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  "decisions": [
    {
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      "year": 1912,
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      "title": "白石元治郎氏による日本鋼管の設立と、継目無鋼管専業での発足",
      "subtitle": "官営八幡製鉄所でさえ製造していなかった品目を、なぜ民間資本だけの新会社が専業に選んだのか",
      "status": "implemented",
      "status_label": "実施",
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      "issue": "参入する品目の選択と資金の出どころ",
      "decider": "白石元治郎（創立者・社長）",
      "highlights": [
        {
          "label": "概要",
          "text": "1912年6月、白石元治郎氏が資本金200万円、20トン平炉2基と製管工場1つの規模で日本鋼管を創立し、官営八幡製鉄所でさえ生産していなかった継目無鋼管の製造を専業として発足させた判断。"
        },
        {
          "label": "背景",
          "text": "鋼管は需要の数量が少なく、製造に特別の設備と高度の技術を要したため、製品はすべて輸入に依存していた。民営で最初の銑鋼一貫作業は1903年に釜石製鉄所が始めており、後発の新会社が銑鉄や条鋼で正面から競う余地は乏しかった。"
        },
        {
          "label": "内容",
          "text": "銑鉄からの一貫生産ではなく、平炉と製管工場だけで継目無鋼管に絞って発足した。資金は政府に頼らず株主の払込と借入で賄い、1934年の製鉄大合同にも加わらなかった。"
        },
        {
          "label": "含意",
          "text": "数量が出ない代わりに設備と技術が参入を阻む品目を選び、民間鉄鋼業の先駆的役割を担った。自前の高炉に火が入るのは1936年6月で、創立から24年を要した。"
        }
      ],
      "parties": [
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          "name": "日本鋼管",
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          "at_deal": {
            "note": "創立時は資本金200万円、20トン平炉2基と製管工場1つの規模。当時の民間鉄鋼業はわずか数社で、官営八幡製鉄所が圧倒的な地位を占めていた"
          }
        }
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      "dates": {
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        "summary": "官営八幡製鉄所も手をつけず全量を輸入に頼っていた継目無鋼管を、民間資本だけの新会社が専業に選んで発足した創業"
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      "timeline": [
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          "title": "官営釜石製鉄所が高炉を完成（操業が続かず1882年に事業廃止）"
        },
        {
          "year": 1901,
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          "title": "官営八幡製鉄所が作業を開始"
        },
        {
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          "title": "民営に移った釜石製鉄所が、民営として最初の銑鋼一貫作業を開始"
        },
        {
          "year": 1912,
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          "title": "日本鋼管を創立、継目無鋼管の専業として発足",
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        {
          "year": 1914,
          "month": null,
          "title": "欧州大戦で鉄鋼需要が激増、資本金を1,600万円へ増資"
        },
        {
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          "title": "減資と増資を同時に実施"
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        {
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          "title": "関東大震災で川崎工場が被災"
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          "month": 1,
          "title": "日本製鉄が創立、製鉄大合同への参加を拒む"
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        {
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          "title": "扇町製銑工場の第一高炉に火入れ、銑鋼一貫態勢が確立"
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      "report": [
        {
          "section": "background",
          "label": "背景",
          "subsections": [
            {
              "sub_title": "鉄が国産されなかった時代",
              "paragraphs": [
                {
                  "text": "開港後の日本で、製鉄業の立ち上がりはとりわけ遅れた。官営釜石製鉄所は明治13年に25トン高炉2基を完成させたものの、木炭の不足やコークスへの切替の失敗で操業が続かず、240万円を投じたすえ明治15年に事業廃止となった。明治14年の国内生産は銑鉄と鋼材を合わせて1万6,000トン、輸入は3万6,000トンで、需要そのものが小さかった。近代的な製鉄業が糸口についたのは、日清戦争後に設けられた官営八幡製鉄所が明治34年に作業を始めてからであった。",
                  "evidences": [
                    {
                      "fact": "官営釜石製鉄所は明治13年に高炉を完成させたが操業が続かず、240万円を投じて明治15年に事業廃止となった",
                      "原文": "高炉は明治十三年に完成(二十五トン炉二基)したが、同年九月に始まった第一次操業は炭焼き場の火災事故で木炭が不足し、わずか三ヵ月で中止の憂き目をみた。〜多額の資本(二四〇万円)を投じながらこの始末、しかも国内需要は不足、さらに松方緊縮財政の影響なども加わってさすがの政府も経営の意欲を失い、明治十五年同鉱山は事業廃止となる。",
                      "source": "日本産業史 第1巻（日本経済新聞社, 1994年）「製鉄－苦闘重ねた先駆者」",
                      "url": null
                    },
                    {
                      "fact": "明治14年の生産高は銑鉄・鋼材あわせて1万6,000トン、輸入は3万6,000トンにとどまった",
                      "原文": "当時は鉄鋼そのものの需要がまだ小さく(明治十四年に銑鉄、鋼材を合わせて生産高は一万六〇〇〇トン、輸入は三万六〇〇〇トンである)、しかも砂鉄銑が国産銑の大部分を占めていたのだから、短時日で採算がとれるはずがなかった。",
                      "source": "日本産業史 第1巻（日本経済新聞社, 1994年）「製鉄－苦闘重ねた先駆者」",
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                },
                {
                  "text": "鋼管は、その八幡製鉄所でさえ手をつけていなかった。民間はもとより官営製鉄所も製造を計画せず、製品はすべて輸入に依存していた。理由は二つあり、一つは鋼管に対する需要が数量として少なかったこと、もう一つはその製造に特別の設備と高度の技術を要したことにある。輸入に頼るほかなかった事情が、そのまま新規の参入を阻んでいた。",
                  "evidences": [
                    {
                      "fact": "当時は民間はもとより八幡製鉄所でも鋼管製造は計画されず、製品はすべて輸入に依存していた",
                      "原文": "当時、民間はもとより八幡製鉄所においてさえ、鋼管製造は計画されず、製品はすべて輸入に依存していた。これは鋼管に対する需要が数量的に少なかったばかりでなく、その製造に特別の設備や高度の技術を要するからである。",
                      "source": "企業の歴史 : 明治百年（経済春秋社, 1968）「日本鋼管」",
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            {
              "sub_title": "日露戦争後に起きた民間鉄鋼業",
              "paragraphs": [
                {
                  "text": "日露戦争後、民間の鉄鋼業が相次いで起こった。官営から民営に移った釜石製鉄所は明治36年に民営として最初の銑鋼一貫作業を始め、明治40年には日本製鋼所と輪西製鉄所が設立された。神戸製鋼所、川崎造船、住友鋳鋼も製鋼に進出し、明治44年には満州に本溪湖煤鉄公司ができた。日本鋼管の創立は、その翌年の大正元年にあたる。",
                  "evidences": [
                    {
                      "fact": "民営として最初の銑鋼一貫作業は明治36年の釜石製鉄所であり、日本鋼管の創立はその9年後の大正元年である",
                      "原文": "前に述べた釜石製鉄所が民営に移つて、明治三十六年に、民営として最初の銑鋼一貫作業を開始しているが、四十年には日本製鋼所、輪西製鉄所が設立されたほか、神戸製鋼所、川崎造船、住友鋳鋼等が、製鋼に進出し、さらに四十四年には満州に本溪湖煤鉄公司が、翌大正元年には日本鋼管が、それぞれ創立された。",
                      "source": "会社銀行八十年史（東洋経済新報社, 1955）第2篇 日本会社史 34_鉄鋼「概説」",
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                },
                {
                  "text": "後発が選べる場所は限られていた。八幡製鉄所はひとり圧倒的な地位を占め、官営であるがゆえに財政資金で設備を拡張していた。銑鉄や条鋼で官営と先発の民間企業に正面から挑むには、資本金200万円は小さすぎた。白石元治郎氏が選んだのは、その序列の外にある品目、すなわち国内で誰も作っていない継目無鋼管であった。",
                  "evidences": [
                    {
                      "fact": "八幡製鉄所は圧倒的な地位を占め、官営であるため財政資金で設備拡張を行っていた",
                      "原文": "八幡製鉄所はひとり圧倒的な地位を占め、また官営であつたから、財政資金によつて設備拡張が行われた。",
                      "source": "会社銀行八十年史（東洋経済新報社, 1955）第2篇 日本会社史 34_鉄鋼「概説」",
                      "url": null
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        },
        {
          "section": "origin",
          "label": "決断",
          "subsections": [
            {
              "sub_title": "継目無鋼管の専業として発足する",
              "paragraphs": [
                {
                  "text": "1912年6月、白石元治郎氏は資本金200万円、20トン平炉2基、製管工場1つの規模で日本鋼管を創立した。設立日は資料により6月8日とも6月14日とも記されている。当時のわが国の鉄鋼業は官営八幡製鉄所のほか民間企業がわずか数社にすぎず、そのなかで同社は、八幡製鉄所でさえ生産していなかった継目無鋼管の製造を専業として発足し、民間鉄鋼業の先駆的役割を果たした。",
                  "evidences": [
