{"title":"三共の歴史概略","sections":[{"start_year":1899,"end_year":1913,"main_title":"薬種問屋から出ずに製薬会社になった会社","subsections":[{"title":"三人共同にちなんで三共商店とした","text":"1899年、横浜で絹物業を営んでいた塩原又策は、在米の高峰譲吉からタカヂアスターゼの試売を委嘱された。塩原は西村庄太郎、福井源次郎とはかって匿名組合を組み、資本金3000円で商いを起こした。商号は三人共同にちなんで三共商店とし、塩原が専担となって米国からタカヂアスターゼを輸入し発売した。これが三共の発祥であり、同時に日本の新薬業の始まりでもあった。当時の日本で本格的な製薬事業はほとんど起こっておらず、明治末期に国内生産されたのは薄荷脳、ヨードカリ、ガレヌス製剤、ヂアスターゼ程度にすぎない。盛んだったのは、古来の伝統を経て輸入商に発展した薬種問屋の商業活動のほうであった。三共商店もその意味では輸入商の一つとして出発している。\n\n大阪の製薬業者の多くが江戸時代以来の薬種商から出たのに対し、塩原の出自は違っていた。横浜で羽二重の売り込みをしていた人物が薬品に手を伸ばし、輸入販売業へ移っている。武田長兵衛、田辺五兵衛、塩野義三郎といった道修町の問屋仲間が、自家の商標をつけた薬品の精製から製薬業へ進んだのとは、入口が逆を向いていた。問屋の系譜を持たない三共にとっては、扱う商品の値打ちがそのまま会社の値打ちになる。高峰譲吉という一人の科学者が発見した消化酵素剤に事業のすべてを託したのは、ほかに拠って立つ暖簾がなかったためでもあったろう。持田製薬の持田信夫社長が1974年、大正初期にはまだ本格的な製薬工場がなく三共だけが「オリザニン、アドレナリン」を製造していたと振り返り、同社を新薬メーカーの先発に挙げたのも、この違いを映している。","references":[{"title":"会社銀行八十年史（東洋経済新報社、1955年）「医藥品 三共」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"会社銀行八十年史（東洋経済新報社、1955年）「医藥品 概説」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日本産業史 第1巻（日本経済新聞社、1994年）「化学－製薬に近代化の波」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"三共六十年史（三共株式会社、1960年）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"証券アナリストジャーナル 1974年12巻3号「持田製薬」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]},{"title":"代理店であることをやめ、自分で作りはじめた","text":"1902年、三共商店は店舗を日本橋南茅場町へ移し、高峰の斡旋によって米国パーク・デイビス社の日本代理店となった。タカヂアスターゼの製剤元と直につながったわけで、この関係は戦後まで続く。だが代理店のままでは、扱う薬の生殺与奪は相手方が握る。1905年、三共商店は日本橋箱崎町に製薬工場を開き、初めて自家生産に着手した。輸入品を売る商店から、薬を自ら作る会社へ移る一歩となった。事業は順調に伸び、1907年には塩原夫妻の出資によって資本金50万円の三共合資会社へ改組した。創業時の3000円から8年で資本は167倍になっている。\n\n自家生産を始めたことは、扱う品目の性格も変えた。タカヂアスターゼが他社の製剤であるのに対し、以後の三共が世に問うたのは高峰譲吉と鈴木梅太郎という二人の研究者の発明であった。止血剤アドレナリン、ビタミンB1製剤オリザニン、河豚毒素テトロドトキシンは、いずれも後年に学士院賞を受けている。輸入代理店として売れる薬を運んでくるのではなく、日本の研究者が見つけたものを製品にする。三共が箱崎町の工場で始めたのは、この後者の道であった。ただし代理店の看板を下ろしたわけではない。パーク・デイビス社との関係は維持したまま、自家生産をその上に積んでいる。二つの収益源を重ねる形は、以後の三共に長く残った。","references":[{"title":"会社銀行八十年史（東洋経済新報社、1955年）「医藥品 三共」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"会社銀行八十年史（東洋経済新報社、1955年）「医藥品 概説」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日本産業史 第1巻（日本経済新聞社、1994年）「化学－製薬に近代化の波」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"三共六十年史（三共株式会社、1960年）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"証券アナリストジャーナル 1974年12巻3号「持田製薬」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]},{"title":"高峰譲吉を社長に迎えた株式会社への改組","text":"箱崎の工場が手狭になると、三共は北品川に品川工場を開設し、店舗も日本橋室町へ新築移転した。