{
  "spec_version": "6",
  "endpoint": "ceo-person",
  "stock_code": "4631",
  "company_name": "DIC",
  "content_lang": "ja",
  "meta_lang": "en",
  "canonical_url": "https://the-shashi.com/tse/4631/executives/ceo/kawamura-kijuro/",
  "api_url": "/api/4631/ceo/kawamura-kijuro.json",
  "updated": "2026-11-04",
  "license": "© 2026 Yutaka Sugiura. All rights reserved.",
  "attribution": "The社史 (the-shashi.com) — https://the-shashi.com/tse/4631/executives/ceo/kawamura-kijuro/",
  "source": {
    "person": {
      "primary": [
        "有価証券報告書（役員の状況）"
      ],
      "extraction": "EDINET の XBRL から機械抽出した役員表を土台に、雑誌記事・社史・報道で経歴と出自を補完",
      "caveat": "在任区間は career の is_ceo_appointed が正本。退任年月は次の代の就任年月から決まる"
    }
  },
  "person": {
    "slug": "kawamura-kijuro",
    "name": "川村喜十郎",
    "kana": "かわむら　きじゅうろう",
    "surname": "川村",
    "given_name": "喜十郎",
    "hometown": "群馬県（渡良瀬村上早川田、現館林市）",
    "education": null,
    "prev_role": "川村喜十郎商店 店主",
    "origin": "創業家。群馬県の野中家に生まれ、川村家に入って栃木県佐野在で小作米の管理などに携わったのち、1907年に一家で上京し、1908年2月に東京・本所で川村インキ製造所を創業した",
    "origin_type": "創業家",
    "milestone": "DIC（旧大日本インキ製造）の創業者（1908年に本所北二葉町で川村インキ製造所を開業）",
    "career": [
      {
        "company": "川村インキ製造所（1912年に川村喜十郎商店と改称）",
        "from": "1908-02",
        "to": "1937-02",
        "roles": [
          {
            "date": "1908-02",
            "role": "創業（川村インキ製造所 店主）",
            "event": "設立"
          },
          {
            "date": "1912",
            "role": "屋号を川村喜十郎商店と改める"
          }
        ]
      },
      {
        "company": "DIC",
        "from": "1937-02",
        "to": "1958-03",
        "roles": [
          {
            "date": "1937-02",
            "role": "大日本インキ製造 取締役社長",
            "title": "社長",
            "is_ceo_appointed": true
          },
          {
            "date": "1958-03",
            "role": "死去（在任のまま）",
            "event": "死去",
            "is_ceo_retired": true,
            "retirement_basis": "history"
          }
        ]
      },
      {
        "company": "日本染料薬品製造",
        "from": "1937-02",
        "to": "1944-09",
        "concurrent": true,
        "roles": [
          {
            "date": "1937-02",
            "role": "取締役社長",
            "title": "社長"
          }
        ]
      }
    ],
    "references": [
      {
        "source": "六十年史（大日本インキ化学工業, 1969）第一章「川村喜十郎の上京」「川村インキ製造所創業」「手をそめたインキ事業」「いばらの道」",
        "for": [
          "career",
          "origin",
          "hometown"
        ]
      },
      {
        "source": "六十年史（大日本インキ化学工業, 1969）「日染薬、大日本インキ製造の創立」「印刷インキに捧げた全生涯―川村喜十郎社長の逝去」",
        "for": [
          "career"
        ]
      },
      {
        "source": "『私の履歴書 経済人20』（日本経済新聞社, 1986）川村勝巳「私の履歴書」",
        "url": "https://dl.ndl.go.jp/pid/11938804",
        "for": [
          "hometown",
          "origin",
          "career"
        ]
      }
    ],
    "sections": {
