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    {
      "slug": "founding-1959",
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      "year": 1959,
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      "decision_id": "6971-founding-1959",
      "type": "founding",
      "title": "京セラ創業——宮木電機の倉庫から米国半導体パッケージ市場へ",
      "subtitle": "松風工業を連袂退職した27歳・稲盛和夫 氏は、京都財界人の出資300万円をどう半導体パッケージの世界市場へ結びつけたか",
      "status": "implemented",
      "status_label": "実施",
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      "issue": "ファインセラミックスの事業化（連袂退職した技術陣による専業メーカーの起業）",
      "decider": "稲盛和夫 氏（創業者）ほか、宮木男也 氏・西枝一江 氏（出資して受け皿となった京都財界人）",
      "highlights": [
        {
          "label": "概要",
          "text": "1959年4月、松風工業を連袂退職した27歳の稲盛和夫 氏ら技術陣約30名が、宮木電機の宮木男也 氏・西枝一江 氏ら京都財界人の出資300万円を受け、京都市中京区西ノ京原町の宮木電機の倉庫を借りた工房で京都セラミック株式会社を発足させた。松下電子工業向け U 字ケルシマの量産で足場を築き、稲盛 氏自らの渡米営業を重ねて米TI・IBM・Intel から半導体パッケージを受注し、ファインセラミック専業から世界の半導体パッケージ供給者へ転じた。"
        },
        {
          "label": "背景",
          "text": "稲盛和夫 氏は松風工業のファインセラミックス研究室でフォルステライト磁器を国産合成し、松下電子工業向け U 字ケルシマの量産化を主導していた。だが会社経営の悪化と事業化方針を巡る上層部との対立が深まり、1958年末から翌年初頭にかけて開発陣の主要メンバーが連袂退職に至った。稲盛 氏の技術を高く評価した宮木電機の宮木男也 氏・西枝一江 氏が、退職組の受け皿として新会社の設立に動いた。"
        },
        {
          "label": "内容",
          "text": "京都セラミックは資本金300万円で設立され、筆頭株主は宮木男也 氏の4,300株、技術者本人の稲盛 氏は3,500株で第4位という独特な資本構成をとった。西枝一江 氏は自宅を担保に銀行から借入を起こして資金を融通した。会社は創業初年から松下電子工業向け U 字ケルシマを月産20万本で量産し、国内大手の門前払いを越えるため稲盛 氏自らが1962年から渡米営業を重ねた。"
        },
        {
          "label": "含意",
          "text": "国内で無名会社の若僧として相手にされなかった稲盛 氏は、技術評価の本場である米国で1965年に米TI、1966年に米IBMから受注を取り、米国での実績を日本市場への信用へ逆流させた。1969年には世界初の積層セラミックパッケージ HDP を約3ヶ月で開発して Intel に納入し、鹿児島川内工場を量産拠点に据えて、1971年10月の大阪証券取引所市場第二部上場へつながる成長基盤を初期十数年で築いた。"
        }
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      "parties": [
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          "name": "京セラ",
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            "note": "創業時は京都セラミック株式会社。松風工業を連袂退職した技術陣約30名が、京都財界人の出資300万円で宮木電機の倉庫を借りて発足したファインセラミックスの専門メーカーであった"
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      "dates": {
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        "summary": "松風工業で培ったファインセラミックスの技術を事業化するため、連袂退職した技術陣を京都財界人が出資して受け皿とし、米国の半導体パッケージ需要を捉えて専業メーカーを起こした創業"
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      "timeline": [
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          "year": 1959,
          "month": 4,
          "title": "京都セラミック株式会社を設立（宮木電機の倉庫、資本金300万円）",
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          "title": "稲盛和夫が米国への渡米営業を開始"
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          "title": "滋賀蒲生工場を新設し量産能力を拡張"
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          "title": "米テキサス・インスツルメンツから IC 用アルミナ基板を受注"
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          "title": "米IBM から大口受注、半導体パッケージ市場へ本格参入"
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          "title": "世界初の積層セラミックパッケージ HDP を開発し Intel に納入"
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          "title": "鹿児島川内工場を新設し積層パッケージの量産体制を構築"
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          "title": "大阪証券取引所市場第二部に株式を上場"
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      "locations": [
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          "year": 1959,
          "name": "京都セラミック本社・工場",
          "role": "創業地（宮木電機の倉庫を借用）",
          "address": "京都市中京区西ノ京原町101番地",
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        {
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          "name": "滋賀蒲生工場（現 滋賀東近江工場）",