1911年には米国ベークライトコーポレーションから石炭酸系合成樹脂の特許権を取得している。発明者ベークランド博士と塩原又策に交友関係があったための取得で、医薬品会社が合成樹脂の研究製造に着手するという、業種の枠から外れた動きであった。そして1913年3月、本事業の確立を期して財界、医界、薬業界から株主を迎え、株式会社へ改組した。初代社長には在米の高峰譲吉を擁し、塩原は専務となって社業の一切を掌握指揮した。会社の名前になった発明者を、そのまま社長の座に据えた形である。\n\n改組時の資本金については、資料が食い違う。『会社銀行八十年史』は資本金200万円の株式会社に改組したと書き、『日本産業史』は資本金95万円の三共株式会社を設立したと記す。公称資本金と払込資本金のどちらを採ったかの差とみるのが自然で、いずれにせよ合資会社時代の50万円からの増強であった点は動かない。数字の幅より重いのは、株主の顔ぶれが財界、医界、薬業界の三方から集められたことである。創業から14年、三共はタカヂアスターゼ一品の輸入から始めた匿名組合を、外部資本を受け入れる株式会社へと組み替えた。薬種問屋の暖簾を持たずに始めた会社が、株式という別の形で信用を調達している。","references":[{"title":"会社銀行八十年史（東洋経済新報社、1955年）「医藥品 三共」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"会社銀行八十年史（東洋経済新報社、1955年）「医藥品 概説」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日本産業史 第1巻（日本経済新聞社、1994年）「化学－製薬に近代化の波」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"三共六十年史（三共株式会社、1960年）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"証券アナリストジャーナル 1974年12巻3号「持田製薬」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]}]},{"start_year":1913,"end_year":1945,"main_title":"薬の外へ広げ、外地へ出て、すべて失うまで","subsections":[{"title":"輸入が止まったことが国産化の号砲になった","text":"株式会社となった翌年、第一次大戦が始まった。当時の日本の薬品市場はドイツのIG組合が押さえており、開戦で輸入が杜絶すると医薬品は一斉に欠乏した。三共は国内需要の充足にあたり、1914年7月に大阪工場を開いた。酒類の防腐剤として使うサリチル酸が入らなくなり、醸造高が減れば酒造税も減ると案じた大蔵大臣若槻礼次郎は、国産を三共に依頼した。三共は東京帝国大学教授鈴木梅太郎の指導で装置を据え付けたものの、原料の石炭酸が手に入らない。在米の高峰譲吉に電報を打つと、高峰はエジソンに頼んで石炭酸を分けてもらった。\n\n装置が不完全だったため品川工場はしばしば火災を起こし、品川の火事といえば三共だといわれるほどであった。それでも清酒100万石分のサリチル酸はどうにか出来上がり、治療界と醸造界の急を救ったとして当時の大蔵大臣から感謝状を贈られている。1915年にはタカヂアスターゼの国内製造も始めた。政府は1915年6月に染料医薬品製造奨励法を公布し、条件に適う会社へ10年間、年8分の配当を保証した。三共はこの時期に工場を拡充し、1916年に東京製薬、1919年にサトウライト、1920年に内国製薬を相次いで合併して麻薬製造権まで継承した。合併3件によって扱う品目は大きく増えた。","references":[{"title":"会社銀行八十年史（東洋経済新報社、1955年）「医藥品 三共」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"会社銀行八十年史（東洋経済新報社、1955年）「その他化学 住友ベークライト」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日本産業史 第1巻（日本経済新聞社、1994年）「化学－製薬に近代化の波」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"三共六十年史（三共株式会社、1960年）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"私の履歴書 経済人7「大屋敦」（日本経済新聞社、1980年）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]},{"title":"医薬品会社が合成樹脂とパン用イーストを作った","text":"三共の多角経営は薬の周辺にとどまらなかった。1911年に取得したベークライトの特許をもとに、1914年には品川工場で日本最初の合成樹脂事業を始め、1919年には向島に専門工場を建てて本格生産へ移した。1924年には資本金を1200万円へ増やし、農業増産に資するとして他社に先んじて新農薬の生産に入っている。1932年にはパン用イーストの製造も始めた。合成樹脂、農薬、イースト。