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      "year": 1928,
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        "st-tech"
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      "title": "田嶋一雄による日独写真機商店の創業と、カメラの国産化",
      "subtitle": "舶来品が占めた写真機市場に、貿易商の長男はなぜ一身を投じたのか",
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      "issue": "創業と写真機の国産化",
      "decider": "田嶋一雄（創業者）",
      "highlights": [
        {
          "label": "概要",
          "text": "1928年11月、貿易商・田嶋商店に勤めていた田嶋一雄氏が、父の反対を押し切って独立し、兵庫県武庫郡鳴尾村の武庫川河畔に個人経営「日独写真機商店」を興した経営判断。二人のドイツ人技術者の協力を得て小型カメラの製造に着手し、のちのミノルタカメラ、現コニカミノルタの一方の源流となった。"
        },
        {
          "label": "背景",
          "text": "田嶋一雄氏は父の貿易商で人絹や雑貨の輸出に携わるうち、模造品の乱立で値の通らない商いに疑問を抱いた。当時の日本の写真機市場は国産大手が小西六の一社にとどまり、大半をドイツをはじめとする欧米からの輸入品が占めていた。外遊先のパリで光学兵器工場を見た田嶋氏は、加工度の高い独創的な製品でなければ立ち行かないと考えるようになった。"
        },
        {
          "label": "内容",
          "text": "神戸で顔見知りだったドイツ人ハイレマン氏と技術者ノイマン氏から写真機製造を勧められた田嶋氏は、パリで見た「光学」と写真機が同じ機器だと気づき、独立を決めた。父は資金援助を渋りつつ生命保険金5,000円を渡す。田嶋氏はこれに生家の番頭からの借金を加えて武庫川に工場を建て、総勢約30人で操業を始めた。"
        },
        {
          "label": "含意",
          "text": "創業の翌年に第一号機ニフカレッテを発売したが、部品の多くは輸入に頼っていた。ドイツ人技術者の離反を機に田嶋氏は日本人だけの体制へ切り替え、シャッターの自製やレンズの国産化を進めた。1933年にはブランド名「ミノルタ」を確立し、独創を旨とする社風が国産初の二眼レフや一貫生産体制へとつながった。"
        }
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            "note": "創業時は個人経営「日独写真機商店」。のちの千代田光学精工・ミノルタカメラを経て、2003年にコニカと統合し現コニカミノルタの源流となった"
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        "summary": "値の通らない雑貨貿易に見切りをつけ、輸入品が占めていた写真機を自らつくる側へ回ることで、加工度の高い独創的な製品づくりに賭けた創業の判断"
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          "title": "「日本商品旅商団」の一員として中近東・欧州へ出発（翌年パリで光学兵器と出会う）"
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          "title": "個人経営「日独写真機商店」を創業し、小型カメラの製造に着手",
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        {
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          "title": "第一号機「ニフカレッテ」が完成"
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          "title": "個人組織を合資会社（モルタ商会）へ改組"
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          "title": "速写型「ミノルタ」を発売し、ブランド名「ミノルタ」を確立"
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          "title": "株式会社千代田光学精工へ改組・改称"
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        {
          "year": 2003,
          "month": 8,
          "title": "コニカとミノルタが経営統合し、コニカミノルタが発足"
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      "snapshot": {
        "fiscal_year": "1928年（創業時）",
        "source": "田嶋一雄『私の履歴書 経済人21』（日本経済新聞社, 1986）",
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            "name": "日独写真機商店（後のミノルタ）",
            "fiscal_year": "1928年11月（創業時）",
            "president": "田嶋一雄",
            "hq": "兵庫県武庫郡鳴尾村（武庫川工場）",
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              "note": "創業時・田嶋自身を含む総勢約30人（土地300坪・木造延べ130坪）"
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          "label": "背景",
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              "sub_title": "値の通らない雑貨貿易と、舶来品が占めた写真機市場",
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                {
                  "text": "田嶋一雄氏は、父が神戸で営む貿易商・田嶋商店に勤め、人絹織物や雑貨の輸出に携わっていた。1927年、商工省の後援する旅商団の一員として中近東と東欧を巡った折、カイロで自らが開拓した綿布の取引先から思わぬ苦情を受けた。好評だった商品にそっくりの模造品が別のルートから安値で流れ込み、先発の利をつかむ間もない、という内容であった。田嶋氏は、過当競争と模倣が続く日本の商いに疑問を深め、加工度が高く他がまねしにくい独創的な製品でなければ立ち行かない、との考えを固めた。",
                  "evidences": [
                    {
                      "fact": "田嶋一雄はエジプトで自社の綿布に模造品が安値で流れ込む現実に接し、加工度が高く独創的な製品づくりの必要を痛感した",
                      "原文": "「値段の通らないものをいつまでもやっていては面白くない。もっと高く売れる加工度の高い製品、そして他がまねしにくい特徴のある独創的な製品をつくらなければダメだ。さもないと、日本もやがて立ち行かなくなるぞ」―と。以来、この考えは今日に至るまで全く変わっていない。",
                      "source": "田嶋一雄「私の履歴書」（日本経済新聞社編『私の履歴書 経済人21』日本経済新聞社, 1986 所収）",
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                  "text": "当時の日本の写真機産業は、国産の大手が小西六の一社にとどまり、市場の大半はドイツをはじめとする欧米からの輸入品で占められていた。カメラやレンズは舶来品が支配する高価な機器であり、国産化はまだ緒に就いたばかりであった。田嶋氏はこの外遊の途上、パリで一級の光学兵器会社の工場を訪ね、日本軍向けに独占的に量産される精密な測距儀を目にする。値の通らない繊維とは対照的に、価格が言い値で通る精密機器の世界に、田嶋氏は強く引きつけられた。",
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                      "fact": "1928年当時、国産の写真機大手は小西六の一社のみで、市場の大半は欧米からの輸入品が占めていた",
                      "原文": "当時日本の写真機産業といえば、国産メーカー大手では小西六がただ一社あるだけで、市場のほとんどはドイツをはじめとする欧米諸国からの輸入製品で占められていた。",
                      "source": "田嶋一雄「私の履歴書」（日本経済新聞社編『私の履歴書 経済人21』日本経済新聞社, 1986 所収）",
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        {
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          "label": "決断",
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              "sub_title": "「光学」への開眼と、二人のドイツ人の誘い",
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                {
                  "text": "パリで測距儀を見て以来、田嶋氏の頭からは「光学」の二文字が離れなくなっていた。帰国してほどなく、神戸で写真機用品を輸入していた顔見知りのドイツ人ハイレマン氏が、パリの光学機器会社に勤めた経験を持つ技術者ノイマン氏を伴って田嶋氏を訪ねた。二人は口をそろえて「写真機をつくらないか」と勧める。田嶋氏は、パリで見た光学兵器と、いま持ちかけられた写真機とが「光学機器」という一点で結びつくことに気づき、これを好機とみた。",
                  "evidences": [
                    {
                      "fact": "神戸のドイツ人ハイレマンと技術者ノイマンが田嶋一雄に写真機製造を勧め、田嶋はパリで見た光学兵器と写真機を「光学機器」として結びつけた",
                      "原文": "そして、二人とも私に対して「写真機をつくらないか」と、しきりに勧めたのである。この話を聞いた私は、思わず「ウーン」とうなった。パリで見たあの測距儀と、いま二人が持ちかけた写真機とが、「光学機器」という\"共通項\"でくくれたからである。",
                      "source": "田嶋一雄「私の履歴書」（日本経済新聞社編『私の履歴書 経済人21』日本経済新聞社, 1986 所収）",
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                {
                  "text": "長男の田嶋氏には、父の家業をそのまま継ぐ道もあった。それでも田嶋氏は、写真機を自らつくる側へ回る決断を下す。できれば田嶋商店の新規事業として手掛けたいと父に打ち明けたが、父は「あまりにも業種がかけ離れ過ぎて危険だ。どうしてもやりたければ独力で勝手にやれ」と同意しなかった。技術の要はノイマン氏が担い、必要な部品はハイレマン氏が輸入するという役割の見通しのもと、田嶋氏は父の会社を出て一人で写真機づくりに踏み切った。",
                  "evidences": [
                    {
                      "fact": "田嶋一雄は田嶋商店の新規事業としての写真機製造を父に打診したが、父は業種が離れすぎて危険だとして独力での事業化を求めた",
