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    "name": "茂木重次郎",
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    "given_name": "重次郎",
    "birthdate": "1859",
    "origin": "創業家。大和郡山藩士の家に生まれ、東京開成学校の製作学教場で化学を学んだ。兄の茂木春太氏と亜鉛華・ペンキを国産化し、1881年に共同組合光明社を興した。法人化後の社長は出資者の田坂初太郎氏が務め、自らは技師長・取締役として製造を担った",
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            "date": "1898-03",
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        "source": "日本ペイント百年史（日本ペイント, 1982）前史 第2節 創業者・茂木重次郎とその周辺",
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          "career"
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        "source": "日本ペイント百年史（日本ペイント, 1982）第2章 第1節 日本ペイント製造株式会社創立",
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          "text": "大和郡山藩で禄高150石の藩士の家に生まれ、藩が旧藩士の子弟に出した育英資金を受けて東京に留学した。慶応義塾を経て1876年に東京開成学校の製作学教場へ入り、算術・物理学・無機化学を学んだ。兄の茂木春太氏とともに亜鉛華とペンキの国産化に取り組み、1881年に共同組合光明社を興した。法人化した後の社長は出資者の田坂初太郎氏が務め、茂木重次郎氏は技師長・取締役として製造を受け持った。"
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          "text": "茂木重次郎氏は1873年、藩の特待生として兄の茂木春太氏を追って上京し、翌1874年に慶応義塾へ入った。1876年4月に東京開成学校の製作学教場へ入学したが、同教場は1877年2月に廃止され、助手だった兄とほぼ同じ時期に学校を去った。\n1878年、兄は宮川保全氏・山崎塊一氏と白粉用亜鉛華製造組合を設け、製法の開発を茂木重次郎氏に任せた。設備の少ない沈殿法では不純物が残り、高熱で亜鉛を蒸発させる乾留法には窯の資金が要ったため、組合は立ち消えになった。兄弟は自力で事業を続けると決め、神田猿楽町の元醤油工場を買収して裏の納屋に窯を築いた。耐火土の配合がわからず窯を数十回も造り直した末に、木炭を燃料とする乾留法の試作に成功した。資金は国元の父に家屋と財産を換金してもらってまかない、1879年3月に内務省の製薬免許を得た。大蔵省印刷局が大口の買い手になると経営は安定した。\n亜鉛華の販売が安定すると、1879年から1880年にかけて洋式塗料のペンキの研究に移った。輸入塗料の詰め替えで利益を上げる薬種商が多いなか、製造の難しい堅練りのペンキを選び、1880年春までに国産の原料だけで製品化した。1881年の第2回内国勧業博覧会ではペンキと亜鉛華を出品し、ペンキで褒状を受けた。その会期中の5月、技術面の指導役だった兄が33歳で急死した。\n同じ会期中、海軍に塗料油を納めていた田川謙三氏から共同経営の申し入れがあった。海軍塗工長の中川平吉氏が海軍卿に塗料工業の共同事業化を建議し、島田組の菊地永氏が出資して、田川謙三氏・茂木重次郎氏・橘清太郎氏の3人が技術を分担する体制が決まった。1881年10月、東京・芝区三田四国町に共同組合光明社が発足し、製品は全量を海軍に納めた。1884年6月に工場を火災で失ったが、菊地永氏から約1万円の出資を受けて再建した。\n1893年8月、商法の施行を機に組合を資本金1万円の合資会社光明社に改め、茂木重次郎氏は田川謙三氏と並んで業務を担う社員になった。成長の遅さを問う同窓の田村典瑞氏には、隘路は資本の不足だと答え、工場を移して年10万円の製品を出す拡張予算を示した。田村典瑞氏の呼びかけで出資者が集まり、海運業の田坂初太郎氏の資本参加を得て光明合資会社に改組し、田坂初太郎氏が社長、茂木重次郎氏が技師長に就任した。1897年2月には亜鉛華を純白に仕上げる亜鉛華精製法の特許を取得した。\n1898年3月14日、田坂初太郎氏・茂木重次郎氏らを発起人として日本ペイント製造株式会社が設立された。社長は田坂初太郎氏が務め、茂木重次郎氏は技師長として製造を率い、1906年11月に取締役に加わった。1911年1月、亜鉛華精製法の開発と輸入防止の功で緑綬褒章を受けた。社長には就任しないまま、1932年3月3日に南品川の自宅で死去した。",
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