総合商社の日商岩井(現在の双日)に勤務していた久保徳雄氏(当時30歳)は脱サラによる企業を決意し、1963年に東京エレクトロン研究所を設立した。小高敏夫氏も、久保徳雄氏とともに会社設立に携わり、共同創業という形で東京エレクトロンを起業した。
日商での勤務時代に久保氏は、ニューヨークで勤務しており、エレクトロニクス製品の輸出・輸入の業務に携わっていた。日本の大手電気メーカーの製品を米国企業に売り込むことと、米国の電機メーカーの製品を日本企業に売り込む2つの仕事に従事していた。この過程で、米国製の半導体製造装置を日本企業に売り込む仕事に携わったが、技術サービスを十分にできないことを不満に思っていた。また、久保氏がニューヨークから日本に帰国したときに、駐在手当てがなくなったために、給料が大幅ダウンしたことで会社に対して不満を持った。このため、久保氏は起業を決意するに至ったという。
これらの経緯から、創業の時点で東京エレクトロンは、半導体製造装置の輸出入に関するノウハウを持っており、明確なビジネスが存在する状態でのスタートとなった。ただし、久保氏は起業に失敗した場合は「最悪の場合、タクシーの運ちゃんをやる」(端の男とその一族・1982)という気持ちだったという。
東京エレクトロンの共同創業者である久保徳雄氏は、先立つこと1959年頃に東京放送(現TBS)でテレビ技術局長であった吉田稔氏と、中型コンピュータの商談を通じて面識があった。この関係性を突破口として、当時のTBSの経営陣(副社長)であった今道潤三氏とのコンタクトに成功し、TBSは東京エレクトロンへの出資を決断した。資本金500万円をTBSが全額出資する形となった。
加えて、当時のTBSの今道潤三社長は東京エレクトロンの創業に資金を出すものの「金は出すが、口は出さない」という方針のもとで経営を見守りつつも、TBSの赤坂本社を東京エレクトロンのオフィスとして一部貸し出すなど、創業支援を行なった。なお、東京エレクトロンの創業期に、TBSの今道氏が富士通に対して製品の購入を懇願した以外は、経営にタッチしなかった。
このため、TBSと東京エレクトロンの関係性は、2023年時点でも根強く、TBSが東京エレクトロンの株式を保有する点や、東京エレクトロンが東京赤坂に本社を構える点に継承されている。
今道さん(注:TBS副社長)が、放送界とかかわりのない東京エレクトロンなのに、ことのほか愛情を注いでくださった陰には、幼少時代を通じて台北で過ごし、長じては、大阪商船社員としてベトナムに駐在された今道さんが、西洋世界との接触の当時から、海外貿易に深い関心を抱いておられたことが関係していると私は思っています。第二次世界大戦勃発直後のハノイ市で、銃火の飛び交う下を死に物狂いで逃げ回った話、薄明の中、眼前に拳銃を突きつけられて唖然とした話、等々、若い頃の冒険に満ちた時代を語ってくださいましたことが、昨日のことのように思い出されます。
『東京エレクトロンの創立はね、君たちの青雲の志に賭けたんだよ・・・』としみじみ語っておられました。
今道さんは、御自身の夢大き青春時代に描かれた海外雄飛の見果てぬ夢を、われわれに託されたのかもしれません。東京エレクトロンの建設、いまだ途上にして世をさられた今道さんの夢を、私どもは当社に結実させたいと念じます。
創業者の久保徳雄氏の狙いは、メーカー機能を持った商社に対するニーズの高まりを予見したことにある。
1960年前後という時代は、「問屋不要論」の書籍がベストセラーになり、仲介役としての商社の存在意義が問われた時期でもあった。このため、久保氏は取引を仲介する商社ではなく、自らが生産者(メーカー)としてサービスを提供する業種が伸びると判断し、起業に踏み切った。
このため、東京エレクトロンの創業期は商社(輸出入業務)が収益源であったが、徐々にメーカー機能を拡充し、1980年代までに半導体製造装置メーカーに転身する形をとった。この意味で、商社による利益が、メーカーの研究開発費を捻出する原資になった。
創業初年度の事業は、ニューヨークへのカーラジオの輸出(2000台)であり、1964年9月期に売上高9091万円に対して利益26万円を計上して、初年度からわずかながらにも黒字を達成した。
また、創業期はカーラジオに続いて、日本ビクターが開発した大型の教育用VTRのアメリカ輸出を請け負うことで売り上げを確保した。
