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      "title": "日本興業銀行法の廃止に伴う普通銀行への転換と、長期信用銀行への移行",
      "subtitle": "預金を持たずに長期金融を続けるか、都市銀行と同じ商売へ移るか——特殊銀行の看板を外された興銀の選択",
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      "issue": "業態と資金調達",
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      "highlights": [
        {
          "label": "概要",
          "text": "1950年4月に日本興業銀行法が廃止されて普通銀行となった日本興業銀行が、債券発行による長期資金の供給という業務を変えず、1952年12月の長期信用銀行法の施行で長期信用銀行へ移った判断。"
        },
        {
          "label": "背景",
          "text": "戦時補償の打切りで発行済み興業債券の八割を切り捨てた興銀は、1948年に再建整備を終えて債券発行による長期金融機関として再発足した。GHQは銀行をすべて商業銀行にする方針を掲げ、特殊銀行制度そのものが廃絶された。"
        },
        {
          "label": "内容",
          "text": "1950年3月の日本興業銀行法廃止で普通銀行となり、見返資金引受による優先株10億円の発行で資本金は20億円となった。行内の商業銀行転換論や日本勧業銀行との合併案を退け、債券発行による長期資金の供給を続けた。1951年7月に増資して債券発行限度を広げ、1952年12月の長期信用銀行法でその機能が制度として据えられた。"
        },
        {
          "label": "含意",
          "text": "判断の中身は、業態を変えなかったことにある。預金を持たず金融債の消化に依存する調達構造はここで固まり、1955年3月末には預金465億円に対して債券発行額1587億円となった。資金不足という制度の前提は1970年代半ばに崩れた。"
        }
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          "name": "日本興業銀行",
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            "note": "1902年に日本興業銀行法で設立された特殊銀行。戦時には重化学工業への融資で設備資金供給の中心を占め、戦後は債券発行による長期金融機関として再建された"
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          "title": "戦時補償の打切りが決定（五大銀行と興銀の貸出のうち補償依存分は八割超）"
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          "title": "GHQのマーカット経済科学局長が債券発行銀行としての再建計画書を承認"
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          "title": "資本金5億円へ増資し、債券発行による長期金融機関として再発足"
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          "title": "「銀行等の債券発行等に関する法律」が公布施行され、日本興業銀行法が廃止"
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          "title": "普通銀行へ転換。見返資金引受で優先株10億円を発行し資本金20億円へ"
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          "title": "10億円を増資して債券発行の限度を拡張"
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          "title": "債券発行額1587億円・預金465億円・貸出2049億円（設備資金62%）"
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      "snapshot": {
        "fiscal_year": "1955年3月末",
        "source": "会社銀行八十年史（東洋経済新報社、1955年）「日本興業銀行」",
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            "name": "日本興業銀行",
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            "president": "川北禎一",
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              "sub_title": "戦時補償の打切りと再建整備",
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                {
                  "text": "敗戦とインフレは銀行にも打撃を与えた。とりわけ重かったのは戦時補償の打切りだった。帝国・三菱・安田・住友・三和の五大銀行と興銀を合わせて、貸出のうち補償をあてにしたものは八割を超え、打切り額全体の七割を上回った。興銀の損失は膨大な額に達し、発行済みの興業債券の八割を切り捨てた。戦争中に興業債券の引受へ協力を求められていた地方銀行や貯蓄銀行も、そのあおりを受けた。",
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                    {
                      "fact": "五大銀行と興銀の貸出のうち補償をあてにしたものは八割超で、補償打切り額全体の七割を上回った",
                      "原文": "「帝国」「三菱」「安田」「住友」「三和」の五大銀行と「興銀」を含めて、その貸し出しのうち補償をあてにしたものは八〇%を超え、補償打切り額全体の七〇%を上回るほどの大きさだった。",
                      "source": "日本産業史 第2巻（日本経済新聞社、1994年）「銀行－日銀の威力高まる」",
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                    {
                      "fact": "興銀は発行債券の八割を切り捨て、興業債券を引き受けていた地方銀行・貯蓄銀行もあおりを受けた",
                      "原文": "興銀の損失が膨大な額に上り、発行債券の八〇%を切り捨てることになったため、戦争中興業債券引き受けに協力を求められた地方銀行、貯蓄銀行があおりを受けないわけにはいかなかった。",
                      "source": "日本産業史 第2巻（日本経済新聞社、1994年）「銀行－日銀の威力高まる」",
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                {
                  "text": "1948年3月、興銀は金融機関再建整備法に基づいて政府補償打切りによる特別損失を整理し、同年12月に資本金を5億円へ増資して、債券発行による長期金融機関として再発足した。再建整備は1949年1月に完了した。同年9月には興業債券の発行も復活したが、旧勘定として棚上げされた債券を多く持つほど地方銀行の支払準備は削られるという事情があり、進んで引き受けてもらえる筋合いのものではなかった。",
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                      "fact": "1948年3月に金融機関再建整備法で特別損失を整理し、同年12月に資本金5億円へ増資して債券発行による長期金融機関として再発足した",
                      "原文": "二十三年三月金融機関再建整備法に基づき、政府補償打切りによる特別損失を整理するとともに、同年十二月五億円に増資し、債券発行による長期金融機関として再発足した。",
                      "source": "会社銀行八十年史（東洋経済新報社、1955年）「日本興業銀行」",
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                      "fact": "1949年9月に興業債券の発行が復活したが、旧勘定として棚上げされた経緯から地方銀行に進んで引き受けてもらえるものではなかった",
                      "原文": "さらに同年九月には興業債券の発行が復活した。これは自力更生であったけれども、地方銀行などに進んで引き受けてもらえる筋合いのものではなかった。というのは、戦後の金融機関再建整備に当たって、興業債券はいわゆる「旧勘定」としてにわかにタナ上げされることになったため、それを多額に持っていればいるほど、地方銀行その他の金融機関にとって、支払い準備がそれだけ削り取られ、預金の払い出しにも応じられなくなるといういきさつがあったからである。",
                      "source": "私の履歴書 経済人16「日高輝」（日本経済新聞社、1981年）",
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                {
                  "text": "占領当局の立場は明快であった。銀行はすべて商業銀行であるべきであり、長期資金は証券市場でまかなうべきだというのがGHQの方針である。特殊銀行制度そのものが廃絶され、債券を発行してきた日本勧業銀行と北海道拓殖銀行は、債券発行をやめて普通銀行となった。戦時中からすでに普通銀行の要素を高めていた両行と違い、債券発行を柱としてきた興銀は、閉鎖を命ぜられかねない位置に立たされた。",
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                      "fact": "GHQは銀行をすべて商業銀行とし、長期資金は証券市場でまかなうべきだという方針を取っていた",
