分離され、旧会社に特融分と主要三行の債権を残し、旧会社は新会社があげた利益で債務を返済することになった",
                      "原文": "山一証券は新旧会社に分離され、旧会社に特融分と主要三行の債権を残し、旧会社は新会社があげた利益で債務を返済することになった。",
                      "source": "日本産業史 第3巻（日本経済新聞社、1994年）「証券－証券恐慌乗り越え土台固め」",
                      "url": "https://dl.ndl.go.jp/pid/13095823"
                    },
                    {
                      "fact": "1966年7月7日に新会社を設立し臨時株主総会の承認を経て9月1日に営業譲渡を行い、証券取引法改正による大蔵大臣免許の第一号を取得した。募集設立で一口5000万円と3000万円で出資を募り申込は120億円余、資本金は払込済90億円・株主85で、日高輝は全国約80店の看板を変える資金があるなら特融の返済に振り向けるべきだと考えて商号を残した",
                      "原文": "全国の支店およそ八十店舗(当時)の社名看板を変えるだけのカネがあるなら、少しでもよい、特融の返済に振り向けるべきだと信じて、「新会社」は「山一証券」に、「旧会社」は「株式会社山一」とすることになった。",
                      "source": "私の履歴書 日高輝（日本経済新聞連載、1975年）",
                      "url": "https://dl.ndl.go.jp/pid/11938568"
                    }
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        {
          "section": "outcome",
          "label": "結果",
          "subsections": [
            {
              "sub_title": "十八年八か月の計算を、四年余で終える",
              "paragraphs": [
                {
                  "text": "当初の計算では、完済に18年8か月を要した。実際には4年余で終わっている。株式市場が回復に転じたことに加え、日本証券保有組合の解散に伴う還付金67億3000万円が入り、これが返済額の約3割を占めた。大阪北浜に確保していた自社用地は野村證券へ売却して返済に充てている。1969年9月30日に特融を完済し、10月1日に新旧両社が合併した。実質4割の減資を伴うため、日高氏は反対する株主全員の了解を求めたという。",
                  "evidences": [
                    {
                      "fact": "特融完済には計算上18年8か月を要する勘定だったが、日本証券保有組合の解散（1969年1月）に伴う還付金67億3000万円が入り特融返済額の約30%を占め、大阪北浜の自社用地は野村証券へ売却して返済に充てた。1969年9月期を控えて特融残高は49億8000万円の見通しとなり、主力三行の融資で肩代わりして完済、10月1日に新旧両社が合併した",
                      "原文": "しかし幸いなことに山一は還付金として六十七億三千万円(特融返済額の約三〇%)を受け入れることとなった。",
                      "source": "私の履歴書 日高輝（日本経済新聞連載、1975年）",
                      "url": "https://dl.ndl.go.jp/pid/11938568"
                    },
                    {
                      "fact": "新旧会社の合併は1969年8月の臨時株主総会で承認され同年10月1日に新生した。実質上4割減資となるため日高輝は一人でも反対する株主全員の了解を求めた。1970年9月期に3円・年6分の復配へこぎつけ、1973年4月に東証第二部へ約7年ぶりに再上場、1974年2月に第一部へ指定替えとなった",
                      "原文": "この新旧合併では、実質上四割減資することになっていただけに、私はこの合併承認には、一人でも反対する株主全員の了解を求めることにした。",
                      "source": "私の履歴書 日高輝（日本経済新聞連載、1975年）",
                      "url": "https://dl.ndl.go.jp/pid/11938568"
                    }
                  ]
                },
                {
                  "text": "当時この特融は「無担保」「無利息」と非難されたが、完済までに日歩1銭68から1銭88で総額61億7000万円余の利息が支払われ、担保も許される限り提供されていた。制度の側も動いた。証券業を大蔵省の厳格な監督下に置くという問題意識から改正証券取引法が1965年5月に成立し、証券業は1968年4月1日を期して登録制から免許制へ移った。弱い業者はふるいにかけられ消えていった。",
                  "evidences": [
                    {
                      "fact": "特融の完済までに日歩1.68銭から1.88銭で総額約61億7000万円余の金利を支払い、許される限りの物上担保も提供したが、当時は「無利息」「無担保」だと非難された",
                      "原文": "その後、この日銀特融の完済までに、利息として日歩一・六八銭ないし一・八八銭(そのときの金利水準で変更があった)、あわせておよそ六十一億七千万円余の金利を支払ったし、許される限りの物上担保を、十分とはいえないまでも提供した。しかしながら、当時は「無利息」「無担保」だとも非難された。",
                      "source": "私の履歴書 日高輝（日本経済新聞連載、1975年）",
                      "url": "https://dl.ndl.go.jp/pid/11938568"
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                    {
                      "fact": "証券恐慌への対応として証券業者はアメリカ流の登録制に代わって免許制が導入され弱い業者はふるいにかけられて消えた。改正証券取引法の可決・成立は1965年5月で、証券業は1968年4月1日を期して登録制から免許制に変わった",
                      "原文": "これへの対応として証券業者についてはそれまでのアメリカ流の登録制に代わって免許制が導入され、弱い業者はふるいにかけられ消えていった。",
