1875年〜 からくり儀右衛門の田中製造所と電球国産化が生んだ総合電機
- 1875年創業(1882年から田中製造所と称す。後の㈱芝浦製作所)
- 1890年白熱舎創業(後の東京白熱電燈球製造㈱)
- 1896年東京白熱電燈球製造㈱設立(1899年東京電気㈱と改称)
- 1904年㈱芝浦製作所設立
- 1939年㈱芝浦製作所と東京電気㈱が合併して東京芝浦電気㈱に
- 1942年芝浦マツダ工業㈱、日本医療電気㈱を合併し、家庭電器製品を拡充
- 1943年東京電気㈱(旧東京電気無線㈱)、東洋耐火煉瓦㈱を合併し、通信機製品(柳町工場、小向工場)を拡充
東芝の業績推移:単体
出所:有価証券報告書等
田中久重の電信機工場から芝浦製作所への系譜
東芝の源流のひとつは、幕末から明治にかけて「からくり儀右衛門」と呼ばれた発明家、田中久重氏にさかのぼる。田中久重氏は精巧なからくり人形や、和時計の最高傑作とされる万年自鳴鐘の製作で名を知られた技術者であった。その田中久重氏が1875年7月、東京・銀座の煉瓦街に電信機を扱う店舗兼工場を構えた。有価証券報告書の沿革は、この1875年を東芝の創業年としている。工場は1882年から田中製造所と称し、電信機や各種機械を官庁向けに製造した。文明開化のもとで電信網の整備が国家の急務とされ、田中久重氏の精密機械の技術は、その官需に応えるものだった。 [1][2]
- 東芝 有価証券報告書【沿革】
- [1]1875年7月に田中久重が東京・銀座で電信機の店舗兼工場を創業した(東芝の創業年)
- [2]工場は1882年から田中製造所と称した
田中久重氏は1881年に世を去り、事業は養子の田中大吉氏が引き継いだ。田中大吉氏は工場を東京・芝浦へ移して田中製造所を営み、電信機だけでなく発電機や電動機など重電機器の製造へと手を広げた。そして1904年6月、株式会社芝浦製作所として法人化した。芝浦製作所は水力発電や工場の電化が進む時代の需要をとらえ、官営工場や民間の電力会社に大型の重電機器を納めた。個人の発明工房として始まった事業は、資本と組織を備えた重電メーカーへと姿を変え、のちの東芝の重電・産業機器部門の母体となった。 [3][4]
- 国立公文書館「公文書にみる発明のチカラ」
- [3]田中久重の死後、養子の田中大吉が工場を芝浦へ移して事業を継いだ
- 東芝 有価証券報告書【沿革】
- [4]1904年6月に株式会社芝浦製作所を設立した
株式会社芝浦製作所は、水力発電の開発と工場の電化が進む時代の追い風を受けて成長した。発電機や電動機、変圧器といった重電機器の国産化を担い、官営工場や電力会社に大型設備を納入した。全国で水力・火力の発電所建設が進むなか、芝浦製作所は国産の発電設備でその需要に応えた。輸入に頼っていた重電機器を国産で置き換える技術力は、のちの重電・原子力事業へと連なった。日本の電力インフラそのものを支える立場に立ったことが、東芝を家電だけの会社ではなく、発電から社会インフラまで手がける総合電機へと導く素地となった。強電を担うこの系譜が、東芝という企業のもう一方の柱を形づくった。 [5]
- 国立公文書館「公文書にみる発明のチカラ」
- [5]芝浦製作所は発電機・電動機・変圧器など重電機器の国産化を担った
- 東芝 有価証券報告書【沿革】
- [1]1875年7月に田中久重が東京・銀座で電信機の店舗兼工場を創業した(東芝の創業年)
- [2]工場は1882年から田中製造所と称した
- [4]1904年6月に株式会社芝浦製作所を設立した
- 国立公文書館「公文書にみる発明のチカラ」
- [3]田中久重の死後、養子の田中大吉が工場を芝浦へ移して事業を継いだ
- [5]芝浦製作所は発電機・電動機・変圧器など重電機器の国産化を担った
藤岡市助の白熱舎とマツダランプの国産化
東芝のもうひとつの源流は、電球の国産化に挑んだ弱電の系譜にある。1890年4月、電気工学者の藤岡市助氏らが白熱舎を創業し、国産の白熱電球づくりに乗り出した。当時の電球はほぼ輸入品で占められ、国産化は技術的にも産業的にも大きな挑戦であった。白熱舎は1896年1月に東京白熱電燈球製造株式会社として設立され、1899年には社名を東京電気株式会社と改めた。白熱電球の国産化は、輸入に頼ってきた日本の照明産業を自立させる第一歩でもあった。電球から真空管、通信機へと広がる弱電の技術は、強電の芝浦製作所とは異なる産業の地層を東芝にもたらした。 [6][7]
- 東芝 有価証券報告書【沿革】
- [6]1890年4月に白熱舎が創業した(後の東京電気)
- [7]1896年1月に東京白熱電燈球製造を設立し1899年に東京電気へ改称した
