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      "title": "軍需会社からの再転換とミシン・農具案の不採用、腕時計専業への復帰",
      "subtitle": "敗戦で仕事を失った工場は何を作るべきか——500人の手が知っていた仕事へ戻るまで",
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      "issue": "敗戦後の事業選択と時計事業への復帰",
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          "label": "概要",
          "text": "1945年末から1946年3月にかけて、大日本時計（現シチズン時計）が軍需生産から腕時計専業へ戻る方針を固め、山田栄一氏の社長就任とともに実行に移した経営判断である。ミシン・農具・ラジオ・家庭用品といった転換案が並ぶなかで、時計以外を選ばなかった。"
        },
        {
          "label": "背景",
          "text": "同社は1938年に田無工場へ兵器工場を新設し、同年12月に社名を大日本時計へ改めて軍需会社へ変わっていた。信州伊那谷への疎開は工場が稼働しないまま終戦を迎え、戦時中に2,000人いた工員は約500名まで減っていた。"
        },
        {
          "label": "内容",
          "text": "山田栄一氏は「餅は餅屋」として時計への復帰を主張し、残った500名の特技を調べて大半が時計工であることを確かめたうえで、1945年末に腕時計製作事業専門で行く方針を決めた。翌1946年3月に社長へ就いて再出発を主導した。"
        },
        {
          "label": "含意",
          "text": "戦時下に軍の意向へ抗して月産二千個足らずの時計製造を続けた分の技術が残っており、それが復帰を可能にした。終戦の年の11月には月産二千個の腕時計を売り出し、1948年2月の社名復帰と1949年5月の東京証券取引所上場につながった。"
        }
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          "title": "社名を大日本時計へ改称し、田無工場の兵器部品生産を主力とする軍需会社へ転換"
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          "title": "日東精機を合併して工作機械の生産を開始"
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          "title": "腕時計製作事業専門で行く方針を決定"
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          "title": "山田栄一氏が社長に就任し、時計専業での再出発を主導",
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          "title": "社名を大日本時計からシチズン時計へ復帰"
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          "title": "東京証券取引所に上場"
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        {
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          "month": 5,
          "title": "腕時計は月産32〜33万個に達し、シチズンとセイコーで国内生産の約8割を占める規模となる"
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      "snapshot": {
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            "name": "大日本時計（現シチズン時計）",
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              "sub_title": "時計会社の看板を掲げたまま軍需会社になっていた",
              "paragraphs": [
                {
                  "text": "日中戦争の拡大とともに、シチズンは時計会社の看板を掲げながら軍需会社への転換を求められた。1938年4月に田無工場へ兵器工場を新設して兵器部品の製作に着手し、同年12月には社名を大日本時計へ改めた。1941年には日東精機を合併して工作機械の生産に入り、尚工舎以来の時計工の多くは信管製造へ回された。腕時計は人手と資材と価格の制約から、表立った禁止こそ受けないまま事実上の製造禁止に近い状態へ落ちた。",
                  "evidences": [
                    {
                      "fact": "1938年4月に田無工場へ兵器工場を新設して兵器部品の製作に着手し、同年12月に社名を大日本時計へ改称した",
                      "原文": "昭和一三年四月には田無工場に兵器工場を新設し、兵器部品の製作に着手するとともに、一二月に社名を「大日本時計」と変更した。",
                      "source": "企業の歴史 : 明治百年（経済春秋社編, 1968）",
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                      "fact": "尚工舎以来の時計工は信管製造の要員となり、腕時計は事実上の製造禁止同様に落ち込んだ",
                      "原文": "尚工舎以来の時計工は主として信管製造への要員となり、肝要な「シチズン」時計は、人手と資材と価格の面からして、表立っての製造禁止にはならなかつたが、事実上製造禁止同様におちいってしまったのである。",
                      "source": "築き上げた人々（実業之日本社、1956年）",
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                },
                {
                  "text": "それでも全工場が軍需化するなかで、工場の一部では月産二千個足らずの時計製造が続けられた。軍の意向に抗して細く残されたこの生産が、時計製造の技術と人を戦後まで持ち越す働きをした。山田栄一氏自身は1944年4月の軍需会社指定と同時に常務となり、1945年10月に専務へ就いている。会社の実体はすでに時計会社ではなく工作機械会社へ変わっていたと、後年に本人が振り返っている。",
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                      "fact": "全工場が軍需化するなかでも工場の一部で月産二千個足らずの時計製造を続け、技術を戦後へ温存した",
                      "原文": "しかし、全工場を挙げて軍需工場化したこのとき、シチズンが本来の時計工場であることを忘れず、頑強に軍の意志にさからいながらも、工場の一部で時計製造（月産二千個足らず）をつづけたことは、時計製造の技術を戦後に温存するために非常に役立つ結果となったのだった。",
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                      "fact": "山田栄一は1944年4月の軍需会社指定と同時に常務、1945年10月に専務となり、会社の実体は時計会社より工作機械会社へ変わっていたと回顧している",
                      "原文": "私は昭和十九年四月の軍需会社指定と同時に常務となり、二十年十月、終戦と共にその専務となったわけである。社長に選任されたのは翌年三月だった。",
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              "sub_title": "疎開から戻った工場に仕事がなかった",
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                {
                  "text": "戦況の悪化にともない、軍の命令で工場は信州の伊那谷へ移された。ところが移設は混乱のうちに進み、モーターが一度も動かないまま終戦を迎えた。苦労して運んだ機械設備を再び元へ戻したところで、今度は作るものがない。事態収拾のために専務となった山田氏も、しばらくは手をこまぬいた。この二年間について本人は「何もやらなかった、何もやれなかった」と書き残している。",
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                      "fact": "軍命で信州伊那谷へ疎開したがモーターが一度も動かないうちに終戦となり、設備を戻しても仕事がなかった",
                      "原文": "軍の命令で信州の伊那谷へ工場を移すことになったが、ただてんやわんやを繰り返しただけで、とうとうモーターが一度もうごかないうちに終戦となった。あとは全くの、アブハチ取らずの有様、事態収拾のために専務になったような私も、しばらくは呆然とただ手をこまぬいてしまった。",
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                      "fact": "終戦後の二年間について山田栄一は「何もやらなかった、何もやれなかった」と回顧している",
                      "原文": "さて、この二年間に、会社は何をやったか。何もやらなかった、何もやれなかったというのが、私としての正直な答えである。",
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                {
                  "text": "戦時中に2,000人からいた工員は、疎開と復員を経て約500名まで減っていた。それでも会社の責任で職と食を確保しなければならない頭数として、500名は重かった。戦前のシチズンは1933年に十型、1935年に八型、1940年に五型と国産初の腕時計を送り出し、従業員六、700人・腕時計月産一万個の規模まで来ていた。その水準へ戻せるかどうかが、戦後の再出発をどこに置くかという問いに直結していた。",
                  "evidences": [
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                      "fact": "戦時中に2,000人いた工員は疎開と復員を経て約500名に減り、その職と食の確保が課題となった",
                      "原文": "時中は二千人からの工員がいたが、信州から戻って、さて、ここで何んとしたことかと一思案に入った際は、残存者が約五百名に減っていた。しかし、あの際の五百名は会社の責任において職と食とを確保しなければならぬ頭数としては大変であった。",
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                      "原文": "八年六月には十型腕時計が、十年九月には八型、十五年七月には五型が、それぞれ国産としてトップを切って売り出され、シチズンも薄くここに時計会社としての基礎をかためかけるに至ったのである。従業員数も六、七百人、腕時計月産まずは一万個というところにまで達した。",