                      "原文": "興業銀行だけはあくまでも債券発行による長期金融機関として存続することに熱意をもやしていた。そのためには占領下GHQの承認が絶対必要だったが、GHQは「銀行はすべて商業銀行であるべきであり、長期資金は証券市場でまかなうべきだ」という方針だった。",
                      "source": "日本産業史 第2巻（日本経済新聞社、1994年）「銀行－日銀の威力高まる」",
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                      "原文": "「日本興業」「日本勧業」「北海道拓殖」の三行は債券を発行する特殊銀行だったが、占領当局の方針で特殊銀行制度が廃絶され、すでに戦時中普通銀行の要素を高めていた日本勧業、北海道拓殖は債券発行をやめて普通銀行となり、日本興業だけは新設の「日本長期信用」(二十七年十二月設立)、「日本不動産」(三十一年三月設立)と同種の長期信用銀行として債券発行を続けることになった。",
                      "source": "日本産業史 第2巻（日本経済新聞社、1994年）「銀行－日銀の威力高まる」",
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                {
                  "text": "GHQが迫ったのは二者択一であった。Aは商業銀行、Bは銀行ではない債券発行会社という選択で、金融債を発行する銀行として生きる道は占領政策から外されていた。二宮善基副総裁と中山素平理事を中心に交渉が続き、数日中に回答をという要請は引き延ばしでかわされた。他行の再建整備が済む1948年秋になってGHQに定見のないことが分かると、興銀側はマーカット経済科学局長に直談判する。同年11月、債券発行銀行としての再建計画書が承認された。",
                  "evidences": [
                    {
                      "fact": "GHQは商業銀行（A）か銀行ではない債券発行会社（B）かの二者択一を迫り、金融債発行銀行として存続する道は占領政策から外されていた",
                      "原文": "そのヤマ場はGHQから「AorB」の選択を迫られたときである。Aは商業銀行であり、Bは債券発行会社で銀行ではない。従来通り金融債発行銀行として生きる道は、GHQの\"占領政策のノート\"からまっ殺されていたのは、このことからもうかがえる。",
                      "source": "私の履歴書 経済人16「日高輝」（日本経済新聞社、1981年）",
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                      "fact": "1948年秋にGHQへ直談判して存続の基本方針を認められ、同年11月にマーカット少将が債券発行銀行としての再建計画書を承認した",
                      "原文": "興業銀行は承認を得るために力の限りを尽くしたが、二十三年十月、他の銀行の再建整備が済むころになって、GHQにはまだ定見がないことがわかり、興銀の岸総裁、中山理事らが経済科学局長マーカット少将にじか談判しようやく存続の基本方針を認められた。",
                      "source": "日本産業史 第2巻（日本経済新聞社、1994年）「銀行－日銀の威力高まる」",
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          "label": "決断",
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              "sub_title": "特殊銀行の看板が外れた1950年4月",
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                {
                  "text": "1949年9月に資本金を10億円としたのち、1950年3月に「銀行等の債券発行等に関する法律」が公布施行され、あわせて日本興業銀行法が廃止された。1902年の設立以来の根拠法を失った興銀は、同年4月に普通銀行となる。見返資金の引受によって優先株10億円を発行し、資本金は20億円となった。同年10月には甲種外国為替銀行の指定も受けている。制度のうえでは、都市銀行と横並びに置かれた。",
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                    {
                      "fact": "1950年3月に「銀行等の債券発行等に関する法律」が公布施行され日本興業銀行法が廃止、同年4月に普通銀行となり優先株10億円の発行で資本金20億円、10月に甲種外国為替銀行の指定を受けた",
                      "原文": "爾来業務は順調に進展して債券発行高も貸出額もともに伸張を示し、二十四年九月資本金十億円となつたが、二十五年三月長期資金対策の一つとして「銀行等の債券発行等に関する法律」が公布施行され、かつ「日本興業銀行法」が廃止されたので、同年四月普通銀行となるとともに見返資金引受によつて優先株十億円を発行、資本金二十億円となり、同年十月には甲種外国為替銀行の指定を受けた。",
                      "source": "会社銀行八十年史（東洋経済新報社、1955年）「日本興業銀行」",
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                {
                  "text": "普通銀行への転換が決まる前から、行内には商業銀行へ移るべきだという意見があった。神奈川県鵠沼の社寮に幹部が集まった協議では、一握りの支店しか持たない興銀が全国へ支店網をどう配置するかまで検討され、日本勧業銀行との合併も議題に上っている。合併すれば興銀が吸収されることは見えていたが、それでも構わないという声まで出た。二宮副総裁はこれらを退け、進むべき道を「AでもBでもない道」と呼んだ。",
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                      "fact": "行内には商業銀行になるべきだという意見があり、全国の支店網配置や日本勧業銀行との合併も検討されたが、二宮善基副総裁は「AでもBでもない道」を選んだ",
                      "原文": "中には商業銀行になるべきだという意見もあった。そのために一握りの支店しか持っていない興銀として、全国に支店網をどのように配置するかも検討した。一方で日本勧業銀行との合併についても協議した。勧・興合併となれば終戦処理の建前から興銀が吸収されることは目に見えている。「それだって結構。鬼にのみ込まれた一寸法師のようにやればいい。あの気概で行こう」というのである。だが、二宮副総裁はこれを「AでもBでもない道」と言った。",
                      "source": "私の履歴書 経済人16「日高輝」（日本経済新聞社、1981年）",
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              "sub_title": "業態を変えないという選択",
              "paragraphs": [
                {
                  "text": "普通銀行へ移ったあとも、興銀は債券発行によって諸産業に長期の事業資金を供給することを主要業務として続けた。1950年4月には総裁を頭取、理事を取締役へと役員の職名も改め、外形は普通銀行にそろえている。1951年7月には10億円を増資して債券発行の限度を広げた。法律上の看板は普通銀行に変わったが、資金の集め方と貸し方は特殊銀行の時代のまま据え置かれた。",
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                      "原文": "普通銀行移行後も従来どおり債券発行により諸産業に対する長期事業資金を供給することを主要業務とし、二十六年七月十億円を増資して債券発行限度を拡張した。",
                      "source": "会社銀行八十年史（東洋経済新報社、1955年）「日本興業銀行」",
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                      "原文": "興銀は二十五年四月、総裁↓頭取、理事↓取締役というように役員の職名を変更、二十七年十二月には「長期信用銀行法」による長期信用銀行に転化した。",
                      "source": "私の履歴書 経済人16「日高輝」（日本経済新聞社、1981年）",
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                {
                  "text": "1952年12月、長期信用銀行法の施行によって、興銀が続けてきた金融の機能が制度として据えられた。同法のもとで興銀は民間の長期金融機構の中核となり、当時もっとも急がれた長期事業資金の融通にあたる。同じ月には日本長期信用銀行が設立され、1956年3月には日本不動産銀行も加わった。2年8カ月にわたり普通銀行の看板のまま長期金融を続けた実務に、法律の側が後から合わせた。",
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                      "fact": "1952年12月の長期信用銀行法施行により在来の金融的機能が制度化され、民間の長期金融機構の中核となった",
                      "原文": "二十七年十二月「長期信用銀行法」の施行により当行在来の金融的機能が制度化され当行は民間の長期金融機構の中核としてその本来の機能を十二分に発揮しうることとなり、現下最緊要の長期事業資金融通に一段の努力を傾けている。",
                      "source": "会社銀行八十年史（東洋経済新報社、1955年）「日本興業銀行」",
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                      "原文": "日本興業だけは新設の「日本長期信用」(二十七年十二月設立)、「日本不動産」(三十一年三月設立)と同種の長期信用銀行として債券発行を続けることになった。",
                      "source": "日本産業史 第2巻（日本経済新聞社、1994年）「銀行－日銀の威力高まる」",
