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      "title": "タカヂアスターゼの試売を引き受け、薬種問屋によらずに新薬業を興した判断",
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          "label": "概要",
          "text": "1899年、横浜で絹物業を営んでいた塩原又策は、在米の高峰譲吉からタカヂアスターゼの試売を委嘱され、西村庄太郎・福井源次郎と資本金3000円の匿名組合を組んで三共商店を起こした。江戸時代以来の薬種問屋から出るのではなく、一人の科学者の発明品一つを足場に新薬業へ入るという創業判断であった。"
        },
        {
          "label": "背景",
          "text": "明治期の日本では本格的な製薬事業がほとんど起こらず、国内生産されたのは薄荷脳、ヨードカリ、ガレヌス製剤、ヂアスターゼ程度にすぎない。薬の世界で盛んだったのは、古来の伝統を経て輸入商に発展した薬種問屋の商業活動であり、武田、田辺、塩野義といった大阪道修町の問屋仲間が製薬業を兼ねはじめていた。"
        },
        {
          "label": "内容",
          "text": "商号は三人共同にちなんで三共商店とし、塩原が専担となって米国からタカヂアスターゼを輸入し発売した。1902年には高峰の斡旋で米国パーク・デイビス社の日本代理店となり、1905年には日本橋箱崎町に製薬工場を開いて自家生産に着手している。輸入代理店の収益の上に、自家生産を積み重ねる形をとった。"
        },
        {
          "label": "含意",
          "text": "1907年に資本金50万円の合資会社、1913年3月に株式会社へ改組し、初代社長には高峰譲吉を擁した。以後の三共は高峰と鈴木梅太郎の発明の工業化を軸に据え、パーク・デイビス社との関係は戦後まで続いて、1949年のクロロマイセチン導入が戦後の再建を支えた。"
        }
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        "summary": "高峰譲吉が発明した消化酵素剤の一手販売を引き受け、薬種問屋の暖簾によらずに新薬業へ入り、輸入代理店から自家生産へ進んだ創業判断"
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        {
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          "title": "店舗を日本橋南茅場町へ移し、米国パーク・デイビス社の日本代理店となる"
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          "title": "日本橋箱崎町に製薬工場を開設し、自家生産に着手"
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          "title": "塩原夫妻の出資で資本金50万円の三共合資会社へ改組"
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          "title": "三共株式会社へ改組し、初代社長に高峰譲吉、専務に塩原又策が就く"
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                {
                  "text": "明治時代の日本には、本格的な製薬事業がほとんど起こっていなかった。明治末期に国内生産された薬といえば薄荷脳、ヨードカリ、ガレヌス製剤、ヂアスターゼ程度にすぎない。代わって盛んだったのは、古来の伝統を経て輸入商に発展した薬種問屋の商業活動である。1722年に徳川吉宗が各地の和薬類を問屋組合の検査のもとで売買させ、問屋の特権的地位を認めて以来、東京本町と大阪道修町の二大市場が薬の流通を握ってきた。武田、塩野義、田辺といった今日の代表的製薬会社の基礎も、この時代から固められている。問屋制商業資本の支配下で家内工業的に薬を作るという伝統が、明治に入っても抜け切っていなかった。",
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                      "fact": "明治時代には本格的な製薬事業はほとんど起こらず、明治末期の国内生産は薄荷脳・ヨードカリ・ガレヌス製剤・ヂアスターゼ程度で、輸入商に発展した薬種問屋の商業活動が盛んであった",
                      "原文": "明治末期に国内生産された薬といえば薄荷脳、ヨードカリ、ガレヌス製剤、ヂアスターゼ程度にすぎない。",
                      "source": "会社銀行八十年史（東洋経済新報社、1955年）「医藥品 概説」",
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                      "fact": "1722年に徳川吉宗が和薬類を江戸・大阪・京都・堺の問屋組合の検査のもとで売買させて問屋の特権的地位を認め、武田・塩野義・田辺ら代表的製薬会社と東京本町・大阪道修町の二大市場の基礎はこの時代から固められた",
                      "原文": "武田、塩野義、田辺といった今日の代表的製薬会社の基礎も、この時代から固められている。",
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                  "text": "日露戦争後、大阪の問屋仲間でとりわけ伸びたのは輸入薬品を扱う武田長兵衛、田辺五兵衛、塩野義三郎らであった。彼らは小工場で薬品を精製し、自家の商標をつけて売り出して、商人から製薬業兼業への道を歩んでいる。売る力を先に持ち、作る力を後から足した経路である。塩原又策の出発点はこれと逆を向いていた。横浜で羽二重の売り込みをしていた人物が薬品に手を伸ばし、輸入・販売業へ移ったのが始まりで、薬種商としての暖簾も、既存の販路も持たない。扱う品の値打ちがそのまま会社の値打ちになる立場にあった。",
                  "evidences": [
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                      "fact": "日露戦争後、大阪の問屋仲間で伸びた武田長兵衛・田辺五兵衛・塩野義三郎らは小工場で薬品を精製し自家の商標をつけて売り出し、商人から製薬業兼業への道を歩んだ",
                      "原文": "彼らは小工場で薬品を精製し、自家の商標をつけて売り出して、商人から製薬業兼業への道を歩んでいる。",
                      "source": "日本産業史 第1巻（日本経済新聞社、1994年）「化学－製薬に近代化の波」",
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                      "原文": "横浜で羽二重の売り込みをしていた人物が薬品に手を伸ばし、輸入・販売業へ移ったのが始まりで、薬種商としての暖簾も、既存の販路も持たない。",
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                {
                  "text": "1899年、塩原又策は在米の高峰譲吉から、博士の発見にかかるタカヂアスターゼの試売を委嘱された。塩原は西村庄太郎、福井源次郎とはかり、匿名組織をもって資本金3000円で商いを起こす。商号は三人共同にちなんで三共商店とし、塩原が専担となって米国からタカヂアスターゼの輸入発売を始めた。これが三共の発祥であり、同時に日本における新薬業の始まりでもあった。問屋の系譜も、扱う品目の広がりもない。一人の科学者が見つけた消化酵素剤ただ一品に、三人の出資と全部の労力を寄せた形である。",
