{
  "spec_version": "3",
  "endpoint": "decision",
  "stock_code": "5232",
  "company_name": "住友大阪セメント",
  "content_lang": "ja",
  "meta_lang": "en",
  "canonical_url": "https://the-shashi.com/tse/5232/decisions/hi-cement-50-1985/",
  "api_url": "/api/5232/decisions/hi-cement-50-1985.json",
  "updated": "2026-08-05",
  "license": "© 2026 Yutaka Sugiura. All rights reserved.",
  "attribution": "The社史 (the-shashi.com) — https://the-shashi.com/tse/5232/decisions/hi-cement-50-1985/",
  "slug": "hi-cement-50-1985",
  "url": "/tse/5232/decisions/hi-cement-50-1985/",
  "year": 1985,
  "month": 4,
  "schema_version": "1.0",
  "decision_id": "5232-hi-cement-50-1985",
  "type": "new_business",
  "tags": [
    "pf-diversify-unrelated",
    "st-tech"
  ],
  "title": "非セメント部門の売上構成比を50%とする10年計画の策定と、「電・光・石・化」4分野への進出",
  "subtitle": "セメントが売上の93%を占める会社が、2期連続赤字と3期連続無配のさなかに、なぜ最も回収の遅い研究開発型の多角化を選んだか",
  "status": "implemented",
  "status_label": "実施",
  "scheme": null,
  "ratio": null,
  "issue": "経営多角化と事業構成の転換",
  "decider": "今川彦二（社長）",
  "highlights": [
    {
      "label": "概要",
      "text": "1985年4月、住友セメントが1985年度からの中期三ヵ年実行計画「RCP作戦」を決め、これを最初の3年とする10年計画のなかで、子会社を含むベースの非セメント部門売上構成比を8.7%から50%へ引き上げる目標を掲げた経営判断。今川彦二社長の主導により、エレクトロニクス・オプトエレクトロニクス・セラミックス・超微粒子の4分野へ進出した。"
    },
    {
      "label": "背景",
      "text": "1974年からの合理化で11工場のうち5工場を閉じ、1975年3月末に3,893名だった全社員をおよそ1,900人まで減らしてもなお業績は戻らず、1982年度に戦後はじめて無配へ転落した。1983年3月期・1984年3月期は2期連続の最終赤字となり、売上に占めるセメントの比率は93%に達していた。"
    },
    {
      "label": "内容",
      "text": "米マッキンゼー社を入れたSKチームの答申を受け、1984年7月に国際化・ハイテク化・川下化を柱とする新経営基本戦略を発表。1985年4月からの10年で、子会社を含むベースの総売上高を1,445億円から2,500億円へ、非セメント部門の売上比率を8.7%から50%へ引き上げる計画とした。"
    },
    {
      "label": "含意",
      "text": "4分野の合言葉「電・光・石・化」は今川社長自身の発案で、遊休地の転用ではなく研究開発型の新規事業に絞った点に特徴がある。目標は達成されなかったが、1987年に取得した応用光電研究室と中央研究所の超微粒子が、後の事業の元になった。"
    }
  ],
  "parties": [
    {
      "stock_code": "5232",
      "name": "住友セメント",
      "role": "当事者",
      "at_deal": {
        "note": "売上の93%をセメントが占める業界4位。1982年度に戦後はじめて無配へ転落し、2期連続の最終赤字を計上していた"
      }
    }
  ],
  "dates": {
    "reported": null,
    "announced": "1985-04",
    "agreed": null,
    "closed": null,
    "terminated": null
  },
  "breakdown": {
    "reason_type": "market",
    "summary": "セメント需要の成熟と円高による輸入増を前に、設備と人員の削減だけでは収益が戻らないと判断し、非セメント部門を売上の半分まで育てる10年計画を策定した"
  },
  "timeline": [
    {
      "year": 1972,
      "month": 8,
      "title": "経営改善総合対策委員会を設置"
    },
    {
      "year": 1975,
      "month": 7,
      "title": "七尾・多賀両工場を閉鎖、同年11月までの退職人員は1,196名"
    },
    {
      "year": 1982,
      "month": 9,
      "title": "中間決算で経常7億7,300万円の赤字、戦後はじめて無配へ転落"
    },
    {
      "year": 1983,
      "month": 1,
      "title": "経営改善推進本部を設置し、106億円のコスト削減計画に着手"
    },
    {
      "year": 1983,
      "month": 5,
      "title": "米マッキンゼー社の参画を得てSKチームを設置"
    },
    {
      "year": 1984,
      "month": 7,
      "title": "国際化・ハイテク化・川下化を柱とする新経営基本戦略を発表"
    },
    {
      "year": 1985,
      "month": 4,
      "title": "中期三ヵ年実行計画「RCP作戦」を決定、非セメント比率50%を掲げる10年計画が始動",
      "highlight": true
    },
    {
      "year": 1987,
      "month": 1,
