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      "title": "千葉製鉄所の建設と、平炉メーカーから銑鋼一貫メーカーへの転換",
      "subtitle": "資本金5億円の新会社に高炉は持てるか——日銀総裁の反対を押し切って選んだ千葉の埋立地",
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          "label": "概要",
          "text": "1951年2月、川崎製鉄は千葉市南方海岸の埋立地で銑鋼一貫の千葉製鉄所の建設に着手した。前年に川崎重工業から分離したばかりの資本金5億円の新会社が、高炉から圧延までを一つの工場でつなぐ製鉄所を新設する計画であった。"
        },
        {
          "label": "背景",
          "text": "川崎製鉄は薄鋼板と高級仕上鋼板で国内首位を占めながら、銑鉄を他社から買う平炉メーカーであった。既設設備だけでは質・量・原価のいずれでも合理化の限界にきており、朝鮮動乱後の需要増も老朽設備をフル稼働させて凌いでいた。"
        },
        {
          "label": "内容",
          "text": "最終目標はホットストリップミルとコールドストリップミル各1基、これに原材料を連続供給する製銑・製鋼・分塊の各設備。第1期工事に熔鉱炉700トン1基・平炉100トン3基・コークス炉・分塊圧延機を据えた。資金は倍額増資の三度の繰り返しと協調融資、のちに世界銀行の借款で賄った。"
        },
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          "label": "含意",
          "text": "日本銀行の一万田尚登総裁は「ペンペン草を生やす」と反対したが、西山弥太郎社長は押し切った。1953年6月に第1高炉が火入れし、1958年に熱間・冷間の連続圧延機がそろって、日本の鉄鋼業近代化のさきがけと評された。"
        }
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          "name": "川崎製鉄",
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            "note": "1950年8月に川崎重工業の製鉄部門が分離独立して発足。着工時の資本金5億円、薄鋼板・高級仕上鋼板で国内首位の平炉メーカー"
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          "title": "川崎重工業から製鉄部門が分離独立し、資本金5億円で川崎製鉄が発足"
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          "title": "千葉製鉄所の第1高炉が火入れ"
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          "title": "世界銀行が1,000トン高炉・コークス炉向けに800万ドルの貸出を決定"
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        "fiscal_year": "1954年度（会社銀行八十年史1955年版 記載時点）",
        "source": "会社銀行八十年史（東洋経済新報社、1955年）2篇 日本会社史 34_鉄鋼「川崎製鉄」",
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                  "text": "川崎製鉄は1950年8月、川崎重工業の製鉄部門が分離独立して発足した。源流は1907年、川崎造船所が造船用鋼材の自給と車輌製造を目的に兵庫東尻池へ開いた兵庫工場にさかのぼり、第一次大戦期には神戸市脇浜の埋立地に葺合工場を設けている。膨張した製鉄部門が、直接の関連の薄い造船業と同じ経営の傘下にあることには種々の障害があり、基幹産業として健全に発達させるため、川崎重工業はこれを第二会社として切り離した。資本金は5億円、初代社長には西山弥太郎氏が就いた。",
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                      "fact": "1950年8月、川崎重工業から製鉄部門を分離し資本金5億円の第二会社として川崎製鉄が創立、初代社長は西山弥太郎",
                      "原文": "膨脹発展してきた製鉄部門が、直接関連性の少ない造船業と総合経済経営傘下にあることは種種の障害があるので、それを取り除き、かつ基幹産業としての健全な発達を図るため、二十五年八月前述のように川崎重工業からその製鉄部門を分離、第二会社として資本金五億円の当社が創立され、初代社長には西山弥太郎氏が就任した。",
                      "source": "会社銀行八十年史（東洋経済新報社、1955年）2篇 日本会社史 34_鉄鋼「川崎製鉄」",
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                {
                  "text": "戦後の生産は1946年に年3万トンまで落ち込んだが、1950年には33万トンへ回復した。普通鋼圧延鋼材の生産量では全国第4位にとどまる一方、薄鋼板と高級仕上鋼板ではそれぞれ第1位を占めていた。輸入に頼っていた薄鋼板の圧延に1924年に成功して以来の蓄積があり、圧延の工程では先発の大手に伍していた。ただし高炉を持たず銑鉄を他社から買う平炉メーカーであり、鉄鉱石から鋼材までを一つの工場でつなぐ力は持たなかった。",
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                      "fact": "1946年に年3万トンへ激減した生産は1950年に33万トンへ回復し、普通鋼圧延鋼材は全国第4位、薄鋼板・高級仕上鋼板は第1位であった",
                      "原文": "生産高も二十一年には年間三万屯に激減していたが、その後逐年増加し、二十五年には年間三十三万屯と飛躍的に増大した。このうち普通鋼圧延鋼材の全生産量では全国第四位であつたが、薄鋼板、高級仕上鋼板の製品ではそれぞれ第一位を占めた。",
                      "source": "会社銀行八十年史（東洋経済新報社、1955年）2篇 日本会社史 34_鉄鋼「川崎製鉄」",
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                      "原文": "十三年にはわが国において最も多くの需要がありながら、製造困難のため殆んど全部を輸入に仰いでいた薄鋼板の圧延製造に初めて成功し、非常な好評を博した。",
                      "source": "会社銀行八十年史（東洋経済新報社、1955年）2篇 日本会社史 34_鉄鋼「川崎製鉄」",
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                  "text": "設備の改善合理化には努めてきたものの、既設設備のみでは質的にも量的にも、原価の面でも合理化の限界にきていた。とりわけ主製品の薄板は近代生活の必需資材であり、増える需要にこたえ、輸出産業としての使命を果たすには大量生産方式によるストリップミルが要る。ストリップミルは鋼片を高速で連続圧延する設備で、原材料を高速度かつ連続的に供給する製銑・製鋼・分塊の設備がそろわなければ能力を出しきれない。圧延だけを新しくしても、素材を外から買う限り原価は他社次第であった。",
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                      "原文": "さて当社は、設備の改善合理化には常に努力を傾注してきたが、既設設備のみでは質的、量的、または原価的にも合理化の限界にきていた。ことに主製品である薄板は近代生活の必需資材であり、その増大する需要にこたえ、また輸出産業としての使命をも達成する必要から、大量生産方式によるストリップミルの建設を企図し、",
                      "source": "会社銀行八十年史（東洋経済新報社、1955年）2篇 日本会社史 34_鉄鋼「川崎製鉄」",
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                {
                  "text": "1950年6月の朝鮮動乱がもたらした特需と内外市場の急拡大は経営者層を刺激し、戦後初めて企業が意欲的に近代化・合理化に乗り出す契機となった。もっとも当初の生産増加は、運転資金と原料を注ぎ込んで既存の設備をフルに動かして得たものであった。鉄鋼をはじめ残存能力の比較的大きかった重工業部門では老朽設備が圧倒的に多く、この事情がその後の技術近代化を必然のものとした。1951年には42社を含む鉄鋼第一次合理化計画が発足している。",
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                    {
                      "fact": "朝鮮動乱の特需は経営者層を刺激したが、当初の増産は既存設備のフル稼働によるもので、老朽設備の多さがその後の技術近代化を必然化した",
                      "原文": "動乱ブームは金属、機械、化学などの生産財部門に活況をもたらしたが、当初の生産増加は主として運転資金と原料を注ぎ込んで既存の設備をフルに動かすことで得られたものだった。〔中略〕鉄鋼をはじめ残存能力が比較的大きかった重工業部門では老朽設備が圧倒的に多かった。このような事情が特需も輸出も停滞した二十六年上期を経てその後の技術近代化を必然化した。",
