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      "year": 1946,
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      "title": "戦災を受けた川崎工場でのペニシリン製造の開始と、抗生物質の原末一貫生産体制の構築",
      "subtitle": "菓子屋がなぜ薬をつくるのか——原料を断たれた製菓会社が、手元の発酵技術の向きを変えた",
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      "highlights": [
        {
          "label": "概要",
          "text": "空襲で主力の川崎工場を焼失し、砂糖も小麦粉も統制下に置かれた1946年、明治製菓は戦時中から研究していたペニシリンの製造を川崎工場で始めた。菓子素材の培養に使ってきた発酵技術を抗生物質へ向け、原末から製剤まで一貫して作る体制へ進んだ。"
        },
        {
          "label": "背景",
          "text": "戦時統制で乳製品6工場と食品4工場を手放し、乳業部門は明治乳業へ譲渡していた。終戦で台湾・朝鮮の2工場も失い、残る工場は菓子4・食品2と休止1のみ。親会社の明治製糖も外地の全資産を失い、砂糖と小麦粉の統制解除は1952年まで待たねばならなかった。"
        },
        {
          "label": "内容",
          "text": "抗生物質はカビの産物であり、その製造の主体は発酵技術で菓子や食品と近い。明治製菓はこの理屈のもとで焼け残った設備の用途を替えた。米テキサス大学のフォスター博士から技術公開と種菌の分与を受け、原末を輸入せず菌の培養から一貫して作る道を選んだ。"
        },
        {
          "label": "含意",
          "text": "ペニシリンは、焼け跡の会社を立て直す原資になった。同じ年に製薬を始めた明治製糖が精糖の再開とともにこれを畳んだのに対し、明治製菓は薬品を残し、70社が5〜6社に絞られたあとも抗生物質の首位に立った。"
        }
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          "name": "明治製菓",
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            "note": "明治製糖を親会社として1916年に東京菓子として発足した製菓会社。終戦時の工場は菓子4・食品2と休止中の1のみ"
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        "summary": "菓子原料が統制下で手に入らない戦後に、既存の発酵技術と焼け残った設備を抗生物質へ転用し、原末から一貫生産する製薬事業を新たな柱に育てた判断"
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          "title": "乳業部門の全事業所を明治乳業へ譲渡（製菓・乳業の役割分担が確定）"
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          "title": "主力の川崎工場が空襲で全焼、終戦で台湾・朝鮮の2工場も失う"
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          "month": 9,
          "title": "親会社の明治製糖が再開転換事業として製薬業・倉庫業の許可を得る"
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          "title": "戦災を受けた川崎工場でペニシリンの製造を開始",
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          "title": "米テキサス大学のフォスター博士が来日、技術公開・種菌分与・生産指導を受ける"
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        },
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          "title": "自社独特の種菌と製法による純国産クロルテトラサイクリンの工業化に成功"
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          "title": "制癌剤ザルコマイシンの製造販売を開始"
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      "snapshot": {
        "fiscal_year": "1955年3月期（判断当時の計数は現存せず、確認できる最古の年度）",
        "source": "会社銀行八十年史（東洋経済新報社, 1955年）「明治製菓」の項",
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            "name": "明治製菓",
            "fiscal_year": "1955年3月期（単体）",
            "president": "浦島亀太郎",
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          "label": "背景",
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              "sub_title": "原料も工場も失った製菓会社",
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                {
                  "text": "明治製菓は1916年に東京菓子として設立され、翌年に大正製菓を合併して明治製糖系に入り、1924年に社名を明治製菓と改めた。菓子と乳製品で伸びたが、日華事変の長期化で食糧品工業は制約を受ける。1941年に北海道の乳製品6工場を北海道興農公社へ、1942年から翌年にかけて食品部門の4工場を各府県の合同食品会社へ現物出資で手放し、1943年9月には乳業部門の全事業所を明治乳業へ譲渡した。",
                  "evidences": [
                    {
                      "fact": "1941年に北海道の乳製品6工場、1942〜43年に食品部門の4工場を現物出資で手放し、1943年9月に乳業部門の全事業所を明治乳業へ譲渡した",
                      "原文": "日華事変の長期化に伴ない、食糧品工業は種々の制約を受け十六年には北海道の乳製品六工場を北海道興農公社に、十七〜八年には食品部門の四工場を各府県合同食品会社に、それぞれ現物出資の形で手離した。また十五年以来、明治乳業に委任経営中の乳業部門の全事業所を十八年九月同社に譲渡した。",
                      "source": "会社銀行八十年史（東洋経済新報社, 1955年）「明治製菓」の項",
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                },
                {
                  "text": "終戦とともに台湾と朝鮮の2工場も失った。残る工場は菓子部門4、食品部門2、ほかに休止中の1を数えるのみとなり、主力の川崎工場は戦災で焼失していた。親会社の明治製糖も外地にあった全資産を失い、内地の工場も大半が空襲の損害を受けている。砂糖という原料の後ろ盾が消えた一方で、水飴の統制解除は1949年11月、砂糖と小麦粉の統制解除に至っては1952年まで待たねばならなかった。",
                  "evidences": [
                    {
                      "fact": "終戦で台湾・朝鮮の2工場を失い、残る工場は菓子4・食品2と休止中1のみで、主力の川崎工場は戦災で焼失していた",
                      "原文": "加えて、終戦とともに台湾、朝鮮所在の二工場を失つた結果、終戦時における当社工場は、菓子部門四、食品部門二、他に休止中のもの一を数えるのみとなつた。【戰後】終戦後の事業は、主力工場である川崎工場の戦災による焼失、経済界の混乱、物資の不足等のため、困難を窮めた",
                      "source": "会社銀行八十年史（東洋経済新報社, 1955年）「明治製菓」の項",
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                      "原文": "ところが終戦とともに外地にあつた全資産を失い、内地工場も大半空襲の損害を被り、かつ本社が台湾にあつたため、内地資産についても、二十年連合国の管理下に置かれ、一切の取引は大蔵大臣の許可を要することになつた。",
                      "source": "会社銀行八十年史（東洋経済新報社, 1955年）「明治製糖」の項",
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                    {
                      "fact": "水飴の統制解除は1949年11月、キャラメルの自由販売は1950年1月、砂糖・小麦粉の統制解除は1952年だった",
                      "原文": "昭和二四年一一月には、ようやく水飴統制が解除され、翌二五年一月には、キャラメルの自由販売がみとめられるようになった。（略）昭和二七年、待望の砂糖、小麦粉の統制解除の実現とともに、戦前を上回る激烈な自由競争時代に突入したのである。",
                      "source": "企業の歴史 : 明治百年（経済春秋社, 1968年）",
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              "sub_title": "菓子と薬をつなぐ発酵技術",
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                {
                  "text": "明治製菓は戦争末期から川崎工場の一部でペニシリンを研究していた。菓子会社が薬を手がける理由を、同社は事業の系譜ではなく製造技術に求めた。細井徳次郎社長は1965年に「よくわれわれ菓子屋が薬をやるのはおかしいといわれますが、これは関連性があるわけなんです」と述べ、抗生物質はカビから出る物質を利用した薬であり、その製造の主体となるのは発酵技術だと説明した。",
                  "evidences": [
                    {
                      "fact": "抗生物質はカビから出る物質を利用した薬であり、製造の主体は発酵技術で菓子・食品と密接な関係がある、と細井徳次郎社長が説明した",
                      "原文": "よくわれわれ菓子屋が薬をやるのはおかしいといわれますが、これは関連性があるわけなんです。というのは、当社の薬は普通の化学薬品と違って、抗生物質といって、いわばカビから出る物質を利用した薬ですし、その製造の主体となるのは酸酵技術ですから、菓子や食品に密接な関係があるわけです。",
                      "source": "経済時代 1965年12月号（30巻12号）細井徳次郎 明治製菓社長インタビュー",
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                {
                  "text": "同じ年に薬へ向かったのは明治製菓だけではない。親会社の明治製糖は1946年9月に再開転換事業として製薬業の許可を得て転化糖注射薬などを作り、兄弟会社の明治乳業も同年10月に大阪工場へペニシリンの製造設備を新設している。戦前派の大企業は戦災と公職追放に統制が重なって原料が手に入らず、残存設備を使った副業で復興のための資本を蓄えた。味の素は焼け残った乾澱工場でDDTを作り、大日本製糖はパン用イーストを手がけている。",
                  "evidences": [
                    {
                      "fact": "明治製糖は1946年9月に再開転換事業として製薬業・倉庫業の許可を得て、川崎の製薬工場で転化糖注射薬などの製造を始めた",
                      "原文": "内地残存設備の有効な利用と、製糖事業その他食品工業部門における多年の技術、経験を生かすため、二十一年九月再開転換事業として製薬業、倉庫業につき許可を得て、操業を開始した。製薬業は川崎の製薬工場において、転化糖注射薬を中心として、ザルソブロカ転化糖注射薬、グルコン酸石灰注射薬、さらに家畜の人工受精用薬糖等を製造し",
                      "source": "会社銀行八十年史（東洋経済新報社, 1955年）「明治製糖」の項",
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                      "fact": "明治乳業は1946年10月に大阪工場にペニシリン製造設備を新設し、各種ペニシリンの製造を開始した",
                      "原文": "二十一年十月大阪工場にペニシリン製造設備を新設し、各種ペニシリンの製造を開始した。",
                      "source": "会社銀行八十年史（東洋経済新報社, 1955年）「明治乳業」の項",
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                    },
                    {
                      "fact": "戦前派の大企業は戦災・集中排除法・公職追放と統制で原料入手が難しく、残存設備を利用した副業で復興のための資本を蓄積した。味の素は焼け残った乾澱工場でDDTを作り、明治製糖・台糖は発酵技術を生かした薬品、大日本製糖はパン用イーストを手がけた",