                    {
                      "fact": "明治45年6月、白石元治郎氏により資本金200万円・20トン平炉2基・製管工場1つの規模で創立され、八幡製鉄所でも生産していなかった継目無鋼管の専業として発足した（設立日は6月8日と記載）",
                      "原文": "当社は、明治四十五年六月、白石元治郎氏により、資本金二百万円、二十屯平炉二基、製管工場一工場の規模をもつて創立された。当時わが国の鉄鋼業は、官営八幡製鉄所のほか、民間企業はわずか数社にすぎなかつたが、八幡製鉄所でさえ生産していなかつた継目無鋼管の製造を専業として発足、民間鉄鋼業の先駆的役割を果した。",
                      "source": "会社銀行八十年史（東洋経済新報社, 1955）第2篇 日本会社史 34_鉄鋼「日本鋼管」",
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                    {
                      "fact": "設立日を明治45年6月14日と記す資料もあり、わが国最初の鋼管専門会社として創立されたと記録されている",
                      "原文": "〔設立〕明治四五年六月一四日／日本鋼管は明治四五年、白石元治郎氏らにより、資本金二〇〇万円、二〇トン平炉二基、製管工場一の規模をもって、わが国最初の鋼管専門会社として創立された。",
                      "source": "企業の歴史 : 明治百年（経済春秋社, 1968）「日本鋼管」",
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                  ]
                },
                {
                  "text": "品目の選び方に、この創業の判断が表れている。需要が数量として小さいことは、量産で採算を取ろうとする事業には不利に働く。しかし特別の設備と高度の技術を要するという条件は、国内での製造を阻んできた理由であると同時に、後から来る者を締め出す条件でもあった。日本鋼管は、銑鉄から一貫して作る力を持たないうちに、数量の出ない代わりに競争相手のいない領域を押さえた。",
                  "evidences": [
                    {
                      "fact": "鋼管が輸入に依存していた理由は、需要が数量的に少ないことと、製造に特別の設備・高度の技術を要することの二つであった",
                      "原文": "これは鋼管に対する需要が数量的に少なかったばかりでなく、その製造に特別の設備や高度の技術を要するからである。そうしたなかにあって同社は、継目無鋼管の製造を専業として発足し、わが国民間鉄鋼業における先駆者的役割を果したのである。",
                      "source": "企業の歴史 : 明治百年（経済春秋社, 1968）「日本鋼管」",
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            },
            {
              "sub_title": "資金は株主と借入だけで賄う",
              "paragraphs": [
                {
                  "text": "資金についても、政府をあてにしなかった。のちに社長となる河田重氏は、日本鋼管を「純然たる民間会社である」と書き、資金はすべて株主から集め、あとは借金でまかなってきたと振り返っている。政府の金や援助なしにここまで来られたものだ、という述懐が続く。半官半民でも財閥系でもない資本の構成が、その後の増資と減資の重さを決めた。",
                  "evidences": [
                    {
                      "fact": "日本鋼管は政府資金や援助を受けず、株主からの払込と借入だけで資金を賄ってきたと河田重氏が回想している",
                      "原文": "鋼管会社は純然たる民間会社である。だから資金はすべて株主から集め、あとは借金でまかなってきた。政府の金や援助なしに、よくここまでこられたものだとおもう。",
                      "source": "河田重「私の履歴書」（日本経済新聞社編『私の履歴書 経済人2』日本経済新聞社, 1980 所収）",
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                    }
                  ]
                },
                {
                  "text": "白石氏がどのような人物であったかも、河田氏が書き残している。越後に生まれて福島の士族の家へ養子に入り、貧しさのなかで苦学して東京大学へ進んだ。深酒をせず歌舞音曲を解さない謹厳な人柄で、口ぐせは「ロングラン」であった。あくせくするな、人生行路は長距離走であり、長生きした者が最後の勝利を得る、と説いたという。需要の小さい品目を専業に選び、自前の高炉を24年待った選択は、この時間の取り方と重なってみえる。",
                  "evidences": [
                    {
                      "fact": "白石元治郎氏は越後の生まれで福島の士族の家に養子入りし、苦学して東大へ進んだ謹厳な人物で、「ロングラン」を持論としていた",
                      "原文": "白石さんの主義は\"ロングラン\"ということだった。あくせくするな、ロングランで行け!とよくいわれた。人生行路を走るには長距離選手でなければならぬ。そのためには、まずからだを大事にしろ。長生きしたものが最後の勝利を得る-というのが白石さんの持論であった",
                      "source": "河田重「私の履歴書」（日本経済新聞社編『私の履歴書 経済人2』日本経済新聞社, 1980 所収）",
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        },
        {
          "section": "outcome",
          "label": "結果",
          "subsections": [
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              "sub_title": "大戦景気と、その反動",
              "paragraphs": [
                {
                  "text": "操業の直後に欧州大戦が起こり、予想外の好況が訪れた。同社は平炉を7基に増やし、小形中形条鋼、厚板、薄板、第二製管、スポンジ鉄の各工場と小型高炉を建て、資本金は1,600万円へ膨らんだ。1918年7月に入社した河田重氏の目には、それでも川崎工場は平炉が3つか4つ、パイプの小さな工場が2つほどの規模に映った。川崎駅から工場までは、田んぼの中の一本道を40分歩く道のりであった。",
                  "evidences": [
                    {
                      "fact": "欧州大戦の好況で平炉7基・各種圧延工場・小型高炉を増設し、資本金は1,600万円へ急増した",
                      "原文": "操業直後、欧州大戦の勃発により、予想外の好況に恵まれて第一次発展期を迎え、平炉七基、小形中形条鋼、厚板、薄板、第二製管、スポンジ鉄の各工場、小型高炉等を増設し、資本金も一千六百万円に急増した。",
                      "source": "会社銀行八十年史（東洋経済新報社, 1955）第2篇 日本会社史 34_鉄鋼「日本鋼管」",
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                    },
                    {
                      "fact": "1918年7月入社当時の川崎工場は平炉3〜4基と小さな製管工場2つ程度の規模で、駅から工場まで田の中の一本道を40分歩いた",
                      "原文": "そのころの鋼管会社はまだ規模も小さく、川崎工場にしても平炉が三つか四つ、それもパイプの小さな工場が二つぐらいしかなかった。〜入社してまずおどろいたのは、川崎駅から工場までの道である。急いで四十分、少し気をゆるめると一時間はたっぷりかかる",
                      "source": "河田重「私の履歴書」（日本経済新聞社編『私の履歴書 経済人2』日本経済新聞社, 1980 所収）",
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                {
                  "text": "反動は速かった。休戦とともに注文が止まり、トン当たり200円だった丸棒は70〜80円に暴落し、鋼管株は5円まで下がった。拡張した工場のうち平炉・鋼管・条鋼を除く各工場は操業中止か廃棄となり、1921年には前例のない減資と増資を同時に行うため、社員が全国へ委任状を集めに回った。1923年の関東大震災では川崎工場のコンクリート煙突が3分の2倒れ、昭和初頭の世界恐慌では再度の減資に至った。",
                  "evidences": [
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                      "fact": "休戦後の反動で丸棒はトン200円から70〜80円に暴落し、鋼管株は5円まで下がった。1921年には減資と増資を同時に行い、委任状を全国から集めた",
                      "原文": "それまでトン当り二百円の丸棒が、なんといっぺんに七、八十円にまで暴落し、それでも買手がつかなかった。鋼管株は、とうとうしまいには五円にまで下がった。〜苦肉の策というか、減資をしてから増資しようということになった。〜職員のほとんど全員を全国各地におくって委任状集めに奔走させたりして、どうやら過半数を手にしたときはほっとした。",
                      "source": "河田重「私の履歴書」（日本経済新聞社編『私の履歴書 経済人2』日本経済新聞社, 1980 所収）",
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                      "原文": "しかし休戦による反動と恐慌、関東大震災の災害等により、前記拡張工場中、平炉、鋼管、条鋼各工場を除く他の諸工場は、操業中止または廃棄し、社業の整理に努めたが、引つづく昭和初頭の世界恐慌による打撃により、再度にわたる減資を余儀なくされた。",
                      "source": "会社銀行八十年史（東洋経済新報社, 1955）第2篇 日本会社史 34_鉄鋼「日本鋼管」",
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              "sub_title": "製鉄大合同への不参加と、24年目の高炉",
              "paragraphs": [
                {
                  "text": "1934年1月、官営八幡製鉄所と財閥系5社が合同して半官半民の日本製鉄が創立された。政府の出資は79%を占め、成立当時の銑鉄生産は全国の96%に達した。参加を求められた白石社長は「製鉄業は、政府の一企業として競争のない温室育ちの事業ではいかぬ。あくまでも民間企業として競争しながら発展すべきだ」として加わらず、日本鋼管は鋼塊で12%、鋼材で13.6%を占める最大の民間勢力となった。",
                  "evidences": [
                    {
                      "fact": "昭和9年の日本製鉄設立時、政府出資は79%、同社の銑鉄生産は全国の96%を占め、日本鋼管は鋼塊12%・鋼材13.6%を持つ民間勢力であった",
                      "原文": "政府二億八千四百万円(七九%)〜日本製鉄成立当時の昭和九年において、同社の銑鉄生産高は百八十五万五千屯で、全国(朝鮮をふくむ)銑鉄生産高の九六%、鋼塊は二百一万屯で五一%、鋼材は百四十五万屯で四三%を占めていた。〜鋼塊では日本製鉄の五一%についで日本鋼管が一二%〜鋼材では、日本製鉄の四七・五%についで、日本鋼管が一三・六%",
                      "source": "会社銀行八十年史（東洋経済新報社, 1955）第1篇 会社企業発達史「戦時経済への移行期の会社」",
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                      "fact": "製鉄大合同への参加要請に対し、白石社長は民間企業として競争しながら発展すべきだとして加わらなかった",
                      "原文": "これに対し創立者の白石社長は、「製鉄業は、政府の一企業として競争のない温室育ちの事業ではいかぬ。あくまでも民間企業として競争しながら発展すべきだ」という固い決意で、それに加わらず、純粋に民間企業として終始することになった。",
                      "source": "証券アナリストジャーナル 1975年13巻4号「日本鋼管 70年代に挑戦する三事業部体制」（堀切治雄常務取締役・日本証券アナリスト協会企業分析部会 1975年3月20日講演要旨）",
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                {
                  "text": "独立を保った代償は、時間で支払われた。高炉の建設は創立以来の宿願であったが、会社の方針が国策に添わないという理由で、計画は当時の商工省に握りつぶされた。満州事変から日華事変へ進むなかで官営製鉄所だけでは鉄鋼需要を賄えなくなり、政策が民間育成へ転じてようやく認可が下りた。1934年10月に扇町製銑工場へ着手し、1936年6月の第一高炉の火入れで銑鋼一貫態勢が確立する。創立から24年が経っていた。",