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                  "text": "1955年3月末の興銀は、債券発行額1587億円、預金465億円、貸出2049億円という残高を抱えていた。貸出のうち62%が設備資金、38%が運転資金である。資本金は優先株を数回にわたって償却した結果22億9000万円となり、頭取は川北禎一氏が務めていた。預金の3倍を超える債券で資金を集め、その過半を設備資金へ回す銀行の姿が、ここで数字として現れている。",
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                    {
                      "fact": "1955年3月末の債券発行額1587億円・預金465億円・貸出2049億円（設備資金62%・運転資金38%）、資本金22億9000万円、頭取は川北禎一",
                      "原文": "三十年三月末現在の債券発行額一千五百八十七億円、預金四百六十五億円、貸出二千四十九億円で、貸出のうち六二%が設備資金、三八%が運転資金である。なお資本金は数回の優先株償却により、三十年三月には二十二億九千万円となつた。",
                      "source": "会社銀行八十年史（東洋経済新報社、1955年）「日本興業銀行」",
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                  "text": "長期資金を供給する担い手は、興銀だけではなかった。1951年に日本開発銀行と日本輸出銀行、1953年に中小企業金融公庫と農林漁業金融公庫が相次いで設立され、政府の金融機関が長期資金の供給に加わる。民間でも、戦前は分業が確立していた金融機関の機能が戦後は近づき、どの金融機関も銀行と似た業務を営むに至った。都市銀行は日銀信用に支えられて力を蓄え、金融機関の間の競争は激しさを増した。",
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                      "原文": "その間別に長期資金供給機関として「日本開発銀行」(昭和二十六年)、「中小企業金融公庫」(同二十八年)、「農林漁業金融公庫」(同二十八年)が続々と設立され、また貿易金融を援助するため「日本輸出入銀行」も設立された(二十六年「輸出銀行」として設立、のち改組)。",
                      "source": "日本産業史 第2巻（日本経済新聞社、1994年）「銀行－日銀の威力高まる」",
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                      "原文": "こうして戦前の金融機関の機能には分業が確立していたが、戦後はどの金融機関も銀行と同じような機能を持つようになり、金融機関の間に激しい競争が展開されることになった。",
                      "source": "日本産業史 第2巻（日本経済新聞社、1994年）「銀行－日銀の威力高まる」",
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              "sub_title": "預金を持たない銀行という構造",
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                {
                  "text": "預金を持たない銀行にとって、金融債を誰に持ってもらうかは経営そのものであった。再建整備で興業債券が旧勘定として棚上げされた経緯があり、地方銀行にとっては保有するほど支払準備が削られる債券でもある。1950年9月にジェーン台風が近畿を直撃した際、大阪支店長だった日高輝氏は大蔵省資金運用部による興業債券の引受を働きかけ、戦後初めてこれを実現させた。調達した一億数千万円は災害復旧の資金に回った。",
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                    {
                      "fact": "1950年9月のジェーン台風を機に、戦後初めて大蔵省資金運用部資金による興業債券の引受が実現し、一億数千万円が災害復旧に充てられた",
                      "原文": "これが発端になって、戦後初めて資金運用部資金による興業債券の引き受けが実現し、そのころのカネで一億数千万円の大金をあげて災害復旧に当てることができた。これを契機に興銀が国民経済的に機能する大切な銀行であることが、関西方面でも理解されるようになった。",
                      "source": "私の履歴書 経済人16「日高輝」（日本経済新聞社、1981年）",
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                {
                  "text": "この制度が何を前提としていたかは、のちの頭取の言葉が端的に示している。西村正雄頭取は1999年に、長期信用銀行制度を戦後の資金不足の時代に産業の育成のため長期の設備資金を供給するのが目的であったと振り返った。その前提は1970年代半ばに崩れ、資金は余剰へ転じて商業銀行も長期資金を供給する。1998年に日本長期信用銀行と日本債券信用銀行が破綻したとき、長期信用銀行という業態そのものへの疑いが表に出た。",
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                      "fact": "長信銀制度は1952年にでき、戦後の資金不足の時代に産業育成のため長期の設備資金を供給するのが目的だったが、1970年代半ばから資金は余剰へ転じた",
                      "原文": "長信銀制度自体の役割が時代に適合しなくなってきているという面はある。１９５２（昭和２７）年にできた制度であり、戦後、資金が不足していた時代に、産業の育成のため長期の設備資金を供給していくのが目的だった。しかし、７０年代半ばごろから資金はむしろ余剰時代に変わってきた。長期資金を長信銀あるいは信託銀行だけが供給するのでなく、一般の商業銀行も供給するようになった。",
                      "source": "週刊東洋経済 1999年1月23日号「特集 興銀「非常事態」インタビュー 日本興業銀行頭取 西村正雄」",
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                      "原文": "昨年、長銀と日債銀が破綻しました。長期信用銀行そのものの役目は終わったといわれていますが、興銀は大丈夫なのかという声もあります。",
                      "source": "週刊東洋経済 1999年1月23日号「特集 興銀「非常事態」インタビュー 日本興業銀行頭取 西村正雄」",
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                  "text": "1950年4月、日本興業銀行法は廃止され、興銀は制度のうえで普通銀行になった。特殊銀行の看板を外された以上、預金を集めて都市銀行と同じ商売へ移る道はあった。行内でも支店網の配置や日本勧業銀行との合併が検討されている。それでも興銀は、債券で集めて設備資金を貸すという中身を動かさなかった。1952年12月の長期信用銀行法は、二宮善基副総裁の言う「AでもBでもない道」を2年8カ月続けた実務を、法律の側から追認した。"
                },
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                  "text": "代償として、調達手段の狭さが残った。1955年3月末の預金465億円に対し、債券発行額は1587億円にのぼる。旧勘定として棚上げされた記憶の残る地方銀行に引受を頼み、災害復旧を機に資金運用部へ働きかけるといった消化の努力が、絶えず要った。資金不足という前提が続くかぎり、この構造は制度と噛み合う。西村正雄頭取が振り返るとおり、その前提のほうが1970年代半ばに先に消えた。制度が長く残ったことは、この判断の正しさを証明しない。1998年に長銀と日債銀が破綻したとき、疑われたのは個々の融資ではなく、金融債で集めて長期に貸すという仕組みだった。"
                }
              ]
            }
          ]
        }
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      "references": [
        "会社銀行八十年史（東洋経済新報社、1955年）「日本興業銀行」",
        "日本産業史 第2巻（日本経済新聞社、1994年）「銀行－日銀の威力高まる」",
        "私の履歴書 経済人16「日高輝」（日本経済新聞社、1981年）",
        "週刊東洋経済 1999年1月23日号「特集 興銀「非常事態」インタビュー 日本興業銀行頭取 西村正雄」"
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          "text": "1965年、証券不況で資金繰りが行き詰まった山一証券に対し、日本興業銀行は頭取の中山素平氏の主導で、興銀出身で日産化学工業社長の日高輝氏を社長に送り込み、富士銀行・三菱銀行とともに主力3行として再建を引き受けた。5月28日夜の日銀氷川寮での会談を経て日銀法第25条の特別融資が発動された。"
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                  "text": "1960年代前半の株式市場は、増資の急増で需給が崩れていた。1961年の増資額は額面金額ベースで6738億円と前年の3472億円から倍近くに膨らみ、株価が下降に転じた1962年も6002億円の高い水準を保った。膨れあがった株式を吸収したのは投資信託で、その組み入れ株式の時価総額は全上場株式の1割前後を占めた。東証修正平均は1961年7月18日の1829.74円を頂に、ほぼ一貫して下げ続けた。",
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                      "fact": "1961年の増資額は6738億円（前年3472億円）、1962年も6002億円。投信の組み入れ株式は全上場株式の時価総額の1割前後で、東証修正平均は1961年7月18日の1829.74円をピークに下落した",