                      "原文": "戦前派の大企業は戦災、集排法の適用、幹部の公職追放などに加えて統制のため原料入手はむずかしく、さりとてヤミもしにくいという事情にしばられていた。このため多くは残存設備を利用した副業や内職で経営を支えながら復興のための資本を蓄積していったケースが多い。たとえば「味の素」は政府委託のとうもろこしや小麦の製粉を引き受ける一方で焼け残った乾澱工場でDDTを作った。（略）このほか戦前派砂糖会社も残存の内地設備で醗酵技術を生かした薬品の製造（「明治製糖」「台糖」）、パン用イーストやイースト残渣利用のしょうちゅう製造（「大日本製糖」）などを手がけている",
                      "source": "日本産業史 第2巻（日本経済新聞社、1994年）「繊維－\"不死鳥\"よみがえる」",
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        {
          "section": "origin",
          "label": "決断",
          "subsections": [
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              "sub_title": "焼け跡の発酵設備を、菓子素材ではなく抗生物質へ",
              "paragraphs": [
                {
                  "text": "1946年11月、明治製菓は戦災を受けた川崎工場でペニシリンの製造を始めた。会社銀行八十年史は、これを同社復興の端緒と記している。菓子の原料が統制下で手に入らない時期に、手元に残っていた発酵の技術と設備で作れる高付加価値品へ用途を振り向けた選択であった。統制経済下で菓子と缶詰・壜詰が不振に陥るなか、松前・八日市の2工場と大野製塩場を新設して農水産加工品や塩の製造も始めている。",
                  "evidences": [
                    {
                      "fact": "1946年11月に川崎工場でペニシリンの製造を開始し、これが同社復興の端緒となった",
                      "原文": "すなわち、新製品としては、当社復興の端緒となつたペニシリン(戦時中から当社で研究中のもの)が二十一年十月から川崎工場において製造を開始し",
                      "source": "会社銀行八十年史（東洋経済新報社, 1955年）「明治製菓」の項",
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                    },
                    {
                      "fact": "明治製菓は1946年にペニシリンの製造を開始し、薬品事業に進出した",
                      "原文": "1946.11 ペニシリンの製造を開始。薬品事業に進出。",
                      "source": "日本会社史総覧（東洋経済新報社, 1995年）「明治製菓」の項",
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                    },
                    {
                      "fact": "統制経済下の菓子・缶詰の不振に対し、松前・八日市の2工場と大野製塩場を新設して農水産加工品や塩の製造を始めた",
                      "原文": "明治製菓は統制経済下における菓子、罐・壜詰の不振に処して、戦後いちはやく松前（北海道）、八日市（滋賀）の二工場、および大野製塩場（広島）を新設して農水産加工品、塩などの食品の製造をはじめるとともに、川崎工場の一部において実験研究中のペニシリンの製造を開始した。",
                      "source": "企業の歴史 : 明治百年（経済春秋社, 1968年）",
                      "url": null
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                  ]
                },
                {
                  "text": "独力で立ち上げたわけではない。1946年11月に来日した米テキサス大学のフォスター博士から、米国技術の全面的な公開、種菌の分与、個別の生産指導を受け、品質の改良とタンク培養による量産化で質・量とも急上昇した。1947年10月から研究試作していたストレプトマイシンは1950年7月に製造販売へこぎつけ、1951年には米メルク社と技術援助契約を結んで収率を高めている。",
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                      "fact": "1946年11月に来日した米テキサス大学のフォスター博士から技術の全面公開・種菌の分与・生産指導を受け、タンク培養による量産化で品質と生産量が急上昇した",
                      "原文": "米国の積極的援助、特にテキサス大学教授フォスター博士の来朝(二十一年十一月)により、米国技術の全面的公開、種菌の分与、個別的生産指導を受け、品質の改良技術の向上、タンク培養による量産化等により質量とも急上昇をみた。",
                      "source": "会社銀行八十年史（東洋経済新報社, 1955年）「明治製菓」の項",
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                    {
                      "fact": "1947年10月から研究試作したストレプトマイシンは1950年7月に製造販売へ至り、1951年に米メルク社と技術援助契約を結んだ",
                      "原文": "一方、二十二年十月以来研究試作中のストレプトマイシンは二十五年七月に製造販売するに至り、二十六年米国メルク社とこれに関する技術援助契約を締結して、品質並びに収率の著しい向上を遂げ、業界における主導的地位を確保した。",
                      "source": "会社銀行八十年史（東洋経済新報社, 1955年）「明治製菓」の項",
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              "sub_title": "原末から一貫して作るという重い道",
              "paragraphs": [
                {
                  "text": "明治製菓は、原末を輸入して製剤化するという同業の多くが採った道を選ばなかった。中川赳専務は1970年の講演で、原末を購入して錠剤や注射液にするだけの会社を「製薬会社ではなく、製剤会社である」と呼び、原体を作るにはそれなりの自主技術と多額の設備資金が要ると述べている。そのうえで、一貫生産を乗り切ることでコストが下がり、資本自由化を控えた競争力になると説明した。",
                  "evidences": [
                    {
                      "fact": "原末を購入して製剤化するだけの会社を「製薬会社ではなく、製剤会社である」とし、一貫生産には多額の資金と高度の技術が要るがコストダウンにつながると中川赳専務が述べた",
                      "原文": "わが国の製薬会社で一貫生産体制をとつているところは非常に少ない。ほとんどがバルクを購入して、それを製剤化するだけである。これでは製薬会社ではなく、製剤会社である。（略）当社の一貫生産体制には、確かに多額の資金と高度の技術が必要となる。しかしこれを乗りきることによつてコストダウンが可能となるわけで、今後の自由化を控え、他社と比較して、その競争力は抜群であるといえよう。",
                      "source": "証券アナリストジャーナル 1970年9月号「明治製菓の現状と将来」（中川赳・明治製菓専務取締役）",
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                {
                  "text": "輸入技術の消化だけで終わらせなかった。1953年10月には自社独特の種菌と製法による純国産クロルテトラサイクリンの工業化に成功し、翌1954年2月に販売を始めている。同年10月には制癌剤ザルコマイシンの製造販売にも踏み切った。米国から種菌を分けてもらう側であった会社が、7年で自前の菌と製法を持つ側に回り、薬品部門は抗生物質を主体に急速な発展を示した。",
                  "evidences": [
                    {
                      "fact": "1953年10月に自社独特の種菌と製法による純国産クロルテトラサイクリンの工業化に成功し、1954年2月に販売を開始、同年10月に制癌剤ザルコマイシンを製造販売した",
                      "原文": "二十八年十月には、当社独特の種菌と製法による純国産クロルテトラサイクリンの工業化に成功、二十九年二月販売を開始し、さらに同年十月制癌剤としてザルコマイシンを製造販売するなど、薬品部門は、抗生物質を主体に急速な発展を示した。",
                      "source": "会社銀行八十年史（東洋経済新報社, 1955年）「明治製菓」の項",
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              "sub_title": "70社が5〜6社に絞られたあと",
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                {
                  "text": "細井徳次郎社長は1965年、ペニシリンを始めた当時は本来の薬品会社のほか食品会社や醸造会社も含めて70社ほどが手がけたが、脱落が続いて5〜6社程度になったと語っている。明治製菓はペニシリンからストレプトマイシン、カナマイシンへと、菌を培養してその物質を利用する範囲に絞って作り続けた。抗生物質の輸出は薬品の売上の1割以上を占めるまでになっていた。",
                  "evidences": [
                    {
                      "fact": "ペニシリンには薬品会社のほか食品会社・醸造会社を含め70社ほどが参入したが、脱落して5〜6社程度になった",
                      "原文": "私どもがく＝シリンを始めた当時は、本来の薬屋からわれわれのような食品会社、醸造会社なども含めて、七十社くらいありました。それがだんだん脱落して、今日では五、六社程度になってしまっています。私どもはずっとペニシリンから始まって、ストレプトマイシン、カナマイシンといった、一連の菌を培養してその物質を利用するという極く限られた範囲の薬をつくってきたので、非常に特徴があるわけです。",
                      "source": "経済時代 1965年12月号（30巻12号）細井徳次郎 明治製菓社長インタビュー",
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                      "fact": "明治製菓の抗生物質の輸出は薬品の売上の1割以上を占めていた",
                      "原文": "ところで、私どもの抗生物質の輸出は、薬だけでみますと、一割以上を占めていますから、なかなか有力なものですよ。",
                      "source": "経済時代 1965年12月号（30巻12号）細井徳次郎 明治製菓社長インタビュー",
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                {
                  "text": "一貫生産は、20年余りを経て他社との差になって現れた。1970年の時点で明治製菓の抗生物質は薬品部門の売上200億円の75%を占め、菌の培養からペニシリンを作り、分解して6APAとし、さらに合成ペニシリンまで作る会社はほかになかった。武田薬品は米ワイスから、藤沢薬品は英ビーチャムから原末を輸入していた。抗生物質12品目を一貫生産する体制が、そのまま参入障壁になっている。",
                  "evidences": [
                    {
                      "fact": "抗生物質は薬品売上の75%を占め、合成ペニシリンの原末から一貫生産しているのは明治製菓だけで、武田薬品はワイス、藤沢薬品はビーチャムから原末を輸入していた",
                      "原文": "当社の抗生物質の売上げは昨年の薬品部門の総売上げ200億円の中で75%を占めている。（略）ただ、原末については武田はワイスから、藤沢がビーチャムから、万有もブリストルから輸入している。菌から培養してペニシリンを作り、それを分解して6APAを作り、さらにあらゆる合成ペニシリンを作るといつた一貫生産をしているのは当社だけであり、競争力抜群ということもその点にある。",
                      "source": "証券アナリストジャーナル 1970年9月号「明治製菓の現状と将来」（中川赳・明治製菓専務取締役）",
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                      "fact": "明治製菓は戦後いち早くペニシリンを手がけて以来、国内の抗生物質のトップメーカーの地位を確保し、ペニシリン・カナマイシンをはじめ抗生物質12品目をいずれも一貫生産していた",
                      "原文": "当社は戦後いち早くペニシリンを手掛けて以来、今日まで国内における抗生物質のトップメーカーとしての地位を確保してきた。現在ではペニシリン、カナマイシンをはじめ一連の抗生物質12品目をいずれも一貫生産している。",
                      "source": "証券アナリストジャーナル 1970年9月号「明治製菓の現状と将来」（中川赳・明治製菓専務取締役）",
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            {
              "sub_title": "副業を畳んだ会社と、畳まなかった会社",
              "paragraphs": [
                {