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                    {
                      "fact": "高炉建設計画は方針が国策に添わないとして商工省に握りつぶされ、官営だけでは需要を満たせなくなった段階で民間育成へ政策が転換して認められた",
                      "原文": "当社の方針が国策に添わないという理由から、当時の商工省に高炉建設計画が握りつぶされるという経緯があった。しかし、わが国は満州事変から日支事変へ突入するに及んで、官営製鉄所だけでは増加しつつあった鉄鋼需要を満すことができず、民間企業育成へと政策を大きく転換し、当社の高炉建設が認められることとなった。",
                      "source": "証券アナリストジャーナル 1975年13巻4号「日本鋼管 70年代に挑戦する三事業部体制」（堀切治雄常務取締役・日本証券アナリスト協会企業分析部会 1975年3月20日講演要旨）",
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                    {
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                      "原文": "とりわけ高炉の建設は当社創立以来の宿願で、昭和九年十月、高炉三基および付帯設備を含めた扇町製銑工場の建設に着手し、十一年六月第一高炉の火入れを行い、ここに初めて銑鋼一貫態勢が確立されるに至つた。",
                      "source": "会社銀行八十年史（東洋経済新報社, 1955）第2篇 日本会社史 34_鉄鋼「日本鋼管」",
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                  "text": "創立の時点で、継目無鋼管は国内の誰も作っていない製品であった。需要が数量として小さく、特別の設備と高度の技術を要したためである。白石元治郎氏は、量が出ないと承知のうえでその一点に資本金200万円を集め、銑鉄からの一貫生産は後回しに置いた。官営八幡製鉄所が圧倒的な地位を占める産業で、後発の民間資本が生き残る道を、規模ではなく品目の選び方に求めた判断である。"
                },
                {
                  "text": "事業が自立するまでには長い時間がかかった。第一次大戦後の反動で鋼管株は5円まで下がり、二度の減資と関東大震災を経なければならず、自前の高炉に火が入るまでに24年を要した。その間、高炉の建設計画は国策に添わないとして商工省に握りつぶされてもいる。それでも1934年の製鉄大合同に加わらずに済んだのは、鋼塊の12%を占めるまでに事業が育っていたからで、品目の選択と資金の出どころが揃って初めて、「純然たる民間会社」であり続けることができた。"
                }
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            }
          ]
        }
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      "references": [
        "会社銀行八十年史（東洋経済新報社, 1955）第2篇 日本会社史 34_鉄鋼「日本鋼管」「概説」",
        "会社銀行八十年史（東洋経済新報社, 1955）第1篇 会社企業発達史「戦時経済への移行期の会社」",
        "企業の歴史 : 明治百年（経済春秋社, 1968）「日本鋼管」",
        "日本産業史 第1巻（日本経済新聞社, 1994年）「製鉄－苦闘重ねた先駆者」",
        "証券アナリストジャーナル 1975年13巻4号「日本鋼管 70年代に挑戦する三事業部体制」（堀切治雄常務取締役・日本証券アナリスト協会企業分析部会 1975年3月20日講演要旨）",
        "河田重「私の履歴書」（日本経済新聞社編『私の履歴書 経済人2』日本経済新聞社, 1980 所収）"
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      "authored": "2026-07",
      "last_updated": "2026-07-27"
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      "slug": "fukuyama-works-1962",
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      "type": "strategy",
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      "title": "広島県福山への第4の総合製鉄所の建設と、粗鋼年産600万トン計画への約2,500億円の投資",
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          "text": "1961年秋、京浜地区の粗鋼能力350万トンが限界に達した日本鋼管が、第4の総合製鉄所を広島県福山に置くと決め、1962年1月に埋立から着工した投資。最終目標は粗鋼年産600万トン・約2,500億円で、会社が当期の売上高として示した810億円の3倍を超える計画であった。"
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          "text": "川崎・鶴見・水江の京浜3製鉄所は合理化がほぼ完了し、粗鋼能力350万トンで頭打ちとなっていた。戦災からの復旧に歳月を要し、新立地への着手も後ろへずれていた。世界では生産規模と高炉の大型化が進み、赤坂武副社長は国際市場の競争に敗れれば国内市場まで荒らされるとみていた。"
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          "label": "内容",
          "text": "第1期は日産3,200トン級の大型高炉1基と150トン転炉2基、全連続式80インチホットストリップミルなどで構成され、粗鋼能力は150万トンとも180万トンとも説明された。1963年度から1967年度に約1,100億円の設備資金を見込み、増資・自己資金・社債借入で3分の1ずつ賄う想定を置いた。"
        },
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          "label": "含意",
          "text": "第1期は1966年8月に総工費1,000億円強で完成し、1968年3月の第2期で粗鋼能力450万トンとなった。高度成長のもとで計画は拡大修正され、高炉5基・年産1,600万トンと世界最大の規模に育った一方、発祥の地の京浜は老朽化し、扇島への建て替えが次の課題として残った。"
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                  "text": "日本鋼管は京浜地区に川崎・鶴見・水江の三つの製鉄所を並べ、鋼管と条鋼、厚板、薄板と品種を分けて受け持たせていた。高炉の定期修理で一つが止まっても近くの他の二つが補う、集中立地の利点も生かしていた。しかし1963年夏、水江製鉄所長の中野宏氏は、川崎地区の合理化計画がほとんど完成に近づき、粗鋼生産能力350万トンも能力いっぱいのところにあると説明している。伸ばす余地は、京浜には残っていなかった。",
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                      "fact": "川崎地区の合理化計画はほとんど完成に近づき、粗鋼生産能力350万トンも能力いっぱいで、発展のためには他の場所に広大な土地を持つ製鉄所が必要とされた",
                      "原文": "当社の主力工場のある川崎地区の合理化計画はほとんど完成に近づき、粗鋼生産能力350万トンも能力いっぱいのところにあり、したがって、日本鋼管が将来大きな発展を期待するためには、他の場所に広大な土地を持つ製鉄所を建設する必要がある。",
                      "source": "証券アナリストジャーナル 1963年1巻6号「日本鋼管――当社主力工場の概況について」（中野宏）",
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                      "fact": "京浜3製鉄所は川崎が鋼管・条鋼、鶴見が厚板と大径溶接鋼管、水江が薄鋼板と品種を分担していた",
                      "原文": "川崎製鉄所－日本鋼管の製鉄所中、最も古い工場で、鋼管、条鋼を専門に生産している。鶴見製鉄所－水江製鉄所が稼動するまでは、中板、薄板をも生産していたが、水江製鉄所の完成に合わせて整理し、厚板およびそれを素材とする大径溶接鋼管（UO方式）の専門工場とした。水江製鉄所－あらゆる品種の薄鋼板の集中大量生産を行なっている。",
                      "source": "証券アナリストジャーナル 1963年1巻6号「日本鋼管――当社主力工場の概況について」（中野宏）",
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                },
                {
                  "text": "新立地への着手が遅れたのには、前史がある。日本鋼管は1942年4月の初の関東大空襲で真っ先に工場を爆撃され、1945年8月の京浜空襲でも被害を受けた。槇田久生氏は、戦後の復興で同社が鉄鋼メーカーの中で一番遅れたのは空襲の打撃が最大の理由であり、福山製鉄所の建設が遅れたのも京浜地区の復興に時間がかかったことが大きいと書き残している。京浜での復旧に費やした歳月が、新立地への着手を後ろへ押していた。",
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                    {
                      "fact": "空襲による打撃で日本鋼管の戦後復興は鉄鋼メーカーの中で最も遅れ、それが福山製鉄所の建設の遅れにもつながった",
                      "原文": "確か十七年四月十八日の初の関東大空襲だったと思うが、米軍の爆撃機が最初に日本鋼管の工場にワッと爆弾を落とした。それから終戦の二十年八月には京浜空襲でまたやられた。（中略）戦後の復興で、日本鋼管が鉄鋼メーカーの中で一番遅れたのも、これらの空襲でダメージを受けたことが最大の理由である。（中略）福山製鉄所の建設が遅れたのも、京浜地区の復興に時間がかかったことが大きい。",
                      "source": "私の履歴書 経済人23（日本経済新聞社、1987年）槇田久生",
                      "url": null
                    }
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                }
              ]
            },
            {
              "sub_title": "大型化する世界の鉄鋼業",
              "paragraphs": [
                {
                  "text": "1962年の日本の鉄鋼業は不況にあった。前年10月の金融引締めで景気調整が入り、生産財の不振がそのまま鉄鋼に及んで需要は減退し、価格は下落した。赤坂武副社長は、この集中的な打撃を鉄鋼業の宿命と呼んでいる。ただし、長期の見方は違った。世界の粗鋼生産は10年で2倍となり、1962年には3億6,400万トンと史上最高を記録した。1961年の世界の鉄鋼設備投資は約50億ドル、邦貨で1兆5,000億円に達していた。",
                  "evidences": [
                    {
                      "fact": "1961年10月の金融引締めによる景気調整で1962年度は年初から不況が顕在化し、鉄鋼需要は極度に減退した",
                      "原文": "一昨年の10月に金融引締め策がとられ、各般の景気調整が行なわれたのであるが、特に昨37年度は、年初から不況が顕在化してきたのである。これは産業界、ことに生産財、資本財部門の不振がそのまま鉄鋼業に反映し、需要は極度に減退して大きなしかも直接的な打撃を蒙ったのである。",
                      "source": "証券アナリストジャーナル 1963年1巻6号「世界鉄鋼業界と日本鋼管の見通し」（赤坂武）",
                      "url": "https://dl.ndl.go.jp/pid/2730514"
                    },
                    {
                      "fact": "世界の粗鋼生産高は10年間で2倍となり1962年に3億6,400万トン、1961年の世界の鉄鋼設備投資は約50億ドル（1兆5,000億円）に達した",
                      "原文": "これを粗鋼生産高からみると、ここ10年間に世界の生産高は2倍に増加している。1962年には3億6,400万トンと史上最高の実績を記録した。またこれを設備投資の面からみると、1961年の世界の鉄鋼設備投資が約50億ドル、邦貨に換算して1兆5,000億円という巨額にのぼっている。",
                      "source": "証券アナリストジャーナル 1963年1巻6号「世界鉄鋼業界と日本鋼管の見通し」（赤坂武）",
                      "url": "https://dl.ndl.go.jp/pid/2730514"
                    }
                  ]
                },
                {
