| 期 | 区分 | 売上高 | 利益※ | 利益率 |
|---|---|---|---|---|
| 1950/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1951/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1952/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1953/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1954/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1955/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 490億円 | 27億円 | 5.6% |
| 1956/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 572億円 | 27億円 | 4.8% |
| 1957/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 763億円 | 44億円 | 5.7% |
| 1958/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 1,117億円 | 73億円 | 6.5% |
| 1959/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 1,223億円 | 95億円 | 7.8% |
| 1960/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 1,628億円 | 130億円 | 7.9% |
| 1961/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 2,248億円 | 182億円 | 8.0% |
| 1962/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 2,907億円 | 231億円 | 7.9% |
| 1963/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 3,112億円 | 246億円 | 7.9% |
| 1964/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 2,966億円 | 193億円 | 6.5% |
| 1965/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 3,055億円 | 139億円 | 4.5% |
| 1966/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 2,854億円 | 98億円 | 3.4% |
| 1967/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 3,215億円 | 110億円 | 3.4% |
| 1968/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 4,154億円 | 142億円 | 3.4% |
| 1969/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 5,432億円 | 235億円 | 4.3% |
| 1970/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 6,750億円 | 302億円 | 4.4% |
| 1971/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 7,887億円 | 281億円 | 3.5% |
| 1972/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 7,827億円 | 210億円 | 2.6% |
| 1973/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 8,610億円 | 285億円 | 3.3% |
| 1974/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 10,008億円 | 329億円 | 3.2% |
| 1975/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 10,947億円 | 204億円 | 1.8% |
| 1976/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 10,895億円 | 193億円 | 1.7% |
| 1977/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 12,948億円 | 303億円 | 2.3% |
| 1978/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 13,885億円 | 314億円 | 2.2% |