                      "source": "日本産業史 第2巻（日本経済新聞社、1994年）「朝鮮動乱の刺激」",
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                      "原文": "二十六年から四二社を含む鉄鋼第一次合理化計画が発足した。",
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          "label": "決断",
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              "sub_title": "千葉の埋立地に一から建てる",
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                  "text": "1951年2月、川崎製鉄は千葉市南方海岸の埋立地で建設に着手した。恵まれた立地条件を持つ土地に、最新鋭の銑鋼一貫工場を目ざす計画であった。最終目標はホットストリップミルとコールドストリップミル各1基、これに対応する原材料を高速度かつ連続的に供給する製銑・製鋼・分塊の各設備。第1期工事には熔鉱炉700トン1基、平炉100トン3基、コークス炉1基、分塊圧延機1基と所要の付帯設備一式を据えた。会社が発足してから、まだ半年しか経っていなかった。",
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                      "原文": "二十六年二月恵まれた立地条件を持つ千葉市南方海岸埋立地に、最新鋭の銑鋼一貫工場を目ざして建設に着手した。これが千葉製鉄所である。同製鉄所建設計画の最終目標はホットストリップミル、コールドストリップミル各一基と、これに対応する原材料を高速度かつ連続的に供給するための付帯設備として、製銑、製鋼、分塊等の各設備を新設するにあるが熔鉱炉(七百屯)一基、平炉(百屯)三基、コークス炉一基、分塊圧延機一基および所要付帯設備一式を第一期工事として二十九年九月完成、それぞれ稼動に入つた。",
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                {
                  "text": "資金は増資で積み上げた。発足時に5億円だった資本金は1951年に10億円、1952年に20億円、1953年には40億円と、倍額増資を三度重ねて8倍になり、これらはおもに千葉製鉄所の新設資金へ充てられている。ただし着工の前年には株式市場が不振で増資は困難であり、見返り資金の支出も遅れて産業界の要望に応じきれていなかった。設備金融の日本開発銀行の開業は1951年5月15日、長期輸出金融の日本輸出銀行は同年2月1日で、いずれも着工とほぼ同じ時期であった。",
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                      "fact": "資本金は1951年10億円、1952年20億円、1953年40億円と倍額増資を重ね、おもに千葉製鉄所の新設資金に充当された",
                      "原文": "その後資本金は二十六年十億円、二十七年二十億円、さらに二十八年には四十億円とそれぞれ倍額増資を重ね、これらはおもに後述の千葉製鉄所新設資金に充当した。",
                      "source": "会社銀行八十年史（東洋経済新報社、1955年）2篇 日本会社史 34_鉄鋼「川崎製鉄」",
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                      "原文": "当時株式市場(証券取引所の再開は二十四年五月十六日)は不振で増資は困難であり、また見返り資金の支出は遅延して産業界の要望に応じえなかった。〔中略〕見返り資金出資を基礎にして二十六年二月一日、長期輸出金融のための「日本輸出銀行」(のちの「日本輸出入銀行」)、さらに二十六年五月十五日、設備金融のための「日本開発銀行」が開業した。",
                      "source": "日本産業史 第2巻（日本経済新聞社、1994年）「朝鮮動乱の刺激」",
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              "sub_title": "「ペンペン草を生やす」という反対",
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                  "text": "日本銀行総裁の一万田尚登氏は「ペンペン草を生やす」と述べて反対したが、西山弥太郎社長はそれを押し切って千葉の銑鋼一貫工場を進めた。同じころ一貫体制を求めた他社は、すでに高炉を持つ会社を買う道を選んでいる。住友金属工業が小倉製鋼を合併して銑鋼一貫体制をとったのは1952年12月で、当時の合併としては最も顕著な例とされた。川崎製鉄は買わずに、埋立地へ一から建てる道を選んだ。",
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                      "原文": "二十八年六月には「ペンペン草を生やす」という一万田日銀総裁の反対を押し切って設立された「川崎製鉄」(西山弥太郎社長)の千葉銑鋼一貫工場の第一高炉が火入れを行ない、",
                      "source": "日本産業史 第2巻（日本経済新聞社、1994年）「朝鮮動乱の刺激」",
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                      "原文": "十二月には「住友金属」が「小倉製鋼」を合併して銑鋼一貫体制をとつたのは最も顕著な合併の例だった。",
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                {
                  "text": "資金の出し手にとっても難しい案件であった。川崎製鉄を主要な融資先とする第一銀行で審査を担当した井上薫氏は、当時、企業が競って海外の最新技術を導入し、できるだけ多くの資金を調達して設備の拡充へ振り向けたと振り返っている。技術担当者から直接説明を受けても「ひとつひとつの技術の評価は難しく、結局は経営者が信用できる人であるかどうかを判断の基準とせざるを得なかった」。大規模な計画は一行では賄いきれず、複数の銀行が歩調を合わせる協調融資が通常の方式になった。",
                  "evidences": [
                    {
                      "fact": "第一銀行審査部の井上薫は、新技術の評価が難しく、融資可否は結局「経営者が信用できる人であるかどうか」を基準とせざるを得なかったと述懐している",
                      "原文": "私は毎日のように企業の幹部や技術担当者にお会いし、新技術導入の説明を受けた。その折の皆さんの真剣なまなざし、熱っぽい口ぶりは今でも忘れられない。それでもひとつひとつの技術の評価は難しく、結局は経営者が信用できる人であるかどうかを判断の基準とせざるを得なかった。当然のように貸し出しは増えていった。大規模なプロジェクトになると一銀行では賄いきれず、複数の銀行が歩調を合わせて融資する協調融資という融資方式が通常的な形式となった。",
                      "source": "私の履歴書 経済人22「井上薫」（日本経済新聞社, 1987）",
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                {
                  "text": "1953年6月、千葉製鉄所の第1高炉が火入れした。着工から2年4カ月であった。第1期工事は1954年9月に完成し、熔鉱炉・平炉・コークス炉・分塊圧延機がそれぞれ稼働に入っている。これによって川崎製鉄は、従来の平炉メーカーから銑鋼一貫メーカーへ移った。もっとも、戦後最初の連続式ストリップミルが動き始めたのは1954年1月の富士製鉄広畑で、圧延の近代化そのものでは先を越されている。千葉が最終目標に届くには、なお数年を要した。",
                  "evidences": [
                    {
                      "fact": "1953年6月に千葉の第1高炉が火入れし、1954年1月には富士製鉄広畑で戦後最初の連続式ストリップミルが稼働した",
                      "原文": "二十八年六月には〔中略〕千葉銑鋼一貫工場の第一高炉が火入れを行ない、二十九年一月には戦後最初の連続式ストリップミルが富士製鉄広畑で動き始めた。",
                      "source": "日本産業史 第2巻（日本経済新聞社、1994年）「朝鮮動乱の刺激」",
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                    {
                      "fact": "1954年9月に第1期工事が完成し、従来の平炉メーカーから銑鋼一貫メーカーへ移行した",
                      "原文": "第一期工事として二十九年九月完成、それぞれ稼動に入つた。これによつて当社は、従来の平炉メーカーから、銑鋼一貫メーカーとしてさらに重きを加えるに至つた。",
                      "source": "会社銀行八十年史（東洋経済新報社、1955年）2篇 日本会社史 34_鉄鋼「川崎製鉄」",