      "title": "応用光電研究室の全株式を取得"
    },
    {
      "year": 1991,
      "month": 6,
      "title": "新材料事業部を新設し、新規事業を統合・選別へ切り替え"
    }
  ],
  "snapshot": {
    "fiscal_year": "1985年3月期",
    "source": "会社年鑑 1986年版（日本経済新聞社, 1985年）・住友セメント単体業績",
    "companies": [
      {
        "stock_code": "5232",
        "name": "住友セメント",
        "fiscal_year": "1985年3月期（単体）",
        "president": "今川彦二",
        "hq": "東京都",
        "sales": {
          "num": 1425,
          "unit": "億円"
        },
        "segments": [],
        "operating_profit": {
          "num": null,
          "unit": "億円"
        },
        "ordinary_profit": {
          "num": 52,
          "unit": "億円"
        },
        "net_profit": {
          "num": 35,
          "unit": "億円",
          "note": "無配（1983年3月期から1986年3月期まで4期連続の3期目）"
        },
        "equity_ratio": null,
        "roe": null,
        "employees": {
          "num": null,
          "unit": "人"
        },
        "avg_salary": null
      }
    ]
  },
  "report": [
    {
      "section": "background",
      "label": "背景",
      "subsections": [
        {
          "sub_title": "削り切ったあとに残ったもの",
          "paragraphs": [
            {
              "text": "住友セメントは1972年8月に経営改善総合対策委員会を置き、石油危機のあと1974年から工場と人員の削減に入った。1975年6月、藤末尚社長は希望退職者1,200名の募集と七尾・多賀両工場の閉鎖を労働組合に申し入れる。団体交渉は29回に及び、同年11月4日現在の退職人員は1,196名にのぼった。この合理化で11工場のうち5工場が閉じ、1975年3月末に3,893名だった全社員は、立元正一副社長の講演によればおよそ1,900人まで減っている。"
            },
            {
              "text": "それでも業績は戻らなかった。NSP化への設備投資を借入金で賄った金利負担が重なり、1982年9月の中間決算は経常ベースで7億7,300万円の赤字となる。1949年度下期の復配以来はじめての無配であった。最終損益は1983年3月期に24億円、1984年3月期に51億円の赤字を計上し、無配は1986年3月期まで4期続いた。売上に占めるセメントの比率は93%。三菱鉱業セメントの53%、小野田セメントの76%と並べれば、逃げ場の乏しさが際立っていた。"
            }
          ]
        },
        {
          "sub_title": "106億円削減と、発祥工場の生産休止",
          "paragraphs": [
            {
              "text": "1983年1月、社長を本部長とする経営改善推進本部が設けられた。4つの班で65億円、本体各部で41億円、合わせて106億円のコスト削減を約2か年で実現するという再建計画である。目を引くのは実行部隊の顔ぶれで、班長には専務・常務が就いた一方、19名の班員のうち勤続12〜8年が9名、7〜4年が4名を占めた。管理部門が作った改善計画を下ろすやり方を、今川彦二社長は自ら退けている。"
            },
            {
              "text": "削減対策の中心には、四倉・浜松両工場の生産休止が据えられた。四倉工場は石油危機以降ずっと赤字だったが、発祥の母体であるという事情から休止を見合わせてきた工場である。その感情すら許さないところまで経営環境が急変したと『住友セメント八十年史』は記している。1983年3月30日、1908年以来75年の操業に幕が下りた。再建計画そのものは1年で目標額を23%上回り、1983年上期の達成率は130%に達している。それでも、需要そのものが戻ったわけではない。"
            }
          ]
        }
      ]
    },
    {
      "section": "origin",
      "label": "決断",
      "subsections": [
        {
          "sub_title": "外部の診断が示した「セメント50%」",
          "paragraphs": [
            {
              "text": "削減が効いても、セメントの需要そのものは戻らない。1983年5月、住友セメントは米マッキンゼー社の参画を得てSKチームを設けた。構成はマッキンゼー3名に対し社内15名で、人選は106億円削減のときと同様に1966年前後の入社組で揃えている。約11か月の経営診断を経た1984年3月30日の最終報告は、セメント単一事業を前提に形づくられた同社の企業体質を、視野の限定された保守的体質だと診断した。新規事業機会の取込み不足という指摘も、そこに含まれていた。"
            },
            {
              "text": "答申が描いた10年後の姿は、売上高2,500億円・利益140億円で、うちセメントが売上の50%・利益の36%を占めるという想定である。裏返せば、非セメントで売上の半分を稼ぐ会社になる。住友セメントは1984年6月29日の定時株主総会で定款の営業目的を変更し、同年7月16日、国際化・ハイテク化・川下化の三つを柱とする経営多角化を新しい経営基本戦略として発表する。10年後に国際的ハイテクノロジー企業へ脱皮する、と最終目標に書いた。"
            }
