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      "title": "座売りの全廃による陳列販売への転換と、デパートメントストア宣言",
      "subtitle": "呉服だけを売り続けるか、扱う品目を広げるか——売り方の改造が宣言より先にあった十年",
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        {
          "label": "概要",
          "text": "明治37年（1904年）12月、三越は資本金50万円で株式会社三越呉服店として設立され、越後屋以来の事業を継承したうえで「デパートメントストア宣言」を発した。呉服以外の商品を扱う百貨店へ移る意思を、会社の形を変えた月に対外へ示した経営判断にあたる。"
        },
        {
          "label": "背景",
          "text": "前身の越後屋呉服店は延宝元年（1673年）創業で、三井家からの分離・合名会社への改組・本家への復帰と組織の形を変えながら呉服を売り続けていた。百貨店の主要各社はいずれも江戸期の呉服店を前身とし、創業の古さそのものは差にならなかった。"
        },
        {
          "label": "内容",
          "text": "明治28年11月に本店の階上を陳列場へ改築してわが国最初の呉服陳列販売を採り入れ、32年6月には新橋駅頭に等身大ポスターを掲げ、33年10月には本店の全階を陳列場として座売りを全廃した。宣言はこの改造を終えた4年後に出ている。"
        },
        {
          "label": "含意",
          "text": "宣言から百貨店の部門が揃うまでには10年を要し、食料品と園芸の売場が入るのは大正3年9月の新館竣工にあわせてであった。呉服店から百貨店へ移る道筋は各社に共通しており、三越が握ったのは方向ではなく数年の時間差だったといえる。"
        }
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          "name": "三越呉服店",
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            "note": "延宝元年創業の越後屋呉服店を前身とする東京・日本橋の呉服店。明治37年12月に資本金50万円の株式会社として独立した"
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        "summary": "座売りの全廃で不特定多数を扱える売場を先に作り、株式会社化と同時に呉服以外へ品目を広げる意思を宣言した業態転換"
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          "title": "本店の階上を陳列場に改築し、わが国最初の呉服陳列販売を採り入れる"
        },
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          "title": "新橋駅頭に等身大ポスターを掲示（街頭広告の先がけ）"
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          "title": "本店の全階を陳列場とし、従来の座売りを全廃して総陳列式の販売へ"
        },
        {
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          "title": "株式会社三越呉服店を設立（資本金50万円）、「デパートメントストア宣言」を発する",
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        {
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          "title": "洋風三階建の新建築が完成し、百貨店としての形態を整える"
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        {
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          "month": 9,
          "title": "五階建延4,000坪の新館が竣工、食料品・園芸売場を新設して百貨店の部門を完備"
        }
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      "snapshot": {
        "fiscal_year": "明治37年（1904年）",
        "source": "会社銀行八十年史（東洋経済新報社、1955年）2篇 日本会社史 47_百貨店「概説」",
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            "name": "三越呉服店",
            "fiscal_year": "明治37年（1904年）",
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            "hq": "東京・日本橋（本店）",
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          "label": "背景",
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              "sub_title": "呉服を売りながら、所属先だけが変わった三十年",
              "paragraphs": [
                {
                  "text": "三越の前身である越後屋呉服店は、延宝元年（1673年）に三井家の経営として始まった。創始者の三井高利氏は店頭現金売と定価販売を実行し、客ごとに値と回収期間が違う当時の商慣習から離れた。明治に入ると会社の所属が定まらず、5年3月に三井家から分離し、26年9月に合名会社へ改組したのち、28年8月には以前の形態で三井本家へ復帰する。翌29年9月には三越呉服店と改称した。組織の形が四度変わるあいだも、店が売る品目は呉服のままであった。",
                  "evidences": [
                    {
                      "fact": "延宝元年創業の越後屋呉服店を起源とし、三井高利は店頭現金売・定価販売を実行した。明治5年3月に三井家より分離、26年9月に合名会社へ改組、28年8月に三井本家へ復帰、29年9月に三越呉服店と改称した",
                      "原文": "当社は明治三十七年十二月、資本金五十万円をもつて三越呉服店の社名で設立されたが、その濫觴は延宝元年創業の越後屋呉服店に遡る。越後屋呉服店は三井家の経営にかかり、創始者三井高利氏は、古い商慣習を打破して店頭現金売、定価販売の実行等、合理的経営方針を採り、除々に経済的基盤を固めた。明治五年三月三井家より分離し、二十六年九月合名会社に改組したが、二十八年八月再び以前の形態で三井本家に復帰して翌二十九年九月三越呉服店と改称した。",
                      "source": "会社銀行八十年史（東洋経済新報社、1955年）2篇 日本会社史 47_百貨店「三越」",
                      "url": "https://dl.ndl.go.jp/pid/3043712"
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                },
                {
                  "text": "呉服店を前身とすることは、三越に限った話ではない。松坂屋の前身いとう呉服店は1611年、白木屋は1662年、越後屋は1673年、大丸は1717年、高島屋は1831年の創業で、著名百貨店の大半が呉服店から転じている。明治維新以後は各店とも洋服部の設置や座売りから商品陳列式売場への転換を進め、店舗も紺のれんを掛けた木造平家建から黒塗り土蔵造りへ移った。創業の古さも変化の方向も各社に共通しており、差がつく余地は移る速さにしか残っていなかった。",
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                      "fact": "百貨店の主要各社はいずれも江戸期の呉服店を前身とし（いとう呉服店1611年、白木屋1662年、越後屋1673年、大丸1717年、高島屋1831年）、明治維新以後は洋服部の設置・座売りから商品陳列式売場への転換・合名会社組織の採用などを進めた",
                      "原文": "現在の主要百貨店は、いずれもその前身は呉服店で、江戸時代からの長い歴史を持つている。年代順にいえば、松坂屋の前身「いとう」呉服店は慶長十六年(一六一一年)、白木屋は寛文二年(一六六二年)、三越の前身越後屋は延宝元年(一六七三年)、大丸は享保二年(一七一七年)、高島屋は天保二年(一八三一年)というふうに、その前史は極めて古い。〔中略〕洋服部の設置、座売りから商品陳列式売場への転換等、営業方法の変化、合名会社組織の採用等が行われた。店舗も、伝統的な紺のれんに天水桶を積み重ねた木造平家建から、黒塗り土蔵造りへと移つた。",
                      "source": "会社銀行八十年史（東洋経済新報社、1955年）2篇 日本会社史 47_百貨店「概説」",
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            {
              "sub_title": "座売りを全廃するまでの五年",
              "paragraphs": [
                {
                  "text": "売り方の改造は明治28年11月に始まる。三越は本店の階上を陳列場へ改築し、わが国最初の呉服陳列販売を採り入れた。32年6月には新橋駅頭に等身大のポスターを掲げ、街頭で客を集める広告に先がけた。当時の呉服の商いは座売りで、客を店座敷に座らせ、番頭が奥から反物を運んで見せる形をとる。一人の客に一人の店員が付くため、店が扱える客数は店員の数で決まり、品目を増やしても見せる手が足りなかった。",
                  "evidences": [
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                      "fact": "明治28年11月に本店の階上を陳列場へ改築してわが国最初の呉服陳列販売を採り入れ、32年6月に新橋駅頭へ等身大ポスターを掲示して街頭広告の先鞭をつけた",
                      "原文": "この間二十八年十一月本店の階上を陳列場に改築して、わが国最初の呉服陳列販売を採り入れ、また三十二年六月新橋駅頭に等身大ポスターを掲示して街頭広告の先鞭をつけ",
                      "source": "会社銀行八十年史（東洋経済新報社、1955年）2篇 日本会社史 47_百貨店「三越」",
                      "url": "https://dl.ndl.go.jp/pid/3043712"
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                {
                  "text": "明治33年10月、三越は本店の全階を陳列場とし、従来の座売りを全廃して総陳列式の販売へ移った。客が自分で商品を見て選ぶ形になれば、店員一人あたりの応対客数は増え、売場に並べる品目も番頭の熟練から離れる。呉服以外を扱う前提は、宣言の4年前にこの改造で整っていた。『会社銀行八十年史』は明治28年からの一連の動きを「着々新時代に順応する態勢を整えた」と記している。",
                  "evidences": [
                    {
                      "fact": "明治33年10月に本店の全階を陳列場とし、従来の座売りを全廃して総陳列式の販売を行った",
                      "原文": "さらに三十三年十月本店全階を陳列場とし、従来の座売りを全廃して総陳列式の販売を行うなど着々新時代に順応する態勢を整えた。",
