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        "source": "私の履歴書 経済人1「原安三郎」（日本経済新聞社、1980年）",
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          "text": "1884年3月に徳島で生まれ、3歳で患った骨膜炎のために左足と右手が不自由になった。体操が正課になった徳島中学では、体操のできない者は退校とする達しで2年生のときに学校を離れた。19歳で父を亡くしたのち上京し、早稲田大学の商科を1909年に首席で卒えた。三井物産の入社試験では体を理由に本店勤務に限ると告げられて辞退し、同社常務の山本条太郎氏の個人の事業に加わった。薬丸金山の会計、出版社の金港堂の整理、日本硫黄の運営と、行き詰まった会社の立て直しを任されて経験を積んだ。"
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          "text": "日本火薬製造は、三井物産を離れた山本条太郎氏が産業用火薬の民営に着目して1916年6月に創業した会社である。原安三郎氏は1921年に監査役として経営陣に加わり、1923年に専務取締役となって社長の山本条太郎氏を補佐した。1927年に山本条太郎氏が退任すると、専務のまま実質的に社長の役目を担い、1935年に正式に社長に就任した。創業者の個人の事業で不振会社の整理を任されてきた経緯から、後継に選ばれたとみられる。"
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          "text": "専務時代の1929年3月、輸入品の投げ売りで値崩れしたダイナマイトの市況を収めるため、帝国火薬工業と軍、外国商社との販売協定をまとめた。1934年11月には日本導火線・日本雷管・中外雷管を吸収合併し、爆薬と火工品を一つの会社にそろえた。戦後は占領軍が火薬類の生産を認めない方針を示すなか、業界の代表として製造の再開を求め、1945年11月に石炭採掘向けの爆薬の製造許可を得た。1963年10月には全社で取り組んだ品質管理がデミング賞実施賞を受けた。"
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          "text": "原安三郎氏が経営に加わった当時の日本火薬製造は、1917年に厚狭で民間初の産業用ダイナマイトを出した火薬の専業会社だった。第一次大戦後の反動不況で需要が減少し、1920年8月には作業を休止して275人を解雇している。その後も輸入品の安売りでダイナマイトの値崩れが続き、専務の原安三郎氏が1929年3月の販売協定で市況を収めるまで、火薬一本の収益は不安定だった。\n原安三郎氏が採った方針は、火薬に関連する業種へ範囲を広げることだった。他社と競合する分野や二重の投資は避け、同種の工場がすでにあれば買収か資本参加で、なければ新設で取り込むという順序である。1928年8月、後ろ盾の鈴木商店が金融恐慌で破綻した帝国染料製造を17万5千円で取得し、染料事業に参入した。帝国染料製造は1935年に日本火薬製造からの借入金40万円を返済して経理面で独立したうえ、1938年10月には資本金を500万円に増やして国内の三大染料会社の一つになった。1931年8月には全額出資で山川製薬を設け、自ら社長に就任して、輸入品に依存していたアスピリンの国産化に向かった。翌1932年4月に王子の工場が操業を始め、同年12月にはアスピリンの製品化にこぎつけた。\n三社は長く別々の会社として運営されたが、1943年12月に日本火薬製造が帝国染料製造と山川製薬を合併し、続いて日本色素製造と東京染料工業も取り込んだ。社史はこの合併を、一品種の製造業から化学工業の会社への出発点と位置づけ、原安三郎氏の念頭には火薬会社から総合化学会社となった英国のICIがあったと記す。1945年12月の株主総会では、「火薬」の字を避けながら「カヤク」の音を残す日本化薬へと商号を改めた。\n戦後は医薬と農薬が収益源に加わり、1948年にはDDTとペニシリンの生産を始めた。1956年にはスイスのガイギー社と技術を提携して農薬の生産に本格的に入り、農薬の売上高は1963年に12億円を超えて医薬品を上回った。全社の売上高に占める火薬部門の比率は、1955年からの10年間で52%から32%へ下がり、1963年には染料部門が火薬部門を追い抜いた。1965年の時点で農薬部門は全社の売上高の14%を占め、同社は火薬・染料・医薬・農薬の四部門を持つ会社になっていた。\n1967年の社史の刊行時、原安三郎氏の社長在任は正式な就任から31年を数えていた。社長職は1973年7月まで続け、89歳で会長に移った。1978年5月の雑誌の取材には、94歳の会長として応じている。"
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