                      "原文": "「あまりにも業種がかけ離れ過ぎて危険だ。どうしてもやりたければ独力で勝手にやれ」というのが父の返答だった。私は一瞬ためらったが、すぐに「こうなったら、会社を飛び出すほかはないな」と考えた。",
                      "source": "田嶋一雄「私の履歴書」（日本経済新聞社編『私の履歴書 経済人21』日本経済新聞社, 1986 所収）",
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            {
              "sub_title": "恐慌下の武庫川河畔で始まった操業",
              "paragraphs": [
                {
                  "text": "資金の当ては乏しかった。工場の用地と建築費でおよそ1万円、機械設備を加えれば最低1万5,000円が要る。田嶋氏は生家の漆器商を切り盛りする番頭に頭を下げて借金を重ね、写真機に反対していた父も、生命保険が満期になって入った5,000円を「これだけだぞ。あとは自分でやれ」と渡した。田嶋氏は兵庫県武庫郡鳴尾村の武庫川河畔に土地を求め、木造一部二階建て延べ約百三十坪の工場を建てた。旋盤工や仕上げ工を口コミで集め、田嶋氏自身を含めて総勢およそ30人がそろった。",
                  "evidences": [
                    {
                      "fact": "田嶋一雄は生家の番頭からの借金に加え、父から生命保険金5,000円を得て武庫川河畔に工場を建設し、約30人で操業を始めた",
                      "原文": "創業時の規模は、土地が三百坪、建物は木造スレートぶき一部二階建ての延べ百三十坪。一階では機械加工、塗装、メッキなどをやり、二階は写真機の組み立て専用とした。（中略）人員は私も含めて総勢約三十人。",
                      "source": "田嶋一雄「私の履歴書」（日本経済新聞社編『私の履歴書 経済人21』日本経済新聞社, 1986 所収）",
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                {
                  "text": "1928年11月、田嶋氏は個人経営「日独写真機商店」の看板を掲げ、操業を開始した。田嶋氏は満29歳を迎えようとしていた。社名の「日独」は、日本人の自分がドイツ人二人の協力を得て出発したことに由来する。前年の金融恐慌に続いて世界恐慌が迫り、多くの中小企業が取引銀行を失って行き詰まるさなかの出発であった。輸入品が占める写真機市場に、無名の町工場が加わった。",
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                      "fact": "1928年11月、田嶋一雄が個人企業として日独写真機商会を設立し、武庫川に工場を建てて小型カメラの製造に着手した",
                      "原文": "昭和三年一一月、現社長田嶋一雄氏が個人企業として日独写真機商会を設立、兵庫県武庫川（現西宮市鳴尾町）に武庫川工場を建設し、小型カメラの製造に着手。",
                      "source": "企業の歴史 : 明治百年（経済春秋社編, 1968年）「ミノルタカメラ」の項",
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                      "原文": "そしていよいよ昭和三年十一月十一日。個人経営「日独写真機商店」の名を掲げ、操業を開始した。時に、私は満二十九歳の誕生日を迎えようとしていた。",
                      "source": "田嶋一雄「私の履歴書」（日本経済新聞社編『私の履歴書 経済人21』日本経済新聞社, 1986 所収）",
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          "section": "outcome",
          "label": "結果",
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              "sub_title": "第一号機ニフカレッテと、国産化の推進",
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                {
                  "text": "部品の下請け企業がほとんど無いなか、ネジひとつから手づくりする試行錯誤が続いた。操業から四カ月後の1929年3月、ノイマン氏の指導のもとで一号機が完成する。八枚撮りのロールフィルムを使う蛇腹式のハンドカメラで、「日独」と写真、カメラの頭文字をとって「ニフカレッテ」と名づけられた。レンズやシャッターは輸入品に頼ったが、外観のスマートさが評判を呼び、一台20円で売り出された当初はよく売れた。もっとも緊縮財政下で景気が下り坂に転じると売れ行きは鈍り、田嶋氏は再三の資金繰りに追われた。",
                  "evidences": [
                    {
                      "fact": "1929年3月に一号機「ニフカレッテ」が完成した。八枚撮りロールフィルムの蛇腹式で、レンズやシャッターは輸入品を使い、価格は一台20円であった",
                      "原文": "創業四カ月たった昭和四年の三月初め、ついに一台の写真機が完成した。八枚撮り、ロール（巻き取り）フィルム使用の蛇腹式ハンドカメラだ。レンズやシャッターなどはいずれも輸入品を使ったが、外観は私もびっくりするほど、当時の一般の写真機に比べ群を抜いてスマートな出来栄えであった。",
                      "source": "田嶋一雄「私の履歴書」（日本経済新聞社編『私の履歴書 経済人21』日本経済新聞社, 1986 所収）",
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                    {
                      "fact": "1929年に最初の製品ニフカレッテを発売した",
                      "原文": "昭和四年、最初の製品ニフカレッテを発売。",
                      "source": "企業の歴史 : 明治百年（経済春秋社編, 1968年）「ミノルタカメラ」の項",
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                },
                {
                  "text": "1931年、田嶋氏は個人経営を合資会社へ改めた。その直後、片腕だったハイレマン氏が独立し、続いてノイマン氏も数人の工員を連れて去った。技術の要を失った打撃は大きかったが、田嶋氏は「これからは日本人だけでやろう」と腹を決めた。生産体制を仕上・旋盤・シャッター・塗装の各部に組織化すると社内の士気はかえって高まり、シャッターを自前でつくり、レンズもなるべく国産品を使おうという機運が広がった。輸入部品から国産部品への置き換えは、二人が去ったあとにかえって進んだ。",
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                      "fact": "二人のドイツ人技術者の離反を機に、田嶋一雄は日本人だけの体制へ切り替え、シャッターの自製やレンズの国産化を進めた",
                      "原文": "これが功を奏したのか、二人のドイツ人が去ったあと、社内の士気はかえって高まり、シャッターは自前でつくり、レンズもなるべく国産品を使おう、といった機運も盛り上がってきた。",
                      "source": "田嶋一雄「私の履歴書」（日本経済新聞社編『私の履歴書 経済人21』日本経済新聞社, 1986 所収）",
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            {
              "sub_title": "「ミノルタ」の確立と、その後への継承",
              "paragraphs": [
                {
                  "text": "1933年、田嶋氏は速写型のカメラを発売し、これに「ミノルタ」の名を冠した。田嶋光学機器を意味する英語の頭文字をつないだ造語で、生母が生前に説いた「稔るほど頭を垂れる稲穂のように」という戒めから「稔る田」の意も重ねている。合資会社モルタ商会への改組を機に、全製品の名称はミノルタへ統一された。1936年7月には尼崎に研究所を設けて二眼レフの開発に着手し、翌1937年暮れに国産初の二眼レフカメラ「ミノルタフレックス」を送り出す。以後、二眼レフはミノルタの得意な機種と評され、レンズ生地までを自製する一貫生産体制もこの時期に整った。",
                  "evidences": [
                    {
                      "fact": "1933年に発売した速写型カメラで「ミノルタ」ブランドを確立した。田嶋光学機器を意味する英語の頭文字と「稔る田」を掛けた造語である",
                      "原文": "ミノルタというのは、「マシナリー・アンド・インスツルメンツ・オプティカル・バイ・タシマ」（田嶋光学機器）という英語の文字からとって「MINOLTA」としたもので、これも私自ら名付けた。これには、語呂合わせのようだが、「稔る田」の意味も含ませてある。",
                      "source": "田嶋一雄「私の履歴書」（日本経済新聞社編『私の履歴書 経済人21』日本経済新聞社, 1986 所収）",
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                    },
                    {
                      "fact": "1931年に個人組織を資本金30万円の合資会社モルタ商会と改め全製品をミノルタに統一し、1936年7月に尼崎工場を設立して国産最初の二眼レフカメラ・ミノルタフレックスの製造を開始した",
                      "原文": "昭和六年、従来の個人組織を資本金三〇万円の合資会社モルタ商会と改め、全製品を「ミノルタ」に統一する。一一年七月、尼崎工場を設立し、国産最初の二眼レフカメラ、ミノルタフレックスの製造を開始。",
                      "source": "企業の歴史 : 明治百年（経済春秋社編, 1968年）「ミノルタカメラ」の項",
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                    }
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                },
                {
                  "text": "田嶋氏は1937年に株式会社千代田光学精工へ改組し、戦時下では海軍向けの双眼鏡や光学ガラスの生産を通じて光学技術を蓄えた。戦後は第一号機ミノルタセミの発売と輸出の拡大を経て、1962年には社名をミノルタカメラに改めている。カメラから複写機など事務機への多角化も進んだ。1928年に一個人が興した写真機の町工場は、こうして光学と映像の総合メーカーへと育ち、2003年にはコニカと経営統合してコニカミノルタの一方の源流となった。",
                  "evidences": [
                    {
                      "fact": "千代田光学精工は1962年にミノルタカメラへ改称し、2003年にコニカと経営統合してコニカミノルタとなった",
                      "原文": "この時期を逃せば「ブランド名と社名の一致を実現する機会はない」―そう考えた私は、それまでの千代田光学精工から現社名のミノルタカメラに改称することを決意した。私の永年の\"宿願\"がかなって新生「ミノルタ」がスタートを切ったのは、この年七月からであった。",
                      "source": "田嶋一雄「私の履歴書」（日本経済新聞社編『私の履歴書 経済人21』日本経済新聞社, 1986 所収）",
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              "sub_title": "舶来品への従属を断つという選択",