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                    {
                      "fact": "1899年、横浜で絹物業を経営していた塩原又策が在米の高峰譲吉からタカヂアスターゼの試売を委嘱され、西村庄太郎・福井源次郎とはかって匿名組織をもって商号を三共商店とし、資本金3000円で米国からの輸入発売を開始した。これが三共の発祥でありわが国新薬業の嚆矢である",
                      "原文": "商号は三人共同にちなんで三共商店とし、塩原が専担となって米国からタカヂアスターゼの輸入発売を始めた。",
                      "source": "会社銀行八十年史（東洋経済新報社、1955年）「医藥品 三共」",
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                      "原文": "これが三共の発祥であり、同時に日本における新薬業の始まりでもあった。",
                      "source": "会社銀行八十年史（東洋経済新報社、1955年）「医藥品 概説」",
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                  "text": "一手販売権だけでは、扱う薬の生殺与奪を相手方が握る。塩原はこの弱みを二段構えで埋めた。1902年、店舗を日本橋南茅場町へ移すとともに、高峰の斡旋によって米国パーク・デイビス社の日本代理店となった。タカヂアスターゼの製剤元と直につながり、供給の安定を得たのが一段目である。1905年には日本橋箱崎町に製薬工場を開設し、初めて自家生産に着手した。輸入品を売る商店から、薬を自ら作る会社へ移ったのが二段目にあたる。代理店の看板を下ろさずに自家生産を重ねたので、収益源は二つになった。",
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                      "原文": "1902年、店舗を日本橋南茅場町へ移すとともに、高峰の斡旋によって米国パーク・デイビス社の日本代理店となった。",
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                      "原文": "1905年には日本橋箱崎町に製薬工場を開設し、初めて自家生産に着手した。",
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                  "text": "事業は順調に伸びた。1907年には塩原夫妻の出資により資本金50万円の三共合資会社へ改組し、箱崎工場が手狭になると北品川に品川工場を開設して店舗も日本橋室町へ移している。1913年3月、本事業の確立を期して財界、医界、薬業界から株主を迎え、株式会社へ改組した。初代社長には在米の高峰譲吉を擁し、塩原は専務となって社業の一切を掌握指揮している。創業時の資本金3000円は、14年で合資会社の50万円を経て株式会社の規模へ達した。発明者を社長の座に据えたことは、この会社が誰の何によって立っているかを外部へ示す配置でもあった。",
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                    {
                      "fact": "1907年に塩原氏夫妻の出資により資本金50万円の合資会社に改組し、箱崎工場が狭隘となったため北品川に品川工場を開設して店舗も日本橋室町に新築移転した",
                      "原文": "1907年には塩原夫妻の出資により資本金50万円の三共合資会社へ改組し、箱崎工場が手狭になると北品川に品川工場を開設して店舗も日本橋室町へ移している。",
                      "source": "会社銀行八十年史（東洋経済新報社、1955年）「医藥品 三共」",
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                      "fact": "1913年3月に財界・医界・薬業界から株主を迎えて株式会社へ改組し、初代社長に在米の高峰博士を擁し、塩原氏が専務となって一切の社業を掌握指揮した",
                      "原文": "初代社長には在米の高峰譲吉を擁し、塩原は専務となって社業の一切を掌握指揮している。",
                      "source": "会社銀行八十年史（東洋経済新報社、1955年）「医藥品 三共」",
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              "sub_title": "研究者の発明を工業化する会社になった",
              "paragraphs": [
                {
                  "text": "創業判断は品目の性格を長く規定した。三共はその後、高峰譲吉と鈴木梅太郎の発明した薬品の工業化を軸に据える。タカヂアスターゼは帝国発明協会賞を、止血剤アドレナリン、ビタミンB1製剤オリザニン、河豚毒素テトロドトキシンはいずれも学士院賞を受けた。持田製薬の持田信夫社長は1974年、大正初期の日本にまだ本格的な製薬工場がなかったと振り返り、例外として「三共製薬（現在の三共）が…オリザニン、アドレナリンを製造していた」とだけ挙げている。同業他社は三共を、輸入品を運ぶ商人ではなく日本の研究者の発明を製品にする会社として見ていた。",
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                      "原文": "タカヂアスターゼは帝国発明協会賞を、止血剤アドレナリン、ビタミンB1製剤オリザニン、河豚毒素テトロドトキシンはいずれも学士院賞を受けた。",
                      "source": "会社銀行八十年史（東洋経済新報社、1955年）「医藥品 三共」",
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                    {
                      "fact": "持田製薬社長の持田信夫は1974年の講演で、大正初期に日本ではまだ本格的に生産する工場がなかったなかで三共製薬（現在の三共）がオリザニン、アドレナリンを製造していたと述べた（原文は両剤を高峰譲吉の発明とするが、オリザニンは鈴木梅太郎の発見）",
                      "原文": "例外として「三共製薬（現在の三共）が…オリザニン、アドレナリンを製造していた」とだけ挙げている。",
                      "source": "証券アナリストジャーナル 1974年12巻3号「持田製薬」",
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              "sub_title": "代理店関係が半世紀後の再建を支えた",
              "paragraphs": [
                {
                  "text": "1902年に結んだパーク・デイビス社との関係は、その後も切れなかった。第二次大戦の敗戦で三共は品川工場の大半と在外資産のすべてを失い、戦後の悪条件が重なって一時は苦境に立つ。そこへ1949年か1950年、パーク・デイビス社が抗生物質クロロマイセチンを三共へライセンスした。後年に同社を傘下へ収めたワーナー・ランバートの経営陣は、証券アナリストとの質疑でこの供与を振り返り、「それで三共が立ち直ったという経緯がある」と述べている。創業時に選んだ相手との関係が、半世紀を経て会社の再建に効いた。",
