鐘紡 の歴史

創業

1887年

創業者

※財界人の出資

創業地

東京都墨田区

直近売上高(2007/3)

68億円

長期業績と転換点(1978/4〜2007/3)
売上高(億円純利益率(%)
Q なぜ1889年に商社から紡績会社へ業態を変えたのか
A 1887年に綿花輸入の仲介を担う商社として発足した東京綿商社は、取扱量が伸びず2年で行き詰まったため、自ら綿糸を紡いで売る製造業へ組み替えるほかなかった。英国製のリング式紡績機を鐘ヶ淵の3万錘工場へ据え、1889年8月に鐘ヶ淵紡績会社として再出発した。ただし大規模工場を扱える技術者が国内におらず操業直後から赤字が累積し、この人材不足が三井からの中上川彦次郎・武藤山治の派遣を呼び込んだ。外部経営者による業態の書き換えが、以後の人事と規模拡大を方向づけた。
Q なぜ武藤山治は1899年以降に中小紡績の買収を重ねたのか
A 武藤山治は紡績大合同論を掲げ、原料綿花の一括調達と価格支配力を握るには規模そのものを拡げる必要があると見たためである。1899年以降、経営難の中小紡績を次々と買収しては英国製設備に入れ替えて再建し、国内9か所以上の工場を一つの企業体に束ねた。この連続買収が購買条件の改善を通じて生産コストを押し下げ、1933年には全業種で売上首位の日本最大企業に立った。だが30を超える工場と数万人の雇用が会社の誇りとなり、規模維持を存続の前提とみなす内部論理がここで定着した
Q なぜ2004年に自力再建を断念し化粧品を売却したのか
A 2004年2月、主力銀行は複数年度の粉飾で630億円の債務超過に陥った会社を自力では再建できないと判断し、産業再生機構の枠組みに委ねたためである。再生計画は債権者への弁済原資を優先し、唯一の高収益事業だった化粧品を中核に独立再建する案ではなく、事業を単位ごとに切り売りする方式を基本方針に据えた。化粧品は約4,100億円で花王へ、繊維はセーレン、食品・日用品・薬品はクラシエへ移り、本体は2007年に海岸ベルマネジメントへ商号を変えて法人格を畳んだ

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1887年〜 紡績大合同論と日本最大の繊維企業への到達

  1. 1887年東京綿商社を創業
  2. 1893年中上川彦次郎氏が社長就任
  3. 1900年紡績大合同論を提唱。企業買収を積極化
  4. 1901年総合繊維メーカーを志向
  5. 1933年鐘紡が日本企業で売上高1位へ
  6. 1946年武藤絲治が鐘紡の社長に就任
  7. 1949年化学部門を分離・鐘淵化学工業を設立

鐘紡の業績推移:単体

売上高(億円)純利益率(%)

出所:有価証券報告書等

東京綿商社から鐘ヶ淵紡績への業態転換

1887年、三越・大丸・白木・荒尾・奥田の五社が出資する形で、合資会社東京綿商社が東京日本橋に設立された。出資した綿商の系譜は、東京で繰綿問屋を営んでいた三越・白木屋・大丸などの前身に連なる。当初の主業である綿花輸入の仲介業は取扱量が思うように伸びず、早い段階で商社から製造業への転換が経営方針として定まった。英国から輸入したリング式紡績機を、武蔵国葛飾郡隅田村鐘ヶ淵にある3万余錘規模の工場へ据え付け、1889年8月に鐘ヶ淵紡績会社として発足した。西洋の城廓を想わせる華麗な工場建物は世評に「紡績大学校」とまで呼ばれた。しかし、3万錘という当時としては工場を適切に管理できる紡績技術者は国内にはおらず、操業開始の直後から赤字が累積した。創業期の人材不足が、後の経営介入を呼び込む下地となった。 [1][2][3]