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                {
                  "text": "1928年の判断は、値の通らない雑貨貿易に見切りをつけ、輸入品が占める写真機を自らつくる側へ回るというものであった。買って売る側から、つくって値を決める側へ移る選択である。パリで測距儀に引きつけられた一個人が、父の反対と恐慌の逆風のなかで独立に踏み切った背景には、加工度の高い独創的な製品でなければ日本の商いは立ち行かないという、外遊で得た危機感があった。"
                },
                {
                  "text": "出発こそ輸入部品に頼ったものの、田嶋氏はドイツ人技術者の離反をむしろ機として国産化へ向かい、独創を旨とする社風を育てた。その志向は、国産初の二眼レフや宇宙へ運ばれたカメラ、事務機への多角化へと形を変えて受け継がれた。祖業のカメラ事業そのものは2006年に終わったが、光学と精密の技術は計測やセンシングとして今のコニカミノルタに残る。1928年に町工場が選んだ光学という一点は、社名が消えたあとも事業の中身として残った。"
                }
              ]
            }
          ]
        }
      ],
      "references": [
        "田嶋一雄「私の履歴書」（日本経済新聞社編『私の履歴書 経済人21』日本経済新聞社, 1986 所収）",
        "企業の歴史 : 明治百年（経済春秋社編, 1968年）「ミノルタカメラ」の項"
      ],
      "authored": "2026-07",
      "last_updated": "2026-07-28"
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      "slug": "alpha-7000-autofocus-1985",
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      "year": 1985,
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      "title": "オートフォーカス一眼レフ「α-7000」の発売と、通常の4倍にあたる初回投入",
      "subtitle": "成熟したと言われた一眼レフ市場に、なぜ発売前から4倍を積んだのか——狙った層と、実際に動いた層のずれ",
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          "text": "1985年2月下旬、ミノルタカメラが世界で初めて実用化したオートフォーカス（自動焦点）一眼レフ「α-7000」を発売した経営判断。発売の2カ月以上前にあたる1984年12月から生産を始めて在庫を積み、一眼レフとして通常の4倍にあたる1万台を初回に店頭へ送り込んだ。"
        },
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          "label": "背景",
          "text": "1985年3月期の売上構成は複写機688億円・46%に対しカメラは404億円・27%で、国内一眼レフ市場のシェアは1桁にとどまっていた。一眼レフは成熟した商品と見られ、事務機を含む輸出が売上の8割を占める構成のもとで、海外需要の動向が業績を左右していた。"
        },
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          "label": "内容",
          "text": "発売直後から注文が集中して品切れ店が相次ぎ、4月には月産3万台のラインを休日・夜間返上で4万台体制へ引き上げた。狙った買い手は20代後半から30代前半のサラリーマン層であったが、最初の2カ月に店頭を埋めたのは50代・60代の男性であった。"
        },
        {
          "label": "含意",
          "text": "国内一眼レフのシェアは1桁から20〜25%へ跳ね上がり、1986年3月期は経常利益122億円・純利益110億円と当時の最高記録となった。一方、発売半年後の円高で内外価格差が広がって逆流品が国内へ流入し、1986・87年度は連続の大幅減益となった。"
        }
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                  "text": "1985年3月期のミノルタカメラは単体で1504億円を売り上げ、そのうち複写機が688億円と46%を占めていた。祖業のカメラは404億円で27%にとどまり、交換レンズ131億円を加えても事務機系には届かない。しかも国内の一眼レフ市場に限れば、同社のシェアは1桁しかなかった。カメラの社名を掲げながら、売上の最大の稼ぎ手はすでに複写機であった。",
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                      "原文": "当事者のミノルタですら「忘れていた」中高年層がドッと押し寄せたおかげで，国内一眼レフ市場で1けたしかなかった同社のシェア（市場占有率）は，α－7000の発売以来，20〜25％という空前の高さにはね上がった。",
                      "source": "日経ビジネス 1985年7月8日号「ヒット商品があぶり出す“隠れ大衆”市場／ミノルタカメラ「α-7000」中高年を走らせた高性能」",
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                  "text": "一眼レフそのものが伸びる商品とは見られていなかった。日経ビジネスは当時の市場を「成熟したと言われ続けてきた」と書き、多くのメーカーが成熟や個性化という言葉を、消費者の望む商品を作れない言い訳にしていると指摘している。ミノルタは事務機を含めた輸出が売上の8割を占め、海外の需要が細れば業績がそのまま痩せる構成であった。成熟という前提を受け入れるかどうかが、カメラ事業の分かれ目であった。",
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                      "原文": "ミノルタは成熟したと言われ続けてきた一眼レフ市場の足元でこんな大鉱脈を掘り当てたのだ。／これは言い換えれば，世の中の多くのメーカーが『成熟した時代』『個性化・多様化の時代』という言葉を，消費者が心から望む商品を作り出せない言い訳にしているということにもなる。",
                      "source": "日経ビジネス 1985年7月8日号「ヒット商品があぶり出す“隠れ大衆”市場／ミノルタカメラ「α-7000」中高年を走らせた高性能」",
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                    {
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                      "原文": "現在のミノルタカメラの売上構成をみると、事務機を含めて輸出が全体の8割を占めている。",
                      "source": "日経ビジネス 1981年12月14日号「編集長インタビュー 田嶋一雄氏（ミノルタカメラ社長）「難有り、有難し」で苦境乗り切る」",
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                  "text": "創業者の田嶋一雄社長は1981年末の取材で、自社の一貫した方針を光学技術による独自商品に置いてきたと語っている。付加価値の高い光学技術に惹かれて1928年に事業を始めた、という述懐である。当時の同社が家庭用VTRへの参入を見送り、事務機に技術を絞り込んでいたのも同じ考えに沿う判断であった。田嶋一雄社長は、他社に追随して乱売合戦に巻き込まれることを警戒していた。",
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                      "原文": "私自身、付加価値の高い光学技術に魅かれて事業を始めたわけだし、この独自技術による独自商品という理想は、今日に至るまで私の会社の一貫したポリシーになってきたと思います。",
                      "source": "日経ビジネス 1981年12月14日号「編集長インタビュー 田嶋一雄氏（ミノルタカメラ社長）「難有り、有難し」で苦境乗り切る」",
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                    {
                      "fact": "同社は家庭用VTR・ビデオカメラへの参入を見送り、事務機に絞って技術を掘り下げる方針をとっていた",
                      "原文": "私は、この分野は今、即断するのは危険だと思うとるのです。第一、技術の変化があまりにも激しいし、方式をめぐる業界内の動きにも不確定な要素が多すぎる。へたをすると、かつての電卓のような乱売合戦にまきこまれることになる。せめて、もう半年様子をみたいですね。だから現在は、事務機だけに焦点を絞って技術を掘り下げ、深みのある製品を作ることに専念しているのです。",
                      "source": "日経ビジネス 1981年12月14日号「編集長インタビュー 田嶋一雄氏（ミノルタカメラ社長）「難有り、有難し」で苦境乗り切る」",
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                {
                  "text": "田嶋一雄社長はこの取材の場で引退を表明し、後継に長男の田嶋英雄副社長を指名した。創業から53年にわたって社長を務めた人物からの交代であり、α-7000の先行生産が始まる3年前にあたる。決断の要諦について田嶋一雄社長は、社内の意見をよく聞いたうえで自ら熟慮する時間を持つこと、そして最終決断が早すぎても遅すぎてもいけないことを挙げていた。",
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                      "原文": "来年の6月には正式に発表したい。株主さんの了解がいただければ、社長交替の時期は、できたら9月に。",
                      "source": "日経ビジネス 1981年12月14日号「編集長インタビュー 田嶋一雄氏（ミノルタカメラ社長）「難有り、有難し」で苦境乗り切る」",
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                    {
                      "fact": "田嶋一雄社長は決断の要諦として、社内の意見を聞いたうえで熟慮する時間を持つこと、タイミングを外さないことを挙げていた",
                      "原文": "こういう決断を迫られた時の要ていは、まず社内の意見をよく聞くことです。／ただし、これはタイミングを測ること。最終決断を下すには，ことがらによって早すぎても遅すぎてもいけない。特に遅れてはならない。",
                      "source": "日経ビジネス 1981年12月14日号「編集長インタビュー 田嶋一雄氏（ミノルタカメラ社長）「難有り、有難し」で苦境乗り切る」",
                      "url": null
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          "section": "origin",
          "label": "決断",
          "subsections": [
            {
              "sub_title": "1984年12月からの先行生産と、通常の4倍の初回投入",
              "paragraphs": [
                {
                  "text": "1985年2月下旬、ミノルタカメラはオートフォーカス一眼レフ「α-7000」を発売した。東京と大阪で開いた一般ユーザー向けの発表会はいずれも超満員となる。同社は発売の2カ月以上前、1984年12月から生産を始めて製品をため込み、一眼レフとして通常の4倍にあたる1万台を初回に店頭へ送り込んだ。売れるかどうかが分かる前に4倍を作る、という物量の賭けであった。",
