{
  "spec_version": "6",
  "endpoint": "ceo-person",
  "stock_code": "1812",
  "company_name": "鹿島建設",
  "content_lang": "ja",
  "meta_lang": "en",
  "canonical_url": "https://the-shashi.com/tse/1812/executives/ceo/kajima-morinosuke/",
  "api_url": "/api/1812/ceo/kajima-morinosuke.json",
  "updated": "2026-11-04",
  "license": "© 2026 Yutaka Sugiura. All rights reserved.",
  "attribution": "The社史 (the-shashi.com) — https://the-shashi.com/tse/1812/executives/ceo/kajima-morinosuke/",
  "source": {
    "person": {
      "primary": [
        "有価証券報告書（役員の状況）"
      ],
      "extraction": "EDINET の XBRL から機械抽出した役員表を土台に、雑誌記事・社史・報道で経歴と出自を補完",
      "caveat": "在任区間は career の is_ceo_appointed が正本。退任年月は次の代の就任年月から決まる"
    }
  },
  "person": {
    "slug": "kajima-morinosuke",
    "name": "鹿島守之助",
    "kana": "かじま　もりのすけ",
    "surname": "鹿島",
    "given_name": "守之助",
    "founder_role": "refounder",
    "birthdate": "1896-02-02",
    "hometown": "兵庫県揖保郡",
    "education": "東京帝国大学法学部政治科",
    "education_source": "私の履歴書 経済人7「鹿島守之助」（日本経済新聞社、1980年）",
    "prev_role": null,
    "origin": "創業家（鹿島家の婿養子）。外務省で欧州の大使館に勤めたのち、1927年に鹿島精一氏の長女・鹿島卯女氏と結婚して鹿島家に入り、1936年から鹿島組の経営に参画した",
    "origin_type": "創業家",
    "milestone": "外交官出身の婿養子として第4代を継いだ社長",
    "career_note": "1942年7月から1943年9月まで大政翼賛会の調査局長を務めた間は、鹿島組を含む会社の役員を一時退任した（私の履歴書）。社長を退任したのちは会長として経営に関わった",
    "career": [
      {
        "company": "外務省",
        "from": null,
        "to": "1930",
        "roles": [
          {
            "date": "1922-05",
            "role": "外務官補（ドイツ在勤）",
            "event": "赴任"
          },
          {
            "date": "1927",
            "role": "イタリア大使館在勤"
          },
          {
            "date": "1930-01",
            "role": "帰朝・退官",
            "event": "退官"
          }
        ]
      },
      {
        "company": "鹿島組（現鹿島建設）",
        "from": "1936-04",
        "to": null,
        "roles": [
          {
            "date": "1936-04",
            "role": "経営に参画",
            "event": "入社"
          },
          {
            "date": "1938-07",
            "role": "取締役社長",
            "board": "取締役",
            "title": "社長",
            "is_ceo_appointed": true
          },
          {
            "date": "1957",
            "role": "社長退任（北海道開発庁長官への就任による。後任は鹿島卯女）",
            "title": "社長",
            "event": "退任",
            "is_ceo_retired": true,
            "retirement_basis": "press"
          }
        ]
      }
    ],
    "references": [
      {
        "source": "私の履歴書 経済人7「鹿島守之助」（日本経済新聞社、1980年）",
        "url": "https://dl.ndl.go.jp/pid/11938812",
        "for": [
          "birthdate",
          "hometown",
          "education",
          "career",
          "origin"
        ]
      },
      {
        "source": "日本会社史総覧（東洋経済新報社, 1995）「鹿島建設」",
        "for": [
          "career"
        ]
      },
      {
        "source": "歴史をつくる人々「事業経営の目標」鹿島守之助（1965年）",
        "url": "https://dl.ndl.go.jp/pid/2941015",