                      "原文": "例えば昭和三十六年の増資額は額面金額ベースで六七三八億円(三十五年は三四七二億円)に達し、株価が下降に転じた三十七年も六〇〇二億円と高水準を持続した。〜投資信託は資産の八割前後を株式に回し、組み入れ株式の時価総額は、全上場株式の時価総額の一〇%前後に達していた。まさに「池の中の鯨」だったのである。",
                      "source": "日本産業史 第3巻（日本経済新聞社、1994年）「証券－証券恐慌乗り越え土台固め」",
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                },
                {
                  "text": "株価を支える機関が相次いでつくられた。1964年1月には余剰株式の凍結機関として、都市銀行・生命保険会社・証券会社などの出資で日本共同証券が設立され、ダウ1200円防衛と呼ばれた買い支えが連日繰り広げられた。1965年1月には証券会社を組合員とする日本証券保有組合が発足し、投信と証券会社の手持ち株について各銘柄の1割ずつが棚上げされた。それでも市況は戻らず、東証修正平均は同年7月12日に1020.49円まで沈み、ピークを44%下回った。",
                  "evidences": [
                    {
                      "fact": "1964年1月に日本共同証券（都銀・生保・証券会社などが出資）、1965年1月に日本証券保有組合が設立されたが、東証修正平均は1965年7月12日に1020.49円まで下げ、ピークを44%下回った",
                      "原文": "余剰株式の凍結機関として三十九年一月日本共同証券(都銀、生保、証券会社などが出資)、四十年一月には日本証券保有組合(証券会社が組合員)が設立されたが、株価の下落に歯止めがかからず、四十年七月十二日の一〇二〇・四九円まで下げた。ピークを四四%下回る水準である。",
                      "source": "日本産業史 第3巻（日本経済新聞社、1994年）「証券－証券恐慌乗り越え土台固め」",
                      "url": null
                    },
                    {
                      "fact": "日高輝氏の山一社長就任と前後してダウ1200円防衛が叫ばれ、日本共同証券による株価のテコ入れが連日行われ、翌1965年1月には日本証券保有組合が発足して各銘柄の1割ずつが棚上げされた",
                      "原文": "私の社長就任と前後して、ダウ千二百円防衛が叫ばれ、日本共同証券による株価のテコ入れが連日繰り広げられた。その翌年、四十年一月には証券業界による株式凍結機関としての日本証券保有組合が発足し、投信委託と証券会社手持ちの株式について、各銘柄の一割ずつがタナ上げされた。",
                      "source": "私の履歴書 経済人16（日本経済新聞社、1981年）「日高輝」",
                      "url": null
                    }
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              ]
            },
            {
              "sub_title": "「法人の山一」の内実と運用預かり",
              "paragraphs": [
                {
                  "text": "大手証券の一角を占めた山一証券は、1964年9月期に34億円余の欠損を計上した。無理な営業がたたり、実際の赤字はこの数倍あるとみられていた。1965年3月末の借入金は長短合わせて725億円、借入有価証券は853億円にのぼる。2月から4月まで毎月3億円の赤字が出て、金利負担だけで月におよそ2億円かかっていた。証券会社は資金が絶えず回り続けるため、気づいたときには赤信号であった、と日高輝氏は後に書いている。",
                  "evidences": [
                    {
                      "fact": "山一証券は1964年9月期に34億円余の欠損を計上し、1965年3月末の借入金は長短合わせて725億円、借入有価証券は853億円、2〜4月は毎月3億円の赤字、金利負担は月約2億円だった",
                      "原文": "山一証券は三十九年九月期に三四億円余の欠損を計上したが、無理な営業がたたり実際の赤字はこの数倍はあるとみられていた。〜四十年三月末の借入金は、長短合わせて七二五億円、借入有価証券は八五三億円にのぼり、二-四月でみると、毎月三億円の赤字を計上していた。金利負担は月間約二億円。",
                      "source": "日本産業史 第3巻（日本経済新聞社、1994年）「証券－証券恐慌乗り越え土台固め」",
                      "url": null
                    },
                    {
                      "fact": "製造業と違い証券業では資金が回り続けるため、赤字に気づいたときにはすでに手遅れになると日高輝氏は記している",
                      "原文": "赤字が企業の財務体質を悪化させるのは同じことでも、製造業であればカネの流れがすぐ回らなくなるから注意信号に気づく。証券界ではカネの流れが絶えず回り続けるから、気づいたときには赤信号である。",
                      "source": "私の履歴書 経済人16（日本経済新聞社、1981年）「日高輝」",
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                  ]
                },
                {
                  "text": "山一の資金繰りを縛っていたのは運用預かりであった。顧客から主に割引金融債を預かり料を払って借り入れ、それを担保に銀行から融資を受ける仕組みで、当時の証券会社はこれに大きく頼っていた。1964年9月期末の純財産額70億円に対し、運用預かりは477億円に達していた。解約は即座に資金繰りを圧迫し、他の証券会社や銀行へも波及しかねない。この構造があったから、興銀・富士銀行・三菱銀行の主力3行は金利棚上げなどの支援策を検討していた。",
                  "evidences": [
                    {
                      "fact": "運用預かりは1964年9月期末で477億円（純財産額70億円）に達し、解約は資金繰りを直撃して他社・銀行へ波及しかねなかった。興銀・富士・三菱の主力3行は金利棚上げなどの支援策を検討していた",
                      "原文": "五月二十六日の衆院予算委員会で明らかにされたところによると、三十九年九月期末で山一証券の純財産額は七〇億円、これに対し運用預かりは四七七億円だった。〜運用預かりの解約はただちに証券会社の資金繰りを圧迫する。しかもそれは他の証券会社にも波及し、ひいては銀行にも影響が及ぶ可能性があった。〜こうしたなかで興銀、富士、三菱の主力取引銀行三行は金利棚上げなどの支援策、山一は新経営陣のもとで経営立て直し策を検討していた",
                      "source": "日本産業史 第3巻（日本経済新聞社、1994年）「証券－証券恐慌乗り越え土台固め」",
                      "url": null
                    }
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          ]
        },
        {
          "section": "origin",
          "label": "決断",
          "subsections": [
            {
              "sub_title": "赤坂の座敷で一人の社長を口説く",
              "paragraphs": [
                {
                  "text": "1964年10月、東京オリンピックの開会式を目前にして、興銀頭取の中山素平氏は日産化学工業社長の日高輝氏を赤坂の料理屋へ誘った。日高氏は興銀の同期で、日産化学の再建を託されて送り出されていた。夕食が始まってもなかなか用件を切り出さず、やがて「山一証券が苦しくなっている。テルさんに手伝ってもらえまいか」ともらした。日高氏は「冗談じゃない。日産化学はやっと復配したところだ」と一蹴した。",
                  "evidences": [
                    {
                      "fact": "1964年10月、中山素平頭取が赤坂の料理屋で日高輝氏に山一証券の再建を依頼し、日高氏はいったん断った",
                      "原文": "そのうちに「山一証券が苦しくなっている。テルさんに手伝ってもらえまいか」ともらした。まさに寝耳に水である。「冗談じゃない。日産化学はやっと復配したところだ。やらねばならないことが山ほどもある」と一蹴した。",
                      "source": "私の履歴書 経済人16（日本経済新聞社、1981年）「日高輝」",
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                    },
                    {
                      "fact": "日高輝氏は中山素平氏と興銀の同期であり、日産化学工業には興銀からの要請で移った",
                      "原文": "私たちの入行は大学卒十人、商業学校卒四人だったと思う。前者では中山素平氏(興銀相談役)、川又克二(日産自動車会長)〜などが同期の桜である。",
                      "source": "私の履歴書 経済人16（日本経済新聞社、1981年）「日高輝」",
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                    }
                  ]
                },
                {