                  "evidences": [
                    {
                      "fact": "1984年12月から生産を始め、一眼レフとして通常の4倍にあたる1万台を店頭に投入した",
                      "原文": "昨年12月には生産を始め，たっぷり製品をため込んで，一眼レフとしては通常の4倍，1万台を店頭に送り込んだ",
                      "source": "日経ビジネス 1985年7月8日号「ヒット商品があぶり出す“隠れ大衆”市場／ミノルタカメラ「α-7000」中高年を走らせた高性能」",
                      "url": null
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                    {
                      "fact": "1985年2月下旬に発売し、東京・大阪の一般ユーザー向け発表会はともに超満員となった",
                      "原文": "今年2月下旬，ミノルタカメラが発売したオートフォーカス（自動焦点）一眼レフカメラ，α-7000の一般ユーザー向け発表会。華やかな新製品のお披露目らしく東京，大阪の2会場はともに超満員の大盛況になった。",
                      "source": "日経ビジネス 1985年7月8日号「ヒット商品があぶり出す“隠れ大衆”市場／ミノルタカメラ「α-7000」中高年を走らせた高性能」",
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                  ]
                },
                {
                  "text": "それでも足りなかった。発売直後から注文が殺到して品切れの店が続出したため、同社は4月から月産3万台の生産ラインを休日・夜間返上で4万台体制へ引き上げている。6月下旬になっても、カメラ店に予約して2〜3週間待たなければ手に入らない状態が続いた。久保田勇カメラ事業企画部長の言う「たっぷり製品をため込んで」という備えは、2カ月ももたずに底を突いた。",
                  "evidences": [
                    {
                      "fact": "発売直後から品切れ店が続出し、4月から月産3万台のラインを休日・夜間返上で4万台体制へ増強したが、6月下旬でも予約から2〜3週間待ちが続いた",
                      "原文": "だが，その懸念は1週間もしないうちに吹っ飛んだ。発売直後から注文が殺到，『昨年12月には生産を始め，たっぷり製品をため込んで，一眼レフとしては通常の4倍，1万台を店頭に送り込んだ』（久保田勇カメラ事業企画部長）にもかかわらず，あっという間に品切れ店が続出。4月からは月産3万台の生産ラインを休日，夜間返上で4万台体制にしているが，6月下旬になっても，客がカメラ店に予約注文して2〜3週間待たなくては手に入らないという超人気商品になっている。",
                      "source": "日経ビジネス 1985年7月8日号「ヒット商品があぶり出す“隠れ大衆”市場／ミノルタカメラ「α-7000」中高年を走らせた高性能」",
                      "url": null
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                }
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            },
            {
              "sub_title": "狙った層と、動いた層",
              "paragraphs": [
                {
                  "text": "ミノルタが想定していた買い手は、米国でヤッピーと呼ばれた20代後半から30代前半の、学歴も収入もある中の上のサラリーマン層であった。ところが発表会の会場を埋めた客の相当部分は、白髪頭や少々ハゲかかった中年とお年寄りであった。同社幹部は「エレクトロニクスを駆使したカメラだから若い人がもっと集まってくるかと思ったのに…」と、新製品の前途に一抹の不安を抱いた。",
                  "evidences": [
                    {
                      "fact": "当初のターゲットは米国でいう“ヤッピー”、20代後半から30代前半で学歴も収入もある中の上のサラリーマン層だった",
                      "原文": "狙った層は，実は彼らではなかった。ターゲットは米国でいう“ヤッピー”，つまり，20代後半から30代前半で学歴も収入もある中の上クラスのサラリーマン層だったのである。",
                      "source": "日経ビジネス 1985年7月8日号「ヒット商品があぶり出す“隠れ大衆”市場／ミノルタカメラ「α-7000」中高年を走らせた高性能」",
                      "url": null
                    },
                    {
                      "fact": "発表会に詰めかけた客の相当部分が中高年で、同社幹部は新製品の前途に不安を抱いた",
                      "原文": "ただ，そこに詰めかけたカメラファンのなかで白髪頭や少々ハゲかかった中年，お年寄りがかなりの割合を占めていたのだ。／「エレクトロニクスを駆使したカメラだから若い人がもっと集まってくるかと思ったのに…」と同社幹部は新製品の前途に一抹の不安を抱いた。",
                      "source": "日経ビジネス 1985年7月8日号「ヒット商品があぶり出す“隠れ大衆”市場／ミノルタカメラ「α-7000」中高年を走らせた高性能」",
                      "url": null
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                  ]
                },
                {
                  "text": "その懸念は1週間もしないうちに消えた。久保田勇部長は、最初の2カ月間の購入客の中心が明らかに50代、60代の男性であったと語っている。5年、10年前に一眼レフを愛好しながら、加齢による視力の低下できれいな写真が撮れなくなっていた層であり、ピント合わせの要らないカメラのためなら10数万円の出費をためらわなかった。狙いを外したというより、同社自身が「忘れられていたマーケット」と呼ぶ需要を掘り当てた結果であった。",
                  "evidences": [
                    {
                      "fact": "最初の2カ月の購入客の中心は50代・60代の男性で、同社はこの層を「忘れられていたマーケット」と呼んだ",
                      "原文": "「最初の2カ月間，購入客の中心は明らかに50代，60代の男性でした」（久保田部長）／しかし，そのターゲット層が動き出す前に『忘れられていたマーケット』（同社）である中高年がドッとカメラ店に駆け込んで来た。",
                      "source": "日経ビジネス 1985年7月8日号「ヒット商品があぶり出す“隠れ大衆”市場／ミノルタカメラ「α-7000」中高年を走らせた高性能」",
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                    },
                    {
                      "fact": "中高年層は視力の低下で写真が撮れない不満を抱えており、オートフォーカスの出現で10数万円の出費をいとわなかった",
                      "原文": "歳をとるにつれて視力も落ち，なかなかきれいな写真が撮れない。不満を持ちながら撮っていたり，ホコリがかぶるままにしておいたのだが，ピント合わせをしないで済む本格的オートフォーカスの一眼レフが出現して，この不満は一挙に解消した。所得の高い彼らにとってみれば，そういう“理想的”カメラを手に入れるためなら10数万円の出費はほとんど苦にならなかった，というわけだ。",
                      "source": "日経ビジネス 1985年7月8日号「ヒット商品があぶり出す“隠れ大衆”市場／ミノルタカメラ「α-7000」中高年を走らせた高性能」",
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        },
        {
          "section": "outcome",
          "label": "結果",
          "subsections": [
            {
              "sub_title": "シェアの奪回と、過去最高益",
              "paragraphs": [
                {
                  "text": "国内一眼レフ市場で1桁だったミノルタのシェアは、発売以来20〜25%へ跳ね上がった。同社は標準レンズとストロボを付けた1台の平均小売価格を約15万円と置き、海外輸出分を含めて年間ほぼ50万台、金額で750億円が売れると踏んでいる。1986年3月期の経常利益は前年度比7割近い増加となる122億円、純利益は110億円で、いずれも当時の最高記録となった。",
                  "evidences": [
                    {
                      "fact": "発売以来シェアは20〜25%へ上昇。同社は輸出を含め年間ほぼ50万台・750億円が売れると見込んだ（見通し）",
                      "原文": "同社では米国など海外輸出分を含めて1年間にほぼ50万台は売れると踏んでいる。標準レンズ，ストロボをつけて1台の平均小売り価格が約15万円だから，750億円。",
                      "source": "日経ビジネス 1985年7月8日号「ヒット商品があぶり出す“隠れ大衆”市場／ミノルタカメラ「α-7000」中高年を走らせた高性能」",
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                    {
                      "fact": "1986年3月期（85年度）の経常利益は前年度比7割近い増加で122億円、純利益110億円といずれも当時の最高記録となった",
                      "原文": "85年度（86年3月期）に経常利益は前年度に比べ一気に7割近く増え，過去最高の122億円に達した。純利益110億円も当時の最高記録である。",
                      "source": "日経ビジネス 1994年3月28日号「リエンジニアリング ミノルタ，総崩れからの追撃／カメラ・複写機ともにライバルが先行 生産拠点再編や開発期間短縮の効果に期待」",
                      "url": null
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                },
                {
                  "text": "勢いは数年続いた。1989年の一眼レフ国内出荷は前年比26.8%増の81万9000台に伸び、ミノルタは約3割のシェアでキヤノンから首位を奪い返している。田嶋英雄社長は1990年の取材で、国内で販売する一眼レフのAF化比率が90%を超えたと語った。経営企画を担当した和田藤朗専務は後年、この時期を「10万円以上のカメラが作る端から売れていき，注文に生産が追い付かない。海外向けは，ジャンボ機をチャーターして運んだものだった」と振り返っている。",
                  "evidences": [
                    {
                      "fact": "1989年の一眼レフ国内出荷は前年比26.8%増の81万9000台。ミノルタは約3割のシェアでキヤノンから首位を奪回し、AF化比率は90%を超えた",