                  "text": "日本産業史は、戦災を受けた川崎工場で1946年10月に始めたこのペニシリンが同社復興の支えになった、と書いている。以後、米国からの技術導入、タンク培養による量産化、1950年7月のストレプトマイシン、1954年のザルコマイシンと薬品部門を広げ、明治製菓は抗生物質薬品の大手に育った。戦前派の大企業が始めた副業のなかで、これは本業の規模に近づいた数少ない例であった。",
                  "evidences": [
                    {
                      "fact": "明治製菓は1946年10月から戦災を受けた主力の川崎工場でペニシリンの製造を開始し、技術導入・タンク培養による量産化・ストレプトマイシン（1950年7月）・ザルコマイシン（1954年）と薬品部門を拡充して抗生物質薬品の大手に成長した。このときのペニシリンが同社復興の支えになった",
                      "原文": "「明治製菓」も二十一年十月から戦災を受けた主力工場(川崎)でペニシリンの製造を開始した。その後、アメリカからの技術導入、タンク培養による量産化、ストレプトマイシンの製造(二十五年七月)、ザルコマイシンの製造(二十九年)と薬品部門を拡充して抗生物質薬品の大手に成長したが、このときのペニシリンが同社復興の支えになったのである。",
                      "source": "日本産業史 第2巻（日本経済新聞社、1994年）「繊維－\"不死鳥\"よみがえる」",
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                {
                  "text": "同じ着想から出発した明治製糖は、逆の道を選んでいる。1951年12月に川崎精糖工場、翌1952年10月に戸畑精糖工場を復旧して精製糖業を再開すると、副業だった製薬業は戸畑の復旧を機に廃止した。明治製菓のほうは、菓子の統制が解けてキャラメルもビスケットもチョコレートも戦前最盛時の生産量を抜いたあとも、薬品を畳まなかった。本業が戻ったときに何を残すかで、両社は分かれた。",
                  "evidences": [
                    {
                      "fact": "明治製糖は1951年12月に川崎精糖工場、1952年10月に戸畑精糖工場を復旧して精製糖業を再開し、製薬業は戸畑精糖工場の復旧を機に廃止した",
                      "原文": "二十六年十二月、日産原料糖溶解能力二三五屯の川崎精糖工場を復旧、精製糖業を再開し、次いで翌二十七年十月には戸畑精糖工場を復旧し、東西両重要拠点に工場を持つこととなつた。（略）なお製薬業は戸畑精糖工場の復旧を機会に、これを廃止した。",
                      "source": "会社銀行八十年史（東洋経済新報社, 1955年）「明治製糖」の項",
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                    {
                      "fact": "明治製菓の菓子部門はキャラメル・ビスケット・チョコレートのいずれも戦前最盛時の生産量を抜いた",
                      "原文": "主力の菓子部門はキャラメルの自由販売許可に伴ない、川崎工場の復旧、各事業所の設備増設改良を行い、また二十五年買収による上ノ山および京都工場(現大阪工場分工場)、二十七年合併による東京および名古屋工場、三十年四月新設の大阪工場の四事業所を加えて、キャラメル、ビスケット、チョコレート等はいずれも戦前最盛時の生産量を抜くに至つた。",
                      "source": "会社銀行八十年史（東洋経済新報社, 1955年）「明治製菓」の項",
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              "sub_title": "買ってきた技術ではなく、向きを変えた技術",
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                  "text": "1946年に替えたのは、設備でも資金でもなく用途であった。焼け残った川崎工場の発酵設備はそのまま使い、培養する対象を菓子素材から抗生物質へ移している。砂糖も小麦粉も統制下にあり、菓子の設備を菓子のために動かせない時期であった。抗生物質はカビの産物で、培養と発酵の技術は菓子や食品と地続きにある。そこで明治製菓は、設備を作り替えることなく、技術の向きだけを変えた。"
                },
                {
                  "text": "向きを変えただけで残れたわけではない。同じ着想でペニシリンに参入した会社は70社ほどあり、その多くが5〜6社に絞られる過程で消えた。親会社の明治製糖でさえ、砂糖が戻ると製薬を畳んでいる。明治製菓を分けたのは、分与された種菌に頼り続けなかったことである。1953年には自社の種菌と製法で純国産のクロルテトラサイクリンを立ち上げた。参入の着想より、原末を自前で作る側に居続けた年数のほうが効いた。"
                }
              ]
            }
          ]
        }
      ],
      "references": [
        "会社銀行八十年史（東洋経済新報社, 1955年）「明治製菓」「明治製糖」「明治乳業」の各項",
        "企業の歴史 : 明治百年（経済春秋社, 1968年）",
        "日本産業史 第2巻（日本経済新聞社、1994年）「繊維－\"不死鳥\"よみがえる」",
        "経済時代 1965年12月号（30巻12号）細井徳次郎 明治製菓社長インタビュー",
        "日本会社史総覧（東洋経済新報社, 1995年）「明治製菓」の項",
        "証券アナリストジャーナル 1970年9月号「明治製菓の現状と将来」（中川赳・明治製菓専務取締役）"
      ],
      "authored": "2026-07",
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    {
      "slug": "kanamycin-1958",
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      "title": "梅沢浜夫博士が発見したカナマイシンの工業化と、菌の培養から原末・製剤までの一貫生産の確立",
      "subtitle": "原末を買って加工するか、菌から育てるか——「製剤会社」で終わらないために先に払った設備資金",
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          "text": "1958年、明治製菓は国立予防衛生研究所の梅沢浜夫博士が発見した抗生物質を工業化し、カナマイシンとして発売した。原末を輸入して製剤にする当時の日本の製薬業の作り方をとらず、菌の培養から原末、製剤までを自社で作る一貫生産をこの製品で固めた。"
        },
        {
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          "text": "1950年代の日本の製薬会社の多くは、原末を海外から買って錠剤や注射液に加工していた。医薬品を扱う問屋や輸入商社がそのままメーカーになった経緯から、原体を自ら作る歴史を持たなかった。原体の内製には自主技術と多額の設備資金が要り、新陳代謝の激しい医薬品では投資が回収できない危険もともなう。"
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          "label": "内容",
          "text": "菌の培養から原末の抽出、製剤までを自社で行うため、動物実験と臨床試験に加えて量産の工程そのものを設計した。1963年10月には川崎・淀川に分散していた原末生産を足柄工場へ集め、1970年には岐阜郊外の新工場へ60億円を投じている。"
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          "text": "1970年には抗生物質12品目をいずれも一貫生産し、1973年度までに18品目へ広げる計画を示した。カナマイシンは1975年発売のパニマイシンの母体にもなり、韓国・インドネシア・タイの合弁会社へ原末生産と製剤加工が移された。"
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          "label": "背景",
          "subsections": [
            {
              "sub_title": "原末を買って加工する製薬業",
              "paragraphs": [
                {
                  "text": "1950年代の日本の製薬会社の多くは、抗生物質の原末を海外から買い、それを錠剤や注射液、軟膏へ加工して売っていた。明治製菓の中川赳専務は1970年の講演で、この作り方を「これでは製薬会社ではなく、製剤会社である」と呼んでいる。医薬品を扱う問屋や、それを輸入する商社がそのままメーカーになった経緯から、原体を自ら作ってきた歴史を持つ会社は少なかった。",
                  "evidences": [
                    {
                      "fact": "日本の製薬会社の多くは原末を購入して製剤化するだけで、問屋や輸入商社がメーカーになった経緯から原体を自社生産した歴史がなかった",
                      "原文": "わが国の製薬会社で一貫生産体制をとつているところは非常に少ない。ほとんどがバルクを購入して、それを製剤化するだけである。これでは製薬会社ではなく、製剤会社である。これは、医薬品を扱う問屋、あるいはそれを輸入する商社がメーカーとなつたからで、自社で原体を生産したという歴史はない。",
                      "source": "証券アナリストジャーナル 1970年9月号「明治製菓の現状と将来」（中川赳・明治製菓専務取締役）",
                      "url": null
                    }
                  ]
                },
                {
                  "text": "原体を作るには自主的な技術と多額の設備資金が要る。しかも医薬品は新陳代謝が激しく、育てた薬が数年で古くなっても設備だけは残る。非自由化のもとで原末は容易に手に入ったから、買って加工するほうが理にかなっていた。国内で最も生産量が多い薬はビタミンで、1969年の売上は1,100億円台にのぼる。治療の本命に抗生物質を置く米国とは、薬の構成そのものが違っていた。",
                  "evidences": [
                    {
                      "fact": "原体の生産には自主的技術と多額の設備資金が要り、新陳代謝の激しい医薬品では原末への投資に危険がともなうため、容易に入手できる原末を買って製剤化する道が選ばれてきた",
                      "原文": "原体を作るということはそれなりの自主的技術や多額の設備資金を要する。また医薬品のような新陳代謝の激しいものに、そうしたバルクに対する投資は危険がつきまとう。特にこれまでは非自由化の中にあつたという関係もあつて、それより容易に入手できるバルクを購入して、錠剤に、注射液に、軟膏にしてきたわけである。",
                      "source": "証券アナリストジャーナル 1970年9月号「明治製菓の現状と将来」（中川赳・明治製菓専務取締役）",
                      "url": null
                    },
                    {
                      "fact": "国内で最も生産量が多い薬はビタミンで前年の売上は1,100億円台、米国では抗生物質が第1位でビタミン剤は第4位だった",
                      "原文": "最も生産量の高いのはビタミンである。昨年の売上げは1,100億円台におよんでいる。（略）アメリカの医薬界の内容は、第1位が治療薬の本命である抗生物質であり、ビタミン剤は第4位、わが国のそれと地位が異なつている。",
                      "source": "証券アナリストジャーナル 1970年9月号「明治製菓の現状と将来」（中川赳・明治製菓専務取締役）",
                      "url": null
                    }
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                }
              ]
            },
            {
              "sub_title": "梅沢浜夫博士の発見と、培養する側の会社",
              "paragraphs": [
                {
                  "text": "明治製菓の薬品事業は、1946年に川崎工場の一部でペニシリンを作り始めたところから伸びた。菌を培養して物質を取り出す仕事を重ねるうちに、国立予防衛生研究所の梅沢浜夫博士との関わりが生まれる。明治製菓は梅沢博士の研究に協力して放線菌の培養液から制がん抗生物質ザルコマイシンを抽出し、1954年10月にこれを製造販売した。カナマイシンの工業化も、この協力から出ている。",
                  "evidences": [
                    {
                      "fact": "明治製菓の薬品事業は1946年に川崎工場の一部でペニシリンを手がけたところから始まり、ストレプトマイシン、カナマイシンなどの抗生物質を工業化した",
                      "原文": "当社の薬品事業は昭和21年、川崎工場の一部でペニシリン生産を手がけたときから始まった。その後、ストレプトマイシン、カナマイシン、カネンドマイシン、メデマイシンなどの有力な抗生物質を工業化し、さらに近年の大型新薬であるパニマイシンに至っている。",
                      "source": "証券アナリストジャーナル 1980年11月号「明治製菓 食料品と薬品を両輪に発展」（安田春太郎・明治製菓専務取締役）",