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          "label": "決断",
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                  "text": "工場の整理が一段落すると、次に何を作るかで社内の意見が分かれた。ミシンをやろうという話が出て、農具をやろうという案も出た。ラジオや家庭用品まで、可能性の有無にかかわらず思いつくままの提案が並んだ。終戦直後の機械工場が一様に通った道であり、時計へ戻ることが自明であったわけではない。そのなかで山田栄一氏は「餅は餅屋」で、シチズンは「時計屋の時計」に戻るべきだと主張した。",
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                      "原文": "まだ時計をやると一決しないままに、ミシンをやろうという話も出たし、農具をやろうという案も出た。その他ラジオだの、家庭用品だの、可能性のあるなしにかかわらず、思いつくままの新提案がなされた。しかし、私は何んとしても「餅は餅屋」で、シチズンは「時計屋の時計」に戻るべきだと確信した。",
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                {
                  "text": "主張の根拠は、残った500名の特技を一人ずつ調べたことにあった。調べてみると、大半が時計工で押しとおした者であった。戦争以前、あるいは戦争最中の小さな規模に戻った時計工場であれば、この顔ぶれで必ず再出発できる。山田氏は自分が時計屋であるために時計へ横車を押したのではないと断り、シチズンが時計工場の生まれで、残った人々の多くが時計工場育ちであることを理由に挙げている。この選択には社内でついに異論が出なかった。",
                  "evidences": [
                    {
                      "fact": "残存500名の特技を調べると大半が時計工であり、戦前・戦中の小規模に戻った時計工場なら再出発できると判断した",
                      "原文": "あとに残った五百名の工員の特技をしらべてみると、やはり時計工で押しとおしたものが大部分である。戦争以前、若しくは戦争最中の小スケールに戻っての時計工場なら、これで必ず再出発ができると私も思わず膝を打った。",
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                    {
                      "fact": "山田栄一は時計への復帰を「シチズンが時計工場の生れで、残った人々が多く時計工場育ちであるから」と説明し、社内に異論はなかった",
                      "原文": "お断りしておくが、私が時計屋の体だから、時計屋に横車を押したのではない。シチズンが時計工場の生れで、シチズンに残った人々が多く時計工場育ちであるからである。われわれは、みんな手に手を取って、シチズンの「時計のふるさと」に帰るべきであると考えたのである。しかもこれは、何人においても、ついに異論はないところであった。",
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            {
              "sub_title": "1945年末の方針決定と翌年3月の社長就任",
              "paragraphs": [
                {
                  "text": "山田氏はこの復帰を、軍需産業から平和産業への当然の再転換としてだけ捉えてはいなかった。シチズンが過去に大成すべくして大成しなかった国産時計へ、もう一度進むための機会と見ていた。技術は温存されており、設備も整えられる。資材面でも間に合わせが利く見込みが立った。時計は資材よりも技術を売りに出す仕事であり、平和に戻った国民生活で良品廉価の時計は必需品になる。この読みのもとで、終戦の年の暮れに腕時計製作事業専門で行く方針が決まり、翌1946年3月に山田氏が社長へ選任された。",
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                      "fact": "山田栄一は軍需から平和産業への再転換にとどまらず、国産時計への復帰を期する機会として時計会社復帰を決意した",
                      "原文": "このとき私は、シチズン（当時、大日本時計）の時計会社復帰を思い付いて、断然それに決意した。軍需産業から平和産業に再転換することはもとより当然だが、この際、シチズンが過去において大成すべくして大成しなかった、国産時計への復帰邁進を期する絶好の機会と信じたからである。",
                      "source": "築き上げた人々（実業之日本社、1956年）",
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                    {
                      "fact": "1945年末に腕時計製作事業専門で行く方針を決め、翌1946年3月に山田栄一が社長へ就任した",
                      "原文": "こういう確信の下で、終戦の昭和二十年末に、シチズンは腕時計製作事業専門で行く方針を建て、万事万般をその方向にむけた。そうして、私は翌二十一年三月に、推されて取締役社長に就任したのである。",
                      "source": "築き上げた人々（実業之日本社、1956年）",
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                {
                  "text": "復帰の実務では、設備と技術よりも資材が制約になった。質的に信用できる材料が容易に入らず、ある時期には生産量を自ら抑える判断も要した。作っても作っても間に合わない需要のなかで、時計業界には粗い製品も出回った。それでも品質を落とさず「製品第一」で押しとおしたことを、山田氏は後年、シチズンが今日あるための最も大きな基石だと書いている。品不足の時期に量へ走らなかった選択が、復帰後の信用を決めた。",
                  "evidences": [
                    {
                      "fact": "資材の質が確保できず生産を自ら抑える時期もあったが、商品不足の需要ブームでも「製品第一」を貫いたことが後の基礎になった",
                      "原文": "私の方でも、設備はある、技術はある。しかし、それに応じられなかったただ一つの隘路は、質的に自信のもてる資材が容易に入手できなかったことで、ある時期、ある程度の生産チェックを自ら行わねばならなかった。だが、とにかく、商品不足の需要ブームにも「製品第一」の自重で押しとおしたことが、「シチズン」今日在るの最も大きな基石となったものといえよう。",
                      "source": "築き上げた人々（実業之日本社、1956年）",
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              "sub_title": "月産二千個からの再出発と社名の復帰",
              "paragraphs": [
                {
                  "text": "シチズンが時計を始めると伝わると、都下はもちろん全国の時計商から注文が集まった。終戦の年の11月には、混乱のなかで月産二千個の腕時計を売り出すまでになった。戦時下に細々と守った生産量と同じ水準からの再出発であった。1948年2月には大日本時計から社名をシチズン時計へ戻し、戦後五回の増資を重ねて工場設備の近代化と作業能率の改善に充てた。1949年5月には東京証券取引所へ上場している。",
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                      "原文": "準備はととのえられ、意気はそろった。シチズンが時計を始めるとあって、都下はもちろん、全国の時計商から、注文はぞくぞくと殺到した。そうして、終戦の年の十一月にはてんやわんやのうちにも月産二千個の腕時計を売り出すまでになつたのである。",
                      "source": "築き上げた人々（実業之日本社、1956年）",
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                      "原文": "昭和二三年二月には社名を「シチズン時計」に復旧、また二四年六月営業部が独立して「シチズン商事」を創立した。",
                      "source": "企業の歴史 : 明治百年（経済春秋社編, 1968）",
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                  "text": "製品の側でも復帰は続いた。1949年6月に中三針型、1952年3月にカレンダー時計を完成させ、高級十七石時計や振動不感時計を送り出した。山田氏は二度にわたって海外の時計生産と市場を見て回り、時計工業はやはり人が中心で精神が基盤だという確信を持ち帰った。スイスには依然として学ぶべき点が多いという見方も、このとき固まっている。戦後の再出発は、規模の回復と同時に技術の水準を戻す作業でもあった。",
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                      "原文": "そうして、二十四年六月には中三針型を、二十七年三月にはカレンダー時計を完成、さらに近くは高級十七石時計、振動不感時計などを売り出し、不断の技術的精進を怠らずに来ているのである。",
                      "source": "築き上げた人々（実業之日本社、1956年）",
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                    {
                      "fact": "山田栄一は二度の海外視察で「時計工業はやはり人が中心であり、精神が基盤である」との確信を得て、スイスに学ぶべき点が多いと見た",
                      "原文": "それによって、新しく得たものは、「時計工業はやはり人が中心であり、精神が基盤である」ということであった。しかも、スイスは、依然われわれにとって学ぶべき多くの点をもっているとみてとった。",
                      "source": "築き上げた人々（実業之日本社、1956年）",
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              "sub_title": "生産の桁が変わるまでの15年",
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                  "text": "復帰の効き目は、生産性の数字にはっきり出た。1950年には2,500人の従業員が月間2万個の時計を作るのに骨を折っていたが、1966年には自動巻や日付付きへ工程が複雑化したうえで、4,500人で月間40〜43万個を作る水準へ達した。部品加工の工作機械を自社で設計・製造し、自動化を進めたことが差を生んだ。時計の工作機械を自前で持てるかどうかが合理化の分かれ目になるという見方も、この時期に社内で共有されていた。",