| 1979/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 15,094億円 | 375億円 | 2.4% |
| 1980/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 16,981億円 | 530億円 | 3.1% |
| 1981/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 19,470億円 | 618億円 | 3.1% |
| 1982/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 21,409億円 | 667億円 | 3.1% |
| 1983/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 23,332億円 | 745億円 | 3.1% |
| 1984/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 26,482億円 | 834億円 | 3.1% |
| 1985/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 30,257億円 | 1,041億円 | 3.4% |
| 1986/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1987/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1988/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1989/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1990/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1991/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1992/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 77,655億円 | 1,276億円 | 1.6% |
| 1993/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 75,361億円 | 772億円 | 1.0% |
| 1994/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 74,002億円 | 652億円 | 0.8% |
| 1995/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 75,922億円 | 1,139億円 | 1.5% |
| 1996/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 81,238億円 | 1,417億円 | 1.7% |
| 1997/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 85,231億円 | 883億円 | 1.0% |
| 1998/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 84,168億円 | 34億円 | 0.0% |
| 1999/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 79,773億円 | -3,387億円 | -4.3% |
| 2000/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 80,012億円 | 169億円 | 0.2% |
| 2001/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 84,169億円 | 1,043億円 | 1.2% |
| 2002/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 79,937億円 | -4,838億円 | -6.1% |
| 2003/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 81,917億円 | 278億円 | 0.3% |
| 2004/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 86,324億円 | 158億円 | 0.1% |
| 2005/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 90,270億円 | 514億円 | 0.5% |
| 2006/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 94,648億円 | 373億円 | 0.3% |
| 2007/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 102,479億円 | -327億円 | -0.4% |
