サンリオの創業者は「山梨県庁の職員」であった辻信太郎氏(当時33歳)である。2022年に役職退任(当時94歳)するまで、60年以上にわたって実質的な経営トップを歴任した。
もともと辻信太郎氏は、保険料率の算出や、知事選(天野知事)を手伝う公務員であった。この過程で山梨県の外郭団体である「山梨シルクセンター」の業務に関わるようになった。シルクセンターでは山梨県の特産品である「ワイン(ぶどう)・絹製品」の海外輸出が発案されていた。
しかし、あくまで山梨県という行政に付随する外郭団体であったため、山梨県庁の内部では「民間」のようなビジネスを行うことに反発が沸き起こった。このため、辻信太郎氏は山梨県庁を辞めて起業家に転進する道を選んだ。
1960年に辻信太郎氏は山梨県の外郭団体である「山梨シルクセンター」を株式会社化することで独立した。株式会社における資本金は100万円であり、出資者には山梨県知事(5万円)・同副知事(5万円)・山梨県商工会議所会頭(5万円)も含まれていた。このため、辻信太郎氏が山梨県職員だった時代のツテが資本政策に反映された。
なお、山梨県という行政機関の外郭団体を、辻信太郎氏という個人が株式会社化する行為であるため、実質的な払下げに相当する。この際に、交わされた議論(公平性の担保など)は不明である。
山梨シルクセンターは東京の日本橋(小舟町)で設立された。山梨県に本社を置かなかった理由は、絹製品(雑貨)の輸出にあたっては問屋との取引が必要であり、東京日本橋(横山町)に問屋街が形成されていたためである。したがって、山梨県の企業から商品として仕入れて、問屋に販売するという「卸売」のポジションが祖業であった。
1960年時点において、日本国内ではソニーが急成長企業として注目を集めていた。辻信太郎氏は、起業にあたってソニーを意識しており、会社の事務所に「ソニーに追いつけ追い越せ」という張り紙を掲げていたという。
なお、高い目標に対して、利害関係者は懐疑的であった。サンリオは会社設立から2年目(1962年)に第一銀行の馬喰町支店から融資を受けたが、この支店長は「99.9%はダメ」「0.01%の確立」に賭ける心意気でサンリオに融資を行ったという。また、取引していた業者は「この雑貨屋さん、かわいそうに気が狂ってしまったな」という心象を抱いたという。
| 日時 | 経歴 | 備考 |
| 1927-12 | 山梨県甲府市生まれ | 料亭の家系。両親と死別 |
| 1947-03 | 桐生工業専門学校・卒業 | 現・群馬大学工学部 |
| 1949-12 | 山梨県庁・入庁 | 保険料率算出業務に従事 |
| 1960-08 | 山梨シルクセンター・代表取締役社長 | 現・サンリオ |
| 2020-07 | サンリオ・代表取締役会長 | |
| 2022-06 | サンリオ・役職退任 | 退任時94歳 |
ところがね、県庁の役人がそんなことをあまり熱心にやると必ず陰口を叩くのが出てくる。知事のところへ、辻という奴は商売で儲けようとばかりしてけしからん、と投書がいったりし始めた
山梨シルクセンターは絹製品「ブロケード」の韓国向けの輸出を開始し、問屋との取引を開始した。ところが、取引開始直後に「500万円の不渡手形」を掴んでしまい、創業資金が枯渇して倒産危機に陥った。この時の従業員は、辻社長を含めて5名であった。
コスト削減のため、本社事務所を東京日本橋から、秋葉原に移転するなど、会社設立直後から試練に直面した。
辻信太郎氏は経営危機を打開するために、日銭を確保できる「物販」に商売をシフトした。具体的には、東京都内の百貨店にの入り口付近において、地権者に対して無許可で雑貨などの物品を販売することであった。
当時、東京日本橋の横山町で取引される雑貨(サングラス・手袋・帽子・財布など)について、実際に小売で販売される価格にギャップが存在しており(小売価格は卸価格の3倍)、辻信太郎氏はこの価格差に目をつけた。なお、この時販売した雑貨は、山梨県の特産品とは関係なく、山梨シルクセンターの設立意図とは離れたビジネスを営む形となった。