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                      "fact": "1950年には2,500人で月産2万個だったのが、1966年には4,500人で月産40〜43万個へ生産性が向上した",
                      "原文": "因に昭和25年には2,500人の従業員が月間2万個の時計を生産するのに非常に骨を折りましたが、現在では時計が自動巻やデート付きなど製造工程が一層複雑にはなつていますが4,500人の従業員で月間40〜43万個の時計を生産しております。",
                      "source": "証券アナリストジャーナル 1966年第4巻第10号「シチズン時計の現状について」",
                      "url": "https://dl.ndl.go.jp/pid/2730551"
                    }
                  ]
                },
                {
                  "text": "一方で、腕時計会社が育ちにくい産業であることを、山田氏は繰り返し語っている。1963年5月の証券アナリスト向けの説明では、戦後に倒産した会社として東洋時計、英光舎、富士時計、そして高野精密を挙げ、いま残っている会社より倒産した会社のほうが多いと述べた。そのうえで、大手4社のうちシチズンとセイコーで全生産の約8割を占めるに至った経過を、楽な道程ではなかったと振り返っている。同社自身も30数年前に一度倒産を経験していた。",
                  "evidences": [
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                      "fact": "1963年5月の講演で山田栄一は、戦後に倒産した時計会社として東洋時計・英光舎・富士時計・高野精密を挙げ、残った会社より倒産した会社が多いと述べた",
                      "原文": "戦後、倒産した会社をあげてみても、東洋時計あり、英光舎あり、富士時計あり、最近になつて高野精密ありといつた具合で、現在残つている会社より倒産した会社が多い。当シチズン時計も過去30数年前に一度倒産した経験を持つている。",
                      "source": "証券アナリストジャーナル 1963年第1巻第4号「シチズン時計——工場見学」（山田栄一 講演要旨）",
                      "url": "https://dl.ndl.go.jp/pid/2730512"
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                      "fact": "1963年時点で大手4社のうちシチズンとセイコーが全生産の約80%を占めていた",
                      "原文": "現在でこそ大手4社しかなく、その内、当社とセイコーが全生産の約80%を占め、楽に経営してきたと思われるかも知れないが、楽な道程ではなかつた。",
                      "source": "証券アナリストジャーナル 1963年第1巻第4号「シチズン時計——工場見学」（山田栄一 講演要旨）",
                      "url": "https://dl.ndl.go.jp/pid/2730512"
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              "sub_title": "500人の手が決めた事業選択",
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                  "text": "1946年の判断は、新しい事業を探す作業ではなく、手元に残ったものを数え直す作業であった。ミシンも農具もラジオも、終戦直後の機械工場ではどこでも挙がった候補で、実際にそちらへ移って伸びた会社もある。シチズンが時計に戻ったのは、市場の見通しよりも先に、残った500名の特技という具体的な事実があったからだといえる。時計は資材よりも技術を売る仕事だという山田栄一氏の見立ては、資材の乏しい時期にはむしろ有利に働いた。"
                },
                {
                  "text": "判断を可能にしたのは、戦時下に月産二千個足らずの時計を作り続けた分の技術であった。軍の意向に抗して残したその細い生産がなければ、1945年11月に同じ月産二千個から再出発することもできなかったとみられる。1963年に山田氏が挙げた東洋時計、英光舎、富士時計、高野精密という社名は、いずれも戦後に消えた時計会社である。残るか消えるかを分けたものが何であったかは一言では言えないが、シチズンの場合、戻る先を決めたのは経営の構想ではなく、500人の手が覚えていた仕事であった。"
                }
              ]
            }
          ]
        }
      ],
      "references": [
        "築き上げた人々（実業之日本社、1956年）",
        "企業の歴史 : 明治百年（経済春秋社編, 1968）",
        "証券アナリストジャーナル 1963年第1巻第4号「シチズン時計——工場見学」（山田栄一 講演要旨）",
        "証券アナリストジャーナル 1966年第4巻第10号「シチズン時計の現状について」",
        "シチズン時計 有価証券報告書（2025年3月期）【沿革】"
      ],
      "authored": "2026-07",
      "last_updated": "2026-07-23"
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      "title": "腕時計の心臓部であるムーブメントを他社へ売る外販に踏み切り量産で世界一を取った戦略",
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          "text": "シチズン時計が1976年に腕時計用ムーブメント（駆動部分）の外販を決め、1980年代を通じて量産規模を積み上げた戦略である。完成品の腕時計ではなく、他の時計メーカーが自社ブランドの時計を作るための心臓部を売った。1986年に腕時計の生産個数でセイコーグループを抜き、世界一に達した。"
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          "text": "クオーツ化によって、パーツを買えば誰でも時計を作れる時代へ移った。香港はデジタル時計の世界最大の生産地となり、日本から送られた主要パーツを組み立てて再輸出していた。低価格帯の価格競争が激しくなり、完成品だけで採算を取ることが難しくなっていた。"
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          "text": "駆動部分を外販すれば、買った相手が同じ市場で競合する。社内では役員会が反発し、当初は別会社を設けて販売が始まった。それでも量産によるコストダウン以外に道はないと判断し、本社としてムーブメントを売る体制へ移った。1981年発売の「203号」は1990年5月に通算3億個へ達した。"
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          "text": "1990年の日本の腕時計は生産個数でシチズンが45.0％と首位に立った一方、生産金額のシェアはセイコー42.6％に対し27.1％にとどまった。数量の世界一と金額の二番手が同時に成立する構造で、1997年の生産量は約3億1,080万個・世界シェア24％に達した。"
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                  "text": "戦後の日本の時計市場は中級品に限られていた。低価格品は「安かろう悪かろう」として売れず、高級品を買う購買力もなかった。これを変えたのがクオーツ化とデジタル化であった。山田栄一社長は1981年のインタビューで、クオーツは最大の商品革命だと述べている。パーツを作る技術は難しいが、そのパーツを買ってくれば誰でも時計を生産できる。ここから「四畳半メーカー」と呼ばれる零細な作り手までが市場に現れた。",
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                      "原文": "とりわけクオーツ化は最大の商品革命だと思いますよ。クオーツはパーツの技術がむずかしいんですが、そのパーツを買ってくればだれでも時計を生産できます。だから四畳半メーカーといわれるような弱少メーカーが出てきたのです。",
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                {
                  "text": "商品革命は需要の形も変えた。時計は「精度がよくて安い」時代へ入り、メーカーは低価格競争にさらされた。ティーンエージャーやそれ以下の年齢層まで需要が広がった一方で、それまで主力であった中級品の需要が減り、高級品と低価格品へ二極分化した。1981年当時、腕時計は2,000円から200万円までの価格帯に散らばっていた。同じ「時計」という名でありながら、内容としては別の商品へ分かれていた。",
                  "evidences": [
                    {
                      "fact": "クオーツ化・デジタル化で時計は「精度がよくて安い」時代に入り、中級品の需要が減って高級品と低価格品に二極分化し、価格帯は2,000円から200万円に及んだ",
                      "原文": "この商品革命によってメーカーは激しい低価格競争の波に洗われました。もっともこれでティーンエージャーあるいはそれ以下の年齢層にまで需要が拡大しましたね。ただ、この革命でいままで主力だった中級品の需要が減り、高級品と低価格品に需要が2極分化してしまったのです。現在、ウォッチは2000円から200万円の価格帯があります。",
                      "source": "日経ビジネス 1981年2月9日号「時計屋が時計離れするとき」（山田栄一氏 編集長インタビュー）",
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            {
              "sub_title": "香港という組み立て地の出現",
              "paragraphs": [
                {
                  "text": "デジタル時計の世界最大の生産国は香港であった。ただしその内実は、主要パーツを日本から送り、香港で組み立てて完成品として再輸出する仕組みであった。パーツの生産では日本が主導権を握っており、山田社長は「最終的には日本が香港を育てた」と語っている。日本のメーカーはもはや粗製乱造ができず、一円でも安いものを求めて香港へ需要が集まった。米国メーカーも一時は香港へ来たが敗退し、日本のメーカー同士が現地で競う状態が残った。",
                  "evidences": [
                    {
                      "fact": "デジタル時計の世界最大の生産国は香港で、主要パーツを日本から送り香港で組み立てて再輸出する構造にあった",
