1931年〜 月賦販売店からカード決済の都心型百貨店への業態転換
丸井の業績推移:単体
- 1937年 丸井を設立
- 1945年 中国人が中野店を不法占拠
- 1960年 店舗専用のクレジットカードを発行
- 1962年 都心部に大型店を出店
- 1962年 小規模店舗を閉鎖
- 1963年 東京証券取引所第2部に株式上場
- 1980年 若者向けファッションへの品ぞろえ転換とDCブランドの取り込み 月賦離れという構造変化のなか、丸井は「クレジットの丸井」の看板をどう作り替えたか
愛媛勢の月賦業界に飛び込んだ富山出身の外様
1931年2月、青井忠治氏(当時27歳・富山県出身)は勤務先であった月賦販売商・丸二商会の中野店を買い取る形で独立した。当時の月賦業界は愛媛県出身者が主流で、富山出身の青井氏は業界内で外様の立場にあった。大卒初任給が60円だった時代に1.1万円(現在換算で約3600万円)の貯金を蓄えていた事実は月賦業の高収益性を示し、青井氏は業界の利益構造を熟知したうえで独立に踏み切った経営者だった。青井氏は独立当時を「全然言葉も通じんくらいで、異端視され、非常に悲しくて・・・、大見得を切って出ては来たんですが、死んでしまおう、といって自分の故郷へ手紙をやりました」(野田経済 1963/07)と回想している。中央線沿線の近接店舗に集約して集金人の巡回効率を最大化する独自の出店モデルを築き、1937年5月に資本金5万円で株式会社丸井を設立した。 [1][2][3][4]
- 丸井グループ 有価証券報告書【沿革】
- [1]1931年2月 青井忠治が丸二商会からのれん分けを受け中野で割賦販売業を創業
- [2]創業者は青井忠治・富山県出身
- [3]独立元は月賦販売商・丸二商会(中野店)
- 野田経済(1963年7月)
- [4]青井氏の独立当時の回想(野田経済 1963/07 掲載の引用)
戦後は中野本店の不法占拠問題に直面しながらも事業を再開し、1952年の渡米で米国のクレジットカード文化に触発された青井氏は、1960年に独自の店舗専用クレジットカードの発行に踏み切る。発行初年度に5万枚のカードを発行する規模に達し、月賦販売の台帳管理をカードという新形態へ移す試みを社内で始めた。月賦販売という労働集約的な事業形態から、情報システムを中核とする事業形態へと転換した瞬間で、戦前からの事業モデルを内側から変革する意志の表明でもあった。この実務経験が、のちのオンライン信用照会システムや店舗即時発行へとつながる丸井のカード事業の原点となる。 [5][6][7][8]
- 丸井グループ 有価証券報告書【沿革】
- [5]戦後、中野本店の不法占拠問題に直面しながら事業を再開
- [6]1952年 青井忠治が渡米しクレジットカード文化に触発された
- [7]1960年 店舗専用クレジットカードの発行を開始
- [8]発行初年度に5万枚のカードを発行
- 丸井グループ 有価証券報告書【沿革】
- [1]1931年2月 青井忠治が丸二商会からのれん分けを受け中野で割賦販売業を創業
- [2]創業者は青井忠治・富山県出身
- [3]独立元は月賦販売商・丸二商会(中野店)
- [5]戦後、中野本店の不法占拠問題に直面しながら事業を再開
- [6]1952年 青井忠治が渡米しクレジットカード文化に触発された
- [7]1960年 店舗専用クレジットカードの発行を開始
- [8]発行初年度に5万枚のカードを発行
- 野田経済(1963年7月)
- [4]青井氏の独立当時の回想(野田経済 1963/07 掲載の引用)
資本金3.6億円に4億円を投じた新宿店の賭け
1960年代に入り、丸井は中央線沿線の小規模月賦専門店の連合体から脱却し、都心部の主要駅前の店舗に出店する方針へ経営の軸足を転換した。1962年の新宿店開業は、当時の資本金3.6億円に対して4億円を投じる、資本金を上回る集中投資だった。地方拠点を束ねる従来型の出店戦略とは質的に異なる判断で、創業者にとっても会社全体にとっても退路を断つ決断である。創業者の青井忠治氏は「今後の当社の命運を決するもの」という言葉で社内に宣言し、月賦払いという独自の決済手段を差別化の武器として、三越や伊勢丹など老舗百貨店が支配する都心部の商圏へ参入した。