          "role": "創業4年目に新設した量産工場",
          "address": "滋賀県蒲生郡蒲生町（現 東近江市）",
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        {
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          "name": "滋賀八日市工場（現 滋賀東近江工場）",
          "role": "上場前後に新設した第2量産工場",
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      "capital_history": {
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        "source": "有価証券報告書（沿革）",
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            "amount": 300,
            "note": "京都セラミック株式会社を設立（資本金300万円）"
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          {
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            "note": "大阪証券取引所市場第二部に上場（設立12年目）"
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          "label": "背景",
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              "sub_title": "松風工業からの連袂退職",
              "paragraphs": [
                {
                  "text": "稲盛和夫 氏は1932年に鹿児島市で生まれ、1955年に鹿児島大学工学部応用化学科を卒業して京都の老舗碍子メーカー松風工業に入社した。配属先のファインセラミックス研究室でフォルステライト磁器を国産で合成し、松下電子工業向けの U 字ケルシマ（ブラウン管用の絶縁部品）の量産化を主導している。老舗の碍子メーカーにあって、稲盛 氏は新素材であるファインセラミックスの分野で早くから実績を積み重ねていった。",
                  "evidences": [
                    {
                      "fact": "稲盛和夫は1955年に鹿児島大学工学部応用化学科を卒業し松風工業に入社した",
                      "原文": "稲盛和夫 氏は1932年に鹿児島市で生まれ、1955年に鹿児島大学工学部応用化学科を卒業して京都の老舗碍子メーカー松風工業に入社した。",
                      "source": "私の履歴書 稲盛和夫（日本経済新聞社, 2004）",
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                    {
                      "fact": "松風工業のファインセラミックス研究室でフォルステライト磁器を国産合成し U 字ケルシマの量産化を主導した",
                      "原文": "配属先のファインセラミックス研究室でフォルステライト磁器を国産で合成し、松下電子工業向けの U 字ケルシマ（ブラウン管用の絶縁部品）の量産化を主導している。",
                      "source": "私の履歴書 稲盛和夫（日本経済新聞社, 2004）",
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                },
                {
                  "text": "だが松風工業の経営は悪化し、技術陣の処遇と新製品の事業化方針を巡って上層部との対立が深まっていった。1958年末から翌年初頭にかけて、稲盛 氏を含むセラミック開発陣の主要メンバーが連袂退職する事態に至った。退職組の受け皿として動いたのが、稲盛 氏の技術を高く評価していた宮木電機の宮木男也 氏と西枝一江 氏で、両氏は新会社の設立に踏み切った。技術者集団が行き場を失いかねないなか、京都の実業家たちが個人の資力で受け皿を用意した。",
                  "evidences": [
                    {
                      "fact": "1958年末から翌年初頭にかけセラミック開発陣の主要メンバーが連袂退職した",
                      "原文": "1958年末から翌年初頭にかけて、稲盛 氏を含むセラミック開発陣の主要メンバーが連袂退職する事態に至った。",
                      "source": "私の履歴書 稲盛和夫（日本経済新聞社, 2004）",
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                    },
                    {
                      "fact": "稲盛の技術を評価した宮木電機の宮木男也・西枝一江が受け皿として新会社設立に動いた",
                      "原文": "退職組の受け皿として動いたのが、稲盛 氏の技術を高く評価していた宮木電機の宮木男也 氏と西枝一江 氏で、両氏は新会社の設立に踏み切った。",
                      "source": "私の履歴書 稲盛和夫（日本経済新聞社, 2004）",
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        {
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          "label": "決断",
          "subsections": [
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              "sub_title": "宮木電機の倉庫と300万円の出資",
              "paragraphs": [
                {
                  "text": "1959年4月1日、京都市中京区西ノ京原町の宮木電機の倉庫を借り受けた工房で、資本金300万円・従業員約30名の京都セラミック株式会社が発足した。宮木電機社長の宮木男也 氏は、出資は子会社化のためではなく「稲盛という青年に賭ける」ものであり、「ムダ金になることもある」（私の履歴書 稲盛和夫 2004）と述べたと記録されている。専務の西枝一江 氏は自宅を担保に銀行から個人借入を起こし、必要資金を融通した。",
                  "evidences": [
                    {
                      "fact": "1959年4月1日に資本金300万円・従業員約30名で京都セラミックが設立された",
                      "原文": "1959年4月1日、京都市中京区西ノ京原町の宮木電機の倉庫を借り受けた工房で、資本金300万円・従業員約30名の京都セラミック株式会社が発足した。",