                  "text": "赤坂氏の危機感は、国際競争の形そのものに向いていた。アメリカの製鉄会社の生産規模は年産粗鋼5,000万トンから8,000万トン程度へ上がり、高炉の炉床径は8〜10メートルに及び、圧延設備は半連続式から完全連続式へ移りつつあった。国際市場の競争に敗退すれば自国の国内市場だけに後退するのみならず、その市場さえ外国の強力な競争相手に荒らされる、と赤坂氏は述べている。設備の規模そのものが競争条件であった。",
                  "evidences": [
                    {
                      "fact": "アメリカの製鉄会社の生産規模は年産粗鋼5,000万トンから8,000万トン程度へ拡大し、高炉の炉床径は8〜10メートルに及んだ",
                      "原文": "1．鉄鋼の生産規模は増々大規模化している。アメリカの製鉄会社の生産規模はこれまで大体年産粗鋼ベースで5,000万トンであったものが、最近は、8,000万トン程度になってきた。2．したがって高炉が大きくなり炉床の径が8〜10mにおよび、同時に重油、ガスの吹込み技術が進歩してきたため、コークス比が低下傾向にある。",
                      "source": "証券アナリストジャーナル 1963年1巻6号「世界鉄鋼業界と日本鋼管の見通し」（赤坂武）",
                      "url": "https://dl.ndl.go.jp/pid/2730514"
                    },
                    {
                      "fact": "国際市場の競争に敗退すれば国内市場だけに後退するにとどまらず、自国の市場も外国の競争相手に荒らされる危険があると赤坂武副社長は述べた",
                      "原文": "もしも国際市場の競争に敗退したならばどうなるであろうか。自国の国内市場だけに後退するのみならず、自国の市場をもこれら外国の強力な競争相手にあらされる危険がある。",
                      "source": "証券アナリストジャーナル 1963年1巻6号「世界鉄鋼業界と日本鋼管の見通し」（赤坂武）",
                      "url": "https://dl.ndl.go.jp/pid/2730514"
                    }
                  ]
                }
              ]
            }
          ]
        },
        {
          "section": "origin",
          "label": "決断",
          "subsections": [
            {
              "sub_title": "第4の総合製鉄所を福山に置く",
              "paragraphs": [
                {
                  "text": "方針が決まったのは1961年の秋であった。京浜の3製鉄所に続く第4の総合製鉄所を、広島県福山に建設する。最終の目標は粗鋼年産600万トン、投じる額は約2,500億円と置かれた。1962年1月に工事へ入り、220万坪の土地造成のうち1963年7月までに約50万坪が仕上がった。海を埋めて土地をつくるところから始める、時間のかかる立ち上がりであった。",
                  "evidences": [
                    {
                      "fact": "1961年秋に第4の総合製鉄所を福山に建設する方針を決定し、最終粗鋼年産600万トンを目標に約2,500億円を投入する計画とした",
                      "原文": "そのような目的で、一昨年の秋に当社は第4の総合製鉄所を福山に建設する方針を決定した。この福山製鉄所は、最終粗鋼年産600万トンを目標に約2,500億円を投入して建設するもので、第1期工事の完成する昭和42年度には粗鋼生産能力180万トン（年間）、さらに最終完成時には600万トンとすることを予定している。",
                      "source": "証券アナリストジャーナル 1963年1巻6号「日本鋼管――当社主力工場の概況について」（中野宏）",
                      "url": "https://dl.ndl.go.jp/pid/2730514"
                    },
                    {
                      "fact": "1962年1月に福山新製鉄所の建設に着手した",
                      "原文": "さらに国際競争力の強化、増加する鉄鋼需要に対処するため、三七年一月、福山新製鉄所の建設に着手した。",
                      "source": "企業の歴史 明治百年（1968年）「日本鋼管」",
                      "url": "https://dl.ndl.go.jp/pid/3442940"
                    },
                    {
                      "fact": "1963年7月までに220万坪の造成地のうち約50万坪が完成していた",
                      "原文": "只今、福山製鉄所は、220万坪の土地造成中であり、先月をもって約50万坪の土地が完成した。",
                      "source": "証券アナリストジャーナル 1963年1巻6号「世界鉄鋼業界と日本鋼管の見通し」（赤坂武）",
                      "url": "https://dl.ndl.go.jp/pid/2730514"
                    }
                  ]
                },
                {
                  "text": "計画の大きさは、当時の会社の売上高と並べると見当がつく。中野氏が示した当期の売上見通しは製鉄部門700億円と造船部門110億円の合計810億円で、福山ひとつの計画額はその3倍を超えていた。槇田久生氏は後年、当時の京浜製鉄所の粗鋼生産量は年に300万トンぐらいで、その二倍の生産量を誇る工場をつくろうという計画であったと記し、社運をかけた計画であり、赤坂氏の大英断だったと振り返っている。",
                  "evidences": [
                    {
                      "fact": "会社が示した当期の売上見通しは製鉄部門700億円・造船部門110億円の合計810億円であった",
                      "原文": "今期の製鉄部門の売上げは700億円程度、造船部門の売上げが110億円、合計810億円となり、前期より10%上回る見込みである。",
                      "source": "証券アナリストジャーナル 1963年1巻6号「日本鋼管――当社主力工場の概況について」（中野宏）",
                      "url": "https://dl.ndl.go.jp/pid/2730514"
                    },
                    {
                      "fact": "当時の京浜製鉄所の粗鋼生産量は年300万トンほどで、その二倍を持つ工場を建てる福山第一次建設計画は社運をかけた計画と評された",
                      "原文": "当時の京浜製鉄所の粗鋼生産量は年に三百万トンぐらいのものだった。福山製鉄所の第一次建設計画では、二本の高炉で年産六百万トン体制を考えていた。京浜製鉄所の二倍の生産量を誇る工場をつくろうというのだから、社運をかけた計画だった。赤坂さんの大英断だったと思う。",
                      "source": "私の履歴書 経済人23（日本経済新聞社、1987年）槇田久生",
                      "url": null
                    }
                  ]
                }
              ]
            },
            {
              "sub_title": "資金の割り付けと、揺れる第1期の数字",
              "paragraphs": [
                {
                  "text": "資金の手当ても同時に組まれた。福山と京浜3製鉄所の合理化を合わせ、1963年度から1967年度に約1,100億円の設備資金が要ると見積もり、1964年度に3対1、1966年度に4対1程度の増資でその3分の1を賄い、残りを自己資金と社債・借入金で3分の1ずつ充てる想定を置いた。全社の粗鋼生産計画は1967年に550万トン、1970年度には能力770万トン・売上高3,000億円と、当時の倍に届く絵が描かれた。",
                  "evidences": [
                    {
                      "fact": "1963〜67年度に約1,100億円の設備資金を要すると見込み、1964年度に3対1、1966年度に4対1程度の増資と自己資金・社債借入で3分の1ずつ賄う想定を置いた",
                      "原文": "この福山製鉄所を中心に京浜3製鉄所の合理化分も含めて、38〜42年度には、約1,100億円の設備資金が必要と考えられ、そのため39年度に3対1、41年度に4対1程度の増資を必要とし、残りの3分の1を自己資金、あとの3分の1を社債、借入金に依存することになる。",
                      "source": "証券アナリストジャーナル 1963年1巻6号「日本鋼管――当社主力工場の概況について」（中野宏）",
                      "url": "https://dl.ndl.go.jp/pid/2730514"
                    },
                    {
                      "fact": "1970年度の全社粗鋼生産能力770万トン、全社売上高3,000億円（当時の約倍）を見込んだ",
                      "原文": "その結果、昭和45年度の全社粗鋼生産能力は、770万トンに達し、全社売上高は、現在に約倍加して3,000億円に達する見込みである。",
                      "source": "証券アナリストジャーナル 1963年1巻6号「日本鋼管――当社主力工場の概況について」（中野宏）",
                      "url": "https://dl.ndl.go.jp/pid/2730514"
                    },
                    {
                      "fact": "産業構造調査会の全国粗鋼4,280万トン予測を基礎に、1967年の自社粗鋼生産計画を550万トンと定めた",
                      "原文": "先ほども述べたが、産業構造調査会は昭和42年度の粗鋼生産4,280万トンを見込んでいるが、当社もこの予測を基礎にして、昭和42年の粗鋼生産計画550万トンを立てたのである。",
                      "source": "証券アナリストジャーナル 1963年1巻6号「世界鉄鋼業界と日本鋼管の見通し」（赤坂武）",
                      "url": "https://dl.ndl.go.jp/pid/2730514"
                    }
                  ]
                },
                {
                  "text": "第1期の設備は、日産3,200トン程度の大型高炉1基、150トン転炉2基、分塊設備、全連続式80インチのホットストリップミルとコールドタンデムミルで固められた。ただし第1期の粗鋼能力は、同じ日の説明でも赤坂氏が年産150万トン、中野氏が180万トンと食い違っている。赤坂氏は前年からの設備調整と減産体制の維持で工期に遅れが出たとも述べており、着工から1年半を過ぎても計画はなお揺れていた。",
                  "evidences": [
                    {
                      "fact": "第1期は日産3,200トン程度の大型高炉1基と150トン転炉2基、分塊設備、全連続式80インチホットストリップミル、コールドタンデムミルで粗鋼年産150万トンの規模を予定していた",
                      "原文": "第1期工事は、日産3,200トン程度の大型高炉1基と150トンの転炉2基、分塊設備、全連続式80インチホットストリップミルおよびコールドタンデムミルの建設を行ない、粗鋼で年産150万トンの規模を予定している。",
                      "source": "証券アナリストジャーナル 1963年1巻6号「世界鉄鋼業界と日本鋼管の見通し」（赤坂武）",
                      "url": "https://dl.ndl.go.jp/pid/2730514"
                    },
                    {
                      "fact": "同じ会合で中野宏氏は第1期完成時の粗鋼生産能力を年間180万トンと説明しており、赤坂武氏の150万トンと食い違う",
                      "原文": "第1期工事の完成する昭和42年度には粗鋼生産能力180万トン（年間）、さらに最終完成時には600万トンとすることを予定している。",
                      "source": "証券アナリストジャーナル 1963年1巻6号「日本鋼管――当社主力工場の概況について」（中野宏）",
                      "url": "https://dl.ndl.go.jp/pid/2730514"
                    },
                    {