                      "source": "日本産業史 第3巻（日本経済新聞社、1994年）「証券－証券恐慌乗り越え土台固め」",
                      "url": "https://dl.ndl.go.jp/pid/13095823"
                    }
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            {
              "sub_title": "再建が残した経営の型",
              "paragraphs": [
                {
                  "text": "再建の要は、大蔵省・日本銀行・主力三行との折衝であった。それを担うのは企画部門であり、危機を切り抜けた経験が対外折衝に長けた系統を経営の本流に据えた。破綻直後、ある社員は、無責任に上空を飛ぶアホウドリのような大蔵省の顔色ばかりうかがい、企画畑の社長が続いたと書き残している。別の関係者も、山一は企画畑が代々社長になり大蔵のほうばかり向いた経営をしてきたと証言した。",
                  "evidences": [
                    {
                      "fact": "山一の社員は、無責任に上空を飛ぶアホウドリたる大蔵省の顔色ばかりうかがって企画畑（ＭＯＦ担）の社長が続いたと破綻直後に書き残している",
                      "原文": "不運は、一番上の魚もヒラメであったことで、無責任に上空を飛ぶアホウドリたる大蔵省の顔色ばかりうかがって、企画畑（ＭＯＦ担）の社長が続いた。",
                      "source": "週刊東洋経済1997年12月13日号「いま泣いている暇はない 内側から見た山一証券の崩壊」",
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                    },
                    {
                      "fact": "山一は企画畑が代々社長になり、大蔵のほうばかり向いた経営をしてきたと山一関係者が証言している",
                      "原文": "「山一は企画畑が代々社長になり、大蔵のほうばかり向いた経営をしてきた」（山一関係者）",
                      "source": "週刊東洋経済1997年12月13日号「山一証券を潰した行平前会長のウソ」",
                      "url": null
                    }
                  ]
                },
                {
                  "text": "顧客から資金を預かる構図も残った。1980年代後半、山一證券は営業特金で利回りを約束し、相場が崩れると含み損を決算期の外へ、やがて帳簿の外へ移した。1991年に64法人と2個人への総額456億円の損失補填が発覚し、1997年11月には簿外債務2648億円を公表して自主廃業を決議する。1999年6月に破産宣告を受け、日本銀行の特別融資は初めて焦げ付いた。1965年に会社を救った制度が、二度目には毀損されている。",
                  "evidences": [
                    {
                      "fact": "1991年に明らかになった損失補填問題で山一証券は64法人と2個人に対し総額456億円の損失補填を行っており、バブル崩壊で損失問題が深刻化してからは飛ばしを使って隠蔽し先送りするしかなかった",
                      "原文": "そもそも９１年に明らかになった損失補填問題では、山一証券は合計六四法人と二個人に対して総額四五六億円の損失補填を行っていたが、このときも最大の補填先は阪和興業グループだった。",
                      "source": "週刊東洋経済1997年11月22日号「追跡！「闇取引」の構造 山一証券の疑惑と危機に新事実」",
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                    },
                    {
                      "fact": "山一証券の最終処理では自己破産すら容易でない前代未聞の作業となり、日銀特融の初の焦げ付きも生じる見通しとなった",
                      "原文": "前代未聞自己破産すら容易でない山一証券の最終処理日銀特融初の焦げ付きも",
                      "source": "週刊東洋経済1999年5月22日号「前代未聞 自己破産すら容易でない山一証券の最終処理」",
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                    }
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                }
              ]
            },
            {
              "sub_title": "純財産七十億円の会社が抱えた四百七十七億円",
              "editorial": true,
              "paragraphs": [
                {
                  "text": "純財産額70億円の会社が、運用預かりを477億円抱えていた。大蔵省が純財産額の2倍程度に抑えるよう指導していた枠を、不況の深刻化のなかで7倍近くまで超えていたことになる。日高輝氏はこの実態を知らされないまま社長を引き受け、就任してから健全化委員会で現状を集めた。特融が信用機構全体への波及を理由に発動されたのは、山一一社の資金繰りが問題だったからではなく、運用預かりが銀行預金に近い性格を持ち、解約が他社と銀行へ連鎖する構造だったためとみることができる。"
                },
                {
                  "text": "ただ、4年余での完済を経営努力だけの成果とみるのは正確でない。株式市場の回復と、日本証券保有組合の解散に伴う還付金67億3000万円——返済額の約3割——が支えている。そして看板を残すという判断は、対外折衝に長けた企画部門を経営の本流に据える結果も残した。同じ強みが制約に転じたのは、顧客から預かった資金の含み損を表に出せなくなったときであった。1965年に会社を救った日銀の特別融資は、32年後の破綻で初めて焦げ付いている。"
                }
              ]
            }
          ]
        }
      ],
      "references": [
        "日本産業史 第3巻（日本経済新聞社、1994年）「証券－証券恐慌乗り越え土台固め」",