| 2008/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 112,267億円 | -581億円 | -0.6% |
| 2009/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 100,003億円 | -7,873億円 | -7.9% |
| 2010/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 89,685億円 | -1,069億円 | -1.2% |
| 2011/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 93,158億円 | 2,388億円 | 2.5% |
| 2012/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 96,658億円 | 3,471億円 | 3.5% |
| 2013/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 90,410億円 | 1,753億円 | 1.9% |
| 2014/3 | 連結 売上収益 / 当期利益 | 96,664億円 | 4,138億円 | 4.2% |
| 2015/3 | 連結 売上収益 / 当期利益 | 97,749億円 | 2,174億円 | 2.2% |
| 2016/3 | 連結 売上収益 / 当期利益 | 100,343億円 | 1,721億円 | 1.7% |
| 2017/3 | 連結 売上収益 / 当期利益 | 91,622億円 | 2,312億円 | 2.5% |
| 2018/3 | 連結 売上収益 / 当期利益 | 93,686億円 | 3,629億円 | 3.8% |
| 2019/3 | 連結 売上収益 / 当期利益 | 94,806億円 | 2,225億円 | 2.3% |
| 2020/3 | 連結 売上収益 / 当期利益 | 87,672億円 | 875億円 | 0.9% |
| 2021/3 | 連結 売上収益 / 当期利益 | 87,291億円 | 5,016億円 | 5.7% |
| 2022/3 | 連結 売上収益 / 当期利益 | 102,646億円 | 5,834億円 | 5.6% |
| 2023/3 | 連結 売上収益 / 当期利益 | 108,811億円 | 6,491億円 | 5.9% |
| 2024/3 | 連結 売上収益 / 当期利益 | 97,287億円 | 5,898億円 | 6.0% |
創業の構造で注目すべきは、小平浪平氏が東京電燈での経験から輸入電機依存に問題意識を持ち、日立鉱山の修理工場で外国製品の分解・修理を通じて国産化の技術基盤を築いた過程にある。同時代のGEやWEとの技術提携を選んだ同業他社に対し、小平氏は「ロイヤリティと同額を自前の研究に投じるべき」と判断した。この方針はGE提携に転じる1953年まで40年以上維持され、鉱山の付帯部門が独立企業に転じる過程で技術蓄積の基盤となった。
明治時代に藤田組(現DOWA HD)において小坂鉱山の経営再建に携わった久原房之助氏は、鉱山業での起業を決意した。1905年に茨城県多賀郡に所在する日立銅山を買収して鉱山経営に参入し、以後も国内各地の鉱山買収を続けて久原財閥を形成した。久原氏の鉱山経営は輸入機械を積極的に導入した合理化に特色があり、日立銅山においても排水ポンプなどの機械を活用することで鉱物の産出量を安定的に拡大させた。
日立銅山の産出量は順調に推移し、1912年には久原鉱業株式会社を設立して法人化した。しかし鉱山操業に使用する機械は大半が外国からの輸入品であり、故障時の修理や部品の調達に時間と費用を要することが操業効率の制約となっていた。機械の安定稼働が産出量に直結する鉱山業において、外国製品への全面的な依存は事業上のリスクでもあった。
この課題を解決するため、久原房之助氏はかつて藤田組で部下であった技術者の小平浪平氏を招聘した。小平氏は藤田組を退職後に東京電燈(現東京電力)へ転じていたが、モーター・発電機・変圧器など国内で使用される主要な電機製品がほぼ全て外国からの輸入品である状況に問題意識を抱いていた。小平氏は日立鉱山に着任後、発電所建設の業務を通じて外国製電機機器の構造を実地に学び、故障機器の修理を重ねる中で国産化に必要な技術的知見を蓄積していった。
日立鉱山の修理工場で外国製モーターの分解・修理を重ねた小平浪平氏は、モーターの国産化を決断した。当時の国内電機メーカーはGEやウェスティングハウスなど欧米企業との技術提携を通じて事業を拡大する路線が主流であった。だが小平氏は「ロイヤリティを支払うならば同額を自前の研究に投じるべき」と考え、外国企業の技術に依存しない独自開発の道を選択した。
試行錯誤の末、1910年(明治43年)に小平浪平氏は国産技術による5馬力の誘導電動機を完成させた。国内の電機市場では欧米メーカーの製品が圧倒的なシェアを占めており、実績のない国産モーターが市場で受け入れられるかは不透明であった。小平氏はまず日立鉱山での自家使用を起点に製品の信頼性を実証し、外部販売へと段階的に拡大する道筋を描いた。
5馬力モーターの完成を受け、久原鉱業所は日立鉱山の敷地内に芝内工場(現・日立製作所山手工場)を新設してモーター製造の拠点とした。これが日立製作所の創業にあたる。小平浪平氏が工場運営を主導し、鉱山向けモーターの生産を開始するとともに、受注の拡大に応じて製品ラインを発電機や変圧器へと広げた。久原房之助氏にとって電機製造は鉱山事業の付帯部門にすぎなかったが、小平氏は電機を独立した事業に発展させる意志を持っていた。