                      "fact": "設備調整と減産体制の維持により福山の工期に遅れが生じていた",
                      "原文": "ご承知の通り昨年来の設備調整の問題、減産体制の維持等客観的状勢により、若干工期の遅延を余儀なくされたが、当社は全力をあげて、所期の目的を達成したいと考えている。",
                      "source": "証券アナリストジャーナル 1963年1巻6号「世界鉄鋼業界と日本鋼管の見通し」（赤坂武）",
                      "url": "https://dl.ndl.go.jp/pid/2730514"
                    }
                  ]
                }
              ]
            }
          ]
        },
        {
          "section": "outcome",
          "label": "結果",
          "subsections": [
            {
              "sub_title": "拡大修正されて1,600万トンへ",
              "paragraphs": [
                {
                  "text": "第1期は計画より早く仕上がった。1966年8月、総工費1,000億円強を投じた1号高炉・転炉2基・ホットストリップミル・コールドストリップミルが異例の工事スピードで完成する。1968年3月には約900億円の第2期工事が終わり、福山の粗鋼生産能力は450万トンとなった。高度成長の需要に押されて計画は次々に拡大修正され、高炉は5本立ち、年産1,600万トンという世界最大の能力を持つ製鉄所ができあがった。",
                  "evidences": [
                    {
                      "fact": "福山第1期計画は総工費1,000億円強で1966年8月に完成し、第2期工事は約900億円で1968年3月に完成して粗鋼生産能力は450万トンとなった",
                      "原文": "その第一期計画（一号高炉、転炉二基、ホットストリップミル、コールドストリップミルなど）は総工費一〇〇〇億円強を投じて、四一年八月に異例の工事スピードで完成、同製鉄所の基盤は確固たるものとなった。ひきつづいて総工費約九〇〇億円で第二期工事（二号高炉、転炉一基、厚板ミルなど）を実施し、四三年三月に完成、同製鉄所の粗鋼生産能力は四五〇万トンとなった。",
                      "source": "企業の歴史 明治百年（1968年）「日本鋼管」",
                      "url": "https://dl.ndl.go.jp/pid/3442940"
                    },
                    {
                      "fact": "高度成長のもとで計画は次々に拡大修正され、高炉は5本、年産1,600万トンという世界最大の能力を持つ製鉄所となった",
                      "原文": "高炉を二本つくるだけでもたいへんなのに、高度成長の波に乗って計画は次々に拡大修正され、結局、高炉は五本立った。年産千六百万トンという世界最大の能力を持つ製鉄所の誕生である。",
                      "source": "私の履歴書 経済人23（日本経済新聞社、1987年）槇田久生",
                      "url": null
                    }
                  ]
                },
                {
                  "text": "拡大には取りこぼしもあった。工業用水は当初の600万トン体制に合わせて手当てしてあったため、生産能力の拡大に水の確保が追い付かず、福山は後年に水不足で悩んでいる。同じ時期、川崎製鉄水島、八幡製鉄君津、神戸製鋼所加古川、住友金属工業鹿島と新鋭製鉄所が相次いで動き出した。過当競争を警戒する声と国際的な反響が起こり、1967年度からは産業構造審議会鉄鋼部会が設備調整に入った。",
                  "evidences": [
                    {
                      "fact": "当初の600万トン体制に合わせた工業用水の手当てだったため、生産能力の拡大に水の確保が追い付かず水不足に悩んだ",
                      "原文": "高炉はできたものの、初めの計画では六百万トン体制に合わせて工業用水の手当てを考えていたので、生産能力の拡大に水の確保が追い付かず、十年ほど前、水不足で悩んだことがある。",
                      "source": "私の履歴書 経済人23（日本経済新聞社、1987年）槇田久生",
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                    {
                      "fact": "日本鋼管福山・川崎製鉄水島・八幡製鉄君津・神戸製鋼所加古川・住友金属工業鹿島が新規に稼働し、1967年度から産業構造審議会鉄鋼部会で設備調整が図られた",
                      "原文": "この間新規に稼働したのは日本鋼管福山、川崎製鉄水島、八幡製鉄君津、神戸製鋼所加古川、住友金属工業鹿島などの各製鉄所であり（中略）こうした積極的な設備投資と新鋭設備の巨大化は過当競争の行き過ぎを警戒する声や、大きな国際反響を呼び起こした。このため四十二年度の産業構造審議会鉄鋼部会では学識経験者、業界、需要業界などの代表二一人からなる委員会で設備調整を図ることになり、高炉を中心とする一貫製鉄所の拡張の足並みが揃うようになった。",
                      "source": "日本産業史 第3巻 鉄鋼・金属「鉄鋼－新日鉄誕生し、業界安定期に」",
                      "url": "https://dl.ndl.go.jp/pid/13095823"
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              "sub_title": "順番が回ってきた京浜",
              "paragraphs": [
                {
                  "text": "1975年3月、常務の堀切治雄氏は、世界一の規模を誇る福山が高炉5基で1,600万トンの生産能力を持つ一方、発祥の地の京浜はリプレース中で生産を200万〜250万トン前後まで落としていると説明した。京浜は創業以来、空いている土地を見つけては設備を増強してきたため人家に工場が隣接し、設備も老朽化していた。全社の粗鋼生産シェアは14%程度で、会社はこの水準の維持を前提に設備計画を組んでいた。",
                  "evidences": [
                    {
                      "fact": "1975年時点で福山は高炉5基1,600万トンの能力を持ち、最盛期600万トンの京浜はリプレース中で生産を200〜250万トン前後に落としていた。全社の粗鋼生産シェアは14%程度であった",
                      "原文": "当社の製鉄所は、先ず、世界一の規模を誇る福山製鉄所があり高炉5基で1,600万トンの生産能力を持っている。当社発祥の地にある京浜製鉄所は、現在リプレース中で生産能力が落ちているが、最盛期には600万トンの能力を持っていた。（中略）現在京浜製鉄所は200〜250万トン前後の生産に落としている。（中略）当社の粗鋼生産シェアは、大体14%程度になっている。",
                      "source": "証券アナリストジャーナル 1975年13巻4号「日本鋼管」（堀切治雄）",
                      "url": "https://dl.ndl.go.jp/pid/2730649"
                    },
                    {
                      "fact": "京浜製鉄所は創業以来、空いている土地を見つけては設備を増強したため人家に工場が隣接し、公害と老朽化の問題を抱えた",
                      "原文": "京浜製鉄所は、当社創業以来、拡張に拡張を重ね、無計画というわけではないが、空いている土地を見つけてはどんどん設備を増強していった。そのため人家に工場が隣接しており、（中略）公害上の問題もあり老朽化した設備をいかにしてリプレースするか、いろいろ問題になった。",
                      "source": "証券アナリストジャーナル 1975年13巻4号「日本鋼管」（堀切治雄）",
                      "url": "https://dl.ndl.go.jp/pid/2730649"
                    }
                  ]
                },
                {
                  "text": "福山の拡充は人の配置も動かした。ピーク時に2万5,000人いた京浜製鉄所の従業員は、福山への異動と自然減によって1970年に1万8,000人へ減った。老朽化した京浜の建て替え先として選ばれた扇島は、土地造成と海底トンネル、公害対策を含めて建設費1兆円にのぼる計画となり、粗鋼1トンあたりの建設費は16万円ほどと見積もられた。5万円足らずで建った福山とは、3倍以上の開きがあった。",
                  "evidences": [
                    {
                      "fact": "京浜製鉄所の従業員はピーク時2万5,000人から、福山の拡充による異動と自然減で1970年に1万8,000人へ減少した",
                      "原文": "京浜の従業員はピーク時には二万五千人いたが、福山の拡充による異動や自然減によって四十五年には一万八千人に減少した。",
                      "source": "私の履歴書 経済人23（日本経済新聞社、1987年）槇田久生",
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                    },
                    {
                      "fact": "扇島計画の建設費は合計1兆円にのぼり、粗鋼トン当たりの建設費は16万円ほどで、5万円足らずだった福山の3倍以上となった",
                      "原文": "土地造成と海底トンネル工事だけで一千億円、公害対策に二千億円、本体の工事が七千億円で建設費は合計一兆円にのぼる大事業計画である。トン当たり五万円足らずだった福山に比べ、十六万円ぐらいかかる計算だが、そのころ米国でやるとどのくらいかかるか見積もったら二十七万円、カナダの場合はそれ以上かかるという数字が出た。",
                      "source": "私の履歴書 経済人23（日本経済新聞社、1987年）槇田久生",
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                    }
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              "sub_title": "売上の3倍を、埋立地に置いた",
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                {
                  "text": "会社が当期の売上高として示したのは810億円、福山ひとつの計画額は約2,500億円であった。京浜の粗鋼能力350万トンが天井に達したという事実だけなら、既存3製鉄所の手直しで数年を凌ぐ道もあったはずである。赤坂武副社長がそれを採らず、埋立から始まる新立地に売上の3倍を超える額を割り当てたのは、設備の規模そのものが国際競争の条件になるとみていたからである。槇田久生氏が「社運をかけた計画」と呼んだのは、この不釣り合いを指している。"
                },
                {
                  "text": "見通しの精度が高かったわけではない。第1期の粗鋼能力は同じ日の説明で150万トンと180万トンに割れ、工業用水は600万トン体制のまま据え置かれて後年の水不足を招いた。福山が1,600万トンに届いたのは、当初の設計が正確だったからではなく、高度成長が計画を次々に拡大修正させたからである。そして福山に投資を集めた十数年の裏側で京浜の設備は老朽化し、トン当たり3倍以上の建設費がかかる扇島への建て替えが、次の課題として残った。"
                }
              ]
            }
          ]
        }
      ],
      "references": [
        "証券アナリストジャーナル 1963年1巻6号「世界鉄鋼業界と日本鋼管の見通し」（赤坂武）",
        "証券アナリストジャーナル 1963年1巻6号「日本鋼管――当社主力工場の概況について」（中野宏）",
        "証券アナリストジャーナル 1975年13巻4号「日本鋼管」（堀切治雄）",
        "私の履歴書 経済人23（日本経済新聞社、1987年）槇田久生",
        "企業の歴史 明治百年（1968年）「日本鋼管」",
        "日本産業史 第3巻 鉄鋼・金属「鉄鋼－新日鉄誕生し、業界安定期に」"
      ],
      "authored": "2026-07",
      "last_updated": "2026-07-27"
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    {
      "slug": "toa-steel-1998",
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      "year": 1998,