        "私の履歴書 日高輝（日本経済新聞連載、1975年）",
        "週刊東洋経済1997年11月22日号「追跡！「闇取引」の構造 山一証券の疑惑と危機に新事実」",
        "週刊東洋経済1997年12月13日号「山一証券を潰した行平前会長のウソ」",
        "週刊東洋経済1997年12月13日号「いま泣いている暇はない 内側から見た山一証券の崩壊」",
        "週刊東洋経済1999年5月22日号「前代未聞 自己破産すら容易でない山一証券の最終処理」"
      ],
      "authored": "2026-07",
      "last_updated": "2026-07-25"
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    {
      "slug": "off-balance-loss-1991",
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      "year": 1991,
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      "title": "営業特金で生じた含み損の飛ばしと、連結対象外会社を使った簿外への移し替え",
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          "text": "1991年、山一證券が64法人と2個人に総額456億円の損失補填を行っていたことが発覚した。同社はこれを機に損失を表に出す道を採らず、同年12月に連結対象外の受け皿会社を使って含み損を簿外へ移す仕組みを動かした。処理の全体を知る者は監査役と企画担当常務らごく一部に限られ、1997年11月に2648億円の簿外債務として表面化した。"
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          "text": "1980年代後半、営業特金と呼ばれる運用預かりが野放図に膨らんだ。企業に転換社債やワラント債を発行させて手取り金を預かり、利回りを約束する取引で、動機は自社の運用力ではなく、他の三社から預かり資産で離されないことにあった。相場が崩れると約束の利回りが出せなくなった。"
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          "label": "含意",
          "text": "決算期の違う会社の間で含み損を動かす飛ばしは、期末にだけ損失を消す手法であった。1991年の処理はそこから一歩進み、連結の外に損失を置いて外部から追えなくした。開示の一度の見送りが、6年後に会社そのものを畳む規模まで育った。"
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          "year": 1997,
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          "title": "簿外債務2648億円を公表し、自主廃業を決議"
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                  "text": "1980年代後半、山一證券では営業特金と呼ばれる運用預かりが野放図に膨らんだ。社内では担当者の名から永田ファンドと呼ばれていた。企業に転換社債やワラント債を発行させ、その手取り金を預かって運用する取引で、同社は「何パーセントで回します」と利回りを約束した。証券会社が元本と利回りを保証するこの約束は、業界で握りと呼ばれていた。",
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                    {
                      "fact": "吉田允昭の退任後にNファンドと呼ばれる営業特金が野放図に拡大し、企業にファイナンスさせた手取り金を預かって「何パーセントで回します」という握りを行った",
                      "原文": "吉田追放のあとで起きたのがＮファンドと呼ばれる営業特金の野放図な拡大だ。ちょうどバブル期に当たり、企業にファイナンスさせ、手取り金を預かって運用した。この時、「何パーセントで回します」といった握りをやった。",
                      "source": "週刊東洋経済 1997年8月23日号「山一証券危機の構図＜緊急匿名座談会＞ＯＢ・現役が本音を語る」",
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                {
                  "text": "動機は自社の運用力への自信ではなかった。他の三社から預かり資産で離されないために、体力を考えずに約束を重ねたと当時の関係者は振り返っている。1987年の人事抗争で現場に基盤を持つ系統が経営から外れ、社内で異を唱える者がいなくなっていたことも、歯止めが効かなかった理由に挙げられている。相場が崩れると、約束した利回りは出せなくなった。",
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                      "fact": "Ｎファンドの拡大は他の三社から離されないためで、社内にうるさい者がいなくなったためやり放題となり、自主性はゼロで体力を考えずに安易な道を選んだ",
                      "原文": "Ｎファンドだって、他の三社から離されないようにするためだ。社内にうるさい奴がいなくなったため、やり放題だった。しかし、自主性はゼロ、体力を考えずに安易な道を選んだんだ。",
                      "source": "週刊東洋経済 1997年8月23日号「山一証券危機の構図＜緊急匿名座談会＞ＯＢ・現役が本音を語る」",
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                {
                  "text": "1991年、証券業界を揺るがす損失補填問題が表に出た。山一證券は64法人と2個人に対し、総額456億円の損失補填を行っていた。最大の補填先は阪和興業グループであった。同年9月4日、行平次雄社長は参議院の特別委員会で証人喚問を受け、野村・日興の社長が辞任するなかで社長の職にとどまる理由を質されている。失った信頼を取り戻す筋道をつけるまで努力を続けたい、と行平氏は答えた。",
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                    {
                      "fact": "1991年に明らかになった損失補填問題で、山一証券は合計64法人と2個人に対して総額456億円の損失補填を行っており、最大の補填先は阪和興業グループだった",
                      "原文": "そもそも９１年に明らかになった損失補填問題では、山一証券は合計六四法人と二個人に対して総額四五六億円の損失補填を行っていたが、このときも最大の補填先は阪和興業グループだった。",