                  "text": "説得は興銀だけでは終わらなかった。富士銀行の岩佐凱実頭取と三菱銀行の宇佐美洵頭取から相次いで面会の申し入れが届き、証券業界の最高顧問であった小林中氏まで動いた。日高氏は「だれかがやらなくてはならない」と腹を決め、1964年11月24日の株主総会で取締役に選任された。当時の証券界は極度の低迷にあり、先に音をあげれば負けという空気の中で経営者の交代に踏み切ったことの裏目が出たのではないか、と日高氏は山一の側に立って後年振り返っている。",
                  "evidences": [
                    {
                      "fact": "富士銀行の岩佐凱実頭取・三菱銀行の宇佐美洵頭取、証券業界最高顧問の小林中氏からも要請が続き、日高氏は1964年11月24日の株主総会で山一の取締役に選任された",
                      "原文": "オリンピックが中盤に近づくころ、岩佐凱実頭取(富士銀)から、また宇佐美洵頭取(三菱銀)からも、次から次へと私への面会の申し入れが続いて秘書氏を面くらわせた。〜案の定「迷惑でも山一行きを決断してもらいたい」と要請されたのにつきる。〜佐藤栄作内閣の成立した三十九年の十一月二十四日の山一の株主総会で取締役に選任される",
                      "source": "私の履歴書 経済人16（日本経済新聞社、1981年）「日高輝」",
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                    },
                    {
                      "fact": "証券業界が極度に低迷するなかで山一が経営者の交代を行ったことの裏目が出たのではないか、と日高氏は述懐している",
                      "原文": "また、証券業界は当時、極度に低迷を続けていたから、先に音をあげれば負けという背景の中で、山一が経営者の交代を行ったことの裏目が出たのではないかとさえ思われてならない昨今である。",
                      "source": "私の履歴書 経済人16（日本経済新聞社、1981年）「日高輝」",
                      "url": null
                    }
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              ]
            },
            {
              "sub_title": "二正面作戦と氷川寮の一夜",
              "paragraphs": [
                {
                  "text": "就任した日高氏は大森治常務を長とする「健全化委員会」を置き、各部署から実情を聞き取った。そこで固まった策は、銀行借入金の元利棚上げの要請と、国内外の支店網の縮小・再編という二正面作戦だった。地方支店の整理は世間の耳目を集めないよう、1965年7月初めの参議院選挙の投票日に作業を終える日程を組んだ。だが、宮崎支店の閉鎖は地方紙から漏れた。5月21日午前1時、日高氏は中山氏の電話でたたき起こされる。",
                  "evidences": [
                    {
                      "fact": "日高氏は大森治常務を長とする健全化委員会で実情を把握し、銀行借入金の元利棚上げと支店網の縮小・再編という二正面作戦を進めた",
                      "原文": "私は大森常務(当時)を長とした「健全化委員会」を組織して、まず各部署の話を聞き、現状をはっきりつかむことに努めた。〜銀行借入金の元利タナ上げと支店網の縮小・再編成-〜一方でメーンバンクとの折衝を進めながら、他方では支店網の整備を考えるという二正面作戦を敢行することになってしまった。",
                      "source": "私の履歴書 経済人16（日本経済新聞社、1981年）「日高輝」",
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                    },
                    {
                      "fact": "地方支店の整理は1965年7月初めの参議院選挙の投票日に合わせて終える日程だったが、宮崎支店の閉鎖が西日本新聞に報じられ、5月21日午前1時に中山氏から日高氏へ電話が入った",
                      "原文": "そうこうしている四十年五月二十一日の深夜、午前一時ごろ、私は電話のベルでたたき起こされた。電話の相手は素平だった。「実は困ったことになった。山一が宮崎支店を閉鎖することにしているのは、山一の行き詰まりに関連があるとの記事を西日本新聞がこの日の朝刊に載せる。",
                      "source": "私の履歴書 経済人16（日本経済新聞社、1981年）「日高輝」",
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                },
                {
                  "text": "同日午後、山一と主力3行は丸の内の銀行倶楽部で共同記者会見に臨んだ。再建策の発表は経営の苦しさを表に出すことにもなり、運用預かりと投資信託の解約が日を追って増えた。5月28日には四苦八苦の末に手当てした30億円前後が一日で引き出された。その夜、大蔵省・日銀・主力3行のトップが日銀氷川寮に集まる。三菱銀行の田実渉頭取が取引所の閉鎖を口にしたのに対し、田中角栄蔵相が「君はそれでも都市銀行の頭取か？」と怒鳴って決まった、と中山氏は後年語っている。",
                  "evidences": [
                    {
                      "fact": "1965年5月21日午後の共同記者会見には岩佐・中山両頭取と三菱銀行の中村俊男副頭取が列席し、その後解約が増え、5月28日には30億円前後が一日で流出した",
                      "原文": "やむなく行われたこのプレスレリースには、岩佐(冨士銀)、中山氏(興銀)両頭取、中村俊男(三菱銀)副頭取が列席され、私はそこに控えていた。〜四十年五月二十八日、共同記者会見からおよそ一週間後には、四苦八苦の末に手当てした三十億円前後が、一日で引き出されてしまった。",
                      "source": "私の履歴書 経済人16（日本経済新聞社、1981年）「日高輝」",
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                    },
                    {
                      "fact": "氷川寮の会談で三菱の田実渉頭取が取引所の閉鎖を提案し、田中角栄蔵相が「君はそれでも都市銀行の頭取か？」と怒鳴って決着したと中山素平氏は後年語っていた",
                      "原文": "このときに日銀氷川寮に関係金融機関のトップが集まった。三菱の田実渉頭取が「取引所を閉鎖してゆっくり対応策を考えたらどうか」と言ったときに田中蔵相が「君はそれでも都市銀行の頭取か？」と怒鳴って決まった。",
                      "source": "週刊東洋経済 2005年12月3日号「最後の大物バンカー 中山素平氏逝く 産業界の再編に大きな功績」",
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          ]
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        {
          "section": "outcome",
          "label": "結果",
          "subsections": [
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              "sub_title": "282億円の特融と新旧分離",
              "paragraphs": [
                {
                  "text": "日銀法第25条にもとづく無担保の特別融資は、このとき史上初めて発動された。山一は1965年6月7日から翌月28日までに8回、合計282億円の特融を受ける。利息は日歩1.68銭から1.88銭で、完済までに支払った金額はおよそ61億7000万円にのぼった。会談の間、日高氏はただ一人興銀にいて中山氏の帰りを待ち、「決まったよ」の一言を聞くまでの時間を、人生でもっとも長いものだったと書いている。",
                  "evidences": [
                    {
                      "fact": "日銀法第25条による特別融資が史上初めて発動され、山一は1965年6月7日から翌月28日までに8回・合計282億円を受け、完済までに約61億7000万円の金利を支払った",
                      "原文": "日本銀行法第二五条の史上空前の発動、つまり、日銀の特別融資(無担保、無期限)という伝家の宝刀が初めて抜き放たれたのであった。〜山一はその年の六月七日から翌月の二十八日までの間に合計八回、金額にして二百八十二億円に達する特融を受けることになった。その後、この日銀特融の完済までに、利息として日歩一・六八銭ないし一・八八銭〜あわせておよそ六十一億七千万円余の金利を支払った",
                      "source": "私の履歴書 経済人16（日本経済新聞社、1981年）「日高輝」",
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                    },
                    {
                      "fact": "日高氏は興銀で一人、氷川寮から戻る中山氏を待ち、「決まったよ」を聞くまでの時間を人生で最も長い時間だったと述懐している",
                      "原文": "私はその時、ただ一人興銀にいて、この会談に加わっていた素平の帰りをひそやかに待っていた。その彼が「決まったよ」と一言、ポツリとつぶやくのを聞き取るまでの時間こそ、私のこれまでの人生の中で\"ロンゲスト\"のものだった。",
                      "source": "私の履歴書 経済人16（日本経済新聞社、1981年）「日高輝」",
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                  ]
                },
                {