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      "title": "上場子会社トーア・スチールの任意清算と、エヌケーケー条鋼への条鋼事業の承継",
      "subtitle": "会社更生法か、任意清算か——債務超過が必至となった上場子会社を、日本鋼管はどう畳んだか",
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      "issue": "債務超過が避けられなくなった上場子会社の処理と、条鋼事業の存続方法",
      "decider": "日本鋼管（NKK）取締役会",
      "highlights": [
        {
          "label": "概要",
          "text": "1998年9月、日本鋼管が上場子会社トーア・スチールの解散を決めた判断。会社更生法によらず任意清算とし、全額出資で設立したエヌケーケー条鋼に鹿島・姫路・仙台の設備と自社福山製鉄所の条鋼工場を集め、従業員1,300人のうち1,000人を移した。トーア・スチールは1999年3月に解散し、翌4月に上場を廃止した。"
        },
        {
          "label": "背景",
          "text": "トーア・スチールは1987年10月に東伸製鋼と吾嬬製鋼所が合併して発足し、1988年度から1992年度は年100億円を超える経常利益を出していた。生き残りの切り札として1,300億円を投じた鹿島製造所の原資は、閉鎖する東京（千住）製造所の土地1,000億円と見込まれたが、実際の売却額は330億円余にとどまった。"
        },
        {
          "label": "内容",
          "text": "1998年2月の第三者割当増資で日本鋼管の出資比率を37%弱から51.58%へ引き上げ、連結対象として信用を支えた。それでも建設用鋼材の需要低迷で最終損失は900億円に達し、期末の債務超過が必至となる。9月に解散を決め、負債2,000億円強を承継する新会社に売上1,500億円・経常利益50億円を計画させた。"
        },
        {
          "label": "含意",
          "text": "日本鋼管は解散に伴い約600億円の特別損失を計上し、通期最終損益の見通しを50億円の黒字から880億円の赤字へ修正した。スタンダード・アンド・プアーズは社債格付けを投機的とされるBpiへ引き下げ、株価は100円を割った。翌1999年には京浜製鉄所の分社化と3,900人の削減が続いた。"
        }
      ],
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            "note": "高炉大手5社の一角。京浜製鉄所の片肺操業と電子デバイス事業の赤字を抱え、1998年度は経常赤字に沈んだ"
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          "title": "トーア・スチールが東証一部に上場"
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          "title": "月産10万トン・総工費1,300億円の鹿島製造所が完成"
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          "title": "第三者割当増資で日本鋼管の出資比率が51.58%となり連結子会社化"
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          "highlight": true
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        {
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          "title": "スタンダード・アンド・プアーズが日本鋼管の社債格付けをBpiへ引き下げ"
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          "title": "トーア・スチールが解散し、エヌケーケー条鋼が条鋼事業を承継"
        },
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          "year": 1999,
          "month": null,
          "title": "京浜製鉄所の表面処理鋼板・溶接管などを分社化し、3,900人を削減"
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      "snapshot": {
        "fiscal_year": "1999年3月期",
        "source": "週刊東洋経済 1998年11月28日号（1999年3月期 通期見通し）",
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            "name": "日本鋼管",
            "fiscal_year": "1999年3月期（単独・通期見通し）",
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          "label": "背景",
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              "sub_title": "合併と人員整理で作った黒字会社",
              "paragraphs": [
                {
                  "text": "トーア・スチールは、日本鋼管が救済のために抱えた会社ではない。1987年10月、系列の東伸製鋼と吾嬬製鋼所が合併比率1対0.82で一つになり、翌1988年2月3日に東証一部へ上場した。社長には日本鋼管副社長から神谷春樹氏が就いた。従業員は1,777名を数え、日本鋼管が発行済株式の41.7%を持つ筆頭株主に立った。グループ内での位置づけは中小形形鋼や線材などの条鋼専業で、大形形鋼と鋼矢板は日本鋼管本体が担い、品種の重複はなかった。",
                  "evidences": [
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                      "fact": "トーア・スチールは1988年2月3日に上場し、社長は日本鋼管副社長から移った神谷春樹、従業員1,777名で、中小形形鋼・線材などの条鋼専業としてグループ内に位置づけられた",
                      "原文": "上場年月日昭和63年2月3日、代表者の役職氏名取締役社長神谷春樹氏、3.従業員数1,777名(男子1,678名、女子99名)。同社は、中小形形鋼、線材などの条鋼類の専門メーカーとして位置付けられている。なお、日本鋼管(株)は、大形形鋼、鋼矢板の生産販売を行っている。(グループ内での競合は無い)",
                      "source": "証券 1988年40巻4号「新規上場会社紹介 トーア・スチール株式会社」",
                      "url": "https://dl.ndl.go.jp/pid/2730356"
                    },
                    {
                      "fact": "1987年10月1日に東伸製鋼と吾嬬製鋼所が合併比率1対0.82で合併し、日本鋼管が発行済株式の41.7%を保有する筆頭株主となった",
                      "原文": "昭62.10.1合併 合併比率1:0.82。(東伸製鋼㈱:(株)吾嬬製鋼所=1:0.82)。日本鋼管㈱ 47,736千株 41.7%",
                      "source": "証券 1988年40巻4号「新規上場会社紹介 トーア・スチール株式会社」",
                      "url": "https://dl.ndl.go.jp/pid/2730356"
                    }
                  ]
                },
                {
                  "text": "合併の前には人員整理があった。計画は削減率32%であったのに対し、実績は871名・33%に達した。両社で2,866人いた従業員は1,700人台まで絞られ、赤字体質は黒字へ変わった。1988年度から1992年度までは年100億円を超える経常利益を出し、ピークには年10円の配当を出した。円高不況を受けて高炉各社が大がかりな合理化に追われ、日本鋼管本体も1986年度から1990年度の5年で人員を19,400人から13,200人へ減らす計画を掲げていた時期にあたる。",
                  "evidences": [
                    {
                      "fact": "合併前の合理化計画は削減率32%を掲げ、実績は871名・削減率33%に達した",
                      "原文": "イ.要員削減(計画:削減率32%、労務費負担減年50億円) 871名削減と33%の削減率達成",
                      "source": "証券 1988年40巻4号「新規上場会社紹介 トーア・スチール株式会社」",
                      "url": "https://dl.ndl.go.jp/pid/2730356"
                    },
                    {
                      "fact": "合併以前に両社で2,866人いた従業員を1,700人台まで絞り、1988年度から1992年度は年100億円を超える経常利益を出し、ピークには年10円配を実施した",
                      "原文": "両社合併以前、両社で二八六六人いた従業員数を一七〇〇人台まで絞り、赤字から黒字体質に変え、同社は８８～９２年度までは年間一〇〇億円を超える経常利益を出し、ピークには年一〇円配を実施した。",
                      "source": "週刊東洋経済 1998年9月19日号「トーア・スチール 解散の引き金 バブル崩壊後に強行された、1300億円の鹿島大投資」",
                      "url": null
                    },
                    {
                      "fact": "日本鋼管は1986年度から1990年度の5ヵ年で高炉1基の休止などを通じて人員を19,400人から13,200人へ6,200人削減する合理化計画を発表していた",
                      "原文": "NKKは六十一-六十五年度の五ヵ年に高炉一基を休止、福山の分塊設備休止、造船部門の設備二〇%削減などを通じて人員を一万九四〇〇人から一万三二〇〇人へと六二〇〇人削減する合理化計画をそれぞれ発表した。",
                      "source": "日本産業史 第4巻「鉄鋼－徹底合理化と多角化に挑む」",
                      "url": null
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                  ]
                }
              ]
            },
            {
              "sub_title": "1,300億円の鹿島と、届かなかった千住の地価",
              "paragraphs": [
                {
                  "text": "神谷春樹氏（社長）は、生き残りの切り札として鹿島製造所を建てた。月産能力10万トン、総工費1,300億円で、1996年3月に完成した。原資には、閉鎖する東京（千住）製造所の土地を見込んでいた。日本鋼管の首脳は「トーアサイドはその土地を一〇〇〇億円で売り、それを鹿島の建設費に充当する考えだった」と語っている。実際の売却額は330億円余にとどまり、設備廃却損132億円も出て手取額はさらに減った。姫路製造所でも1995年7月に新大形工場を200億円で完成させた。",
                  "evidences": [
                    {
                      "fact": "鹿島製造所は月産能力10万トン・総工費1,300億円で1996年3月に完成し、東京（千住）製造所の土地を1,000億円で売って建設費に充てる計画だったが、実際の売却額は330億円余にとどまり設備廃却損132億円も出た",
                      "原文": "同工場は月産能力一〇万トン、総工費は一三〇〇億円という大投資で、９６年３月完成した。これに伴い東京（千住）製造所を閉鎖、売却したが、ここにバブル崩壊の影響がモロに出た形となった。「トーアサイドはその土地を一〇〇〇億円で売り、それを鹿島の建設費に充当する考えだった」（ＮＫＫ某首脳）。それが実際の売却額は三三〇億円余にとどまったうえ、同製造所の設備廃却損一三二億円も出て、手取額はさらに減少した。",
                      "source": "週刊東洋経済 1998年9月19日号「トーア・スチール 解散の引き金 バブル崩壊後に強行された、1300億円の鹿島大投資」",
                      "url": null
                    },
                    {
                      "fact": "姫路製造所でも1995年7月に新大形工場を完成させ、200億円を投じていた",
                      "原文": "このほか、トーアでは姫路製造所でも新大形工場を９５年７月完成させており、ここにも二〇〇億円投資している。",
                      "source": "週刊東洋経済 1998年9月19日号「トーア・スチール 解散の引き金 バブル崩壊後に強行された、1300億円の鹿島大投資」",
                      "url": null