                      "source": "週刊東洋経済 1997年11月22日号「追跡！「闇取引」の構造 山一証券の疑惑と危機に新事実」",
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                },
                {
                  "text": "社内には、この機に損失をすべて表に出すべきだという声があった。ある元役員によれば、そう進言した副社長がいたが、その副社長は関係会社へ移されたという。飛ばしの処理は企画部という限られた場で進み、専門知識を求められながら全体像には加えてもらえない者もいた。証券不祥事のあと、法律違反を疑って社を離れた人物もいたと伝えられている。",
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                    {
                      "fact": "損失をすべて表に出したほうがいいと進言した副社長がいたが、その副社長は関係会社へ飛ばされたと山一元役員が証言している",
                      "原文": "実はあのとき、損失をすべて表に出したほうがいいと進言した副社長がいたんだ。が、その副社長は関係会社へ飛ばされてしまった。",
                      "source": "週刊東洋経済 1997年12月13日号「山一証券を潰した行平前会長のウソ」",
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                  "text": "飛ばしは、決算期の違う会社の間で含み損のある有価証券を動かす手法であった。3月決算のＡ社が抱える含み損付きの株式を、6月決算のＢ社が簿価のまま引き取る。Ｂ社は帳簿を貸すだけなので、調達コストに1、2%を上乗せした利回りを証券会社に保証してもらい、期末が近づけば証券会社が買い戻して別の会社へ移す。どの会社の期末にも損失が存在しない形が作れた。",
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                    {
                      "fact": "飛ばしは決算期の違う会社の間で期中だけ含み損のある有価証券を持たせる手法で、受け手は帳簿汚し料として調達コストに1〜2%を上乗せした利回りを保証され、期末には証券会社が買い戻して別の会社へ移した",
                      "原文": "つまり、飛ばしとは決算期の違う会社の間で期中だけ取引されているもの。決算期末には存在しないように含み損を文字どおり「飛ばす」手法なのである。",
                      "source": "週刊東洋経済 1997年11月22日号「追跡！「闇取引」の構造 山一証券の疑惑と危機に新事実」",
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                  "text": "1991年12月20日、山一證券はこの手法から一歩進んだ仕組みを動かした。クレディ・スイス信託銀行に開いた特定金銭信託口座で約2000億円の国債を購入し、これを山一エンタープライズの子会社5社に貸し付けて資金を作る。5社は帳簿を持つだけの会社であり、その口座を通じて顧客が抱える含み損付きの有価証券を、時価を上回る価格で買い取った。5社は連結の対象外にあった。",
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                    {
                      "fact": "国内の簿外取引は、クレディ・スイス信託銀行に開設した特金口座を通じて購入した国債約2000億円を山一エンタープライズの子会社5社（ペーパーカンパニー）に貸し付けて資金調達し、その5口座を通じて含み損のある有価証券を顧客から買い取るもので、1991年12月20日に実行された",
                      "原文": "まず国内では、山一がクレディ・スイス信託銀行に開設した特定金銭信託（特金）口座を通じて購入した国債約二〇〇〇億円を、山一グループの山一エンタープライズの子会社（ペーパーカンパニー）五社に貸し付け資金調達し、この五口座を通じて含み損のある有価証券を顧客から買い取るという取引である。",
                      "source": "週刊東洋経済 1997年12月6日号「山一破綻の元凶、「飛ばし」の深層」",
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                  "text": "1992年3月18日、阪和興業の社長室で秘密の会談が開かれた。山一側は行平次雄社長ほか4名、阪和興業側は北茂社長ほか5名が出席している。運用委託額は同年1月末で約1668億円、実損256億円と評価損837億円を合わせて1093億円の損失が出ていた。改正証券取引法の下で損失補填は禁じられていたため、ワラント債の引受と行使によるファイナンス協力で返すことが約束された。",
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                    {
                      "fact": "山一が阪和興業とそのグループ会社から委託を受けていた運用金額は1992年1月末で約1668億円、実損256億円・評価損837億円の合計1093億円の損失が発生しており、営業特金として処理していたため改正証取法下では損失補填ができず、ワラント行使などのファイナンス協力で返済することを確約した",
                      "原文": "山一が委託を受けていた運用金額は９２年１月末で約一六六八億円。このうち、実損二五六億円、評価損八三七億円の合計一〇九三億円の損失を発生させていた。",
                      "source": "週刊東洋経済 1997年11月22日号「追跡！「闇取引」の構造 山一証券の疑惑と危機に新事実」",
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                {
                  "text": "損失は海外にも分散された。のちに公表された簿外債務2648億円のうち、1583億円が国内、1065億円が海外で発生しており、海外分は山一オーストラリアに集まっていた。メキシコ債や利息のみを受け取る住宅ローン担保証券が中心で、為替差損も重なった。処理の全体を知る者は、監査役の木下公明氏と企画担当常務の藤橋忍氏らごく一部に限られていたと伝えられている。",
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                    {
                      "fact": "記者会見で判明した簿外損失2648億円のうち1583億円が国内、1065億円が海外で発生し、海外の簿外含み損は山一オーストラリアに溜まっていた。行平体制下では木下公明監査役や藤橋忍企画担当常務らごく一部の役員によって隠蔽工作が行われ、全容を知る者はほとんどいなかった",