                      "source": "有価証券報告書（沿革）",
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                    },
                    {
                      "fact": "宮木男也は子会社化ではなく稲盛という青年に賭けるものでムダ金になることもあると述べて出資した",
                      "原文": "宮木電機社長の宮木男也 氏は、出資は子会社化のためではなく「稲盛という青年に賭ける」ものであり、「ムダ金になることもある」（私の履歴書 稲盛和夫 2004）と述べたと記録されている。",
                      "source": "私の履歴書 稲盛和夫（日本経済新聞社, 2004）",
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                    },
                    {
                      "fact": "専務の西枝一江は自宅を担保に銀行から個人借入を起こし資金を融通した",
                      "原文": "専務の西枝一江 氏は自宅を担保に銀行から個人借入を起こし、必要資金を融通した。",
                      "source": "私の履歴書 稲盛和夫（日本経済新聞社, 2004）",
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                  ]
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                {
                  "text": "出資の中核は宮木男也 氏と西枝一江 氏の二人で、両氏と京都の実業家・交川有 氏らが個人として株式の大半を引き受けた。創業時の筆頭株主は宮木男也 氏の4,300株、技術者本人の稲盛 氏は3,500株で第4位にとどまり、技術者が筆頭株主にならない独特な資本構成となった。会社は初年から松下電子工業向けの U 字ケルシマを月産20万本で量産し、1961年度には営業利益11.9百万円で黒字化を果たしている。",
                  "evidences": [
                    {
                      "fact": "創業時の筆頭株主は宮木男也の4,300株、稲盛は3,500株で第4位だった",
                      "原文": "創業時の筆頭株主は宮木男也 氏の4,300株、技術者本人の稲盛 氏は3,500株で第4位にとどまり、技術者が筆頭株主にならない独特な資本構成となった。",
                      "source": "私の履歴書 稲盛和夫（日本経済新聞社, 2004）",
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                    {
                      "fact": "創業初年から松下電子工業向け U 字ケルシマを月産20万本で量産し1961年度に黒字化した",
                      "原文": "会社は初年から松下電子工業向けの U 字ケルシマを月産20万本で量産し、1961年度には営業利益11.9百万円で黒字化を果たしている。",
                      "source": "京セラ社史（2000）",
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            {
              "sub_title": "国内の門前払いと渡米営業",
              "paragraphs": [
                {
                  "text": "創業期の主力である U 字ケルシマは安定した収入をもたらしたが、新規顧客の開拓は難航した。稲盛 氏は後年、「私も27歳と若く、製品を大手電子メーカーに売り込みに行っても、無名会社の若僧ということで、日参してもなかなか相手にしてもらえなかった」（野田経済 京セラ精神で一丸 1973/12）と、国内大手の門前払いに苦しんだ日々を振り返っている。その体験が、稲盛 氏を米国市場の開拓へと向かわせた。",
                  "evidences": [
                    {
                      "fact": "稲盛は無名会社の若僧として国内大手に日参しても相手にされなかったと振り返った",
                      "原文": "稲盛 氏は後年、「私も27歳と若く、製品を大手電子メーカーに売り込みに行っても、無名会社の若僧ということで、日参してもなかなか相手にしてもらえなかった」（野田経済 京セラ精神で一丸 1973/12）と、国内大手の門前払いに苦しんだ日々を振り返っている。",
                      "source": "野田経済 京セラ精神で一丸 1973/12",
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                  ]
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                {
                  "text": "稲盛 氏は「アメリカはベンチャービジネスの本場」で「秀れた技術については素直に認めてもらえた」（野田経済 京セラ精神で一丸 1973/12）と語り、1962年に初めて渡米した。初回は受注に至らなかったが、以降も繰り返し渡米を続け、1965年に米テキサス・インスツルメンツから、1966年には米IBM から IC 用アルミナ基板の大口受注を獲得した。米国での採用実績が、日本市場への信用を逆流させていった。",
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                      "fact": "稲盛はアメリカでは秀れた技術は素直に認められたと語り1962年に初渡米した",
                      "原文": "稲盛 氏は「アメリカはベンチャービジネスの本場」で「秀れた技術については素直に認めてもらえた」（野田経済 京セラ精神で一丸 1973/12）と語り、1962年に初めて渡米した。",
                      "source": "野田経済 京セラ精神で一丸 1973/12",
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                      "原文": "以降も繰り返し渡米を続け、1965年に米テキサス・インスツルメンツから、1966年には米IBM から IC 用アルミナ基板の大口受注を獲得した。",
                      "source": "京セラ社史（2000）",
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          "label": "結果",
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              "sub_title": "積層セラミックパッケージと Intel",