芝内工場で生産されたモーターは日立鉱山内の自家使用にとどまらず、他の鉱山や工場からの外部受注を獲得し始めた。鉱山用途で要求される耐久性と信頼性を満たしたことで、国産モーターが外国製品に対して実用上の競争力を持ちうることが市場で認知された。電機製造は次第に独立採算の事業へと成長し、久原鉱業所の中で存在感を高めていった。
小平浪平氏が選択した国産技術主義は、日立製作所の経営方針を長期にわたって規定した。同時代の電機メーカーの多くが外国企業との技術提携で製品ラインを拡充する中、日立は自前の技術開発に経営資源を集中させる独自路線を維持した。この方針は1953年にGEと技術提携を締結するまで約40年間にわたって貫かれ、日立における技術蓄積の基盤を形成した。
電機部門の業績拡大に伴い、鉱山事業からの独立が現実の課題となった。久原房之助氏は電機部門への多角化に消極的であり、小平浪平氏との間で方針の対立が生じていた。小平氏が分離独立を繰り返し主張した結果、1918年に株式会社日立製作所が資本金1000万円で設立され、久原鉱業所からの独立を果たした。鉱山の修理工場から出発した電機事業は8年で独立企業としての体制を整え、日本の電機産業における独自の地位を築く出発点となった。
創業の構造で注目すべきは、小平浪平氏が東京電燈での経験から輸入電機依存に問題意識を持ち、日立鉱山の修理工場で外国製品の分解・修理を通じて国産化の技術基盤を築いた過程にある。同時代のGEやWEとの技術提携を選んだ同業他社に対し、小平氏は「ロイヤリティと同額を自前の研究に投じるべき」と判断した。この方針はGE提携に転じる1953年まで40年以上維持され、鉱山の付帯部門が独立企業に転じる過程で技術蓄積の基盤となった。
自分は進んで欧米一流の製造家と提携することを企画しなかった。我々の場合は、なるべく他人の力に依存することを少なくし、専らの自らの力によって最も優良なる機械の生産を図るべきだと考えた。なるほど、外国一流の製造家と提携するときは、明らかにある程度の進歩を見る事ができるだろう。しかし、毎年多大のロイヤリティを支らねばならぬことを考えると、これと同じ費用を投じて一意専心に研究を重ねて進めば、他人の力に依存せずとも十分に成績を上げることは不可能でないと信じたから、同業者と違う道を選んだのである
4万4000人中8500名を余剰と判断しながら全工場の生産停止を約60日間許容した点に、この争議の構造がある。組合の暴力行為(「熱砂の誓」「ダルマ落とし」)に対して交渉を打ち切り、相手の疲弊を待つ方針を採ったのは、自己資本比率14.1%で倒産リスクを抱える中での持久戦であった。争議を終結させたのは経営陣の交渉力ではなく時間の経過による組合内部の分裂であり、興銀の島田常務による協調融資の呼びかけが再建の資金的裏付けとなった。
第二次世界大戦中に日立製作所は全国各地に軍需工場を新設し、国内有数の総合電機メーカーへと企業規模を拡大した。しかし1945年8月の終戦により軍需が一夜にして消滅し、大量の余剰人員を抱え込む状態に陥った。1949年時点で全社の従業員数は約4万4000人にのぼったが、経営陣はこのうち約8500名を余剰と判断した。同年7月末の自己資本比率は14.1%まで低下し、銀行借入の継続にも支障をきたしかねない水準であった。
財務の悪化に加え、各地の工場では労働組合によるストライキが激化していた。一部の組合員が暴徒化し、工場長に対する暴力行為が横行した。炎天下の運動場で工場長を走らせ続ける「熱砂の誓」、ドラム缶の上に立たせてから蹴り倒す「ダルマ落とし」と呼ばれる行為が行われ、工場長が全身に打撲傷を負って昏倒する事態が発生した。
労働争議に関連する支出は約5億円にのぼり、事業収益の回復が見込めない中で財務体質はさらに悪化した。争議が長期化すれば企業の存続自体が危ぶまれる状況にあり、日立製作所は人員削減か企業破綻かという選択を迫られていた。銀行からの信用が低下する中、経営陣は約8500名の人員削減を決断した。
日立製作所の経営陣は8500名の人員削減を決定し、労働組合からの撤回要求を拒否する方針で臨んだ。組合側は人員削減の撤回を求めてストライキを実施し、全国の工場で生産が全面停止する事態に至った。経営陣はこの状況を許容し、組合側が折れるまで交渉に応じないという方針を採った。
生産が完全に停止した状態のまま10日、20日が経過し、1ヶ月を超えてなお経営陣は動かなかった。全工場の操業停止は収益の喪失を意味し、自己資本比率14.1%で倒産リスクを抱える企業にとって財務的な賭けであった。だが経営陣は交渉を打ち切り、組合側の疲弊を待つ持久戦の方針を堅持した。
争議が1ヶ月半を超えたあたりから、各地の工場で組合員の間に意見の分裂が生じ始めた。組合側が隠していたが、あちこちの工場から希望退職者が現れるようになった。約60日間にわたる争議の末、日立製作所は希望退職の募集を進めるとともに過激派の組合員を追放し、8500名の人員削減を完遂した。
争議終結後の日立製作所は、約5億円の争議関連損失に加えて立ち上がり資金として20〜30億円が必要とされた。争議に明け暮れていた日立は銀行からの信用を失っており、資金調達の見通しは厳しかった。日本興業銀行を中心とする協調融資が不可欠であったが、各行の姿勢は慎重であった。