                      "原文": "記者会見で判明した簿外損失二六四八億円のうち、一五八三億円が国内、一〇六五億円が海外で発生している。",
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              "sub_title": "6年後の表面化",
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                  "text": "1997年8月25日、社長に就いて2週間の野澤正平氏が、行平次雄前会長と三木淳夫前社長から簿外債務の存在を知らされた。嘉本隆正常務に社内調査を命じたが、隠蔽に関わった幹部の協力が得られず実態はつかめない。10月6日、判明していた約2600億円をメインバンクの富士銀行へ口頭で報告し、11月24日に自主廃業を決議した。開示の一度の見送りが、会社を畳む規模まで育っていた。",
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                      "原文": "事実、野澤正平社長が簿外含み損の存在を知ったのは８月２５日。社長に就任して二週間後に、行平次雄前会長と三木淳夫前社長から報告を受けていた。",
                      "source": "週刊東洋経済 1997年12月6日号「山一破綻の元凶、「飛ばし」の深層」",
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                {
                  "text": "監督官庁も無縁ではなかった。大蔵省は少なくとも1991年当時から飛ばしの存在を把握していたとされ、それでも徹底した調査を行わなかったと同時代の報道は指摘している。1998年4月に公表された社内調査報告書には、東急百貨店の含み損処理を報告に来た三木淳夫副社長に対し、当時の証券局長が早く解決してほしいと述べたとする証言が記されていた。",
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                      "原文": "大蔵省は少なくとも９１年当時から飛ばしの存在については知っていたと見られる。しかし、徹底した調査をしてこなかった。",
                      "source": "週刊東洋経済 1997年12月13日号「山一証券を潰した行平前会長のウソ」",
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                      "原文": "「松野局長から『山一にすればたいした数字ではない。ひと相場あれば早く解決ですよ。何とか早く解決して下さい』」と言われたというのだ。",
                      "source": "週刊東洋経済 1998年5月2日号「報告書で見せた山一証券最後の良心」",
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              "sub_title": "順位を守るための約束が、会社を越えた",
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                {
                  "text": "預かり資産で他の三社に離されないという理由で、山一證券は自社の運用力を超える利回りを約束した。握りそのものは業界に広がった慣行であり、この会社だけの発明ではない。分岐が生じたのは、相場が崩れて約束が果たせなくなった時点であった。1991年に総額456億円の補填が表に出たとき、業界は一度精算の機会を得ている。そこで残りを出し切らず、決算期の外から連結の外へと置き場所を移した選択が、6年後に2648億円として戻ってきたとみることができる。"
                },
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                  "text": "ただ、これを一部の役員の隠蔽として畳んでしまうと見落とすものがある。大蔵省は1991年当時から飛ばしの存在を把握しながら踏み込まず、証券局長が早期の解決を促したとする証言まで報告書に残った。社内にも損失を出し切るよう進言した副社長がいたが、その人物は関係会社へ移されている。異論を持つ者を現場や関係会社へ出す人事と、監督する側の黙認が重なったところに、数人だけが全体を知る状態が生まれたといえる。"
                }
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            }
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      "references": [
        "週刊東洋経済 1997年8月23日号「山一証券危機の構図＜緊急匿名座談会＞ＯＢ・現役が本音を語る」",
        "週刊東洋経済 1997年11月22日号「追跡！「闇取引」の構造 山一証券の疑惑と危機に新事実」",
        "週刊東洋経済 1997年12月6日号「山一破綻の元凶、「飛ばし」の深層」",
        "週刊東洋経済 1997年12月13日号「山一証券を潰した行平前会長のウソ」",
        "週刊東洋経済 1998年5月2日号「報告書で見せた山一証券最後の良心」"
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      "authored": "2026-07",
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          "label": "概要",
          "text": "1997年11月24日午前6時、山一證券は臨時取締役会で営業停止を決議し、午前11時30分に東京証券取引所で自主廃業を発表した。簿外債務2648億円を含む約3300億円の損失を公表し、翌1998年3月31日に全社員を解雇して101年の営業を終えた。会社更生法の申請は事前相談の段階で道が閉ざされていた。"
        },
        {
          "label": "背景",
          "text": "同年8月に総会屋への利益供与で強制捜査を受け、経営陣11人が退任した。就任2週間後に簿外債務を知らされた野澤正平社長は社内調査を命じたが実態がつかめず、10月に富士銀行へ約2600億円を報告した。11月には三洋証券と北海道拓殖銀行が相次いで破綻していた。"
        },
        {
          "label": "内容",
          "text": "11月19日、長野厖士証券局長が自主廃業の選択を求めた。翌20日に弁護士を東京地裁へ送って会社更生の事前相談を求めたが受け付けられず、裁判官からは非公式に大蔵省の強い協力がないと難しいとの見解が示された。同日、局長は24日に大蔵省から発表すると告げ、これらは内閣の判断であると述べている。"
        },
        {
          "label": "含意",
