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      "extraction": "EDINET の XBRL から機械抽出した役員表を土台に、雑誌記事・社史・報道で経歴と出自を補完",
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    "name": "中野友禮",
    "kana": "なかの　とものり",
    "surname": "中野",
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    "origin": "創業家（1920年創立）。京都帝国大学の化学教室で中野式食塩電解法を完成させた技術者で、その製法を事業にするため鈴木寅彦氏とともに日本曹達を発起し、創立時に専務取締役、1936年に2代目の社長となった",
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            "role": "中野式食塩電解法を完成し特許を取得",
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            "date": "1918-12",
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      {
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    "references": [
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        "source": "日本曹達70年史（日本曹達, 1992年）第1章 日本曹達の創業期・コラム「中野友禮の生い立ち」",
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          "text": "中野友禮氏は1887年2月1日、福島県大沼郡川西村西方の神尾家の次男に生まれ、3歳で母の実家の中野家に養子として入った。会津中学校を出たのち家庭の事情で大学への進学をあきらめ、第一高等学校の中に置かれた臨時中等教員養成所に進んだ。1908年の卒業の際、所長を兼ねた新渡戸稲造氏から大日本製糖専務の磯村音介氏を紹介され、その学資で京都帝国大学理学部の化学教室に入った。電解法ソーダの研究者である吉川龜次郎教授の下で研究に打ち込み、1913年に中野式食塩電解法を完成させて特許を得た。\n吉川教授の退官とともに研究室を離れた中野友禮氏は、磯村氏の誘いで上京し、磯村氏が営むガス灯カバー工場の一隅で電解法の工業化研究に取りかかった。第1次世界大戦でドイツなどからの化学製品の輸入が途絶え、国内では化学工業を興す機運が高まっていた。1915年3月に磯村氏が程ヶ谷曹達工場を設けると、技術を出資して技師長に就任し、同年9月に国内で最初の電解法カセイソーダの企業化を果たした。28歳で常務取締役に推されたが、経営の実権は持たず、磯村氏らとの意見の違いから1917年に同社を去った。\n次に目指したのは、自らが経営する電解法ソーダ会社だった。静岡県江尻町で富士水電と鈴木寅彦氏を共同出資者として第一次の日本曹達を設け、好況のなかで工場の拡張を進めた。ところが1918年末の大戦の終結で製品の売れ行きと銀行の融資が止まり、拡張の代金も払えなくなった。中野友禮氏は一般株主に損を負わせないよう、払込済みの株を額面で買い取って富士水電に引き取らせ、会社は富士水電の曹達部に姿を変えた。\n1918年12月、中野友禮氏と鈴木寅彦氏は新潟県中郷村の日本電気亜鉛から経営の立て直しを頼まれ、同社を日本電炉工業と改めた。経営の実務を一任された中野友禮氏は塩素酸曹達の製造を新たに始め、毎月1万円の欠損を出していた会社を1年で8分配当ができるまでに戻した。そのころ新潟の中央電気から1キロワット6厘で電力を使わないかと持ちかけられ、ソーダ会社の再建に向けた検討に入った。1919年11月、同郷の先輩で仲人でもある鈴木寅彦氏とともに発起人となり、中野式隔膜電解法でカセイソーダと晒粉を造る会社の設立準備に入った。\n1920年2月1日の創立総会で日本曹達は資本金75万円で発足し、社長に鈴木寅彦氏、専務取締役に32歳の中野友禮氏が就任した。創立は大戦後の反動恐慌に入る時期と重なり、中野友禮氏が唱えた「仕事は不況の時に始めよ」を体現する発足だった。二本木工場は6月末に完成したものの、電力を送る越後電気の故障で第1期は生産に入れず、薬品の売買の仲介で収益を得るにとどまった。\nその後、1926年4月に隣の日本電炉工業を合併し、電解で同時に出る塩素と水素を液体塩素や硬化油の原料に回して製品を広げた。1936年に鈴木寅彦氏が退くと、中野友禮氏は資本金を2500万円に増やすと同時に2代目の社長に就任した。傍系の会社を急速に増やした日曹コンツェルンは1940年に行き詰まり、中野友禮氏は同年末に社長を辞任した。"
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