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                },
                {
                  "text": "千葉の建設と並行して、既存の各工場にも設備を足している。葺合工場に亜鉛鍍金設備と酸素・水素・アセチレンの各工場、西宮工場に連続式帯鋼圧延機と鋼管工場、知多工場に特殊ロール工場を新設し、千葉製鉄所ではワイヤロープ・熔接棒・メタルラスの工場を立てた。1955年の時点で製品は30種に及び、年間生産実績は50万トン、販売金額は250億円を超えている。輸出の比重は比較的大きく、販売のおよそ25%を占めた。",
                  "evidences": [
                    {
                      "fact": "各工場の二次製品分野への進出を並行して進め、製品30種・年間生産50万トン・販売金額250億円超、輸出は販売の約25%を占めた",
                      "原文": "かくして当社製品は現在三十種に及び、年間生産実績は五十万屯、販売金額では二百五十億円を越えるに至つた。なお販売部門においては輸出の占める比重は比較的大きく、その約二五%に達している。",
                      "source": "会社銀行八十年史（東洋経済新報社、1955年）2篇 日本会社史 34_鉄鋼「川崎製鉄」",
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            },
            {
              "sub_title": "世界銀行の借款と「近代化のさきがけ」",
              "paragraphs": [
                {
                  "text": "最終目標のストリップミルには世界銀行の資金が入った。1956年12月19日、千葉工場のホットおよびコールドストリップミルに充てる2,000万ドルの貸出が決まり、1958年1月29日には1,000トン高炉とコークス炉向けの800万ドルが続いた。世界銀行の記録は、同社の資本に比べて巨額の借入であり、返済には生産能力の大幅な向上が不可欠だったことから、日本銀行も少なからず懸念を表明したと記している。着工から7年を経てなお、金融の側の警戒は解けていなかった。",
                  "evidences": [
                    {
                      "fact": "世界銀行は1956年12月19日に2,000万ドル、1958年1月29日に800万ドル、1960年12月20日に600万ドルを貸し出し、日本銀行も懸念を表明していた",
                      "原文": "ストリップミルプロジェクト（千葉工場ホット及びコールド）1956年12月19日 2000万米ドル／高炉プロジェクト（千葉工場1,000トン高炉及びコークス炉）1958年1月29日 800万米ドル／千葉工場厚板工場新設 1960年12月20日 600万米ドル。同社の資本対比で巨額な借入であったことや、生産能力の大幅な向上が、借入金を滞り無く返済するために不可欠だったことから、日本銀行も少なからず懸念を表明。",
                      "source": "世界銀行「日本が世界銀行から貸出を受けた31のプロジェクト 川崎製鉄千葉工場」",
                      "url": "https://www.worldbank.org/ja/country/japan/brief/31-projects-kawasaki-steel"
                    }
                  ]
                },
                {
                  "text": "千葉に熱間連続圧延機と冷間連続圧延機がそろったのは1958年である。米国から技術を導入して千葉に完成させたこの設備を、第一銀行で審査にあたった井上薫氏は「日本の鉄鋼業近代化のさきがけと評された」と書き残している。井上氏は第1高炉の火入れ式にも出席し、西山社長にとって感慨深い火入れ式だったろうと述べた。厚板工場向けの600万ドルを加えた3回の借款は総額3,400万ドルに達し、粗鋼の生産能力は1956年の43万トン規模から1960年に158万トン規模へ広がった。",
                  "evidences": [
                    {
                      "fact": "川崎製鉄が米国のホットストリップミル・コールドストリップミルの技術を導入して1958年に千葉へ完成させた設備は、日本の鉄鋼業近代化のさきがけと評された",
                      "原文": "第一銀行の主要な融資先である川崎製鉄が、米国のホット・ストリップ・ミル(熱間連続圧延機)やコールドストリップ・ミル(冷間連続圧延機)の技術を導入し、高品質にして生産性の高い設備を千葉に完成したのが三十三年。これは日本の鉄鋼業近代化のさきがけと評された。その第一号高炉の火入れ式は初夏の暑い日だった。私も出席したが、西山弥太郎社長にとっては感慨深い火入れ式だったろうと思う。",
                      "source": "私の履歴書 経済人22「井上薫」（日本経済新聞社, 1987）",
                      "url": null
                    },
                    {
                      "fact": "3回の借款は総額3,400万ドルに達し、粗鋼の生産能力は1956年の43万トン規模から1960年に158万トン規模へ拡大した",
                      "原文": "3回に渡る総額3400万ドル規模の貸出。粗鋼の生産能力は1956年当時の43万トン規模から1960年には158万トン規模まで大幅に拡大。",
                      "source": "世界銀行「日本が世界銀行から貸出を受けた31のプロジェクト 川崎製鉄千葉工場」",
                      "url": "https://www.worldbank.org/ja/country/japan/brief/31-projects-kawasaki-steel"
                    }
                  ]
                }
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            },
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              "sub_title": "買わずに建てるという選び方",
              "editorial": true,
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                {
                  "text": "「ペンペン草を生やす」と反対した日本銀行の一万田尚登総裁の見立ては、当時の相場観として無理のないものであった。会社は発足して半年、資本金は5億円、実績は圧延の工程に限られていた。銑鉄を買う立場から、埋立地で鉄鉱石を受けて圧延までを自前で回す立場へ移ることは、工程を足すのではなく会社の形を変える話であった。西山弥太郎社長がそれを押し通せたのは、薄鋼板と高級仕上鋼板で国内首位を占めながら素材の原価だけは他社次第という不均衡を、圧延の現場で長く見ていたからだとみられる。"
                },
                {
                  "text": "とはいえ、自力の資金で建てた製鉄所ではない。5億円で発足した資本金は倍額増資を三度重ねて40億円になり、それでも足りずに複数行の協調融資と、1956年から1958年にかけて2,800万ドルの世界銀行借款が要った。圧延の近代化そのものでも、戦後最初の連続式ストリップミルは1954年1月に富士製鉄広畑が先に動かしている。融資の可否を「経営者が信用できる人であるかどうか」で決めざるを得ないと井上薫氏が書いた時代に、7年にわたって資金が途切れなかったこと自体が、この計画の後ろ盾だった。"
                }
              ]
            }
          ]
        }
      ],
      "references": [
        "会社銀行八十年史（東洋経済新報社、1955年）2篇 日本会社史 34_鉄鋼「川崎製鉄」",
        "日本産業史 第2巻（日本経済新聞社、1994年）「朝鮮動乱の刺激」",
        "私の履歴書 経済人22「井上薫」（日本経済新聞社, 1987）",
        "世界銀行「日本が世界銀行から貸出を受けた31のプロジェクト 川崎製鉄千葉工場」"
      ],
      "authored": "2026-07",
      "last_updated": "2026-07-27"
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    {
      "slug": "mizushima-works-1961",
      "url": "/tse/5403/decisions/mizushima-works-1961/",
      "year": 1961,
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      "stock_code": "5403",