          "text": "山一證券は債務超過ではなく、1998年3月末の時点でもそうであった。本来、債務超過の証券会社に自主廃業は認められず日銀特融も使えない。その両方の可能性を抱えたまま自主廃業の手順が採られ、日銀の特別融資は1999年に初めて焦げ付いた。"
        }
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        "summary": "簿外債務の発覚で市場からの資金調達と顧客の預かり資産の維持が立たなくなるなか、大蔵省が自主廃業を求め、会社更生の道も閉ざされたため営業停止を決議した"
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          "title": "総会屋への利益供与事件で強制捜査、行平会長・三木社長ら11人が退任し野澤正平氏が社長に就任"
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          "title": "富士銀行へ簿外損失約2600億円を報告、以後株価が急落"
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          "title": "三洋証券が会社更生法を申請し、北海道拓殖銀行が破綻"
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          "title": "臨時取締役会で営業停止を決議し、東京証券取引所で自主廃業を発表",
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          "title": "債権者集会で破産手続が終了し、法人が消滅"
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              "sub_title": "簿外債務を知らされた新社長",
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                {
                  "text": "1997年8月、山一證券は総会屋の小池隆一氏への利益供与をめぐって強制捜査を受けた。8月11日、行平次雄会長と三木淳夫社長ら11人が退任し、野澤正平氏が社長に就いた。行平氏は顧問として社内に残っている。ある幹部は、社長には向かない人物をわざと指名し、何も知らない幹部を新任役員に引き上げて院政を敷いたのではないかと語っていた。",
                  "evidences": [
                    {
                      "fact": "1997年8月11日に行平会長と三木淳夫社長ら副社長以上の代表取締役と一部専務・常務を含む11人の役員が退任し、行平は顧問として居残った",
                      "原文": "そして、８月１１日には、行平会長と三木淳夫社長ら副社長以上の代表取締役と一部専務、常務を含む一一人の役員が退任した。",
                      "source": "週刊東洋経済 1997年12月13日号「山一証券を潰した行平前会長のウソ」",
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                {
                  "text": "野澤氏が簿外債務の存在を知ったのは、就任2週間後の8月25日であった。行平前会長と三木前社長から報告を受け、業務監理を担う嘉本隆正常務に社内調査を命じたが、隠蔽に関わった幹部の協力が得られず実態の把握は難航した。10月6日、判明していた約2600億円をメインバンクの富士銀行へ口頭で伝えている。大蔵省への報告より先であった。",
                  "evidences": [
                    {
                      "fact": "野澤社長は8月25日に簿外含み損の存在を知り、特命を受けた嘉本隆正常務が社内調査を始めたが関わった幹部の協力が得られず難航した。10月6日に富士銀行へ判明分約2600億円を口頭で報告した",
                      "原文": "その後、特命を受けた業務監理担当の嘉本隆正常務が中心となって社内調査を始めたが、実態把握は関わった幹部らの協力が得られず難航した。",
                      "source": "週刊東洋経済 1997年12月6日号「山一破綻の元凶、「飛ばし」の深層」",
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              "sub_title": "相次ぐ破綻と、格下げ",
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                {
                  "text": "市場の側も待たなかった。1997年9月の中間決算で山一證券は大手4社のうち唯一の赤字に転落し、営業は法人部門を含めて実質的に止まっていた。10月中旬以降、株価は出来高を急増させながら急落し、情報漏れとインサイダーの疑いが持たれた。メインバンクの富士銀行も、山一は芙蓉グループではないという立場を示し、全面支援には踏み込まなかった。",
                  "evidences": [
                    {
                      "fact": "1997年9月中間決算で大手4社の中で唯一赤字に転落し、営業も法人を含め実質開店休業状態となっていた。富士銀行は「安田信託は支援するが、山一証券は芙蓉グループではない」として半分見捨てていた",
                      "原文": "確かに、この中間決算では大手四社の中で唯一赤字に転落、株式市場の低迷や１２月にも出る行政処分の影響なども考えると、通期大幅赤字は避けられないどころか、「流動性の問題も出てくる可能性がある」と金融関係者は漏らす。",
                      "source": "週刊東洋経済 1997年11月22日号「追跡！「闇取引」の構造 山一証券の疑惑と危機に新事実」",
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                {
                  "text": "11月3日夜に三洋証券が会社更生法の適用を申請し、17日には北海道拓殖銀行が破綻した。三洋証券の報道を知ったある幹部社員は、次は自社の番だと思ったという。21日金曜の夕方にムーディーズが格下げを発表し、連休明けの資金繰りが立たなくなった。22日の日本経済新聞が自主廃業を報じ、他紙には載っていなかったため、社員は当局が書かせたものと受け取った。",
                  "evidences": [
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                      "fact": "11月3日夜に三洋証券が会社更生法適用を申請したニュースを知った山一の幹部社員は「次はウチの番だ」と思った",