各銀行の担当者が集まった席上で、興銀の島田常務が立ち上がり、日立の再建計画を支持する発言を行った。島田常務は各行に対して計画以上の融資を呼びかけ、合計4億円の協調融資が決定した。この銀行団の支援により、日立製作所は資金繰りの破綻を回避してどん底からの再建に着手する足がかりを得た。
約60日間にわたった争議は日立製作所の戦後史において転換点となった。軍需依存の体質から脱却し、平時の事業体制を構築するための出発点が形成された。この争議で経営陣が示した「動かない」という方針は、先行きの見えない状況でも既定方針を堅持するという意思決定の型を日立製作所に刻み込んだ。
4万4000人中8500名を余剰と判断しながら全工場の生産停止を約60日間許容した点に、この争議の構造がある。組合の暴力行為(「熱砂の誓」「ダルマ落とし」)に対して交渉を打ち切り、相手の疲弊を待つ方針を採ったのは、自己資本比率14.1%で倒産リスクを抱える中での持久戦であった。争議を終結させたのは経営陣の交渉力ではなく時間の経過による組合内部の分裂であり、興銀の島田常務による協調融資の呼びかけが再建の資金的裏付けとなった。
会社幹部に対する組合側のつるし上げは、いまでは想像もつかない酷いものだった。「熱砂の誓」というのがあった。暑い盛りに工場長を運動場に引っ張り出して、組合員が人垣で作ったコースを、一人が工場長に赤旗を持たせてひっぱり、二人、三人がシリを叩くようにして走らせる。中継地点まで来ると次の組にリレーして工場長をまた走らせる。組合のほうはどんどん変わるが、工場長は一人でぶっ倒れるまで走らされる。それを組合員が手を叩いて、ヤジを飛ばして見守るのである。
また「ダルマ落とし」というのがあった。ドラムカンを立ててその上に工場長を立たせ、その周りを何百人もの組合員で取り囲む。前の方には比較的善良な交渉員がいて、工場長と交渉に入るのだが、その後ろにいるものが、工場長が何か気に入らぬことをしゃべると、やにわにドラム缶を蹴り倒す。工場長はドラム缶とともに転がり落ちる。すると後ろにいた乱暴な連中が、叩く、ける、つまむという乱暴を働くのである。工場長は全身に黒い打撲傷を負い、昏倒する。これは一番酷かったと思う。警察にあげられ、何人かが裁判にかかり、有罪になっている。
私は組合側が折れるまでは交渉に応じないと、交渉を打ち切って相手が疲れるのを待った。10日たち、20日がたち、1月がたった。それでも私は待った。がまんがいったが、私は動かず、じいっと待った。生産は全部止まっているし、何もする事がない。しかしこのがまんが、ついに組合を押し切った。組合はひた隠しにしていたが、1ヶ月半もするとあちこちの工場から希望退職者がで始めたのである。(略)
こうして60何日かのすとののち、8月10日に至って、当時のジャーナリズムが労使対決の天王山と呼んだ日立の争議は、会社の勝利のうちに終結した。そのとき、私には喜びはなかった。なんとも表現しようのない寂寞としたものが心に広がっていた。
この争議で約5億円の赤字が出た。それは当時の日立にとって決して少ない額ではなかった。その上立ち上がり資金には20、30億円が必要であった。当時争議に明け暮れていた日立は、銀行の信用がなかった。(略)
結局各銀行にお願いして協調融資で急場をしのいだが、各行担当者の集まった席上、興銀の島田常務が立って「この計画は日立としては非常につつましやかなものだと思います。どうですか皆さん。あれだけの苦労をされたのですから、この計画以上に融資しようではありませんか」と言ってくださったときは、初めて思わず涙がこぼれた。この勇姿のおかげて、日立はどん底から立ち上がったのである。
RCA(テレビ)・GE(蒸気タービン)・WE(トランジスタ)の3年連続の技術提携は、小平浪平氏が創業時に掲げた「他人の力に依存しない」方針の撤回であった。GE提携は東芝が先行し日立は後追いの立場にある。注目すべきは三分野を同時に押さえた点で、戦後の総合電機としての事業基盤を3年間で一括設計したことになる。技術格差を認識した上で自前主義から提携主義に転じた判断は、方針の「固執」と「転換」の境界を示す事例である。
1950年代を通じて日立製作所は外国企業との技術提携を積極化した。1952年にRCAとブラウン管技術の特許実施権を獲得してテレビ市場への参入を図り、1953年にはGEと蒸気タービンの特許実施権を得て発電機分野で東芝に追随する体制を整えた。さらに1954年にはWE(Western Electric)とトランジスタの特許実施権を締結し、半導体製造への参入を企図した。
これらの技術提携は、創業者の小平浪平氏が掲げてきた「国産技術主義」の事実上の撤回を意味した。創業以来40年以上にわたり、同業他社がGEやWEとの提携で事業を拡大する中で日立は自前の技術開発に固執してきた。しかし戦後の技術格差を前に、独自開発のみでテレビ・発電機・半導体という成長市場に参入することは困難と判断し、外国技術の導入に方針を転換した。
RCA・GE・WEという3社との連続的な技術提携は、個別の事業判断ではなく、戦後の総合電機メーカーとしての事業基盤を一括で設計する意図を持っていた。テレビは家電市場の急成長に対応し、蒸気タービンは電力インフラの復興需要を見据え、トランジスタは次世代の電子部品市場を先取りするものであった。3年間で民生・重電・半導体の三分野に同時に参入する布陣を整えた。
GEとの技術提携においては、すでに東芝がGEと提携関係にあり、日立は後追いの立場となった。だが日立としては蒸気タービンの自前開発に固執するよりも、GEの技術を導入して早期に製品化する方が事業機会の逸失を防げると判断した。1953年の提携締結は国産技術主義からの明確な離脱であり、戦後復興期における技術格差を認識した現実的な経営判断であった。