                      "source": "会社銀行八十年史（東洋経済新報社、1955年）2篇 日本会社史 47_百貨店「三越」",
                      "url": "https://dl.ndl.go.jp/pid/3043712"
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        {
          "section": "origin",
          "label": "決断",
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              "sub_title": "株式会社化と同じ月に出した宣言",
              "paragraphs": [
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                  "text": "明治37年（1904年）12月10日、三越は資本金50万円で株式会社三越呉服店として設立され、越後屋以来の事業を継承したうえで「デパートメントストア宣言」を発した。創立者は三井銀行の支配人から越後屋呉服店に入った日比翁助氏である。『会社銀行八十年史』は、わが国の百貨店事業の創始をこの設立の時点に置いた。売場の改造を終えた店が、会社の形を変えた月に扱う品目を広げる意思を対外へ示した点に、この判断の要がある。",
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                      "fact": "明治37年12月に資本金50万円で株式会社三越呉服店として設立し、越後屋の事業を継承して「デパートメントストア宣言」を発した",
                      "原文": "当社は、延宝元年（1673年）三井高利が創業した呉服商「越後屋」を起源とし、明治37年（1904年）その事業を継承し、株式会社三越呉服店として設立、「デパートメントストア宣言」を発し、その後着実に近代的百貨店の体制を固めつつ、全国に店舗網を拡充し",
                      "source": "株式会社三越 有価証券報告書【沿革】",
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                      "原文": "そうした百貨店事業の創始は明治三十七年末三越の前身たる越後屋呉服店が三井家より一応分離して、新たに資本金五十万円の株式会社として三越呉服店が創立された時である。そして三井銀行支配人から、越後屋呉服店に入つた日比翁助氏が、その創立者である。",
                      "source": "会社銀行八十年史（東洋経済新報社、1955年）2篇 日本会社史 47_百貨店「概説」",
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                {
                  "text": "宣言後に採った方針は、日露戦争後の経済的発展と、いっそう活発になった生活風俗の欧米化に歩調を合わせるものであった。三越は呉服以外の販売商品の種類を増やし、41年には洋風三階建の新建築を完成させて百貨店としての形態を整えている。ただし『会社銀行八十年史』は、三越呉服店への改称後の10年間に営業の一切にわたる改革が行われたと記す。宣言は改革の開始を告げるものではなく、すでに終えた売り方の改造を新しい会社の名で確認する行為だったとみられる。",
                  "evidences": [
                    {
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                      "原文": "ことに三越呉服店に改称後の十年間には、営業の一切にわたつて改革が行われ、近代的百貨店化への芽ばえが確立されたが株式会社としての創立以後は、新組織のもとに日露戦争後の経済的発展と、いつそう活溌となつた生活風俗の欧米化に歩調を合わせる方針を採つた。すなわち呉服以外の販売商品の種類を増加し、四十一年には洋風三階建の新建築が完成、ここに百貨店としての形態を整えた。",
                      "source": "会社銀行八十年史（東洋経済新報社、1955年）2篇 日本会社史 47_百貨店「三越」",
                      "url": "https://dl.ndl.go.jp/pid/3043712"
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          "label": "結果",
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              "sub_title": "部門が揃うまでの十年",
              "paragraphs": [
                {
                  "text": "設立後の三越は、増資と店舗の建て替えを並行させた。明治40年に大阪支店を開き、41年6月には資本金を100万円へ増資して京城と大連に出張所を置いた。43年3月に200万円へ増資し、44年7月には五階建延4,000坪の建築へ着手する。宣言から6年余りで資本金を4倍にし、その資金を売場の面積に替えている。品目を増やす意思を実物の売場に移すには、呉服店の規模では足りなかった。",
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                    {
                      "fact": "明治40年に大阪支店を開設、41年6月に資本金100万円へ増資して京城および大連に出張所を開設、43年3月に200万円へ増資、44年7月に五階建延4,000坪の建築へ着手した",
                      "原文": "この間四十年には大阪支店を開設、翌四十一年六月百万円に増資し、京城および大連に出張所を開設した(のち支店となる)。次いで四十三年三月二百万円に増資して、四十四年七月五階建延四千坪の建築に着手し",
                      "source": "会社銀行八十年史（東洋経済新報社、1955年）2篇 日本会社史 47_百貨店「三越」",
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                {
                  "text": "大正3年9月、近代建築が竣工した。三越はこれを機に食料品と園芸の売場を新設し、百貨店としての部門を完備した。宣言から品目が揃うまでに、ちょうど10年が費やされている。呉服の陳列販売を採り入れた明治28年から数えれば19年になる。売り方の改造に5年、宣言までに4年、部門を揃えるのに10年という配分は、業態を替える作業の大半が売場の実物を作ることに費やされたのを示している。",
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                      "fact": "大正3年9月に近代建築が竣工し、これを機に食料品および園芸売場を新設して百貨店としての部門を完備した",
                      "原文": "大正三年九月近代建築が竣工、これを機に新たに食料品および園芸売場を新設して百貨店としての部門を完備した。",
                      "source": "会社銀行八十年史（東洋経済新報社、1955年）2篇 日本会社史 47_百貨店「三越」",
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              "sub_title": "各店が同じ形へ収束した大正初頭",
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                {
                  "text": "三越が百貨店施設の整備を進めると、各店が日を追ってこれにならった。建物は土蔵造りから鉄筋コンクリートの洋風建築へ改まり、大正初頭には各百貨店ともデパートメント・ストアーとしての態勢を整えるに至る。三越の宣言から10年ほどで、江戸期の呉服店を前身とする各社が同じ形に収束したことになる。ただし土足での出入りが認められるのは関東大震災の後で、当時はなお下足番を置いて上履きに履きかえさせていた。",
                  "evidences": [
                    {
                      "fact": "三越が百貨店施設の整備を進めると各店がこれにならい、建物も土蔵造りから鉄筋コンクリートの洋風建築に改築して、大正初頭には各百貨店ともデパートメント・ストアーとしての態勢を整えた。土足で出入りできるようになったのは関東大震災以後である",
                      "原文": "三越が百貨店施設の整備を進めるや、日を追つて各店がこれにならい、建物も土蔵造りから近代的な鉄筋コンクリートの洋風建築に改築し、大正初頭には各百貨店ともいわゆるデパートメント・ストアーとしての態勢を整えるに至つた。ただ、土足出入りのできるようになつたのは関東大震災以後のことで、当時はなお下足番を置き、上履にはきかえさせていた。",
                      "source": "会社銀行八十年史（東洋経済新報社、1955年）2篇 日本会社史 47_百貨店「概説」",
                      "url": "https://dl.ndl.go.jp/pid/3043712"
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                },
                {
                  "text": "百貨店の第一の発展期は欧州大戦の前後にあたる。大戦の好景気で高級奢侈品の売行きが伸び、各店は富裕階級の愛顧を受けた。三越が部門を揃え終えた大正3年は、この好況に入る直前にあたる。売場の形を先に作った店が、需要の増えた時期をそのまま迎えた順序になる。その後、常設の実用品売場「三越マーケット」を開いた大正9年ごろには、「今日は帝劇、明日は三越」という標語が広く知られるようになった。",
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                      "fact": "百貨店業の第一の発展期は欧州大戦前後で、大戦による好景気で高級奢侈品の売行きが好調となり富裕階級の愛顧を受けた",
                      "原文": "斯業の第一の発展期は、欧州大戦前後である。大戦による空前の好景気で、百貨店の高級奢侈品の売行きは異常な好調をきたし、富裕階級の愛顧を受けた。",
                      "source": "会社銀行八十年史（東洋経済新報社、1955年）2篇 日本会社史 47_百貨店「概説」",
                      "url": "https://dl.ndl.go.jp/pid/3043712"
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                    {
                      "fact": "大正9年1月に資本金1,200万円となり、常設の実用品売場「三越マーケット」を開設した。「今日は帝劇、明日は三越」の標語が人口に膾炙したのもこのころである",
                      "原文": "大正九年一月には資本金一千二百万円となり、一方常設の実用品売場「三越マーケツト」を開設して大衆との結びつきを図つた。「今日は帝劇、明日は三越」という標語が人口に膾炙したのもこのころである。",
                      "source": "会社銀行八十年史（東洋経済新報社、1955年）2篇 日本会社史 47_百貨店「三越」",
                      "url": "https://dl.ndl.go.jp/pid/3043712"
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              "sub_title": "宣言は、売場が先に出した結論であった",