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                    {
                      "fact": "明治製菓はカナマイシンの発見者である梅沢浜夫博士の研究に協力し、放線菌の培養液から制がん抗生物質ザルコマイシンを抽出した",
                      "原文": "当社はカナマイシンの発見者、梅沢博士の研究に協力し、放線菌の培養液の中から、制ガン抗生物質ザルコマイシンを抽出し、これを液体の形で発売した。",
                      "source": "証券アナリストジャーナル 1975年11月号「明治製菓 豊かな社会づくりの担い手として」（中川赳・明治製菓社長）",
                      "url": null
                    },
                    {
                      "fact": "1954年10月に制癌剤としてザルコマイシンを製造販売し、薬品部門は抗生物質を主体に発展した",
                      "原文": "二十八年十月には、当社独特の種菌と製法による純国産クロルテトラサイクリンの工業化に成功、二十九年二月販売を開始し、さらに同年十月制癌剤としてザルコマイシンを製造販売するなど、薬品部門は、抗生物質を主体に急速な発展を示した。",
                      "source": "会社銀行八十年史（東洋経済新報社, 1955年）「明治製菓」の項",
                      "url": null
                    }
                  ]
                },
                {
                  "text": "中川氏は後年、抗生物質が医薬品のなかで最大の分野になると10年も前から見通し、その対策を講じてきたと語っている。見通しは外れなかった。抗生物質は1970年に花形商品であったビタミン剤を抜いて薬効分類の首位に立ち、1974年の生産高は3,314億円と10年で6.3倍になった。全医薬品の19.5%を占め、耐性菌との戦いが続くかぎり新しい薬を出し続けねばならない分野であった。",
                  "evidences": [
                    {
                      "fact": "明治製菓は10年前から抗生物質が医薬品で最大の規模になると予測して対策を講じ、当初から生産の一貫体制をとって規模の拡大によるメリットを追求してきた",
                      "原文": "当社は、この流れの中枢にあって、当初から生産の一貫体制をとり、規模の拡大によるメリットを追求してきた。いまでこそ日本の有力メーカーが一様に抗生物質の一貫生産に注目してきたが、当社は10年も前から、抗生物質が医薬品の中で最大の規模になることを予測し、その対策を講じてきた。",
                      "source": "証券アナリストジャーナル 1975年11月号「明治製菓 豊かな社会づくりの担い手として」（中川赳・明治製菓社長）",
                      "url": null
                    },
                    {
                      "fact": "抗生物質は1970年にビタミン剤を抜いて薬効分類の首位に立ち、1974年の生産高は3,314億円と10年で6.3倍、全医薬品の19.5%を占めた",
                      "原文": "中でも抗生物質製剤の伸びが著しく、昭和49年の生産高は3,314億円で、39年の6.3倍、年平均成長率20%の飛躍的成長を遂げ、医薬品の成長に大きく貢献した。薬効大分類別でも、抗生物質は昭和45年にそれまで花形商品であったビタミン剤を抜き、現在トップに立っている。全医薬品の19.5%、約5分の1で、その比率は徐々に向上している。",
                      "source": "証券アナリストジャーナル 1975年11月号「明治製菓 豊かな社会づくりの担い手として」（中川赳・明治製菓社長）",
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                    }
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            }
          ]
        },
        {
          "section": "origin",
          "label": "決断",
          "subsections": [
            {
              "sub_title": "1958年1月、カナマイシンの発売",
              "paragraphs": [
                {
                  "text": "1958年、明治製菓はカナマイシンを発売した。梅沢浜夫博士が発見した抗生物質を工業化したもので、原末を輸入して製剤にする道はとらなかった。菌を培養し、原末をつくり、錠剤や注射液に仕上げるまでを自社で持つ。1950年7月に製造販売を始めたストレプトマイシンに続く、自社の菌から育てた三つめの抗生物質であった。同業の多くが避けてきた作り方を、明治製菓はこの製品で選んだ。",
                  "evidences": [
                    {
                      "fact": "1958年1月にカナマイシンを発売した",
                      "原文": "1958年、明治製菓はカナマイシンを発売した。",
                      "source": "明治製菓 有価証券報告書【沿革】",
                      "url": null
                    },
                    {
                      "fact": "カナマイシンは国立予防衛生研究所の梅沢浜夫が発見した抗生物質である",
                      "原文": "当社はカナマイシンの発見者、梅沢博士の研究に協力し",
                      "source": "証券アナリストジャーナル 1975年11月号「明治製菓 豊かな社会づくりの担い手として」（中川赳・明治製菓社長）",
                      "url": null
                    },
                    {
                      "fact": "1947年10月から研究試作したストレプトマイシンを1950年7月に製造販売した",
                      "原文": "一方、二十二年十月以来研究試作中のストレプトマイシンは二十五年七月に製造販売するに至り、二十六年米国メルク社とこれに関する技術援助契約を締結して、品質並びに収率の著しい向上を遂げ、業界における主導的地位を確保した。",
                      "source": "会社銀行八十年史（東洋経済新報社, 1955年）「明治製菓」の項",
                      "url": null
                    }
                  ]
                },
                {
                  "text": "工業化は発見の延長ではない。菌の培養から原末の抽出、そして製剤までを自社で行うには、動物実験と臨床試験に加えて量産の工程そのものを設計する必要がある。中川氏は一貫体制について、確かに多額の資金と高度の技術が必要になるが、それを乗り切ることで初めてコストが下がると説明した。原末を輸入すれば当座の負担は軽く済む。ただし価格の決定権は供給する側に残る。設備を先に持つ側へ回るという判断であった。",
                  "evidences": [
                    {
                      "fact": "一貫体制には多額の資金と高度の技術が必要だが、それを乗り切ることで初めてコストダウンが可能になると中川赳社長が述べた",
                      "原文": "一貫体制には、確かに多額の資金と高度の技術が必要であるが、それを乗り切ることによって、初めてコストダウンが可能になる。現在、足柄工場では数種類の抗生物質を集中生産している。",
                      "source": "証券アナリストジャーナル 1975年11月号「明治製菓 豊かな社会づくりの担い手として」（中川赳・明治製菓社長）",
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                    }
                  ]
                }
              ]
            },
            {
              "sub_title": "原末を1カ所に集める",
              "paragraphs": [
                {
                  "text": "カナマイシンの発売から5年後、この作り方は全社の設備方針になった。1963年10月、明治製菓は川崎と淀川に分かれていた原末の生産を足柄工場へ集める。足柄は原末専門の工場として新設され、世界最大の300トン培養タンクを備えた。設備はその後も増え、1970年には設立当初の4〜5倍に達し、前年には世界初の300トンを超える大型発酵槽が入っている。",
                  "evidences": [
                    {
                      "fact": "12年前に足柄工場を原末工場として新設し、そこには世界最大の300トン培養タンクを設置した",
                      "原文": "すでに12年前に足柄工場を原末工場として新設し、そこには世界最大の300トン培養タンクが設置してある。",
                      "source": "証券アナリストジャーナル 1975年11月号「明治製菓 豊かな社会づくりの担い手として」（中川赳・明治製菓社長）",
                      "url": null
                    },
                    {
                      "fact": "足柄工場の設備は設立当初の4〜5倍に拡充され、1969年に世界初の300トン超大型発酵槽を設置した",
                      "原文": "この結果現状では足柄の設備は設立当初に比べ4〜5倍に拡充されているが、大型発酵槽を取り入れる等近代設備の粋をつくしたもので、昨年も同工場には世界初の300トン超大型発酵槽を設置した。",
                      "source": "証券アナリストジャーナル 1970年9月号「明治製菓の現状と将来」（中川赳・明治製菓専務取締役）",
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                    }
                  ]
                },
                {
                  "text": "足柄をフル生産させても5年から10年先の需要には足りない。そう見た明治製菓は1970年、岐阜郊外に5万坪を買い、60億円を投じて第2の原末工場の建設に入った。第1期は培養1,000トンの発酵槽で抗生物質150トンを作る計画で、足柄と合わせれば培養3,500トン、原末500トンとなり、国内の抗生物質生産の7〜8割を1社で占める規模になる。医薬品関係の設備投資は1973年度までに130億円前後を見込んでいた。",
                  "evidences": [
                    {
                      "fact": "1970年に岐阜郊外の5万坪を取得し60億円で新工場を建設、第1期は培養1,000トンの発酵槽で抗生物質150トンを生産、足柄と合わせ培養3,500トン・原末500トンで国内生産の7〜8割を占める計画だった",
                      "原文": "今回60億円の設備投資をもつて岐阜郊外に5万坪の土地を購入、来年6月完成を目指して、新工場の建設を現在進めている。この新工場(岐阜工場)では第1期工事として培養1,000トンの発酵槽を設置し、150トンの抗生物質を生産する。足柄、岐阜両工場を合わせると培養規模は3,500トン、そこからできる原末は500トンと当社1社でわが国抗生物質生産量の7〜8割を占めることになる。",
                      "source": "証券アナリストジャーナル 1970年9月号「明治製菓の現状と将来」（中川赳・明治製菓専務取締役）",
                      "url": null
                    },
                    {
                      "fact": "医薬品関係の設備投資は1970年から1973年までに130億円前後を要する見込みだった",
                      "原文": "これら諸施策を完成させるための設備投資も活発で、医薬品関係では今年から48年までに130億円前後を投資しなければならず、資金調達の方法についても現在研究中である。",
                      "source": "証券アナリストジャーナル 1970年9月号「明治製菓の現状と将来」（中川赳・明治製菓専務取締役）",
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                }
              ]
            }
          ]
        },
        {
          "section": "outcome",
          "label": "結果",
          "subsections": [
            {
              "sub_title": "12品目を同じ作り方でそろえる",
              "paragraphs": [
                {