  • 『企業の歴史 : 明治百年』(経済春秋社編、1968)
    • [1]出資した綿商は東京で繰綿問屋を営んでいた三越・白木屋・大丸などの前身に連なる
    • [2]鐘ヶ淵の工場は3万余錘規模だった
    • [3]西洋の城廓を想わせる華麗な工場建物は世評に「紡績大学校」と呼ばれた

1893年、三井財閥の中上川彦次郎が鐘ヶ淵紡績の社長に就任し、増資と費用削減によって経営を立て直す方針を掲げた。中上川は支那大陸の大市場開拓を目指して神戸に兵庫支店工場を建設した。その設備は4万錘、工場用地は3万8000余坪に及んだ。建設の一切を委ねる支配人には、当時三井銀行神戸支店にいた28歳の武藤山治を抜擢した。東京と兵庫の二拠点による生産体制の確立によって綿糸の生産量は拡大し、解散寸前とまで評された鐘紡の経営は立て直された。1901年10月に中上川が世を去った後、その理想と情熱は武藤山治に継承された。三井側から送り込まれた経営者が短期間で会社の方向性を書き換えた事実は、以後の鐘紡の人事の伝統を決める源流となった。 [4][5][6]

  • 『企業の歴史 : 明治百年』(経済春秋社編、1968)
    • [4]中上川は支那大陸の市場開拓を目指し神戸に設備4万錘・用地3万8000余坪の兵庫支店工場を建設した
    • [5]三井銀行神戸支店にいた28歳の武藤山治が兵庫支店工場建設の支配人に抜擢された
    • [6]1901年10月に中上川会長が世を去り理想と情熱は武藤山治に継承された
  • 『企業の歴史 : 明治百年』(経済春秋社編、1968)
    • [1]出資した綿商は東京で繰綿問屋を営んでいた三越・白木屋・大丸などの前身に連なる
    • [2]鐘ヶ淵の工場は3万余錘規模だった
    • [3]西洋の城廓を想わせる華麗な工場建物は世評に「紡績大学校」と呼ばれた
    • [4]中上川は支那大陸の市場開拓を目指し神戸に設備4万錘・用地3万8000余坪の兵庫支店工場を建設した
    • [5]三井銀行神戸支店にいた28歳の武藤山治が兵庫支店工場建設の支配人に抜擢された
    • [6]1901年10月に中上川会長が世を去り理想と情熱は武藤山治に継承された

紡績大合同論が生んだ日本一企業への道

武藤山治は群小紡乱立の国家的不利を洞察して「紡績大合同論」を提唱し、経営体力の乏しい中小紡績会社を買収したうえで、設備の更新と運営方法の改善によって再建する事業モデルを業界の内外に示した。1899年以降は紡績会社の買収を重ね、1911年には絹糸紡績の買収にも踏み切った。鐘紡が合併買収したものは明治大正の両期だけでも上海紡績以下15社26工場に及び、国内外の主要工場を一つの企業体の傘下に束ねる垂直的な事業体制が、こうして形づくられた。規模の拡大は原料綿花の大量一括調達を可能にし、購買条件の改善を通じて生産コストの引き下げにも効いた。1964年のダイヤモンド臨時増刊は鐘紡の不況対策を、武藤山治が掲げた「万事人間本位」の経営理念の所産として評価した(ダイヤモンド臨時増刊 1964/3/10)。業界の価格支配力を握る基盤が、この過程で形成された。 [7][8]

  • 『企業の歴史 : 明治百年』(経済春秋社編、1968)
    • [7]武藤山治が群小紡乱立の不利を洞察して紡績大合同論を提唱した
    • [8]鐘紡は明治大正両期だけで上海紡績以下15社26工場を合併買収した