                  "text": "引き受けの代償は、山一の側にも表れた。興銀証券課時代からの顔なじみであった小池厚之助相談役と、債券部門を担った大神一会長は退任した。日高氏は二人を退任に追い込んだことを切ないと書き、自らについても再建のスタートでフライングを犯したのではないかと記している。特融の翌日、日高氏は管理職以上を講堂に集め、日銀法第25条の発動が信用機構と国際信義にかかわる問題であることを説き、批判は一切自分が受けると力説した。",
                  "evidences": [
                    {
                      "fact": "日高氏は再建のスタートでフライングを犯したのではないかと考え、小池厚之助相談役と大神一会長を退任に追い込んだことを切ないと記している",
                      "原文": "再建の要請を受けた私だが、そのスタートにフライングを犯してしまったのではないかと思った。〜取りわけ興銀証券課時代からの顔なじみ、小池証券社長として毎日のように接していた小池厚之助相談役(当時)、山一の債券部門担当役員として一日置きぐらいに顔を合わせていた大神一会長(故人)を退任に追い込んでしまったのも切ないことに感じた。",
                      "source": "私の履歴書 経済人16（日本経済新聞社、1981年）「日高輝」",
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                    },
                    {
                      "fact": "特融の翌朝、日高氏は管理職以上を講堂に集め、日銀法25条発動の意義と、批判は自分が受けることを説いた",
                      "原文": "私は講堂に管理職以上を集めて、日銀法二五条発動の国民経済上の意義を言葉鋭く説いた。わが国信用機構の全体に影響するかもしれない問題であるにとどまらず、国際信義にも関係しかねない。〜諸君は責任を自覚し、胸を張って仕事に励んでこそ、これにこたえることができる。批判は一切私が受ける-と精魂込めて力説した。",
                      "source": "私の履歴書 経済人16（日本経済新聞社、1981年）「日高輝」",
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                    }
                  ]
                },
                {
                  "text": "健全化委員会は、実情を把握する場から特融の処理を練る場へ変わった。採られたのは、戦後の金融機関再建整備で用いられた「新旧勘定分離」に倣う方法である。旧会社に債務を棚上げし、営業の一切を譲り受けた新会社の利益を返済に充てる。1966年7月7日に新会社を設立し、9月1日に営業譲渡を行って、改正証券取引法による大蔵大臣免許の第1号を取得した。募集設立の申し込みは120億円余に達し、新会社は払い込み済み資本金90億円・株主85で発足した。",
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                      "fact": "新旧勘定分離に倣い、旧会社に債務を棚上げして新会社の利益を返済に充てる方式を採り、1966年7月7日に新会社を設立、9月1日に営業譲渡と大蔵大臣免許第1号の取得を行った",
                      "原文": "債務を「旧勘定」にタナ上げし、一方で営業を行って、この「新勘定」に得られる利益を特融の返済に充てる方法である。〜四十一年の七夕の日に「新会社」を設立し、臨時株主総会の承認を経て同年九月一日、この「新会社」への営業譲渡などが行われた。同時に証券取引法の改正による大蔵大臣の免許(第一号)を取得したのだった",
                      "source": "私の履歴書 経済人16（日本経済新聞社、1981年）「日高輝」",
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                      "原文": "申し込みを締めてみると、その額は百二十億円余にも達した。〜創設した新会社の資本金は払い込み済み九十億円、株主数は系列にとらわれない八十五であった。",
                      "source": "私の履歴書 経済人16（日本経済新聞社、1981年）「日高輝」",
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              "sub_title": "肩代わりによる完済と、再編を仲介する銀行",
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                  "text": "計算上、特融の完済には18年8カ月を要するはずであった。実際には株式市場の回復と、日本証券保有組合の解散に伴う67億3000万円の還付金が返済を押し上げた。1969年9月期を控えて残高は49億8000万円まで減り、主力3行がこれを肩代わりして特融は4年余で完済された。棚上げしていた借入金も金利の減免と新規融資への振り替えが行われ、10月1日に新旧両社は合併した。山一は1970年9月期に復配し、1973年4月に市場第二部へ再び上場した。",
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                      "fact": "特融の完済には計算上18年8カ月を要するはずだったが、日本証券保有組合の解散に伴う還付金67億3000万円などにより、1969年9月期を控えて残高は49億8000万円まで減り、主力3行の肩代わりで4年余で完済した",
                      "原文": "それによると、特融を完済するには〝無期限〟ではないにしても、計算上、実に十八年八カ月を要する勘定であった。〜山一は還付金として六十七億三千万円(特融返済額の約三〇%)を受け入れることとなった。〜日銀特融の残高は四十九億八千万円となる見通しになった。主力三行から融資を仰ぎ、これに肩代わりすれば特融は完済できる〜幸運に恵まれて日銀特融を思いもかけず四年余の期間に完済することができた。",
                      "source": "私の履歴書 経済人16（日本経済新聞社、1981年）「日高輝」",
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                    {
                      "fact": "新旧会社の合併は1969年10月1日に行われ、山一は1970年9月期に復配し、1973年4月に市場第二部へ再上場した",
                      "原文": "旧、新会社の合併は昭和四十四年八月の臨時株主総会で承認され、同年十月一日に現在の「山一証券」が新生した。〜日本万国博覧会の開催された四十五年九月期に待望の復配(三円、年六分)へこぎつけた。そして四十八年四月には、私たちの手で上場を廃止したその株式を約七年振りで市場第二部に上場し、念願を成就したのであった。",
                      "source": "私の履歴書 経済人16（日本経済新聞社、1981年）「日高輝」",
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                },
                {
                  "text": "同じ時期、中山氏は東京電力の木川田一隆氏を担いで「産業問題研究会」をつくり、産業界を強くするには合併しかないという考えのもとに動いた。1970年の八幡製鉄と富士製鉄の合併、海運再編、日産自動車とプリンス自動車の合併、石油化学の再編が、その舞台となった。取引先が合併で強くなれば興銀も強くなるという狙いがそこにはあった。産業界へ人材を数多く送り出すことから、興銀は「益荒男派出婦」と呼ばれた。山一への日高氏の派遣も、この関与のかたちに連なる。",
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                      "fact": "中山素平氏は木川田一隆氏と産業問題研究会をつくり、八幡・富士の合併や海運再編、日産・プリンス合併、石油化学再編で動いた。合併で取引先が強くなれば興銀も強くなるという狙いがあった",
                      "原文": "中山氏は東京電力の木川田一隆会長（経済同友会代表幹事）を担いで「産業問題研究会」（通称産研）を作り、日本の産業界を強くするためには合併しかないという考えを持っていた。鉄鋼だけではなく海運再編で山下新日本汽船〜の設立や、日産自動車とプリンス自動車との合併、石油化学の新大協和石油化学の設立などで手腕を発揮した。こうした企業が合併することで興銀も強くなるという狙いもあった。",
                      "source": "週刊東洋経済 2005年12月3日号「最後の大物バンカー 中山素平氏逝く 産業界の再編に大きな功績」",
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                      "原文": "産業界に人材をたくさん派遣することから「益荒男（ますらお）派出婦（はしゅつふ）」といわれた日本興業銀行の頭取、会長を務めた中山素平氏が百歳を目前に死去した。〜６５年の山一証券の救済はその代表的なケースであろう。",
                      "source": "週刊東洋経済 2005年12月3日号「最後の大物バンカー 中山素平氏逝く 産業界の再編に大きな功績」",
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                  "text": "中山素平氏が動かしたのは、融資の枠ではなく、日産化学工業の社長だった日高輝氏という一人の人物だった。赤坂の座敷での一言に始まり、富士・三菱の頭取と小林中氏を巻き込んで一年近くをかけ、興銀は債権者の位置から、経営の責任を負う側へ自らを移した。氷川寮の会談に臨んだのは興銀の頭取であり、その帰りを興銀で待っていたのは山一の社長である。救済の当事者がどちら側にいたかは、この一夜の座の配置が示している。"
                },
                {
                  "text": "経営を預かるとは、前の経営陣を退かせることでもある。小池厚之助相談役と大神一会長は退任し、日高氏自身も再建のスタートでフライングを犯したのではないかと書いている。先に音をあげれば負けという空気の中で交代に踏み切った山一の判断は、当時として不合理ではなく、その裏目が出たとみるほうが実情に近い。特融が4年余で終わったのも、市況の回復と保有組合の還付金に支えられていた。それでも興銀が引き受けたのは再建の成否ではなく、再建に責任を負う立場そのものだった。"