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                  "text": "1969年、稲盛 氏は米TI社を訪れた際に技術者から、IC を湿気から守るために2枚のセラミック板を重ね合わせた試作品を見せられ、こうしたものを作れないかと持ちかけられた。稲盛 氏はこの試作品に「セラミックの歴史が新しい1頁を開こうとしているのを感じた」（私の履歴書 稲盛和夫 2004）と述懐し、これが将来の命運を握る新製品に育つと直感した。多層構造のパッケージが半導体の実装を変えると、稲盛 氏はいち早く読み取っていた。",
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                      "fact": "1969年に米TI技術者から2枚のセラミック板を重ねた試作品の製作を持ちかけられた",
                      "原文": "1969年、稲盛 氏は米TI社を訪れた際に技術者から、IC を湿気から守るために2枚のセラミック板を重ね合わせた試作品を見せられ、こうしたものを作れないかと持ちかけられた。",
                      "source": "私の履歴書 稲盛和夫（日本経済新聞社, 2004）",
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                      "原文": "稲盛 氏はこの試作品に「セラミックの歴史が新しい1頁を開こうとしているのを感じた」（私の履歴書 稲盛和夫 2004）と述懐し、これが将来の命運を握る新製品に育つと直感した。",
                      "source": "私の履歴書 稲盛和夫（日本経済新聞社, 2004）",
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                {
                  "text": "技術陣は薄い密着液を塗布してプレスで圧着する工法で焼成時の層密着を実現し、世界初の積層セラミックパッケージ HDP を約3ヶ月で開発した。同年、創業間もない Intel に納入していたガラスシールパッケージに不良が続いたため、京セラは HDP での代替納入を提案して受け入れられている。1969年7月には鹿児島県川内に量産工場を新設し、1971年に Intel が市販した世界初の MPU・i4004 にも京セラの積層パッケージが採用された。",
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                  "text": "京都セラミックは創業から数年で売上を年々伸ばし、1963年5月には滋賀蒲生工場を新設して量産能力を拡張した。従業員数も1962年度には129名に達し、創業者の稲盛 氏が現場の細部まで目を配ることが難しくなりつつあった。この時期、稲盛 氏は製造工程を「アメーバ」と呼ぶ独立採算の小集団に分割し、各アメーバが時間当たりの付加価値で自らの採算を測る仕組みを社内に導入していった。後に「アメーバ経営」として体系化される管理手法の原型が、急成長下の現場運用として早くに生まれた。",
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                  "text": "半導体パッケージの量産投資が拡大するなか、京都セラミックは公開企業として資金調達の基盤を整えた。1971年10月、設立12年目で大阪証券取引所市場第二部に株式を上場し、翌1972年9月には東京証券取引所市場第二部にも上場している。1972年3月期には売上高が65億円規模に達し、従業員数も1,000名を超え、宮木電機の倉庫を借りた約30名の工房は、十数年で半導体パッケージの量産メーカーへと姿を変えた。",
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                      "source": "有価証券報告書（沿革）",
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                  "text": "この創業が示すのは、技術シーズを持った集団が既存の会社を離れ、それを見込んだ出資者の資力によって自前の会社を得た経緯である。技術者本人の稲盛 氏が筆頭株主にならず、宮木男也 氏や西枝一江 氏といった京都財界人が個人の資力で株式の大半を引き受けた資本構成は、事業の主導権を技術者側に残しながら資金の裏付けを外部から得る形になっていたとみられる。無名の27歳に賭けた出資の判断が、専業メーカーの出発を支えていた。"
                },
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                }
              ]
            }
          ]
        }
      ],
      "references": [
        "私の履歴書 稲盛和夫（日本経済新聞社, 2004）",
        "京セラ社史（2000）",
        "野田経済 京セラ精神で一丸 1973/12",
        "有価証券報告書（沿革）",
        "日経ビジネス 1975/07/09"
      ],
      "authored": "2026-07"
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          "text": "稲盛氏は松風工業でフォルステライト磁器の商品化や低温焼成アルミナ磁器の開発を手がけたが、1958年9月に同社を退職した。技術はあっても信用も資本もない技術者が会社を持つには、京都の実業家が個人の資力で株式を引き受け、借入を個人保証するほかなかった。所有の面では、創業者が主導権を握れる構成ではなかった。"
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          "text": "稲盛氏は設立当初、値段も納期も引き受けてから技術を開発する「ご用聞き」の受注を重ね、ブラウン管テレビ用の絶縁部品を松下電器向けに月産20万本で量産した。初年度に300万円の利益を出したところで税負担に驚き、税金を経費と捉え直して残りを再投資に回す資金の設計に切り替えた。"
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                  "text": "稲盛和夫氏は1955年に鹿児島大学工学部応用化学科を卒業し、京都市にあった碍子メーカーの松風工業へ入社した。同社ではフォルステライト磁器の商品化や低温焼成アルミナ磁器の開発を担い、新しいセラミック材料の分野で実績を重ねている。しかし1958年9月、稲盛氏は同社に見切りをつけて退職した。翌1959年、稲盛氏は27歳で京都セラミック株式会社の設立に加わることになる。技術と、それを事業にしたいという意欲だけを持って会社を出た形であった。",
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                      "source": "日経ビジネス 1975年12月8日号「未来進行形経営 しろうとこそ技術開発の担い手 稲盛和夫氏（京都セラミツク社長）が語る成長の秘密」",
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                  "text": "独立にあたって稲盛氏が持ち合わせていなかったのは、資本と信用の二つであった。会社を興す資金は、稲盛氏の技術を評価した宮木電機の宮木男也氏と西枝一江氏ら、京都の実業家が個人の資力で引き受けた。西枝氏は自宅を担保に銀行から個人で借入を起こして資金を融通している。技術者が会社を持つために、出資者の側が自らの財産を担保に差し出していた。",
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                      "source": "私の履歴書 稲盛和夫（日本経済新聞社, 2004）",