RCA(テレビ)・GE(蒸気タービン)・WE(トランジスタ)の3年連続の技術提携は、小平浪平氏が創業時に掲げた「他人の力に依存しない」方針の撤回であった。GE提携は東芝が先行し日立は後追いの立場にある。注目すべきは三分野を同時に押さえた点で、戦後の総合電機としての事業基盤を3年間で一括設計したことになる。技術格差を認識した上で自前主義から提携主義に転じた判断は、方針の「固執」と「転換」の境界を示す事例である。
1956年の日立金属・日立電線に始まり日立化成・日立建機・日立物流と、非電機事業を次々に子会社化して上場させた構造は、事業売却によるキャッシュ確保ではなく支配権維持と資本市場活用の両立を志向したものであった。上場子会社は各社が独自に資金調達と人材確保を行う一方、親会社が経営方針に関与する仕組みとなった。2010年代にこの構造が非効率の象徴として解体されるまでの60年間は、日本型企業グループの形成と変容を映している。
高度経済成長期を通じて日立製作所は、本業である電機に該当しない事業領域を子会社として分離する方針を採った。1956年に日立金属(旧鉄鋼事業部)と日立電線(旧電線事業部)を設立し、1961年には日立化成、1964年には日立建機、1967年には日立物流をそれぞれ子会社として設立した。非電機事業を本体から切り出しつつも、株式の50%超を保有して経営の主導権を維持する構造を選んだ。
各子会社は業績が安定した段階で株式上場を実施した。1961年に日立電線・日立金属、1970年に日立化成、1981年に日立建機をそれぞれ上場させ、いずれも日立製作所が過半数の株式を保有する「上場子会社」として運営した。事業売却ではなく上場という形をとることで、資本市場からの資金調達と人材確保を可能にしつつ、親会社による支配権を維持した。
非電機事業を子会社化して上場させるという手法は、事業の独立性を与えつつ親会社が支配権を維持する日本企業特有の構造であった。子会社の経営を独立させることで事業判断の機動性を高め、上場により外部資本を調達しながらも、親会社が過半数株主として経営方針への関与を維持した。この構造は日立グループの拡大期において有効に機能した。
しかし2010年代に入ると、親子上場の構造が少数株主の利益を毀損しうる非効率な資本構成として批判を受けるようになった。川村改革以降、日立製作所は上場子会社の株式売却を推進し、日立電線・日立金属・日立化成・日立建機・日立物流の各社について順次保有株式を売却した。1956年の設立から売却完了まで60年以上を要した構造は、日立における意思決定の長期性を示している。
1956年の日立金属・日立電線に始まり日立化成・日立建機・日立物流と、非電機事業を次々に子会社化して上場させた構造は、事業売却によるキャッシュ確保ではなく支配権維持と資本市場活用の両立を志向したものであった。上場子会社は各社が独自に資金調達と人材確保を行う一方、親会社が経営方針に関与する仕組みとなった。2010年代にこの構造が非効率の象徴として解体されるまでの60年間は、日本型企業グループの形成と変容を映している。
川村隆氏の就任経緯は、1999年に取締役就任後に子会社の日立マクセル会長に転じた人物が7880億円の赤字で本社社長に呼び戻されたという異例のものである。着手した施策は3492億円の増資(既存株主に13%の希薄化)とHDD事業の48億ドル売却であり、自己資本比率を11.2%から18.8%に回復させた。55年間のテレビ生産撤退は総合電機の看板を手放す判断であり、先輩経営者の反発を押し切った点に意思決定の転換が表れている。
2008年秋のリーマンショックによる世界的な需要低迷を受けて、日立製作所は2009年3月期に約7880億円の最終赤字を計上した。日本の製造業として過去最大の赤字額であり、連結ベースの自己資本比率は前年度の20.6%から11.2%へと急落した。巨額赤字の主因は繰延税金資産の取り崩し約3900億円であり、事業収益の悪化により将来の税金還付の見通しが立たなくなったことが背景にあった。
2009年2月には赤字決算に先立って7000名の人員削減を決定し、固定費の圧縮を急いだ。だが財務基盤の毀損は深刻であり、もう一度リーマンショック級の景気後退が発生すれば日立は倒産していたとされる。自己資本比率11.2%という水準は銀行からの借入継続にも支障をきたしかねず、経営の自由度を大きく制約していた。
日立製作所の指名委員会は経営危機を受けて社長の交代を決定した。指名されたのは川村隆氏であった。川村氏は1999年に日立製作所の取締役に就任したのち、2007年に子会社の日立マクセル会長に転じていた人物であり、本社の社長人事としては異例の出戻り抜擢であった。2009年4月に川村氏が代表執行役社長に就任し、財務再建に着手した。
川村隆氏は就任直後から財務再建に着手した。2009年12月に第三者割当増資・公募増資・新株予約権付社債の発行を実行し、合計3492億円の資金を調達した。既存の発行済株式数に対して約13%の希薄化が生じたため、世界中の株主から批判を浴びた。だが自己資本比率の回復が経営再建の前提条件であり、既存株主の利益毀損を承知の上で増資を断行した。
続いて2012年にはIBMから約20億ドルで取得していたHDD製造事業をWestern Digitalへ約48億ドル(約3900億円)で売却した。売却益の計上とキャッシュの確保により自己資本比率は18.8%まで回復し、財務の安定化を実現した。増資と事業売却という二段階の施策により、2008年度から2012年度にかけて自己資本比率を11.2%から18.8%へと引き上げた。