                      "原文": "デジタル・ウォッチの世界最大の生産国は香港です。その内実はこういうことなんです。デジタルの生命はパーツです。そのパーツの生産は世界の中で日本が主導権を握っているんです。つまり、主要パーツを日本から香港に送り、香港ではこれを組み立てて完成品にして再輸出しているだけなのです。ですから最終的には日本が香港を育てたということなんですね。",
                      "source": "日経ビジネス 1981年2月9日号「時計屋が時計離れするとき」（山田栄一氏 編集長インタビュー）",
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                },
                {
                  "text": "シチズンはこの流れに沿って海外の拠点を並べた。1970年2月に香港へ合弁会社の新星工業有限公司を設け、1975年4月には米国にシチズン・ウオッチ・カンパニー・オブ・アメリカを、1976年3月には香港に販売拠点の星辰表（香港）有限公司を設立した。1979年6月にはドイツにシチズン・ウオッチ・ヨーロッパGmbHを置いている。部品を送り出す先と、完成品を売る先の両方を並行して整えた配置であった。",
                  "evidences": [
                    {
                      "fact": "1970年2月に香港の新星工業、1975年4月に米国のシチズン・ウオッチ・カンパニー・オブ・アメリカ、1976年3月に星辰表（香港）、1979年6月にシチズン・ウオッチ・ヨーロッパGmbHを設立した",
                      "原文": "1970年2月 香港に合弁会社新星工業有限公司を設立／1975年4月 米国にシチズン・ウオッチ・アメリカを設立／1976年3月 香港に星辰表（香港）を設立／1979年6月 ドイツにシチズン・ウオッチ・ヨーロッパGmbHを設立",
                      "source": "シチズン時計 有価証券報告書（2025年3月期）【沿革】",
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        },
        {
          "section": "origin",
          "label": "決断",
          "subsections": [
            {
              "sub_title": "心臓部を他社へ売るという禁じ手",
              "paragraphs": [
                {
                  "text": "1976年、シチズンは時計用ムーブメントの外販を決めた。同年には時計用シリンダー型音叉水晶振動子などを開発し、クオーツ領域での量産参入も整えている。売るのは完成品の時計ではなく、腕時計の駆動部分そのものであった。駆動部分は時計の心臓部にあたり、これを外販すれば町工場でもシチズンと同じ精度の時計を作れる。同じ市場で買い手が競合に変わるという性質を、この決定は最初から抱えていた。",
                  "evidences": [
                    {
                      "fact": "1976年に時計用ムーブメントの外販を決定し、音叉水晶振動子を開発してクオーツ領域でも量産参入した",
                      "原文": "1976年 時計用ムーブメントの外販を決定。音叉水晶振動子CFS308/206・CFS145を開発しクオーツ領域でも量産参入。",
                      "source": "シチズン時計 有価証券報告書（2025年3月期）【沿革】",
                      "url": null
                    },
                    {
                      "fact": "駆動装置は時計の心臓部で、外販すれば町工場でも同じ精度の時計が作れるため「敵に塩を送る」性質があった",
                      "原文": "駆動装置は時計の心臓部。これを外販すればちょっとした町工場でもシチズンと同じ精度の時計を簡単に作れる。いわば敵に塩を送ることになる。",
                      "source": "日経ビジネス 1991年5月6日号「シチズン時計 腕時計・世界一を足場に情報機器シェア盗り作戦」",
                      "url": null
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                  ]
                },
                {
                  "text": "社内の反発は強かった。厳しい競争が続くなかで完成品の商売を妨げるという不満が、役員のあいだにくすぶった。当初は別会社を設立してムーブメントの販売が始められ、本社としてムーブメントを売る体制になったのは、社内の説得が進んだ後であった。後に社長となる中島迪男氏は、役員会で猛反発を受け、事業を担う前川日出夫氏からも突き上げられ、他の役員を説得することが最大の仕事だったと振り返っている。",
                  "evidences": [
                    {
                      "fact": "ムーブメント外販には社内の反発が強く、当初は別会社を設立して販売を始め、説得を経て本社でも売るようになった",
                      "原文": "厳しい競争を続けている中で、社内の反発は大きかった。中島社長は「役員会では猛反発を受けるし、前川君からはどんどん突き上げられる。当時、他の役員を説得するのが最大の仕事だった」と振り返る。当初は別会社を設立してこっそりムーブメントの販売を始めたが、中島社長の説得が効を奏し、シチズン本社でもムーブメントを売るようになった。",
                      "source": "日経ビジネス 1991年5月6日号「シチズン時計 腕時計・世界一を足場に情報機器シェア盗り作戦」",
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              ]
            },
            {
              "sub_title": "量産によるコストダウン以外に道はないという判断",
              "paragraphs": [
                {
                  "text": "外販へ向かった直接の事情は、完成品の不振であった。カシオ計算機が低価格中心のデジタル腕時計で攻勢をかけ、オリエント時計を抜いて国内3位へ上がった。デジタル全盛の1981年から1982年ごろ、シチズンの腕時計事業は存亡の危機に近づいた。ブランド力が弱く販売店との関係も薄い立場で生き残るには、小型精密部品の組み立て技術を生かし、量産によるコストダウンを取るしかないという判断に至った。",
                  "evidences": [
                    {
                      "fact": "デジタル全盛の1981〜82年ごろシチズンの腕時計事業は存亡の危機に瀕し、量産によるコストダウンしか方法がないと判断してムーブメントの外販を始めた",
                      "原文": "デジタル全盛の81、82年ごろはシチズンの腕時計事業は存亡の危機にひんした。生き残るには、優れた小型精密部品の組み立て技術を生かし、量産によるコストダウンしか方法がないと判断、ムーブメントの外販を始めた。",
                      "source": "日経ビジネス 1991年5月6日号「シチズン時計 腕時計・世界一を足場に情報機器シェア盗り作戦」",
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                    }
                  ]
                },
                {
                  "text": "量産へ寄せた結果は採算の形にも表れた。ムーブメントは単一製品で数量が出るためスケールメリットを享受でき、売上高経常利益率で20％前後を確保した。1991年3月期の全事業の売上高経常利益率が8％、時計事業が約12％であったから、社内で最も収益力のある事業へ育った。販売先が小さな時計店から大手メーカーへ変わったことで決済も手形から現金へ切り替わり、資金の回転が速まる副次的な効果も生んだ。",
                  "evidences": [
                    {
                      "fact": "ムーブメント事業の売上高経常利益率は20%前後で、1991年3月期の全事業8%・時計事業約12%を上回る最も収益力のある事業となった",
                      "原文": "しかしムーブメントは単一製品でかまわないから量産が可能。スケールメリットを十分享受できるので利益率が高い。シチズンのムーブメント事業は売上高経常利益率にすると20％前後。91年3月期の全事業の売上高経常利益率は8％、時計事業のそれは約12％だから、シチズンで最も収益力のある事業に成長した。",
                      "source": "日経ビジネス 1991年5月6日号「シチズン時計 腕時計・世界一を足場に情報機器シェア盗り作戦」",
                      "url": null
                    },
                    {
                      "fact": "販売対象が小さな販売店から大手メーカーへ変わり、決済を手形から現金に切り替えて資金の回転率が上がった",
                      "原文": "ムーブメントは別のメリットももたらした。販売対象が小さな販売店から大手メーカー相手に変わり、決済を手形から現金に切り替えることができた。この結果、資金の回転率が上がり、財務面の貢献も大きかった。",
                      "source": "日経ビジネス 1991年5月6日号「シチズン時計 腕時計・世界一を足場に情報機器シェア盗り作戦」",
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            }
          ]
        },
        {
          "section": "outcome",
          "label": "結果",
          "subsections": [
            {
              "sub_title": "1986年、生産個数でセイコーを抜く",
              "paragraphs": [
                {
                  "text": "1980年のシチズンの腕時計生産量は2,800万個であった。そこから毎年2桁の伸びを示し、1986年には8,000万個でセイコーグループを追い抜き、生産量で世界一となった。技術で先行した相手を、量産の規模で抜いた結果であった。この年、ムーブメントを売る拡販部は事業部へ格上げされ、前川日出夫氏が取締役事業部長へ昇進してムーブメント事業の拡大にあたった。組織の格が売上の実態に追いついた形であった。",
                  "evidences": [
                    {
                      "fact": "1980年に2,800万個だったシチズンの腕時計生産量は毎年2桁で伸び、1986年に8,000万個でセイコーグループを抜いて世界一となった",