      "tenure_frames": [
        {
          "frame": "origin",
          "inference": true,
          "text": "群馬県渡良瀬村上早川田（現館林市）の野中家に生まれ、川村香代氏と結婚して川村姓となった。妻の生家がある栃木県の吾妻村（現佐野市）で小作米の管理などを務めていたが、1907年秋に妻と2歳の長男を伴って上京した。印刷インキについては素人で、製造の技術は同郷の職人である田村清八氏に委ねた。開業後は半日を製造の手伝いに、残る半日を売り込みと集金に充てた。技術ではなく、資本と販売を受け持つ商人として事業を起こした創業者とみられる。"
        },
        {
          "frame": "selection",
          "text": "1908年の創業から29年間、川村喜十郎氏は個人商店の店主として事業を率いた。1937年2月、化成品部門を日本染料薬品製造として切り出すと同時に、川村喜十郎商店を大日本インキ製造株式会社に改組し、両社の社長に就任した。三井物産を退社した長男の川村勝巳氏は、日本染料薬品製造の常務として化成品を受け持った。病床で川村勝巳氏に社長の交代を持ちかけたこともあったが、川村勝巳氏が断り、1958年3月の死去まで社長を務めた。"
        },
        {
          "frame": "initiatives",
          "decisions": [
            {
              "slug": "reichhold-jv-1952",
              "anchor": "日本ライヒホールド化学工業"
            }
          ],
          "text": "社長としての後半の施策は、戦災からの再建と資金の調達、合成樹脂への参入である。1945年3月の空襲で本所の工場を失うと、無傷の志村工場に印刷インキの生産を集め、同年8月19日に生産の再開を宣言した。1950年5月には印刷インキ業界の先頭を切って株式を東京証券取引所に上場した。1952年には米ライヒホールド・ケミカルズとの合弁で日本ライヒホールド化学工業を設け、インキの原料を天然油脂から合成樹脂へ切り替えた。"
        },
        {
          "frame": "results",
          "text": null
        },
        {
          "frame": "founding",
          "decisions": [
            {
              "slug": "reichhold-jv-1952",
              "anchor": "日本ライヒホールド化学工業"
            }
          ],
          "text": "1907年10月、27歳の川村喜十郎氏は妻と2歳の長男を連れて栃木県佐野在から東京に移り住んだ。日露戦争後の事業熱の中での上京で、手がける仕事は決めておらず、印刷インキの製造にも経験がなかった。業種を決めたのは、松村インキ工場で技術を身につけた同郷の田村清八氏の勧めで、顔料とワニスを練る製造は小資本で始められ、ラベルから新聞まで売り先が広いという見立てだった。\n1908年2月15日、東京・本所北二葉町で川村インキ製造所を開業した。設備は3本ロール3台とガスエンジン1台にとどまり、技術を田村清八氏に任せた数人の町工場として出発した。2年ほどで代金の回収が原料代と給料の支払いに追いつかなくなり、大陸への出稼ぎまで思い詰めたが、最大の得意先だった木版印刷所・太平舎の主人に新たな得意先を紹介されて踏みとどまった。1910年8月の大洪水で下町の印刷所が休業すると、売り込み先を東北・信越・北陸の地方の印刷業者に移し、1912年に屋号を川村喜十郎商店と改めた。\n次の打ち手は原料の自給だった。1914年の欧州大戦で輸入原料が減少すると良質な顔料が手に入らなくなり、川村喜十郎氏は1915年に研究室を設け、1919年に金赤顔料の自製を実現した。1925年には不溶性アゾ系の有機顔料を自給し、輸入顔料に依存する加工業から、顔料の合成から練肉までを自社で通す一貫生産へ移った。さらに顔料の原料となるC酸やトビアス酸などの中間物の製造にも成功し、内製の範囲を一段上流へ広げた。\n1923年の関東大震災で本所の工場と住居をすべて失ったが、日本興業銀行から15万円の復興資金を借り入れ、1924年に震災前を上回る設備の新工場を稼働させた。同年には大阪出張所を開設し、自ら大連と天津を訪れて中国大陸の販路を築いた。1925年には大連に資本金10万円の販売会社・合資会社福盛号を設け、自ら社長を兼ねた。1937年2月には個人商店を、化成品の日本染料薬品製造と印刷インキの大日本インキ製造の2社に改組し、両社の社長に就任した。\n1945年3月の空襲で本所の工場を再び失うと、焼け残った志村工場に生産を集め、終戦4日後の8月19日に23人の従業員を前に生産の再開を宣言した。戦後5年で業績は戦前を上回る水準に回復し、資金繰りの打開策として1950年5月に業界の先頭を切って株式を上場し、1952年には米国の化学会社との合弁で日本ライヒホールド化学工業を設けた。1958年3月15日、創業50年の記念式典を前にして、現役の社長のまま78歳で亡くなった。"
        }
      ]
    },
    "html_url": "https://the-shashi.com/tse/4631/executives/ceo/kawamura-kijuro/",
    "term_start": "1937-02",
    "term_end": "1958-03",
    "api_url": "https://the-shashi.com/api/4631/ceo/kawamura-kijuro.json",
    "list_api_url": "https://the-shashi.com/api/4631/ceo.json",
    "predecessor": null,
    "successor": {
      "slug": "kawamura-katsumi",
      "name": "川村勝巳",
      "api_url": "https://the-shashi.com/api/4631/ceo/kawamura-katsumi.json"
    }
  }
}