東京電気を率いた藤岡市助氏は、日本のエジソンとも呼ばれた電気事業の先駆者であった。藤岡市助氏は1905年、米国のゼネラル・エレクトリック社と資本・技術提携を結び、電球の特許や量産のノウハウを取り込んだ。この提携によって東京電気は、輸入品に対抗できる品質と価格を手に入れた。1911年には長寿命のタングステン電球「マツダランプ」を発売し、安価で丈夫な国産電球として全国に広まった。マツダランプは世界の主要電機メーカーが定めたタングステン電球の統一商標で、東京電気はその日本での担い手となった。照明の近代化を電球の側から支えたことが、弱電メーカー東京電気の性格を決めた。 [8]
- 国立公文書館「公文書にみる発明のチカラ」
- [8]藤岡市助が白熱舎を興し、1905年にゼネラル・エレクトリックと提携、1911年にマツダランプを発売した
- 東芝 有価証券報告書【沿革】
- [6]1890年4月に白熱舎が創業した(後の東京電気)
- [7]1896年1月に東京白熱電燈球製造を設立し1899年に東京電気へ改称した
- 国立公文書館「公文書にみる発明のチカラ」
- [8]藤岡市助が白熱舎を興し、1905年にゼネラル・エレクトリックと提携、1911年にマツダランプを発売した
二社の合併による東京芝浦電気の誕生と戦後再建
強電を担う芝浦製作所と、弱電を担う東京電気は、ともに事業を広げるなかで補完関係を深めた。1939年9月、両社は合併して東京芝浦電気株式会社となり、発電から重電機器、通信機、家庭電器、電球・真空管までを一社で手がける総合電機メーカーが誕生した。重電の芝浦製作所と弱電の東京電気という二つの流れが一本に合わさったことで、東芝は日本で数少ない総合電機の担い手となった。合併後は東芝の略称が広く使われ、幅広い電機製品を国産で供給する体制が整った。多様な製品群を一社で抱える総合経営こそが、その後の東芝の強みであり、同時に弱みともなった。 [9]
- 東芝 有価証券報告書【沿革】
- [9]1939年9月に芝浦製作所と東京電気が合併し東京芝浦電気となった
戦時下の東京芝浦電気は、軍需に応じて事業を拡大した。1942年には芝浦マツダ工業と日本医療電気を合併して家庭電器製品を拡充し、1943年には東京電気無線などを合併して通信機製品の生産を広げた。しかし敗戦後の1950年、東芝は企業再建整備計画に基づく大規模な再編を迫られた。43工場・2研究所のうち15工場・1研究所を切り出して東京電気器具(現在の東芝テック)を含む第二会社14社を設立し、10工場を売却、1工場を閉鎖したうえで、17工場・1研究所をもって新たに発足した。財閥解体と戦後復興のなかで、東芝は事業を大幅に整理して再出発した。 [10][11][12]
- 東芝 有価証券報告書【沿革】
- [10]1942年に芝浦マツダ工業・日本医療電気を合併し家庭電器を拡充した
- [11]1950年の企業再建整備計画で第二会社14社を設立し17工場・1研究所で新発足した
- [12]第二会社に東京電気器具(現在の東芝テック)を含む
東芝は1949年5月に東京証券取引所へ上場し、戦後の高度経済成長とともに事業基盤を広げた。重電分野では、1950年に東芝車輛を合併して鉄道車両を、1955年に電業社原動機製造所を合併して水車を、1961年に石川島芝浦タービンを合併して蒸気タービンを取り込み、発電設備メーカーとしての厚みを増した。家庭電器分野でも、電気洗濯機や電気冷蔵庫、電気釜など日本の家庭に新しい生活様式をもたらす製品を次々に世に送り出した。重電と家電の両輪で成長する東芝の姿は、日本の総合電機の典型となった。 [13][14]
- 日本経済新聞(2023年12月19日)
- [13]東芝は1949年5月に東京証券取引所へ上場した
- 東芝 有価証券報告書【沿革】
- [14]1950年に東芝車輛、1955年に電業社原動機製造所、1961年に石川島芝浦タービンを合併した
- 東芝 有価証券報告書【沿革】
- [9]1939年9月に芝浦製作所と東京電気が合併し東京芝浦電気となった
- [10]1942年に芝浦マツダ工業・日本医療電気を合併し家庭電器を拡充した
- [11]1950年の企業再建整備計画で第二会社14社を設立し17工場・1研究所で新発足した
- [12]第二会社に東京電気器具(現在の東芝テック)を含む
- [14]1950年に東芝車輛、1955年に電業社原動機製造所、1961年に石川島芝浦タービンを合併した
- 日本経済新聞(2023年12月19日)
- [13]東芝は1949年5月に東京証券取引所へ上場した