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  "title": "朝鮮戦争の砲弾特需を原資とする空調・化学への業態転換",
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      "text": "終戦で軍需を失い無配に転落した大阪金属工業（現ダイキン）が、朝鮮戦争で到来した米軍の迫撃砲弾特需に社内の慎重論を押し切って踏み込み、その利益を砲弾ではなく冷凍機・空調・フロンという民需へ再投資して業態転換を果たした経営判断。"
    },
    {
      "label": "背景",
      "text": "戦時に従業員1万6000名まで膨らんだ軍需工場は、終戦で主力製品を失い、たび重なる人員整理と無配転落に追い込まれていた。民需への転換は思うように進まず、戦後復興期の経営は出口を欠いたまま危機が続いていた。"
    },
    {
      "label": "内容",
      "text": "1950年に始まった朝鮮戦争で米軍から迫撃砲弾を受注する機会が生まれると、山田晃社長は「万難を排して受注せよ」と号令し特需に踏み込んだ。稼いだ資金を砲弾増産へは回さず、冷凍機・空調機・フロンという平時の民需へ集中的に注ぎ込んだ。"
    },
    {
      "label": "含意",
      "text": "軍需で得た資金を民需へ振り向けるのは戦後日本企業に共通する型であった。ダイキンの固有性は、その再投資先を空調と冷媒に定め、砲弾メーカーから空調メーカーへの転身の原資に変えた点にある。"
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        "note": "戦前は陸海軍向け砲弾を主力とした軍需工場。終戦後は無配に転落し民需転換に苦しんでいた"
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      "title": "朝鮮戦争で米軍から迫撃砲弾199万発を受注",
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              "text": "特需資金を民需へ振り向けた効果は、売上の構成にはっきり表れた。1954年9月期には砲弾特需16.3億円に対し冷凍機2.1億円・ダイフロンガス1.5億円・機械ほか2.2億円と、なお砲弾が全社の約7割を占めていた。ところが特需の一巡した1956年9月期以降は砲弾がゼロとなり、冷凍機5.9億円・フロン3.7億円が主軸へ入れ替わった。わずか2年で、稼ぎ頭が軍需から民需空調へ移り変わった。"
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            {
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  "references": [
    "ダイキン工業80年史（ダイキン工業）",
    "ダイキン工業 有価証券報告書（2025年3月期）【沿革】"
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  "authored": "2026-07",
  "last_updated": "2026-07-09"
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