{
  "spec_version": "6",
  "endpoint": "ceo-person",
  "stock_code": "2613",
  "company_name": "J-オイルミルズ",
  "content_lang": "ja",
  "meta_lang": "en",
  "canonical_url": "https://the-shashi.com/tse/2613/executives/ceo/sugiyama-kintaro/",
  "api_url": "/api/2613/ceo/sugiyama-kintaro.json",
  "updated": "2026-11-04",
  "license": "© 2026 Yutaka Sugiura. All rights reserved.",
  "attribution": "The社史 (the-shashi.com) — https://the-shashi.com/tse/2613/executives/ceo/sugiyama-kintaro/",
  "source": {
    "person": {
      "primary": [
        "有価証券報告書（役員の状況）"
      ],
      "extraction": "EDINET の XBRL から機械抽出した役員表を土台に、雑誌記事・社史・報道で経歴と出自を補完",
      "caveat": "在任区間は career の is_ceo_appointed が正本。退任年月は次の代の就任年月から決まる"
    }
  },
  "person": {
    "slug": "sugiyama-kintaro",
    "name": "杉山金太郎",
    "kana": "すぎやま　きんたろう",
    "surname": "杉山",
    "given_name": "金太郎",
    "founder_role": "refounder",
    "birthdate": "1875",
    "hometown": "和歌山県海草郡",
    "education": "市立大阪商業学校 (1894)",
    "education_source": "私の履歴書 経済人2「杉山金太郎」（日本経済新聞社、1980年）",
    "prev_role": "帝都復興院嘱託",
    "prev_company": "帝都復興院",
    "origin": "外部出身。米国貿易会社の輸出部支配人、中外貿易の専務を経て、1924年に鈴木商店の整理の一環として台湾銀行から豊年製油の経営を託された",
    "origin_type": "外部出身",
    "milestone": "鈴木商店の系列から個人の所有を経て事業会社へ移した社長",
    "career_note": "1930年5月に豊年製油の株式を台湾銀行から個人で譲り受け、戦後は財産税の納付のため株式の4分の3を公開した（私の履歴書）。社長を退任したのちは会長、1967年に相談役となり、1973年3月10日に死去した",
    "career": [
      {
        "company": "米国貿易会社",
        "from": null,
        "to": "1917",
        "roles": [
          {
            "date": "1894",
            "role": "大阪商業学校を卒業し実社会に出る"
          },
          {
            "date": "1915",
            "role": "輸出部支配人"
          },
          {
            "date": "1917",
            "role": "退職",
            "event": "退職"
          }
        ]
      },
      {
        "company": "中外貿易",
        "from": "1917",
        "to": null,
        "roles": [
          {
            "date": "1917",
            "role": "創立に参加し専務"
          }
        ]
      },
      {
        "company": "豊年製油（現J-オイルミルズ）",
        "from": "1924-05",
        "to": null,
        "roles": [
          {
            "date": "1924-05",
            "role": "社長",
            "title": "社長",
            "is_ceo_appointed": true
          },
          {
            "date": "1954",
            "role": "社長退任（社長就任満30年を機に子の杉山元太郎に社長を譲り会長）",
            "title": "会長",
            "event": "退任",
            "is_ceo_retired": true,
            "retirement_basis": "press"
          },
          {
            "date": "1967",
            "role": "相談役"
          }
        ]
      }
    ],
    "references": [
      {
        "source": "私の履歴書 経済人2「杉山金太郎」（日本経済新聞社、1980年）",
        "url": "https://dl.ndl.go.jp/pid/11939116",