百貨店が現金もしくはクレジットの一括払いを主流とした時代に、丸井の月賦払いは一括で高額商品を買えない若年層の需要を取り込んだ。1966年から1971年にかけて小規模の10店舗を閉鎖して経営資源を主要店に集中させ、1970年には競合の緑屋を抜いて月賦百貨店の売上高首位を確保する。丸井は都心店舗で総合月賦百貨店化を図り、中央線沿線を密度高く押さえたのに対し、緑屋は関東一円に小型店を分散するナショナルチェーン路線を採り、店舗戦略の違いが業績差となって表れた(Decide 1987)。戦前から業界の主流だった愛媛出身者の勢力を一代で上回る形で、資本金を上回る新宿への集中投資が8年後の首位奪取という具体的な形に結びついた。 [9]
- [9]競合の緑屋は関東一円に小型店を分散するナショナルチェーン路線を採った(Decide 1987 出所)
- [9]競合の緑屋は関東一円に小型店を分散するナショナルチェーン路線を採った(Decide 1987 出所)
店舗即時発行とDCブランドが作った26期連続増収増益
1966年に業界に先駆けてコンピューターを社内に導入した丸井は、1974年にオンライン信用照会システムを稼働させ、1975年にはクレジットカードの店舗即時発行を開始した。来店した若者がその場でカードを手にできる仕組みは既存の百貨店カードとの差別化要因として働き、都心部の店舗がそのままカード会員の獲得チャネルとして働くという独特の構造を業界に先駆けて作り出す。カードの即時発行は他社が追随するまでに長い時間を要した先進的な仕組みで、情報システムへの継続投資を経営の中心に据えた丸井の差別化戦略として、以後の26期連続増収増益を支える基盤となった。創業者の青井忠治氏は経営方針を「細く長くという私の経営理念に照らすと、あまり持ち上げられるのは嬉しいことじゃない」(日経ビジネス 1974/10/14)と語り、好調時ほど手綱を引き締める構えを示した。 [10][11][12][13]
- 丸井グループ 有価証券報告書【沿革】
- [10]1966年に業界に先駆けてコンピューターを社内に導入
- [11]1974年にオンライン信用照会システムを稼働
- [12]1975年にクレジットカードの店舗即時発行を開始
- 日経ビジネス(1974年10月14日)
- [13]青井忠治の経営方針発言「細く長くという私の経営理念に照らすと、あまり持ち上げられるのは嬉しいことじゃない」(日経ビジネス 1974/10/14)
1980年代にはDCブランド(デザイナーズ・キャラクターズブランド)のブームが到来し、丸井はこの潮流を早期に捉えて高額ファッションの取扱を増やした。DCブランドの単価は数万円から10万円以上という高額帯で、丸井のクレジットカードの分割払いと組み合わせることで、若年層の顧客が購入できる消費体験を都心部の店舗で提供する構造ができあがる。カードと都心の旗艦店舗とDCブランドという三つの要素が相互に補強し合う事業モデルは、当時の流通業界のなかでも独自性が高かった。DCブランドの売上高は1984年度の310億円から1987年度には1066億円へ3年間で3倍超に拡大し、1987年に26期連続増収増益を達成、1988年にはカード会員数1000万人を突破する水準へ到達した。
- 丸井グループ 有価証券報告書【沿革】
- [10]1966年に業界に先駆けてコンピューターを社内に導入
- [11]1974年にオンライン信用照会システムを稼働
- [12]1975年にクレジットカードの店舗即時発行を開始
- 日経ビジネス(1974年10月14日)
- [13]青井忠治の経営方針発言「細く長くという私の経営理念に照らすと、あまり持ち上げられるのは嬉しいことじゃない」(日経ビジネス 1974/10/14)