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  "title": "米英仏3社との技術提携と岩槻製造所への資本金数倍の投資",
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      "text": "1960年から1962年にかけて、曙ブレーキ工業が米仏のベンディックス社・英ロッキード社と自動車用ブレーキの技術提携を結び、あわせて埼玉県岩槻市に当時の資本金の数倍にあたる12億円を投じて岩槻製造所を建設した経営判断。摩擦材の専業からブレーキ総合メーカーへ移るための、技術と設備の同時手当てにあたる。"
    },
    {
      "label": "背景",
      "text": "朝鮮戦争特需でブレーキ用部品が採算に乗るなか、常務だった信元安貞氏は{q1}と主張して1956年に事実上追放され、約1年後に病床の社長から経営を託された。当時の設備はプレス機械程度で、総合メーカーに必要な技術も工作機械も社内になかった。",
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          "text": "ブレーキ全体を手掛けなければ生き残れない",
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      "text": "1960年5月に社名を曙産業から曙ブレーキ工業へ改め、同年10月に米仏ベンディックス両社・英ロッキード社と自動車用ブレーキの技術提携を締結。1961年10月に東京証券取引所市場第二部へ上場し、1962年11月に岩槻製造所を稼働させた。信元安貞社長はこれを『バクチ的な大投資』と表現している。"
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      "text": "岩槻は建設後数年間、手直し程度の追加投資で急増する需要に応え、1968年には新車組付用ブレーキライニングの市場占有率が約65%に達した。一方でベンディックスへのロイヤリティは売上高に比例する計算式で、米国での単独生産も封じられ、この契約は1986年11月の失効まで続いた。"
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      "title": "常務の信元安貞氏が米国視察からの帰国時に事実上追放される（36歳）"
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              "text": "1950年代半ば、曙産業は朝鮮戦争の特需でブレーキ用部品の採算に恵まれていた。そのなかで常務だった信元安貞氏は、部品供給のままでは先がないとみて、ブレーキ全体を手掛ける会社への転換を社長に進言し、米国を視察して事業内容の見直しに取りかかろうとした。利益の出ている事業をわざわざ組み替えるという主張は他の経営陣の反発を招き、1956年に米国から帰国した信元安貞氏は羽田空港で{q1}と告げられた。36歳であった。",
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                  "text": "常務の身分まで奪わないが、以後、会社に出なくていい",
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              "text": "半ば浪人の暮らしはおよそ1年で終わった。病床にあった社長に呼び出され、『君に任せる』と実質的に経営を託された。直前に起きていた社長派と専務派の社内抗争の収拾役としての指名でもあった。抗争で対外的な信用は落ち、金融機関は合理化に必要な資金さえ貸さなかった。信元安貞氏は取引先のトヨタ自動車と日産自動車に頭を下げて回り、当時の金額で5,000万円の合理化資金を工面する。投資を終えた時期がちょうど神武景気と重なり、設備は一気に償却できた。"
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            },
            {
              "text": "足りなかったのは、ブレーキという装置そのものを組み立てる技術と設備であった。信元安貞氏自身が{q1}と述べているとおり、総合ブレーキメーカーになるには溶接機や工作機械を一式そろえる必要がある。1956年施行の機械工業振興臨時措置法は、未熟な部品工業と伸びる自動車工業との差を埋める目的で始まり、部品業界のなかから育てる企業を選び出す性格を帯びていた。技術を外から入れる条件は、政策の面でも整いつつあった。",
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            {
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                  "text": "当時としては非常に思いきつたバクチ的な大投資であつた",
                  "type": "literature",
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              "text": "1968年の時点で、新車組付用ブレーキライニングにおける曙ブレーキの市場占有率は約65%に達していた。信元安貞社長は、これを国内の部品工業のなかで例外的な高さと説明し、組付品での占有率を補修品市場へ食い込むための宣伝材料に使う考えを示している。日産、トヨタ、いすゞ、三菱、日野といった大方の完成車メーカーが大株主に名を連ね、そのいずれもが決定権を握らないという株主構成も、ほぼすべてのメーカーへの納入を可能にしていた。従業員2,000名のうち160名が技術本部に属し、開発と実験にあたった。"
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            {
              "text": "需要の伸びは、次の投資をすぐに呼び込んだ。自動車増産で生産能力が限界に達したため、曙ブレーキは1967年から1968年にかけて第2次の大型投資に入る。ドラムブレーキからディスクブレーキへの転換が高速道路網の整備とともに速まるとみて、一時しのぎの生産体制を避け、ディスクブレーキへ先行して投資する判断であった。この負担で1968年3月期は若干の増収減益となり、続く9月期も横ばいを見込む状況になったが、信元安貞社長は設備投資について長期の視点で判断していると説明した。"
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        {
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            {
              "text": "生産能力の増強は、自社工場の外にも及んだ。1965年に晝田工業、三菱重工業との共同出資で山陽ブレーキ工業を設立し、1968年5月にはトヨタ自動車工業、アイシン精機、豊田鉄工との共同出資で豊生ブレーキ工業を設立する。豊生の出資構成は曙ブレーキ35%、トヨタ35%、アイシン20%、豊田鉄工10%で、これには{q1}という非難も向けられた。信元安貞社長は講演で、実際には豊生設立後に日産自動車との関係はさらに良くなったと反論している。",
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              "text": "この判断の特徴は、技術と設備で異なる調達の仕方を選んだところにある。ブレーキ装置そのものの技術は、世界の専門メーカー3社から契約で借りた。一方で、量産の工場とテストコースは、資本金の数倍という無理をしてでも自前で建てた。技術は買えば数年で手に入るが、工場と顧客との取引関係は買えないという読みが、この非対称な資金配分に表れているとみられる。1950年代半ばに追放の理由となった主張を、10年足らずで市場占有率65%という数字に変えた実行力も、あわせて記録に値する。"
            },
            {
              "text": "もっとも、借りた技術には長い支払いが続いた。ロイヤリティは曙ブレーキの売上高に比例する計算式で、自社開発品を増やしてもベンディックスの特許料収入は増える仕組みになっており、支払額は1980年代半ばに年間6億円ともいわれた。技術提携を続ける限り、米国で単独にブレーキを生産・販売する道も閉ざされていた。岩槻に投じた12億円は数年で回収の目処がついたのに対し、1960年10月に結んだ契約は1986年11月の失効まで26年続き、それを解くために曙ブレーキはGMとの合弁という次の賭けを必要とした。"
            }
          ]
        }
      ]
    }
  ],
  "references": [
    "証券アナリストジャーナル 1968年6巻9号",
    "日経ビジネス 1993年5月3日号 有訓無訓",
    "日経ビジネス 1985年9月30日号",
    "曙ブレーキ工業 有価証券報告書【沿革】",
    "曙ブレーキグループ85年史（2015年6月）"
  ],
  "authored": "2026-07",
  "last_updated": "2026-07-22"
}
