| 期 | 区分 | 売上高 | 利益※ | 利益率 |
|---|---|---|---|---|
| 1961/7 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 0億円 | - | - |
| 1962/7 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 0億円 | - | - |
| 1963/7 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 0億円 | - | - |
| 1964/7 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 0億円 | - | - |
| 1965/7 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 1億円 | - | - |
| 1966/7 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 1億円 | - | - |
| 1967/7 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 2億円 | - | - |
| 1968/7 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 4億円 | - | - |
| 1969/7 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 7億円 | - | - |
| 1970/7 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 10億円 | - | - |
| 1971/7 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1972/7 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 12億円 | 0億円 | 2.9% |
| 1973/7 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 18億円 | 0億円 | 4.1% |
| 1974/7 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 46億円 | 2億円 | 5.1% |
| 1975/7 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 91億円 | 5億円 | 6.0% |
| 1976/7 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 195億円 | 14億円 | 7.4% |
| 1977/7 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 322億円 | 27億円 | 8.6% |
| 1978/7 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 347億円 | 25億円 | 7.4% |
| 1979/7 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 337億円 | 13億円 | 4.0% |
| 1980/7 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 396億円 | 9億円 | 2.3% |
| 1981/7 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 456億円 | 13億円 | 2.8% |
| 1982/7 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 507億円 | 16億円 | 3.2% |
| 1983/7 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 582億円 | 22億円 | 3.9% |
| 1984/7 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 681億円 | 32億円 | 4.7% |
| 1985/7 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 742億円 | 22億円 | 2.9% |
| 1986/7 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 740億円 | 32億円 | 4.3% |
| 1987/7 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 777億円 | 48億円 | 6.2% |
| 1988/7 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 846億円 | 55億円 | 6.5% |
| 1989/7 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 950億円 | 60億円 | 6.3% |
| 1990/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 743億円 | 26億円 | 3.4% |
