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  "attribution": "The社史 (the-shashi.com) — https://the-shashi.com/tse/5236/decisions/chichibu-founding-1923/",
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  "title": "臨海立地の定型を破り、武甲山の麓に建てた内陸のセメント工場",
  "subtitle": "東京は消費地1位なのに生産は1割5分7厘——運賃1円の差を取りにいった1923年の創業",
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  "issue": "工場立地と創業資金の設計",
  "decider": "諸井恒平（発起人総代・初代社長）",
  "highlights": [
    {
      "label": "概要",
      "text": "1923年1月30日、諸井恒平氏を発起人総代として秩父セメントが創立された。資本金500万円、株式引受人100人。工場は海運の便を持たない秩父盆地に置かれ、当時のセメント工場立地の定型を外れていた。"
    },
    {
      "label": "背景",
      "text": "1907年に本多静六氏が渋沢栄一氏の自邸で水力発電とセメントを埼玉振興の双璧と説いてから16年を要した。武蔵電化は具現化せずに解散し、日本煉瓦セメントの設立も財界の混乱で見合わされている。"
    },
    {
      "label": "内容",
      "text": "全国生産1,000万樽のうち九州が4割5分を占め、東京は消費地1位でありながら1割5分7厘にとどまる。移入には1樽1円以上の運賃がかかり、東京の相場は常に1円高かった。この差を取りにいく計画だった。"
    },
    {
      "label": "含意",
      "text": "建設費は年産70万樽で250万円、既設会社の平均6〜7円に対し1樽3円5〜60銭。生産費も全国最低の4円を下回る見積りで、後発の参入を数字で正当化した。"
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  "parties": [
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      "name": "秩父セメント",
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        "note": "資本金500万円・払込資本金125万円で発足した後発のセメント専業会社"
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  "dates": {
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  "breakdown": {
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    "summary": "原料山に近接し鉄道本線に沿う内陸へ工場を置くことで建設費と生産費を既設会社の水準以下に抑え、運賃差で1円高い東京市場へ後発として参入した"
  },
  "timeline": [
    {
      "year": 1907,
      "month": 9,
      "title": "渋沢栄一氏の自邸での晩餐会で本多静六氏が水力発電とセメントを双璧と説く"
    },
    {
      "year": 1919,
      "month": 2,
      "title": "武蔵水電と秩父鉄道を主要出資者として武蔵電化を設立（1920年12月に解散）"
    },
    {
      "year": 1920,
      "month": 4,
      "title": "日本煉瓦セメントの設立を財界の混乱により見合わせ"
    },
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      "year": 1922,
      "month": 8,
      "title": "渋沢栄一氏ら首脳が工場予定地を視察し、セメント起業を決定"
    },
    {
      "year": 1923,
      "month": 1,
      "title": "日本工業倶楽部で創立総会、資本金500万円で秩父セメントが発足",
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    },
    {
      "year": 1923,
      "month": 9,
      "title": "関東大震災により本社事務所と設計図面の大半を焼失"
    },
    {
      "year": 1925,
      "month": 8,
      "title": "製品を初出荷し、8月3日を営業開始記念日とする"
    },
    {
      "year": 1926,
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      "title": "第7期に創業以来初の株主配当（年1割）を実施"
    }
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  "report": [
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      "label": "背景",
      "subsections": [
        {
          "sub_title": "二度立ち消えた石灰石の事業化",
          "paragraphs": [
            {
              "text": "秩父の石灰石を事業にするという構想は、1907年9月に渋沢栄一氏が王子の自邸で開いた晩餐会にさかのぼる。欧米遊学から帰った東京帝国大学教授の本多静六氏は、水力発電とセメントの両事業が埼玉振興の双璧であると断定し、欧米ではすでに赤煉瓦の時代が去って鉄筋コンクリートの時代を迎え、徳利窯も効率の高い回転窯に替わっていると述べた。武甲山の石灰石と良質の粘土が付近の台地一面に賦存するという指摘も添えられている。ただし当時は赤煉瓦の需要が旺盛で、日本煉瓦製造の経営に当たっていた諸井恒平氏はすぐには動かなかった。"