                      "原文": "１１月３日夜、三洋証券が会社更生法適用を申請とのニュースを知った山一のある幹部社員は「次はウチの番だ」と思ったという。",
                      "source": "週刊東洋経済 1997年11月22日号「追跡！「闇取引」の構造 山一証券の疑惑と危機に新事実」",
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                    {
                      "fact": "金曜夕方のムーディーズによる格下げ発表で三連休明けの資金がショートする見通しとなり、翌朝の日経一面に「山一自主廃業」の見出しが出たが他紙には載らず、社員は当局が書かせたと受け取った",
                      "原文": "朝刊が配達された。日経だけの記事で、他紙には載っていない。証券マンの常識として、これは当局が書かせたと直感した。",
                      "source": "週刊東洋経済 1997年12月13日号「いま泣いている暇はない 内側から見た山一証券の崩壊」",
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                {
                  "text": "1997年11月19日午前11時30分、大蔵省で長野厖士証券局長は野澤氏にこう告げた。感情を交えずに淡々と言うが、検討した結果は自主廃業を選択してもらいたい、金融機関としてこんな信用のない会社に免許を与えることはできない、と。野澤氏は「局長、なんとか助けて下さい」と頭を下げた。ただ、その日の午後の役員会でも、自主廃業を迫られていることは伏せられていた。",
                  "evidences": [
                    {
                      "fact": "1997年11月19日午前11時30分、長野証券局長は「検討した結果は自主廃業を選択してもらいたい。社長に決断をしていただきたい。金融機関としてこんな信用のない会社に免許を与えることはできない」と述べ、野澤社長は「局長、なんとか助けて下さい」と頭を下げた",
                      "原文": "「１１月１９日（水）午前１１時３０分。大蔵省。長野証券局長は『感情を交えずにタンタンと言います。検討した結果は自主廃業を選択してもらいたい。社長に決断をしていただきたい。金融機関としてこんな信用のない会社に免許を与えることはできない。行平さんはどう考えていたのか、伺いたいくらいだ』……野澤社長は『局長、なんとか助けて下さい』と訴え、頭を下げた」",
                      "source": "山一證券社内調査委員会 簿外債務の調査報告書（1998年4月16日公表）",
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                {
                  "text": "翌20日、会社は弁護士を東京地裁へ送り、会社更生について事前の相談に乗ってもらおうとした。相談は受け付けられず、裁判官から非公式に、大蔵省の強い協力がないと難しいという見解が示された。同日午前10時45分、長野局長は24日に大蔵省から発表するので準備をせよと求め、顧客の資産払い戻しには大蔵省主導で特別の金融措置をとると述べ、これらのことは内閣の判断であると告げている。",
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                      "fact": "11月20日に弁護士を東京地裁へ送って会社更生の事前相談を求めたが受け付けられず、裁判官から非公式に「大蔵省の強い協力がないと難しい」との見解が述べられた。同日午前10時45分、長野証券局長は24日に大蔵省から発表するので準備をしてくれと求め、顧客資産の払い戻し資金は大蔵省主導で特別の金融措置をとるつもりであり、これらのことは内閣の判断であると述べた",
                      "原文": "「これに対し『相談は受け付けられない』との回答。なお、裁判官から非公式に…『大蔵省の強い協力がないと難しい』…との見解が述べられた」「午前１０時４５分、大蔵省。長野証券局長『……２４日にも大蔵省から発表するので準備をしてくれ。顧客の資産払い戻し資金については、大蔵省主導で特別の金融措置をとるつもりである。これらのことは内閣の判断です』」",
                      "source": "山一證券社内調査委員会 簿外債務の調査報告書（1998年4月16日公表）",
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              "sub_title": "11月24日の決議",
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                  "text": "11月24日午前6時、臨時取締役会が営業停止を決議した。午前11時30分、東京証券取引所での記者会見で野澤氏は男泣きしながら「社員は悪くありません」と訴えた。公表された損失は約3300億円で、うち簿外債務が2648億円、保有有価証券の含み損が約300億円、関係会社への貸付金に伴う損失が約200億円、10月以降の赤字が約100億円であった。株価は102円で終わった。",
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                    {
                      "fact": "記者会見で判明した損失予想額は全部で約3300億円で、内訳は簿外債務に伴う含み損失2648億円、保有有価証券の含み損約300億円、関係会社の貸付金に伴う損失約200億円、10月以降に発生している赤字額約100億円である",
                      "原文": "記者会見などで判明している損失予想額は全部で約三三〇〇億円。内訳は簿外債務に伴う含み損失が二六四八億円。保有有価証券の含み損が約三〇〇億円、関係会社の貸付金に伴う損失が約二〇〇億円、１０月以降に発生している赤字額約一〇〇億円である。",
                      "source": "週刊東洋経済 1997年12月6日号「山一破綻の元凶、「飛ばし」の深層」",
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                },
                {
                  "text": "会社更生を目指したが断念したという説明は、社内でも納得を得られなかった。会社の規模を考えると金融市場に大きな混乱が生じると予測され、顧客や取引先に多大な迷惑がかかる、という理由づけについて、ある社員は役人の言葉のようで説得力がないと書き残している。「自主」廃業ではないのだろう、というのがその受け取り方であった。",
                  "evidences": [
                    {