                    }
                  ]
                },
                {
                  "text": "1994、95年度と大型設備投資が続いた結果、有利子負債は倍増し、減価償却費と金利は1996年度以降に急増した。鹿島の稼働率は思うように上がらず、鋼矢板など新規分野の売上も伸び悩む。1994年度に経常赤字へ転落し、赤字幅は期を追って拡大した。財務の変調はさらに早く現れている。営業キャッシュフローから減価償却を引いた額は1993年3月期にすでに赤字で、1993年から96年までの4年間は営業キャッシュフローを上回る固定資産の増加が続いていた。",
                  "evidences": [
                    {
                      "fact": "1994・95年度の大型設備投資で有利子負債は倍増し、1996年度以降に減価償却費と金利が急増、鹿島の稼働率も上がらず1994年度以降は経常赤字が拡大した",
                      "原文": "このため、９４、９５年度と大型設備投資が断行され、それに伴い、有利子負債は倍増、減価償却費、金利が特に９６年度以降急増する結果となった。そのうえ、鹿島製造所の稼働率は思うように上がらず、鋼矢板など新規分野にも乗り出したが、売り上げは伸び悩んだ。当然、９４年度以降、経常赤字に転落、しかも赤字幅は期を追って拡大する最悪のパターンとなった。",
                      "source": "週刊東洋経済 1998年9月19日号「トーア・スチール 解散の引き金 バブル崩壊後に強行された、1300億円の鹿島大投資」",
                      "url": null
                    },
                    {
                      "fact": "フリーキャッシュフローは1993年3月期にすでに赤字で、1993年から96年の4年間は営業キャッシュフローを上回る固定資産の増加が続いた",
                      "原文": "設備投資は９５年３月期をピークとするが、９３～９６年（各３月期）の４年間は営業キャッシュフローを上回る固定資産の増加を続けた。フリーキャッシュフロー（営業キャッシュフロー－減価償却）を見ると、すでに９３年３月期に赤字になっている。その後は、赤字基調で、外部負債が増える構造になっていた。",
                      "source": "週刊東洋経済 1999年4月10日号「キャッシュフロー革命 トーア・スチールの失敗 巨大投資以前に営業キャッシュフローが枯渇」",
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            }
          ]
        },
        {
          "section": "origin",
          "label": "決断",
          "subsections": [
            {
              "sub_title": "増資で支えた7か月",
              "paragraphs": [
                {
                  "text": "日本鋼管はまず信用の下支えに動いた。1997年12月、経営不安説からトーア・スチールの株価は額面を割る26円まで急落し、同社はこれを否定するコメントを出している。1998年2月には第三者割当増資を実施し、日本鋼管の出資比率を37%弱から51.58%へ引き上げて連結対象会社とした。並行して姫路の50トン電炉を休止し、10月以降は日本鋼管福山製鉄所からビレット（半製品）の供給を受け、鋼矢板は逆に日本鋼管から生産を移す合理化案も打ち出した。",
                  "evidences": [
                    {
                      "fact": "1997年12月に経営不安説で株価が額面割れの26円まで急落し、1998年2月の第三者割当増資でNKKの出資比率を37%弱から51.58%へ高めて連結対象とし信用面を下支えした",
                      "原文": "こうした中で、９７年１２月経営不安説から同社株は額面割れの二六円まで急落、それを否定するコメントを発表せざるをえなくなった。そのうえ、９８年２月、第三者割当増資を行い、ＮＫＫの出資比率を三七％弱から五一・五八％に高め、連結対象会社となることで、信用面の下支えを図った。",
                      "source": "週刊東洋経済 1998年9月19日号「トーア・スチール 解散の引き金 バブル崩壊後に強行された、1300億円の鹿島大投資」",
                      "url": null
                    },
                    {
                      "fact": "姫路の50トン電炉を休止し、10月以降はNKK福山製鉄所からビレットの供給を受け、鋼矢板はNKKから生産移管する合理化案を打ち出した",
                      "原文": "それと並行し、トーアは姫路の五〇トン電炉を休止する一方、ＮＫＫの福山製鉄所から、１０月以降、ビレット（半製品）の供給を受ける、鋼矢板は逆にＮＫＫから生産移管する、といった合理化案も打ち出した。",
                      "source": "週刊東洋経済 1998年9月19日号「トーア・スチール 解散の引き金 バブル崩壊後に強行された、1300億円の鹿島大投資」",
                      "url": null
                    }
                  ]
                },
                {
                  "text": "増資から7か月で前提は崩れた。1998年度に入って内外の景況は一段と悪化し、主力の建設用鋼材の需要が落ち込む。当初106億円とみていた経常赤字幅は膨らみ、最終損失は900億円、期末には債務超過へ転落するのが避けられない状況となった。日本鋼管は同年9月、トーア・スチールの解散を決めた。1987年の合併から11年余、東証一部への上場からは10年での解散であった。",
                  "evidences": [
                    {
                      "fact": "1998年度に入って建設用鋼材の需要が低迷し、当初106億円とみていた経常赤字幅が拡大して最終損失は900億円、期末の債務超過が必至となったためNKKは解散を決定した",
                      "原文": "しかし、９８年度に入って内外景況は一段と悪化、特にトーアの主力製品である建設用鋼材の需要が低迷、当初一〇六億円とみていた経常赤字幅が拡大、最終損失は九〇〇億円となり、期末には債務超過に転落するのが必至の状況に陥り、ＮＫＫはトーア解散を決定した。",
                      "source": "週刊東洋経済 1998年9月19日号「トーア・スチール 解散の引き金 バブル崩壊後に強行された、1300億円の鹿島大投資」",
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                    {
                      "fact": "トーア・スチールは1987年10月の合併から12年余りで歴史を閉じ、1999年3月に解散することとなった",
                      "原文": "東証一部上場のＮＫＫ系電炉大手、トーア・スチールは自主再建を断念、１９９９年３月解散する。８７年１０月、旧東伸製鋼（トー）と吾嬬製鋼所（ア）が合併、新発足以来わずか一二年余の歴史を閉じる。",
                      "source": "週刊東洋経済 1998年9月19日号「トーア・スチール 解散の引き金 バブル崩壊後に強行された、1300億円の鹿島大投資」",
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            },
            {
              "sub_title": "法的整理ではなく、受け皿会社",
              "paragraphs": [
                {
                  "text": "選ばれたのは会社更生法の申請ではなく、任意清算と受け皿会社の組み合わせであった。日本鋼管は全額出資で新会社エヌケーケー条鋼を設立し、トーアの鹿島（大形工場等を除く）、姫路、仙台の各設備に自社福山製鉄所の条鋼（8万トン）を加えて1,200人体制を敷いた。トーアの従業員1,300人のうち1,000人を新会社が受け入れた。畳むのは会社であって、条鋼事業そのものは日本鋼管グループに残す設計になっていた。",
                  "evidences": [
                    {
                      "fact": "NKKは受け皿として新会社を設立し、NKK福山の条鋼（8万トン）とトーアの鹿島・姫路・仙台の設備を譲渡して、トーアの従業員1,300人のうち1,000人を受け入れた",
                      "原文": "ＮＫＫは受け皿として新会社を設立。同社にＮＫＫ福山の条鋼（八万トン）、トーアの鹿島（条鋼）、姫路（条鋼）、仙台（棒線）などの設備を譲渡、トーアの従業員一三〇〇人のうち一〇〇〇人を受け入れる。",
                      "source": "週刊東洋経済 1998年9月19日号「トーア・スチール 解散の引き金 バブル崩壊後に強行された、1300億円の鹿島大投資」",
                      "url": null
                    },
                    {
                      "fact": "継承会社「エヌケーケー条鋼」はトーアの鹿島（大形工場等を除く）・姫路・仙台工場に現NKK福山の条鋼工場を加え、1,200人体制を敷いた",
                      "原文": "ＮＫＫは来年３月のトーア・スチールの解散に伴う電炉事業の継承会社として「エヌケーケー条鋼」を設立した。同社はトーアの鹿島（大形工場等を除く）、姫路、仙台工場等に、現ＮＫＫ福山の条鋼工場を加え、一二〇〇人体制を敷く。",
                      "source": "週刊東洋経済 1998年11月28日号「NKK 子会社のトーア・スチールは解散 命運握る電炉新社、京浜製鉄所」",
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                },
                {
                  "text": "新会社は負債2,000億円強を引き継いだ。それでも日本鋼管の三好英明取締役は「減価償却、金利、人件費負担が軽減され、売り上げ一五〇〇億円、経常利益五〇億円の計画」と説明している。もっとも、この収支は製品価格が平均2,000円程度上昇することを前提としており、当時の市況では黒字化を疑う見方も出ていた。日本鋼管本体は解散に伴い約600億円の特別損失を計上する。",
                  "evidences": [
                    {
                      "fact": "新会社は負債2,000億円強を引き継ぐ一方、減価償却・金利・人件費の負担が軽くなり売上1,500億円・経常利益50億円を計画したが、製品価格が平均2,000円程度上昇することが前提とされた",
                      "原文": "「新会社は負債二〇〇〇億円強を引き継ぐが、減価償却、金利、人件費負担が軽減され、売り上げ一五〇〇億円、経常利益五〇億円の計画」（三好氏）と強気だ。しかし、新会社の収支には製品価格が平均二〇〇〇円程度上昇することが前提とされ、現状では黒字化は微妙だ。",
                      "source": "週刊東洋経済 1998年11月28日号「NKK 子会社のトーア・スチールは解散 命運握る電炉新社、京浜製鉄所」",
                      "url": null
                    },
                    {
                      "fact": "NKKはトーア・スチールの解散に伴い約600億円の特別損失を計上した",
                      "原文": "ＮＫＫは同社解散に伴い約六〇〇億円の特別損失を計上、早期退職等を含め今年度最終損失は八八〇億円に上り、減無配（前期三円）が濃厚である。",
                      "source": "週刊東洋経済 1998年9月19日号「トーア・スチール 解散の引き金 バブル崩壊後に強行された、1300億円の鹿島大投資」",
                      "url": null
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              ]
            }
          ]
        },
        {
          "section": "outcome",
          "label": "結果",
          "subsections": [
            {
              "sub_title": "本体が払った代償",
              "paragraphs": [
                {
                  "text": "負担は子会社の中で収まらなかった。任意清算の発表があった9月以降、日本鋼管の株価は100円を割って二桁に沈む。10月6日、スタンダード・アンド・プアーズは社債格付けを従来のBBpiから投機的とされるBpiへ引き下げた。日本鋼管は同日、今後2年でトーア・スチールをはじめとする「負の遺産」を完全に整理すると表明している。通期の最終損益見通しは50億円の黒字から880億円の赤字へ修正され、前期3円の配当も無配が濃厚となった。",
                  "evidences": [
                    {