          ]
        },
        {
          "sub_title": "「電・光・石・化」と10年計画",
          "paragraphs": [
            {
              "text": "数値目標が対外的な形をとったのは1985年4月である。同月18日の全社中期経営計画会議で中期三ヵ年実行計画が決まり、変革・創造・躍進の頭文字からRCP作戦と名付けられた。これを最初の3年に据えた10年計画は、いずれも子会社を含むベースで、総売上高を1,445億円から2,500億円へ、非セメント部門の売上比率を8.7%から50%へ引き上げる内容である。1984年3月期の非セメント売上126億円に対し、1,250億円という到達点は10倍に構えた数字であった。"
            },
            {
              "text": "4分野には今川社長自身が「電・光・石・化」と名を付けた。電はエレクトロニクス、光はオプトエレクトロニクス、石はセラミックス、化は超微粒子を指し、いずれも研究開発を前提とする。遊休資産の転用や不動産へは向かわなかった。並行して1985年11月から翌年1月にかけ、全管理職を対象とするRCP研修会を8回開いて延べ178名を集め、続いて行動基準集を配る組織風土改善運動を1年間実施した。多角化の前に社員の意識を替える、という順序をとった。"
            }
          ]
        }
      ]
    },
    {
      "section": "outcome",
      "label": "結果",
      "subsections": [
        {
          "sub_title": "15%台で止まった比率",
          "paragraphs": [
            {
              "text": "収益は戻った。経常利益は1985年度の29億円から1986年度70億円、1987年度102億円、1988年度107億円へ増え、税引後利益も3億円から49億円になる。新規事業の側も形をとり、1987年1月には光通信部品を試作していた応用光電研究室の全株式を取得した。立元副社長は1990年2月の講演で、1989年3月期の非セメント比率が単体で15%強、子会社の売上を含めれば20%を超えると説明している。"
            },
            {
              "text": "伸びは、そこで止まった。1991年3月期の新規事業売上高は230億円で、比率は15.6%。1990年3月期と合わせて2期続けて15%台の横ばいとなった。会社が対外的に示す比率は集計の範囲で開き、1990年1月の時点では子会社7社を含めて23%という見込みも語られている。それでも他社との差は歴然としていた。非セメント比率は日本セメントが27.9%、小野田セメントが27.8%で、住友セメントを10ポイント以上引き離していた。"
            }
          ]
        },
        {
          "sub_title": "拡大から選別へ",
          "paragraphs": [
            {
              "text": "1990年6月に社長となった立元氏は、翌年に方針を切り替えた。「手を広げる時代は終わった」（日経ビジネス 1991/9/16）——見込みのない事業を切らなければ無駄な投資が続く、という理由による。1991年6月、超微粒子の新素材事業、セラミックス事業、人工骨のバイオマテリアル事業を統合して新材料事業部を新設し、3部門に分散していた要員90人を集める。新事業部は超微粒子を核に据え、中央研究所は新規事業本部と同格の組織に改めた。"
            },
            {
              "text": "選別の仕組みも入った。1989年に中央研究所へ導入したPPPシステムは、研究テーマを研究・開発・事業化の3段階に分け、各段階に2年の猶予を与える。成果が出なければ上へ進めない。事業化まで到達したテーマは2〜3割にとどまり、バイオセンサーや磁性流体は届かなかった。1994年3月期までの3年間は、総投資450億円のうち350億円をセメント事業の合理化に充て、新規事業への投資は100億円に抑えた。配分は本業へ戻っている。"
            }
          ]
        },
        {
          "sub_title": "届かない数字を掲げた理由",
          "editorial": true,
          "paragraphs": [
            {
              "text": "非セメント50%という数字は、達成の見込みから逆算されたものではなかった。1984年3月期の非セメント売上126億円に対し、10年後に置いた1,250億円は10倍にあたる。2期連続の赤字と3期に及ぶ無配で身動きの取れない会社が、最も回収の遅い研究開発型の4分野を選び、届きそうにない比率を対外的に掲げた。RCP研修会と組織風土改善運動を同時に走らせたことをあわせれば、この数字は計画であると同時に、セメント単一事業を前提に固まった社内の見方を外から崩す道具でもあったと読める。"
            },
            {
              "text": "掲げた比率は達成されなかった。比率は1990年3月期と1991年3月期に15%台で止まり、27%台の日本セメント・小野田セメントに10ポイント以上引き離された。立元社長は就任の翌年に選別へ切り替え、投資配分も本業の合理化へ戻る。研究テーマの7割から8割は事業化に届かず、バイオセンサーも磁性流体も残っていない。それでも、1987年に取得した応用光電研究室と、新材料事業部が核に据えた超微粒子は残っている。10年計画が回収したのは掲げた比率ではなく、この2つだった。"
            }
          ]
        }
      ]
    }
  ],
  "references": [
    "住友セメント八十年史（住友セメント, 1987年）",
    "証券アナリストジャーナル 1990年 第28巻第3号「経営多角化で一層の発展めざす」立元正一（住友セメント副社長）／日本証券アナリスト協会企業分析部会 1990年2月15日 講演要旨",
    "日経ビジネス 1990年1月29日号「住友セメント『電光石化』の号令一下、多角化比率を5割に」",
    "日経ビジネス 1991年9月16日号「住友セメント。拡大から統合、選別へ 2年間でテーマ見直し」",
    "会社年鑑 1986年版（日本経済新聞社, 1985年）"
  ],
  "authored": "2026-08",
  "last_updated": "2026-08-06"
}