                      "fact": "会社更生を目指したが断念した理由として示された「当社の会社規模を考えますと、金融市場に大きな混乱が生じると予測され、お客様や取引先に多大の迷惑がかかる」という説明は、社員には役人の言葉のようで説得力がないと受け取られた",
                      "原文": "断念の理由として「当社の会社規模を考えますと、金融市場に大きな混乱が生じると予測され、お客様や取引先に多大の迷惑がかかる……」という説明は、役人の言葉のようで説得力がない。本人自身も納得していないのではないか。「自主」廃業ではないのだろう。",
                      "source": "週刊東洋経済 1997年12月13日号「いま泣いている暇はない 内側から見た山一証券の崩壊」",
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                {
                  "text": "1998年3月31日、山一證券は全社員を解雇して営業を停止した。創業から101年であった。顧客資産の払い戻しには、予告どおり大蔵省主導の特別な金融措置が採られている。4月16日、社内調査委員会が簿外債務の調査報告書を公表した。嘉本隆正氏を委員長に弁護士を加えた9人が約4か月をかけ、100人を超える関係者から聴取したものであった。",
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                      "fact": "山一証券は1998年3月31日をもって全社員を解雇し、すべての営業を停止して101年の歴史に幕を下ろした。報告書は昨年12月下旬から4か月近くをかけ、弁護士を加えた9人の社内調査委員会が作成し、聴取した関係者は100人を超えた",
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                },
                {
                  "text": "報告書は冒頭で、自ら行った事実認定を示さず抽象的な反省の言葉を並べただけの報告書であってはならないと記した。日本経済新聞はこれを歴史的資料として日本の企業史に残ると紹介している。嘉本氏は聴取を振り返り、誰も自分の責任とは言わないので、では山一の消滅は自然現象なのかと怒鳴ったことがあると述べた。会社は1999年6月2日に破産宣告を受け、日本銀行の特別融資は初めて焦げ付いた。",
                  "evidences": [
                    {
                      "fact": "報告書は「従来、我が国で多く見られた結果の公表を伴わない調査、あるいは、自ら行った事実認定を示さず単に抽象的な“反省”の言葉を並べただけの報告書であってはならない」と記し、日本経済新聞は「歴史的資料として日本の企業史に残る」と評した。嘉本委員長は誰も自分の責任とは言わないため「じゃあ、山一の消滅は自然現象なのか」と怒鳴ったことがあると述べた",
                      "原文": "続けて決意をこう記す。「今回公表する社内報告書が、従来、我が国で多く見られた結果の公表を伴わない調査、あるいは、自ら行った事実認定を示さず単に抽象的な“反省”の言葉を並べただけの報告書であってはならない」と。",
                      "source": "週刊東洋経済 1998年5月2日号「報告書で見せた山一証券最後の良心」",
                      "url": null
                    },
                    {
                      "fact": "自己破産すら容易でない山一証券の最終処理が前代未聞の作業となり、日銀特融の初の焦げ付きも生じる見通しとなった",
                      "原文": "前代未聞自己破産すら容易でない山一証券の最終処理日銀特融初の焦げ付きも",
                      "source": "週刊東洋経済 1999年5月22日号「前代未聞 自己破産すら容易でない山一証券の最終処理」",
                      "url": null
                    }
                  ]
                }
              ]
            },
            {
              "sub_title": "市場の判定ではなく、行政の判断として",
              "editorial": true,
              "paragraphs": [
                {
                  "text": "山一證券は債務超過ではなかった。1998年3月末の時点でもそうであったと関係者は述べている。ここに手続き上の捻れがある。債務超過の証券会社には自主廃業が認められず日銀特融も使えないし、刑事事件になれば特融は実施できない。その両方の可能性を抱えた会社に、大蔵省は自主廃業という手順を選ばせた。長野厖士証券局長は報告書公表後、橋本龍太郎首相と三塚博蔵相の指示があったと述べ、核心については国家機密に関することだと答えている。市場が引導を渡したというより、行政の判断として下りてきたとみることができる。"
                },
                {
                  "text": "もっとも、この手順が誰の利益にもならなかったとはいえない。顧客の資産払い戻しには大蔵省主導の特別な金融措置が採られ、預けた側の損失は避けられた。会社更生に進んだ場合に同じ保護が働いたかは分からない。ただ、その代償として日本銀行の特別融資は1999年に初めて焦げ付き、破産手続の終了は2005年まで7年を要した。1965年に同じ制度で救われた会社が、二度目にはその制度を毀損して消えたことになる。"
                }
              ]
            }
          ]
        }
      ],
      "references": [
        "週刊東洋経済 1997年11月22日号「追跡！「闇取引」の構造 山一証券の疑惑と危機に新事実」",
        "週刊東洋経済 1997年12月6日号「山一破綻の元凶、「飛ばし」の深層」",
        "週刊東洋経済 1997年12月13日号「山一証券を潰した行平前会長のウソ」",
        "週刊東洋経済 1997年12月13日号「いま泣いている暇はない 内側から見た山一証券の崩壊」",
        "週刊東洋経済 1998年5月2日号「報告書で見せた山一証券最後の良心」",
        "週刊東洋経済 1999年5月22日号「前代未聞 自己破産すら容易でない山一証券の最終処理」",
        "山一證券社内調査委員会 簿外債務の調査報告書（1998年4月16日公表）"
      ],
      "authored": "2026-07",
      "last_updated": "2026-07-25"
    }
  ]
}