                }
              ]
            }
          ]
        }
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      "references": [
        "私の履歴書 経済人16（日本経済新聞社、1981年）「日高輝」",
        "日本産業史 第3巻（日本経済新聞社、1994年）「証券－証券恐慌乗り越え土台固め」",
        "週刊東洋経済 2005年12月3日号「最後の大物バンカー 中山素平氏逝く 産業界の再編に大きな功績」"
      ],
      "authored": "2026-07",
      "last_updated": "2026-07-27"
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      "title": "東洋信用金庫の架空預金証書事件と、料亭経営者への2400億円融資の焦げ付き",
      "subtitle": "一個人への2400億円はなぜ積み上がったのか——預金を持たない銀行にとっての割引金融債の大口保有者",
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          "text": "1991年8月、大阪ミナミで料亭を営む尾上縫氏による3420億円の架空預金証書が発覚した。日本興業銀行は割引金融債（ワリコー）を担保に尾上氏へ2400億円を融資しており、頭取の黒澤洋氏が国会で陳謝した。"
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          "text": "プラザ合意後の低金利のもとで企業は資本市場から資金を調達し、銀行から遠のいた。預金を持たず金融債で調達する興銀にとって、ワリコーの大口保有者は調達と運用が同時に立つ相手であった。"
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          "text": "破産管財人は素人に貸し込んだ側の責任を追及し、10年かけて170億円を回収した。東洋信用金庫は消滅し、預金保険からの資金贈与が初めて使われた。産業金融を担ってきた銀行が個人向けの大口与信で信用を損なった事例として残る。"
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                  "text": "日本興業銀行は、日本興業銀行法が廃止された1950年に民間銀行として再出発した。都市銀行と違い、店頭で個人や企業から預金を集める仕組みを持たず、金融債を発行して資金を調達する。買い手の多くは機関投資家で、割引金融債（ワリコー）は個人にも広く売られていた。貸すための原資を市場から買ってくる銀行であり、調達が細れば貸出も細るという関係が経営の前提に置かれていた。",
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                      "原文": "黒澤氏は日本興業銀行法が廃止され、まさに民間銀行として再出発した１９５０年に入行。",
                      "source": "週刊東洋経済（2000年1月22日）「訃報 興銀の栄光と挫折を体現した黒澤洋氏ミレニアムに逝く」",
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                      "source": "週刊東洋経済（1999年1月23日）「特集 興銀「非常事態」長銀、日債銀破綻の中で苦悩する残された長信銀」",
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                      "原文": "公定歩合は六十二年二月のルーブル合意の際に二・五%と過去最低にまで下げられた。このあと、この超低金利水準は平成元年五月まで続けられた。（中略）低金利のもとで資本市場から企業は資金を調達し、それを設備投資だけでなく特定金銭信託、ファンドトラスト、大口定期預金など財テクに回した。",
                      "source": "日本産業史 第4巻（日本経済新聞社、1994年）「銀行・生損保－バブル発生と崩壊の主役」",
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                  "text": "資金が流れ込んだ側の銀行は、運用先の拡大を急いだ。大企業向けが細るぶんを中小企業と不動産業への融資で埋め、1985年から1989年までの不動産業への融資は約44兆円に達した。上がり続ける地価を前提に、担保となる土地さえあれば融資は通った。日本産業史はこの時期の融資拡大を、各行が独自に審査した結果ではなく、ライバル行との横並び意識によるものと記している。",
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                      "原文": "こうして資金が流れ込んだ銀行は、運用先の拡大を急がざるを得なかった。大企業だけでなく、中小企業、そして不動産業への融資を広げた。（中略）六十-平成元年の不動産業への融資は約四四兆円にも達した。（中略）銀行は独自の判断ではなくライバル行との横並び意識だけで、融資を拡大していった。",
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                  "text": "割引金融債の大口保有者は、興銀にとってほかの取引先と意味が違った。ワリコーを買ってもらえば調達が立ち、それを担保に貸せば運用が立つ。調達と運用が一人の顧客の上で同時に成り立つ。大阪ミナミで料亭「恵川」を営む尾上縫氏は、バブル期に興銀大阪支店の上客となり、ピーク時で2900億円のワリコーを保有していた。興銀側はこれを担保に2400億円を融資していた。",
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                    {
                      "fact": "尾上縫氏はバブル期に興銀大阪支店の上客となり、ピーク時2900億円の割引金融債を保有し、これを担保に興銀側から2400億円の融資を受けていた",
                      "原文": "尾上氏はバブル期に興銀大阪支店の上客となり、ピーク時２９００億円の割引金融債（ワリコー）を保有、これを担保に興銀側から２４００億円の融資を受けていた。企業の銀行離れに焦った興銀が、常軌を逸する額を個人に貸し込んでいたのだ。",
                      "source": "週刊東洋経済（2025年11月22日）「西野智彦の金融秘録 第50回 90年代「危機の扉」（4） 架空預金事件、東西で勃発」",
                      "url": null
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          "section": "origin",
          "label": "決断",
          "subsections": [
            {
              "sub_title": "大阪支店の上客と、偽造された預金証書",
              "paragraphs": [
                {
                  "text": "料亭を営む一個人に対して、2400億円という額がなぜ積み上がったのか。西野智彦氏は、企業の銀行離れに焦った興銀が常軌を逸する額を個人に貸し込んでいたと書いている。尾上氏の料亭には、当時の興銀の頭取まであいさつに訪れていた。日本銀行が1990年夏に行った貸出先調査には「恵川4000億円」という記載があり、当時の企画局長は東京の同名の料亭かと社内で話していたとのちに述懐している。",
                  "evidences": [
                    {
                      "fact": "尾上氏の料亭には興銀の頭取まであいさつに訪れており、日銀の1990年夏の貸出先調査には「恵川4000億円」の記載があった",
                      "原文": "尾上氏の料亭には当時、興銀の頭取までがあいさつに訪れていた。（中略）当時、日銀企画局長だった小島邦夫（のち理事）は、９０年夏の貸出先調査で「恵川４０００億円」という記載があったことを鮮明に覚えている。",
                      "source": "週刊東洋経済（2025年11月22日）「西野智彦の金融秘録 第50回 90年代「危機の扉」（4） 架空預金事件、東西で勃発」",
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                },
                {
                  "text": "尾上氏は、担保に差し入れたワリコーを偽造の預金証書と入れ替えていた。税務処理で必要になったと言って証書を差し替え、数日後にワリコーを返す。これを3回繰り返して相手を信用させ、4回目に返さなかった。証書は金額こそチェックライターで打たれていたが、日付はゴム印、証書番号や利率は手書きだった。1991年8月8日に発覚した架空預金は3420億円にのぼり、東洋信用金庫の預金量に匹敵した。",
                  "evidences": [
                    {
                      "fact": "担保のワリコーを偽造預金証書と交換する手口で、1991年8月8日に3420億円の架空預金が発覚した",
                      "原文": "尾上氏の手口はこうだ。担保に入れたワリコーを「税務処理で必要になったので預金証書に一時差し替えたい」と言って偽造した証書と交換し、数日後にワリコーを返す。これを３回繰り返して相手を信用させ、４回目にワリコーを返却しなかった。（中略）３４２０億円という架空預金証書は、東洋信金の預金量に匹敵する。",
                      "source": "週刊東洋経済（2025年11月22日）「西野智彦の金融秘録 第50回 90年代「危機の扉」（4） 架空預金事件、東西で勃発」",
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            {
              "sub_title": "国会での陳謝と、量的拡大からの引き返し",
              "paragraphs": [
                {