                      "原文": "89年の一眼レフ国内出荷数量は81万9000台。前年の64万5000台に比べ26.8％増。／『α7000』が先鞭をつけたAF機能は完全に一般化し、『国内で販売する一眼レフのAF化比率は90％を超えた』と田嶋社長。",
                      "source": "日経ビジネス 1990年7月30日号「高感度企業の独走宣言／［ミノルタカメラ］「カメラ健在、まだまだ伸びます」開発力で高機能化の先頭走る」",
                      "url": null
                    },
                    {
                      "fact": "当時の受注は生産が追い付かず、海外向けはジャンボ機をチャーターして輸送していた",
                      "原文": "あのころはすごかった。10万円以上のカメラが作る端から売れていき，注文に生産が追い付かない。海外向けは，ジャンボ機をチャーターして運んだものだった",
                      "source": "日経ビジネス 1994年3月28日号「リエンジニアリング ミノルタ，総崩れからの追撃／カメラ・複写機ともにライバルが先行 生産拠点再編や開発期間短縮の効果に期待」",
                      "url": null
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                }
              ]
            },
            {
              "sub_title": "円高による逆流と、遅れた転換",
              "paragraphs": [
                {
                  "text": "発売の半年後に為替が動いた。1ドル245円から一時125円までの円高で内外価格差が広がり、海外へ出した安値品が大量に国内へ流れ込む。他社の追随商品との競合もあって国内価格も崩れ、ミノルタは1986年度と1987年度に連続して大幅な減益となった。輸出比率が約80%、しかもカメラ売上の半分が米国向けという構成が、為替の振れをそのまま損益へ通していた。",
                  "evidences": [
                    {
                      "fact": "発売半年後の急激な円高で内外価格差が拡大し、逆流品が国内へ流入。ミノルタは1986・87年度と連続で大幅な減益となった",
                      "原文": "ミノルタがα7000を発売したのは円高直前の85年4月。わずか半年後に始まった急激かつ大幅な円高で内外価格差が拡大、大量の逆流品が国内市場に流れ込んだ。他社の追随商品との競合もあって国内価格も大きく値崩れした。先行者利益を享受したのも束の間、ミノルタは円高と価格ダウンのダブルパンチで86、87年度連続で大幅な減益を余儀なくされたのである。",
                      "source": "日経ビジネス 1988年11月7日号「崩壊する『日本の価格』カメラ→逆流が迫った究極の選択／内で下げ外で上げたミノルタ」",
                      "url": null
                    },
                    {
                      "fact": "ミノルタの輸出比率は約80%で、カメラ売上の半分が米国向けだった",
                      "原文": "同社の輸出比率は約80％と極めて高く、しかもカメラ売り上げの半分が米国向けである。米国市場は生命線だけに死守せねばならない。かといってシェア本位に走ると、逆流現象に歯止めがかからない。",
                      "source": "日経ビジネス 1988年11月7日号「崩壊する『日本の価格』カメラ→逆流が迫った究極の選択／内で下げ外で上げたミノルタ」",
                      "url": null
                    }
                  ]
                },
                {
                  "text": "もう一つの誤算は商品構成に出た。国内生産額で一眼レフがコンパクトカメラに抜かれたのは1988年で、1991年には一眼レフ2500億円が横ばいのまま、コンパクトが2989億円へ10.8%伸びている。それでもミノルタはカメラ事業への投資の約60%を一眼レフに向け続けた。1992年3月期は26年ぶりの赤字となり、同年3月にはハネウェルとの特許訴訟も和解金の支払いで決着している。",
                  "evidences": [
                    {
                      "fact": "国内生産額で一眼レフは1988年にコンパクトカメラに抜かれ、1991年は一眼レフ2500億円が横ばい、コンパクトは2989億円で10.8%増。ミノルタはカメラ投資の約60%を一眼レフに投じ続けた",
                      "原文": "カメラの国内生産額で一眼レフは88年にコンパクトカメラに抜かれた。91年は一眼レフ2500億円で横ばい，コンパクトカメラ2989億円で10.8％増。ミノルタは今もってカメラ事業への投資額の約60％を一眼レフに投入している。",
                      "source": "日経ビジネス 1992年3月2日号「誤算の研究 ミノルタカメラ 開発分散、実らぬ新分野／一眼レフ固執に敗訴打撃」",
                      "url": null
                    },
                    {
                      "fact": "α-7000の成功体験が強烈すぎてコンパクトカメラへの転換が遅れ、1992年3月期は26年ぶりの赤字となった",
                      "原文": "85年，AF一眼レフαシリーズを大ヒットさせ，一躍世界の一眼レフ市場でシェアトップに踊り出た。この成功体験が強烈すぎて，コンパクトカメラへの転換が遅れた。しかも商品化がうまく進んでいない。／主力のカメラ，複写機が伸び悩み，1992年3月期は26年ぶりに赤字決算へ。",
                      "source": "日経ビジネス 1992年3月2日号「誤算の研究 ミノルタカメラ 開発分散、実らぬ新分野／一眼レフ固執に敗訴打撃」",
                      "url": null
                    }
                  ]
                }
              ]
            },
            {
              "sub_title": "当たり方が大きすぎた",
              "editorial": true,
              "paragraphs": [
                {
                  "text": "国内シェアが1桁の会社が、成熟したと言われ続けた市場で、自社の常識の4倍にあたる1万台を発売初日の店頭に積んだ。技術が売れるかどうかは出してみなければ分からないから、賭けの部分は残る。ただし賭けたのは需要の有無ではなく、需要が出たときに供給しきれるかどうかであった。発売の2カ月以上前、1984年12月から生産を始めた点に、その用心深さが出ている。"
                },
                {
                  "text": "当たり方が大きすぎた、という言い方はできる。輸出比率約80%、カメラ売上の半分が米国向けという構成のまま発売半年後の円高を迎え、内外価格差は逆流を招き、1986・87年度は連続の大幅減益となった。国内生産額で一眼レフがコンパクトに抜かれた1988年以降も、カメラ投資の約60%は一眼レフに向けられたままだった。成功が判断を縛る。参入時の読みが正しかったことと、そのあと同じ読みを持ち続けたことは、分けて評価する必要がある。"
                }
              ]
            }
          ]
        }
      ],
      "references": [
        "日経ビジネス 1985年7月8日号「ヒット商品があぶり出す“隠れ大衆”市場／ミノルタカメラ「α-7000」中高年を走らせた高性能」",
        "日経ビジネス 1981年12月14日号「編集長インタビュー 田嶋一雄氏（ミノルタカメラ社長）「難有り、有難し」で苦境乗り切る」",
        "日経ビジネス 1988年11月7日号「崩壊する『日本の価格』カメラ→逆流が迫った究極の選択／内で下げ外で上げたミノルタ」",
        "日経ビジネス 1990年7月30日号「高感度企業の独走宣言／［ミノルタカメラ］「カメラ健在、まだまだ伸びます」開発力で高機能化の先頭走る」",
        "日経ビジネス 1992年3月2日号「誤算の研究 ミノルタカメラ 開発分散、実らぬ新分野／一眼レフ固執に敗訴打撃」",
        "日経ビジネス 1994年3月28日号「リエンジニアリング ミノルタ，総崩れからの追撃／カメラ・複写機ともにライバルが先行 生産拠点再編や開発期間短縮の効果に期待」",
        "ミノルタカメラ 会社年鑑（1986年版・単独業績および製品別売上高）"
      ],
      "authored": "2026-07",
      "last_updated": "2026-07-28"
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    {
      "slug": "honeywell-patent-suit-1992",
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      "year": 1992,
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      "title": "ハネウェル特許訴訟での陪審評決と、控訴を見送っての1億2,750万ドルでの和解",
      "subtitle": "評決額の1.3倍を払ってなぜ争いを終えたのか——米国の陪審裁判に敗れたミノルタカメラの損得計算",
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      "issue": "米国特許訴訟への対応と、敗訴後の立て直し",
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      "highlights": [
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          "label": "概要",
          "text": "1992年3月3日、ミノルタカメラは米ハネウェルとの自動焦点（AF）技術をめぐる特許訴訟で、控訴せず1億2,750万ドル（約165億円）を支払う和解に応じた。前月の陪審評決が命じた9,635万ドルの1.3倍にあたる金額で、取り決めどおり3月23日に全額を支払った。"
        },
        {
          "label": "背景",
          "text": "ハネウェルはAF方式の一眼レフを生産するメーカーのほとんどを訴えると表明し、その手始めとして1987年、当時米国でシェア首位だったミノルタカメラをニュージャージー連邦地裁に提訴した。ミノルタ側は発売前から相手の特許を把握していたが、内容が概念的すぎて抵触しないと考えていた。"
        },
        {
          "label": "内容",
          "text": "1992年2月7日（現地時間）の陪審評決は、AF技術で8,500万ドル、オートフラッシュ技術で1,135万ドルの支払いを命じた。田嶋英雄社長は控訴の勝算を最高35%とみて、判決までの2〜3年と保証金の供託、販売差し止めが複写機事業にまで及ぶ危険を避けるために和解を選び、侵害とされた特許の全世界ライセンスを取り付けた。"
        },
        {
          "label": "含意",
          "text": "訴訟費用だけで43億円がかかり、1991年度は特別損失176億円、連結最終赤字361億円を計上した。1993年に全社員が一時帰休し、同年4月には創業家の田嶋英雄社長が会長へ退いた。1987年の提訴直後にハネウェルが示した和解額は2,000万〜3,000万ドルであった。"
        }
      ],
      "parties": [