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              "sub_title": "持株第4位の創業者という資本構成",
              "paragraphs": [
                {
                  "text": "1959年4月、京都市中京区の宮木電機の倉庫を借りた工房で、資本金300万円の京都セラミック株式会社が発足した。株式の内訳をみると、筆頭株主は宮木男也氏の4,300株で、技術の当事者である稲盛氏は3,500株の第4位にとどまっている。社長には出資者が就き、稲盛氏の肩書は取締役技術部長であった。会社の名義のうえでは、稲盛氏は自らが興した会社の一技術担当役員にすぎなかった。",
                  "evidences": [
                    {
                      "fact": "創業時の筆頭株主は宮木男也氏の4,300株で、稲盛和夫氏は3,500株の株主第4位にとどまった",
                      "原文": "筆頭株主は宮木男也氏の4300株で、創業者である稲盛和夫氏は3500株にとどまり株主順位で第4位となる技術者起業としては独特な資本構成だった。",
                      "source": "私の履歴書 稲盛和夫（日本経済新聞社, 2004）",
                      "url": null
                    },
                    {
                      "fact": "京都セラミックの設立時、稲盛和夫氏は取締役技術部長に就き、社長には出資者が就任した",
                      "原文": "翌34年、京都セラミックを設立。取締役技術部長となる（社長は出資者が就任）。41年5月社長となり現在にいたる。",
                      "source": "日経ビジネス 1975年12月8日号「未来進行形経営 しろうとこそ技術開発の担い手 稲盛和夫氏（京都セラミツク社長）が語る成長の秘密」",
                      "url": null
                    }
                  ]
                },
                {
                  "text": "資本金300万円は、工場を構えて量産に入るには足りない額であった。稲盛氏は後年、出資者に1,000万円を個人保証してもらって借り入れたと明かしている。会社の運転資金は、出資者個人の信用のうえに乗っていた。発足時に集まったのは27人で、宮木電機の倉庫の一角がその仕事場となる。所有でも資金でも出資者に依存する条件のもと、稲盛氏が動かせるものは技術と受注しか残っていなかった。",
                  "evidences": [
                    {
                      "fact": "資本金300万円に加え、出資者に1,000万円を個人保証してもらって借り入れた",
                      "原文": "資本金300万円で、1000万円を個人保証していただいて借り、初年度にやっと300万円の利益が出たんです。",
                      "source": "日経ビジネス 1975年12月8日号「未来進行形経営 しろうとこそ技術開発の担い手 稲盛和夫氏（京都セラミツク社長）が語る成長の秘密」",
                      "url": null
                    },
                    {
                      "fact": "稲盛和夫氏は創業時を27人で始めたと語っている",
                      "原文": "わたしと2200人の社員との人間関係は、最初に27人で肩寄せ合い、なぐさめ合って、仕事を始めたときの信頼の輪を広げただけだと思っています。",
                      "source": "日経ビジネス 1975年12月8日号「未来進行形経営 しろうとこそ技術開発の担い手 稲盛和夫氏（京都セラミツク社長）が語る成長の秘密」",
                      "url": null
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          ]
        },
        {
          "section": "origin",
          "label": "決断",
          "subsections": [
            {
              "sub_title": "引き受けてから開発する「ご用聞き」の受注",
              "paragraphs": [
                {
                  "text": "設立当初の京都セラミックには、製品を持って売り込みに行ける信用がなかった。稲盛氏は「こんなものがあったら助かるんだがなあ、といった品物はございませんか」と尋ねて回る受注の取り方を選んでいる。製品のセールスではなく、注文を先に聞き出すやり方であった。稲盛氏自身がこれを「ご用聞き」と呼び、技術的な裏付けが固まっていない案件でも引き受けてから開発に取りかかった。断れば縁が切れる会社の立場が、その順序を強いていた。",
                  "evidences": [
                    {
                      "fact": "稲盛和夫氏は会社設立のころ「ご用聞き」と呼ぶ受注の取り方をとり、技術的裏付けがなくとも引き受けてから開発した",
                      "原文": "「こんなものがあったら助かるんだがなあ、といった品物はございませんか」——会社設立のころ、稲盛さんはこんな調子でこれと目をつけた会社を歩き回った。製品のセールスなんていうものではない。ご用聞きである。「注文が出たら絶対断わらない。技術的な裏付けがハッキリしていなくても\"やりましょう\"と引き受けてくる。会社に信用がないから断わったらそれで縁が切れる。だから引き受ける」",
                      "source": "日経ビジネス 1973年7月9日号「稲盛和夫・京都セラミック社長 技術開発 ご用聞きに不可能はない」",
                      "url": null
                    }
                  ]
                },
                {
                  "text": "この受注の取り方が、創業期の主力製品を引き寄せた。稲盛氏は大手電子工業会社の新方式カラーテレビ用ブラウン管の支持絶縁物について、競合品を見せられて「もっとよいものを作れるか」と問われた際も、例によって引き受けている。値段は競争相手の3分の1程度で応じ、約束の2カ月後に納品した。ブラウン管テレビ用の絶縁部品であるU字ケルシマは、松下電器向けに月産20万本で量産へ入り、京都セラミックは創業の翌年から黒字を出した。",
                  "evidences": [
                    {
                      "fact": "稲盛和夫氏は大手電子工業会社のカラーテレビ用ブラウン管支持絶縁物を、競争相手の3分の1程度の値段で引き受け、2カ月後に納品して一手に受注するに至った",