                  "text": "1970年、明治製菓はペニシリンとカナマイシンをはじめとする抗生物質12品目を、いずれも一貫生産していた。1973年度までに新しい抗生物質6品目を加え、18品目すべてを同じ作り方でそろえる計画も示している。日本の有力メーカーが抗生物質の一貫生産に一様に注目したのは1970年代に入ってからで、明治製菓はその十数年前から設備を積んでいた。",
                  "evidences": [
                    {
                      "fact": "1970年時点でペニシリン、カナマイシンをはじめ抗生物質12品目を一貫生産し、1973年度までに6品目を加えて18品目とし、いずれも一貫生産する方針だった",
                      "原文": "現在ではペニシリン、カナマイシンをはじめ一連の抗生物質12品目をいずれも一貫生産している。国際的にもその貢献度が大きいものと自負しているが、48年度までにさらに新しい抗生物質6品目を加えて18品目とし、いずれも一貫生産する方針である。",
                      "source": "証券アナリストジャーナル 1970年9月号「明治製菓の現状と将来」（中川赳・明治製菓専務取締役）",
                      "url": null
                    },
                    {
                      "fact": "日本の有力メーカーが一様に抗生物質の一貫生産へ注目したのは後年であり、明治製菓は当初から一貫体制をとってきた",
                      "原文": "いまでこそ日本の有力メーカーが一様に抗生物質の一貫生産に注目してきたが、当社は10年も前から、抗生物質が医薬品の中で最大の規模になることを予測し、その対策を講じてきた。",
                      "source": "証券アナリストジャーナル 1975年11月号「明治製菓 豊かな社会づくりの担い手として」（中川赳・明治製菓社長）",
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                    }
                  ]
                },
                {
                  "text": "発売から10年で、カナマイシンは会社の看板の一つになった。1968年の『企業の歴史』は、明治製菓の薬品部門の主軸商品としてカナマイシンと合成ペニシリンを挙げ、菓子・食品・薬品の三本柱を他の製菓会社にない強みと記している。1967年度の総売上高は458億5,600万円、税引利益は16億1,600万円で、1割8分の配当を行っていた。",
                  "evidences": [
                    {
                      "fact": "明治製菓の薬品部門の主軸商品はカナマイシンと合成ペニシリンで、菓子・食品・薬品の三本柱が他の製菓会社にない強みとされた",
                      "原文": "菓子、食品、薬品の三本柱が他の製菓会社にみられない強味となっている。（略）薬品部門は主軸商品たるカナマイシン、合成ペニシリンをはじめ胃腸薬ラロ、消化剤セベラーゼなどを扱い、激しい市場競争で活躍している。",
                      "source": "企業の歴史 : 明治百年（経済春秋社, 1968年）",
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                    {
                      "fact": "1967年度の総売上高は458億5,600万円、税引利益は16億1,600万円で、1割8分の配当を行った",
                      "原文": "四二年度の総売上高は四五八億五六〇〇万円、税引利益一六億一六〇〇万円を計上、一割八分の高率配当を行なつている。",
                      "source": "企業の歴史 : 明治百年（経済春秋社, 1968年）",
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              "sub_title": "カナマイシンから出た薬と、海外へ移した作り方",
              "paragraphs": [
                {
                  "text": "カナマイシンは次の薬の母体にもなった。1975年1月に発売したパニマイシンは、梅沢博士が従来にない手法でカナマイシンの化学的構造を変え、耐性菌に、とりわけ既存の抗生物質が効かない緑膿菌に効くようにした薬である。発売から1年たたずに月商5億円へ育ち、生産が追いつかない。明治製菓は不況のさなかに約50億円を投じ、岩手県北上市に新工場を建てた。",
                  "evidences": [
                    {
                      "fact": "パニマイシンは梅沢博士が従来にない手法でカナマイシンの化学的構造を変え、耐性菌と緑膿菌に効くようにした抗生物質である",
                      "原文": "パニマイシンは、梅沢博士により、従来にない新しい手法で開発されたもので、抗生物質の歴史の中で画期的な意味を有している。すなわち、カナマイシンの化学的構造変化によって耐性菌にも効き、特にいままでの抗生物質では効かない緑膿菌に効く新たな抗生物質にしたものである。",
                      "source": "証券アナリストジャーナル 1975年11月号「明治製菓 豊かな社会づくりの担い手として」（中川赳・明治製菓社長）",
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                    {
                      "fact": "パニマイシンは発売から1年たたずに月商5億円に成長し、生産拡大のため約50億円を投じて北上工場を建設した",
                      "原文": "また本年1月から発売したパニマイシンは、医師等から好評をいただき、発売以来1年にも満たないのに、すでに月商5億円の規模に成長し、現在、生産に追われている。（略）岩手県北上市に新しく北上工場を建設中であるが（略）この工場の投資総額は約50億円であるが、この商品の商品性、また今後の国際競争に立ち向かう必要性からも、生産の一貫体制をますます強化すべきものと考え、不況のさなかで、あえて多額の投資に踏み切ったわけである。",
                      "source": "証券アナリストジャーナル 1975年11月号「明治製菓 豊かな社会づくりの担い手として」（中川赳・明治製菓社長）",
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                },
                {
                  "text": "作り方そのものも国外へ出た。1980年の時点で、韓国の東明産業がカナマイシンとビスタマイシンの原末を作って現地の製剤メーカーへ供給し、P.T.インドネシア明治は明治製菓が送るストレプトマイシン、カナマイシン、合成ペニシリンの原末を製剤に加工していた。同年に設立したタイ明治は、カナマイシンを原末から製剤まで一貫生産する工場として建設が進んだ。",
                  "evidences": [
                    {
                      "fact": "韓国の東明産業がカナマイシンとビスタマイシンの原末を生産して現地の製剤メーカーへ供給し、P.T.インドネシア明治は明治製菓が供給する原末を製剤加工し、1980年設立のタイ明治はカナマイシンを原末から製剤まで一貫生産する予定だった",
                      "原文": "薬品関係では、韓国の東明産業(カナマイシン、ビスタマイシンの原末生産、同国内の製剤メーカーに供給)、P.T.インドネシア明治(当社が供給するストレプトマイシン、カナマイシン、合成ペニシリン原末の製剤加工)があり、今年に入って設立したタイ明治は、明年早々の操業開始をメドに工場建設を急いでいる。同社はカナマイシンを原末から製剤まで一貫生産するほか、合成ペニシリン、ビスタマイシン、パニマイシンなど当社が供給する原末の製剤加工を行う予定だ。",
                      "source": "証券アナリストジャーナル 1980年11月号「明治製菓 食料品と薬品を両輪に発展」（安田春太郎・明治製菓専務取締役）",
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                {
                  "text": "原末は買えた。非自由化のもとで入手は容易であり、買えば設備も技術も要らない。明治製菓はその道を選ばず、1958年のカナマイシンで菌の培養から製剤までを自前に置いた。5年後には川崎と淀川の原末を足柄へ集めている。医薬品の新陳代謝が激しく、原末への投資に危険がつきまとうことは当人たちが認めていた。危険を承知したうえでの選択であった。"
                },
                {
                  "text": "一貫生産が効いたのは、抗生物質という分野が伸び続けた間に限られる。カナマイシンは自社の発見ではなく、梅沢浜夫博士が見つけた物質を工業化したものであり、1975年のパニマイシンも同じ博士がその化学的構造を変えて生んだ薬であった。原末を握る強さは、外から来る発見に支えられていた。設備は残り、薬は入れ替わる。不況のさなかに北上工場へ50億円を投じたのは、その循環から降りられない側に立ったためである。"
                }
              ]
            }
          ]
        }
      ],
      "references": [
        "証券アナリストジャーナル 1970年9月号「明治製菓の現状と将来」（中川赳・明治製菓専務取締役）",
        "証券アナリストジャーナル 1975年11月号「明治製菓 豊かな社会づくりの担い手として」（中川赳・明治製菓社長）",
        "証券アナリストジャーナル 1980年11月号「明治製菓 食料品と薬品を両輪に発展」（安田春太郎・明治製菓専務取締役）",
        "会社銀行八十年史（東洋経済新報社, 1955年）「明治製菓」の項",
        "企業の歴史 : 明治百年（経済春秋社, 1968年）",
        "明治製菓 有価証券報告書【沿革】"
      ],
      "authored": "2026-07",
      "last_updated": "2026-07-28"
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    {
      "slug": "pharma-shift-1980",
      "url": "/tse/2202/decisions/pharma-shift-1980/",
      "year": 1980,
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      "decision_id": "2202-pharma-shift-1980",
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        "tr-restructuring",
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      "title": "不採算菓子工場の閉鎖と食品事業の構造改善、薬品部門への経営資源の集中",
      "subtitle": "祖業を畳むか、縮めて残すか——菓子▲30億円と薬品61億円が並んだ1980年3月期の配分",
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          "label": "概要",
          "text": "1980年3月期に菓子を中心とする食料部門が30億円の経常欠損を出し、薬品部門の61億円の黒字がこれを埋めた。明治製菓は減収減益・減配に至ったこの決算を受け、菓子部門を退職者不補充と工場閉鎖で縮め、研究開発費の8割を薬品へ振り向けた。"
        },
        {
          "label": "背景",
          "text": "菓子の需要は7年連続で減り、農業保護政策のもとで砂糖・乳製品・小麦粉の国産価格は国際価格の2〜2.5倍に高止まりしていた。一方の薬品部門は製薬大手14社の売上順位で7位相当まで上がっていたが、1975年のパニマイシン以降は大型新薬が出ていなかった。"
        },
        {
          "label": "内容",
          "text": "中川赳社長は食料60・薬品40という売上構成を3年で半々にする目標を掲げた。食料部門は退職者を補充せず、薬品部門の欠員は食料部門から配転する。函館工場と上山分工場を1980年9月末で廃止し、食品事業の構造改善策は労組との協議を経て12月から実施した。"
        },
        {
          "label": "含意",
          "text": "売上構成を半々にする目標は1984年時点でも薬品40%・菓子50%にとどまり、期限内には届かなかった。それでも1982年3月期に売上高1,895億円・経常利益119億円と過去最高を記録し、経常利益の構成比では薬品60%・食料40%へ逆転した。"
        }
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          "name": "明治製菓",
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            "note": "菓子で業界首位、抗生物質では原末から製剤まで一貫生産する国内最大手。食料と薬品の二部門を持つ複合企業"
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          "title": "抗生物質パニマイシンを発売（以後5年間、大型新薬が出ない）"
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          "title": "食料部門が30億円の経常欠損、薬品部門61億円の黒字。減収減益・減配に至る",
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          "title": "食品事業の構造改善策を労組との協議を経て実施"