財務再建と並行して川村体制は収益性が悪化した事業からの撤退を推進した。2011年にテレビの自社生産からの撤退を決定し、1956年の参入以来55年間にわたり続けてきたテレビ製造に終止符を打った。子会社の日立ディスプレイは産業革新機構主導のジャパンディスプレイに移管され、日立はディスプレイ製造から完全に撤退した。
テレビやディスプレイ事業の撤退により捻出した経営資源を、海外の鉄道車両や送配電など社会インフラ事業に集中させた。事業売却に対しては「汗水を垂らして育てた事業を簡単に売るのか」と先輩経営者から強い反発があったが、川村氏は構造改革の方針を堅持した。日立の事業構造は総合電機から社会インフラ・ITを中核とする方向へ転換する道筋がつけられた。
川村体制が実行した一連の施策は、日立製作所の経営における転換点となった。増資による財務基盤の回復、HDD事業売却による資金確保、テレビ事業からの撤退という三つの判断は、いずれも短期的な痛みを伴うものであったが、総合電機の看板を捨てて事業ポートフォリオを再構築する方向性を明確にした。
2011年4月に川村氏は取締役会長に就任し、後任に中西宏明氏が社長に就いた。川村体制の2年間で示された「選択と集中」の方針は、以後の上場子会社売却やGlobalLogic買収などの大型案件にも引き継がれた。7880億円の赤字から始まった構造改革は、日立を総合電機メーカーから社会イノベーション企業へと変貌させる起点となった。
| FY | 株主資本比率 | 備考 |
| 2008/3 | 20.6% | |
| 2009/3 | 11.2% | 7800億円の赤字計上による毀損 |
| 2010/3 | 14.3% | 増資による改善 |
| 2011/3 | 15.7% | |
| 2012/3 | 18.8% | HDD事業売却による改善 |
川村隆氏の就任経緯は、1999年に取締役就任後に子会社の日立マクセル会長に転じた人物が7880億円の赤字で本社社長に呼び戻されたという異例のものである。着手した施策は3492億円の増資(既存株主に13%の希薄化)とHDD事業の48億ドル売却であり、自己資本比率を11.2%から18.8%に回復させた。55年間のテレビ生産撤退は総合電機の看板を手放す判断であり、先輩経営者の反発を押し切った点に意思決定の転換が表れている。
2010年3月も厳しい経営環境が続く見込みのため、将来の税金還付を見込んで計上していた繰り延べ税金資産の取り崩しが増えることが赤字拡大の理由。営業利益予想は従来の400億円から1270億円に上方修正した。高機能材料部門や電力・産業システムを中心に各部門で改善があった。
ただ、連結納税グループに係る繰延税金資産全額を一括評価減することにより法人税等が1750億円増えるため、差し引き880億円当期赤字幅が拡大する。7880億円の当期赤字は日本の製造業としては過去最大となる。
10日ばかり前に、打診を受けた。まったく予想をしていない大変なこと。先頭に立って立ち向かい、礎を固めろと言われた。全身全霊、日立の再生に努める。日立には大きな財産がある。100年間の歴史の中で培ったお客様からの厚い信頼、各地にまたがる人材、価値創造への取り組みなど、日立の財産を何倍にも活用したい。日立製作所、グループの経営陣、そして若い力が必要である。経験と勇気を持って、迅速な決断と行動を徹底していく
だけどもう一度リーマン・ショックが来たら日立は潰れただろうね。それは、はっきり分かっている。だから当時は世界中の株主に増資のお願いをして回ったんです。増資をすると以前から株を持っている人は損をします。だから「前から持っていた株は損しますが、今から買う株は安く買えるので、もしかしたらもうかるかもしれません」とお願いするわけです。株主にはしこたま怒られましたね。
その事業を創りだした諸先輩からは「汗水を垂らして働いて育てた事業をいとも簡単に売るなんてどういうことだ」「急に経営者になったやつに何が分かるんだ」と怒られるわけです。でも私が社長として決めたことを、それを理由に撤回するわけにはいかない。諸先輩にしっかり説明すると、「結果が悪かったら俺はまた来るからな」と言って帰っていくわけです。
日立が単独で5700億円を受注した南アフリカの火力発電PJは、三菱重工との合弁移管後に工期遅延で損失が発生し、三菱重工から7700億円の支払を請求される事態に至った。和解損失3759億円を計上して合弁株式を譲渡した結果、出資比率35%で設立した合弁は5年で解消された。合弁設立前に日立が単独受注した案件の損失負担がパートナーとの紛争に発展した経緯は、合弁における受注責任の帰属の曖昧さを示す構造的な事例である。
南アフリカにおける火力発電所の新設プロジェクトは、もともと日立製作所が約5700億円で受注した案件であった。2014年に三菱重工と設立した合弁会社・三菱日立パワーシステム(三菱重工65%・日立35%)が事業を引き継いだが、工期の遅延と予算超過が発生して賠償責任が生じた。損失負担をめぐり三菱重工と日立製作所が対立し、三菱重工は2017年7月に約7700億円の支払を求めて日本商事仲裁協会に申立を行った。
三菱重工の主張は、もともと日立が単独で受注した案件である以上、プロジェクトの損失は全て日立が負担すべきというものであった。合弁会社の設立時に受注責任の所在が明確に整理されていなかったことが、パートナー間の紛争に発展する要因となった。請求額の7700億円は当初の受注額5700億円を上回る規模であり、仲裁の帰結は日立の財務に重大な影響を及ぼすものであった。