                  "evidences": [
                    {
                      "fact": "パーク・デイビスは1949年か50年にクロロマイセチンを三共にライセンスし、それで三共が立ち直ったという経緯があるとワーナー・ランバートの経営陣が述べた",
                      "原文": "「それで三共が立ち直ったという経緯がある」と述べている。",
                      "source": "証券アナリストジャーナル 1984年22巻4号「ワーナー・ランバート」",
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                    {
                      "fact": "1945年5月に主力の品川工場が戦災でその大半を失い、終戦により在外資産のすべてを失った。戦後の悪条件の累積により一時苦境に立った",
                      "原文": "第二次大戦の敗戦で三共は品川工場の大半と在外資産のすべてを失い、戦後の悪条件が重なって一時は苦境に立つ。",
                      "source": "会社銀行八十年史（東洋経済新報社、1955年）「医藥品 三共」",
                      "url": null
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                {
                  "text": "暖簾を持たずに始めたことは、弱みであると同時に選択の自由でもあったとみられる。道修町の問屋であれば、既存の取引先と扱い品目に縛られ、一発明品へ全部を寄せる賭けは通りにくい。塩原には守るべき販路がなく、失うものも小さかった。ただし、その自由は一人の科学者への依存と裏表であった。高峰譲吉が発明を他へ渡していれば、三共商店は成り立たない。この危うさを、塩原は代理店契約と自家生産工場という二つの実体で埋めた。"
                },
                {
                  "text": "発明者を初代社長に据えた配置も、同じ危うさの処理として読める。在米の高峰は日々の経営を執らず、社業の一切は専務の塩原が掌握した。それでも社長の座を高峰に渡したことで、発明と会社の結びつきは制度として固定される。三共がのちに合成樹脂、農薬、パン用イーストへ広げても、会社の骨格が高峰と鈴木梅太郎の発明の工業化にあり続けたのは、この創業期の配置が長く効いたためであろう。"
                }
              ]
            }
          ]
        }
      ],
      "references": [
        "会社銀行八十年史（東洋経済新報社、1955年）「医藥品 三共」",
        "会社銀行八十年史（東洋経済新報社、1955年）「医藥品 概説」",
        "日本産業史 第1巻（日本経済新聞社、1994年）「化学－製薬に近代化の波」",
        "証券アナリストジャーナル 1974年12巻3号「持田製薬」",
        "証券アナリストジャーナル 1984年22巻4号「ワーナー・ランバート」",
        "三共六十年史（三共株式会社、1960年）"
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      "authored": "2026-07",
      "last_updated": "2026-07-29"
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          "text": "1973年、三共醗酵研究所は青かびの一種がコレステロール合成阻害物質を生むことを発見した。研究着手から18年を経た1989年、三共はHMG-CoA還元酵素阻害剤、いわゆるスタチンの高脂血症治療薬メバロチンを発売した。外国製剤のライセンスと農薬・食品を並べてきた会社が、自社で創った一品に収益の大半を集める判断であった。"
        },
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          "label": "背景",
          "text": "戦後の三共は米パーク・デイビス社から導入したクロロマイセチンで立ち直り、その後も抗生物質、ビタミン剤、農薬を並べる総合会社として推移した。1961年3月期の売上構成は抗生物質製剤および生物学的製剤29.2%、ビタミン剤20.8%、農薬18.0%で、単独で会社を支える製品はない。1976年3月期には経常利益が前期の71億円から36億円へ半減している。"
        },
        {
          "label": "内容",
          "text": "三共はスタチンという新しい作用機序の薬を自社で創製し、1989年に発売した。発売後4年で売上高1000億円を超え、社内でメバロチンボーナスが出るほどの規模に育った。1993年度決算では、売上首位の武田薬品工業の経常利益を三共が上回っている。1990年代半ばにはメバロチン1品目で1335億円を稼ぎ、主要5品目2255億円の6割弱を占めた。"
        },
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          "text": "一品への集中は特許の期限を会社の期限に変えた。2000年に米ファイザーがリピトールを日本で発売し、2002年に国内特許が失効、2004年度には国内売上高が19%減となってシェア首位を明け渡す。2006年4月に迫った米国特許失効を前に、三共は第一製薬との経営統合へ踏み切った。"
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          "title": "メバロチンの国内特許が失効し、後発医薬品が登場"
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          "title": "三共と第一製薬が株式移転で経営統合し、第一三共が発足"
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                  "text": "戦後の三共は、自社で創った薬で立ち直ったのではない。1949年か1950年に米パーク・デイビス社から導入した抗生物質クロロマイセチンが再建を支えたことは、後年に同社を傘下へ収めたワーナー・ランバートの経営陣も認めている。以後の品揃えも広かった。1961年3月期上半期の売上構成は抗生物質製剤および生物学的製剤29.2%、ビタミン剤20.8%、農薬18.0%、神経系に作用する薬剤9.4%で、単独で会社を支える製品はない。医薬品のほかに農薬、食品、化粧品を並べた総合会社であった。",
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                      "原文": "1949年か1950年に米パーク・デイビス社から導入した抗生物質クロロマイセチンが再建を支えたことは、後年に同社を傘下へ収めたワーナー・ランバートの経営陣も認めている。",
                      "source": "証券アナリストジャーナル 1984年22巻4号「ワーナー・ランバート」",
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                    {
                      "fact": "1961年3月期上半期の売上構成は抗生物質製剤及び生物学的製剤29.2%、ビタミン剤20.8%、農薬18.0%、神経系に作用する薬剤9.4%、化学療法剤6.2%、消化器系6.2%、外用剤5.8%、食品3.2%、化粧品1.2%であった",