この結果、山梨シルクセンターは、グレーな販売手法によって、3ヶ月で500万円の債務を完済し、倒産を逃れた。
山梨シルクセンターの事業が「合法的」な意味で軌道に乗ったのは、ビーチサンダルのOEM販売を開始してからであった。当時はビーチサンダルが普及しつつあり、辻信太郎氏はサンダルの販売に着眼。銀座の小売業「三愛」に対して、OEMでビーチサンダルを供給することによって、まとまった収益を確保した。
このため、創業時の山梨シルクセンターは「山梨県の特産品販売」ではなく「雑貨販売・ビーチサンダルOEM」によって事業を軌道にのせ、当初の計画と大幅に異なる展開に至った。辻氏は創業期の危機を乗り越えたことで、業界内では「なかなかアイデアマンだ」という評判が立ったという。
| 日時 | 売上高 | 備考 |
| 1961年7月期 | 2,400万円 | |
| 1962年7月期 | 3,700万円 | |
| 1963年7月期 | 6,400万円 | |
| 1964年7月期 | 8,200万円 | |
| 1965年7月期 | 14,700万円 | 年商1億円を突破 |
もう、どうしたらいいのか分からなくてね。なんとかやれる商売はないかと、あてもなく盛場をほっつき歩いていた。そしたら新宿で大道商人が声を張り上げて小物を打っているのに出会った。うん、俺もこれをやろう、と思ったんです。
1962年にサンリオは自社のオリジナル商品として、ギフト商品の取り扱いを開始した。自社企画で「いちご」をデザインした雑貨(文具など)を販売することで、子供向け(若い女性が対象)商品のラインナップを拡充した。この参入によりサンリオは「雑貨問屋」から「ギフト用雑貨の企画」を取り扱う企業に転身を果たした。
また、1967年12月にサンリオは「ギフトブックシリーズ」の発刊を開始し、出版事業に参入した。子供向けの「贈答用の小型の絵本」の制作を開始して、ギフトという新しいニーズを捉えた。
ものにフィーリング、メッセージ、愛情がくっついているといえば、分かって頂けますか。(略)
物は関係ないんです。例えば、初めての給料で娘は親父に何もエルメスのネクタイを買うこともない。チョコチョコした300円のサンリオのコップだって「お父さん、これ初めての給料で買ったの。持ってて」ということで、どれだけの心が通じ合うかってことですよ。こういう心のふれあいをビジネス化できないかって考えで始めたのがサンリオなんです。
創業以来、サンリオは問屋であり小売業は手掛けてこなかったが、自社商品の拡充に合わせて小売りへの進出を決定した。
直営店では1971年に新宿3丁目に「ギフトゲート」を出店。当時のサンリオの資本金2000万円に対して、手付金だけで2億円の高額投資であったが、一等地での販売のために新宿への出店を決めた。
また、全国各地に非直営店による取扱店を拡充。1976年までに125店の取扱店を擁し、サンリオのオリジナル商品の供給路を整備した。販売店には、百貨店なども含まれていた。
1973年度から1975年度にかけて、サンリオは売上高で年間122%〜350%の成長を遂げ、売上高に対する利益率(税引き前推定)では11〜20%を確保した。
サンリオの急成長は雑貨や文具の業界内で注目を浴びた。日本経済がオイルショックによる不況に見舞われる中で、相対的な業績好調を記録したサンリオは「サン・リオ旋風」を起こしていると形容された。
サンリの売上構成は「筆記具」「紙製品」「アクセサリー」であり、いずれも機能性ではなくキャラクターが情緒的な価値を持ち、若い女性(中学生・高校生)のニーズを捉えた。
| 決算期 | 売上高 | 利益(税引前推定) | 売上高利益率 |
| FY1973 | 13.3億円 | 2.7億円 | 20.9% |
| FY1974 | 46.8億円 | 5.2億円 | 11.1% |
| FY1975 | 91.1億円 | 13.0億円 | 14.2% |