                  "text": "発覚の翌週にあたる8月13日、当局と金融機関がそれぞれ発表した。大蔵省銀行局長の土田正顕氏は取り付けを覚悟し、日銀大阪支店から東洋信金へ数百億円の現金が運び込まれ、大阪府警は全支店に警察官を配備した。興銀頭取の黒澤洋氏はのちに国会へ呼ばれ、「信頼を損なうことになり、誠に慙愧に堪えない」と陳謝した。同じ時期に架空預金事件が発覚した富士銀行の頭取も、収益偏重が背景にあると述べている。",
                  "evidences": [
                    {
                      "fact": "発表は8月13日に行われ、日銀大阪支店から東洋信金へ数百億円が運び込まれた。黒澤洋頭取は国会で陳謝した",
                      "原文": "「８月９日に（中略）知ったのです。翌週１３日に当局と金融機関それぞれから発表して打って出たのですけれども、これは私は取り付け必至だと思っておりました」（中略）富士銀頭取の橋本徹と興銀頭取の黒澤洋氏は後に国会に呼ばれ、「金利自由化の中で経営姿勢として収益偏重に傾いていったことがすべての背景にある」（橋本）、「信頼を損なうことになり、誠に慙愧に堪えない」（黒澤）と陳謝した。",
                      "source": "週刊東洋経済（2025年11月22日）「西野智彦の金融秘録 第50回 90年代「危機の扉」（4） 架空預金事件、東西で勃発」",
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                },
                {
                  "text": "陳謝は、事件を大阪支店ひとつの失態としてではなく、貸し方そのものの問題として引き受ける言葉であった。日本産業史は、この時期の主要銀行が融資競争・預金獲得競争から脱し、収益性を重視する経営へ戦略を切り替え始めたと記している。興銀にとって、新しい大口先を外から探して量を積む道はこの事件で閉じた。長く付き合ってきた既存の取引先を深く掘る貸し方へ戻った。その延長線上に、1990年代後半の投資銀行業務への傾斜がある。",
                  "evidences": [
                    {
                      "fact": "主要銀行はこの時期、融資競争・預金獲得競争から脱して収益性を重視する経営へ戦略を切り替え始めた",
                      "原文": "主要銀行を中心にこれまでの融資競争、預金獲得競争から脱して、総資産利益率(ROE)を重視する経営に、戦略を切り替えはじめている。",
                      "source": "日本産業史 第4巻（日本経済新聞社、1994年）「銀行・生損保－バブル発生と崩壊の主役」",
                      "url": null
                    },
                    {
                      "fact": "興銀の融資先には古くからの名門企業が多く、「産業とともに歩む」ことを掲げて取引先企業とともにあった",
                      "原文": "興銀の融資先の多くは古くからの名門企業も多い。「産業とともに歩む」興銀にとって取引先企業の衰退自体が問題だ。",
                      "source": "週刊東洋経済（1999年1月23日）「特集 興銀「非常事態」長銀、日債銀破綻の中で苦悩する残された長信銀」",
                      "url": null
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            }
          ]
        },
        {
          "section": "outcome",
          "label": "結果",
          "subsections": [
            {
              "sub_title": "170億円の返還と、東洋信用金庫の消滅",
              "paragraphs": [
                {
                  "text": "尾上縫氏は詐欺の疑いで逮捕され、懲役12年の実刑判決を受けた。個人としては過去最高となる4300億円の負債を抱えて自己破産した。破産管財人は、素人に貸し込んだ側にも責任があるとして追及し、10年をかけて170億円を興銀側から回収した。借り手の破産手続きのなかで貸し手の与信判断そのものが問われ、金銭の返還に至った。",
                  "evidences": [
                    {
                      "fact": "尾上氏は懲役12年の実刑判決を受け、4300億円の負債を抱えて自己破産した。破産管財人は10年かけて170億円を興銀側から回収した",
                      "原文": "尾上氏は詐欺の疑いで逮捕され、懲役１２年の実刑判決を受ける。個人としては過去最高の４３００億円の負債を抱え自己破産した。ただ、破産管財人は素人に貸し込んだ側にも責任があると追及し、１０年かけて１７０億円を興銀側から回収した。",
                      "source": "週刊東洋経済（2025年11月22日）「西野智彦の金融秘録 第50回 90年代「危機の扉」（4） 架空預金事件、東西で勃発」",
                      "url": null
                    }
                  ]
                },
                {
                  "text": "預金証書を偽造した東洋信用金庫は経営に行き詰まった。取引のあった三和銀行が預金保険からの資金贈与を受けて資産と一部店舗を引き取り、残りは大阪府下の信用金庫へ分割譲渡され、東洋信金は消滅した。預金保険が資金贈与を使ったのは、このときが初めてだった。黒澤頭取の在任はその後も不良債権処理に費やされ、1996年には住専処理による赤字決算を計上した。これからの興銀像を問われて「そのどちらでもない。興銀独自の道を目指す」と答えた言葉が残っている。",
                  "evidences": [
                    {
                      "fact": "東洋信金は経営に行き詰まり、三和銀行が預金保険からの資金贈与を受けて資産と一部店舗を引き取り、残りは分割譲渡されて消滅した。資金贈与は初のケースであった",
                      "原文": "一方、預金証書を偽造した東洋信金は経営に行き詰まり、関係のあった三和銀行が預金保険からの資金贈与を受けて信金の資産と一部店舗を引き取り、残りは府下の信金に分割譲渡され、消滅した。預金保険から資金贈与が行われたのはこれが初のケースである。",
                      "source": "週刊東洋経済（2025年11月22日）「西野智彦の金融秘録 第50回 90年代「危機の扉」（4） 架空預金事件、東西で勃発」",
                      "url": null
                    },
                    {
                      "fact": "黒澤洋頭取は1991年の尾上縫事件、1996年の住専処理による赤字決算と不良債権処理に追われ、興銀独自の道を目指すと語っていた",
                      "原文": "だが、９０年に頭取就任後は、バブル崩壊後の不良債権処理に追われる。９１年に発覚した「尾上縫事件」、９６年の住専処理による赤字決算と、まさに茨の道。（中略）氏にこれからの興銀像は「ドイチェバンクですか、ＪＰモルガンですか？」と聞くと、「そのどちらでもない。興銀独自の道を目指す」とこたえていた。",
                      "source": "週刊東洋経済（2000年1月22日）「訃報 興銀の栄光と挫折を体現した黒澤洋氏ミレニアムに逝く」",
                      "url": null
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                }
              ]
            },
            {
              "sub_title": "調達と運用が、一人の顧客の上で重なるとき",
              "editorial": true,
              "paragraphs": [
                {
                  "text": "尾上縫氏は、興銀にとって料亭を営む個人である前に、2900億円のワリコーを持つ大口の顧客であった。金融債を大量に買ってくれる相手は、興銀にとって資金の出し手である。その金融債を担保に借りてくれるなら、同じ相手が資金の受け手にもなる。出し手と受け手が一人に重なるとき、審査の目は鈍りやすい。企業の銀行離れで貸出先が細っていた時期に、この相手を手放す判断は取りにくかったとみられる。"
                },
                {
                  "text": "日本銀行が1990年夏に行った貸出先調査には、すでに「恵川4000億円」という記載があった。外から見える形で異常は現れており、そのまま1年以上が過ぎた。頭取が料亭へあいさつに出向くほどの関係も、審査とは別の力学で作られている。破産管財人が10年かけて170億円を取り戻した事実は、貸した側の責任が法の場で認められたことを示している。企業の銀行離れという構造で説明のつく話であっても、2400億円という額を決めたのは興銀である。"
                }
              ]
            }
          ]
        }
      ],
      "references": [
        "週刊東洋経済（2025年11月22日）「西野智彦の金融秘録 第50回 90年代「危機の扉」（4） 架空預金事件、東西で勃発」",
        "週刊東洋経済（2000年1月22日）「訃報 興銀の栄光と挫折を体現した黒澤洋氏ミレニアムに逝く」",
        "週刊東洋経済（1999年1月23日）「特集 興銀「非常事態」長銀、日債銀破綻の中で苦悩する残された長信銀」",
        "日本産業史 第4巻（日本経済新聞社、1994年）「銀行・生損保－バブル発生と崩壊の主役」"
      ],
      "authored": "2026-07",
      "last_updated": "2026-07-27"
    }
  ]
}