                      "原文": "1961年3月期上半期の売上構成は抗生物質製剤および生物学的製剤29.2%、ビタミン剤20.8%、農薬18.0%、神経系に作用する薬剤9.4%で、単独で会社を支える製品はない。",
                      "source": "株式会社年鑑 昭和37年版",
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              "sub_title": "1970年代半ばに利益だけが落ちた",
              "paragraphs": [
                {
                  "text": "品揃えの広さは業績の安定を保証しなかった。単体売上高は1971年3月期の580億円から1975年3月期の876億円まで順調に伸びたが、経常利益は1975年3月期の71億円から翌1976年3月期に36億円へ半減した。1977年3月期も33億円にとどまり、売上高が898億円へ伸びるあいだ利益だけが戻らない。回復は1978年3月期の売上高1128億円、経常利益49億円からで、1980年3月期には売上高1599億円、経常利益130億円に達した。1975年に社長へ就いた河村喜典の在任は、この落ち込みから戻る時期に重なる。売る品目を増やすやり方では、利益率を守り切れないことが数字に出ていた。",
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                      "fact": "三共単体の経常利益は1975年3月期71億円から1976年3月期36億円へ半減し、1977年3月期も33億円にとどまった。売上高は1975年3月期876億円、1976年3月期893億円、1977年3月期898億円であった",
                      "原文": "経常利益は1975年3月期の71億円から翌1976年3月期に36億円へ半減した。",
                      "source": "会社年鑑（1976年版・1986年版）",
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                    {
                      "fact": "三共単体の売上高は1978年3月期1128億円・経常利益49億円、1980年3月期1599億円・経常利益130億円へ回復した",
                      "原文": "回復は1978年3月期の売上高1128億円、経常利益49億円からで、1980年3月期には売上高1599億円、経常利益130億円に達した。",
                      "source": "会社年鑑（1976年版・1986年版）",
                      "url": null
                    }
                  ]
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        {
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          "label": "決断",
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              "sub_title": "青かびの発見から18年を投じた",
              "paragraphs": [
                {
                  "text": "1973年、三共醗酵研究所は青かびの一種がコレステロール合成阻害物質を生むことを見つけた。研究の着手から発売までには18年を要している。コレステロールの合成に必要なHMG-CoA還元酵素を阻害するという作用機序は当時どこにも実用例がなく、俗にスタチンと呼ばれる薬の系列は三共の手で世に出た。導入品を売る会社にとって、成果の出ない期間を18年にわたって抱えることは、それ自体が判断であった。1970年代半ばに経常利益が半減した時期も、この研究は続いている。1989年、三共は高脂血症治療薬メバロチンを発売した。",
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                    {
                      "fact": "1973年に青かびの一種がコレステロール合成阻害物質を生むことを三共醗酵研究所が発見し、研究着手から18年後の1989年にHMG-CoA還元酵素の阻害剤（俗にスタチンと呼ばれる）である新薬メバロチンを開発して発売に至った",
                      "原文": "1973年、三共醗酵研究所は青かびの一種がコレステロール合成阻害物質を生むことを見つけた。",
                      "source": "週刊東洋経済 2006年2月4日号「夢よもう一度 三共『メバロチン』再生計画」",
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            {
              "sub_title": "総合会社から一品が支える会社へ変えた",
              "paragraphs": [
                {
                  "text": "発売後の伸び方は、それまでの製品と違った。画期的な作用と効果が評価され、発売から4年で売上高1000億円の大台に乗り、1990年代にはメバロチンボーナスが出るほどの規模に育った。1993年度決算では、売上首位の武田薬品工業の経常利益を三共が上回っている。1990年代半ばにはメバロチン1品目で1335億円を稼ぎ、主要5品目の合計2255億円の6割弱を占めた。国内単品で年商1000億円を超える薬はほかに存在しない。三共の高収益経営を、事実上この一品が支える構造になった。",
                  "evidences": [
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                      "fact": "メバロチンは画期的な作用や効果が評価され発売後4年で売上高1000億円の大台に乗せ、黄金期の1990年代にはメバロチンボーナスが出るほどの巨大商品に成長した",
                      "原文": "画期的な作用と効果が評価され、発売から4年で売上高1000億円の大台に乗り、1990年代にはメバロチンボーナスが出るほどの規模に育った。",
                      "source": "週刊東洋経済 2006年2月4日号「夢よもう一度 三共『メバロチン』再生計画」",
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                      "fact": "三共は平成5年度（平成6年3月期）決算で売り上げトップの武田薬品工業の経常利益を上回る健闘をみせた",
                      "原文": "1993年度決算では、売上首位の武田薬品工業の経常利益を三共が上回っている。",
                      "source": "日本産業史 第4巻（日本経済新聞社、1994年）「化学－環境保護対応に課題」",
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                    {
                      "fact": "三共は一品目で1335億円を稼ぎ出す高脂血症治療薬メバロチンを筆頭に主要製品5品目で2255億円を計上していた",