| 1991/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 1,241億円 | -56億円 | -4.6% |
| 1992/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 1,314億円 | -354億円 | -27.0% |
| 1993/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 1,142億円 | -55億円 | -4.9% |
| 1994/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 1,024億円 | -43億円 | -4.3% |
| 1995/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 923億円 | -240億円 | -26.1% |
| 1996/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 968億円 | -26億円 | -2.8% |
| 1997/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 1,073億円 | -53億円 | -5.0% |
| 1998/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 1,453億円 | -180億円 | -12.4% |
| 1999/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 1,501億円 | 51億円 | 3.4% |
| 2000/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 1,391億円 | 204億円 | 14.6% |
| 2001/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 1,368億円 | -266億円 | -19.5% |
| 2002/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 1,269億円 | 24億円 | 1.9% |
| 2003/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 1,095億円 | -193億円 | -17.7% |
| 2004/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 1,039億円 | 53億円 | 5.1% |
| 2005/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 1,011億円 | -158億円 | -15.7% |
| 2006/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 989億円 | 76億円 | 7.7% |
| 2007/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 966億円 | 41億円 | 4.2% |
| 2008/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 939億円 | 11億円 | 1.1% |
| 2009/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 697億円 | -14億円 | -2.2% |
| 2010/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 738億円 | 43億円 | 5.9% |
| 2011/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 766億円 | 93億円 | 12.2% |
| 2012/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 749億円 | 143億円 | 19.0% |
| 2013/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 742億円 | 125億円 | 16.8% |
| 2014/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 770億円 | 128億円 | 16.6% |
| 2015/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 745億円 | 128億円 | 17.1% |
| 2016/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 724億円 | 96億円 | 13.2% |
| 2017/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 626億円 | 64億円 | 10.3% |
| 2018/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 602億円 | 49億円 | 8.1% |
| 2019/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 591億円 | 38億円 | 6.5% |