                      "原文": "80年シチズンの腕時計生産量は2800万個だった。それから毎年2ケタの伸びを示し、86年には8000万個でセイコーグループをついに追い抜き、生産量で世界一になった。",
                      "source": "日経ビジネス 1991年5月6日号「シチズン時計 腕時計・世界一を足場に情報機器シェア盗り作戦」",
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                    },
                    {
                      "fact": "1986年に腕時計の生産個数でセイコーを抜いたのを機に拡販部が事業部へ格上げされ、前川部長が取締役事業部長へ昇進した",
                      "原文": "86年、腕時計の生産個数でセイコーを抜いたのを機に拡販部は事業部に格上げとなった。前川部長は取締役事業部長に昇進してムーブメント事業を積極展開した。",
                      "source": "日経ビジネス 1991年5月6日号「シチズン時計 腕時計・世界一を足場に情報機器シェア盗り作戦」",
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                },
                {
                  "text": "生産の中身は、外販へ大きく傾いた。1990年の生産量1億4,600万個のうち70％をムーブメントが占め、シチズンブランドの腕時計に仕立てて売る分は15％に満たなかった。残りの15％はフランスなどのデザイナーズブランドへのOEM供給である。1981年に発売した主力の「203号」は外販するムーブメントの約80％を占め、1990年5月に通算3億個へ達した。自社ブランドを名乗らない時計が、生産の大半を占める会社へ変わっていた。",
                  "evidences": [
                    {
                      "fact": "1990年の生産量1億4,600万個のうち70%がムーブメントで、シチズンブランドの腕時計として売る分は15%に満たず、残り15%はデザイナーズブランドへのOEMだった",
                      "原文": "90年の生産量1億4600万個のうち、70％はムーブメント（腕時計の駆動装置）が占める。このうちシチズンブランドの腕時計にまで仕立て上げて売るのは15％に満たない。残りの15％はフランスなどのデザイナーズブランドへOEM（相手先ブランドによる生産）供給。",
                      "source": "日経ビジネス 1991年5月6日号「シチズン時計 腕時計・世界一を足場に情報機器シェア盗り作戦」",
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                    },
                    {
                      "fact": "外販するムーブメントの約80%を占めるベストセラー「203号」は1981年の発売開始以来、1990年5月に通算3億個を達成した",
                      "原文": "90年5月、シチズンが外販しているムーブメントの約80％を占めるベストセラー「203号」が81年の発売開始以来、通算で3億個を達成した。",
                      "source": "日経ビジネス 1991年5月6日号「シチズン時計 腕時計・世界一を足場に情報機器シェア盗り作戦」",
                      "url": null
                    }
                  ]
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              ]
            },
            {
              "sub_title": "数量の首位と金額の二番手",
              "paragraphs": [
                {
                  "text": "首位の内実には偏りがあった。1990年の日本の腕時計は総生産量3億2,500万個で、個数のシェアはシチズン45.0％、セイコー39.0％、カシオ12.0％である。ところが総生産金額3,000億円で見ると、セイコー42.6％に対しシチズンは27.1％にとどまった。1991年3月期の腕時計事業の売上高もシチズン1,058億円に対し服部セイコーは1,688億円で、高級品ブームに乗った相手との差が金額に表れた。シチズンは利益率の高いムーブメントと中級腕時計へ商品を絞っていた。",
                  "evidences": [
                    {
                      "fact": "1990年の日本の腕時計は生産個数シェアでシチズン45.0%・セイコー39.0%・カシオ12.0%、生産金額シェアではセイコー42.6%・シチズン27.1%・カシオ14.4%だった",
                      "原文": "日本の腕時計（駆動装置も含む）生産個数と生産金額の各社シェア（1990年）。総生産量3億2500万個＝シチズン45.0％、セイコー39.0、カシオ12.0、その他4.0。総生産金額3000億円＝セイコー42.6％、シチズン27.1、カシオ14.4、その他15.9。",
                      "source": "日経ビジネス 1991年5月6日号「シチズン時計 腕時計・世界一を足場に情報機器シェア盗り作戦」",
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                    },
                    {
                      "fact": "1991年3月期の腕時計事業売上高はシチズン1,058億円、服部セイコー1,688億円で、シチズンは利益率の高いムーブメントと中級腕時計に商品を絞った",
                      "原文": "もっとも、売上高で腕時計事業を見ると、91年3月期シチズンは1058億円だったのに対し、服部セイコーは1688億円とまだまだ大きな開きがある。（中略）1個数千円から数千万円までフルラインで腕時計をそろえようとするセイコーに対し、シチズンは収益力を重視、利益率の高いムーブメントと中級腕時計に商品を絞り込んだ。",
                      "source": "日経ビジネス 1991年5月6日号「シチズン時計 腕時計・世界一を足場に情報機器シェア盗り作戦」",
                      "url": null
                    }
                  ]
                },
                {
                  "text": "この戦略を後年に総括したのが春田博社長であった。1998年のインタビューで春田氏は、1980年代の初めにモジュールの外販を本格的に始めたことを、時計屋としては清水の舞台から飛び降りるような決断だったと述べ、それが転機となって腕時計を世界規模で事実上の標準にできたと語っている。生産の規模が増えて時計の値段が下がり、どんな環境でも、どんなに安い品でも止まらない品質になった。標準化は自社だけでなく産業史としてもよかったという評価であった。1997年の生産量はモジュールとOEMを含め約3億1,080万個、世界シェア24％で最大となっていた。",
                  "evidences": [
                    {
                      "fact": "春田博社長は1980年代初めのモジュール外販を「清水の舞台から飛び降りるような決断」と述べ、それを転機に腕時計を世界規模で事実上の標準にできたと語った",
                      "原文": "ええ、80年代の初めにモジュールの外販（駆動部分だけを他社に売ること）を当社が初めて本格的に始めたんです。時計屋としては清水の舞台から飛び降りるような決断でしたが、これが1つの転機となって、当社の腕時計を世界的な規模で事実上のスタンダード（標準）とすることができた。",
                      "source": "日経ビジネス 1998年8月24日号「はやりの実力主義には乗らない“全員精鋭”へ目立たぬ努力を評価」（春田博氏 編集長インタビュー）",
                      "url": null
                    },
                    {
                      "fact": "1997年の腕時計生産量はモジュールやOEMを含め約3億1,080万個で、世界市場シェア24%と最大だった",
                      "原文": "腕時計の昨年の生産量は、モジュール（文字盤や外枠を含まない駆動部分）やOEM（相手先ブランドによる生産）を含め約3億1080万個で、世界市場でのシェアが24％と最大です。",
                      "source": "日経ビジネス 1998年8月24日号「はやりの実力主義には乗らない“全員精鋭”へ目立たぬ努力を評価」（春田博氏 編集長インタビュー）",
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              "sub_title": "自社ブランドを譲って得たもの",
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              "paragraphs": [
                {
                  "text": "外販は、時計メーカーとしての取り分をどこに置くかの選択であった。完成品で戦えば自社ブランドの値段がそのまま売上になるが、量は自社の販売力で頭打ちになる。駆動部分だけを売れば、買い手のブランドと販路の分まで数量が伸びる代わりに、消費者の目に触れる名前は他社のものになる。シチズンは後者を取り、1990年には生産の70％がムーブメント、自社ブランドの完成品は15％に満たない構成へ移った。世界一という言葉が指していたのは、店頭に並ぶ時計の数ではなく、動いている駆動部分の数であった。"
                },
                {
                  "text": "その代償は金額のシェアに残っている。1990年の国内生産で、個数の45.0％を占めながら金額では27.1％にとどまった差は、高級品を厚く持つ相手との商品構成の違いをそのまま映していた。1998年に春田博社長が語った「産業史的にみても非常によかった」という評価は、時計が大衆のものになった過程への評価であり、その過程でシチズン自身が受け取ったのは数量と回転の速い現金決済であった。2012年のLa Joux-Perret取得と2016年のFrederique Constant取得で高級機械式へ入っていく後年の動きは、あのとき譲った側の取り分を買い戻す作業でもあったとみることができる。"
                }
              ]
            }
          ]
        }
      ],
      "references": [
        "日経ビジネス 1981年2月9日号「時計屋が時計離れするとき」（山田栄一氏 編集長インタビュー）",
        "日経ビジネス 1991年5月6日号「シチズン時計 腕時計・世界一を足場に情報機器シェア盗り作戦」",
        "日経ビジネス 1998年8月24日号「はやりの実力主義には乗らない“全員精鋭”へ目立たぬ努力を評価」（春田博氏 編集長インタビュー）",