                      "原文": "1990年代半ばにはメバロチン1品目で1335億円を稼ぎ、主要5品目の合計2255億円の6割弱を占めた。",
                      "source": "週刊東洋経済 1997年4月12日号「再編すらできない今の医薬品業界」",
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                    {
                      "fact": "メバロチンは医薬品の単品では国内で唯一年商1000億円を超える製品で、年商1800億円と三共の総売上高の約4割を占めた",
                      "原文": "国内単品で年商1000億円を超える薬はほかに存在しない。",
                      "source": "週刊東洋経済 1999年4月10日号「三共高収益路線に黄信号 期待の糖尿病薬、英国で販売再開ならず」",
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                {
                  "text": "メバロチンは世界で6位に入る大型薬まで伸びた。1997年時点の三共は、武田薬品、山之内製薬と並んで海外販売に実績を持つ国内トップ3の一角にあり、大手8社のなかでも一人当たり経常利益1272万円は山之内製薬に次ぐ水準にある。この余裕が、当時の業界再編から三共を遠ざけた。吉富製薬とミドリ十字の合併が業界に波紋を投げたとき、三共の河辺進副社長は「大手はどこも各疾病の薬を持っている。合併しても人員淘汰に苦労するだけ」と語り、同社の課題は国内再編ではなく米国での販売網構築にあるとした。自社創薬で稼げるあいだ、規模を買う必要はなかった。",
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                      "fact": "三共は高脂血症治療薬メバロチンが売上高で国内トップ、世界でも第6位に成長しており、海外販売に実績のある武田薬品・三共・山之内製薬のトップ3が断然有利とされた",
                      "原文": "メバロチンは世界で6位に入る大型薬まで伸びた。",
                      "source": "週刊東洋経済 1998年1月3日号「医薬品 海外販売で格差が鮮明化」",
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                      "原文": "大手8社のなかでも一人当たり経常利益1272万円は山之内製薬に次ぐ水準にある。",
                      "source": "週刊東洋経済 1997年4月12日号「再編すらできない今の医薬品業界」",
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                      "fact": "三共の河辺進副社長は「大手はどこも各疾病の薬を持っている。合併しても人員淘汰に苦労するだけ」と述べ、同社の課題は国内ではなく米国での販売網構築にあるとした",
                      "原文": "三共の河辺進副社長は「大手はどこも各疾病の薬を持っている。合併しても人員淘汰に苦労するだけ」と語り、同社の課題は国内再編ではなく米国での販売網構築にあるとした。",
                      "source": "週刊東洋経済 1997年4月12日号「再編すらできない今の医薬品業界」",
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              "sub_title": "特許の期限が会社の期限になった",
              "paragraphs": [
                {
                  "text": "2000年、米ファイザーがコレステロール低下効果のより高いリピトールを日本で発売する。2002年にメバロチンの国内特許が失効して同一成分の後発医薬品が現れ、メバロチンの国内売上高は2003年度に8%減、2004年度に19%減となって、高脂血症治療薬のシェア首位をリピトールに明け渡した。それでもメバロチンの粗利益は国内と輸出を合わせて1300億円あり、2005年3月期連結粗利益の3分の1を占めている。退潮してなお、この一品が会社の3分の1を担っていた。",
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                    {
                      "fact": "2000年に米ファイザーがコレステロール低下効果がより高いとされるスタチン「リピトール」を日本で発売し、2002年にメバロチンの国内特許が失効して同じ効き目で値段が安いジェネリック医薬品も登場した",
                      "原文": "2002年にメバロチンの国内特許が失効して同一成分の後発医薬品が現れ、メバロチンの国内売上高は2003年度に8%減、2004年度に19%減となって、高脂血症治療薬のシェア首位をリピトールに明け渡した。",
                      "source": "週刊東洋経済 2006年2月4日号「夢よもう一度 三共『メバロチン』再生計画」",
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                    {
                      "fact": "日興シティグループ証券の山口秀丸アナリストはメバロチンの粗利益を国内販売分680億円・輸出分630億円の計1300億円と試算し、三共の2005年3月期連結粗利益の3分の1を占めるとした",
                      "原文": "それでもメバロチンの粗利益は国内と輸出を合わせて1300億円あり、2005年3月期連結粗利益の3分の1を占めている。",
                      "source": "週刊東洋経済 2006年2月4日号「夢よもう一度 三共『メバロチン』再生計画」",
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                {
                  "text": "決定的だったのは輸出のほうであった。2006年4月には米国でもメバロチンの特許が失効する。後発品のシェアが5割を超える米国では切り替わりが速い。日興シティグループ証券の山口秀丸は、2005年3月期の会社営業利益850億円のうち8割を占める輸出利益が吹き飛びかねないと見た。統合に踏み切った最大の理由は米国特許切れへの危機感だとしている。血圧降下剤オルメテックは2005年度に世界売上高約883億円へ倍増する見込みで、2000億円製品への育成を狙ってはいたものの、メバロチンの穴を埋めるには育ち切っていない。2005年9月、三共は第一製薬と株式移転で統合し、上場を廃止した。",
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                    {
                      "fact": "2006年4月に米国でもメバロチンの特許が失効し、ジェネリック薬のシェアが5割を超える米国では切り替わりも速い。山口アナリストは2005年3月期の会社営業利益850億円の8割を占める輸出利益が吹き飛びかねないとし、三共が第一製薬との経営統合に踏み切ったのは米国特許切れへの危機感が最大の理由と見た",
                      "原文": "日興シティグループ証券の山口秀丸は、2005年3月期の会社営業利益850億円のうち8割を占める輸出利益が吹き飛びかねないと見た。",
                      "source": "週刊東洋経済 2006年2月4日号「夢よもう一度 三共『メバロチン』再生計画」",