| 2020/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 552億円 | 1億円 | 0.3% |
| 2021/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 410億円 | -39億円 | -9.7% |
| 2022/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 527億円 | 34億円 | 6.4% |
| 2023/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 726億円 | 81億円 | 11.2% |
サンリオの創業経緯で注目すべきは、県庁の外郭団体を株式会社化するという特殊な独立の形態と、創業直後の500万円不渡りという致命的な危機である。辻信太郎氏は倒産寸前の状況で百貨店前の路上販売に活路を見出し、問屋価格と小売価格の3倍の価格差に着目して3ヶ月で債務を完済した。この原体験は「モノそのものではなく、売り方と場の設計で価値が変わる」というサンリオの事業哲学の原点といえる。祖業が絹製品の輸出であり、現在のキャラクタービジネスとは全く無関係だった点も興味深い。
サンリオの創業者である辻信太郎氏は、山梨県庁の職員として保険料率の算出業務や県知事選の支援活動に携わっていた。この過程で山梨県の外郭団体「山梨シルクセンター」の業務に関わるようになり、山梨県の特産品であるワインや絹製品の海外輸出を手がけることになった。しかし県庁内部では行政に付随する外郭団体が民間企業のようなビジネスを行うことに対して反発の声が上がっていた。
辻信太郎氏は県庁を辞めて起業家に転進する道を選んだ。1960年8月に外郭団体の山梨シルクセンターを株式会社化する形で独立し、資本金100万円で会社を設立した。出資者には山梨県知事が5万円、副知事が5万円、商工会議所会頭が5万円を拠出しており、県職員時代に築いた人的ネットワークが資本政策に反映されていた。
本社は山梨県ではなく東京日本橋の小舟町に置かれた。絹製品の輸出にあたっては問屋との取引が不可欠であり、東京日本橋の横山町には問屋街が形成されていたためである。山梨県の企業から商品として仕入れて問屋に販売するという卸売のポジションが祖業となった。辻信太郎氏は起業にあたりソニーを目標に据え、事務所に「ソニーに追いつけ追い越せ」と掲げたが、周囲の利害関係者はこの目標に対して懐疑的な見方を示した。
ところが創業直後に韓国向け絹製品「ブロケード」の輸出で500万円の不渡手形を掴んでしまい、創業資金が枯渇して倒産の危機に直面した。当時の従業員は辻社長を含めて5名であり、本社事務所を東京日本橋から秋葉原に移転するなどコスト削減を余儀なくされた。辻信太郎氏は日銭を確保するために、東京都内の百貨店の入口付近で地権者に無許可で雑貨を販売する物販に商売の軸足を移した。
日本橋横山町の問屋価格と百貨店周辺の小売価格には約3倍のギャップが存在しており、辻信太郎氏はこの価格差に着目した。百貨店前での物販によって3ヶ月間で500万円の債務を完済し、倒産を回避することに成功した。なおこの時に販売した雑貨はサングラスや手袋、帽子、財布などであり、山梨県の特産品とは無関係の品目であった。
その後、サンリオはビーチサンダルのOEM販売に乗り出した。当時はビーチサンダルが普及し始めた時期であり、銀座の小売業「三愛」に対してOEMで供給することでまとまった収益を確保した。創業計画にあった山梨県特産品の輸出ではなく、雑貨販売とOEM供給によって事業を軌道に乗せる展開となった。辻氏は創業期の危機を乗り越えたことで業界内では「なかなかアイデアマンだ」との評判を得たとされる。
| 日時 | 経歴 | 備考 |
| 1927-12 | 山梨県甲府市生まれ | 料亭の家系。両親と死別 |
| 1947-03 | 桐生工業専門学校・卒業 | 現・群馬大学工学部 |
| 1949-12 | 山梨県庁・入庁 | 保険料率算出業務に従事 |
| 1960-08 | 山梨シルクセンター・代表取締役社長 | 現・サンリオ |
| 2020-07 | サンリオ・代表取締役会長 | |
| 2022-06 | サンリオ・役職退任 | 退任時94歳 |
| 日時 | 売上高 | 備考 |
| 1961年7月期 | 2,400万円 | |
| 1962年7月期 | 3,700万円 | |
| 1963年7月期 | 6,400万円 | |
| 1964年7月期 | 8,200万円 | |
| 1965年7月期 | 14,700万円 | 年商1億円を突破 |
サンリオの創業経緯で注目すべきは、県庁の外郭団体を株式会社化するという特殊な独立の形態と、創業直後の500万円不渡りという致命的な危機である。辻信太郎氏は倒産寸前の状況で百貨店前の路上販売に活路を見出し、問屋価格と小売価格の3倍の価格差に着目して3ヶ月で債務を完済した。この原体験は「モノそのものではなく、売り方と場の設計で価値が変わる」というサンリオの事業哲学の原点といえる。祖業が絹製品の輸出であり、現在のキャラクタービジネスとは全く無関係だった点も興味深い。
ところがね、県庁の役人がそんなことをあまり熱心にやると必ず陰口を叩くのが出てくる。知事のところへ、辻という奴は商売で儲けようとばかりしてけしからん、と投書がいったりし始めた
もう、どうしたらいいのか分からなくてね。なんとかやれる商売はないかと、あてもなく盛場をほっつき歩いていた。そしたら新宿で大道商人が声を張り上げて小物を打っているのに出会った。うん、俺もこれをやろう、と思ったんです。