                      "原文": "やっと会ってくれたその社の重役が、ある社の絶縁物を稲盛さんに見せ「あんまりよくないんだ。もっとよいものを作れるか」と言った。（中略）値段も競争相手の3分の1程度でOKしてしまった。約束の2カ月後、やっと納品した。出来ばえはその重役をビックリさせるものだった。",
                      "source": "日経ビジネス 1973年7月9日号「稲盛和夫・京都セラミック社長 技術開発 ご用聞きに不可能はない」",
                      "url": null
                    },
                    {
                      "fact": "創業初年からブラウン管テレビ用絶縁部品「U字ケルシマ」を松下電器向けに月産20万本で量産し、創業翌年から黒字を計上した",
                      "原文": "会社は初年から松下電子工業向けの U 字ケルシマを月産20万本で量産し、1961年度には営業利益11.9百万円で黒字化を果たしている。",
                      "source": "京セラ社史（2000）",
                      "url": null
                    }
                  ]
                }
              ]
            },
            {
              "sub_title": "税金を経費と捉え直す",
              "paragraphs": [
                {
                  "text": "初年度の1960年3月期、京都セラミックは売上高2,600万円・当期純利益100万円を計上した。稲盛氏の記憶では、税引前で300万円の利益が出た決算であった。当時の稲盛氏は経理を知らず、個人保証をしてくれた出資者に迷惑をかけまいと、3年で借金を返せると見込んでいる。ところが税金が百何十万円かかり、配当も出すと100万円ほどしか残らない。この計算では返済に10年かかると分かり、稲盛氏は驚いたと後に語っている。",
                  "evidences": [
                    {
                      "fact": "京都セラミックの創業初年度である1960年3月期は、売上高2,600万円・当期純利益100万円であった",
                      "原文": "1960年3月期の京都セラミックは、売上高0.26億円、当期純利益0.01億円（単独）。",
                      "source": "京都セラミック 会社総鑑（1963年版・単独業績）",
                      "url": null
                    },
                    {
                      "fact": "稲盛和夫氏は初年度に300万円の利益が出たが、税金が百何十万円かかり配当も出すと100万円ほどしか残らず、借金返済に10年かかると分かって驚いたと語った",
                      "原文": "当時、経理も知りませんでしたから、保証して下さった方に迷惑をかけてはいけないので、3年間で借金は返せると思ったんです。ところが、なんと税金が百何十万円かかり、配当もすると、100万円ぐらいしか残らない。借金返すのに10年かかるわけです。びっくり仰天して、皆に相談すると、そのために脱税するんだというんです（笑い）。",
                      "source": "日経ビジネス 1975年12月8日号「未来進行形経営 しろうとこそ技術開発の担い手 稲盛和夫氏（京都セラミツク社長）が語る成長の秘密」",
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                },
                {
                  "text": "節税で手取りを守る道もあったが、稲盛氏はそこで発想を切り替えている。税金はもともと経費だと考え直し、残った分をどう伸ばすかを勝負どころに据えた。もうけの半分を税金で取られて割に合わないと考えていては中小企業のままで終わる、と稲盛氏はみている。稼いだ利益から税を引いた残りを積み上げて再投資に回す設計は、出資者の個人保証に頼らずに済む資金繰りへ会社を向かわせるものであった。稲盛氏は秘訣を問われても、最初の100万円、50万円を大事にして積み上げるほかないと答えている。",
                  "evidences": [
                    {
                      "fact": "稲盛和夫氏は税金をもともと経費だと考え直し、残った分をどう伸ばすかが勝負だとみて、地味な積み上げしかないと語った",
                      "原文": "しかしそこで発想を変え、税金はもともと経費だと考え直したんです。その残った分をどう伸ばすかが勝負だとみたわけです。そうすることによって、被害者意識はなくなりました。もうけの半分を税金でとられてあほらしいと思っていると、中小企業のままで終わるんですね。（中略）地味な努力の積み上げしかないと思います。最初の100万円、50万円をだいじにして、積み上げるしかないのではないですか。",
                      "source": "日経ビジネス 1975年12月8日号「未来進行形経営 しろうとこそ技術開発の担い手 稲盛和夫氏（京都セラミツク社長）が語る成長の秘密」",
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          ]
        },
        {
          "section": "outcome",
          "label": "結果",
          "subsections": [
            {
              "sub_title": "1966年の社長就任と、無借金への反転",
              "paragraphs": [
                {
                  "text": "稲盛氏が社長に就いたのは、設立から7年を経た1966年5月であった。出資者が社長を務めた最初の7年のあいだに、京都セラミックは量産と黒字を積み上げている。所有の順位を動かして経営権を取りにいくのではなく、先に稼ぎを立てて発言力を得る順序であったとみることができる。設立14年目の時点では、資本金は設立時の約252倍にあたる7億7,000万円に、年間売上高は約430倍の112億5,600万円（1972年度）に達していた。",
                  "evidences": [
                    {
                      "fact": "稲盛和夫氏は1966年5月に京都セラミックの社長に就任した",
                      "原文": "翌34年、京都セラミックを設立。取締役技術部長となる（社長は出資者が就任）。41年5月社長となり現在にいたる。",
                      "source": "日経ビジネス 1975年12月8日号「未来進行形経営 しろうとこそ技術開発の担い手 稲盛和夫氏（京都セラミツク社長）が語る成長の秘密」",
                      "url": null
                    },
                    {
                      "fact": "設立14年で資本金は約252倍の7億7,000万円、年間売上高は約430倍の112億5,600万円（1972年度）に達した",