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                    {
                      "fact": "血圧降下剤オルメテック（米国名ベニカー）の2005年度世界売上高は約倍増の883億円の見込みで、三共は2000億円製品への育成を狙っていた",
                      "原文": "血圧降下剤オルメテックは2005年度に世界売上高約883億円へ倍増する見込みで、2000億円製品への育成を狙ってはいたものの、メバロチンの穴を埋めるには育ち切っていない。",
                      "source": "週刊東洋経済 2006年2月4日号「夢よもう一度 三共『メバロチン』再生計画」",
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                {
                  "text": "18年を投じた自社創薬という判断そのものは、当時の三共にとって合理的であった。導入品と農薬を並べる総合会社のままでは、1970年代半ばに露呈した利益率の弱さを直せない。誤算があったとすれば、メバロチンが想定を超えて売れたことのほうだったとみられる。一品で総売上の4割を稼ぐ状態は、社内の資源配分も研究の優先順位もその一品に引き寄せる。第二の柱を作る時間は、成功の大きさに比例して短くなった。"
                },
                {
                  "text": "2005年の統合は、経営の失敗の帰結としてだけでは読み切れない。スタチンという系列を世に出した会社が、自ら生んだ市場で米ファイザーに首位を奪われ、特許という制度上の期限に追われた。同じ構造は、単一の大型薬に依存する製薬会社であれば誰の身にも起こる。三共が特異だったのは依存の深さであって、依存そのものではなかった。メバロチンは統合後の第一三共に引き継がれ、2005年11月には日本人約8000人を対象とした市販後調査の結果が米国心臓協会で発表された。"
                },
                {
                  "text": "なお本稿は、統合そのものの経緯と条件を扱っていない。三共と第一製薬がどのような交渉を経て株式移転を選んだかは、統合後企業である第一三共の判断として別に記録されている。ここで示したのは、その統合を選ばざるをえない位置まで三共を運んだのが、16年前に自ら世に出した一品であったという因果である。"
                }
              ]
            }
          ]
        }
      ],
      "references": [
        "週刊東洋経済 2006年2月4日号「夢よもう一度 三共『メバロチン』再生計画」",
        "週刊東洋経済 1997年4月12日号「再編すらできない今の医薬品業界」",
        "週刊東洋経済 1998年1月3日号「医薬品 海外販売で格差が鮮明化」",
        "証券アナリストジャーナル 1984年22巻4号「ワーナー・ランバート」",
        "日本産業史 第4巻（日本経済新聞社、1994年）「化学－環境保護対応に課題」",
        "株式会社年鑑 昭和37年版",
        "会社年鑑（1976年版・1986年版）"
      ],
      "authored": "2026-07",
      "last_updated": "2026-07-29"
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    {
      "slug": "noscal-global-launch-1997",
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      "year": 1997,
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      "title": "糖尿病薬ノスカールの国際展開と「第二の柱」戦略の挫折",
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          "text": "1997年、三共は自社創製の糖尿病薬トログリタゾン（商品名ノスカール）を日本・米国で同時発売し、英国でも発売した。世界初のインスリン抵抗性改善剤を、大手との合併ではなく自社創薬と海外大手への販売権供与で世界へ送り出し、主力品メバロチンに次ぐ第二の柱に育てようとした経営判断。"
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          "text": "三共はノスカールを1997年3月に日米で同時発売し10月に英国でも発売、米国はワーナー・ランバート、欧州はグラクソ・ウエルカムに販売権を与えた。自社の創薬力と海外大手の販売網を組み合わせ、潜在患者を含め欧米各1600万人という巨大市場を狙った。"
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        "source": "三共 有価証券報告書（1997年3月期・単体）"
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              "sub_title": "メバロチンという一本足の高収益",
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                {
                  "text": "三共は自社が創製した高脂血症治療薬メバロチンで高収益を築いていた。メバロチンはスタチン系として世界で最初に実用化され、その年商は1800億円と三共の総売上高の約4割を占めていた。国内の単品では唯一年商1000億円を超える大型薬であり、三共の高収益経営をほぼ一手に支えていた。ただし収益の柱が一つの製品に偏る構造は、その特許が切れる時期が近づくほど重い課題となっていた。",
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                    {
                      "fact": "メバロチンは年商1800億円と三共の総売上高の約4割を占め、国内単品で唯一年商1000億円を超える大型薬だった",
                      "原文": "ノスカールの年商は輸出を含め三〇〇億円、すでに三共の製品別売り上げで二位の座を固めた。が、年商一八〇〇億円と総売り上げの四割を占め、三共の高収益経営を支えるメバロチンには及ばない。（中略）メバロチンは医薬品の単品では国内で唯一年商一〇〇〇億円を超えるお化け製品だ。",
                      "source": "週刊東洋経済 1999年4月10日号「三共高収益路線に黄信号 期待の糖尿病薬、英国で販売再開ならず」",
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              "sub_title": "特許切れを見据えた第二の柱",
              "paragraphs": [
                {
                  "text": "メバロチンは日本で2002年、欧米で2005年前後に特許切れを迎える見通しであった。ほかに有力な新薬がない以上、その穴を埋める次の主力品づくりが三共の将来を左右する状況にあった。三共が狙いを定めたのは糖尿病領域である。従来の糖尿病薬が膵臓を刺激してインスリンを絞り出すのに対し、三共が自社開発したトログリタゾン（商品名ノスカール）は、インスリンの働き自体を高める世界最初のインスリン抵抗性改善剤であった。",
                  "evidences": [