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      "title": "岡山県倉敷市への水島製鉄所の建設と、千葉・水島の二極体制への移行",
      "subtitle": "千葉を広げるか、西日本にもう一つ製鉄所を築くか——後発メーカーが選んだ規模の作り方",
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          "text": "1961年7月、川崎製鉄が岡山県倉敷市の埋立地に水島製鉄所を開設し、千葉と水島に銑鋼一貫製鉄所を一つずつ置く二極体制へ移った経営判断。西山弥太郎社長のもとで決まり、水島はのちに高炉4基・粗鋼年産1,200万トン体制の製鉄所になった。"
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        {
          "label": "背景",
          "text": "戦後の日本の粗鋼生産は1959年にフランス、1961年にイギリスを追い抜いて伸び、川崎製鉄の生産も1951年度の49万6,000トンから拡大した。製鉄所の競争力は規模と経済性で決まり、千葉一つでは需要の伸びに追いつかなくなっていた。"
        },
        {
          "label": "内容",
          "text": "高梁川の河口を埋め立てて新製鉄所を開き、高炉を一基ずつ足す設計をとった。1970年に3号高炉（3,363立方メートル）、1974年に4号高炉（4,323立方メートル）が加わり、4号の新設に際しては千葉3号・水島2号・水島1号の休廃止を引き受けた。"
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          "label": "含意",
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          "title": "川崎重工業から製鉄部門を分離独立し、川崎製鉄が発足"
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                  "text": "川崎製鉄は1950年、川崎重工業の製鉄部門を分離独立して設立された。神戸の葺合工場を出発点とする会社が、戦後になって千葉に臨海一貫製鉄所を築き、そこで薄板を作った。1961年4月期の半期売上を製品別に見ると、ホットストリップ・コールドストリップ製品が41.7%を占め、厚鋼板16.3%、けい素鋼板・けい素鋼帯11.9%、亜鉛鉄板5.8%が続く。売上の主力は、この時点で千葉の圧延ラインから出ていた。",
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                      "fact": "川崎製鉄は1950年に川崎重工業の製鉄部門を分離独立して設立され、神戸の葺合工場を元祖に千葉製鉄所を築いた",
                      "原文": "当社は、昭和25年、川崎重工業の製鉄部門を分離独立して設立され、昭和50年で創業25周年を迎える。本社は神戸にあり、本社工場といわれた葺合工場を元祖として、東西に大きな銑鋼一貫製鉄所を持っている。",
                      "source": "証券アナリストジャーナル 1975年1月号「川崎製鉄」（川出千速）",
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                    {
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                      "原文": "1961年4月期（半期）の製品別売上は、ホットストリップ・コールドストリップ製品18,987,815千円（41.7%）、その他11,093,812千円（24.3%）、厚鋼板7,416,154千円（16.3%）、けい素鋼板・けい素鋼帯5,424,109千円（11.9%）、亜鉛鉄板2,638,692千円（5.8%）。",
                      "source": "株式会社年鑑（昭和37年版）「川崎製鉄」",
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                    }
                  ]
                },
                {
                  "text": "日本の粗鋼生産は1953年に戦前最高だった1943年の765万トンを突破し、1959年にフランス、1961年にイギリス、1964年に西ドイツを追い抜いて、世界第3位の鉄鋼生産国になった。川崎製鉄自身の粗鋼生産は1951年度に49万6,000トンしかない。市場が年ごとに膨らむなかで、千葉の増設だけで伸びに追いつけるかどうかが、経営の課題になった。",
                  "evidences": [
                    {
                      "fact": "日本の粗鋼生産は1953年に戦前最高の765万トンを突破し、1959年フランス、1961年イギリス、1964年西ドイツを抜いて世界第3位となった。川崎製鉄の粗鋼生産は1951年度に49万6,000トン",
                      "原文": "戦後、日本の鉄鋼生産はめざましい伸びを示し、昭和28年にはすでに戦前の最高生産記録（昭和18年粗鋼生産765万トン）を突破した。昭和34年にはフランスを、昭和36年にはイギリスを、昭和39年には西ドイツを追い抜いて、世界第3位の鉄鋼生産国になった。／当社は、昭和26年度には49万6,000トンだった",
                      "source": "証券アナリストジャーナル 1975年1月号「川崎製鉄」（川出千速）",
                      "url": null
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            },
            {
              "sub_title": "新鋭臨海製鉄所という時代の型",
              "paragraphs": [
                {
                  "text": "のちに川出千速専務は、鉄鋼メーカーの競争力は基本的に製鉄所の規模とその経済性にかかっており、高炉は大きいほど効率がよくコストが下がる、と説明している。国際的に一貫製鉄所の経済規模とされるのは粗鋼年産600万トン以上で、この水準の製鉄所は1974年時点で世界に24あった。うち9を日本が持ち、八幡製鉄所を除けばすべて戦後に建設された臨海製鉄所であった。",
                  "evidences": [
                    {
                      "fact": "製鉄所の競争力は規模と経済性で決まり、経済規模とされる粗鋼年産600万トン以上の製鉄所は世界に24、うち日本が9を持ち、八幡製鉄所を除きすべて戦後建設の新鋭臨海製鉄所であった",
                      "原文": "鉄鋼メーカーの競争力は、基本的には製鉄所の規模とその経済性にかかっている。国際的に一貫製鉄所の経済規模とされる粗鋼年産能力600万トン以上の製鉄所は、世界で24ある。このうち日本が9製鉄所を持ち最も多いが、外国の製鉄所は、戦前からの工場が多いのに対し、日本は八幡製鉄所を除いて、すべて戦後に建設された新鋭臨海製鉄所である。",
                      "source": "証券アナリストジャーナル 1975年1月号「川崎製鉄」（川出千速）",
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                },
                {
                  "text": "同じ型の投資を、各社が1960年代に繰り返した。日本鋼管福山、八幡製鉄君津、神戸製鋼所加古川、住友金属工業鹿島が相次いで稼働し、昭和40年代前半の粗鋼内需は年率19.6%、生産も17.8%という伸びを示す。設備の巨大化と技術革新が、かつてない規模で競って行われた時期にあたる。川崎製鉄が倉敷で新しい製鉄所を開いたのは、その競争が本格化する前であった。",
                  "evidences": [
                    {
                      "fact": "昭和40年代前半の粗鋼内需は年率19.6%、生産17.8%で伸び、日本鋼管福山・川崎製鉄水島・八幡製鉄君津・神戸製鋼所加古川・住友金属工業鹿島などが新規に稼働した",
                      "原文": "四十年代前半の粗鋼内需は年率一九・六%、生産も一七・八%という高い伸びを示し、新鋭製鉄所の稼動や連鋳設備の増設など、設備の巨大化や技術革新などもかつてない規模で競って行われた。この間新規に稼働したのは日本鋼管福山、川崎製鉄水島、八幡製鉄君津、神戸製鋼所加古川、住友金属工業鹿島などの各製鉄所であり",
                      "source": "日本産業史 第3巻（日本経済新聞社, 1994年）「鉄鋼－新日鉄誕生し、業界安定期に」",
                      "url": null
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            }
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        },
        {
          "section": "origin",
          "label": "決断",
          "subsections": [
            {