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                  "text": "明治33年10月に本店の全階を陳列場とし、座売りを全廃した時点で、三越は呉服以外を並べられる店になっていた。デパートメントストア宣言が出るのはその4年後、株式会社三越呉服店を設立した明治37年12月である。宣言が新しい業態を呼び込んだのではなく、陳列販売を採り入れてから9年かけた売場の改造が、宣言を出せる状態を先に作っていた。日比翁助氏が会社の形を変える月にそれを対外へ示したのは、売り方の改造がひととおり済んだという判断があったからだとみられる。"
                },
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                  "text": "ただ、宣言から品目が揃うまでには10年を要した。呉服以外を増やすと言ってから、食料品と園芸の売場が入る建物ができるのは大正3年9月であり、意思の表明と売場の実物には長い距離があった。先を行った利も長くは続かず、大正初頭には各百貨店ともデパートメント・ストアーの態勢を整えている。呉服店から百貨店へ移るという道筋そのものは各社に共通しており、三越が握ったのは方向ではなく数年の時間差だったといえる。"
                }
              ]
            }
          ]
        }
      ],
      "references": [
        "会社銀行八十年史（東洋経済新報社、1955年）2篇 日本会社史 47_百貨店「三越」",
        "会社銀行八十年史（東洋経済新報社、1955年）2篇 日本会社史 47_百貨店「概説」",
        "株式会社三越 有価証券報告書【沿革】"
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      "authored": "2026-07",
      "last_updated": "2026-07-27"
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      "title": "「拡・百貨店」路線の採用と、土地取得だけで580億円を投じたゴルフ場開発",
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          "text": "1986年に社長に就いた坂倉芳明氏が「拡・百貨店」と称する多角化を掲げ、1988年にゴルフ場開発へ着手した判断。土地取得だけで580億円を投じ、開発向けの融資は子会社を介して行われた。投資は社外にも社内にも伏せられたまま10年続き、1997年10月3日に446億円の特別損失として表面化した。坂倉氏は会長として取締役を退任している。"
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          "text": "三越の収益は東京日本橋の本店に寄っており、全社売上高の40%以上、利益では75%ほどを一店が稼いでいた。三井グループを背景にした法人外商と、ツケでの購入を認めた上得意客「御帳場」という強みは細り始めていた。1980年代後半のバブル期には総合生活産業が流行し、百貨店が本業の周辺へ広げるのは業界に共通の動きであった。"
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          "label": "内容",
          "text": "坂倉氏はホテル・スポーツ・輸入車販売・海外店舗の出店へ広げ、ゴルフ場開発では土地取得だけで580億円を投じた。用地買収への支障を理由に融資を子会社経由とし、開発物件と開発業者は特別損失の発表後も明らかにしなかった。前任社長で着手時に取締役会長だった市原晃相談役も、発表まで開発を知らなかったと述べている。"
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          "text": "1998年2月期の最終赤字は345億円、1999年2月期は364億円の特別損失で260億円の赤字となり、2期の単体赤字は計593億円、上場以来初の無配に落ちた。その間、日本橋本店が利益の七割近くを稼ぐ一極体制は変わらず、パート比率は伊勢丹・高島屋の40%以上に対し15%程度にとどまった。多角化に割いた10年は、本業に手を入れる10年でもあった。"
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          "title": "福岡三越を開店（投資総額600億円）。同月3日にゴルフ場開発に伴う446億円の特別損失を発表し、坂倉氏が取締役を退任"
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                  "text": "三越の収益は、東京日本橋の一店に寄っていた。1997年の時点でも本店の年商は3,000億円強で、単店の売上高では日本一を保っていた。全社の売上高では40%以上、利益ではおよそ75%をこの一店が稼ぎ出している。強みの源は、三井グループを背景にした法人外商と、ツケでの購入を認められた上得意客「御帳場」の厚みにあった。売上の構成比率はほとんど動かず、地方店の不振を本店が埋める形が長く続いた。",
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                      "原文": "東京日本橋の三越本店。店舗の年商は三〇〇〇億円強、現在でも単店舗の売上高では日本一を誇る。／三越は長い間、収益面で本店依存体質を引きずってきた。売上高で全体の四〇％以上、利益ではなんと七五％ほどを本店で稼ぎ出している。売り上げの構成比率にほとんど変化はなく、現実には地方店の不振を本店がカバーする形が続いている。",
                      "source": "週刊東洋経済 1997年11月29日号「三越 のれん経営の限界 ４４６億円の特損でも危機感ゼロ？」",
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                      "原文": "本店の強みは、三井グループを背景にした法人外商の強さと、老舗という遺産から来る固定客の多さにある。御帳場と言われるツケで買うことを認められた上得意客は三越の大きな財産だった。",
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                      "source": "週刊東洋経済 1997年11月29日号「三越 のれん経営の限界 ４４６億円の特損でも危機感ゼロ？」",
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                      "原文": "高島屋出店後の東京圏の地区別売り上げシェアは新宿地区の上昇（前年比二・六％）に伴い、日本橋地区は同一・四％減となり、東京圏内で最も影響を受けた地区となっている。",
                      "source": "週刊東洋経済 1997年11月29日号「三越 のれん経営の限界 ４４６億円の特損でも危機感ゼロ？」",
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                  "text": "1986年に社長へ就いた坂倉芳明氏は、前社長の岡田茂氏と対立して三越を追われ、西武百貨店の社長を務めた後に戻ってきた人物であった。掲げた路線は「拡・百貨店」と称する多角化で、ホテル・スポーツ・輸入車販売へ広げ、海外店舗の出店とゴルフ場開発にも進んだ。在任は社長として1995年まで、会長として1997年までの11年に及ぶ。本店依存を是正するという課題に対し、坂倉氏が選んだのは売り場の中身を作り替えることではなく、店の外へ事業を足すことであった。",
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                      "fact": "岡田茂と対立して三越を追われた坂倉芳明は西武百貨店社長を務めた後に復帰し、社長として「拡・百貨店」の多角化路線を掲げてホテル・スポーツ・輸入車販売へ広げた",
                      "原文": "その岡田と対立して、三越を追い出されたのが坂倉芳明だ。西武百貨店の社長を務めた後、三越に返り咲いたのだが、社長として坂倉が掲げたのが、「拡・百貨店」の多角化路線である。／結果としてホテルやスポーツ、輸入車販売へ手を広げたが、９７年秋にゴルフ場開発の失敗が表面化。",
                      "source": "週刊東洋経済 2005年7月16日号「４店閉鎖、１０００人削減の波紋 “三越な人々”のかくも長き戦略不在」",
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                      "原文": "「拡百貨店」を唱え、周辺事業を強化した坂倉芳明氏（８６〜９５年在任、９７年まで会長）など、強烈なリーダーシップで、攻めの経営に突き進んできた。",
                      "source": "週刊東洋経済 2007年9月8日号「経営統合にかけた起死回生策 低迷招いた三越「空白」の１０年」",
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                      "原文": "坂倉氏は「拡百貨店戦略」と称し、海外店舗の出店、ゴルフ場開発など周辺事業への進出を進めたが、その失敗で三越は体力を大きく消耗した。",
                      "source": "週刊東洋経済 1999年3月27日号「三越 老舗「のれん」の虚像 “三井発祥”企業の凋落」",
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                },
                {
                  "text": "この選択は、当時の同業の方向と揃っていた。1980年代後半のバブル期には、セゾングループに代表される「総合生活産業」がもてはやされ、百貨店が本業の周辺へ手を伸ばすのは業界に共通の動きであった。坂倉氏の路線そのものが時代から外れていたわけではない。周辺事業へ資本を割いた10年のあいだ、本業の収益構造には手が入らなかった。1999年の週刊東洋経済は、凋落の根本を「ここ数十年来、本業の収益構造に何一つメスが入っていない」点に見ている。",
                  "evidences": [
                    {
                      "fact": "坂倉の多角化は1980年代後半のバブル期にセゾングループに代表される「総合生活産業」がもてはやされた時期の動きで、本業強化は二の次にされた",
                      "原文": "世は８０年代後半のバブル期で、セゾングループに代表される“総合生活産業”がはやされたころ。ここでも本業強化は、二の次にされてしまった。",
                      "source": "週刊東洋経済 2005年7月16日号「４店閉鎖、１０００人削減の波紋 “三越な人々”のかくも長き戦略不在」",
                      "url": null
                    },
                    {
                      "fact": "三越の凋落の根本原因は多角化の失敗ではなく、数十年来本業の収益構造に手が入っていないことにあると指摘された",
                      "原文": "しかし、三越凋落の根本的な原因はほかにある。ここ数十年来、本業の収益構造に何一つメスが入っていないのだ。",
                      "source": "週刊東洋経済 1999年3月27日号「三越 老舗「のれん」の虚像 “三井発祥”企業の凋落」",
                      "url": null
                    }
                  ]
                }
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            }
          ]
        },
        {
          "section": "origin",
          "label": "決断",
          "subsections": [