                    {
                      "fact": "メバロチンは日本で2002年、米欧で2005年前後に特許切れを迎える見通しで、ほかに有力新薬がなかった",
                      "原文": "とはいえ、日本で２００２年、米・欧で２００５年前後に特許が切れる。ほかに有力新薬がない以上、ノスカールがどこまでメバロチンに迫れるかが三共の将来を左右する。",
                      "source": "週刊東洋経済 1999年4月10日号「三共高収益路線に黄信号 期待の糖尿病薬、英国で販売再開ならず」",
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                },
                {
                  "text": "ノスカールは膵臓に負担をかけず長期の安定投与が可能とされ、大きな市場が視野に入っていた。糖尿病の潜在患者を含めれば欧米で各1600万人、日本だけでも600万人といわれ、三共は同社の高脂血症薬メバロチンに次ぐ第二の柱として大きな期待をかけていた。世界初の作用機序を持つ新薬を自ら創り、これをメバロチン後の収益源へ育てるという構想であった。",
                  "evidences": [
                    {
                      "fact": "糖尿病の潜在患者は欧米で各1600万人・日本で600万人といわれ、三共はノスカールをメバロチンに次ぐ第二の柱として期待した",
                      "原文": "糖尿病患者は、潜在患者も含めれば欧米で各一六〇〇万人、日本だけでも六〇〇万人といわれ、三共では世界六位の大型薬に成長した同社開発の高脂血症薬「メバロチン」（年商一七〇〇億円）に次ぐ第二の柱として期待が大きかった。",
                      "source": "週刊東洋経済 1997年12月20日号「三共 糖尿病薬副作用死の余波」",
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          "label": "決断",
          "subsections": [
            {
              "sub_title": "自社創薬・自社展開による国際化への賭け",
              "paragraphs": [
                {
                  "text": "三共が選んだのは、大手との合併による規模拡大ではなく、自社が生んだ新薬を海外市場へ送り出す道であった。1997年3月、ノスカールを日本と米国で同時に発売し、10月には英国でも発売した。米国はワーナー・ランバート、欧州はグラクソ・ウエルカムに販売権を与え、自社の創薬力と海外大手の販売網を組み合わせてメバロチンに次ぐ柱を築こうとした。発売から間もなく、投与患者は日本で15万人、米国で60万人に達していた。",
                  "evidences": [
                    {
                      "fact": "1997年3月に日本・米国で同時発売、10月に英国でも発売し、販売は米ワーナー・ランバート、欧州はグラクソ・ウエルカムに委ね、投与患者は日本15万人・米国60万人に達した",
                      "原文": "１９９７年３月に日本、米国（販売はワーナーランバート社）で同時発売、１０月には英国（グラクソウエルカム社）でも販売開始。現在までに日本一五万人、米国六〇万人、英国五千人に投与されている。",
                      "source": "週刊東洋経済 1997年12月20日号「三共 糖尿病薬副作用死の余波」",
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                },
                {
                  "text": "三共はノスカールを「メバロチン後をにらんで開発した戦略製品」と位置づけていた。その年商は輸出を含め早くも300億円に達し、製品別の売り上げで第2位の座を固めた。膵臓を疲弊させない新しい作用機序は、追随する同種同効薬の登場が遅れているうちに世界標準を取りにいく好機と映っていた。画期的な新薬を自ら創り、自ら世界へ広げるという構想に、メバロチン後の高収益がかかっていた。",
                  "evidences": [
                    {
                      "fact": "ノスカールはメバロチン後をにらんで開発した戦略製品と位置づけられ、年商300億円で三共の製品別売り上げ2位を固めていた",
                      "原文": "ノスカールは三共が主柱の高脂血症薬「メバロチン」後をにらみ開発した戦略製品。（中略）ノスカールの年商は輸出を含め三〇〇億円、すでに三共の製品別売り上げで二位の座を固めた。",
                      "source": "週刊東洋経済 1999年4月10日号「三共高収益路線に黄信号 期待の糖尿病薬、英国で販売再開ならず」",
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          "section": "outcome",
          "label": "結果",
          "subsections": [
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              "sub_title": "副作用と欧州からの後退",
              "paragraphs": [
                {
                  "text": "発売の年の1997年10月、米FDAが全世界で35例の重篤な副作用を報告し、ノスカールに肝障害の副作用があることが明らかになった。日本では因果関係を否定できない死亡例が報告され、厚生省は12月1日付で最も重い警告文である緊急安全性情報の配布を三共に指示した。欧州では販売元のグラクソ・ウエルカムが12月に英国での販売を自主停止し、他の欧州諸国でも承認申請を取り下げた。世界同時展開の一角が発売初年に崩れた。",
                  "evidences": [
                    {
                      "fact": "1997年10月にFDAが35例の重篤な副作用を報告、死亡例を受け12月1日に厚生省が緊急安全性情報を指示し、英国では販売が自主停止された",
                      "原文": "副作用は、１０月３０日米国ＦＤＡが全世界で三五例の重篤な副作用が出たと報告して明らかになった。（中略）因果関係を否定できない死亡三例が報告されたため、１２月１日付けで厚生省が最も重い警告文（緊急安全性情報）の配布を三共に指示したのだ。（中略）欧州では、発売元のグ社が１２月１日英国での販売を自主停止、その他の欧州諸国でも申請を取り下げた",
                      "source": "週刊東洋経済 1997年12月20日号「三共 糖尿病薬副作用死の余波」",
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            {
              "sub_title": "大西洋を挟んだ明暗",
              "paragraphs": [
                {
                  "text": "三共は欧州での販売再開をめざしたが、1999年4月、英国の医薬品当局は再開申請を却下した。英国で承認を得られなければEU他国での承認も難しく、欧州市場への出遅れは決定的となった。一方、米FDAの諮問委員会は、単独投与の効果を一部疑問視しつつ、他の糖尿病薬と併用するならリスクを効用が上回ると認め、対象患者の拡大に道を開いた。同じ薬が大西洋を挟んで正反対の評価を受け、株価も乱高下した。",