            },
            {
              "text": "事業化の試みは二度、形にならずに終わっている。1919年2月に設立された武蔵電化は、武蔵水電と秩父鉄道を主要出資者として影森村に工場を置き、武甲山の石灰石から炭酸カルシウムや石灰窒素を生産する計画だったが、具現化しないまま1920年12月に解散した。構想はセメント製造の専営へ、さらに日本煉瓦製造を母体とする日本煉瓦セメントの設立へと転じ、1920年3月30日には設立が本決まりとなって定款も発起人も決まっていた。それが同年4月17日の創立委員会で、財界の混乱を理由に見合わせとなった。"
            }
          ]
        },
        {
          "sub_title": "東京が消費地1位でありながら生産は1割5分7厘",
          "paragraphs": [
            {
              "text": "見合わせの2年半で計画は作り直された。1922年9月14日の第1回会合で諸井恒平氏が示した計画書は、需給の地理的な偏りから説き起こしている。当時のセメント年産額1,000万樽のうち九州方面が4割5分を占めるのに対し、第1位の消費地である東京は1割5分7厘にすぎず、東北を加えても2割に届かない。不足分は九州や大阪から移入するため1樽1円以上の運賃がかかり、東京の相場は他地方に比べて常に1円高かった。東京での事業拡張が必要であることは言うまでもない、というのが計画書の立て方だった。"
            },
            {
              "text": "原料の側にも根拠があった。当時の東京方面で原料に適する石灰石山は青梅と秩父しかなく、いずれも浅野工場に原石を供給していた。武甲山の石灰石は豊富で優良と定評があり、山麓に連なる粘土山も化学的・実験的試験によって全国無比の良質と確かめられている。工場を原料山に近接させ鉄道本線に沿って建設できるため、生産費は1樽3円7〜80銭で足り、当時全国最低とみられた4円を下回る。建設費は年額70万樽の生産で250万円、1樽あたり3円5〜60銭にとどまり、既設会社の平均6〜7円の約半額であった。"
            }
          ]
        }
      ]
    },
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      "section": "origin",
      "label": "決断",
      "subsections": [
        {
          "sub_title": "1922年8月3日、83歳の渋沢栄一を現地へ案内する",
          "paragraphs": [
            {
              "text": "決め手は現地視察だった。1922年8月3日、諸井恒平氏と柿原定吉氏が案内役となり、83歳の渋沢栄一氏、和田豊治氏、小倉常吉氏らが上野から汽車と人力車を乗り継いで工場予定地に立った。一帯は桑畑に覆われ、人力車がようやく通る道しかない。首脳者はここで起業構想の妥当性と事業の有望性を確認し、会社設立の準備を急いだ。諸井氏は後年、会社が生まれたのは1923年1月30日だが「懐姙致しましたのが11年の8月3日」（庶務課彙報 1939/8/15）にあたると述べている。",
              "quotes": [
                {
                  "speaker": "諸井恒平",
                  "role": "会長",
                  "date": "1939-08-15",
                  "text": "8月3日は営業開始記念の日でありますが, 実はこの8月3日といふ日はこの会社の生れた日ではなく,生れましたのは大正12年の1月30日でありまして懐姙致しましたのが11年の8月3日に当るのであります",
                  "source": "秩父セメント五十年史（秩父セメント、1974年）第2章第1節 総観（庶務課彙報 1939年8月15日）",
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        {
          "sub_title": "資本金500万円と、定型を外れた工場立地",
          "paragraphs": [
            {
              "text": "1922年10月3日の第2回会合で社名と資本金が決まった。社名は「東京セメント」と「秩父セメント」の両案から後者が採られている。資本金は、財界不況のもとでは株数が少ないほうが募集に便利だとして300万円を推す意見もあったが、将来を考慮して公称500万円とし、当面は半額程度の払込みにとどめて残りを借入金で賄うことにした。11月20日の発起人賛成人総会で諸井恒平氏が発起人総代に選ばれ、翌1923年1月30日、日本工業倶楽部で創立総会が開かれる。株式引受人100人、総株数10万株、払込資本金125万円での発足だった。"
            },
            {
              "text": "立地は同業の常識から外れていた。当時のセメント工場は大都市の近接地に置かれた消費地工場を除けば、大部分が海運の便を立地条件に取り入れた原料地か臨海地区の工場で、それが工場立地の定型とみられていた。関東の奥地とみられていた秩父に大工場を建てる構想には、同業から好意的な忠言も悪意的な批判も寄せられている。それでも計画を変えなかったのは、東京市場とその周辺一帯の長期的な潜在需要が見込まれ、大消費圏に近接した内陸に立地する根拠があったためだった。主要機械は予算超過を承知で外国一流製品に統一し、原料・焼成・仕上の3部門をすべて米国アリス・チャーマーズ社の製品で揃えた。"
            }
          ]
        }
      ]
    },
    {
      "section": "outcome",
      "label": "結果",
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        {
          "sub_title": "図面を焼失しながら2年半で操業へ",
          "paragraphs": [
            {