1965年に米国の半導体メーカー(半導体製造装置も内製化)であるフェアチャイルド社と代理店契約を締結。同社開発したICテスターの輸入販売を開始した。東京エレクトロンとしては半導体製造装置に参入する足掛かりとなったが、当初は輸入販売(商社事業)が主軸であり、開発および製造には関与しなかった。
日本国内ではアドバンテストが1972年にICテスターを国産化によって開発しており、輸入品では東京レクトロン、国産品ではアドバンテストが競合関係にあった。
いよいよICの時代が始まります。アメリカでは、すでにIC時代が始まっています。遅くとも2〜3年のうちに、日本も必ずそうなるでしょう。わが社は今後、ICに焦点を絞るべきです。したがって、テスターも、トランジスタやダイオード用ではなく、ICテスターでなければ妙味はありません。ICテスターの市場は、おそらく爆発的に伸びると思います。
創業から10年間の東京エレクトロンはカーラジオ、電卓、カーステレオのOEMを手がける電機商社として業容を拡大したが、1973年のオイルショックによって、これらの在庫が積み上がり業績が悪化。
そこで、当時成長しつつあった半導体製造装置に特化する代わりに、家電などの不採算部門からの撤退を決めて事業の選択と集中を遂行した。
ただし、撤退部門は東京エレクトロンの売上高の60%を占める主力事業であったため、段階的な撤退作戦を遂行。社内の士気を下げないように撤退部門にはエース社員を投入するなどの配慮をした。
「株式会社東京エレクトロン研究所」から「東京エレクトロン株式会社」に商号変更
DRAMの需要増加とともに、東京エレクトロンの半導体製造装置の需要も増加。東京証券取引所へ株式上場を果たした
半導体不況期に合弁会社を買取り、半導体製造装置のラインナップを拡大
1990年前後に日本ではDRAMを中心として半導体メーカー(NEC・三菱電機・日立・東芝)がグローバルシェアを確保し、米国のIntelなどの半導体メーカーを脅かしていた。米国政府は半導体産業が日本企業に掌握されることは安全保障上の問題があると考え、日米貿易摩擦に発展。
この結果、日本の半導体メーカーはグローバルな投資に慎重にならざるを得なくなり、代わりに台湾(TSMC)・韓国(サムスン)といった新興勢力がDRAMの分野で頭角を表した。
東京エレクトロンとしては、日本企業を顧客としていたため、新興国へのアプローチを強化するかが経営上の重要な論点となった。
1994年頃、東京エレクトロンの顧客で半導体メーカーであった米テキサスインスツル(TI)社は、東京エレクトロンに対して直接販売による取引をしない場合、取引を打ち切ることを通告した。当時は代理店を介して製造装置を販売していたが、アフターサービスなどの技術的な対応が不十分という問題を抱えていた。
1990年代を通じて東京エレクトロンはグローバルで半導体製造装置の販売を強化するため、半導体メーカーが集積しつつある国に現地法人の設立を決めた。この決断は、従来の顧客である日本企業からすれば「敵に塩を送る」行為であったが、東京エレクトロンは顧客離反のリスクを背負いつつも、グローバル展開を進める形となった。
また、代理店に対しては、提携解消のための交渉を開始したが、「相応の対価を払って円満に収めた」(東哲郎元社長・2021/4/16日経新聞)と言われている。
地域面では、1990年代中盤に韓国と台湾に現地法人を設立した点が特筆される。当時、台湾と韓国は半導体メーカーが発展途上にある地域であり、サムスンやTSMCの規模も小さい時代であった。
また、1995年前後は半導体のシリコンサイクルの不況期にあたり、1997年にはアジア通貨危機によってサムスンなどの半導体メーカーが厳しい状況に陥っていた。この時期にも東京エレクトロンは台湾・韓国から撤退せずに、現地法人の運営を続けた。
すなわち、これら将来のグローバルメーカーに対して、黎明期から東京エレクトロンが取引をすることによって、海外顧客とともに成長するチャンスを掴んだ。特に、台湾のTSMCに対する売上高の成長が、東京エレクトロンの海外事業を牽引した。
われわれの業界は非常に厳しい状況でした。アジア経済危機の影響など、世界規模で景気が伸び悩んだことと、高度情報化社会などと言われても、そのインフラが十分に整っていなかったためです。ところが昨年あたりからインターネットなどが普及し、情報通信のアプリケーションも豊富になって、半導体への投資が活発になってきました。また、台湾などアジアの国々が情報通信関連の製造を自国の産業の礎に据えようとしてきています。