                  "evidences": [
                    {
                      "fact": "1999年4月に英当局が販売再開申請を却下してEUでの承認が困難になり、米FDA諮問委は他剤併用での使用を容認した",
                      "原文": "このたび、欧州では英医薬品庁がノスカール販売再開申請を却下。一方、米食品医薬品庁（ＦＤＡ）諮問委は、ノスカール単独投与の効果は一部疑問視しながらも、他の糖尿病薬と併用するならリスクをベネフィット（効用）が上回ると発表。明暗が分かれた。",
                      "source": "週刊東洋経済 1999年4月10日号「三共高収益路線に黄信号 期待の糖尿病薬、英国で販売再開ならず」",
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                },
                {
                  "text": "さらに競合の登場が先行者の利を奪った。武田薬品のアクトス、英スミスクラインのアバンディアが相次いで米国で優先審査へ進み、ノスカールが切り開いた市場を追った。欧州での出遅れと競合品の登場から急成長は難しく、三共のなかでもノスカールは依然としてメバロチンの後継には力不足と見られた。年商は300億円で止まり、メバロチンの1800億円には届かなかった。",
                  "evidences": [
                    {
                      "fact": "競合の武田薬品アクトス・英スミスクラインアバンディアが米国で優先審査へ進み、ノスカールは依然ポスト・メバロチンには役不足と見られた",
                      "原文": "英スミスクライン「アバンディア」と武田薬品「アクトス」で、米国では両者ともＦＤＡの優先審査対象となり、年内にも発売されるため、三共が先行者メリットを生かせるかが微妙になった。（中略）依然、ポスト・メバロチンには役不足であることは明らかだ。",
                      "source": "週刊東洋経済 1999年4月10日号「三共高収益路線に黄信号 期待の糖尿病薬、英国で販売再開ならず」",
                      "url": null
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            },
            {
              "sub_title": "単独路線の限界と統合へ",
              "paragraphs": [
                {
                  "text": "メバロチンの特許切れが迫るなか、三共は次の柱を自力で立てられないという現実に直面した。世界の医薬品業界は2000年からの5年間で大再編に突入し、合併を重ねて売上高100億ドルを超えるメガファーマが相次いで生まれていた。国内で断トツの武田薬品でさえ世界14位という規模の差のなかで、海外で戦うには先立つ資金とそれを生み出す企業規模が要るという認識が広がった。",
                  "evidences": [
                    {
                      "fact": "世界の医薬品業界は2000年からの5年で大再編に突入し売上高100億ドル超のメガファーマが相次いで誕生、国内首位の武田薬品でも世界14位にとどまった",
                      "原文": "世界の医薬品業界は２０００年からの５年間、大再編時代に突入した。（中略）ついに売上高４００億ドルを超えるメガファーマが誕生した。（中略）日本では断トツの武田薬品も世界では１４位。存在感は薄れてしまっている。（中略）海外を目指すには、先立つカネと、それを生み出す企業規模が必要条件。",
                      "source": "週刊東洋経済 2005年11月19日号「2010年の最強企業 第一三共誕生でもなお厚い世界の壁」",
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                  ]
                },
                {
                  "text": "自社が生んだ新薬を単独で世界へ送り出すという構想は、発売初年に副作用が出た時点で行き詰まった。2005年9月、三共は第一製薬と株式移転で経営統合し、共同持株会社・第一三共として再出発した。新薬開発費と販売網を単独では抱えきれないという危機感が、旧二社を一つの持株会社へ束ねる動機となった。",
                  "evidences": [
                    {
                      "fact": "2005年9月に三共と第一製薬が株式移転で第一三共株式会社を設立し、同日東証一部に上場した",
                      "原文": "2005年9月、三共と第一製薬は株式移転方式で共同持株会社「第一三共株式会社」を設立し、同日東証一部に上場した。",
                      "source": "第一三共 有価証券報告書",
                      "url": null
                    }
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                }
              ]
            },
            {
              "sub_title": "筆者見解",
              "editorial": true,
              "paragraphs": [
                {
                  "text": "ノスカールのつまずきは、三共が積み上げた創薬力の高さと、単独で世界市場を取りにいくことの難しさを同時に映していた。世界初の作用機序を自ら生み出す力がありながら、副作用という不確実性が現れたとき、一社で欧州から米国までを支え切る体力と販売網を欠いていた。第二の柱を一つの製品に託した構造の危うさが、発売初年の副作用問題で一気に表れた。"
                },
                {
                  "text": "統合後の第一三共が掲げた自社開発・自社販売による利益増大という戦略は、ノスカールで描こうとした構図の延長線上にある。自ら創り自ら売るほど利益は大きいが、失敗したときの痛手も一社に集中する。その振れ幅を受け止める規模を単独では持てなかったことが、旧二社を一つの持株会社へ束ねる遠因になったとみられる。"
                }
              ]
            }
          ]
        }
      ],
      "references": [
        "週刊東洋経済 1997年12月20日号「三共 糖尿病薬副作用死の余波」",
        "週刊東洋経済 1999年4月10日号「三共高収益路線に黄信号 期待の糖尿病薬、英国で販売再開ならず」",
        "週刊東洋経済 2005年11月19日号「2010年の最強企業 第一三共誕生でもなお厚い世界の壁」",
        "第一三共 有価証券報告書"
      ],
      "authored": "2026-07",
      "last_updated": "2026-07-20"
    }
  ]
}