                      "fact": "トーア・スチールの任意清算発表があった9月以降NKKの株価は100円を割り、10月6日にS&Pは社債格付けをBBpiから投機的とされるBpiへ引き下げた",
                      "原文": "子会社のトーア・スチールの任意清算の発表があった９月以来、ＮＫＫの株価は一〇〇円を割り、二ケタ台に沈んでいる。それに輪をかけるように、米国の格付け機関スタンダード・アンド・プアーズ（Ｓ＆Ｐ）は１０月６日、ＮＫＫの社債格付けを従来のＢＢｐｉから投機的とされるＢｐｉに格下げした。ＮＫＫは同日、今後二年間でトーア・スチールをはじめとする「負の遺産」を完全に整理、復調し、いずれ格付けは上方修正される、とのコメントを発表した。",
                      "source": "週刊東洋経済 1998年11月28日号「NKK 子会社のトーア・スチールは解散 命運握る電炉新社、京浜製鉄所」",
                      "url": null
                    },
                    {
                      "fact": "1998年9月、NKKは通期の最終損益が当初の50億円の黒字から880億円の大幅赤字に転落する修正見通しを発表した",
                      "原文": "９月に入って、通期の最終損益が当初の五〇億円の黒字から、八八〇億円の大幅赤字に転落する修正見通しを発表、合わせて「収益改善策」を公表した。",
                      "source": "週刊東洋経済 1998年11月28日号「NKK 子会社のトーア・スチールは解散 命運握る電炉新社、京浜製鉄所」",
                      "url": null
                    }
                  ]
                },
                {
                  "text": "9月には1年半ぶりに早期退職制度を復活させ、15,300名の要員を1999年度末までに2,000名減らして13,300名体制とし、役員報酬の減額と合わせて年150億円程度の固定費削減を図った。11月の中間決算では、グループで不動産管理会社を設立して寮・社宅を売却し、510億円の譲渡益を立てることで最終損失の見通しを880億円から470億円へ縮めている。損失の穴埋めには、事業の改善だけでなく資産の売却が要った。",
                  "evidences": [
                    {
                      "fact": "1998年9月から1年半ぶりに早期退職制度を復活させ、15,300名の要員を1999年度末までに2,000名削減して13,300名体制とし、年間150億円程度の固定費削減を図った",
                      "原文": "９月から一年半ぶりに早期退職制度を復活し、現在一万五三〇〇名の要員を９９年度末までに二〇〇〇名削減、一万三三〇〇名体制とし、役員報酬の減額幅拡大等と合わせ、年間一五〇億円程度の固定費削減を図る合理化案である。",
                      "source": "週刊東洋経済 1998年11月28日号「NKK 子会社のトーア・スチールは解散 命運握る電炉新社、京浜製鉄所」",
                      "url": null
                    },
                    {
                      "fact": "1999年3月までにグループで不動産管理会社を設立して寮・社宅施設等を売却し510億円の譲渡益を計上することで、最終損失の見通しを880億円から470億円へ改善させた",
                      "原文": "今回の決算見通しでは、最終損失は９月の八八〇億円から四七〇億円に“改善”されることになった。その秘密は来年３月までにＮＫＫグループで不動産管理会社を設立し、同社にＮＫＫの寮・社宅施設等を売却し、五一〇億円の譲渡益を計上することにある。",
                      "source": "週刊東洋経済 1998年11月28日号「NKK 子会社のトーア・スチールは解散 命運握る電炉新社、京浜製鉄所」",
                      "url": null
                    }
                  ]
                }
              ]
            },
            {
              "sub_title": "温存された設備と、続いた構造改革",
              "paragraphs": [
                {
                  "text": "1999年3月末、トーア・スチールは臨時株主総会を開いて解散し、翌4月1日に東証の上場を廃止した。合併から11年半であった。ただし退場したのは会社であって、設備ではない。鹿島・姫路・仙台・千葉の各工場設備はエヌケーケー条鋼へ譲渡され、廃棄されたのは鹿島のブルーム連鋳機と大形工場だけであった。新会社の月産能力は26万トンで、従来と1万トンしか変わらない。業界3位の清算は、電炉業界の需給調整には働かなかった。",
                  "evidences": [
                    {
                      "fact": "1999年3月末にトーア・スチールは臨時株主総会を開いて解散し、翌4月1日に東証上場を廃止した。合併から11年半であった",
                      "原文": "この３月末、電炉大手のトーア・スチールが臨時株主総会を開き、静かに解散した。８７年１０月に旧東伸製鋼と旧吾嬬製鋼所が合併。以来一一年半の歴史に幕を閉じ、翌年４月１日、東証上場も廃止した。",
                      "source": "週刊東洋経済 1999年4月24日号「主力工場が消える 工場まるごと大リストラ」",
                      "url": null
                    },
                    {
                      "fact": "トーアの鹿島・姫路・仙台・千葉の設備はエヌケーケー条鋼へ譲渡され、廃棄されたのは鹿島のブルーム連鋳機と大形工場だけで、新会社の月産能力は26万トンと従来より1万トン少ないにとどまった",
                      "原文": "トーアの鹿島、姫路、仙台、千葉の各工場設備は親会社のＮＫＫが全額出資した「エヌケーケー条鋼」に譲渡され、従業員一三〇〇人のうち一〇〇〇人近くは新会社に移った。結局、廃棄されたのは鹿島のブルーム連鋳機と大形工場だけで、新会社の月産能力は二六万トンと、従来とわずか一万トンしか違わない。",
                      "source": "週刊東洋経済 1999年4月24日号「主力工場が消える 工場まるごと大リストラ」",
                      "url": null
                    }
                  ]
                },
                {
                  "text": "本体の構造改革はそのあとに続いた。1999年、日本鋼管は京浜製鉄所の表面処理鋼板と溶接管、富山・清水製作所を分社化し、転籍制度の導入などで3,900人を削減する。京浜は1990年の第二高炉休止以来の一炉体制で、京浜対福山の生産比率は1988年度の43対57から1997年度には27対73へ振れていた。1998年度は高炉5社の経常損益が74億円の赤字となり、日本鋼管・住友金属工業・神戸製鋼所の3社が経常赤字に沈む。前年から川崎製鉄との合併説がささやかれたのも、この時期であった。",
                  "evidences": [
                    {
                      "fact": "1999年、NKKは京浜製鉄所の表面処理鋼板・溶接管、富山・清水製作所を分社化し、転籍制度の導入等で3,900人を削減した",
                      "原文": "その中で、赤字組のＮＫＫは事業再構築を加速させ、京浜製鉄所の表面処理鋼板（７月）、溶接管（１０月）、富山・清水製作所（７月）を分社化、転籍制度の導入等で三九〇〇人を削減、今年度経常黒字（二〇〇億円）転換計画達成に必死である。",
                      "source": "週刊東洋経済 1999年8月7日号「2003年勝ち組負け組 鉄鋼再編の鍵握るNKK、神戸鋼の再構築」",
                      "url": null
                    },
                    {
                      "fact": "1998年度は高炉5社の経常損益が74億円の赤字に転落し、経常黒字は新日鉄と川崎製鉄のみ、NKK・住友金属・神戸製鋼所の3社は経常赤字となった",
                      "原文": "その９８年度は粗鋼生産が一一・五％減となる中で、高炉五社の売上高は五兆六五二五億円と一二％減となり、経常損益も七四億円の赤字（前年度は二三二四億円の黒字）に転落した（単独ベース）。経常黒字も新日鉄と川鉄だけで、ＮＫＫ、住友金属、神戸製鋼所の三社は経常赤字となり明暗を分けた。",
                      "source": "週刊東洋経済 1999年8月7日号「2003年勝ち組負け組 鉄鋼再編の鍵握るNKK、神戸鋼の再構築」",
                      "url": null
                    },
                    {
                      "fact": "京浜製鉄所は1990年の第二高炉休止以来の一炉体制で、京浜対福山の生産比率は1988年度の43対57から1997年度は27対73へ変化した",
                      "原文": "京浜製鉄所は９０年に第二高炉を休止して以来、一炉体制が続き、関東の他社の製鉄所と比べても生産性が低い。ちなみに、８８年度当時は京浜対福山の生産比率は四三対五七だったが、前９７年度には二七対七三と、完全に福山重視に移っている。",
                      "source": "週刊東洋経済 1998年11月28日号「NKK 子会社のトーア・スチールは解散 命運握る電炉新社、京浜製鉄所」",
                      "url": null
                    },
                    {
                      "fact": "1998年にも川崎製鉄とNKKの合併説がささやかれ、業界再編が話題になるときは必ずNKKと神戸鋼が焦点となった",
                      "原文": "昨年も川崎製鉄とＮＫＫの合併説が一部にささやかれたが、それもそうした空気の反映である。業界で再編が話題になるとき、必ずＮＫＫ、神戸鋼が焦点になる。",
                      "source": "週刊東洋経済 1999年8月7日号「2003年勝ち組負け組 鉄鋼再編の鍵握るNKK、神戸鋼の再構築」",
                      "url": null
                    }
                  ]
                }
              ]
            },
            {
              "sub_title": "誤ったのは投資の可否か、原資の見積りか",
              "editorial": true,
              "paragraphs": [
                {
                  "text": "1,300億円の鹿島製造所は、東京（千住）製造所の土地が1,000億円で売れるという前提の上に組まれていた。入ったのは330億円余で、見込みの3分の1に届かない。合併時に2,866人を1,700人台へ絞り、年100億円を超える経常利益を出していた会社が、この一件で債務超過に沈んだことになる。神谷春樹社長が鹿島製造所に会社の存続を賭けたこと自体は、地価が下がらないという当時の相場観のもとでは無謀とはいえない。狂ったのは投資の可否ではなく、原資の見積りである。"
                },
                {
                  "text": "ただ、地価だけに帰すのも無理がある。営業キャッシュフローから減価償却を引いた額は鹿島の完成より3年早い1993年3月期に赤字へ転じており、投資を支える稼ぎはその時点で細っていた。畳み方についても留保が残る。任意清算と受け皿会社という組み合わせは1,000人の雇用を引き継いだ一方、廃棄された設備は鹿島のブルーム連鋳機と大形工場にとどまり、月産能力は1万トンしか減らなかった。日本鋼管の帳簿からは負の遺産が消え、電炉業界の過剰能力はそのまま残った。"
                }
              ]
            }
          ]
        }
      ],
      "references": [
        "週刊東洋経済 1998年9月19日号「トーア・スチール 解散の引き金 バブル崩壊後に強行された、1300億円の鹿島大投資」",
        "週刊東洋経済 1998年11月28日号「NKK 子会社のトーア・スチールは解散 命運握る電炉新社、京浜製鉄所」",
        "週刊東洋経済 1999年4月10日号「キャッシュフロー革命 トーア・スチールの失敗 巨大投資以前に営業キャッシュフローが枯渇」",
        "週刊東洋経済 1999年4月24日号「主力工場が消える 工場まるごと大リストラ」",
        "週刊東洋経済 1999年8月7日号「2003年勝ち組負け組 鉄鋼再編の鍵握るNKK、神戸鋼の再構築」",
        "証券 1988年40巻4号「新規上場会社紹介 トーア・スチール株式会社」",
        "日本産業史 第4巻「鉄鋼－徹底合理化と多角化に挑む」"
      ],
      "authored": "2026-07",
      "last_updated": "2026-07-27"
    }
  ]
}