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          "title": "売上高1,895億円・経常利益119億円と過去最高を記録"
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          "title": "中川赳社長が売上構成を薬品40%・菓子50%と説明（半々の目標は未達）"
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      "snapshot": {
        "fiscal_year": "1980年3月期",
        "source": "日経ビジネス 1980年8月25日号「ケーススタディ 明治製菓 菓子撤退、薬品侵攻の二面作戦展開」掲載の業績データ（単体）",
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          "label": "背景",
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              "sub_title": "7年連続で減った菓子需要と、国際価格の2倍を超える国産原料",
              "paragraphs": [
                {
                  "text": "1980年3月期、明治製菓の菓子を中心とする食料部門は経常損益で30億円の欠損を出した。祖業の菓子部門が大幅な欠損を計上したのは初めてであった。全社の経常利益も1978年3月期の97億円、1979年3月期の90億円から、この期は32億円へ落ち、減配に踏み切っている。中川赳社長は「菓子の需要はね、毎年わずかずつですが、今年で7年連続して減少しているんです」と語っている。",
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                    {
                      "fact": "全社の経常利益は1978年3月期97億円、1979年3月期90億円から1980年3月期は32億円へ減少した",
                      "原文": "明治製菓の経常利益は、1978年3月期97億円、1979年3月期90億円に対し、1980年3月期は32億円であった。",
                      "source": "日経ビジネス 1980年8月25日号「ケーススタディ 明治製菓 菓子撤退、薬品侵攻の二面作戦展開」",
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                    },
                    {
                      "fact": "1980年3月期は減収減益に陥り減配となった。主因は食料部門の業績低迷であった",
                      "原文": "当社は今年3月期の決算で不本意ながら減収減益に陥り、減配を余儀なくされて株主にご迷惑をかけた。これは主として食料部門の業績低迷によるものである。",
                      "source": "証券アナリストジャーナル 1980年11月号「明治製菓 食料品と薬品を両輪に発展」（安田春太郎・明治製菓専務取締役）",
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                    {
                      "fact": "菓子の需要は7年連続で減少していた",
                      "原文": "「菓子の需要はね,毎年わずかずつですが,今年で7年連続して減少しているんです」（中川赳社長）",
                      "source": "日経ビジネス 1980年8月25日号「ケーススタディ 明治製菓 菓子撤退、薬品侵攻の二面作戦展開」",
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                },
                {
                  "text": "需要側だけの問題ではなかった。中川社長は「国は農業保護政策をとっています。このため国産農産品はおおむね国際価格より大幅に高い。菓子原料の砂糖、乳製品、小麦粉も国産価格は国際価格に比べて2〜2.5倍高いんです。しかも、商品としての菓子は自由化されている」と述べている。菓子部門の売上高は1979年3月期に前年より34億円減り、1980年3月期にはさらに150億円減った。在庫の山を抱えたうえでの欠損であった。",
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                      "原文": "「国は農業保護政策をとっています。このため国産農産品はおおむね国際価格より大幅に高い。菓子原料の砂糖,乳製品,小麦粉も国産価格は国際価格に比べて2〜2.5倍高いんです。しかも,商品としての菓子は自由化されている。これでは利益を出せと言われても構造的にむずかしいわけです」（中川社長）",
                      "source": "日経ビジネス 1980年8月25日号「ケーススタディ 明治製菓 菓子撤退、薬品侵攻の二面作戦展開」",
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                    {
                      "fact": "菓子部門の売上高は1979年3月期に34億円減、1980年3月期にさらに150億円減となった",
                      "原文": "54年3月期は前年に比べ売上高が34億円減少し,経常利益も12億円減少した。（略）在庫の山を抱え,売上高は150億円減少し,経常損益は30億円の欠損になってしまった。",
                      "source": "日経ビジネス 1980年8月25日号「ケーススタディ 明治製菓 菓子撤退、薬品侵攻の二面作戦展開」",
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                    }
                  ]
                }
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            },
            {
              "sub_title": "暖簾の下で育った薬品部門と、5年出なかった新薬",
              "paragraphs": [
                {
                  "text": "一方、薬品部門は61億円の黒字を計上した。過去3年間の売上の伸びは26.2%、売上高経常利益率は9.3%で、業界首位の武田薬品工業の38.4%・11.6%には及ばないものの、高い成長を保っていた。製薬大手14社の売上高順位でも1970年の10位相当から1979年には7位相当へ上がっている。抗生物質の培養タンク総容量4,500トンは国内最大で、世界でも5指に入る規模であった。",
                  "evidences": [
                    {
                      "fact": "薬品部門の過去3年間の売上の伸びは26.2%、売上高経常利益率9.3%（武田薬品は38.4%・11.6%）で、製薬大手14社の順位は1970年10位相当から1979年7位相当へ上昇した",
                      "原文": "成長性（過去3年間の売り上げの伸び,55年3月期）: 明治製菓26.2%、業界トップの武田薬品38.4%／収益性（売上高経常利益率,55年3月期）: 明治製菓9.3%、武田薬品11.6%",
                      "source": "日経ビジネス 1980年8月25日号「ケーススタディ 明治製菓 菓子撤退、薬品侵攻の二面作戦展開」",
                      "url": null
                    },
                    {
                      "fact": "抗生物質の培養タンク総容量4,500トンは国内最大で世界でも5指に入る規模だった",
                      "原文": "抗生物質培養タンクの総容量は4500トン。これは日本一の能力だし,世界でも五指に入るほどである。",
                      "source": "日経ビジネス 1980年8月25日号「ケーススタディ 明治製菓 菓子撤退、薬品侵攻の二面作戦展開」",
                      "url": null
                    }
                  ]
                },
                {
                  "text": "薬品側にも弱点はあった。1975年に発売したパニマイシン以降、5年にわたって大型の新薬が出ていない。過去5年間の新製品が売上に占める比率は、中外製薬の90%超、三共の70%に対し、明治製菓の薬品部門は「数字にならないような水準」にとどまっていた。研究開発費は1976年3月期の38億円から1980年3月期の60億円へ増え、そのうち薬品向けは29億円から48億円になっていた。",
                  "evidences": [
                    {
                      "fact": "1975年発売のパニマイシン以降5年間、大型新薬が出ておらず、過去5年間の新製品比率は中外製薬90%超・三共70%に対し「数字にならないような水準」だった",
                      "原文": "これに対して,過去5年間大型新薬の出なかった\"明治製薬\"の新製品比率は「数字にならないような水準でして……」（明治製菓）といったところ。",
                      "source": "日経ビジネス 1980年8月25日号「ケーススタディ 明治製菓 菓子撤退、薬品侵攻の二面作戦展開」",
                      "url": null
                    },
                    {
                      "fact": "研究開発費は1976年3月期38億円（うち薬品29億円）から1980年3月期60億円（うち薬品48億円）へ増えた",
                      "原文": "研究開発費は51年3月期38億円（うち薬品29億円）、52年3月期42億円（同32億円）、53年3月期47億円（同37億円）、54年3月期52億円（同41億円）、55年3月期60億円（同48億円）。",
                      "source": "日経ビジネス 1980年8月25日号「ケーススタディ 明治製菓 菓子撤退、薬品侵攻の二面作戦展開」",
                      "url": null
                    }
                  ]
                }
              ]
            }
          ]
        },
        {
          "section": "origin",
          "label": "決断",
          "subsections": [
            {
              "sub_title": "「食料60・薬品40を3年で半々に」",
              "paragraphs": [
                {
                  "text": "中川赳社長は1980年、経営資源の配分を薬品へ寄せる方針を掲げた。「収益力のある企業体質にするには、食料部門の合理化ももちろんですが、薬品部門の強化がどうしても必要です。現在、売上高の60%が食料、40%が薬品という構成になっていますが、これを3年後に半々にもっていくのが当面の目標です」。1975年3月期に食料70・薬品30であった構成を、5年で60対40まで動かしたうえでの目標であった。",
                  "evidences": [
                    {
                      "fact": "中川社長は売上構成の食料60・薬品40を3年後に半々にする目標を掲げた",
                      "原文": "収益力のある企業体質にするには,食料部門の合理化ももちろんですが,薬品部門の強化がどうしても必要です。現在,売上高の60%が食料,40%が薬品という構成になっていますが,これを3年後に半々にもっていくのが当面の目標です。",
                      "source": "日経ビジネス 1980年8月25日号「ケーススタディ 明治製菓 菓子撤退、薬品侵攻の二面作戦展開」",
                      "url": null
                    },
                    {
                      "fact": "1975年3月期の売上構成は食料70・薬品30だった",
                      "原文": "食料と薬品の売上構成比率は70:30の割合である。",
                      "source": "証券アナリストジャーナル 1975年11月号「明治製菓 豊かな社会づくりの担い手として」（中川赳・明治製菓社長）",
                      "url": null
                    }
                  ]
                },
                {
                  "text": "同じ年の10月、安田春太郎専務が経営基本構想を明かしている。第一に置かれたのは「薬品の売上規模を引き上げ、少しでも早く食料と薬品の売上構成比を50対50に均衡させること」で、期限は中川社長の言う3年後ではなく昭和60年度であった。80年代前半の成長率予測は菓子業界が年0〜3%程度、薬品業界が9〜12%程度。東証上場の食品会社は3分の1がすでに薬品か新規事業の研究開発に入っており、明治製菓だけの道ではなかった。",
                  "evidences": [
                    {