        "for": [
          "career",
          "origin"
        ]
      }
    ],
    "sections": {
      "tenure_frames": [
        {
          "frame": "origin",
          "text": "1896年2月2日、兵庫県揖保郡半田村の旧家に永富敏夫氏の四男として生まれた。龍野中学と第三高等学校を経て東京帝国大学法学部政治科に進み、在学中に高等文官試験の行政科に、翌年には外交官試験に合格して外務省に入省した。1922年からドイツ、続いてイタリアの大使館に勤め、欧州の政情の調査と報告を受け持った。1927年2月、鹿島組組長の鹿島精一氏の長女の鹿島卯女氏と結婚し、鹿島家の婿養子となった。外交史の著作『世界大戦原因の研究』により法学博士となった。"
        },
        {
          "frame": "selection",
          "text": "鹿島組の事業に関わり始めたのは1936年4月で、1930年の衆議院選挙に落選して研究に打ち込んでいたところへ、社長の鹿島精一氏や主な重役から会社に来るよう求められた。当時の鹿島組は鉄道の幹線工事がほぼ終わってローカル線の案件しか残らず、工事ごとの採算を押さえない経営のもとで、手持ちの工事の大半が赤字に陥った時期もあった。京城支店長からは、今のうちに大きな改革を行わなければ業界での地位を失うと警告されていた。2年余りかけて定款と規則を改めたうえで、1938年7月に社長に就任し、鹿島精一氏は会長に回った。"
        },
        {
          "frame": "initiatives",
          "text": "社長に就任すると、施工能力の増強と科学的管理の2つを経営の原則に据え、予算統制と経営比較を管理の骨子とした。市場調査をもとに受注の重点を鉄道から建築と電力の工事へ移し、1937年から終戦までの主要工事に占める鉄道の割合は4%まで下がった。戦後は1949年4月に建設業界で初めての技術研究所を設け、1950年には沖縄の米軍工事で米国のモリソン・クヌードセン社と提携し、日本で最初の共同企業体による施工に踏み切った。1957年に国務大臣として入閣する際、社長の座を妻の鹿島卯女氏に譲った。"
        },
        {
          "frame": "results",
          "text": null
        },
        {
          "frame": "refounding",
          "text": "鹿島守之助氏が鹿島組の経営に加わった1936年、同社の資本金は250万円、社員は250人、年間の受注量は約1,000万円だった。明治・大正期の請負高の67%を鉄道が占めた同社は、幹線の建設が一巡してローカル線の工事しか残っていなかった。工事ごとの採算を押さえない経営が続き、手持ちの工事のほとんどが赤字という時期もあった。先代の鹿島精一氏は他の事業を整理して資本を厚くする堅実策で信用を築いたが、公職の立場を受注に使わない方針を貫いた結果、会社は守りに回っていた。\n鹿島守之助氏は内外の建設と経営の文献を集め、旧来のやり方を捨てて改良を続けることを軸にした「事業成功の秘訣二十ヵ条」をまとめた。1938年7月に社長に就任すると、社報に載せた就任の辞で、再建には新しい科学的知識と創造的な精神が要ると説いた。経営の原則は施工能力の増強と科学的管理の2つで、後者は予算統制と経営比較を骨子とした。受注の方針は市場調査をもとに改め、鉄道に偏っていた工事を建築と電力へ振り向けた。施工量が増加するほど経営が粗くなるとみて、大量施工による原価の引き下げと管理の精緻化を同時に進めた。人員の整理は行わず、先代以前からの社員も雇い続けた。\n1937年から終戦までの主要工事の内訳は工場建築が44%、発電所が30%で、鉄道は4%にまで縮んだ。鉄道の請負業者だった鹿島組は、この8年余りで工場と電源の工事を主力とする会社へ形を変えた。1947年12月には社名を鹿島建設に改め、1949年4月には建設業界で初めての技術研究所を設けている。\n終戦直後は工事の7割を進駐軍の発注が占め、同社もその受注に回った。1950年の沖縄の米軍工事では米国のモリソン・クヌードセン社に大林組・竹中工務店を加えた陣容で臨み、日本で最初の共同企業体による施工を実現した。厚木と松島の飛行場工事では、軍に補償を求めれば以後の受注を失うと危ぶむ重役の大勢を退けて請求を出し、同調した大林組・日本鋪道と合わせて約1億5,000万円が認められた。1952年3月には著書『ジョイント・ベンチュア』を出し、この方式を業界に広めた。\n1957年に北海道開発庁長官として入閣すると、国務に専念するため社長を辞し、妻の鹿島卯女氏に後を託した。長官の在任中には、北海道開発局が発注する工事について鹿島建設の指名停止を自ら命じている。1963年の年間受注高は1,368億円となり、世界首位だったモリソン・クヌードセン社を上回り、社員は6,700人に達した。1965年刊の経営書は、鹿島組を近代的な事業に育てて躍進させたのは第4代の守之助・卯女夫妻の時代だと記している。"
        }
      ]
    },
    "html_url": "https://the-shashi.com/tse/1812/executives/ceo/kajima-morinosuke/",
    "term_start": "1938-07",
    "term_end": "1966",
    "api_url": "https://the-shashi.com/api/1812/ceo/kajima-morinosuke.json",
    "list_api_url": "https://the-shashi.com/api/1812/ceo.json",
    "predecessor": {
      "slug": "kajima-seiichi",
      "name": "鹿島精一",
      "api_url": "https://the-shashi.com/api/1812/ceo/kajima-seiichi.json"
    },
    "successor": {
      "slug": "atsumi-takeo",
      "name": "渥美健夫",
      "api_url": "https://the-shashi.com/api/1812/ceo/atsumi-takeo.json"
    }
  }
}