              "sub_title": "高梁川の河口に開いた第二の製鉄所",
              "paragraphs": [
                {
                  "text": "1961年7月、川崎製鉄は岡山県倉敷市に水島製鉄所を開設した。決めたのは、千葉を実現させた西山弥太郎社長である。神戸に本社を置く会社が、東と西に銑鋼一貫製鉄所を一つずつ持つ配置をとった。以後の大型投資は、この二つの製鉄所に集められる。水島は開設時点では小さな製鉄所にすぎず、高炉4基を擁するまでには十年以上を要した。作った品種は厚板、薄板、H形鋼、棒鋼、線材、鋳鍛鋼と幅広く、薄板に寄っていた千葉とは性格が異なる。",
                  "evidences": [
                    {
                      "fact": "水島製鉄所は1961年（昭和36年）に岡山県で開設され、川崎製鉄は東西に銑鋼一貫製鉄所を持つ体制となった",
                      "原文": "岡山県の水島製鉄所は昭和36年に開設され、現在ほぼ完成に近づいているが、高炉を4基持ち、厚板、薄板、H形鋼、棒鋼、線材、鋳鍛鋼など、いろいろの製品を多角的につくっている。",
                      "source": "証券アナリストジャーナル 1975年1月号「川崎製鉄」（川出千速）",
                      "url": null
                    }
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                },
                {
                  "text": "新製鉄所の実体は、まず埋立と造成であった。造船所の候補地を探していた川崎重工業の砂野仁社長が1962年に相談すると、すでに水島で工場用地の造成を進めていた西山社長は、高梁川の西側にあるE地区を勧めた。川崎重工業は陸地との接続に120万平方メートル近い用地が要ること、西風が強く防波堤もいること、ヘドロ層が厚く4億円の漁業補償費を立て替えねばならないことを挙げ、1964年7月に断りを入れている。",
                  "evidences": [
                    {
                      "fact": "造船所用地を探していた川崎重工業が西山弥太郎社長に相談したところ、すでに水島で用地造成を進めていた西山社長は高梁川西側のE地区を勧めた",
                      "原文": "川鉄の西山社長に相談すると、すでに岡山県水島に工場用地の造成を進めつつあった西山さんは、高梁川の西側、E地区にきたらどうかと言う。造船関係者が幾度か現地に出向いて調査を進めた。私も現地の検分に出かけた。土地の値段は格安であったが、土質はヘドロ層が比較的厚いため、工事は相当困難であるということが明らかになった。",
                      "source": "私の履歴書 経済人12「砂野仁」（日本経済新聞社）",
                      "url": null
                    },
                    {
                      "fact": "川崎重工業は120万平方メートル近い用地・防波堤・4億円の漁業補償費立替を理由に、1964年7月に岡山県へ断りを入れた",
                      "原文": "造船所を建設するとなれば陸地との接続関係で百二十万平方メートル近くの土地が必要になる。そのうえ西風が強いので、防波堤もいる。四億円の漁業補償費を立て替えなくてはならないなど、条件が悪いので、はっきりお断わりした。",
                      "source": "私の履歴書 経済人12「砂野仁」（日本経済新聞社）",
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                }
              ]
            },
            {
              "sub_title": "高炉を一基ずつ足す設計",
              "paragraphs": [
                {
                  "text": "水島は完成形を先に作らず、需要の伸びに合わせて高炉を足す設計をとった。1969年度の設備調整は1973年度の粗鋼生産を1億1,160万トンと予測して行われ、そこで3号高炉が認められる。1970年に稼働した3号高炉の炉内容積3,363立方メートルは、1965年時点の2,000立方メートルを上回った。転炉も170トンから250トンの時代へ移った。高炉を一基ずつ足す設計は、開設から十年でこの水準に届いている。",
                  "evidences": [
                    {
                      "fact": "1969年度の設備調整で水島3号炉が認められ、1970年に稼働した水島3号炉の炉内容積3,363立方メートルは1965年時の2,000立方メートルを上回り、転炉も170トンから250トンへ大型化した",
                      "原文": "四十五年に稼動した川鉄水島三号炉の炉内容積は三三六三立方メートルと四十年時の二〇〇〇立方メートルを大きく上回るものであり、転炉も一七〇トンの時代から二五〇トンの時代へと大型化が進んだ。／四十四年度の設備調整は四十八年度の粗鋼生産を一億一一六〇万トンと予測して行われ、川鉄水島三号炉、住金鹿島一号炉、鋼管福山四号炉もこの時認められた。",
                      "source": "日本産業史 第3巻（日本経済新聞社, 1994年）「鉄鋼－新日鉄誕生し、業界安定期に」",
                      "url": null
                    }
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                },
                {
                  "text": "増設は自由な投資ではなかった。産業構造審議会の鉄鋼部会は1967年度から設備調整を始めている。1971年度の調整で水島4号高炉の4,323立方メートルが認められたとき、公正取引委員会の了解のもとで休廃止ルールが取り決められた。川崎製鉄は4号高炉の新設と引き換えに、千葉3号高炉（1,686立方メートル）、水島2号高炉（2,857立方メートル）、水島1号高炉（2,156立方メートル）の休廃止を引き受ける。小さな高炉を三つ畳んで、大きな一つに置き換える取引であった。",
                  "evidences": [
                    {
                      "fact": "産業構造審議会鉄鋼部会は1967年度から設備調整を始め、1971年度の調整で水島4号炉4,323立方メートルが認められた際、公取委の了解を得た休廃止ルールにより川鉄は千葉3号炉・水島2号炉・水島1号炉の休廃止を引き受けた",
                      "原文": "四十二年度の産業構造審議会鉄鋼部会では学識経験者、業界、需要業界などの代表二一人からなる委員会で設備調整を図ることになり、高炉を中心とする一貫製鉄所の拡張の足並みが揃うようになった。／四十六年度には五十年度粗鋼需要一億五〇〇〇万トンを目標として設備調整が行われ、鹿島二号炉、水島四号炉、福山五号炉、君津四号炉の四基が認められた。この時公取委の了解を得て休廃止ルールが取り決められ、（中略）川鉄は水島四号炉（四三二三立方メートル）に対し千葉三号炉（一六八六立方メートル）・水島二号炉（二八五七立方メートル）・水島一号炉（二一五六立方メートル）を（中略）休止させた。",
                      "source": "日本産業史 第3巻（日本経済新聞社, 1994年）「鉄鋼－新日鉄誕生し、業界安定期に」",
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            }
          ]
        },
        {
          "section": "outcome",
          "label": "結果",
          "subsections": [
            {
              "sub_title": "世界第3位の製鉄所と、そのコスト",
              "paragraphs": [
                {
                  "text": "1974年12月、川出千速専務は水島の到達点をこう説明している。高炉4基、粗鋼年産1,200万トン体制であり、ソ連のマグニト・ゴルスク製鉄所（粗鋼年産1,450万トン）に次ぐ世界第3位の製鉄所にあたる。ただしそれは4本の高炉がすべて稼働し、対応する製鋼・圧延部門が増強された段階の能力で、当時の稼働能力は950万〜960万トンにとどまった。完成までなお2年、既設分を含む設備投資額は6,500億円に達する見込みであった。",
                  "evidences": [
                    {
                      "fact": "水島製鉄所は粗鋼年産1,200万トン体制で世界第3位の規模だが、1974年末の稼働能力は950万〜960万トン、完成まで2年・設備投資額は6,500億円の見込み",