        "for": [
          "birthdate",
          "hometown",
          "education",
          "career",
          "origin"
        ]
      },
      {
        "source": "J-オイルミルズ 有価証券報告書【沿革】",
        "for": [
          "career"
        ]
      }
    ],
    "sections": {
      "tenure_frames": [
        {
          "frame": "origin",
          "text": "1875年、和歌山県海草郡川永村で田地2〜3町歩の農家の長男に生まれた。家計を考えて中学を4年で退き、市立大阪商業学校に進んで1894年3月に卒業した。校長の成瀬隆蔵氏の推薦で大阪の船主の店に入り、続いて米国貿易会社に移って、日清戦争後に日本の綿糸を中国へ輸出する販路を開拓した。同社では輸出部支配人に昇ったが、1917年に退職し、日本綿花の喜多又蔵氏らと中外貿易を創立して専務に就任した。"
        },
        {
          "frame": "selection",
          "text": "1919年からの戦後恐慌で中外貿易は行き詰まり、杉山金太郎氏は全私財を負債の一部に充てて同社を引退した。横浜正金銀行が抱えた滞貨の処分や帝都復興院の嘱託を務めていたところへ、台湾銀行副頭取の森広蔵氏から、鈴木商店の整理の一環として豊年製油の経営の引き受けを打診された。製油の経験は無かったため、満州へ出向いて原料大豆の買い付けと豆かす・豆油の販売を調べたうえで引き受けを決め、1924年5月に社長に就任した。"
        },
        {
          "frame": "initiatives",
          "text": "就任して帳簿を調べると、資本金1,000万円の豊年製油は鈴木商店に約650万円を貸し越しており、工場はすべて台湾銀行の担保に入っていた。担保の無いまま横浜正金銀行から融資を取り付けて原料を買う資金の道をつけ、本社を神戸の鈴木商店の事務所から東京丸ノ内へ移した。製油を投機から切り離し、原料を買えば必ず搾り、製品は必ず売る方針を定めた。1930年5月には台湾銀行から同社の株式を700万円で個人として譲り受けた。"
        },
        {
          "frame": "results",
          "text": null
        },
        {
          "frame": "refounding",
          "text": "豊年製油は1922年4月、鈴木商店の製油部から4つの工場と営業権を継いで設立された。帝国人絹・神戸製鋼所と並ぶ鈴木商店の三大事業の一つで、杉山金太郎氏が社長に就任した1924年5月には、本社は神戸の鈴木商店の事務所に間借りしていた。資本金1,000万円の会社が親会社に約650万円を貸し越し、工場はすべて台湾銀行の担保に入っていた。大連の製油所の多くは油の定期取引で投機を行う場で、搾油はその補助の扱いにとどまっていた。\n杉山金太郎氏は、製油を投機から切り離して工業として営むと決め、原料を買えば必ず搾り、製品は必ず売ることを経営の原則とした。原料大豆の買い付けは自ら直接指揮し、販売では大阪に支店、名古屋・下関・新潟に出張所、ロンドンにも出張所を置き、国内で捌けない油と豆かすは欧米へ輸出した。品目は大豆を主体とする少数の製品に絞り、品質の改善と優良品の薄利多売を続けた結果、満州大豆を1年に40万トン処理した年もあった。\n1927年の金融恐慌で鈴木商店が破綻すると、豊年製油の株式20万株は台湾銀行の所有に移り、同社は約3年間、銀行の経営下に置かれた。三井物産・三菱商事・大倉組・住友に引き受けを打診して謝絶されたのち、1930年5月に700万円で株式を個人として譲り受けた。支払いは現金50万円と10年賦の650万円で、5〜6年は無配として利益を台湾銀行への返済に回し、1934年8月に5%の配当を始めた。\n商品の形も変わった。大豆油は1923年の関東大震災のころまでほとんどが輸出向けで、国内の食用油は菜種油とゴマ油が主だったが、精製の研究を重ねて食用に向く油に仕上げ、国内で消費される食用油の過半を大豆油が占めるまでになった。肥料として使われていた豆かすは家畜の飼料に回し、大蔵省の醸造試験場の試験をもとに脱脂大豆から醤油を造る製法を確立し、1930年ごろからキッコーマンの工場に納めた。1942年には私財300万円で杉山産業科学研究所を財団法人とした。\n終戦で満州大豆の輸入が止まり、工場は運転の中止に追い込まれたが、1948年からガリオア資金による米国産大豆が入り、操業を再開した。財産税の納付のため、個人で保有していた20万株のうち15万株を野村証券を通じて売却し、豊年製油は個人の会社から株主に開かれた事業会社に移った。社長就任から満30年を機に、1954年に子の杉山元太郎氏へ社長を譲って会長に回った。"
        }
      ]
    },
    "html_url": "https://the-shashi.com/tse/2613/executives/ceo/sugiyama-kintaro/",
    "term_start": "1924-05",
    "term_end": "2015-06",
    "api_url": "https://the-shashi.com/api/2613/ceo/sugiyama-kintaro.json",
    "list_api_url": "https://the-shashi.com/api/2613/ceo.json",
    "predecessor": null,
    "successor": {
      "slug": "八馬史尚",
      "name": "八馬史尚",
      "api_url": "https://the-shashi.com/api/2613/ceo/八馬史尚.json"
    }
  }
}