2019年に三菱重工と日立製作所の間で和解が成立した。日立製作所は和解に伴う損失として3759億円を計上し、合弁会社・三菱日立パワーシステムの保有株式を三菱重工に譲渡した。これにより日立は火力発電の合弁事業から完全に撤退し、2014年に開始した三菱重工との合弁に終止符を打った。
この和解は日立にとって財務上の打撃であると同時に、火力発電事業からの完全撤退を意味した。もともと日立が出資比率35%で参画していた合弁を、パートナーとの紛争を経て株式譲渡で解消するという結末は、合弁事業における受注責任の帰属が曖昧であった構造上の問題を露呈している。日立は祖業の一つであった発電事業の一角から手を引く形となった。
日立が単独で5700億円を受注した南アフリカの火力発電PJは、三菱重工との合弁移管後に工期遅延で損失が発生し、三菱重工から7700億円の支払を請求される事態に至った。和解損失3759億円を計上して合弁株式を譲渡した結果、出資比率35%で設立した合弁は5年で解消された。合弁設立前に日立が単独受注した案件の損失負担がパートナーとの紛争に発展した経緯は、合弁における受注責任の帰属の曖昧さを示す構造的な事例である。
1960億円を投じてホンダ系3社を統合し出資比率66.6%で子会社化した日立Astemoは、FY2022に純利益369億円を計上したが翌FY2023に▲810億円へ転落した。日立製作所は出資比率を約40%引き下げて持分法適用外に移行し、1580億円を回収した。上場子会社を60年保有した企業が新設子会社を4年で連結外へ移した事実は、川村改革以降の事業管理が「保有」から「入替」に転じたことを示している。
日立製作所は自動車部品事業(オートモティブシステム)を強化するため、2019年にホンダ系部品メーカー3社との経営統合を発表した。統合対象はケーヒン、ショーワ、日信工業の3社であり、いずれも収益性の低下が課題となっていた。日立オートモティブとホンダ系3社を一つの企業に集約し、自動運転など次世代技術の研究開発費を捻出する狙いがあった。
統合の受け皿として、日立製作所とホンダの合弁により新会社「日立Astemo」を設立する方針が示された。出資比率は日立製作所66.6%・ホンダ33.4%であり、日立が子会社として主導権を握る設計であった。2021年に日立Astemoが正式に発足し、買収した3社を同社に統合した。取得対価は約1960億円にのぼった。
統合により日立Astemoは自動車部品分野で一定の事業規模を確保した。2022年3月期の業績は売上高6430億円・当期純利益369億円であり、事業の立ち上がりとしては順調に推移した。だが自動車産業全体の供給網混乱や原材料価格の高騰が経営を圧迫し始めており、統合効果が安定的に発現するかは不透明であった。
2023年3月期に日立Astemoの当期純利益は▲810億円に転落した。前年度の黒字369億円から一転して大幅な赤字を計上し、統合後わずか2年で収益基盤の脆弱性が表面化した。日立製作所の連結業績においても日立Astemoの赤字は利益率の押し下げ要因となり、事業ポートフォリオ上の課題として認識された。
日立製作所は2023年に日立Astemoに対する出資比率を約40%引き下げる決定を行った。保有株式の約26%をホンダおよびJICキャピタルに合計約1580億円で売却し、2024年3月期に事業再編等利益として940億円を計上した。この株式売却により、日立Astemoは日立製作所の子会社から持分法適用外の位置づけへと移行した。
日立製作所は日立Astemoについて将来の株式上場を明言しており、自動車部品事業からの実質的な撤退を志向している。子会社から持分法適用外への移行は、連結利益率を押し下げる要因を切り離す財務的な判断であった。出資比率66.6%で設立した子会社を4年後に持分法外へ移行させた速度は、事業ポートフォリオの入替が加速していることを示す。
約1960億円を投じてホンダ系3社を統合し子会社として発足させた日立Astemoは、FY2023の大幅赤字を受けて日立製作所の連結対象から外れた。株式売却で回収した1580億円は投下資本の約80%にあたるが、残存する出資持分の価値は将来のIPO時点での企業価値に依存する。統合の経済的な成否はなお確定していない。
日立Astemoの事例は、日立製作所における事業ポートフォリオ管理の変化を端的に示している。かつて上場子会社の保有を60年以上にわたり続けた日立が、新たに設立した子会社をわずか4年で連結外に移すという判断は、2009年の川村改革以降に確立された「入替」を前提とする事業運営の具体例である。
自動車部品事業からの実質撤退は、日立が社会インフラ・ITに経営資源を集中させる方針の延長線上にある。日立Astemoの持分法適用外への移行により、連結ベースの利益率に対する押し下げ圧力が解消された。日立製作所にとって自動車部品は成長投資の対象ではなくなり、ホンダとの合弁解消を視野に入れた段階的な撤退が進行している。
1960億円を投じてホンダ系3社を統合し出資比率66.6%で子会社化した日立Astemoは、FY2022に純利益369億円を計上したが翌FY2023に▲810億円へ転落した。日立製作所は出資比率を約40%引き下げて持分法適用外に移行し、1580億円を回収した。上場子会社を60年保有した企業が新設子会社を4年で連結外へ移した事実は、川村改革以降の事業管理が「保有」から「入替」に転じたことを示している。