こうした背景のもとで半導体需要が急激に回復し、当社の業績も改善しました。ただ、いわゆるIT革命はまだまだ道なかばの状況ですから、これは始まりであり、当社のビジネスチャンスは中長期的に拡大していくと捉えています。(略)
(注:強みは)当社のマーケティング力でしょう。ここ数年来グローバリゼーションということで、米国を中心に開発・製造およびサービス・サポートの拠点を世界に展開しています。これらのネットワークで世界の情報、将来の動きを敏感に察知して、対応できるようになっています。
東京エレクトロンの主要顧客は、半導体のメモリ(DRAM・NAND)を製造するメーカーであった。メモリは微細加工の進展とともに、数年おきに世代交代が起こる分野であり、半導体メーカーは量産ラインを数年がかかりで立ち上げて歩留まりを少しでも高めることを重要視した。
このため、東京エレクトロンは、半導体メーカーが「次世代メモリ」を開発するタイミングで、顧客と一体となって製造装置を作り込むことで、製造装置の販売を行う必要があった。東京エレクトロンとしても「お客を求めるものを素早く作るというのがうちの特徴」(2007/6/16週刊東洋経済)と自認していた。
その意味で、海外の現地法人は単なる「販売拠点」ではなく、顧客のメモリメーカーに対する次世代メモリ生産のための開発支援拠点という機能を持っていた。
グローバル展開の拡大によって増収増益を達成。日本では東芝向け(NAND)、台湾ではTSCM、韓国ではSumsung・SKハイニクス、米国ではIntel、Micron、TIといった大手メーカーを顧客に抱えた。製品別ではDRAM向けが中心で、NANDでも売上を確保したが、ロジック(CPU/MPU)向けのシェアは限定的であり、東京エレクトロンは「メモリ(NAND/DRAM)」という微細加工が重視される領域で強みを発揮した。
株主重視の経営を開始。日本企業として早い段階で取締役会の改革を遂行
2010年代を通じて半導体製造装置には微細加工がより一層求められるようになり、三次元などの高度な開発技術が必要となった。この結果、東京エレクトロンは半導体製造装置の開発にあたって、莫大な開発費用の負担が重荷になりつつあった。
また、メモリ製造はグローバルで数社の寡占構造にあり、顧客に対する価格交渉力の面でも課題が浮き彫りになりつつあった。
2013年9月に東京エレクトロンは、高騰する開発費負担を効率化するために、競合の米Applied Materials, Inc.との経営統合を発表。統合に向けて準備子会社TEL-Applied Holdings B.V.をオランダに設立した。
統合会社を準備した理由は、企業文化の異なる2社において、経営統合を焦らず3〜5年かけてPMIを進める狙いがあった。また、統合を推進するために、両社の幹部110名を中心にIMO(Integration Management Office)を開設した。
東京エレクトロンと米アプライドの経営統合は、半導体製造装置の市場独占につながるとして、米司法省が独禁法の観点から疑念を示した。
このため、2015年4月に東京エレクトロンは経営統合の計画を白紙撤回し、単独の半導体製造装置メーカーとして事業遂行することを余儀なくされた。
無念。いまでも実現すべき統合だったと思う。司法省の判断に納得がいかぬと法廷で争う手もあった。だが、すでに計画の発表から1年半が過ぎていた。先の見えない裁判に時間を費やすわけにはいかない。中ぶらりんが続けば顧客と現場が混乱し始める。きっぱり断念することにした。
統合という大きな目標に向け社員は本気になっていた。高まった社員のエネルギーを新たな方向に集中させるのが急務だ。時間をかければ、社員は萎える。どんどん動かなければならない。
半導体需要の増加によって業界における設備投資が活発化。2023年に東京エレクトロンは過去最高益となる当期純利益4715億円を計上した。
2023年3月期における主な販売先の上位3社は、Intel(売上構成16%)、TSMC(同14%)、Samsung(同12%)。これらの企業の半導体増産とともに、東京エレクトロンも製造装置の販売を拡大した。
| 相手先 | 本社 | 販売高 | 販売構成比 |
| Intel | 米国 | 3576億円 | 16.2% |
| TSMC | 台湾 | 3204億円 | 14.5% |
| Samsung | 韓国 | 2759億円 | 12.5% |
FY2024〜FY2028までの5カ年で合計1.5兆円の研究開発費への投資を決定。