                      "原文": "設立14年にして資本金を約252倍（7億7000万円）、年間売上高を約430倍（47年度112億5600万円）にした。",
                      "source": "日経ビジネス 1973年7月9日号「稲盛和夫・京都セラミック社長 技術開発 ご用聞きに不可能はない」",
                      "url": null
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                },
                {
                  "text": "出資者の個人保証で1,000万円を借りて出発した会社は、財務の姿を反転させていった。1975年9月末時点の自己資本比率は73.56%、長短借入金はゼロである。稲盛氏によれば、同じ規模の企業なら70億〜100億円の借り入れがあってもおかしくなく、年12億〜13億円の金利を払う立場になる。京都セラミックはその逆に、年14億〜15億円の銀行金利を受け取る側にいた。1971年10月には大阪証券取引所市場第二部へ上場し、1975年12月2日の終値3,810円で株価は全国首位となっている。",
                  "evidences": [
                    {
                      "fact": "京都セラミックは1975年9月末時点で自己資本比率73.56%・長短借入金ゼロであり、株価は1975年12月2日終値3,810円で日本一となった",
                      "原文": "なお、京都セラミックは9月末現在、自己資本比率73.56%、長短借入金ゼロ。（中略）株価はソニーを抜いて、ただいま日本一（12月2日の終値3810円）。",
                      "source": "日経ビジネス 1975年12月8日号「未来進行形経営 しろうとこそ技術開発の担い手 稲盛和夫氏（京都セラミツク社長）が語る成長の秘密」",
                      "url": null
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                    {
                      "fact": "稲盛和夫氏は、同規模の企業なら70億〜100億円の借入と年12億〜13億円の金利負担を抱えるところ、京都セラミックは逆に年14億〜15億円の銀行金利を受け取っていると説明した",
                      "原文": "うちぐらいの企業規模だと、70億—80億から100億円ぐらいの借り入れがあってもおかしくない。年間にして12億—13億の金利を払うわけです。ところが、うちはこれまで内部留保を積む一方で、年間14億—15億の銀行金利がはいってくるんです。",
                      "source": "日経ビジネス 1975年12月8日号「未来進行形経営 しろうとこそ技術開発の担い手 稲盛和夫氏（京都セラミツク社長）が語る成長の秘密」",
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                  ]
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            },
            {
              "sub_title": "27人の会社が残したもの",
              "paragraphs": [
                {
                  "text": "社員が2,200人に増えた1975年、稲盛氏は労使の関係について、最初に27人で肩を寄せ合って仕事を始めたときの信頼の輪を広げただけだと述べている。同年の春闘で稲盛氏が国際競争力を理由に賃上げゼロを提案したところ、社員側は留保した資金があるはずだと反論した。稲盛氏は、要求どおり払えば資金が不足して借り入れが必要になり、金利負担で経営内容が悪くなると説明している。結果は賃上げゼロ・ボーナス13.7%上乗せという着地であった。",
                  "evidences": [
                    {
                      "fact": "稲盛和夫氏は1975年の春闘で賃上げゼロを提案し、社員の反論を受けて借入と金利の負担を説明した結果、賃上げゼロ・ボーナス13.7%上乗せで決着した",
                      "原文": "国際競争力のためにも、ことしは賃上げをゼロにしようと提案したんですが、社長それはおかしいじゃないですか（中略）会社はため込んだ留保金があるじゃないかというわけです。（中略）そうなれば金利を払わなければならず、経営内容が悪くなっていくよと説明したんです。その結果結局、賃上げはゼロにし、ボーナスを13.7上乗せしたんです。",
                      "source": "日経ビジネス 1975年12月8日号「未来進行形経営 しろうとこそ技術開発の担い手 稲盛和夫氏（京都セラミツク社長）が語る成長の秘密」",
                      "url": null
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                  ]
                },
                {
                  "text": "株価が全国首位に立った時点でも、稲盛氏は創業のころとの断絶を認めなかった。大学を出た一介の技術屋として最低のところから出てきたため、16年前の町工場の片隅の時代といまとで本質は何も変わっていない、というのが同氏の説明であった。同氏がもっとも警戒したのは、苦しかった時期からちやほやされる立場に移るなかで自分自身が変節することであり、謙虚さを失って傲慢になっていないかを常に自戒すると語っている。持たざる出発を経営の基準として保ち続ける意図がうかがえる。",
                  "evidences": [
                    {
                      "fact": "稲盛和夫氏は16年前の町工場の片隅の時代と当時とで本質は変わっていないとし、自身の変節を警戒すると語った",
                      "原文": "わたしどものように大学出た一介の技術屋ではいつくばった最低のところから出てきてますと、16年前の町工場の片隅の時代といまと本質は何にも変わってません。（中略）わたしが一番気をつけなければならないのは苦しかったときからこうなってきて段々ちやほやされてわたし自身が変節を遂げないか、ということです。（中略）むかしの謙虚さを失って傲慢になったり贅沢になったりしないか、そういう点は常に自戒していかないといけないと思います。",
                      "source": "日経ビジネス 1975年12月8日号「未来進行形経営 しろうとこそ技術開発の担い手 稲盛和夫氏（京都セラミツク社長）が語る成長の秘密」",
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                  ]
                }
              ]
            },
            {
              "sub_title": "所有を持たない創業者が実権を得る順序",
              "editorial": true,
              "paragraphs": [
                {