            {
              "sub_title": "580億円を土地に置いた多角化",
              "paragraphs": [
                {
                  "text": "ゴルフ場開発は、坂倉氏が社長を務めていた1988年に始まった。土地取得だけで580億円を投じる規模で、拡・百貨店が広げた先のなかでも最も重い投資となる。ホテル、スポーツ、輸入車販売、海外店舗と並べても、ゴルフ場は百貨店の売り場と接する面がほとんどない。本店以外に稼ぐ場所を作るという課題への答えとして選ばれたのは、品ぞろえや接客ではなく、土地を取得して施設を建てる事業であった。",
                  "evidences": [
                    {
                      "fact": "ゴルフ場開発は坂倉芳明の社長時代の1988年から始まり、土地取得だけで580億円を投じた大型案件であった",
                      "原文": "今回のゴルフ場開発は坂倉氏が社長時代の８８年から始まり、土地取得だけで五八〇億円もの巨費を投じた大プロジェクトだ。",
                      "source": "週刊東洋経済 1997年11月29日号「三越 のれん経営の限界 ４４６億円の特損でも危機感ゼロ？」",
                      "url": null
                    }
                  ]
                },
                {
                  "text": "土地を取得して建てるという解き方は、周辺事業だけに向いたわけではない。1996年11月、三越は大阪駅前の国鉄跡地の入札に敗れる。提示価格は落札したヨドバシカメラに及ばず、二番札のパルコも下回った。翌1997年10月1日には福岡三越を開店させ、投資負担は総額600億円、単年度黒字化は7年後という計算であった。関西に拠点を得られないまま九州へ600億円を向けた順序に、拠点配置の優先順位が定まっていなかったことがうかがえる。",
                  "evidences": [
                    {
                      "fact": "1996年11月、三越は大阪駅前の国鉄跡地入札に失敗し、提示価格は落札したヨドバシカメラのみならず二番札のパルコよりも低かった",
                      "原文": "三越は昨年１１月に大阪駅前の国鉄跡地入札に失敗、戦略の再構築を迫られた（結果的にヨドバシカメラが落札）。当時から社内的にも批判が出て「ヨドバシうんぬんより、二番札のパルコより入札価格が低かったことに抵抗があった」（関係者）。",
                      "source": "週刊東洋経済 1997年11月29日号「三越 のれん経営の限界 ４４６億円の特損でも危機感ゼロ？」",
                      "url": null
                    },
                    {
                      "fact": "福岡三越は1997年10月1日に開店し、投資負担は総額600億円、初年度の売上目標は410億円で7年での単年度黒字化を見込んでいた",
                      "原文": "三越の四番目の国内百貨店子会社である福岡三越が１０月１日にオープンしている。滑り出しは順調のようだが、連結の財務内容を考えると喜んでばかりはいられない。福岡三越の投資負担は総額六〇〇億円。初年度の売り上げ目標が四一〇億円、三越では七年で単年度黒字化とはじいているようだが、この消費不況の時期では資金回収に至る期間が超長期化しかねない。",
                      "source": "週刊東洋経済 1997年11月29日号「三越 のれん経営の限界 ４４６億円の特損でも危機感ゼロ？」",
                      "url": null
                    }
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            },
            {
              "sub_title": "上から回る伺い書",
              "paragraphs": [
                {
                  "text": "580億円の投資が10年にわたって表に出なかった理由は、資金の通し方にあった。三越は「用地買収に支障を来すから」としてゴルフ場への融資を子会社を介して行い、外部に漏れない形をとった。用地の買い占めを避けるための実務上の配慮は、そのまま損失を決算の表から遠ざける仕掛けにもなっていた。開発物件と開発業者について、三越は特別損失の発表後も一切コメントしていない。株主には、損失が発表された範囲で収まるのかを判断する手がかりが渡らなかった。",
                  "evidences": [
                    {
                      "fact": "三越は用地買収への支障を理由に、ゴルフ場への融資を子会社を介して行い外部に漏れないようにしていた",
                      "原文": "三越は「用地買収に支障を来すから」とゴルフ場への融資を子会社を介して行うことで外部に漏れないようにしてきた。",
                      "source": "週刊東洋経済 1997年11月29日号「三越 のれん経営の限界 ４４６億円の特損でも危機感ゼロ？」",
                      "url": null
                    },
                    {
                      "fact": "開発物件・開発業者について三越は特損発表後も一切コメントせず、株主は損失が発表された範囲で済むのか判断できなかった",
                      "原文": "現在でも開発物件、開発業者等について、三越は一切コメントしない。これでは、ゴルフ場開発に伴う損失が発表された範囲で済むのかどうか、株主は判断のしようがない。",
                      "source": "週刊東洋経済 1997年11月29日号「三越 のれん経営の限界 ４４６億円の特損でも危機感ゼロ？」",
                      "url": null
                    }
                  ]
                },
                {
                  "text": "伏せられていた相手は社外にとどまらない。労働組合が特別損失を知らされたのは1997年9月末で、含み損は社内にも伝えられていなかった。坂倉氏の前任社長で、着手時には取締役会長だった市原晃相談役も、発表まで開発を知らなかったと述べている。三越では役員の任期が明確でなく定年制もないため長期の政権が生まれやすく、会長と社長の判が先に押された伺い書が回る例が多かったという。決裁が最初に来る順序のもとでは、投資の妥当性を下から検算する機会は残らない。",
                  "evidences": [
                    {
                      "fact": "労働組合が特損を知らされたのは1997年9月末で、含み損は社内にも伏せられていた。前任社長で着手時に取締役会長だった市原晃相談役も発表まで開発を知らなかった",
                      "原文": "三越の労働組合が今回の特損について知らされたのは９月末になってからで、それまで含み損については社内的にも一切伏せられていたという。坂倉氏の前任の社長で、開発着手時には取締役会長だった市原晃相談役ですら「今回の特損の発表まで（開発について）知らなかった」という。",
                      "source": "週刊東洋経済 1997年11月29日号「三越 のれん経営の限界 ４４６億円の特損でも危機感ゼロ？」",
                      "url": null
                    },
                    {
                      "fact": "三越では役員の任期が明確でなく定年制もないため長期政権が生まれやすく、会長・社長の判が先に押された伺い書が回されるケースがよく見られた",
                      "原文": "役員の任期が明確でなく、定年制もないため長期政権が生まれやすい。／しかし、三越では会長、社長の判が先に押された伺い書が回されるケースがよく見られるという。トップダウンが悪いわけではないが、こうした案件にチェックが働くかどうか。",
                      "source": "週刊東洋経済 1997年11月29日号「三越 のれん経営の限界 ４４６億円の特損でも危機感ゼロ？」",
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            }
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        },
        {
          "section": "outcome",
          "label": "結果",
          "subsections": [
            {
              "sub_title": "446億円の特別損失と会長の退任",
              "paragraphs": [
                {
                  "text": "1997年10月3日、三越はゴルフ場開発に伴う446億円の特別損失を計上し、1998年2月期に320億円の最終赤字へ転落すると発表した。責任を追及する声を受けて、坂倉芳明会長は取締役を退任し相談役に引いた。三越は前期まで7期連続の連結赤字で累積損失36億円を抱えていたが、子会社の整理が進み、この期は連結黒字化の見通しであった。特損で累損は拡大し、連結の株主資本比率は一ケタ台へ落ちる見込みとなる。連結・持分法適用の64社のうち24社は経常赤字にあった。",
                  "evidences": [
                    {
                      "fact": "1997年10月3日にゴルフ場開発に伴う446億円の特別損失を計上し1998年2月期に320億円の最終赤字へ転落すると発表、坂倉芳明会長は取締役を退任して相談役となった",
                      "原文": "１０月３日、三越はゴルフ場開発に伴い四四六億円の特別損失を計上し、９８年２月期に三二〇億円の最終赤字に転落する、と発表した。反響は大きく、責任追及の声に押されるように、坂倉芳明会長は取締役を退任し相談役に引くことになった。",
                      "source": "週刊東洋経済 1997年11月29日号「三越 のれん経営の限界 ４４６億円の特損でも危機感ゼロ？」",
                      "url": null
                    },
                    {
                      "fact": "前期まで7期連続の連結赤字で累積損失36億円、この期は連結黒字化の見通しだったが特損で累損が拡大し連結株主資本比率は一ケタ台へ落ち込む見込みとなった。連結・持分法適用64社のうち24社が経常赤字だった",
                      "原文": "三越は前期まで七期連続で連結赤字を計上、累損も三六億円発生していたのだが、バブル崩壊後子会社の整理を進めていたこともあって、今期は連結黒字化の見通しだった。しかし今回の特損によって累損は拡大、連結の株主資本比率も一ケタ台にまで落ち込む見込みだ。／連結、持分法適用会社六四社のうち、二四社が経常赤字の状態であり、累損を抱えた子会社も多い。",
                      "source": "週刊東洋経済 1997年11月29日号「三越 のれん経営の限界 ４４６億円の特損でも危機感ゼロ？」",
                      "url": null
                    }
                  ]
                },
                {