薬とは需要家も販路も異なる三つの領域へ、20年のあいだに手を広げた。共通していたのは、いずれも欧米に先例があり、日本ではまだ誰も作っていない品目だった点である。\n\n広げた領域のうち、合成樹脂は1932年1月に分離した。資本金60万円の日本ベークライトとして独立し、のちに住友化工材工業と合併して住友ベークライトとなる。分離後の同社は生産技術を高め、1941年ごろには米国とほぼ同水準の製品を作るまでになった。手放した側の三共から見れば、自社で20年育てた事業を医薬品の外へ出した。塩原又策の交友関係は薬の外にも及んでいた。第一次大戦中に敵国財産として日本政府が管理したドイツIG社の硫安特許について、その専用権を三井、三菱、住友とともに三共も出願して獲得しており、住友の大屋敦は「三共の塩原又策さんとはこの縁で特に親しくなり、その友情は長く太平洋戦争後まで続き、私が戦後日本ベークライトの会長を引き受ける端緒となった」と書き残している。","references":[{"title":"会社銀行八十年史（東洋経済新報社、1955年）「医藥品 三共」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"会社銀行八十年史（東洋経済新報社、1955年）「その他化学 住友ベークライト」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日本産業史 第1巻（日本経済新聞社、1994年）「化学－製薬に近代化の波」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"三共六十年史（三共株式会社、1960年）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"私の履歴書 経済人7「大屋敦」（日本経済新聞社、1980年）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]},{"title":"外地の六社と国内七工場を戦争で失った","text":"1922年に高峰譲吉が没し、1929年に塩原又策が社長へ就いた。1940年には塩原禎三が三代社長となる。この間の三共は外へ出た。日華事変が起こると、1938年以降、朝鮮三共を京城に、満州三共を奉天に、台湾三共を台北に、北支三共を天津に、中支三共を上海に、さらに大連工場を次々と設立した。1942年以降はボルネオ、スマトラ、マレーへも社員を派して開拓にあたっている。内地では1939年に滋賀県へ野洲川工場を開設して農薬の本格生産に入り、1940年には田無工場を開いてイースト部門を移した。資本金は1944年に3000万円となる。この6年で外地に5社と大連工場、内地に2工場を加えた。\n\n膨張は敗戦で反転した。1944年に沼津市へ開設した口野工場は終戦後に閉鎖され、1945年に開いた草加工場が動く前に、同年5月、主力の品川工場が戦災を受けて大半を失った。さらに終戦によって在外資産のすべてを失っている。外地に置いた五社と大連工場、南方へ派した社員、それらが会社の帳簿から消えた。残ったのは焼け残った国内設備と、創業以来の製剤技術だけであった。1914年の輸入途絶を機に国産化へ進み、薬の外へ広げ、外地へ出た30年ぶんの資産が、1年で失われた。戦後の三共は、品川工場の復旧という一点から出直した。","references":[{"title":"会社銀行八十年史（東洋経済新報社、1955年）「医藥品 三共」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"会社銀行八十年史（東洋経済新報社、1955年）「その他化学 住友ベークライト」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日本産業史 第1巻（日本経済新聞社、1994年）「化学－製薬に近代化の波」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"三共六十年史（三共株式会社、1960年）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"私の履歴書 経済人7「大屋敦」（日本経済新聞社、1980年）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]}]},{"start_year":1945,"end_year":1980,"main_title":"合理化と外国製剤で立ち直り、直売制に切り替えた","subsections":[{"title":"人を切り、体温計をやめ、抗生物質を借りた","text":"戦後の三共は品川工場の復旧に努め、設備を近代的に整えなおした。1946年には亀有工場を新設し、柏木検温器製造所を合併している。しかし戦後の悪条件が積み重なり、経営は一時苦境に立った。1949年初頭から着手したのが企業合理化である。人員整理を行い、合併したばかりの体温計事業を分離して、経営負担を軽くした。この結果、同年上半期を境として業績は上昇に転じている。同年5月には鈴木万平が四代社長に就いた。日本生命の弘世現は自伝で、兄の弘世雄吾が第一火災海上の社長を務める以前に「三共の再建にも尽力した」と記している。時期は明示されていないが、外部からの手も入っていた。\n\n合理化と並んで効いたのは、創業以来の代理店関係であった。