                  "text": "この創業で目を引くのは、技術の当事者が持株第4位で、社長の椅子も出資者に譲ったまま会社を始めた点である。資金も信用も他人のものだった以上、稲盛氏に選べる手は限られていた。値段も納期も先に引き受けて技術を後から間に合わせる受注の取り方は、無謀にみえて、信用のない会社が取引の入口を開く数少ない方法であったとみることができる。所有で押さえられないなら稼ぎで示すという順序が、結果として7年後の社長就任につながっていったといえる。"
                },
                {
                  "text": "もう一つ考えさせられるのは、税負担への驚きが資金の設計を変えた場面である。脱税を勧める声を退けて税金を経費と捉え直した判断は、精神論のようでいて、残った利益をどこまで積み増せるかという実務の設計に落ちていた。個人保証の1,000万円で出発した会社が16年後に借入金ゼロで金利を受け取る側に回った経緯は、その積み上げの帰結として読める。創業者が自社の株式を多く持たないまま経営を握る形が、その後の京セラの資本と経営の関係にどう作用したのかは、なお考える余地を残している。"
                }
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          ]
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      "references": [
        "日経ビジネス 1975年12月8日号「未来進行形経営 しろうとこそ技術開発の担い手 稲盛和夫氏（京都セラミツク社長）が語る成長の秘密」",
        "日経ビジネス 1973年7月9日号「稲盛和夫・京都セラミック社長 技術開発 ご用聞きに不可能はない」",
        "私の履歴書 稲盛和夫（日本経済新聞社, 2004）",
        "京セラ社史（2000）",
        "京都セラミック 会社総鑑（1963年版・単独業績）"
      ],
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      "title": "第二電電（DDI）設立への出資決断",
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          "text": "稲盛氏は盛田昭夫・飯田亮ら新興企業の経営者に呼びかけ、京セラをはじめとする中核5社が責任を負う「緩い連合体」を組んだ。NTT出身の千本倖生を招いて技術陣を固め、稲盛自身は会長として本人出席を義務づけた月1回の取締役会に臨んだ。"
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          "text": "第二電電は1985年4月に事業を始め、値下げでNTTに挑んだ。2000年10月にKDD・IDOと合併してKDDIとなり、京セラは主要な株主として残った。本業と無縁の分野へ資本と情熱を注いだこの出資は、稲盛氏が私心の有無を自らに問うて決めた賭けだった。"
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                      "原文": "1984年6月 第二電電企画設立／1985年4月 電気通信事業法施行（通信自由化）第二電電株式会社（DDI）発足",
                      "source": "KDDI株式会社 企業情報 沿革",
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                      "原文": "日本の長距離通信の料金がたいへん高いことに疑問を感じ（新規参入で）料金が安くなれば、国民のためになる",
                      "source": "京セラ 稲盛和夫オフィシャルサイト「第二電電（現KDDI）を設立（1984年）——動機善なりや、私心なかりしか」",
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                      "source": "日経ビジネス 1985年10月14日号「第二電電。民間色を強く前面に」",
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                      "原文": "DDI（第二電電）でも社員に株を渡した。だが, その時, 私は1株も買わなかった。カネのために事業を始めるのではないという私の考えを示すためだ。（中略）私がみんなに最初に言ったのは, 「たった1回しかない人生, 燃えてみないか」ということだった。（中略）通信事業に挑戦できるのは100年に1回あるかないかだ。",
                      "source": "日経ビジネス 1994年10月3日号「稲盛和夫氏［京セラ会長兼ＤＤＩ（第二電電）会長］」",
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                      "原文": "2000年10月 DDI、KDD、IDOが合併、株式会社ディーディーアイ（KDDI）発足／2001年4月 KDDI株式会社に社名変更",
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                      "原文": "当社は現在、KDDI㈱の主要な株主であり",
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              "paragraphs": [
                {
                  "text": "この判断の特徴は、財務の必要からではなく、通信料金の高さという社会の不合理へ、本業と無縁の経営者が私財を賭けて挑んだ点にある。京セラをファインセラミックで一代のうちに大企業へ育てた稲盛氏は、その成功体験をいったん脇に置き、巨大なNTTが独占してきた市場へ後発で割り込んだ。出資と危険を中核5社で分け合い、責任の所在をはっきりさせた「緩い連合体」の設計は、一社では背負いきれない賭けを、共同の事業として成り立たせるための工夫だった。"
                },
                {
                  "text": "もっとも、料金を下げて国民の負担を軽くするという公益の旗印と、私心の有無を毎晩みずからに問うたという逸話は、事業の採算とは別の次元に置かれている。装置産業の通信で新規参入者が生き残れた例は多くなく、DDIがKDDIへ結実したのは、値下げ需要と携帯電話の普及に恵まれた面も否めない。本業の外へ資本と情熱を注いだこの決断は、経営判断を採算だけで測ってよいのか、動機や志は事業の成否とどう関わるのか——今日の企業にも重い問いを残している。"
                }
              ]
            }
          ]
        }
      ],
      "references": [
        "日経ビジネス 1985年10月14日号「第二電電。民間色を強く前面に」",
        "日経ビジネス 1994年10月3日号「稲盛和夫氏［京セラ会長兼ＤＤＩ（第二電電）会長］」",
        "京セラ 有価証券報告書（2009年3月期）",
        "KDDI株式会社 企業情報 沿革",
        "京セラ 稲盛和夫オフィシャルサイト「第二電電（現KDDI）を設立（1984年）——動機善なりや、私心なかりしか」",
        "会社年鑑（1984年3月期・単体財務）"
      ],
      "authored": "2026-07",
      "last_updated": "2026-07-04"
    }
  ]
}