                  "text": "発表の反響は社内にも及んだ。労働組合は1998年1月を期限として経営刷新のビジョンを作るよう経営側に求める。これに対して三越が発足させた「経営改革推進委員会」は、役員で構成された。変える側と変えられる側が同じ顔ぶれになったところに、10年の秘密を許した仕組みが手つかずで残っていた。経営陣は特損の計上後も「大阪出店は全社的な悲願。出店の意思は今でも変わらない」（井上和雄専務）と述べ、拠点を新設する路線を崩さなかった。",
                  "evidences": [
                    {
                      "fact": "労働組合は1998年1月を期限として経営刷新のビジョンをつくるよう要求し、経営側が発足させた「経営改革推進委員会」も役員で構成された",
                      "原文": "さすがに経営陣のデタラメぶりに労組も重い腰を上げた。来年１月を期限として、経営刷新のビジョンをつくるよう要求したのだ。それに対し経営側では、「経営改革推進委員会」を発足させ、労組の要求に対応するという。しかし、この委員会をも役員で構成する、というところに経営陣の権威主義、形式主義がのぞいている。",
                      "source": "週刊東洋経済 1997年11月29日号「三越 のれん経営の限界 ４４６億円の特損でも危機感ゼロ？」",
                      "url": null
                    },
                    {
                      "fact": "特損計上後も経営陣は大阪出店の意思を崩さなかった（井上和雄専務）",
                      "原文": "経営陣は今回の特損計上でも「大阪出店は全社的な悲願。出店の意思は今でも変わらない」（井上和雄専務）と大阪出店の姿勢は現在も崩していない。",
                      "source": "週刊東洋経済 1997年11月29日号「三越 のれん経営の限界 ４４６億円の特損でも危機感ゼロ？」",
                      "url": null
                    }
                  ]
                }
              ]
            },
            {
              "sub_title": "2期で593億円の赤字と、上場初の無配",
              "paragraphs": [
                {
                  "text": "損失の後始末は1期では終わらなかった。1998年2月期の最終赤字は345億円、続く1999年2月期には子会社の累積損失の引き当てなどで364億円の特別損失を計上し、260億円の最終赤字となる。この2期の単体赤字は計593億円に達し、三越は上場以来初めての無配へ落ちた。連結決算は8期連続の最終赤字、連結の株主資本比率は3%を割り、株価は金融危機のさなかに200円台まで下がっている。1999年2月には600名の人員削減を含むリストラを発表した。",
                  "evidences": [
                    {
                      "fact": "1999年2月期に子会社の累損引き当てなどで364億円の特別損失を計上し260億円の最終赤字、前期にもゴルフ場開発で345億円の最終赤字。連結は8期連続の最終赤字で連結株主資本比率は3%を割った",
                      "原文": "三越は９９年２月期に子会社の累損引き当てなどで三六四億円の特別損失を計上、二六〇億円の最終赤字に転落した。前期にもゴルフ場開発に伴い三四五億円の最終赤字に陥っておりこれで二期連続の大幅な赤字だ。連結決算に至っては、９９年２月期で八期連続の最終赤字。連結の株主資本比率は三％を割る状況にある。",
                      "source": "週刊東洋経済 1999年3月27日号「三越 老舗「のれん」の虚像 “三井発祥”企業の凋落」",
                      "url": null
                    },
                    {
                      "fact": "1998年2月期・1999年2月期で計593億円の単体赤字を計上して上場初の無配に転落し、株価は200円台まで低迷した",
                      "原文": "多角化のウミを出す形で、９８年２月期、９９年２月期で計５９３億円の赤字（単体）を計上、上場初の無配に転落した。金融危機のさなかに株価は２００円台まで低迷するところまで追い込まれた。",
                      "source": "週刊東洋経済 2005年7月16日号「４店閉鎖、１０００人削減の波紋 “三越な人々”のかくも長き戦略不在」",
                      "url": null
                    },
                    {
                      "fact": "1999年2月に600名の人員削減など大幅なリストラを発表した",
                      "原文": "三越は創業以来最大の危機に立たされている――。２月、六〇〇名の人員削減など大幅なリストラを発表した。",
                      "source": "週刊東洋経済 1999年3月27日号「三越 老舗「のれん」の虚像 “三井発祥”企業の凋落」",
                      "url": null
                    }
                  ]
                },
                {
                  "text": "1999年の週刊東洋経済は、特別損失の原因を坂倉前会長の多角化路線の失敗に見たうえで、凋落の根本は別にあると書いた。本業では、日本橋本店が利益の七割近くを稼ぐ一極体制が数十年変わらず、従業員のパート比率は伊勢丹や高島屋の40%以上に対して15%程度にとどまっていた。合理化の先送りと多角化の損失が、同じ時期に決算へ現れた。ゴルフ場に置いた580億円が失わせたのは資金だけでなく、本業に手を入れるための10年でもあった。",
                  "evidences": [
                    {
                      "fact": "特損の原因は坂倉芳明前会長の多角化路線の失敗にあるが、凋落の根本原因は数十年来本業の収益構造に手が入っていないことにあると指摘された",
                      "原文": "特損の原因は坂倉芳明前会長が推進した多角化路線の失敗にある。坂倉氏は「拡百貨店戦略」と称し、海外店舗の出店、ゴルフ場開発など周辺事業への進出を進めたが、その失敗で三越は体力を大きく消耗した。／しかし、三越凋落の根本的な原因はほかにある。ここ数十年来、本業の収益構造に何一つメスが入っていないのだ。",
                      "source": "週刊東洋経済 1999年3月27日号「三越 老舗「のれん」の虚像 “三井発祥”企業の凋落」",
                      "url": null
                    },
                    {
                      "fact": "日本橋本店が利益の七割近くを稼ぐ一極体制は数十年変わらず、従業員のパート比率は伊勢丹・高島屋の40%以上に対し三越は15%程度（1998年度中間期）だった",
                      "原文": "店舗では、日本橋本店が利益の七割近くを稼ぎ出す。／収益の日本橋一極体制もここ数十年、何一つ変化がない。／例えばコスト構造を表す指標として従業員のパート比率を見ると、伊勢丹や高島屋が四〇％以上のパート比率なのに対して、三越は一五％程度（９８年度中間期）だ。",
                      "source": "週刊東洋経済 1999年3月27日号「三越 老舗「のれん」の虚像 “三井発祥”企業の凋落」",
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              "sub_title": "正しい問いに、土地で答えた10年",
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                {
                  "text": "利益の75%を一店から得ている会社が、本店以外の収益源を欲したこと自体は正しい課題設定であった。総合生活産業が流行し、同業が本業の周辺へ広げていた1980年代後半に、坂倉芳明社長が拡・百貨店を掲げたのも同業と揃った選択にすぎない。誤算は目算の甘さより、答えの形にあったとみられる。ホテルもスポーツもゴルフ場も、土地を取得して施設を建てる事業であり、品ぞろえと接客という百貨店の中身へは還らない投資であった。"
                },
                {
                  "text": "もっとも、580億円の損失だけで三越が沈んだとは言い切れない。1999年2月期の364億円の特別損失は子会社の累積損失の引き当てであり、伊勢丹や高島屋の40%以上に対して15%程度というパート比率も、ゴルフ場とは関わりなく積み上がった重さであった。前任の会長が10年知らない投資が通る会社では、誰が何を選んでも検算は働かない。失敗の芯は多角化という選択より、それを止める仕組みが無かったことにあったとみることができる。"
                }
              ]
            }
          ]
        }
      ],
      "references": [
        "週刊東洋経済 1997年11月29日号「三越 のれん経営の限界 ４４６億円の特損でも危機感ゼロ？」",
        "週刊東洋経済 1999年3月27日号「三越 老舗「のれん」の虚像 “三井発祥”企業の凋落」",
        "週刊東洋経済 2005年7月16日号「４店閉鎖、１０００人削減の波紋 “三越な人々”のかくも長き戦略不在」",
        "週刊東洋経済 2007年9月8日号「経営統合にかけた起死回生策 低迷招いた三越「空白」の１０年」"
      ],
      "authored": "2026-07",
      "last_updated": "2026-07-27"
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    {
      "slug": "four-store-closure-2005",
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      "title": "横浜・大阪・枚方・倉敷4店の同時閉鎖と早期退職の実施、新設合併による連結欠損金の一掃",
      "subtitle": "315年の大阪店を畳んで梅田再進出まで6年空けるか、年40億円の赤字を抱えたまま関西の拠点を残すか",
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          "label": "概要",
          "text": "2005年5月5日、三越が横浜店・大阪店・枚方店・倉敷店の4店を同じ日に閉鎖し、あわせて早期退職を実施した経営判断。中村胤夫社長のもとで決め、対外的な発表は2004年秋であった。4店で年40億円の赤字が慢性化しており、店舗閉鎖は1999年の新宿南館以来であった。"
        },
        {
          "label": "背景",
          "text": "大阪店は北浜にあって、買い物客が動くキタとミナミの流れから外れていた。1995年1月の阪神・淡路大震災で旧館を失い、翌年5月の新館で売場面積は半分に縮む。1996年11月の大阪駅前の国鉄跡地入札にも敗れ、関西の一等地を取れないまま赤字店だけが残った。"
        },
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          "label": "内容",
