1887年に東京綿商社(鐘紡)が資本金10万円で合資会社として設立された。設立地は東京日本橋であった。
この合資会社は東京の綿商社(および百貨店)の5社の出資によって共同設立された。出資企業は、三越、大丸、白木、荒尾、奥田の5社であり、東京の有力な問屋ないし百貨店であった。特に、三越が出資したことにより、東京綿商社は「三井財閥系」の系列となった。
創業時は中国からの綿の売買に従事しており、貿易商社であった。ところが、中国からの輸入がうまくいかない課題に直面した。
東京綿商社は紡績業への参入を決断した。これは同社にとって商社からメーカーに転身することを意味した。
参入にあたって、イギリスから新鋭の紡績機を輸入した上で工場を新設することを決定。工場の設置にあたっては、水運の便が良い隅田川沿いの「東京都墨田区(鐘ヶ淵)」の決定した。もともと徳川家の隅田御殿の跡地であり、まとまった敷地を確保できたことが理由であった。
東京綿商社は紡績工場の新設にあたって、メーカーに専念する方針を決定した。東京綿商社を解散した上で、三井財閥の出資により「鐘ヶ淵紡績会社(のちの鐘紡)」を発足した。
1888年4月に紡績工場を着工し、翌年の1898年2月に「鐘淵紡績所(のちの鐘紡・東京工場)」として竣工した。
イギリスから最新鋭の紡績機(リング式紡績機)を導入し、工場は煉瓦造り(辰野金吾設計)であったことから、工場にしては贅沢な作りであった。
加えて、技術者は皆無で、大学教授に協力を依頼。工場の運営は三越の番頭が担当するなど、あらゆる面で素人が工場運営に携わった。
このため、業界関係者からは「紡績大学校」「三井の道楽工場」と揶揄したという。この前評判の通り、鐘ヶ淵紡績は工場稼働の1年目で12万円の赤字を計上し、経営危機に陥った。
このような経営難を招来したのは、工場経営上もっとも肝要な「機械と人間の調和」を欠いたためである。この実例を見ると、当時紡績業の本山であるイギリスにおいてすら、ようやくリング式紡機が、旧来のミュール式紡機にとってかわろうとする過渡期であった。我が国では、我が社が据え付けたリング式紡機は、まさにその草分けともいうべき時代のうえ、この洋式紡機の技術に関する書籍のごときは、イーヴンレイの著述の原書が1冊あるくらいで、当時3万錘という大工場を十分に運営管理しうる技術家はいなかった。
1893年に鐘ヶ淵紡績の社長に、三井財閥の実質的な財務責任者であった中上川彦次郎氏が就任した。応急処置として、財務体質の改善、コスト削減、技術向上の3つの施策を実行した。
この結果、鐘ヶ淵紡績は再建1年目に8.5万円の黒字を計上し、会社解散を回避した。
中上川社長は、鐘ヶ淵紡績の経営にあたって、紡績の増産による業容拡大を目指した。そこで、兵庫県(和田岬)に紡績工場を新設して、中国向けに紡績を輸出する計画を策定した。東京と兵庫に紡績工場を配置することで、全国展開も意図した。
兵庫への進出に先立って、資本金を250万円に増資した。
兵庫工場の新設にあたって、中上川社長は若手の人材抜擢を実施した。三井財閥の三井銀行の神戸支店に次長として勤務していた武藤山治氏(当時28歳)を、鐘ヶ淵紡績の兵庫工場の責任者として任命した。
1896年に鐘ヶ淵紡績は兵庫工場を稼働。4万錘の大規模紡績工場であり、職工約3000名が従事した。なお、大阪地区では兵庫工場の稼働にあたって、待遇が相対的に良い兵庫工場に職工が相次いで転職したため、紡績業界内で問題視された。当時は職工が希少であり、結果として紡績工場の職工の待遇が改善する形になったという。
当時私は紡績学について、何ら経験もない28歳の、今なら大学を出て間もない年頃の青年に過ぎません。それが中上川彦次郎氏の達識により、早くも支那輸出を目的とする兵庫工場の建設が企てられ、その経営の責任を双肩になったこととて、ただまっしぐらに渾身の努力を捧げるほかありませんでした。
1901年に中上川彦次郎氏が逝去し、三井財閥内で進めていた「工業化」の路線が転換される形となった。これを受けて、三井財閥は紡績業の縮小を決定し、保有する鐘ヶ淵紡績の株式売却を決定した。