1933年、鐘紡は全業種の売上高ランキングで首位に立ち、王子製紙や大日本製糖を上回る日本最大の企業となった。全国に30を超える工場を抱え、従業員は数万人規模に達した。しかし、この過剰な拡張は後年の経営課題の下地にもなった。全国に分散した工場群と大量の雇用は、事業環境が急変したときの縮小や撤退を難しくする硬直性を内側に抱えていた。戦後も30を超える工場と数万人の従業員を抱えたまま朝鮮特需を迎え、1951年4月期には利益率約24パーセントを記録した。ただしこれは市況上昇による一過性の好業績にすぎず、高雇用と多工場を支え続ける収益力が定着したわけではなかった。武藤絲治が「失敗の深い谷があり、険しい山があって、成功の山の頂にのぼることの容易ならぬことを知りました」(歴史を作る人々 1967)と述懐したのは、当時の危うい繁栄を指していた。 [9]

  • 会社年鑑
    • [9]1951年4月期に利益率約24パーセントを記録した
  • 『企業の歴史 : 明治百年』(経済春秋社編、1968)
    • [7]武藤山治が群小紡乱立の不利を洞察して紡績大合同論を提唱した
    • [8]鐘紡は明治大正両期だけで上海紡績以下15社26工場を合併買収した
  • 会社年鑑
    • [9]1951年4月期に利益率約24パーセントを記録した

1952年〜 多角化の試行と化粧品事業による収益の偏在

  1. 1958年紡績工場の一部休止を決定
  2. 1959年博多工場・中津工場・中島工場を閉鎖
  3. 1961年グレーターカネボウ建設計画を策定
  4. 1961年鐘淵化学から化粧品事業を譲受
  5. 1962年化粧品事業に新規参入
  6. 1964年午後3時の綿業論を否定
  7. 1965年立花製菓を合併

鐘紡の業績推移:単体

売上高(億円)純利益率(%)

出所:有価証券報告書等

グレーターカネボウとペンタゴン経営の構想

1958年前後、鐘紡は博多・中津・中島といった基幹工場の閉鎖に追い込まれ、繊維事業の先行きに対する危機感が経営陣で強まった。社長に返り咲いた武藤絲治はイタリアのスニア・ビスコーザ社へ自ら飛び、化繊各社が狙うナイロンの新技術導入に成功した。「社運を賭けたナイロンへの進出に武藤は全生涯を賭けている」(読売新聞 1961/4/26)と評された。1961年にはグレーターカネボウ建設計画を公表し、天然繊維への偏重を改めたうえで、ナイロン・化粧品・食品という3つの成長分野を戦略領域として前面に据えた。防府工場ではナイロン事業へ約200億円を投じて合成繊維市場に本格参入し、1961年には鐘淵化学工業から化粧品事業を買収、販売会社の設立に累計約100億円を投下した。天然繊維依存からの脱却を図る規模先行の多角化だった。

1967年には5事業体制を掲げるペンタゴン経営を打ち出し、繊維・住宅・食品・化粧品・医薬品という5本柱へ全社を再編した。「鐘紡はGK計画により1964〜1965年の繊維不況下でも業界で抜きん出た好業績を記録した」(ダイヤモンド 1967/9/4)と評価された。ただし安定的に利益を出し続けたのは化粧品事業のみで、本業の繊維事業は慢性的な構造赤字を抱え、住宅・食品・医薬品の3事業も十分な収益力を持たなかった。多角化は売上構成の分散に寄与したが、利益の面では化粧品事業への一極依存が固まった。看板としての5本柱と、実態としての化粧品一本足──この乖離が以後の経営判断を縛る前提となった。1975年には週刊東洋経済が「ペンタゴン経営はどこへ行くか」(週刊東洋経済 1975/11/8)と特集を組み、鐘紡の構造的弱さを指摘した。