                      "原文": "世界最大の製鉄所は、粗鋼年産6,000万トン体制を確立した日本鋼管の福山製鉄所である。その次がソ連のマグニト・ゴルスク製鉄所（粗鋼年産1,450万トン）第3位が当社の水島製鉄所（粗鋼年産1,200万トン）となっている。ただ、当社水島製鉄所の場合、現在ある4本の高炉が全部稼動し、それに対応する製鋼、圧延部門が増強された段階の能力で、現在の稼働能力としては950〜960万トン程度である。／その完成時点では、既設のものも含めて6,500億円くらいの設備投資額に達しよう。",
                      "source": "証券アナリストジャーナル 1975年1月号「川崎製鉄」（川出千速）",
                      "url": null
                    }
                  ]
                },
                {
                  "text": "規模の代償は原価に出た。千葉のトン当たり設備費4万6,000円に対し、水島は5万4,000円と見込まれ、後から築いた製鉄所のほうが割高になっている。もっとも、当時の世界のトン当たり設備費は15万〜20万円まで上がっており、日本の設備費の安さは競争上の武器であった。1975年4月には水島で幅5.35メートルの広幅厚板工場が稼働し、今後1年半に完成する厚板工場は水島だけといわれた。",
                  "evidences": [
                    {
                      "fact": "千葉のトン当たり設備費4万6,000円に対し水島は5万4,000円見当、世界のトン当たり設備費は15〜20万円に上昇。1975年4月に水島で幅5.35メートルの広幅厚板工場が稼働",
                      "原文": "現在の千葉製鉄所のトン当たり設備費4万6,000円に対し、水島製鉄所のそれは5万4,000円見当になると見ている。これが最近では世界的にトン当たり設備費が15〜20万円になっているのは前述のとおりである。／昭和50年4月には、世界最大の幅5.35メートルの厚板がつくれる広幅厚板工場が完成、稼働を開始することになる。（中略）今後1年半ぐらいの間に完成するのは、当社水島の厚板工場だけといわれている",
                      "source": "証券アナリストジャーナル 1975年1月号「川崎製鉄」（川出千速）",
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                }
              ]
            },
            {
              "sub_title": "二極体制が支えた不況耐性",
              "paragraphs": [
                {
                  "text": "二つの製鉄所が出す量は、ひもつき中心の販売がさばいた。川出専務は1974年12月の質疑で、川崎製鉄のひもつきは8割、店売りは2割であり、そのひもつきも後発メーカーだった関係上、普通なら細かくて店売りになるものもひもつきにしているので不況には強い体質になっている、と述べている。1975年1〜3月の減産ガイドポストに対しても、あまり減産は考えていないと答えた。",
                  "evidences": [
                    {
                      "fact": "川崎製鉄の販売はひもつき8割・店売り2割で、後発メーカーゆえに細かい玉もひもつきにしており不況に強い体質だと川出専務が述べた",
                      "原文": "当社は、小口のひもつきをたくさん持っているので、あまり減産は考えていない。当社のひもつきは8割、店売り2割で、そのひもつきも後発メーカーだった関係上、普通ならこまかくて店売りになるものも、ひもつきにしているので、不況には強い体質になっている。",
                      "source": "証券アナリストジャーナル 1975年1月号「川崎製鉄」（川出千速）",
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                },
                {
                  "text": "数字はその後も揺れた。1975年3月期の単体売上高は8,795億円、経常利益365億円であったが、翌1976年3月期は経常71億円の赤字に落ちる。同じ1975年3月期の製品構成は鋼板64%、鋼管13%、条鋼12%で、薄板に寄った性格は水島を加えても変わらなかった。1979年3月期には売上高9,609億円、経常利益402億円まで戻り、千葉と水島の二極体制は高成長期の終わりを越えて残った。",
                  "evidences": [
                    {
                      "fact": "単体業績は1975年3月期に売上8,795億円・経常365億円、1976年3月期は経常71億円の赤字、1979年3月期は売上9,609億円・経常402億円",
                      "原文": "1975年3月期の単体売上高8,795億円・経常利益365億円、1976年3月期の単体売上高8,249億円・経常利益△71億円、1979年3月期の単体売上高9,609億円・経常利益402億円。",
                      "source": "会社年鑑（1976年版ほか各年版）「川崎製鉄」",
                      "url": null
                    },
                    {
                      "fact": "1975年3月期の製品別売上構成は鋼板64%、鋼管13%、条鋼12%、めっき鋼板6%、その他6%",
                      "原文": "1975年3月期（半期）の製品別売上は、鋼板289,308百万円（64%）、鋼管57,015百万円（13%）、条鋼55,551百万円（12%）、めっき鋼板27,460百万円（6%）、その他25,945百万円（6%）。",
                      "source": "会社年鑑（1976年版）「川崎製鉄」",
                      "url": null
                    }
                  ]
                }
              ]
            },
            {
              "sub_title": "需要が確定する前に、用地と高炉を置いた",
              "editorial": true,
              "paragraphs": [
                {
                  "text": "倉敷市の埋立地に高炉を置いたのは1961年で、日本鋼管福山も八幡製鉄君津も神戸製鋼所加古川も住友金属工業鹿島も、まだ稼働していなかった。製鉄所の規模が原価を決める以上、需要が確定してから土地を探したのでは間に合わない。西山弥太郎社長は、千葉を埋立地に築いたときと同じやり方を西日本でもう一度とった。まず用地を造成して1基目の高炉を据え、あとは需要の伸びに合わせて足す形である。"
                },
                {
                  "text": "先に作った分だけ安くついたわけではない。トン当たり設備費は千葉の4万6,000円に対して水島は5万4,000円と見込まれ、後から築いた製鉄所のほうが割高になった。4号高炉の増設も、千葉3号と水島1号・2号を畳むことと引き換えに認められた枠内の取引である。1976年3月期には経常71億円の赤字も出た。この判断の当否は、トン当たり原価の優劣ではなく、需要が伸び続けた十数年をどれだけ取りこぼさずに済んだかで測るほかない。"
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      "references": [
        "証券アナリストジャーナル 1975年1月号「川崎製鉄」（川出千速）",
        "日本産業史 第3巻（日本経済新聞社, 1994年）「鉄鋼－新日鉄誕生し、業界安定期に」",
        "私の履歴書 経済人12「砂野仁」（日本経済新聞社）",
        "株式会社年鑑（昭和37年版）「川崎製鉄」",
        "会社年鑑（1976年版ほか各年版）「川崎製鉄」"
      ],
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      "title": "LSI事業推進部の発足によるASIC事業への参入と、川崎マイクロエレクトロニクスへの分社",
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          "text": "1985年、川崎製鉄がLSI事業推進部を発足させ、特定用途向け集積回路（ASIC）の設計・販売に参入した経営判断。1990年に宇都宮工場が竣工して本格的な営業活動に入り、2001年7月に川崎マイクロエレクトロニクスとして分社した。"
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          "text": "1984年3月期の当期純利益は8億円まで落ち、1985年9月のプラザ合意後は高炉5社が1985年度下半期から実質赤字に沈んだ。鉄鋼各社は設備の休止と人員削減を進めながら、エレクトロニクス・情報通信・新素材への進出を並行させた。"
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          "label": "内容",
          "text": "汎用メモリではなく受託設計のASICを選び、パッケージングと微細化の先端プロセスは外部の専業メーカーへ委ねる水平分業の生産体制を組んだ。1994年に米国サンノゼへ販売子会社を設け、米国・カナダ・台湾・ヨーロッパへ販路を広げた。"