        "シチズン時計 有価証券報告書（2025年3月期）【沿革】",
        "シチズン時計 会社年鑑（単独業績）"
      ],
      "authored": "2026-07",
      "last_updated": "2026-07-23"
    },
    {
      "slug": "device-exit-2007",
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      "year": 2007,
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      "title": "電子デバイスの選択と集中、携帯電話向けカメラ部品と小型液晶パネルからの撤退",
      "subtitle": "時計に次ぐ第二の柱をどこまで抱えるか——韓台勢との価格競争が奪った収益と358億円の特別損失",
      "status": "implemented",
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      "highlights": [
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          "label": "概要",
          "text": "2007年3月、シチズン時計が中期経営計画で電子デバイス事業の選択と集中を掲げ、カメラ用CMOSモジュール事業、小型液晶パネル事業（C-STN、TFT）、フロッピーディスク装置事業からの撤退を決めた経営判断である。2009年度に営業利益率10％を取り戻すことを目標に据えた。"
        },
        {
          "label": "背景",
          "text": "1990年前後から時計で培った小型精密加工の技術を電子部品へ振り向け、非時計部門は売上の半分を占めるまで伸びていた。しかし2006年3月期の売上高3,359億円・営業利益305億円を頂点に収益が崩れ、営業利益率は2004年度の10.4％から2006年度は6.7％の見込みへ落ちた。"
        },
        {
          "label": "内容",
          "text": "撤退3事業を名指しし、液晶バックライト事業と音響事業は品種を絞って収益改善を図る一方、チップLED、水晶デバイス、自動車部品、キーシート・モジュールを重点に据えた。2008年1月には米Bulovaを取得し、時計側への資源配分と同時に進めた。"
        },
        {
          "label": "含意",
          "text": "リーマンショックが重なった2009年3月期に不採算3事業の撤退で特別損失358億円を計上し、当期純損失258億円へ沈んだ。電子デバイスの売上は2008年3月期の992億円から2010年3月期620億円へ縮み、2013年3月期にも減損で特別損失257億円を計上した。"
        }
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      "parties": [
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            "note": "時計・工作機械・電子デバイス・電子機器を抱える体制。2005年10月にシチズン電子・ミヨタ等5社を株式交換で完全子会社化し、2007年4月に持株会社へ移行した"
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        "summary": "韓国・台湾勢の台頭で電子部品の価格競争が激化し、多角化で広げたデバイス事業が収益を失ったため、不採算品目を名指しして撤退し重点品目へ資源を寄せた選択"
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          "title": "非時計部門が売上の半分に達し、5年後に売上高5,000億円・非時計3,000億円を掲げる"
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          "title": "持株会社シチズンホールディングスへ移行"
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          "title": "米Bulova Corporationの株式を取得"
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          "title": "公開買付けで株式会社ミヤノを取得し工作機械事業を強化"
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          "title": "電子デバイス事業の減損で特別損失257億円、当期純損失89億円"
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          "title": "持株会社体制を解消し、商号をシチズン時計へ戻す"
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      "snapshot": {
        "fiscal_year": "2007年3月期",
        "source": "シチズン時計 有価証券報告書（2007年3月期・連結）",
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            "name": "シチズン時計",
            "fiscal_year": "2007年3月期（連結）",
            "president": "梅原誠",
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          "label": "背景",
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              "sub_title": "時計で稼いだ精密加工技術を電子部品へ振り向けた15年",
              "paragraphs": [
                {
                  "text": "電子デバイスへの傾斜は1990年前後から始まっていた。時計製造で培った精密加工技術を電子技術へ応用し、フロッピーディスク駆動装置やプリンター、ICカード事業を伸ばす方針であった。中島迪男社長は1991年に、5年後の売上高5,000億円のうち非時計部門で3,000億円を稼ぎ、利益率も時計部門並みにすると語っている。売上構成では1988年度に時計40％・非時計60％、1990年度には時計50％・非時計50％へと非時計側が半分を占めた。",
                  "evidences": [
                    {
                      "fact": "1991年時点で中島迪男社長は5年後に売上高5,000億円・うち非時計部門3,000億円、利益率も時計部門並みという目標を掲げていた",
                      "原文": "中島迪男社長は「5年後に売上高5000億円、そのうち非時計部門は3000億円、利益率も時計部門並みにする」と強気だ。会社の主軸を成熟産業の時計から、今後とも急成長が期待できる情報機器へと転換し、業容の拡大を目指すのが基本戦略。",
                      "source": "日経ビジネス 1991年5月6日号「シチズン時計 腕時計・世界一を足場に情報機器シェア盗り作戦」",
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                    {
                      "fact": "売上構成は1988年度に時計40%・非時計60%、1989年度46%・54%、1990年度は時計50%・非時計50%と推移した",
                      "原文": "シチズンの売上高と構成。1988年度1827億円＝時計40％／非時計60％、1989年度1952億円＝46／54、1990年度2400億円＝50／50。",
                      "source": "日経ビジネス 1991年5月6日号「シチズン時計 腕時計・世界一を足場に情報機器シェア盗り作戦」",
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                  ]
                },
                {
                  "text": "参入の考え方は、本業で首位を取ったうえで隣接領域へ移るというものであった。前川日出夫取締役特販事業部長は、本業で成功しない企業が多角化に乗り出してもほとんど失敗に終わる、時計で確固たる基盤を築いたうえで多角化事業へ経営資源を集中投下すべきだと述べている。狙う商品もHDDは2.5インチ、液晶ディスプレイは4インチ以下と、小型で量産の効く領域へ絞られた。ムーブメントで成功した型を、そのまま電子部品へ持ち込む発想であった。",
                  "evidences": [
                    {
                      "fact": "前川日出夫取締役特販事業部長は「本業で成功しない企業が多角化に乗り出しても、それはほとんど失敗に終わる」として、時計で基盤を築いた上で多角化へ資源を集中投下すべきだと述べた",
                      "原文": "「本業で成功しない企業が多角化に乗り出しても、それはほとんど失敗に終わる。二流は何をやっても二流だからだ。時計で確固たる基盤を築き、その上で多角化事業に経営資源を集中投下すべきだ」（前川日出夫・取締役特販事業部長）との信念に基づく。",
                      "source": "日経ビジネス 1991年5月6日号「シチズン時計 腕時計・世界一を足場に情報機器シェア盗り作戦」",
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                    },
                    {
                      "fact": "HDDは3.5インチではなく2.5インチ、液晶ディスプレイはパソコン用など大型の開発を中止して4インチ以下の小型機種だけを生産する方針だった",
                      "原文": "現在主流の3.5インチではなく、もう一回り小型の2.5インチを市場に投入する。（中略）液晶テレビ用に作っている液晶ディスプレーもパソコン用など大型は開発を中止し、4インチ以下の小型機種だけ生産する。",
                      "source": "日経ビジネス 1991年5月6日号「シチズン時計 腕時計・世界一を足場に情報機器シェア盗り作戦」",
                      "url": null
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                }
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            },
            {
              "sub_title": "2006年3月期を頂点に崩れた収益",
              "paragraphs": [
                {