米パーク・デイビス社は1949年か1950年に抗生物質クロロマイセチンを三共へライセンスしている。後年、同社を傘下に収めたワーナー・ランバートの経営陣は証券アナリストとの質疑で、この供与について「それで三共が立ち直ったという経緯がある」と述べた。自社の合理化が支出を抑え、外国製剤の販売が収入を立て直した。1950年10月には日本曹達と提携して同社の医薬品部門を全面的に継承し、1951年には札幌に北海三共を設立して農薬を製造した。デンマークのレオ社とも提携し、高単位ホルモン剤と新ペニシリン剤レオミクリンを発売した。","references":[{"title":"会社銀行八十年史（東洋経済新報社、1955年）「医藥品 三共」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"会社銀行八十年史（東洋経済新報社、1955年）「医藥品 概説」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"証券アナリストジャーナル 1984年22巻4号「ワーナー・ランバート」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"私の履歴書 経済人17「弘世現」（日本経済新聞社、1981年）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"株式会社年鑑 昭和31年版／昭和37年版","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日本企業要覧 1975年版／企業系列総覧 1981年版","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"会社年鑑（1976年版・1986年版）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]},{"title":"代理店をやめて直売に変え、株主も入れ替わった","text":"1953年、三共は本社を銀座へ移し、日本橋本町に東京営業所、大阪、福岡、札幌、仙台に支社、新潟ほか9カ所に出張所を置いた。同時に、戦前の東西両代理店制から直売制へ切り替えている。誰に売るかを自社で決める体制への転換であった。1954年には農薬需要の増加に応じて三島工場を建て、生産拠点は品川、大阪、野洲川、田無、亀有、草加、三島の7工場となる。1953年12月に資本金は5億2000万円となり、1955年3月期の売上高は31億7000万円に達した。この時期の三共は医薬品のほか、化粧品ヨウモトニック、農薬の三共ボルドウ、パラチオン乳剤、DDT、BHCなど50余種、そしてパン用イーストを併せ持つ会社であった。\n\n株主の顔ぶれも入れ替わった。1955年9月時点の上位は大和銀行、日本生命、住友信託、野村証券が並び、創業家の塩原千代が第5位に入っている。ところが1961年3月には、三菱信託銀行10.7%、東洋信託銀行6.9%、住友信託銀行5.8%、三井信託銀行5.2%と、上位4社をすべて信託銀行が占めた。創業家の名は上位10位から消えている。1975年3月には日本生命保険が8.93%で筆頭となり、第一勧業銀行3.41%が続いた。1980年3月も日本生命7.26%、第一勧業銀行4.61%の順で変わらない。創業家の持株から金融機関の安定保有へ、四半世紀をかけて資本の性格が置き換わった。","references":[{"title":"会社銀行八十年史（東洋経済新報社、1955年）「医藥品 三共」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"会社銀行八十年史（東洋経済新報社、1955年）「医藥品 概説」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"証券アナリストジャーナル 1984年22巻4号「ワーナー・ランバート」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"私の履歴書 経済人17「弘世現」（日本経済新聞社、1981年）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"株式会社年鑑 昭和31年版／昭和37年版","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日本企業要覧 1975年版／企業系列総覧 1981年版","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"会社年鑑（1976年版・1986年版）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]},{"title":"農薬とビタミンの会社が神経系薬剤の会社になる","text":"売る品目の構成も変わった。1961年3月期上半期の売上構成は、抗生物質製剤および生物学的製剤が29.2%で首位、ビタミン剤20.8%、農薬18.0%と続き、神経系に作用する薬剤は9.4%にすぎない。ところが1975年3月期上半期になると神経系薬剤が32%で首位に立ち、農薬18%、その他医薬品11%、ビタミン剤11%、抗生物質製剤・生物学的製剤9%の順となる。抗生物質とビタミンで半分を占めた会社が、14年で神経系薬剤を柱とする会社に変わった。