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            "note": "AF一眼レフ「α-7000」で米国の一眼レフ市場首位に立った光学機器メーカー。カメラと複写機を柱としていた"
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        "summary": "米国の特許訴訟で陪審評決に敗れ、控訴の勝算・保証金・販売差し止めの波及を計算したうえで、評決額を上回る和解金の支払いを選んだ判断"
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          "title": "ハネウェルがニュージャージー連邦地裁にミノルタカメラを提訴（提示された和解額は2,000万〜3,000万ドル）"
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          "title": "陪審評決でAF技術8,500万ドル、オートフラッシュ技術1,135万ドル、計9,635万ドルの支払い命令"
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          "title": "プリンター事業と複写機事業を統合し、社名から「カメラ」を外してミノルタに変更"
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        "fiscal_year": "1992年3月期",
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                {
                  "text": "ハネウェルはAF方式の一眼レフカメラを生産するメーカーのほとんどを訴えると発表し、その手始めとして1987年、当時米国でシェア首位だったミノルタカメラをニュージャージー連邦地裁に提訴した。争点となったのは1985年発売のAF一眼レフ「α-7000」に使われたAF技術と、コンパクトカメラのオートフラッシュ技術である。ハネウェル自身はカメラを生産しておらず、問われたのは製品の優劣ではなく特許の範囲であった。",
                  "evidences": [
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                      "fact": "ハネウェルはAF方式の一眼レフを生産するメーカーのほとんどを訴えると発表し、手始めに1987年当時米国シェア首位のミノルタを提訴した",
                      "原文": "米国ハネウエル社との自動焦点（AF）技術などをめぐる5年にわたる特許裁判は事実上，ハネウエルに軍配が上がった。ハネウエルはAF方式の一眼レフを生産するメーカーのほとんどを訴えると発表しているが，手始めに87年当時，米国でシェアトップのミノルタが狙われた。",
                      "source": "日経ビジネス 1992年3月2日号「誤算の研究 ミノルタカメラ 開発分散、実らぬ新分野／一眼レフ固執に敗訴打撃」",
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                      "fact": "ハネウェル側の弁護士は、ミノルタが最初にAF一眼レフを商品化したから訴えたと述べている",
                      "原文": "いや，ミノルタが初めて自動焦点の一眼レフカメラを商品化したから訴えた。その間は，ほかのメーカーにまで手が回らなかった。自然なことだと思う。",
                      "source": "日経ビジネス 1992年6月1日号「スペシャル・リポート 訴訟社会への備え③ 自動焦点特許紛争に勝った米弁護士に聞く／ミノルタは証人人選いま一つ」",
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                {
                  "text": "ミノルタカメラの側は、発売前からハネウェルが特許を持つことを把握していた。ただ、その内容が誰でも知っているような常識的なもので概念的すぎるため抵触しないと考え、AF技術については西独ライツ社がハネウェルより先に特許を登録していたことも根拠にしていた。提訴の直後に米国の特許専門弁護士へ相談したときも、侵害はしていない、最悪でも賠償は500万ドル前後だろうという答えが返っている。争う判断は、この見立てに基づいていた。",
                  "evidences": [
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                      "fact": "ミノルタは発売前からハネウェルの特許を知っていたが、内容が概念的すぎるとして抵触しないと考え、AF技術ではライツ社の先行登録も根拠にしていた",
                      "原文": "我々は発売前からハネウエルが特許を持っていることは知っていました。しかし，特許の内容がだれでも知っているような常識的なもので，あまりに概念的すぎるため，『特許に抵触しない』と考えていました。／AF技術に関してはハネウエルより先にライカのカメラで有名なドイツのライツ社が特許を登録していましたから，全く問題はないと思っていました。",
                      "source": "日経ビジネス 1992年4月6日号「敗軍の将、兵を語る 田嶋英雄氏［ミノルタカメラ社長］今も特許侵害ないと確信／制度の国際的統一が必要」",
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                      "fact": "提訴直後に相談した米国の特許専門弁護士は、侵害していない、最悪でも賠償500万ドル前後だろうと答えた",
                      "原文": "というのもハネウエルに提訴された直後，米国の特許専門の弁護士に相談したところ，こちらの予想通り『特許は侵害していない。問題ない』という話だったのです。最悪，賠償金を支払うにしてもせいぜい500万ドル前後だろうということでした。",
                      "source": "日経ビジネス 1992年4月6日号「敗軍の将、兵を語る 田嶋英雄氏［ミノルタカメラ社長］今も特許侵害ないと確信／制度の国際的統一が必要」",
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              "paragraphs": [
                {
                  "text": "米国では1980年代後半に知的財産権の保護強化が進んでいた。1985年に大統領産業競争力協議会がまとめた報告書、いわゆるヤング・リポートが国際競争力の強化策として知的所有権の保護を訴えたことが、その契機の一つとされる。ミノルタカメラは審理の入口で、特許紛争に陪審裁判はそぐわないとして裁判官だけの審理を求めたが、ハネウェルが陪審裁判を主張したため通らなかった。審理の形は相手の選択で決まった。",
                  "evidences": [
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                      "fact": "米国で知的財産権の保護強化が進んだのは1980年代後半で、1985年のヤング・リポートが契機の一つとされる",
                      "原文": "知的財産権の保護強化が進んだのは1980年代後半。85年に米国の大統領産業競争力協議会の報告書「ヤング・リポート」が国際競争力強化のため知的所有権保護を訴えたのがきっかけの一つ。",
                      "source": "日経ビジネス 1992年6月1日号「スペシャル・リポート 訴訟社会への備え③ 自動焦点特許紛争に勝った米弁護士に聞く／ミノルタは証人人選いま一つ」",
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                      "fact": "ミノルタは裁判官だけの審理を求めたが、ハネウェルが陪審裁判を主張したため認められなかった",
                      "原文": "今回の裁判でも当初，我々は裁判所に『特許に関しては陪審裁判はそぐわないと考えますので，裁判官だけの審理にして下さい』とお願いしました。しかし，ハネウエルが陪審裁判を主張したため，当社の意見は入れられませんでした。",
                      "source": "日経ビジネス 1992年4月6日号「敗軍の将、兵を語る 田嶋英雄氏［ミノルタカメラ社長］今も特許侵害ないと確信／制度の国際的統一が必要」",
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                {
                  "text": "訴訟が5年に及ぶ間に、ミノルタカメラの業績は細っていた。一眼レフカメラにこだわりすぎてコンパクトカメラの需要増に乗れず、カメラと複写機に続く三本目の柱も育っていない。1992年3月期は26年ぶりの赤字決算が避けられない見通しとなり、技術陣が主導してきた製品開発の進め方そのものが問われていた。評決は、経営が最も体力を落とした時期に届いた。",
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                      "fact": "業績悪化の背景には一眼レフへの固執とコンパクトカメラブームへの出遅れ、カメラ・複写機に続く柱の不在があり、1992年3月期は26年ぶりの赤字決算となる見通しだった",
                      "原文": "これまで業績が悪化した背景にはミノルタ固有の問題がある。一つは，一眼レフカメラにこだわりすぎ，コンパクトカメラブームに乗れなかったこと。もう一つは，カメラ，複写機に続く経営の柱が育っていないことだ。／主力のカメラ，複写機が伸び悩み，1992年3月期は26年ぶりに赤字決算へ。技術陣の独りよがりで進めてきた製品開発をやめ，全社挙げて新規事業を育成する体質づくりを迫られている。",
                      "source": "日経ビジネス 1992年3月2日号「誤算の研究 ミノルタカメラ 開発分散、実らぬ新分野／一眼レフ固執に敗訴打撃」",
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                  "text": "1992年2月8日の深夜12時すぎ、神戸市にある田嶋英雄社長の自宅に、米国ミノルタ・コーポレーションの社員から電話が入った。評決はクロで、約120億円の支払い命令が出たという報告であった。現地時間2月7日にニューアーク連邦地裁の陪審が下した評決は、αシリーズがハネウェルのAF技術特許を侵害したとして8,500万ドル、コンパクトカメラのオートフラッシュ技術の侵害で1,135万ドル、合計9,635万ドルの支払いを命じるものであった。",
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                      "原文": "今年2月8日の深夜12時すぎ，神戸市にある田嶋英雄ミノルタカメラ社長の自宅の電話が鳴り響いた。米国ミノルタ・コーポレーションの社員から『評決はクロです。約120億円の支払い命令が出ました』との報告。田嶋社長は思わず息をのんだ。",
                      "source": "日経ビジネス 1992年3月2日号「誤算の研究 ミノルタカメラ 開発分散、実らぬ新分野／一眼レフ固執に敗訴打撃」",
                      "url": null
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                    {
                      "fact": "2月7日（現地時間）の陪審評決は、AF技術特許の侵害で8,500万ドル、オートフラッシュ技術の特許侵害で1,135万ドル、合計9,635万ドルの支払いを命じた",
                      "原文": "2月7日（現地時間）の陪審評決は，αシリーズがハネウエルのAF技術特許を侵害したとして8500万ドル，コンパクトカメラによるオートフラッシュ技術の特許侵害で1135万ドル，合計9635万ドル支払え，というものであった。",
                      "source": "日経ビジネス 1992年4月6日号「敗軍の将、兵を語る 田嶋英雄氏［ミノルタカメラ社長］今も特許侵害ないと確信／制度の国際的統一が必要」",