          "text": "4店で年40億円の赤字が慢性化していた。大阪店は日本橋本店に次ぐ315年の店、枚方店はその分店、横浜店は開店から30年、倉敷店は1980年11月の開店であった。2005年2月には早期退職を募り、800人の枠に半月で1,000人が応募した。前期末の単体従業員の12%を超える人数にあたる。"
        },
        {
          "label": "含意",
          "text": "2003年9月の新設合併で含み益を時価に評価替えし、連結欠損金133億円と子会社の負の遺産を消したうえで、店と人に手をつけた順序になる。財務の過去を先に清算した一方、豊富な含み資産は時価総額2,500億円の会社を買収の標的とみる議論も呼んだ。"
        }
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            "note": "日本橋本店に売上の4割を頼る老舗百貨店。2003年9月の新設合併で発足した新会社として中期5カ年計画の途中にあった"
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          "title": "中期5カ年計画を下方修正（連結営業利益300億円→215億円）、石塚邦雄氏の社長就任を発表"
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          "title": "横浜店・大阪店・枚方店・倉敷店の4店を同時に閉鎖",
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          "title": "連結売上高8,420億円・当期純利益91億円へ回復、連結従業員は1年で1,522名減"
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        "source": "三越 有価証券報告書（2005年2月期・連結）",
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                  "text": "三越大阪店は北浜にあった。証券会社が集まる西の兜町にあたる一帯で、買い物客が動くキタとミナミの商業地間競争からは外れた場所である。1995年1月の阪神・淡路大震災は旧館を使えなくし、翌1996年5月に旧館跡地へ新館を開いたものの、売場面積は震災前の半分に縮んだ。日本橋本店に次ぐ歴史を持つ店が、大阪の人の流れから遠いまま規模まで落としていた。",
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                    {
                      "fact": "大阪店は西の兜町＝北浜に立地し、キタとミナミの商業地間競争に敗れて買い物客の流れの外にあった",
                      "原文": "西の兜町＝北浜に立地する大阪店は、もともと、キタとミナミの商業地間競争に破れ、買い物客の流れのらち外にあった。９５年には阪神大震災が直撃。",
                      "source": "週刊東洋経済 2005年7月16日号「４店閉鎖、１０００人削減の波紋 “三越な人々”のかくも長き戦略不在」",
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                    {
                      "fact": "大阪店は1995年1月の阪神・淡路大震災で旧館を閉鎖し、1996年5月に旧館跡地へ新館を開店した",
                      "原文": "平成７年１月　阪神・淡路大震災により大阪店旧館閉鎖。平成８年５月　大阪店旧館跡地に新館開店。",
                      "source": "三越 有価証券報告書【沿革】",
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                    {
                      "fact": "大阪店は日本橋本店に次いで歴史が古く、震災で建物が倒壊して売場面積が半分になった",
                      "原文": "さらに大阪は日本橋本店に次ぎ歴史が古く、９５年の阪神・淡路大震災で建物が倒壊し、売場面積が半分になったという経緯もある。",
                      "source": "週刊東洋経済 2002年1月12日号「三越 構造改革の道半ばで大阪新店の危うい賭け」",
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                },
                {
                  "text": "関西で立地を取り直す機会は、1996年11月にあった。大阪駅前の国鉄跡地の入札に三越は敗れ、落札したのはヨドバシカメラであった。社内で問題になったのは価格であった。関係者は「ヨドバシうんぬんより、二番札のパルコより入札価格が低かったことに抵抗があった」と述べている。それでも井上和雄専務は「大阪出店は全社的な悲願」と語り、出店の意思を崩さなかった。梅田を取れないまま、北浜の赤字店が関西唯一の拠点として残った。",
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                    {
                      "fact": "1996年11月に大阪駅前の国鉄跡地入札に失敗し、ヨドバシカメラが落札した。社内では二番札のパルコより低い入札価格が問題になった",
                      "原文": "三越は昨年１１月に大阪駅前の国鉄跡地入札に失敗、戦略の再構築を迫られた（結果的にヨドバシカメラが落札）。当時から社内的にも批判が出て「ヨドバシうんぬんより、二番札のパルコより入札価格が低かったことに抵抗があった」（関係者）。",
                      "source": "週刊東洋経済 1997年11月29日号「三越 のれん経営の限界 ４４６億円の特損でも危機感ゼロ？」",
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                    {
                      "fact": "「大阪出店は全社的な悲願。出店の意思は今でも変わらない」（井上和雄専務）",
                      "原文": "経営陣は今回の特損計上でも「大阪出店は全社的な悲願。出店の意思は今でも変わらない」（井上和雄専務）と大阪出店の姿勢は現在も崩していない。",
                      "source": "週刊東洋経済 1997年11月29日号「三越 のれん経営の限界 ４４６億円の特損でも危機感ゼロ？」",
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                    {
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                      "原文": "９６年にも大阪駅前の国鉄跡地への出店を狙ったが、入札でヨドバシカメラに敗れるなどホトホト大阪には縁がない。",
                      "source": "週刊東洋経済 2002年1月12日号「三越 構造改革の道半ばで大阪新店の危うい賭け」",
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              "sub_title": "攻めへの転換と、投資に回せる金",
              "paragraphs": [
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                  "text": "2002年、三越は守りから攻めへ看板を掛け替えた。営業本部長の中村胤夫専務は「持続的成長と高収益企業への脱皮を図るため、攻めの経営に転じる」と語り、同年に社長へ就いた。並べた計画は、130億円を投じる日本橋本店の新館、名古屋三越が総投資額250億円で栄本店の隣接地に開く専門館、そして2008年の開業をめざすJR大阪駅への出店であった。9年前に逃した梅田を、再開発で取り直す絵でもあった。",
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                    {
                      "fact": "中村胤夫専務（営業本部長）は「持続的成長と高収益企業への脱皮を図るため、攻めの経営に転じる」と述べた",
                      "原文": "「持続的成長と高収益企業への脱皮を図るため、攻めの経営に転じる」。三越の営業本部長を務める中村胤夫専務は、三越の「逆襲」を高らかに宣言する。",
                      "source": "週刊東洋経済 2002年1月12日号「三越 構造改革の道半ばで大阪新店の危うい賭け」",
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                    {
                      "fact": "日本橋本店の新館に130億円、名古屋三越が栄本店隣接地の専門館に総投資額250億円、2008年開業をめざしてJR大阪駅への出店を計画していた",
                      "原文": "０４年には、日本橋本店に隣接する新館と事務館を取り壊し、一三〇億円を投じて地下四階・地上一三階建ての「新・新館」（仮称）を建設する。０５年３月には、グループ企業である名古屋三越が、総投資額二五〇億円で、栄本店の隣接地に百貨店とはまったく異なる業態の「新店舗専門館」（仮称）をオープンする。そして、０８年の開業を目指して、ＪＲ大阪駅への出店計画も進んでいる。",
                      "source": "週刊東洋経済 2002年1月12日号「三越 構造改革の道半ばで大阪新店の危うい賭け」",
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                      "原文": "その後０２年に社長に就任した中村胤夫（６８）は、多角化失敗の後始末に少なからぬ時間を費やしたと言っていい。",
                      "source": "週刊東洋経済 2005年7月16日号「４店閉鎖、１０００人削減の波紋 “三越な人々”のかくも長き戦略不在」",
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                {
                  "text": "攻めに使える金は足りていなかった。2001年度の連結フリーキャッシュフローは290億円ほどで、札幌・日本橋・名古屋と続く設備投資を賄える額ではない。連結有利子負債は同年度予想で2,694億円、デット・エクイティ・レシオは5.6倍にのぼる。高島屋の1.27倍、伊勢丹の1.33倍と並べれば、借入依存の差は明らかであった。新店に投じながら赤字店を抱える余裕は、はじめから残っていなかったとみられる。",
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                      "fact": "2001年度の連結フリーキャッシュフローは290億円程度、連結有利子負債は2,694億円、デット・エクイティ・レシオは5.6倍で、高島屋1.27倍・伊勢丹1.33倍より高かった",
                      "原文": "０１年度の連結ベースのフリーキャッシュフローは二九〇億円程度にすぎず、札幌、本店、名古屋と続く設備投資の負担をとても賄えそうにない。連結ベースの有利子負債は０１年度の予想で二六九四億円。有利子負債を自己資本で割って求めるデット・エクイティ・レシオも五・六倍と大きい。高島屋の一・二七倍、伊勢丹の一・三三倍と比較すれば、借り入れ依存の体質は明らかだ。",
                      "source": "週刊東洋経済 2002年1月12日号「三越 構造改革の道半ばで大阪新店の危うい賭け」",
                      "url": null
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        {
          "section": "origin",
          "label": "決断",
          "subsections": [