1985年3月期の首位は腫瘍用薬・化学療法剤22%で、循環器官・呼吸器官用薬17%が続き、1961年に3割を占めた抗生物質は14%へ落ちた。\n\n業績の伸び方は一本調子ではなかった。単体売上高は1971年3月期の580億円から1985年3月期の2431億円へ、14年で4.2倍になっている。ところが経常利益を追うと、1975年3月期の71億円が翌1976年3月期に36億円へ半減し、1977年3月期も33億円にとどまった。売上高が876億円から898億円へ伸びたにもかかわらず、利益だけが落ちている。回復は1978年3月期からで、売上高1128億円、経常利益49億円へ戻った。1980年3月期に経常利益130億円、1985年3月期には売上高2431億円、経常利益245億円まで積み上がった。1975年に社長へ就いた河村喜典の在任は、この落ち込みから戻る時期に重なる。","references":[{"title":"会社銀行八十年史（東洋経済新報社、1955年）「医藥品 三共」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"会社銀行八十年史（東洋経済新報社、1955年）「医藥品 概説」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"証券アナリストジャーナル 1984年22巻4号「ワーナー・ランバート」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"私の履歴書 経済人17「弘世現」（日本経済新聞社、1981年）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"株式会社年鑑 昭和31年版／昭和37年版","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日本企業要覧 1975年版／企業系列総覧 1981年版","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"会社年鑑（1976年版・1986年版）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]}]},{"start_year":1980,"end_year":2005,"main_title":"一品に賭けた高収益と、二品目を得られなかった代償","subsections":[{"title":"青かびから18年かけて取り出した収益源","text":"1973年、三共醗酵研究所は青かびの一種がコレステロール合成阻害物質を生むことを見つけた。研究着手から18年を経た1989年、コレステロール合成に必要なHMG-CoA還元酵素の阻害剤、いわゆるスタチンとして高脂血症治療薬メバロチンを発売する。輸入代理店から始まり、外国製剤のライセンスで戦後を立て直した会社が、初めて自社で創った世界規模の新薬を持った。売れ方も従来と違った。発売後4年で売上高1000億円を超え、社内でメバロチンボーナスが出るほどの規模に育っている。1993年度決算では、売上首位の武田薬品工業の経常利益を三共が上回った。\n\n高収益は、一品への依存と同義であった。1990年代半ば、メバロチン1品目で1335億円を稼ぎ、主要5品目の合計2255億円の6割弱を占めた。国内単品で年商1000億円を超える薬はほかになかった。研究開発費は495億円で、武田薬品の629億円に次ぐ水準にあった。ただしチバガイギーとサンドが合併して生まれたノバルティスファーマの2000億円とは4倍の開きがあった。当時の医薬品業界に合併の気運はあった。1997年、吉富製薬とミドリ十字の合併が業界に波紋を投げ、大手8社の一角にも再編の観測が及んでいる。だが三共の河辺進副社長は「大手はどこも各疾病の薬を持っている。合併しても人員淘汰に苦労するだけ」と語り、同社の課題は国内再編ではなく米国での販売網構築にあるとした。","references":[{"title":"週刊東洋経済 2006年2月4日号「夢よもう一度 三共『メバロチン』再生計画」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 1997年4月12日号「再編すらできない今の医薬品業界」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 1997年12月20日号「三共 糖尿病薬副作用死の余波」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 1998年1月3日号「医薬品 海外販売で格差が鮮明化」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 1999年2月13日号「世界の最強・日本の最強 医薬」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 1999年4月10日号「三共高収益路線に黄信号 期待の糖尿病薬、英国で販売再開ならず」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2000年6月10日号／2000年7月22日号／2000年9月9日号／2001年6月9日号","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日本産業史 第4巻（日本経済新聞社、1994年）「化学－環境保護対応に課題」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]},{"title":"第二の柱に据えた薬が発売の年に折れた","text":"メバロチンの特許は日本で2002年、欧米で2005年前後に切れる見通しであった。