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                {
                  "text": "評決の中身は全面敗訴ではなかった。ハネウェルが主張した四つの特許侵害のうち認められたのはAFとオートフラッシュの二つで、侵害は故意である、技術提携契約に違反した、という二つの主張は却下された。故意と認定されていれば賠償額は3倍に跳ね上がっていた。ハネウェルが法廷で求めていたのは約1億8,000万ドルで、その算定根拠はミノルタがAFカメラとコンパクトカメラ、そのアクセサリーで得た利益であった。",
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                      "原文": "ハネウエルが主張した「四つの特許を侵害した」のうちAFとオートフラッシュの二つしか認められず，「特許侵害は故意」「技術提携契約に違反」という主張も却下された。故意と認定されていたら賠償金額は3倍に跳ね上がっていた。",
                      "source": "日経ビジネス 1992年4月6日号「敗軍の将、兵を語る 田嶋英雄氏［ミノルタカメラ社長］今も特許侵害ないと確信／制度の国際的統一が必要」",
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                    {
                      "fact": "ハネウェルは法廷で約1億8,000万ドルの支払いを要求し、その根拠はミノルタがAFカメラ・コンパクトカメラとアクセサリーで得た利益であった",
                      "原文": "ハネウエルは法廷で約1億8000万ドルの支払いを要求していた。計算根拠はミノルタがAFカメラ，コンパクトカメラでもうけた金額で，レンズ，フィルターなどのアクセサリーも含めた利益である。",
                      "source": "日経ビジネス 1992年4月6日号「敗軍の将、兵を語る 田嶋英雄氏［ミノルタカメラ社長］今も特許侵害ないと確信／制度の国際的統一が必要」",
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            {
              "sub_title": "控訴を捨て、評決額の1.3倍を払う",
              "paragraphs": [
                {
                  "text": "3月2日の午前、ニュージャージー州のホテルで両社は会談した。ミノルタ側は田嶋英雄社長と和住誠一専務、米国現地法人会長の楠本定平氏に弁護士がオブザーバーとして加わり、ハネウェル側は副社長と法務担当者の2人であった。翌3日の午前に判事の助言で和解が成立し、和解金は1億2,750万ドル、日本円で約165億円となった。田嶋社長は和解後も特許を侵害していないという主張は変わらないとしたうえで、和解の理由を得か損かの計算だと説明している。",
                  "evidences": [
                    {
                      "fact": "1992年3月3日午前（現地時間）に判事の助言で和解が成立し、和解金1億2,750万ドル（約165億円）を3月23日に全額支払った",
                      "原文": "和解金は1億2750万ドル（約165億円）で，取り決め通り3月23日にハネウエルへ全額支払いました。",
                      "source": "日経ビジネス 1992年4月6日号「敗軍の将、兵を語る 田嶋英雄氏［ミノルタカメラ社長］今も特許侵害ないと確信／制度の国際的統一が必要」",
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                    {
                      "fact": "田嶋英雄社長は和解後も特許侵害はないと主張しつつ、和解の理由を損得の計算だと述べた",
                      "原文": "和解は成立しましたが，『ハネウエルの特許は侵害していない』という主張は今でも変わっていません。では，なぜ和解したのか。それはビジネスライクに得か損か，を考えたからです。",
                      "source": "日経ビジネス 1992年4月6日号「敗軍の将、兵を語る 田嶋英雄氏［ミノルタカメラ社長］今も特許侵害ないと確信／制度の国際的統一が必要」",
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                {
                  "text": "控訴を見送る判断は、いくつかの数字から組み立てられた。弁護士の話を総合した控訴の勝算は最高で35%にとどまり、最も可能性が高い結末は差し戻しであった。判決までにはさらに2〜3年かかるうえ、その間は一審で命じられた賠償額を保証金として裁判所に預けなければならない。この時点ですでに弁護士費用など43億円を投じており、さらに争えば資金と時間の拘束が積み上がる。",
                  "evidences": [
                    {
                      "fact": "控訴して勝つ見込みは最高35%で、最も可能性が高いのは差し戻しだった",
                      "原文": "仮に控訴して高裁で争っても，一度出た陪審員の評決が覆されることは期待し難い。弁護士の話を総合すると控訴して勝つ見込みは最高35％しかない。",
                      "source": "日経ビジネス 1992年4月6日号「敗軍の将、兵を語る 田嶋英雄氏［ミノルタカメラ社長］今も特許侵害ないと確信／制度の国際的統一が必要」",
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                    {
                      "fact": "訴訟費用は43億円に達し、控訴すれば高裁判決まで賠償額を保証金として裁判所に預ける必要があった",
                      "原文": "今回の裁判だけでも弁護士費用など合わせて43億円もかかっているのです。加えて，高裁で判決が出るまで1審の判決で支払いを命じられた賠償金額を保証金として裁判所に預けなければならない。企業にとっては，ものすごい冒険になるわけです。",
                      "source": "日経ビジネス 1992年4月6日号「敗軍の将、兵を語る 田嶋英雄氏［ミノルタカメラ社長］今も特許侵害ないと確信／制度の国際的統一が必要」",
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                {
                  "text": "決め手になったのは、判決で米国内の販売差し止めが申し渡される危険であった。差し止めの取り消しを求める裁判を起こすにも数日はかかり、その間は商品が止まる。ミノルタ製品が止まったという話が全米に広がれば信用問題となり、複写機など他の商売にも及ぶ。争いの対象は米国内での販売に限られていたが、和解では侵害とされた特許の全世界ライセンスを取得する条件を付け加えた。和解金が評決額の1.3倍に膨らんだのは、この上積みを含んでいたためである。",
                  "evidences": [
                    {
                      "fact": "販売差し止め判決が出れば商品が止まり、複写機など他事業の信用問題に及ぶことを避ける必要があった",
                      "原文": "仮に差し止めの判決が出たとすると，その取り消しを求める裁判を起こすにも2〜3日はかかりますから，その間，商品は止まる。ミノルタ製品がストップしたなどという話が全米に広がれば，当然，信用問題になるわけで，複写機などほかの商売にも影響が出てきます。それは本当に困る。何としても避けなければならなかったのです。",
                      "source": "日経ビジネス 1992年4月6日号「敗軍の将、兵を語る 田嶋英雄氏［ミノルタカメラ社長］今も特許侵害ないと確信／制度の国際的統一が必要」",
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                    {
                      "fact": "裁判で争われたのは米国内の販売に限られたが、和解内容には侵害とされた特許の全世界的ライセンス取得を加え、和解金は評決額の1.3倍となった",
                      "原文": "裁判で争われたのは米国内での販売に限ったものですが，和解内容には侵害とされた特許の全世界的なライセンス取得を付け加えました。／和解金は評決で出た金額の1.3倍に膨らんでいる。それはなぜだ，とよく言われました。",
                      "source": "日経ビジネス 1992年4月6日号「敗軍の将、兵を語る 田嶋英雄氏［ミノルタカメラ社長］今も特許侵害ないと確信／制度の国際的統一が必要」",
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        {
          "section": "outcome",
          "label": "結果",
          "subsections": [
            {
              "sub_title": "特別損失176億円と、経営陣の交代",
              "paragraphs": [
                {
                  "text": "和解金の支払いは、1991年度の決算に176億円の特別損失として現れた。連結の最終赤字は361億円に膨らみ、1990年度の22億円の赤字から一段と深くなった。α-7000の成功で積み上げた利益は、和解金として社外へ出た。1993年には全社員が一時帰休するところまで追い込まれ、カメラ事業に張り付いていた人員のうち500人が最初の1年で複写機事業部や販売子会社へ移された。",
                  "evidences": [
                    {
                      "fact": "ハネウェル特許裁判に敗れ1億ドルを超える和解金の支払いを迫られた結果、176億円の特別損失を計上し、連結最終赤字は361億円に膨らんだ",
                      "原文": "さらにAF技術などをめぐる米ハネウエル社との特許裁判に敗れ，1億ドルを超える和解金の支払いを迫られる。この結果，176億円の特別損失を計上，最終赤字は361億円に膨らむ。",
                      "source": "日経ビジネス 1994年3月28日号「リエンジニアリング ミノルタ、総崩れからの追撃／カメラ・複写機ともにライバルが先行」",
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                    {
                      "fact": "1993年には全社員が一時帰休し、最初の1年でカメラ事業から500人が複写機事業部や販売子会社へ移された",
                      "原文": "それに追い打ちをかけたのが、自動焦点技術をめぐる米ハネウエル社との特許係争。92年3月に166億円の和解金を支払うことで決着をつけたが、これが巨額の赤字の要因となり、業績の「谷」を味わう。93年には全社員が一時帰休するほどに追い込まれた。",
                      "source": "日経ビジネス 1999年1月4日号「特集 1999日本企業出直し元年／ミノルタ ミノルタカメラでの成功を捨て切る」",
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                {
                  "text": "1993年4月、創業者の長男である田嶋英雄社長が業績悪化の責任を取って会長に退き、米国販売子会社の社長を務めていた金谷宰氏が9人の上席役員を越えて社長に就いた。金谷宰社長は会社の中核をカメラから複写機へ移し、1994年7月にはプリンター事業と複写機事業を統合したうえで、社名から「カメラ」を外してミノルタとした。訴訟の後始末は、経営陣の顔ぶれと社名の書き換えにまで及んだ。",
                  "evidences": [