            {
              "sub_title": "含み益で先に消した過去",
              "paragraphs": [
                {
                  "text": "店に手をつける前に、三越は財務の過去を消した。2003年9月1日、本体と名古屋三越・千葉三越・福岡三越・鹿児島三越が合併し、商号を引き継いだ新会社が発足する。既存5社が解散して新会社が各社と合併する新設合併を選べば、被合併会社となる本体の含み益を時価で評価替えできる。生じた評価益で連結欠損金133億円を一掃し、退職給付債務や固定資産の含み損など計数百億円に上る子会社の負の遺産も帳消しにした。",
                  "evidences": [
                    {
                      "fact": "2003年9月1日に三越本体と名古屋三越・千葉三越・鹿児島三越・福岡三越が新設合併し、商号を引き継いだ株式会社三越が設立された",
                      "原文": "平成15年９月、株式会社三越と株式会社名古屋三越、株式会社千葉三越、株式会社鹿児島三越、株式会社福岡三越が新設合併することにより設立（商号は、株式会社三越を引き継ぎました。）され、現在に至っております。",
                      "source": "三越 有価証券報告書【沿革】",
                      "url": null
                    },
                    {
                      "fact": "新設合併なら被合併会社となる三越本体の含み益を時価評価に替えられ、評価益で連結欠損金133億円を一掃し、退職給付債務や固定資産の含み損など計数百億円の子会社の負の遺産を帳消しにした",
                      "原文": "なぜかといえば、新設合併なら、被合併会社となる三越本体の持つ含み益を、時価で評価替えできるからだ。評価益で連結欠損金１３３億円の一掃に加え、退職給付債務や固定資産の含み損など、計数百億円に上る子会社の負の遺産を“帳消し”にしたのである。",
                      "source": "週刊東洋経済 2005年7月16日号「４店閉鎖、１０００人削減の波紋 “三越な人々”のかくも長き戦略不在」",
                      "url": null
                    }
                  ]
                },
                {
                  "text": "翌期からの減損会計の導入に備えた措置でもあったが、社内には異論が残った。三越OBは「先輩たちがこつこつ蓄えてきた含み。こんなに安直に使っていいのか」と述べている。含み頼みは一度で終わらず、翌期には自社物件であった大阪店舗の売却特益も見込んだ。業界で最も豊富な含み資産を抱えていたことが、改革を遅らせる方向に働いた面は否定しがたい。証券コードが小売業の8000番台から2000番台へ移ったのも、この合併からである。",
                  "evidences": [
                    {
                      "fact": "「先輩たちがこつこつ蓄えてきた含み。こんなに安直に使っていいのか」（三越OB）。含み頼みは打ち止めではなく、翌期も大阪店舗の売却特益を見込んでいた",
                      "原文": "来期からの減損会計導入に備えた措置でもあるが、「先輩たちがこつこつ蓄えてきた含み。こんなに安直に使っていいのか」（三越ＯＢ）、との声も漏れていた。しかも含み頼みは、これで打ち止めではない。今期も自社物件だった大阪店舗の売却特益を見込む。業界で最も豊富な含み資産を抱えていることに甘え、改革が遅れたことは否定できない。",
                      "source": "週刊東洋経済 2005年7月16日号「４店閉鎖、１０００人削減の波紋 “三越な人々”のかくも長き戦略不在」",
                      "url": null
                    },
                    {
                      "fact": "小売業の証券コードは8000番台だが、三越は新設合併を機に2000番台へ移った",
                      "原文": "小売業の証券コードは８０００番台なのに、唯一、三越が２０００番台に“鞍替え”したのもこのときからだ。",
                      "source": "週刊東洋経済 2005年7月16日号「４店閉鎖、１０００人削減の波紋 “三越な人々”のかくも長き戦略不在」",
                      "url": null
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            },
            {
              "sub_title": "4店で年40億円という線",
              "paragraphs": [
                {
                  "text": "閉じる店を分けた線は、赤字の慢性化であった。横浜・大阪・枚方・倉敷の4店で、赤字は年40億円に達していた。大阪店は日本橋本店に次ぐ315年の歴史を持ち、枚方店はその分店、横浜店は1973年11月の開店から30年、倉敷店は1980年11月の開店であった。店舗の統廃合を年中行事とするスーパーと違い、店数の少ない百貨店で閉店は重く、地元の抵抗も小さくない。それでも4店を抱えたまま維持する余地は残っていなかった。",
                  "evidences": [
                    {
                      "fact": "2005年5月5日に横浜店・大阪店・枚方店・倉敷店の4店を閉鎖。4店で年40億円の赤字が慢性化し、大阪店は315年、横浜店は30年の歴史を持っていた",
                      "原文": "５月５日は三越の“歴史的”な日だった。横浜店に加え、大阪店、枚方店（大阪府）、倉敷店（岡山県）の４店を閉鎖したからだ。店舗閉鎖は１９９９年の新宿南館以来だが、衝撃はケタ違いに大きい。とりわけ大阪店は東京の日本橋本店に次ぎ、３１５年の歴史を持つ店なのである。／何せ４店で年４０億円と赤字が慢性化していたのである。",
                      "source": "週刊東洋経済 2005年7月16日号「４店閉鎖、１０００人削減の波紋 “三越な人々”のかくも長き戦略不在」",
                      "url": null
                    },
                    {
                      "fact": "枚方店は大阪店の分店であり、2005年5月に大阪店・枚方店・倉敷店・横浜店を閉鎖して早期退職の措置を実施した",
                      "原文": "中期５ヵ年計画の最大の課題であった事業の抜本的改革・不採算店舗閉鎖の取り組みとして、５月に大阪店、枚方店（大阪店の分店）、倉敷店、横浜店を閉鎖し、これに伴い早期退職の措置を実施した。",
                      "source": "三越 有価証券報告書（2006年2月期）",
                      "url": null
                    },
                    {
                      "fact": "横浜店は1973年11月、倉敷店は1980年11月、枚方店は1968年7月の開店であった",
                      "原文": "昭和43年７月　枚方店開店。／昭和48年11月　横浜店開店。／昭和55年11月　倉敷店開店。",
                      "source": "三越 有価証券報告書【沿革】",
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                  ]
                },
                {
                  "text": "決まっていた判断が外に出るまでには、時間がかかった。業界では以前から既定と見られていたのに、対外的な発表は2004年秋であった。三越はワンマン経営の弊害を経て集団指導体制に移っていたが、三越OBは「朝から晩まで役員会をやっても、何一つとして決まらない。そういう体質が三越にはあった」と当時を振り返っている。閉鎖の決定が寝かされた背景には、期限を切らずに済ませられる組織の緩さがあったとみられる。",
                  "evidences": [
                    {
                      "fact": "4店閉鎖は「以前から決まっていた」と業界では見られていたが、対外的な発表は2004年秋であった",
                      "原文": "そもそも、４店閉鎖も「以前から決まっていた」（業界筋）と言われていたのに、対外的に発表したのは、ようやく昨秋になってから。",
                      "source": "週刊東洋経済 2005年7月16日号「４店閉鎖、１０００人削減の波紋 “三越な人々”のかくも長き戦略不在」",
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                    {
                      "fact": "ワンマンの弊害を経て集団指導体制に移った後も「受け身」の体質は変わらず、三越OBは「朝から晩まで役員会をやっても、何一つとして決まらない」と振り返った",
                      "原文": "その後、三越はワンマンの弊害を思い知り、集団指導体制を敷く。だが、長い歴史の中で染みついた「受け身」の体質は変わらなかった。ある三越ＯＢは「朝から晩まで役員会をやっても、何一つとして決まらない。そういう体質が三越にはあった」と当時を振り返る。",
                      "source": "週刊東洋経済 2007年9月8日号「経営統合にかけた起死回生策 低迷招いた三越「空白」の１０年」",
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        {
          "section": "outcome",
          "label": "結果",
          "subsections": [
            {
              "sub_title": "800人の枠に1,000人",
              "paragraphs": [
                {
                  "text": "人の削減は、募った枠を応募が上回った。2005年2月の早期退職では、800人の枠に対して半月で1,000人が応じた。前期末の単体従業員の12%を超える人数で、1999年の1,150人に続く2度目の希望退職にあたる。有価証券報告書は、連結従業員が1年で1,522名、単体で980名減った主な理由を早期退職特別優遇措置と記している。単体の就業人員は7,904名から6,924名へ下がった。",
                  "evidences": [
                    {
                      "fact": "2005年2月の早期退職募集は800人の枠に半月で1,000人が応募し、前期末の単体従業員の12%超に当たった。1999年の希望退職では1,150人が退社した",
                      "原文": "三越は２月に早期退職を募集し、半月で８００人の枠を上回る１０００人が応募。これは前期末の単体従業員の１２％超に当たる。希望退職は９９年以来２度目で、当時も１１５０人が退社した。",
                      "source": "週刊東洋経済 2005年7月16日号「４店閉鎖、１０００人削減の波紋 “三越な人々”のかくも長き戦略不在」",
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                    },
                    {