サンリオが問屋から企画・小売へ転じた判断の核心は、商品の機能ではなく「贈る行為」に価値を置くギフトという切り口にある。辻信太郎氏の言う「300円のコップでも心が通じ合う」という発想は、商品原価ではなく情緒的付加価値で利益率を確保するビジネスモデルの原型であった。資本金2000万円に対して手付金2億円の新宿直営店出店は無謀にも見えるが、オイルショック下で年率350%成長を記録した「サン・リオ旋風」がこの賭けを正当化した。
1962年にサンリオは自社のオリジナル商品としてギフト商品の取り扱いを開始した。自社企画で「いちご」をデザインした文具などの雑貨を販売し、子供向けおよび若い女性向けの商品ラインナップを拡充していった。この参入によりサンリオは雑貨問屋からギフト用雑貨の企画を手がける企業へと転身を果たした。1967年12月には贈答用の小型絵本「ギフトブックシリーズ」の発刊を開始し、出版事業にも参入している。
創業以来、サンリオは問屋として事業を展開しており小売業は手がけてこなかった。しかし自社商品の充実に合わせて消費者との直接的な接点を構築するため、小売への進出を決めた。1971年に新宿3丁目に直営店「ギフトゲート」を出店し、当時の資本金2000万円に対して手付金だけで2億円という規模の投資を行った。その後も全国各地に非直営の取扱店を拡充し、1976年までに直営6店を含む計125店の販売網を整備した。
1973年度から1975年度にかけて、サンリオの売上高は年間122%から350%という成長率を記録した。売上高に対する税引前利益率は11%から20%の水準を確保し、サンリオは収益力の高い企業として業界内で注目を集めた。日本経済がオイルショックに伴う不況下にある中での業績好調は「サン・リオ旋風」と形容された。
売上構成は筆記具・紙製品・アクセサリーが中心であり、いずれも機能性ではなくキャラクターが持つ情緒的な価値によって支持された商品であった。中学生や高校生を中心とする若い女性層のニーズを捉え、商品を贈答品として位置づけるギフトの切り口が購買動機として機能した。ギフト商品の企画から小売店舗の展開に至る事業構造の転換が、サンリオの急成長を支える基盤となった。
| 決算期 | 売上高 | 利益(税引前推定) | 売上高利益率 |
| FY1973 | 13.3億円 | 2.7億円 | 20.9% |
| FY1974 | 46.8億円 | 5.2億円 | 11.1% |
| FY1975 | 91.1億円 | 13.0億円 | 14.2% |
サンリオが問屋から企画・小売へ転じた判断の核心は、商品の機能ではなく「贈る行為」に価値を置くギフトという切り口にある。辻信太郎氏の言う「300円のコップでも心が通じ合う」という発想は、商品原価ではなく情緒的付加価値で利益率を確保するビジネスモデルの原型であった。資本金2000万円に対して手付金2億円の新宿直営店出店は無謀にも見えるが、オイルショック下で年率350%成長を記録した「サン・リオ旋風」がこの賭けを正当化した。
ものにフィーリング、メッセージ、愛情がくっついているといえば、分かって頂けますか。(略)
物は関係ないんです。例えば、初めての給料で娘は親父に何もエルメスのネクタイを買うこともない。チョコチョコした300円のサンリオのコップだって「お父さん、これ初めての給料で買ったの。持ってて」ということで、どれだけの心が通じ合うかってことですよ。こういう心のふれあいをビジネス化できないかって考えで始めたのがサンリオなんです。
社会の全体が不況であり、売れ行きが不調のなかでも、どこかに好調の分野があり、また不調の分野の中でも驚くべき伸び率で成長している企業があるものである。文具業界では現在サン・リオ旋風が起きている。
ハローキティ誕生の最大の皮肉は、創業者の辻信太郎氏自身が「単純な線で描かれた顔」「動きに乏しい」と否定的に評価していた点にある。スヌーピーのライセンス体験から「独自IP」の必要性を認識しつつも、どのデザインが当たるかは経営者にも予測できなかった。20代の女性社員デザイナーの感性が子供の購買行動と合致し、実験的に店頭に置いた小物が予想外に売れたことで商品化が決まった。創作者の楠侑子氏が結婚退職した後もキャラクターが独り歩きした事実は、属人的な創作から組織的なIP運営への転換を不可避にした。
サンリオはキャラクター商品を充実させるにあたり、子供を対象とした大規模な購買調査を実施した。調査の結果、子供に人気のある動物は犬と猫であり、「白くて耳の垂れた犬」にニーズがあるとの仮説が立てられた。偶然にもこのタイミングで米国企業がスヌーピー(PEANUTS)のライセンス付与による日本国内での販売を計画しており、サンリオはそのライセンスの取得を決定した。
当時の日本国内ではスヌーピーの認知度が低く、サンリオ以外の企業はライセンスに関心を示さなかったとされる。スヌーピーの商品は子供の支持を得てヒットを記録したが、サンリオの独占ライセンスではなく一部商品に限られた利用権であったため、国内収益をサンリオが独占する形にはならなかった。このため辻信太郎氏は他社ライセンスに依存しない独自キャラクターの創出を模索するようになった。
自社キャラクターのデザインを担ったのは、サンリオ制作室に勤務する20代の女性社員たちであった。毎日のように犬や猫、熊といった動物のキャラクターを描く中で、鈴木ひろ子氏が「パティ&ジミー」を考案し、楠侑子氏(武蔵野美術大卒・当時20歳前後)が「ハローキティ」を考案した。1975年にはマイメロディも考案され、サンリオの制作室から複数の自社キャラクターが誕生することになった。
辻信太郎氏はこれらのキャラクターに対して懐疑的な姿勢をとっていた。パティ&ジミーについては「こんなものはダメだ」という第一印象を持ち、ハローキティについても「愛嬌もない」「単純な線で描かれた」「動きに乏しい」と評して、ヒット商品になるとは考えなかった。しかし実験的にキャラクターを付した小物を店頭に置いたところ、子供の心を捉えて想定を超える売れ行きを記録した。