化粧品事業の成功が招いた構造改革の先送り

化粧品事業は鐘紡グループの中でもっとも高い利益率を誇る事業へ育ち、1977年4月期に売上高544億円・利益64億円を計上し、全社利益の過半を単独で支える特異な収益構造が社内で完成した。競争力の主な源泉は、チェーン店方式を軸とする独自の販売組織と、100パーセント直営で運営する販売子会社による密着型の販売体制にあった。全国津々浦々の小売店との長期的で強固な関係が、他社の模倣を拒む参入障壁として働いた。1985年時点でも、日経ビジネスは鐘紡の利益構造を、化粧品が100億円以上を稼ぎ、そのほぼ半分を繊維の赤字が食い、残りはわずかな黒字だけという一本足構造であると指摘した(日経ビジネス 1985/9/30)。成功した事業が、むしろ会社全体の構造改革を遅らせる。鐘紡の経営を縛ったのはこの逆説だった。 [10]

  • 会社年鑑
    • [10]1977年4月期に化粧品事業は売上高544億円を計上した

1975年4月期、鐘紡はついに無配に転落し、以後5期連続で経常赤字を計上した。化粧品が稼ぎ出した利益は繊維事業の赤字補填に消え、将来の成長投資へ回せる資源の余力はわずかしか残らなかった。販売不振への対応として本社部門から販売子会社への押し込み販売が常態化し、「低稼働」と呼ぶ不適切な会計処理が社内で黙認される状態へ移った。繊維工場の閉鎖は1970年に5工場、1975年に4工場、1982年に2工場、1992年に4工場と、断続的にしか進まなかった。「鐘紡は1974年度以後の11年間で都島地区を中心に約900億円の不動産を売却し、切り売りで糊口をしのいだ」(日経ビジネス 1985/9/30)と総括された。収益力の差が明らかなほど撤退の決断が鈍る副作用が、この間の数字に表れていた。

  • 会社年鑑
    • [10]1977年4月期に化粧品事業は売上高544億円を計上した

1993年〜 債務超過と粉飾決算の露呈に至る崩壊過程

  1. 1996年防府工場の閉鎖撤回
  2. 2001年人員削減ではなく基本給10%削減を実施
  3. 2001年商号を鐘紡からカネボウに変更
  4. 2003年国内4工場を閉鎖
  5. 2003年債務超過に転落

鐘紡の業績推移:単体

売上高(億円)純利益率(%)

出所:有価証券報告書等

粉飾決算の露呈と630億円の債務超過

1990年代を通じて、鐘紡の繊維事業と多角化事業はいずれも構造的な不振から抜け出せず、販売不振への対応として本社から販売子会社への押し込み販売が一段と常態化した。「低稼働」と呼ぶ不適切な会計処理は、単年度の一時的な調整の域を超え、複数年度にわたる組織的で継続的な会計操作へ拡大した。連結ベースの実態収益と、外部へ報告される収益とのあいだに、構造的な乖離が積み上がった。外部の監視をかいくぐる形で数字が操作され続けたことが、後に発覚する粉飾規模の大きさの直接的な原因となった。本業の苦境が会計処理の苦境を呼び、さらにそれを隠すための操作が重なるという、典型的な経理不祥事の連鎖が1990年代後半に進んだ。

2003年9月、鐘紡の粉飾決算が外部に発覚し、会社は630億円規模の債務超過に陥った。粉飾は単年度の会計調整にとどまらず、複数年度にわたって続けられた組織的な会計操作の累積であったことが、外部調査によって明らかになった。長年にわたり維持した財務諸表数値の信頼性は根本から崩れ、証券市場と主要取引先の双方からの信用を失った。2005年4月には、粉飾の累計規模が2000億円水準に達するという見方が日本経済新聞によって伝えられ、債務超過額をはるかに上回る規模であったことが社会的に共有された。同じ2003年のうちに浜松・大垣・彦根・出雲の4主要工場が閉鎖対象に選ばれ、繊維事業の縮小が破綻への序曲として加速した。粉飾発覚から工場閉鎖までの時間の短さが、経営判断の余地がすでに失われていた事実を物語っていた。 [11]