              "text": "設立から7か月後の1923年9月1日、関東大震災が本社事務所を襲った。日本橋区の日本煉瓦製造3階に置かれた事務所には夕刻に火が入り、2月以降半年をかけた設計図面がほとんど灰になっている。工事の頓挫を免れたのは、図面の一部を建築資料として松井清足建築事務所に送っていたためだった。第一相互ビルディング4階にあった同事務所は火災に襲われながら類焼を免れ、図面は残った。本社は日本工業倶楽部へ、設計部門は建設現場に近い長瀞の養浩亭へ移り、地元との用地買収が妥結した1923年11月を経て、12月5日に地鎮祭が行われた。"
            },
            {
              "text": "第1号回転窯が試運転に入ったのは1925年6月18日、製品の初出荷は同年8月3日である。会社の設立を決めた日と同じ日付が選ばれ、以後「八三記念日」として営業開始の記念日になった。月末までの出荷は樽詰と袋詰を合わせて556トン。同年11月には輸入紙袋での試験出荷を経て国産紙袋の使用に踏み切り、業界の記録ではこれがわが国のセメント容器としての紙袋使用の嚆矢とされる。第2号回転窯は12月9日に火入れされ、第1次計画が完成した。"
            }
          ]
        },
        {
          "sub_title": "復興需要と重なった操業開始",
          "paragraphs": [
            {
              "text": "営業開始直後の販売はけっして容易ではなかった。新製品への警戒から需要家は買い控え、先発会社の製品との競合に加えて販売係の未熟さや出荷の不手際によるクレームも生じている。諸井恒平氏自身が需要先を歴訪し、日本煉瓦製造の販売地盤を使って建材業界への売込みを図った。品質への不安には試験機器を提供して納得を得るよう努め、樽詰にも袋詰にも試験番号票を封入して品質の責任を明らかにする方法も採っている。第2号回転窯の操業で生産が倍増した1925年12月ごろには、製品は各地で好評を得ていた。"
            },
            {
              "text": "数字は1年で立った。1925年12月から1926年5月に至る第7期の売上高は156万7,036円、経常利益は18万9,606円となり、創業以来初の年1割の株主配当を実現している。震災の復旧が遅れていたため、工場の完成と震災復興需要の本格化とがちょうど重なった。会社設立から半年で震災に遭いながら、政府の本格的な復旧工事が期待に反して出遅れたことが、結果として後発会社の発足に幸いした。1926年9月にはセメント聯合会への入会手続きも取り、業界の一員として位置を得ている。"
            }
          ]
        },
        {
          "sub_title": "定型を外した立地が成立した条件",
          "editorial": true,
          "paragraphs": [
            {
              "text": "海運の便を持たない内陸に大工場を置くという判断は、当時の業界では非常識に属した。それが成り立ったのは、武甲山の石灰石と山麓の粘土という原料が近接し、秩父鉄道が1914年に秩父まで通じ1922年初に全線電化を終えていて、東京市場との間に1樽1円という運賃差が存在したという3つの条件が重なったためである。どれか一つでも欠ければ、既設会社の半額という建設費も全国最低という生産費も成り立たなかった。計画書が説得力を持ったのは、立地の非常識さを数字で相殺してみせたからだった。"
            },
            {
              "text": "もっとも、創業の成否を決めたのは計画の精度だけではない。1923年9月の震災は設計図面をほぼ焼き、松井建築事務所に控えが残っていなければ工事は止まっていた。その震災による復興需要が、政府の復旧工事の遅れによって工場完成の時期まで持ち越されたことも、後発会社にとっては偶然の追い風である。諸井恒平氏は「天の時に従い、地の利を享け、人の和を得て、生まるべくして生まれた」と述懐したが、天の時の部分は少なくとも設計できるものではなかった。"
            }
          ]
        }
      ]
    }
  ],
  "references": [
    "秩父セメント五十年史（秩父セメント、1974年）第1章 創業前史",
    "秩父セメント五十年史（秩父セメント、1974年）第2章 創業期（大正12年1月〜15年6月）",
    "秩父セメント五十年史（秩父セメント、1974年）第2章第2節 会社創立（首唱者会議議事録 1922年9月）",
    "企業の歴史：明治百年（1968年）3編 企業の歴史 p161 秩父セメント",
    "秩父セメント五十年史（秩父セメント、1974年）第1章第3節 起業の背景 5.本多静六",
    "秩父セメント五十年史（秩父セメント、1974年）第1章第4節 起業の胎動 1.起業構想の胎動",
    "秩父セメント五十年史（秩父セメント、1974年）第1章第4節 起業の胎動 2.起業の決意",
    "秩父セメント五十年史（秩父セメント、1974年）第2章第1節 総観（庶務課彙報 1939年8月15日）",
    "秩父セメント五十年史（秩父セメント、1974年）第2章第1節 総観",
    "秩父セメント五十年史（秩父セメント、1974年）第2章第2節 会社創立 1.会社設立準備会",
    "秩父セメント五十年史（秩父セメント、1974年）第2章第2節 会社創立 2.創立総会",
    "秩父セメント五十年史（秩父セメント、1974年）第2章第3節 工場建設 1.工場敷地の選定と用地買収",
    "秩父セメント五十年史（秩父セメント、1974年）第2章第3節 工場建設 2.製造機械の発注",
    "秩父セメント五十年史（秩父セメント、1974年）第2章第2節 会社創立 4.本社事務所",
    "秩父セメント五十年史（秩父セメント、1974年）第2章第2節 会社創立（第2回営業報告書 1923年12月）",
    "秩父セメント五十年史（秩父セメント、1974年）第2章第3節 工場建設 3.建設工事",
    "秩父セメント五十年史（秩父セメント、1974年）第2章第5節 営業開始 1.初出荷",
    "秩父セメント五十年史（秩父セメント、1974年）第2章第5節 営業開始 2.紙袋の採用",
    "秩父セメント五十年史（秩父セメント、1974年）第2章第5節 営業開始 3.初配当"
  ],
  "authored": "2026-08",
  "last_updated": "2026-08-05"
}