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          "text": "自前でシリコンウエハーへ進んで赤字に悩んだ新日本製鉄とは対照的に、製造設備を抱え込まない形を選んだ。ただし規模は連結売上高の1%前後にとどまり、2012年にメガチップスへ85億円で売却されて事業は他社へ移った。"
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                      "source": "日本産業史 第4巻（日本経済新聞社、1994年）「鉄鋼－徹底合理化と多角化に挑む」",
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                      "source": "日本産業史 第4巻（日本経済新聞社、1994年）「鉄鋼－徹底合理化と多角化に挑む」",
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                {
                  "text": "川崎製鉄も1987年から1988年度にかけて千葉の厚板工場と製鋼工場を休止し、1986年度末に1万9,100人だった人員を1989年度末に1万3,800人へ、5,300人減らす合理化計画を発表した。半導体は、その柱の候補として合理化計画の発表より前に社内で動き始めていた。人員を減らす作業と新しい事業を立てる作業が、同じ数年に重なっている。",
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                      "原文": "川崎製鉄は六十二-六十三年度に千葉の厚板工場、製鋼工場を休止、人員を六十一年度末の一万九一〇〇人から六十四年度末に一万三八〇〇人へと五三〇〇人削減する合理化計画を、（中略）発表した。",
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                      "原文": "その起源は，1985 年発足の旧川崎製鉄LSI事業推進部であり，1990 年宇都宮工場竣工とともに本格的な営業活動を開始した。創立より一貫してカスタムLSIの代名詞といえるASIC中心の半導体メーカーとして歩み，そのマーケットを日本国内から，米国，カナダ，台湾,ヨーロッパへと拡大してきた。",
                      "source": "JFE技報 No.1（2003年6月）「川崎マイクロエレクトロニクス」",
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                      "source": "JFE技報 No.1（2003年6月）「川崎マイクロエレクトロニクス」",
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                {
                  "text": "パッケージングは当初から専業メーカーと協業し、プロセスについても1999年に台湾のファウンドリー専業であるUMCと、共同開発を含む戦略的な提携を結んでいる。微細化の先端プロセスはUMCを中心とするファウンドリー専業メーカーが製造し、特殊プロセスは宇都宮工場が担う。共同開発を伴うため、外部に出しても製造条件には通じていた。製造設備を自前で抱えない水平分業の生産体制を、高炉メーカーの半導体部門が組んだ。",
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                      "fact": "1999年に台湾のファウンドリー専業UMCとプロセスの共同開発を含む戦略的アライアンスを締結し、微細化先端プロセスはUMC中心のファウンドリーで、特殊プロセスは宇都宮工場中心で製造する体制を整えた",
                      "原文": "当初より専業メーカーと協業していたパッケージングに加え，プロセスに関しても，1999 年に台湾のファンドリー専業メーカーである UMC 社（United Microelectronics Corp.）とプロセスの共同開発を含む戦略的アライアンスを締結した。共同開発によりアウトソースといえども，その プロセス・デバイスには精通している。微細化先端プロセスは UMC 社を中心とするファンドリー専業メーカーで製造し，特殊プロセスは宇都宮工場中心で製造する体制を整えた。",
                      "source": "JFE技報 No.1（2003年6月）「川崎マイクロエレクトロニクス」",
                      "url": "https://www.jfe-steel.co.jp/research/giho/001/pdf/001-11.pdf"
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                  ]
                },
                {
                  "text": "同じ時期に、新日本製鉄は逆の入り方をしていた。1980年代半ばにニッテツ電子を設立してシリコンウエハーへ単独で進出したものの、技術の蓄積がないことが露呈して赤字経営に悩む。1993年にミネベア系のエヌ・エム・ビーセミコンダクターを買収した際は、日立製作所と技術提携を結んでDRAM市場に足場を築くことをねらっている。",
                  "evidences": [
                    {
                      "fact": "新日本製鉄は昭和60年代の初めにニッテツ電子を設立してシリコンウエハーに単独進出したが技術蓄積のなさが露呈して赤字経営に悩み、平成5年（1993年）のNMBS買収では日立製作所と技術提携してDRAM市場をねらった",
                      "原文": "平成五年にはミネベア系半導体メーカー、エヌ・エム・ビーセミコンダクター(NMBS) を買収し、半導体事業に本格進出した。昭和六十年代の初めにニッテツ電子を設立してシリコンウエハーに単独進出したが、技術蓄積のなさが露呈して赤字経営に悩まされた経験からNMBS買収に当たっては日立製作所と技術提携。成長市場であるDRAM(記憶保持動作が必要な随時書き込み読み出しメモリー)市場に有力な足場を築くことをねらった。",
                      "source": "日本産業史 第4巻（日本経済新聞社、1994年）「鉄鋼－徹底合理化と多角化に挑む」",
                      "url": null
                    }
                  ]
                }
              ]
            }
          ]
        },
        {
          "section": "outcome",
          "label": "結果",
          "subsections": [
            {
              "sub_title": "世界へ広げた販路と、連結1%という規模",
              "paragraphs": [
                {
                  "text": "宇都宮工場の竣工で営業が本格化すると、販路は日本国内から米国、カナダ、台湾、ヨーロッパへ広がった。1994年にはサンノゼへ販売子会社Kawasaki LSI U.S.A.を設立し、同本社とボストン支店にデザインセンターを開設している。2002年には台湾支店を置いた。応用領域は通信のLAN・MAN、デジタルカメラや液晶プロジェクタの画像・マルチメディア、液晶コントローラやUSBのPC関係、W-CDMA・GPSの無線・携帯に及ぶ。",
                  "evidences": [
                    {
                      "fact": "1994年にサンノゼへ販売子会社Kawasaki LSI U.S.A. Inc.を設立して同本社とボストン支店にデザインセンターを開設、2002年に台湾支店を設立。応用領域は通信、画像・マルチメディア、PC関係、無線・携帯",
                      "原文": "1994年，米国に販売子会社 Kawasaki LSI U.S.A. Inc.（KLSI：カリフォルニア州サンノゼ市）を設立し，同本社とボストン支店にデザインセンターを開設した。さらに 2002 年には台湾支店を設立し,同支店にデザインセンターを開設した。／主なアプリケーション領域 ・通信 ： LAN, MAN など ・画像・マルチメディア ： デジカメ, 液晶プロジェクタ, 複写機など ・P/C 関係 ： 液晶コントローラ, USB, CD/DVD ドライバーなど ・無線・携帯 ： W-CDMA, GPS など",
                      "source": "JFE技報 No.1（2003年6月）「川崎マイクロエレクトロニクス」",
                      "url": "https://www.jfe-steel.co.jp/research/giho/001/pdf/001-11.pdf"
                    }
                  ]
                },
                {