社会の全体が不況であり、売れ行きが不調のなかでも、どこかに好調の分野があり、また不調の分野の中でも驚くべき伸び率で成長している企業があるものである。文具業界では現在サン・リオ旋風が起きている。
秋葉原から「五反田TOCビル6階」に移転
サンリオはキャラクター商品を充実させるために、子供向けの大規模な購買調査を実施した。その結果、子供(女性)に人気があるのは「犬と猫」であり、結果として「白くて耳の垂れた犬」にニーズがある仮説が立てれらた。
偶然にもこのタイミングで、米国企業が「スヌーピー(PEANUTS)」のライセンス付与による日本国内での販売を目論んでした。そこで、サンリオはスヌーピーのライセンスを取得することを決定し、キャラクター商品として販売することを決めた。当時、日本国内において、スヌーピーの認知度はなく、サンリオ以外の企業はライセンスに興味を向けなかったと言われている。
この結果、サンリオが発売する「スヌーピー」の商品は子供心をとらえてヒットを記録した。ただし、スヌーピーの国内ライセンスはサンリオの独占ではなかったことから、スヌーピーの国内収益をサンリオが独占する形にはならなかった(1984年時点の契約内容を見ると、利用権は一部の商品に限られていた)
サンリオではスヌーピーの販売によってキャラクター展開を本格化させたが、米国企業のライセンスであった。このため、辻信太郎氏はサンリオの独自キャラクターの創出を模索した。
サンリオで自社キャラクターのデザインを担ったのは、サンリオに勤務する20代の女性社員(グラフィックデザイナー)であり、様々なキャラクターを発案していた。この過程で「パティ&ジミー」と「ハローキティ」という2つの自社キャラクターが生まれた。
サンリオの制作室に勤務していた鈴木ひろ子氏は、自社キャラクターとして「パティ&ジミー」を考案した。ところが、辻社長はこれらのキャラクターについて、評価せず「こんなものはダメだ」「全然売れるとは思わなかった」という第一印象を持ったという。
ハローキティーを考案したのは、サンリオ制作室の女性社員であった楠侑子氏(当時20歳前後・武蔵野美術大卒)であった。製作室で毎日のように、クマやネコといった動物キャラクターを描く中で、可愛いキャラクターができたため「ハローキティ」として提案した。
ところが、辻社長はハローキティについて「愛嬌もない」「単純な線で描かた」「動きに乏しい」という心象を得て、「なんともいえず可愛い」という評価は下し、ヒット商品になるとは考えなかった。
ところが、これらのキャラクター「パディ&ジミー」と「ハローキティ」を売り出したところ、子供の心をとらえてヒット商品となった。このため、これらのキャラクター商品について、そのポテンシャルを辻信太郎氏は見抜くことができず、結果としてサンリオ制作室の若い女性社員のデザインが正しかったことが証明された。
なお、ハローキティを生み出した楠侑子氏(清水侑子氏)や、パティ&ジミーを生み出した鈴木ひろ子氏は、プライベートで結婚した後にサンリオを退職した。このため、これらのキャラクターは後継社員デザイナーによって、その運営が委ねられる形となった。
そのころ制作室に、楠侑子という20歳前後、ロコと同じ齢ごろのデザイナーがいた。毎日毎日みなで猫と熊を描くうちに、彼女の熊にとてもかわいいものができた。プロデューサーたちは、これが気に入り、子熊のコロちゃん、と名付けて商品化した。一方、彼女は猫も描いていた、これに「鏡の国のアリス」に出てくる子猫からとった、キティ、という名をつけた。(略)
この子猫を前に、辻たちは首を傾げた。たしかに白猫だ。しかし、スヌーピーのようなとぼけた味もなければ、愛嬌もない。単純な線で描かれた顔が前を向いているだけで、動きにも乏しい。けれどもなんともいえず、かわいいのである。実験的にこれをつけた小物を店に置いてみると、小熊のコロちゃんより売れる。半信半疑でいるうちに羽根がはえたように売れ出した