                  "text": "数字の頂点は2006年3月期であった。連結売上高3,359億円・営業利益305億円を記録した後、業績は頭打ちに転じる。2007年3月期は売上高3,361億円と横ばいながら営業利益は219億円へ、当期純利益は71億円へと半減した。営業利益率で見れば、2004年度の10.4％を頂に下降線をたどり、2006年度は6.7％になる見込みであった。組織を広げた分の負担が、収益の側から先に表れた。",
                  "evidences": [
                    {
                      "fact": "2006年3月期の売上高3,359億円・営業利益305億円をピークに、2007年3月期は営業利益219億円・当期純利益71億円へ落ちた",
                      "原文": "2006年3月期 売上高3,359億円・営業利益305億円・当期純利益185億円、2007年3月期 売上高3,361億円・営業利益219億円・当期純利益71億円（いずれも連結）。",
                      "source": "シチズン時計 有価証券報告書（2007年3月期・連結）",
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                    },
                    {
                      "fact": "営業利益率は2004年度の10.4%を頂に下降し、2006年度は6.7%になる見込みだった",
                      "原文": "2004年度の10.4％をヤマに下降線をたどり，2006年度の営業利益率は6.7％になる見込み。",
                      "source": "日経BP 日経ものづくり 2007年3月23日「シチズン時計が中期経営計画を策定，CMOSや液晶パネルから撤退」",
                      "url": "https://xtech.nikkei.com/dm/article/NEWS/20070323/129336/"
                    }
                  ]
                },
                {
                  "text": "収益が崩れる一方で、グループの形は固められていた。2005年10月には株式交換によってシチズン電子、ミヨタ、シメオ精密、狭山精密工業、河口湖精密の5社を完全子会社化した。2007年4月には持株会社シチズンホールディングスへ移行し、時計・工作機械・電子デバイスを並べる体制が整った。撤退の決定は、この統合が完成する直前に置かれている。器を整える作業と、中身を減らす作業が同じ時期に進んだ。",
                  "evidences": [
                    {
                      "fact": "2005年10月に株式交換でシチズン電子・ミヨタ・シメオ精密・狭山精密工業・河口湖精密の5社を完全子会社化し、2007年4月に持株会社シチズンホールディングスへ移行した",
                      "原文": "2005年10月 シチズン電子・ミヨタ・シメオ精密等を完全子会社化（株式交換で5社を100%子会社化）／2007年4月 シチズンホールディングスに商号変更・持株会社体制へ。",
                      "source": "シチズン時計 有価証券報告書（2025年3月期）【沿革】",
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            }
          ]
        },
        {
          "section": "origin",
          "label": "決断",
          "subsections": [
            {
              "sub_title": "撤退する品目を名指しした中期経営計画",
              "paragraphs": [
                {
                  "text": "2007年3月、シチズン時計は中期経営計画で電子デバイス事業の選択と集中を掲げた。撤退するのはカメラ用CMOSモジュール事業、小型液晶パネル事業（C-STN、TFT）、そしてフロッピーディスク装置事業である。液晶バックライト事業と音響事業については、撤退ではなく品種を絞り込んで収益の改善を図る方針が示された。どの事業をやめるかを品目の水準まで下ろして明示した点で、それまでの多角化路線からの転換が読み取れる。",
                  "evidences": [
                    {
                      "fact": "2007年3月の中期経営計画で、カメラ用CMOSモジュール事業・小型液晶パネル事業（C-STN、TFT）・フロッピーディスク装置事業からの撤退を決め、液晶バックライト事業と音響事業は品種を絞り込んで収益改善を図るとした",
                      "原文": "カメラ用CMOSモジュール事業と小型液晶パネル事業（C-STN，TFT），フロッピー・ディスク装置事業。（中略）液晶バックライト事業や音響事業においても品種を絞り込んで収益の改善を図る。",
                      "source": "日経BP 日経ものづくり 2007年3月23日「シチズン時計が中期経営計画を策定，CMOSや液晶パネルから撤退」",
                      "url": "https://xtech.nikkei.com/dm/article/NEWS/20070323/129336/"
                    },
                    {
                      "fact": "2007年3月の中期経営計画で電子デバイス事業の「選択と集中」を掲げ、携帯電話向けカメラ部品および小型液晶パネル事業からの撤退を決めた",
                      "原文": "2007年3月 電子デバイス事業で選択と集中・携帯カメラ部品および小型液晶パネルから撤退（中期経営計画で決定）。",
                      "source": "シチズン時計 有価証券報告書（2025年3月期）",
                      "url": null
                    }
                  ]
                },
                {
                  "text": "残す側も同時に示された。チップLED事業、水晶デバイス事業、自動車部品事業、キーシート・モジュール事業を重点に据え、市場で先行できる領域へ資源を寄せる方針である。数値目標としては、2009年度に営業利益率10％を掲げた。2004年度に一度到達した水準へ3年で戻すという設定であり、撤退はその逆算から出てきた。韓国・台湾のメーカーの台頭で日本の電子部品が収益性を失った産業の変化が、その前提にあった。",
                  "evidences": [
                    {
                      "fact": "チップLED事業・水晶デバイス事業・自動車部品事業・キーシート・モジュール事業を重点とし、2009年度に営業利益率10%を目標に設定した",
                      "原文": "「チップLED事業や水晶デバイス事業，自動車部品事業，キーシート・モジュール事業」を重点と位置づけ，2009年度に営業利益率10％を目標とする。",
                      "source": "日経BP 日経ものづくり 2007年3月23日「シチズン時計が中期経営計画を策定，CMOSや液晶パネルから撤退」",
                      "url": "https://xtech.nikkei.com/dm/article/NEWS/20070323/129336/"
                    }
                  ]
                }
              ]
            },
            {
              "sub_title": "時計への資源配分と同時に進めた",
              "paragraphs": [
                {
                  "text": "撤退の決定は、時計側の買収と並行して進められた。2008年1月に米Bulova Corporationの株式を取得し、北米の時計ブランドを手に入れている。同じ2008年の10月には公開買付けで株式会社ミヤノを取得し、工作機械事業を強化した。電子デバイスを縮める一方で、時計と工作機械には資金を投じるという配分であり、削る事業と伸ばす事業の選別が同じ年度のうちに実行された。",
                  "evidences": [
                    {
                      "fact": "2008年1月に米Bulova Corporationの株式を取得し、2008年10月には公開買付けで株式会社ミヤノ（現シチズンマシナリー）を取得した",
                      "原文": "2008年1月 Bulova Corporationの株式を取得（米国時計ブランドのブローバを買収）／2008年10月 公開買付けで株式会社ミヤノを取得（現シチズンマシナリー）。",
                      "source": "シチズン時計 有価証券報告書（2025年3月期）【沿革】",
                      "url": null
                    }
                  ]
                },
                {
                  "text": "電子デバイスの規模はまだ大きかった。2007年3月期のセグメント別売上は時計1,329億円、電子デバイス991億円で、電子デバイスは時計に次ぐ位置にあった。2006年3月期には1,111億円と時計の1,250億円に迫っていた売上を、自ら削る判断である。第二の柱として育てた事業を、頂点から2年のうちに縮小へ向ける決定であった点に、当時の収益の切迫が表れている。",
                  "evidences": [
                    {
                      "fact": "セグメント別売上高は2006年3月期に時計1,250億円・電子デバイス1,111億円、2007年3月期に時計1,329億円・電子デバイス991億円だった",
                      "原文": "シチズン：セグメント別売上高（億円）。2006年03月期＝時計1250、電子デバイス1111。2007年03月期＝時計1329、電子デバイス991。",
                      "source": "シチズン時計 有価証券報告書（セグメント情報）",
                      "url": null
                    }
                  ]
                }
              ]
            }
          ]
        },
        {
          "section": "outcome",
          "label": "結果",
          "subsections": [
            {
              "sub_title": "358億円の特別損失と258億円の純損失",
              "paragraphs": [
                {