                  "text": "2001年7月、半導体事業は川崎製鉄の子会社として分社独立した。2002年9月のNKKとの共同株式移転を経て、2003年4月にJFEホールディングス傘下の半導体事業会社となる。ただし鉄鋼本体に対する規模は小さいままだった。JFEホールディングスの2006年3月期で、LSI事業の売上高は360億円、連結売上高に占める比率は1%にとどまる。新日本製鉄が中長期計画で掲げたエレクトロニクス・情報通信20%とは、桁の違う水準である。",
                  "evidences": [
                    {
                      "fact": "2001年7月に川崎製鉄の半導体子会社として分社独立し、2003年4月にJFEホールディングス傘下の半導体事業会社となった",
                      "原文": "2001年 7 月に川崎製鉄の半導体子会社として分社独立し,2003 年 4 月に J F Eホールディングス傘下の半導体事業会社となった。",
                      "source": "JFE技報 No.1（2003年6月）「川崎マイクロエレクトロニクス」",
                      "url": "https://www.jfe-steel.co.jp/research/giho/001/pdf/001-11.pdf"
                    },
                    {
                      "fact": "JFEホールディングスの2006年3月期のLSI事業売上高は360億6,600万円で、連結売上高に占める比率は1%",
                      "原文": "2006年3月期（連結）のセグメント別売上高はLSI事業36,066百万円、構成比1%。鉄鋼事業2,397,068百万円（85%）、エンジニアリング事業340,802百万円（12%）。",
                      "source": "JFEホールディングス 有価証券報告書（2006年3月期・連結）",
                      "url": null
                    }
                  ]
                }
              ]
            },
            {
              "sub_title": "2012年、メガチップスへの譲渡",
              "paragraphs": [
                {
                  "text": "2008年のリーマン・ショック後、需要が急減した。川崎マイクロエレクトロニクスは2010年に宇都宮工場を閉鎖するなどの整理を進めたが、単独での立て直しには至らない。2012年4月20日、JFEホールディングスは同社を85億円でメガチップスへ売却し、半導体事業から撤退すると発表した。2012年3月期の売上高は241億円で、今後の競争力強化には他社との提携が欠かせないという判断だった。メガチップスは同年7月に全株式を取得し、2013年4月に経営統合した。",
                  "evidences": [
                    {
                      "fact": "2012年4月20日、JFEホールディングスは川崎マイクロエレクトロニクスを85億円でメガチップスへ売却し半導体事業から撤退すると発表。同社の2012年3月期売上高は241億円で、リーマン・ショック後の需要急減により2010年に宇都宮工場を閉鎖していた",
                      "原文": "JFEホールディングスは川崎マイクロエレクトロニクス（千葉市）をメガチップスに売却し、半導体事業から撤退する。売却額は85億円。（中略）川崎マイクロは液晶パネルや事務機器向けLSI設計を手がけ、2012年3月期の売上高は241億円。08年のリーマン・ショック以降、需要が急減し、2010年に宇都宮工場を閉鎖するなどのリストラを実施していた。今後の競争力強化には他社との提携が不可欠と判断した。",
                      "source": "日本経済新聞（2012年4月20日）「JFE、半導体事業から撤退　メガチップスに子会社売却」",
                      "url": "https://www.nikkei.com/article/DGXNASDD200N0_Q2A420C1TJ1000/"
                    },
                    {
                      "fact": "メガチップスは2012年7月に川崎マイクロエレクトロニクスの株式を取得して完全子会社化し、2013年4月に経営統合した",
                      "原文": "2012年7月 川崎マイクロエレクトロニクス（株）の株式を取得し完全子会社化／2013年4月 川崎マイクロエレクトロニクス（株）と経営統合",
                      "source": "株式会社メガチップス 沿革",
                      "url": "https://www.megachips.co.jp/company/megachips/history.html"
                    }
                  ]
                },
                {
                  "text": "本体で抱えなかった技術もある。川崎製鉄は1990年当時、新素材研究の一環として銅微粉の用途開発を進めていたが、銅よりニッケル超微粉のほうが将来性があるとして方向を変えた。ただし事業化が難しく、子会社の川鉄鉱業へ研究を移している。川鉄鉱業は1995年12月に千葉製造所で月産2トンから生産を始め、積層セラミックコンデンサの内部電極向けで1999年度に世界シェア50%を占めた。素材加工の売上は1996年度の17億円から1999年度に56億円弱へ伸びた。",
                  "evidences": [
                    {
                      "fact": "1990年当時に川崎製鉄が銅微粉からニッケル超微粉へ方向転換したものの事業化が難しく川鉄鉱業へ研究を移管、1995年12月に千葉製造所で月産2トンから生産開始、世界シェア50%、素材加工の売上は1996年度17億円から1999年度56億円弱へ",
                      "原文": "９０年当時、川崎製鉄では新素材研究の一環として銅微粉の用途開発を進めていた。しかし、その過程で銅よりもニッケル超微粉のほうが将来性があると、方向転換が図られた。ただ、実際の事業化が難しく、どこかに引き取り先はないか、と川鉄鉱業に打診があった。（中略）その生産は９５年１２月、千葉製造所で月産二トンからスタートした。（中略）中でもニッケル超微粉を中心とする素材加工は、９６年度の一七億円から９９年度には五六億円弱へ三・三倍も伸びている。",
                      "source": "週刊東洋経済 2000年8月12日号「［ニュービジネス創造］牽引 川鉄鉱業 川鉄から事業継承、ニッケル超微粉がＩＴ革命に乗る」",
                      "url": null
                    }
                  ]
                }
              ]
            },
            {
              "sub_title": "抱えるか、手放すかの線引き",
              "editorial": true,
              "paragraphs": [
                {
                  "text": "売上高1兆923億円に対し、1984年3月期の当期純利益は8億円だった。その翌年に川崎製鉄が次の柱として選んだのは、汎用メモリではなく受託設計のASICで、製造設備も自前では抱えなかった。高炉メーカーが半導体に持ち込めるものは資金と土地であって、微細化の設備競争を続ける体力でも、量産品の値下げ合戦を勝ち抜く経験でもない。設計と顧客対応で稼ぐ形は、自社にない資源を最小限しか要求しない。"
                },
                {
                  "text": "ただ、規模は最後まで小さかった。2006年3月期のLSI事業の売上高は360億円で連結の1%、2012年3月期でも241億円だった。参入時に避けたはずの規模の問題は、設計の側にも回ってきた。リーマン・ショック後に単独では競争力を保てなくなり、85億円でメガチップスへ渡った。一方、同じ新素材研究から出たニッケル超微粉は川鉄鉱業へ移され、世界シェア50%を占めた。どこまでを自社で持つかという線引きが、二つの事業の行き先を分けたといえる。"
                }
              ]
            }
          ]
        }
      ],
      "references": [
        "JFE技報 No.1（2003年6月）「川崎マイクロエレクトロニクス」",
        "日本産業史 第4巻（日本経済新聞社、1994年）「鉄鋼－徹底合理化と多角化に挑む」",
        "川崎製鉄 会社年鑑（単体業績）",
        "JFEホールディングス 有価証券報告書（2006年3月期・連結）",
        "日本経済新聞（2012年4月20日）「JFE、半導体事業から撤退　メガチップスに子会社売却」",
        "週刊東洋経済 2000年8月12日号「［ニュービジネス創造］牽引 川鉄鉱業 川鉄から事業継承、ニッケル超微粉がＩＴ革命に乗る」",
        "株式会社メガチップス 沿革"
      ],
      "authored": "2026-07",
      "last_updated": "2026-07-27"
    }
  ]
}