  • 日本経済新聞 2005年4月13日
    • [11]2005年4月に粉飾の累計規模が2000億円水準に達するとの見方が日本経済新聞によって伝えられた
  • 日本経済新聞 2005年4月13日
    • [11]2005年4月に粉飾の累計規模が2000億円水準に達するとの見方が日本経済新聞によって伝えられた

産業再生機構の介入と事業切り売りの決定

2004年2月、鐘紡の主力取引銀行は、産業再生機構の枠組みを使った経営再生の方向を決めた。会社の自力再建を断念するという重い経営判断だった。再生計画では化粧品事業の売却を前提にした事業の切り売り方式が基本方針に据えられ、鐘紡は120年にわたり一つの企業体のもとで束ねてきた事業群を一つずつ切り離し、単独企業としての組織的な実体を失った。化粧品事業を中核に据え直して独立企業として再建するという選択肢は、最後まで採られなかった。債権者への弁済原資を優先する再生機構の論理が、企業体としての存続よりも上位に置かれた。 [12]

  • 産業再生機構 事業再生計画
    • [12]2004年2月に主力取引銀行が産業再生機構の枠組みを使った経営再生の方向を決めた

2000年代初頭の鐘紡が抱えた課題は、繊維事業の不採算性と多角化戦略の行き詰まりが複合するかたちで表面化したものだった。長年にわたる工場閉鎖の繰り返しでも繊維事業の赤字体質は解消されず、化粧品事業が稼ぎ出す利益の大半が赤字補填に消える悪循環を断ち切れなかった。産業再生機構は会社全体を一体として再生するよりも、事業単位での売却を通じて債権者への弁済原資を確保する方針を優先し、鐘紡という企業体そのものの存続は、事業再生の目的の範囲外に置かれた。120年の歴史を持つ企業が、事業の切り売りを通じて解体されていく道筋が、ここで確定した。

  • 産業再生機構 事業再生計画
    • [12]2004年2月に主力取引銀行が産業再生機構の枠組みを使った経営再生の方向を決めた

鐘紡の沿革1887〜2007年における主な出来事を抜粋

年月社長・CEO出来事重要度
東京綿商社を創業★★★
東京株式取引所に株式を上場
鐘ヶ淵紡績会社に組織変更
中上川彦次郎氏が社長就任★★★
兵庫工場を稼働
紡績会社3社を買収
紡績大合同論を提唱。企業買収を積極化★★
総合繊維メーカーを志向★★
鐘紡が日本企業で売上高1位へ★★
鐘淵紡績と鐘淵実業が合併し鐘淵工業を設立
武藤絲治が鐘紡の社長に就任★★
化学部門を分離・鐘淵化学工業を設立★★
朝鮮特需で好調★★
紡績工場の一部休止を決定★★
博多工場・中津工場・中島工場を閉鎖★★
鐘淵化学から化粧品事業を譲受★★
グレーターカネボウ建設計画を策定★★★
化粧品事業に新規参入★★
午後3時の綿業論を否定★★
立花製菓を合併★★
食品事業に参入★★
ペンタゴン経営を提唱★★
国内5工場を閉鎖★★
商号を鐘淵紡績から鐘紡に変更★★
無配転落★★
国内4工場を閉鎖★★
国内2工場を閉鎖★★
国内4工場を閉鎖★★
防府工場の閉鎖撤回★★
人員削減ではなく基本給10%削減を実施★★
商号を鐘紡からカネボウに変更★★
中嶋章義国内4工場を閉鎖★★
中嶋章義債務超過に転落★★
中嶋章義産業再生機構がカネボウグループ全体の支援を決定★★★
中嶋章義東京・大阪証券取引所市場第一部で上場廃止★★
中嶋章義繊維事業をセーレンに売却
中嶋章義化粧品事業を花王に売却★★
会社解散を決議★★★
出典・参考
  • 『企業の歴史 : 明治百年』(経済春秋社編、1968)
  • 会社年鑑
  • 日本経済新聞 2005年4月13日
  • 産業再生機構 事業再生計画

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