三共が次の柱に据えたのが、自社で創製した糖尿病薬トログリタゾン、商品名ノスカールである。膵臓を刺激してインスリンを絞り出す従来薬と違い、インスリンの働き自体を高める世界初のインスリン抵抗性改善剤であった。1997年3月に日本と米国で同時発売し、10月には英国でも発売した。米国はワーナー・ランバート、欧州はグラクソ・ウエルカムに販売権を渡している。ところが同年10月30日、米FDAが全世界で35例の重篤な副作用を報告した。日本では因果関係を否定できない死亡例が出て、12月1日付で厚生省が緊急安全性情報の配布を指示した。欧州では発売元が英国での販売を自主停止し、他の欧州諸国でも申請を取り下げた。\n\n三共は当初、代替品のない現状では3カ月から6カ月後に販売を再開できるはずだと強気を崩さなかった。だが1999年4月、英医薬品庁は販売再開の申請を却下した。英国で承認を得られなければEU他国での承認も難しく、欧州市場は閉じた。同じころ米FDAの諮問委員会は、単独投与の効果を一部疑問視しつつ他の糖尿病薬との併用なら効用がリスクを上回るとして使用を認めた。大西洋を挟んで評価が割れた。ノスカールの年商は輸出を含め300億円に達し、製品別売上で2位を固めてはいた。それでもメバロチンの1800億円には遠く、その後継としては力不足と見られた。武田薬品のアクトス、英スミスクラインのアバンディアが米国で優先審査に進み、先行者の利も薄れた。","references":[{"title":"週刊東洋経済 2006年2月4日号「夢よもう一度 三共『メバロチン』再生計画」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 1997年4月12日号「再編すらできない今の医薬品業界」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 1997年12月20日号「三共 糖尿病薬副作用死の余波」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 1998年1月3日号「医薬品 海外販売で格差が鮮明化」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 1999年2月13日号「世界の最強・日本の最強 医薬」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 1999年4月10日号「三共高収益路線に黄信号 期待の糖尿病薬、英国で販売再開ならず」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2000年6月10日号／2000年7月22日号／2000年9月9日号／2001年6月9日号","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日本産業史 第4巻（日本経済新聞社、1994年）「化学－環境保護対応に課題」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]},{"title":"25年の長期政権が終わり、統合で幕が下りた","text":"2000年6月、25年にわたり社長を務めた河村喜典が代表権を持つ会長へ退き、副社長の高藤鉄雄が社長に就いた。河村は84歳、高藤は70歳である。翌7月、河村の長男で取締役企画部長の喜則が元副社長へ約300回の無言電話をかけて脅迫罪で書類送検され、河村会長は引責辞任して平取締役に降格した。7月以降、三共は河村体制で形骸化していた常務会を立て直し、専務以上の経営会議を新設して集団指導体制へ移す。2001年6月には52歳の庄田隆と丹沢和比古が取締役に選ばれ、次期社長候補として並んだ。三共の課題は米国での自社販売体制づくりだと、同社首脳自身が語っている。\n\n主力品の退潮は数字に出た。2000年、米ファイザーがリピトールを日本で発売し、2002年にはメバロチンの国内特許が失効して後発品が現れた。メバロチンの国内売上高は2003年度に8%減、2004年度に19%減となり、高脂血症治療薬のシェア首位をリピトールに明け渡す。それでもメバロチンの粗利益は国内と輸出を合わせて1300億円あり、2005年3月期連結粗利益の3分の1を占めた。2006年4月には米国特許も切れる。日興シティグループ証券の山口秀丸は、営業利益850億円の8割を占める輸出利益が吹き飛びかねないと見た。2005年3月期の連結売上高5878億円のうち医薬品事業は4547億円である。同年9月、株式移転で第一三共が発足し、三共は上場を廃止した。106年続いた社名は持株会社名の後半に残り、メバロチンとオルメテックは新会社の製品となった。","references":[{"title":"週刊東洋経済 2006年2月4日号「夢よもう一度 三共『メバロチン』再生計画」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 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