                      "fact": "連結従業員数は前期末から1,522名、提出会社は980名減少し、主な理由は早期退職特別優遇措置であった。提出会社の就業人員は7,904名から6,924名へ減った",
                      "原文": "従業員数は前連結会計年度末と比較して1,522名減少しているが、その主な理由は早期退職特別優遇措置によるものである。／従業員数は前事業年度末と比較して980名減少しているが、その主な理由は早期退職特別優遇措置によるものである。",
                      "source": "三越 有価証券報告書（2006年2月期）",
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                    }
                  ]
                },
                {
                  "text": "数字の上では、効果は翌期に出た。2005年2月期は売上高8,878億円に対し41億円の当期純損失で、2006年2月期は売上高8,420億円へ縮みながら当期純利益91億円に戻った。ただし同業との差は開いたままで、この年の連結営業利益予想は三越162億円、高島屋305億円、伊勢丹250億円であった。2005年4月には中期5カ年計画の最終年度目標を300億円から215億円へ下げ、石塚邦雄常務執行役員の社長就任も発表した。",
                  "evidences": [
                    {
                      "fact": "2005年2月期は連結売上高8,878億円・経常利益169億円・当期純損失41億円、2006年2月期は連結売上高8,420億円・経常利益199億円・当期純利益91億円であった",
                      "原文": "売上高8,420億９百万円（前年同期比94.8％）、経常利益は199億４千３百万円（前年同期比118.0%）であったが、繰延税金資産を取崩し、法人税等調整額（費用）を計上したため、当期純利益は90億８千８百万円（前年同期は40億６千７百万円の当期純損失）となった。",
                      "source": "三越 有価証券報告書（2006年2月期）",
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                    },
                    {
                      "fact": "2005年4月に中期5カ年計画の最終年度（2007年2月期）の連結営業利益目標を300億円から215億円へ下方修正し、常務執行役員の石塚邦雄氏を新社長に指名した。この年の連結営業利益予想は三越162億円、高島屋305億円、伊勢丹250億円であった",
                      "原文": "今年４月には０３年に公約した中期５カ年計画の見直しを余儀なくされた。最終年度０７年２月期の連結営業利益を、当初計画の３００億円から２１５億円に引き下げる内容である。／今期の連結営業利益予想を見ると、三越の１６２億円と比較し、高島屋は３０５億円、規模で下回る伊勢丹ですら２５０億円。／この４月には中期計画修正と同時にトップ交代を発表。常務執行役員の石塚邦雄（５５）を新社長に指名した。取締役でなかった石塚は社内取締役全員を抜く大抜擢だ。",
                      "source": "週刊東洋経済 2005年7月16日号「４店閉鎖、１０００人削減の波紋 “三越な人々”のかくも長き戦略不在」",
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                }
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            },
            {
              "sub_title": "拠点のない6年と、2,500億円の値札",
              "paragraphs": [
                {
                  "text": "大阪では、旧店を改修して固定客をつなぎとめるのが当初の計画であった。それが赤字に耐えられず閉鎖に変わり、2011年のJR大阪駅への再進出まで、関西に店を持たない6年が生じた。2004年6月には、JR西日本が約1,500億円を投じる大阪駅再開発の目玉として、約9万平方メートルの梅田進出が語られていた。石塚邦雄社長は「新たに出店するより今ある店を生かしていく」と述べ、空白の6年を既存店と外商で持たせる考えを示した。",
                  "evidences": [
                    {
                      "fact": "旧大阪店を改修して固定客をつなぎとめるのが当初の計画だったが、赤字に耐えられず閉鎖した。2011年の再進出まで6年、拠点のない大阪で外商の法人顧客を維持できるかが課題となった",
                      "原文": "１１年には、ＪＲ西日本が主導する同じ大阪駅の再開発構想に三越も再び参戦する予定だが、それまでは旧大阪店を改修して固定客をつなぎとめるのが、当初の計画だった。ところが、赤字に耐え切れず、大阪店は閉鎖。あと６年間、拠点のない大阪で、外商の法人顧客などを維持できるのか。",
                      "source": "週刊東洋経済 2005年7月16日号「４店閉鎖、１０００人削減の波紋 “三越な人々”のかくも長き戦略不在」",
                      "url": null
                    },
                    {
                      "fact": "JR西日本が約1,500億円を投じる大阪駅再開発は2011年完成予定で、目玉は三越の進出。百貨店部分の面積は約9万平方メートルであった",
                      "原文": "ＪＲ西日本が約１５００億円を投じる大阪駅再開発がそれだ。２０１１年の完成予定で目玉は三越の進出。百貨店部分の面積だけで約９万平方メートルに上る。かつて三越は旧国鉄跡地の払い下げをめぐってヨドバシに入札で負けた経緯もあり、悲願の梅田進出。",
                      "source": "週刊東洋経済 2004年6月5日号「攻めに転じた百貨店 地域編９ 南北対決大阪 そごう出店で蘇る心斎橋」",
                      "url": null
                    },
                    {
                      "fact": "石塚邦雄社長は「わが社にはすでに全国ネットワークがあり、新たに出店するより今ある店を生かしていく」と述べた",
                      "原文": "わが社にはすでに全国ネットワークがあり、新たに出店するより今ある店を生かしていく。",
                      "source": "週刊東洋経済 2005年7月16日号「４店閉鎖、１０００人削減の波紋 “三越な人々”のかくも長き戦略不在」",
                      "url": null
                    }
                  ]
                },
                {
                  "text": "含み資産で過去を消した会社には、その含み資産ゆえの値札が付いた。株価は500円強、時価総額は2,500億円で、支配権を握る半分なら1,250億円で足りる。クレディスイス・ファーストボストン証券の佐々木泰行氏は、プレミアム3割のTOBでも1,500億円、土地の含み益1,000億円と償却前営業利益300億円なら2年で回収できると計算した。石塚社長も「大した金額ではないし、危機感は持っている」と述べている。",
                  "evidences": [
                    {
                      "fact": "株価500円強・時価総額2,500億円で、プレミアム3割のTOBなら1,500億円、土地の含み益1,000億円と償却前営業利益300億円で2年で回収可能と試算された",
                      "原文": "三越株は現在５００円強。時価総額は２５００億円で、支配権を握る５０％なら、１２５０億円で済む。「市場で集めるのは無理でも、プレミアム３割でＴＯＢをかければ、１５００億円で足りる。土地の含み益を１０００億円、償却前営業利益を３００億円とすれば、２年で回収可能だ」（クレディスイス・ファーストボストン証券の佐々木泰行・株式調査部ディレクター）。",
                      "source": "週刊東洋経済 2005年7月16日号「４店閉鎖、１０００人削減の波紋 “三越な人々”のかくも長き戦略不在」",
                      "url": null
                    },
                    {
                      "fact": "石塚邦雄社長は「現状の時価総額は２５００億円程度。大した金額ではないし、危機感は持っている」と述べた",
                      "原文": "ただ現状の時価総額は２５００億円程度。大した金額ではないし、危機感は持っている。",
                      "source": "週刊東洋経済 2005年7月16日号「４店閉鎖、１０００人削減の波紋 “三越な人々”のかくも長き戦略不在」",
                      "url": null
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                  ]
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            },
            {
              "sub_title": "北浜の9年",
              "editorial": true,
              "paragraphs": [
                {
                  "text": "大阪店の閉鎖は、1996年11月に梅田を取れなかったことの後始末であった。二番札のパルコより低い値を付けてヨドバシカメラに敗れたあと、三越は北浜の店を改修して固定客をつなぐ道を選び、人の流れの外で赤字を積んだ。315年の店を畳んだのは、立地を取り直す機会を逃した判断を、これ以上先へ延ばせなくなったからだとみられる。4店で年40億円という赤字額には、その先延ばしに払った分が含まれている。"
                },
                {
                  "text": "ただし、この整理で会社が身軽になったとは言いにくい。含み益で連結欠損金133億円を消し、4店と1,000人を削った後も、連結営業利益は高島屋の半分程度にとどまった。含み資産を先に使ったことは、土地の含み益1,000億円を理由に買収の標的と名指される状況も残した。過去の清算と本業の立て直しは別の作業であったといえる。2年後、三越は単独での改革を断念し、伊勢丹との経営統合へ向かった。"
                }
              ]
            }
          ]
        }
      ],
      "references": [
        "週刊東洋経済 2005年7月16日号「４店閉鎖、１０００人削減の波紋 “三越な人々”のかくも長き戦略不在」",
        "週刊東洋経済 2007年9月8日号「経営統合にかけた起死回生策 低迷招いた三越「空白」の１０年」",
        "週刊東洋経済 2004年6月5日号「攻めに転じた百貨店 地域編９ 南北対決大阪 そごう出店で蘇る心斎橋」",
        "週刊東洋経済 2002年1月12日号「三越 構造改革の道半ばで大阪新店の危うい賭け」",
        "週刊東洋経済 1997年11月29日号「三越 のれん経営の限界 ４４６億円の特損でも危機感ゼロ？」",
        "三越 有価証券報告書（2006年2月期）",
        "三越 有価証券報告書【沿革】"
      ],
      "authored": "2026-07",
      "last_updated": "2026-07-27"
    }
  ]
}