                      "fact": "安田専務は経営基本構想の第一に、昭和60年度までに食料と薬品の売上構成比を50対50へ均衡させることを置いた",
                      "原文": "そこで当社は、昭和60年度までにぜひこの水準までもっていきたいという経営基本構想をさきに策定した。その第1は、薬品の売上規模を引き上げ、少しでも早く食料と薬品の売上構成比を50対50に均衡させることである。",
                      "source": "証券アナリストジャーナル 1980年11月号「明治製菓 食料品と薬品を両輪に発展」（安田春太郎・明治製菓専務取締役）",
                      "url": null
                    },
                    {
                      "fact": "80年代前半の成長率予測は菓子業界が年0〜3%程度、薬品業界が9〜12%程度とされていた",
                      "原文": "今年に入っていくつかの調査機関が、80年代前半における各業界の成長率予測を発表しているが、菓子業界は年率0〜3%程度、薬品業界は9〜12%程度とみるのが一般的だ。",
                      "source": "証券アナリストジャーナル 1980年11月号「明治製菓 食料品と薬品を両輪に発展」（安田春太郎・明治製菓専務取締役）",
                      "url": null
                    },
                    {
                      "fact": "東証上場の食品会社の3分の1が薬品を手がけるか新規事業の研究開発を始めていた",
                      "原文": "東証に上場されている食品会社についての調査によると、その3分の1が薬品を手がけているか新規事業のための研究開発をスタートさせている。",
                      "source": "証券アナリストジャーナル 1980年11月号「明治製菓 食料品と薬品を両輪に発展」（安田春太郎・明治製菓専務取締役）",
                      "url": null
                    }
                  ]
                }
              ]
            },
            {
              "sub_title": "工場を畳み、人は補充しない",
              "paragraphs": [
                {
                  "text": "人員は菓子部門から抜いた。食料部門で退職者が出ても補充せず、薬品部門で退職者が出た場合は食料部門から配転する。この基本戦略のもとで従業員数は毎年100人以上減り、さらに3年間で500人を減らす計画であった。ただし削減の外に置かれた職種がある。安田専務は「人員の合理化を進めているが、研究陣とプロパーの数は決して減らさない」と述べていた。人を減らしても、薬品への資金投入が続いて借入金は増え続けた。",
                  "evidences": [
                    {
                      "fact": "食料部門は退職者不補充、薬品部門の欠員は食料部門から配転する方針で、従業員は毎年100人以上減り、さらに3年間で500人減らす計画だった",
                      "原文": "菓子を中心とした食料部門で退職者が出ても一切補充せず,薬品部門で退職者が出た場合は,菓子・食料部門から配転するというのが基本戦略。この結果,同社の従業員数は毎年100人以上減っており,さらに今後3年間で500人減らす計画である。",
                      "source": "日経ビジネス 1980年8月25日号「ケーススタディ 明治製菓 菓子撤退、薬品侵攻の二面作戦展開」",
                      "url": null
                    },
                    {
                      "fact": "人員の合理化を進める一方、研究陣とプロパーの人数は減らさない方針だった",
                      "原文": "当社は人員の合理化を進めているが、研究陣とプロパーの数は決して減らさない。また営業マンも医学、薬学の知識が必要なので、研修にも力を入れている。",
                      "source": "証券アナリストジャーナル 1980年11月号「明治製菓 食料品と薬品を両輪に発展」（安田春太郎・明治製菓専務取締役）",
                      "url": null
                    },
                    {
                      "fact": "人員削減を進めても、薬品への資金投入により借入金は増加を続けていた",
                      "原文": "人減らしをしていけば,普通,借入金は減るものだが,同社の場合は\"金食い虫\"の薬品につぎ込んでいるだけに,借入金は増加の一途である。",
                      "source": "日経ビジネス 1980年8月25日号「ケーススタディ 明治製菓 菓子撤退、薬品侵攻の二面作戦展開」",
                      "url": null
                    }
                  ]
                },
                {
                  "text": "不採算工場の整理は難航した。函館工場（従業員56人）と山形県の上山分工場（同33人）はキャラメルやキャンデー類を主に生産しており、1980年3月末までに閉鎖して埼玉県の関東工場へ吸収するのが当初の計画であった。しかし従業員の大半が地元の中高年で、関東工場へ移るのは難しく、労使交渉は不調のまま推移した。両工場の廃止は同年9月末までずれ込み、食品事業の構造改善策も労組との協議を経て12月からの実施となった。",
                  "evidences": [
                    {
                      "fact": "函館工場（56人）・上山分工場（33人）は1980年3月末までに閉鎖して関東工場へ吸収する計画だったが、従業員の大半が地元の中高年で労使交渉は不調のまま推移した",
                      "原文": "もう一つのプロジェクトは,同社の函館工場（従業員56人）,山形県の上山分工場（同33人）の閉鎖問題である。両工場はキャラメルやキャンデー類を主に生産しているが,不採算工場としてこの3月末までに閉鎖され,埼玉県の関東工場に吸収する,というのが当初の計画。しかし,両工場の従業員は大半が地元の人でしかも中高年がほとんど。関東工場へ移るのが困難な人ばかりで,工場閉鎖は事実上の人員整理になりかねない。このため労使交渉は不調のままで,現在も工場閉鎖は実現していない。",
                      "source": "日経ビジネス 1980年8月25日号「ケーススタディ 明治製菓 菓子撤退、薬品侵攻の二面作戦展開」",
                      "url": null
                    },
                    {
                      "fact": "函館工場と上山分工場は1980年9月末をもって廃止され、生産拠点が集約された",
                      "原文": "9月末日をもって函館工場と上山分工場(山形県)を廃止し、生産拠点の集約化を実現したのもその一環だ。",
                      "source": "証券アナリストジャーナル 1980年11月号「明治製菓 食料品と薬品を両輪に発展」（安田春太郎・明治製菓専務取締役）",
                      "url": null
                    },
                    {
                      "fact": "食品事業の構造改善策は労組との協議に入り、1980年12月から実施の予定とされた",
                      "原文": "また収益の足を引っ張っている食品事業の構造改善を図るため、その具体策をまとめて労組との協議に入り、12月から実施の予定である。こうした措置により、食料部門の収支は大幅に改善するものとみている。",
                      "source": "証券アナリストジャーナル 1980年11月号「明治製菓 食料品と薬品を両輪に発展」（安田春太郎・明治製菓専務取締役）",
                      "url": null
                    }
                  ]
                }
              ]
            },
            {
              "sub_title": "祖業は畳まない、という留保",
              "paragraphs": [
                {
                  "text": "縮小の一方で、中川社長は撤退を否定した。「菓子を中心とした食料部門の切り捨ては今は考えていません。たとえ利益が少なくとも社会的に意義のある仕事だけにやり抜かねばならないと思っています」。菓子部門に求めたのも「利益の絶対額を追い求めるのではなく、標準的な利益を上げればいい」という水準であった。分離独立についても、外部から要請されれば別だが今のところ考えていない、と述べている。",
                  "evidences": [
                    {
                      "fact": "中川社長は食料部門の切り捨てを否定し、菓子部門には業界平均並みの利益率を目標とした",
                      "原文": "菓子を中心とした食料部門の切り捨ては今は考えていません。たとえ利益が少なくとも社会的に意義のある仕事だけにやり抜かねばならないと思っています。",
                      "source": "日経ビジネス 1980年8月25日号「ケーススタディ 明治製菓 菓子撤退、薬品侵攻の二面作戦展開」",
                      "url": null
                    },
                    {
                      "fact": "菓子部門の分離独立について中川社長は「外部から要請されれば別ですが、今のところは考えていません」と語った",
                      "原文": "「薬品と菓子では水と油ではないか,という世間の声も耳に入っています。しかし,外部から（菓子部門の分離独立を）要請されれば別ですが,今のところは（分離を）考えていません」と語る中川社長",
                      "source": "日経ビジネス 1980年8月25日号「ケーススタディ 明治製菓 菓子撤退、薬品侵攻の二面作戦展開」",
                      "url": null
                    }
                  ]
                },
                {
                  "text": "資金は薬品へ回した。研究開発費の約80%を薬品部門に投じ、薬品売上高に対する研究開発費の比率は1976年3月期の6.5%から1980年3月期の7.3%へ高めている。1978年7月にはフランスのシー・エム・インダストリー社から電子式輸液制御装置の製造技術を導入して医療機器へ入り、同時に富士アミド・ケミカルを買収して農薬原体を増産、1980年7月には日研化学の第三者割当増資を引き受けて筆頭株主の地位を固めた。",
                  "evidences": [
                    {
                      "fact": "研究開発費の約80%を薬品部門に投入し、薬品売上高に対する研究開発費比率は1976年3月期6.5%から1980年3月期7.3%へ高めた",
                      "原文": "研究開発費の約80%は薬品部門に投入。しかも,薬品の売り上げに対する薬品の研究開発費の比率を年々高めている。",
                      "source": "日経ビジネス 1980年8月25日号「ケーススタディ 明治製菓 菓子撤退、薬品侵攻の二面作戦展開」",
                      "url": null
                    },
                    {
                      "fact": "1978年7月に仏シー・エム・インダストリー社から輸液制御装置の技術を導入、富士アミド・ケミカルを買収、1980年7月に日研化学の第三者割当増資を引き受けて筆頭株主となった",
                      "原文": "53年7月にフランスの有力薬品,食品メーカーのシー・エム・インダストリー社（パリ）から点滴用の電子式輸液制御装置の製造技術を導入,医療機器分野への進出を果たした。同時に安宅産業系列だった富士アミド・ケミカルを買収,農薬原体の大増産にも踏み切っている。さらに,消化器系や循環器系の薬を主に作っている日研化学との提携を強化,この7月8日には日研化学の第三者割当増資を引き受け,筆頭株主の地位を一段と強化した。",
                      "source": "日経ビジネス 1980年8月25日号「ケーススタディ 明治製菓 菓子撤退、薬品侵攻の二面作戦展開」",
                      "url": null
                    }
                  ]
                }
              ]
            }
          ]
        },
        {
          "section": "outcome",
          "label": "結果",
          "subsections": [
            {
              "sub_title": "ホスミシンと、過去最高益への回復",
              "paragraphs": [
                {