                    {
                      "fact": "1993年4月に田嶋英雄社長が会長に退き、米国販売子会社社長だった金谷宰氏が9人の上席役員を飛び越えて社長に就任した",
                      "原文": "金谷宰社長は1993年4月就任。9人の上席役員を飛び越えての社長就任だった。前任は創業者一族の田嶋英雄・現会長で、業績悪化の責任を取って退陣した。",
                      "source": "日経ビジネス 1999年1月4日号「特集 1999日本企業出直し元年／ミノルタ ミノルタカメラでの成功を捨て切る」",
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                    {
                      "fact": "1994年7月にプリンター事業と複写機事業を統合し、社名をミノルタカメラからミノルタへ変更した",
                      "原文": "94年7月にプリンター事業と複写機事業を統合、情報機器事業統括本部など4本部を新設した。社名もミノルタカメラから「カメラ」を外してミノルタに変更した。",
                      "source": "日経ビジネス 1999年1月4日号「特集 1999日本企業出直し元年／ミノルタ ミノルタカメラでの成功を捨て切る」",
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            {
              "sub_title": "勝った側から見えていたもの",
              "paragraphs": [
                {
                  "text": "勝訴した側の弁護士は、この結果を技術や国民性ではなく訴訟の運び方の差として説明している。ハネウェル側の弁護を担ったマイケル・シレッシ弁護士は、ミノルタが提訴から和解に至る過程で何度も法律事務所を変更したといわれ、裁判を争う組織全体をうまくまとめあげることができなかったと述べた。ミノルタ側には最も多い時で40人近い弁護士が関わり、ハネウェル側はシレッシ弁護士を含めて5人から6人であった。",
                  "evidences": [
                    {
                      "fact": "シレッシ弁護士は、ミノルタが何度も法律事務所を変更したといわれ、裁判を争う組織全体をまとめあげられなかったと指摘した",
                      "原文": "ミノルタは起訴から和解に至る過程で何度も法律事務所を変更したといわれ，裁判を争う組織全体をうまくまとめあげることができなかった。",
                      "source": "日経ビジネス 1992年6月1日号「スペシャル・リポート 訴訟社会への備え③ 自動焦点特許紛争に勝った米弁護士に聞く／ミノルタは証人人選いま一つ」",
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                    {
                      "fact": "ミノルタ側は最多時に40人近い弁護士が訴訟に関わり、ハネウェル側は5人から6人だった",
                      "原文": "ミノルタ側は大変な組織だったらしい。最も多い時には40人近い弁護士が，訴訟にかかわったと聞いている。それでは訴訟費用もかかるはずだ。ハネウエル側は私を含め5人から6人だった。",
                      "source": "日経ビジネス 1992年6月1日号「スペシャル・リポート 訴訟社会への備え③ 自動焦点特許紛争に勝った米弁護士に聞く／ミノルタは証人人選いま一つ」",
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                {
                  "text": "陪審への伝え方にも差があった。ハネウェル側は模型やアニメーションを作って実演し、光学やレンズの基礎知識からAF技術まで、あらゆる手法を繰り返し使って陪審員の理解を積み上げた。シレッシ弁護士は証人の人選についても、ミノルタ側にやや問題があったかもしれないと語っている。田嶋英雄社長の側も、直接の質問もメモも許されない陪審員にどこまで理解されたか分からないとし、裁判を長引かせたという印象が心証を悪くしたとみていた。",
                  "evidences": [
                    {
                      "fact": "ハネウェル側は模型やアニメーションを作り、光学の基礎からAF技術まで繰り返し実演して陪審員の理解を高めた。証人の人選ではミノルタ側に問題があった可能性を指摘している",
                      "原文": "我々はそのために模型を作ったり，アニメーションを作るなど，あらゆることを実演してみせた。光学，レンズの基礎知識といったことから自動焦点（の技術）に至るまで，あらゆる手法を繰り返し使って，陪審員に理解してもらおうとした。／問題は国民性ではない。ただし，効果的な発言ができる証人を選べるかどうかの巧拙はある。正直に言えば，ミノルタ側に（証人の）人選でやや問題があったかもしれない。",
                      "source": "日経ビジネス 1992年6月1日号「スペシャル・リポート 訴訟社会への備え③ 自動焦点特許紛争に勝った米弁護士に聞く／ミノルタは証人人選いま一つ」",
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                    {
                      "fact": "田嶋英雄社長は、質問もメモも禁じられた陪審員にどこまで理解されたか分からず、裁判を長引かせた印象が心証を悪くしたとみていた",
                      "原文": "我々も極力，分かりやすく特許の中身を説明しましたが，直接質問することや，メモをとることも禁止されている陪審員の方にどこまでご理解いただけたか分かりません。／それだけに我々が裁判を長引かせたという印象を持たれたことが陪審員の心証を悪くしたと思います。",
                      "source": "日経ビジネス 1992年4月6日号「敗軍の将、兵を語る 田嶋英雄氏［ミノルタカメラ社長］今も特許侵害ないと確信／制度の国際的統一が必要」",
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            {
              "sub_title": "田嶋英雄社長が挙げた反省点",
              "paragraphs": [
                {
                  "text": "田嶋英雄社長は、この一件から引き出す備えを二つ挙げている。一つは、米国で新製品を発売するなら最低1カ所、できれば複数の特許専門の弁護士に相談しておくこと。AF一眼レフの発売前に相談していれば、その意見は裁判の証拠として使えたという意味であった。もう一つは社内の機能で、知的財産部はあるがまだ十分に機能しておらず、強化しなければならないと述べている。",
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                    {
                      "fact": "田嶋英雄社長は、米国で新製品を発売する前に複数の特許専門弁護士へ相談する必要があり、社内の知的財産部も十分機能していないと述べた",
                      "原文": "当社がAF一眼レフカメラを発売する前に専門の弁護士に相談していれば，裁判の証拠として使えたということです。ですから，米国で新製品を発売しようとしたら，最低1カ所，できれば複数の特許専門の弁護士に相談することが必要なのです。／当社にも知的財産部がありますが，まだ十分機能していない。もっと強化しなければなりません。",
                      "source": "日経ビジネス 1992年4月6日号「敗軍の将、兵を語る 田嶋英雄氏［ミノルタカメラ社長］今も特許侵害ないと確信／制度の国際的統一が必要」",
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                },
                {
                  "text": "金額の面では、和解の機会は5年前にもあった。1987年の提訴直後にハネウェルが提示した和解額は2,000万〜3,000万ドルで、その時に応じていれば1992年の和解金の4分の1以下で済んでいる。ただ、当時はものすごく高い金額を言ってきたという印象であり、侵害していないという米国弁護士の見立てもあった。5年の争いの末に支払ったのは、和解金1億2,750万ドルに訴訟費用43億円を加えた金額であった。",
                  "evidences": [
                    {
                      "fact": "1987年の提訴直後にハネウェルが提示した和解額は2,000万〜3,000万ドルで、その時点で和解していれば1992年の和解金の4分の1以下で済んだ",
                      "原文": "87年に提訴された後，ハネウエルが提示してきた和解金額は，2000万〜3000万ドルでした。その時和解していれば，今回の和解金の4分の1以下で済んだ。しかし，当時はものすごく高い金額を言ってきたという印象でした。",
                      "source": "日経ビジネス 1992年4月6日号「敗軍の将、兵を語る 田嶋英雄氏［ミノルタカメラ社長］今も特許侵害ないと確信／制度の国際的統一が必要」",
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            },
            {
              "sub_title": "負けを認めるのが遅れたことのコスト",
              "editorial": true,
              "paragraphs": [
                {
                  "text": "1987年にハネウェルが示した和解額は2,000万〜3,000万ドルで、5年後に払った1億2,750万ドルの4分の1にも満たない。それでも、争う判断を後知恵で責めるのは難しい。相談した米国の特許専門弁護士は侵害していないと答え、最悪でも賠償は500万ドル前後という見立てを添えていた。誤算があったのは特許の中身の読みではなく、その中身を争う場所の読みであった。裁判官ではなく陪審が判断する土俵で、概念的すぎるという反論は通らなかった。"
                },
                {
                  "text": "ただ、負けを認めるまでの5年間に訴訟費用は43億円に達し、争うための組織のほうが先に崩れていた。法律事務所を何度も替え、40人近い弁護士を抱えながら5、6人の相手に及ばなかったという指摘は、個々の能力ではなく指揮系統の問題を指している。いったん負けを認めたあとの動きは速く、控訴を捨てて全世界ライセンスまで取り付けた1992年3月の判断は、勝算35%という数字を正面から受け止めている。高くついたのは和解金よりも、そこに至るまでの時間であった。"
                }
              ]
            }
          ]
        }
      ],
      "references": [
        "日経ビジネス 1992年3月2日号「誤算の研究 ミノルタカメラ 開発分散、実らぬ新分野／一眼レフ固執に敗訴打撃」",
        "日経ビジネス 1992年4月6日号「敗軍の将、兵を語る 田嶋英雄氏［ミノルタカメラ社長］今も特許侵害ないと確信／制度の国際的統一が必要」",
        "日経ビジネス 1992年6月1日号「スペシャル・リポート 訴訟社会への備え③ 自動焦点特許紛争に勝った米弁護士に聞く／ミノルタは証人人選いま一つ」",
        "日経ビジネス 1994年3月28日号「リエンジニアリング ミノルタ、総崩れからの追撃／カメラ・複写機ともにライバルが先行」",
        "日経ビジネス 1999年1月4日号「特集 1999日本企業出直し元年／ミノルタ ミノルタカメラでの成功を捨て切る」"
      ],
      "authored": "2026-07",
      "last_updated": "2026-07-28"
    }
  ]
}