1976年からサンリオは自社キャラクターのライセンス供与を開始した。これは提供先企業がサンリオのキャラクターを使って商品展開できる権利であった。
| 商品ジャンル | 売上高 | 構成比 | 商品種類数 |
| 筆記具・文具・紙製品 | 93.0億円 | 22% | 578種類 |
| 化粧衛生用品 | 82.9億円 | 20% | 545種類 |
| 携帯用品 | 44.8億円 | 10% | 212種類 |
| 食卓用品 | 35.2億円 | 8% | 193種類 |
| 服飾品 | 26.5億円 | 6% | 402種類 |
| おもちゃ等 | 22.4億円 | 5% | 132種類 |
| 室内装飾品 | 20.7億円 | 5% | 104種類 |
| バス洗面用品 | 20.3億円 | 5% | 150種類 |
| 食品 | 15.0億円 | 3% | 62種類 |
| ロイヤリティー収入 | 11.3億円 | 2% | - |
| その他 | 41.4億円 | 12% | 746種類 |
ハローキティの商品展開により、サンリオの売上高は急速に拡大。ハローキティの展開から3年目の1977年7月期には売上高195億円・経常利益40億円を計上。キャラクタービジネスという前例のない事業を軌道に乗せ、サンリオは高成長と高収益を両立する未上場企業として脚光を浴びた。
利益率低下の要因は、キャラクターを模した商品が世の中に溢れたことや、サンリオが展開していた映画事業の不振が重なった。
一方で、キャラクターのライセンスにより需要を喚起したことで、1982年度に売上高は500億円を突破した。
売上高を拡大したことで、1982年に東京証券取引所第2部に株式を上場した。キャラクターの企画会社が上場することは珍しく、次世代のサービス産業として注目を集めた。
屋内のテーマパークとして東京の多摩地区に「サンリオピューロランド」を開園した
サンリオはバブル崩壊直後も株価が持ち直すと考えて財テクを継続したが、結果として売りのタイミングを逃して巨額の負債を抱えてしまう。
この結果、1991年3月期から1998年3月期の8期連続で最終赤字に転落し、この期間の最終赤字の累計額は1010億円に及んだ。
1990年代を通じて財テクの失敗による損失と、キャラクタービジネスの不振により業績が低迷。1998年3月期にサンリオの自己資本比率は3%に低下し、債務超過寸前の危機に陥った
サンリオではハローキティのデザインの変更を実施。これが高校生(女性)の間で支持され、1998年から2000年にかけて「ハローキティブーム」が到来した。この結果、サンリオは売上高を急拡大し、自己資本比率の改善に成功した。
ただし、ハローキティのブームが一時的だったこともあり、2000年をピークに売上が徐々に低迷。2000年代を通じてサンリオの業績は安定せず、経営の安定化に課題が残った。
ライセンス事業によるグローバル展開を志向するが、展開先でも「一過性のブーム」に悩まされる
2013年にサンリオの辻邦彦副社長(創業者・辻信太郎氏の息子)が在任中に急性。急性心不全が原因で、61歳であった。鳩山玲人氏は、後ろ盾を失うとともに、欧米事業の不振が決定打となって、2016年にサンリオを退職した。
邦彦副社長の逝去を受けて、経営の実権を握る辻信太郎社長は、孫にあたる辻朋邦氏(当時27歳)を次期社長候補に据えた。
アジアでは順調に業容を拡大するが、米国欧州での収益低迷をカバーできず業績不振が続いた
創業者の辻信太郎氏(92歳)は社長の退任を決め、後任に孫の辻朋邦氏(31歳)を指名した。2022年に辻信太郎氏はサンリオの役職を退任し、祖父から孫への世代交代を完了。
2022年7月の定時株主総会で辻信太郎氏は、退任演説をするとともにラジオ体操を披露した。なお、辻信太郎氏に対しては創業者功労金3億円の支払いが決議されたが、株主による賛成比率が82.09%という低い水準となった。
国内店舗とテーマパーク(ピューロランド)の需要が戻ったことで、国内事業を中心に大幅増収を達成