辻信太郎氏の予測に反して、パティ&ジミーとハローキティは子供からの支持を獲得してサンリオの主力キャラクターに成長した。自社キャラクターの展開によって他社ライセンスへの依存度を引き下げることが可能となり、サンリオはキャラクターの企画会社としての事業基盤を確立した。ハローキティの展開開始から3年目にあたる1977年7月期には、売上高195億円・経常利益40億円を計上するまでに成長した。
ハローキティを生み出した楠侑子氏(清水侑子氏)や、パティ&ジミーを生み出した鈴木ひろ子氏は、いずれも結婚を機にサンリオを退職した。キャラクターの運営はその後、後継の社員デザイナーに委ねられることとなった。創作者が退職した後もキャラクターの商品展開は継続され、属人的なデザインから組織的なキャラクター運営への移行が進んでいった。
ハローキティ誕生の最大の皮肉は、創業者の辻信太郎氏自身が「単純な線で描かれた顔」「動きに乏しい」と否定的に評価していた点にある。スヌーピーのライセンス体験から「独自IP」の必要性を認識しつつも、どのデザインが当たるかは経営者にも予測できなかった。20代の女性社員デザイナーの感性が子供の購買行動と合致し、実験的に店頭に置いた小物が予想外に売れたことで商品化が決まった。創作者の楠侑子氏が結婚退職した後もキャラクターが独り歩きした事実は、属人的な創作から組織的なIP運営への転換を不可避にした。
そのころ制作室に、楠侑子という20歳前後、ロコと同じ齢ごろのデザイナーがいた。毎日毎日みなで猫と熊を描くうちに、彼女の熊にとてもかわいいものができた。プロデューサーたちは、これが気に入り、子熊のコロちゃん、と名付けて商品化した。一方、彼女は猫も描いていた、これに「鏡の国のアリス」に出てくる子猫からとった、キティ、という名をつけた。(略)
この子猫を前に、辻たちは首を傾げた。たしかに白猫だ。しかし、スヌーピーのようなとぼけた味もなければ、愛嬌もない。単純な線で描かれた顔が前を向いているだけで、動きにも乏しい。けれどもなんともいえず、かわいいのである。実験的にこれをつけた小物を店に置いてみると、小熊のコロちゃんより売れる。半信半疑でいるうちに羽根がはえたように売れ出した
1982年の上場時点でロイヤリティ収入は売上高のわずか2%(11.3億円)に過ぎず、3124種類もの商品を物販で展開する労働集約型の収益構造であった。しかしライセンスモデルは在庫リスクも開発コストも不要であり、利益率では物販を凌駕していた。この時点では誰も予見できなかったが、この売上構成比2%の事業が、数十年後にサンリオの収益構造の中核を担うことになる。黎明期のライセンス事業を軽視せず育てた判断が、後の経営転換の布石となった。
1976年からサンリオは自社キャラクターのライセンス供与を開始した。提供先の企業がサンリオのキャラクターを使用して商品を展開できる権利を付与する事業であり、商品の種類数は3124種類に達した。筆記具や文具、紙製品から化粧衛生用品や食品に至るまで、広範な商品群にキャラクターが展開されていった。ハローキティの商品展開によって売上高は急速に拡大し、1977年7月期には売上高195億円・経常利益40億円を計上するに至った。
しかし1978年以降はキャラクターを模した類似商品が市場に氾濫したことや、サンリオが手がけていた映画事業の不振が重なり、利益率は低下に転じた。一方でライセンスによる需要喚起の効果は持続しており、1982年度には売上高が500億円を突破した。キャラクタービジネスという前例のない事業を軌道に乗せたサンリオは、高成長と高収益を両立する企業として脚光を浴びていた。
売上規模の拡大を背景として、サンリオは1982年4月に東京証券取引所第2部に株式を上場した。キャラクターの企画会社が株式市場に上場することは当時として珍しく、次世代のサービス産業として市場関係者の注目を集めた。上場によって資本市場からの資金調達の道が開かれ、キャラクタービジネスのさらなる拡大に向けた資本基盤が整備された。
上場時点のサンリオの事業構成は物販事業が売上高の大部分を占めており、ロイヤリティ収入は売上高の2%程度にとどまっていた。しかしロイヤリティ収入は在庫リスクや商品開発コストを負うことなく得られる収益であり、利益率の面では物販事業を上回る構造を持っていた。このライセンスモデルが後年のサンリオの収益構造における中核を担うことになる。
| 商品ジャンル | 売上高 | 構成比 | 商品種類数 |
| 筆記具・文具・紙製品 | 93.0億円 | 22% | 578種類 |
| 化粧衛生用品 | 82.9億円 | 20% | 545種類 |
| 携帯用品 | 44.8億円 | 10% | 212種類 |
| 食卓用品 | 35.2億円 | 8% | 193種類 |
| 服飾品 | 26.5億円 | 6% | 402種類 |
| おもちゃ等 | 22.4億円 | 5% | 132種類 |
| 室内装飾品 | 20.7億円 | 5% | 104種類 |
| バス洗面用品 | 20.3億円 | 5% | 150種類 |
| 食品 | 15.0億円 | 3% | 62種類 |
| ロイヤリティー収入 | 11.3億円 | 2% | - |
| その他 | 41.4億円 | 12% | 746種類 |
1982年の上場時点でロイヤリティ収入は売上高のわずか2%(11.3億円)に過ぎず、3124種類もの商品を物販で展開する労働集約型の収益構造であった。しかしライセンスモデルは在庫リスクも開発コストも不要であり、利益率では物販を凌駕していた。この時点では誰も予見できなかったが、この売上構成比2%の事業が、数十年後にサンリオの収益構造の中核を担うことになる。黎明期のライセンス事業を軽視せず育てた判断が、後の経営転換の布石となった。