                  "text": "中川社長は1980年8月の時点で「この10月には抗生物質の新薬、『ホスホマイシン』の発売が見込めます」と語っていたが、同年10月にはまだ薬価収載を待つ段階にあり、経口剤ホスミシンと注射剤ホスミシンSの同時発売は1981年1月にずれ込んだ。緑膿菌や耐性菌に効き、他の抗生物質と併用すると抗菌力が増すという特徴を持つ薬であった。",
                  "evidences": [
                    {
                      "fact": "1980年8月時点で中川社長は同年10月のホスホマイシン発売を見込んでいた",
                      "原文": "しかし,この10月には抗生物質の新薬,「ホスホマイシン」の発売が見込めます。さらに来年以降,大型新薬を次々と発売する予定です。",
                      "source": "日経ビジネス 1980年8月25日号「ケーススタディ 明治製菓 菓子撤退、薬品侵攻の二面作戦展開」",
                      "url": null
                    },
                    {
                      "fact": "1980年10月時点でホスミシン・ホスミシンSは薬価収載待ちで、実際の発売は1981年1月だった",
                      "原文": "ホスミシン、ホスミシンSとも薬価収載待ちの段階で、近く同時に発売の予定だが、経口剤と注射剤が同時に上市できるメリットは大きく、パニマイシン以上の大型商品に育つことを期待している。",
                      "source": "証券アナリストジャーナル 1980年11月号「明治製菓 食料品と薬品を両輪に発展」（安田春太郎・明治製菓専務取締役）",
                      "url": null
                    },
                    {
                      "fact": "ホスミシンは1981年1月から発売された",
                      "原文": "昨年1月から発売した抗生物質のホスミシンが、非常にユニークな優れた薬効と安全性の点で各医療機関から高く評価され、大型の新薬として業績に大きく寄与した。",
                      "source": "証券アナリストジャーナル 1982年6月号「明治製菓 総合ライフ・インダストリーを目指す」（葛上宗一郎・明治製菓常務取締役）",
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                  ]
                },
                {
                  "text": "1981年6月の薬価基準引き下げは一般に18.6%とされたが、抗生物質の比重が高い明治製菓では影響が20%に達した。それでもホスミシンが業績に寄与し、1982年3月期は売上高1,895億円、経常利益119億円、税引利益45億円といずれも過去最高となった。部門別の内訳は菓子946億円、食品172億円、薬品756億円、その他21億円で、経常利益の構成比は薬品60%・食料40%と逆転している。",
                  "evidences": [
                    {
                      "fact": "1981年6月の薬価基準引き下げは一般に18.6%だったが明治製菓への影響は20%に達した",
                      "原文": "一方、薬品部門では、昨年6月に薬価基準の大幅な引下げに直面した。一般には18.6%といわれているが、当社は抗生物質が非常に多い関係で、この影響が20%にのぼった。",
                      "source": "証券アナリストジャーナル 1982年6月号「明治製菓 総合ライフ・インダストリーを目指す」（葛上宗一郎・明治製菓常務取締役）",
                      "url": null
                    },
                    {
                      "fact": "1982年3月期は売上高1,895億円・経常利益119億円・税引利益45億円と過去最高で、部門別は菓子946億円、食品172億円、薬品756億円、その他21億円だった",
                      "原文": "売上高は1,895億円で前年比7%増。部門別の内訳は、菓子946億円(前年比10%増)、食品172億円(同10%減)、薬品756億円(同9%増)、その他(機械物資の輸出入、宝石販売、健康産業)21億円となっている。（略）この3月期は、経常利益が119億円(前年比43%増)、税引利益が45億円(同57%増)と好調な決算だった。",
                      "source": "証券アナリストジャーナル 1982年6月号「明治製菓 総合ライフ・インダストリーを目指す」（葛上宗一郎・明治製菓常務取締役）",
                      "url": null
                    },
                    {
                      "fact": "1982年3月期の経常利益の構成比は薬品60%・食料品40%だった",
                      "原文": "今年3月期の決算で、経常利益は薬品が60%、食料品が40%ぐらいの構成比だ。",
                      "source": "証券アナリストジャーナル 1982年6月号「明治製菓 総合ライフ・インダストリーを目指す」（葛上宗一郎・明治製菓常務取締役）",
                      "url": null
                    }
                  ]
                }
              ]
            },
            {
              "sub_title": "半々には届かなかった売上構成",
              "paragraphs": [
                {
                  "text": "一方、売上構成を半々にする目標には届かなかった。1984年10月の時点でも中川社長は「実際には売り上げの40%は薬品なんです。菓子は50%、残りは健康食品などですね」と語っている。中川社長の言う3年後の期限は1年半過ぎ、安田専務の掲げた昭和60年度も目前であった。食品部門は商品数を絞り、支店・営業所を縮小して1982年3月期に初めて黒字を出したが、葛上宗一郎常務はこれを「縮小均衡」と呼んでいる。",
                  "evidences": [
                    {
                      "fact": "1984年10月時点でも売上構成は薬品40%・菓子50%・残りが健康食品などであった",
                      "原文": "明治製菓というと,菓子が大半だというのが一般消費者のイメージでしょうが,実際には売り上げの40%は薬品なんです。菓子は50%,残りは健康食品などですね。",
                      "source": "日経ビジネス 1984年10月15日号「編集長インタビュー 中川赳氏（明治製菓社長）が語る\"10年ビジョン\"経営」",
                      "url": null
                    },
                    {
                      "fact": "食品部門は商品数を減らし流通経路を整備し支店・営業所を縮小した結果、売上は落ちたが収支はわずかに黒字となった。葛上常務はこの過程を「いわば縮小均衡」と述べた",
                      "原文": "まず商品の数を減らし、流通経路を整備した。また支店・営業所の組織を縮小し、セールスマンの配置転換も行った。こうして組織その他をコンパクトにし、費用の節減などもやった。その結果、売上高は落ちたが、収支はわずかながら黒字になった。しかし、この過程は、いわば縮小均衡であり、いつまでもこのままではいけない。",
                      "source": "証券アナリストジャーナル 1982年6月号「明治製菓 総合ライフ・インダストリーを目指す」（葛上宗一郎・明治製菓常務取締役）",
                      "url": null
                    }
                  ]
                },
                {
                  "text": "薬品の輸出高は1982年3月期に95億円へ達し、薬品売上高に占める比率は13%と、日本の製薬会社のなかで最も高くなった。安田専務が1980年に見込んだ95億円・13.5%にほぼ届いた。1982年4月、明治製菓は「経営10年ビジョン」を策定し、1991年度に売上高6,100億円、部門別では菓子2,000億円・食品700億円・薬品2,500億円という姿を描いた。研究開発費は10年間で1,500億円を投じる方針であった。",
                  "evidences": [
                    {
                      "fact": "1982年3月期の薬品輸出高は95億円、薬品売上高に占める比率は13%で、日本の製薬会社の中でトップだった",
                      "原文": "薬品の輸出高は95億円に達し、薬品全体の売上高に占める比率は13%になった。額はともかく、この輸出比率は日本の製薬会社の中でトップである。",
                      "source": "証券アナリストジャーナル 1982年6月号「明治製菓 総合ライフ・インダストリーを目指す」（葛上宗一郎・明治製菓常務取締役）",
                      "url": null
                    },
                    {
                      "fact": "1980年時点で薬品輸出は前期80億円から今期95億円へ、輸出比率は12%から13.5%へ、先行き20%まで引き上げる計画だった",
                      "原文": "当社は現在、薬品の輸出を世界60カ国に対し、前期は総額約80億円行ったが、今期は95億円を予想している。（略）薬品部門の総売上高に対する輸出比率は前期が12%、今期は13.5%を予想している。これを先行き20%にまで引き上げる計画だ。",
                      "source": "証券アナリストジャーナル 1980年11月号「明治製菓 食料品と薬品を両輪に発展」（安田春太郎・明治製菓専務取締役）",
                      "url": null
                    },
                    {
                      "fact": "1982年4月策定の「経営10年ビジョン」は1991年度に売上高6,100億円（菓子2,000億円・食品700億円・薬品2,500億円）を掲げ、10年間で研究開発費1,500億円を投じる方針だった",
                      "原文": "以上のような事業展開の結果、昭和66年(1991年)度の会社の売上高は6,100億円(57年3月期の3.2倍)をめざす。（略）部門別の売上高目標は、菓子2,000億円、食品700億円、薬品2,500億円、健康産業300億円、機械物資その他100億円、このほか新規事業として500億円を見込んでいる。（略）研究開発費としては、10年間に1,500億円を投入する方針である。",
                      "source": "証券アナリストジャーナル 1982年6月号「明治製菓 総合ライフ・インダストリーを目指す」（葛上宗一郎・明治製菓常務取締役）",
                      "url": null
                    }
                  ]
                }
              ]
            },
            {
              "sub_title": "順序が入れ替わった年に、何を残したか",
              "editorial": true,
              "paragraphs": [
                {
                  "text": "菓子部門の30億円の欠損と薬品部門の61億円の黒字は、社名を背負ってきた事業と、後から加えた事業の順序が入れ替わった数字であった。中川赳社長が掲げた「3年後に半々」は、4年後の1984年になっても薬品40%・菓子50%のままで、期限には届いていない。それでも1982年3月期に過去最高益へ戻せたのは、構成比の目標ではなく、研究開発費の8割を薬品へ回し続けた配分が効いたためである。"
                },
                {
                  "text": "明治製菓はこの配分の負担を菓子部門の従業員に寄せた。函館と上山の両工場は、閉鎖の期限を半年ずらしてようやく畳んでいる。中川社長が「切り捨ては今は考えていません」と繰り返した背景には、祖業への愛着だけでなく、地元の中高年をどこへも移せないという現実があった。食品部門が初の黒字を出したときに葛上常務が「縮小均衡」だと言い添えたのも、同じ種類の留保である。"
                }
              ]
            }
          ]
        }
      ],
      "references": [
        "日経ビジネス 1980年8月25日号「ケーススタディ 明治製菓 菓子撤退、薬品侵攻の二面作戦展開」",
        "日経ビジネス 1984年10月15日号「編集長インタビュー 中川赳氏（明治製菓社長）が語る\"10年ビジョン\"経営」",
        "証券アナリストジャーナル 1975年11月号「明治製菓 豊かな社会づくりの担い手として」（中川赳・明治製菓社長）",
        "証券アナリストジャーナル 1980年11月号「明治製菓 食料品と薬品を両輪に発展」（安田春太郎・明治製菓専務取締役）",
        "証券アナリストジャーナル 1982年6月号「明治製菓 総合ライフ・インダストリーを目指す」（葛上宗一郎・明治製菓常務取締役）"
      ],
      "authored": "2026-07",
      "last_updated": "2026-07-28"
    }
  ]
}