                  "text": "撤退の代価は2009年3月期に表れた。電子デバイスの不採算3事業からの撤退に伴い特別損失358億円を計上し、当期純損失は258億円に達した。リーマンショックによる需要の落ち込みが重なり、営業利益も14億円まで縮んだ。中期経営計画が掲げた2009年度の営業利益率10％には遠く及ばず、計画が想定していた3年の回復は、より深い赤字の処理に置き換わった。",
                  "evidences": [
                    {
                      "fact": "2009年3月期に電子デバイス不採算3事業の撤退に伴う特別損失358億円を計上し、当期純損失258億円となった",
                      "原文": "電子デバイス不採算3事業の撤退に伴う特別損失358億円を計上し、当期純損失258億円という過去最大級の赤字に沈んだ。",
                      "source": "シチズン時計 有価証券報告書（2009年3月期・連結）",
                      "url": null
                    },
                    {
                      "fact": "2009年3月期の連結売上高は2,968億円、営業利益14億円まで縮小した",
                      "原文": "2009年3月期（連結）売上高2,968億円、営業利益14億円、経常利益7億円、当期純損失258億円。",
                      "source": "シチズン時計 有価証券報告書（2009年3月期・連結）",
                      "url": null
                    }
                  ]
                },
                {
                  "text": "事業の規模も縮んだ。電子デバイスのセグメント売上は2008年3月期の992億円から2009年3月期812億円、2010年3月期620億円へ落ちた。2013年3月期には電子デバイス事業の減損で特別損失257億円を計上し、当期純損失89億円を出している。同期のセグメント売上は598億円で、5年前の6割の水準であった。撤退は2007年の一度で終わらず、二度の減損を挟んで10年近く続いた。",
                  "evidences": [
                    {
                      "fact": "電子デバイスのセグメント売上は2008年3月期992億円→2009年3月期812億円→2010年3月期620億円→2013年3月期598億円と縮小した",
                      "原文": "シチズン：セグメント別売上高（億円）。2008年03月期＝電子デバイス992、2009年03月期＝812、2010年03月期＝620、2013年03月期＝598。",
                      "source": "シチズン時計 有価証券報告書（セグメント情報）",
                      "url": null
                    },
                    {
                      "fact": "2013年3月期に電子デバイス事業の減損で特別損失257億円、当期純損失89億円を計上した",
                      "原文": "2013年3月期にも電子デバイス事業の減損で特別損失257億円、純損失89億円を計上しており",
                      "source": "シチズン時計 有価証券報告書（2013年3月期・連結）",
                      "url": null
                    }
                  ]
                }
              ]
            },
            {
              "sub_title": "持株会社の解消という総括",
              "paragraphs": [
                {
                  "text": "2016年10月、シチズンホールディングスは持株会社体制を解消し、シチズンビジネスエキスパートを合併して商号をシチズン時計へ戻した。戸倉敏夫社長は、デバイスは厳しかったと振り返っている。時計であれば競合はスイス勢と国内のセイコー、カシオの2社ほどだが、電子部品では韓国や台湾の巨大企業がいくらでもいる。持株会社は売上規模1兆円ほどで主要事業が2つ3つあって初めて機能する、というのが解消の理由であった。",
                  "evidences": [
                    {
                      "fact": "戸倉敏夫社長は電子デバイス事業について「時計だと競合といってもスイス勢と、国内ではセイコーとカシオの2社くらい。ところが、電子部品などデバイスは韓国や台湾のジャイアント企業がいくらでもいる」と述べた",
                      "原文": "厳しかった。時計だと競合といってもスイス勢と、国内ではセイコーとカシオの2社くらいしかない。ところが、電子部品などデバイスは韓国や台湾のジャイアント企業がいくらでもいる。",
                      "source": "日経ビジネス 2016年8月3日「シチズンHD社長、事業持ち株会社への回帰を語る」",
                      "url": "https://business.nikkei.com/atcl/report/16/080100058/080200003/"
                    },
                    {
                      "fact": "戸倉社長は「HDというのは売り上げ規模が1兆円くらいあり、そして主要事業が2つ、3つあって、初めて機能する」と持株会社解消の理由を説明した",
                      "原文": "HDというのは売り上げ規模が1兆円くらいあり、そして主要事業が2つ、3つあって、初めて機能すると思うのです。シチズンは売り上げの5割、営業利益だと3分の2は時計で稼ぐ。",
                      "source": "日経ビジネス 2016年8月3日「シチズンHD社長、事業持ち株会社への回帰を語る」",
                      "url": "https://business.nikkei.com/atcl/report/16/080100058/080200003/"
                    }
                  ]
                },
                {
                  "text": "2007年の判断そのものについては、戸倉社長が2017年の取材でより踏み込んだ説明をしている。2007年当時の経営陣には、時計事業はもう成熟産業なのでデバイスを成長事業にしようという見方があったのだろう、ただデバイスは時計以上に競争が激しく投資も必要になり、当初もくろんでいたほどは伸びなかった、という総括であった。そのうえで前年に持株会社をやめて時計事業へもう一度注力すると宣言したと述べている。撤退の決定と、それを含む多角化路線の否定が、9年を隔てて言葉になった。",
                  "evidences": [
                    {
                      "fact": "戸倉敏夫社長は2007年当時の経営陣に「時計事業はもう成熟産業なのでデバイスを成長事業にしていこう」という見方があったとし、デバイスは競争が激しく当初もくろんでいたほど伸びなかったと述べた",
                      "原文": "０７年当時、経営陣には「時計事業はもう成熟産業なので、（ＬＥＤなどの）デバイスを成長事業にしていこう」という見方があったのだろう。ただデバイスは時計以上に競争が激しく、投資も必要になる。当初もくろんでいたほどは伸びなかった。そこで昨年に「いったんホールディングスをやめて時計事業にもう一度注力する」と宣言した。",
                      "source": "週刊東洋経済 2017年5月20日号「この人に聞く シチズン時計 社長 戸倉敏夫 時計事業にもう一度注力 背伸びせずブランド作る」",
                      "url": null
                    }
                  ]
                }
              ]
            },
            {
              "sub_title": "削った事業と残した事業",
              "editorial": true,
              "paragraphs": [
                {
                  "text": "2007年の決定を難しくしていたのは、電子デバイスが失敗した事業ではなく、直前まで時計に並ぶ規模を持っていた事業だったことである。2006年3月期のセグメント売上は時計1,250億円に対して電子デバイス1,111億円で、第二の柱という言い方は誇張ではなかった。撤退の判断は、赤字事業を切る作業というより、伸びると信じて集めた事業のうちどれを手放すかを品目の水準で決める作業であった。カメラ用CMOSモジュール、小型液晶パネル、フロッピーディスク装置という3つの名前は、当時の日本の電子機器産業がどこで競争力を失ったかの記録にもなっている。"
                },
                {
                  "text": "判断の当否は、その後の数字が答えている。2009年3月期の特別損失358億円は、2007年の中期経営計画が掲げた営業利益率10％という目標を最初の年に無効にした。一方で、削られた資源が向かった先の時計事業は、2025年3月期に1,771億円へ達し、電子デバイスの405億円と4倍以上の開きがついた。1991年に前川日出夫氏が語った「本業で成功しない企業が多角化に乗り出してもほとんど失敗に終わる」という前提は正しかったとしても、本業で世界一を取った会社の多角化もまた失敗し得たという事実が、この撤退の後に残っている。"
                }
              ]
            }
          ]
        }
      ],
      "references": [
        "日経BP 日経ものづくり 2007年3月23日「シチズン時計が中期経営計画を策定，CMOSや液晶パネルから撤退」",
        "日経ビジネス 1991年5月6日号「シチズン時計 腕時計・世界一を足場に情報機器シェア盗り作戦」",
        "日経ビジネス 2016年8月3日「シチズンHD社長、事業持ち株会社への回帰を語る」",
        "週刊東洋経済 2017年5月20日号「この人に聞く シチズン時計 社長 戸倉敏夫 時計事業にもう一度注力 背伸びせずブランド作る」",
        "シチズン時計 有価証券報告書（2007年3月期・連結）",
        "シチズン時計 有価証券報告書（2009年3月期・連結）",
        "シチズン時計 有価証券報告書（2013年3月期・連結）",
        "シチズン時計 有価証券報告書（2025年3月期）【沿革】",
        "シチズン時計 有価証券報告書（セグメント情報）"
      ],
      "authored": "2026-07",
      "last_updated": "2026-07-23"
    }
  ]
}