明治時代を通じて紡績会社の設立が全国的なブームになったが、その多くが苦境に陥った。工場と設備を導入すれば、材料である綿を輸入するだけで参入できたため、参入障壁が小さい事業であったことに加え、製造した糸もコモディティーの市況品であった。
このため、経済不況に陥ると多くの紡績会社が倒産ないし経営危機に陥った。この結果、経営体力のある紡績会社が、中小の紡績会社を買収ないし合併し、設備を刷新することで業容を拡大する趨勢が定着した。
この結果、紡績業界では十大紡と呼ばれる大手企業に紡績会社は集約再編の流れが生まれ、数多くの小規模な紡績会社は買収されるか淘汰された。
最近、綿業界の不審甚だしく、小紡績会社は破綻せんとしている。(略)紡績会社は一般に苦境に陥っている。されど大紡績会社は、比較的資金も豊富であり、工場も割合に優秀なので、布教ながらこの困難を切り抜けることができるが、小紡績会社は今や全く死に瀕している。(略)綿業界が極度の不振に陥った昨今、小紡績会社はいよいよ経営困難となる不安を感じて、この際大紡績会社に合併の相談尾を持ちかけているものもある。
1900年頃に鐘紡の社員であった武藤山治氏は「紡績大合同論」を提唱した。これは全国各地に点在する紡績会社について、経営体力のない会社を鐘紡が買収することで再建を図りつつ、企業規模を増大させることが狙いであった。
鐘紡としては企業規模が大きくなれば、原料である綿花の大量買付によるコストダウンが可能になることから、スケールメリットを生かせることが期待できた。
1899年から鐘紡は企業買収を本格化。特に、最大規模になったのが1911年の「絹糸紡績」の取得であり、同社の買収により、国内9工場(および上海1工場)を取得した。これらの買収を通じて、鐘紡は全国各地に紡績工場を設けるに至った。
| 取得年 | 企業名 | 生産量(錘) |
| 1899-09 | 上海紡績 | 1.9万錘 |
| 1899-10 | 河州紡績 | 1.0万錘 |
| 1899-11 | 柴島紡績 | 1.0万錘 |
| 1900-01 | 淡路紡績 | - |
| 1900-10 | 九州紡績 | 4.1万錘 |
| 1902-10 | 中津紡績 | 1.0万錘 |
| 1902-12 | 博多絹綿紡績 | - |
| 1907-10 | 日本絹紡織機 | 2.5万錘 |
| 1911-03 | 絹糸紡績 | 53.0万錘 |
| 1913-12 | 朝日紡織 | - |
| 1921-05 | 国華製糸 | - |
| 1921-09 | 草薙合資 | - |
| 1922-06 | 日本絹布 | 1.5万錘 |
| 1923-06 | 南勢紡績 | 4.5万錘 |
1901年に鐘淵紡績は「絹製品」の製造に参入し、経営の多角化を図った。以後、従来の「綿」だけではなく、「絹(絹織物・生糸)」「毛(毛織物)」の領域に参入することで、天然繊維製品を充実させた。
| 事業区分 | 事業別工場数 | 主な事業拠点(従業員数) | 事業別従業員数 |
| 綿糸紡績 | 17工場 | 高砂工場(4960名) | 26,258名 |
| 絹糸紡績 | 7工場 | 京都工場(3202名) | 10,993名 |
| 加工 | 4工場 | 淀川工場(3247名) | 7,445名 |
| 製糸(絹) | 19工場 | 甲府工場(702名) | 6,638名 |
| 化学繊維 | 2工場 | 防府工場(1219名) | 2,319名 |
戦前を通じて鐘淵紡績は天然繊維の国内トップメーカーとして成長を遂げた。1937年時点の従業員数は6万名であり、鐘紡は「東洋一の東洋一の紡績会社」(1932/2/11実業の世界)とも評された。
特に、全社売上高に関しては、1933年の時点で日本企業の中でトップを確保しており、繊維業界のみならず、日本国内で最大の売上高の企業となった。
| 順位 | 企業名 | 売上高 | 備考 |
| 1位 | 鐘淵紡績 | 20.1億円 | 繊維業(綿・毛・絹) |
| 2位 | 王子製紙 | 13.7億円 | 紙パルプ |
| 3位 | 内外綿 | 8.6億円 | 繊維業(綿) |
| 4位 | 大日本製糖 | 8.4億円 | 製糖 |
| 5位 | 三井鉱山 | 7.4億円 | 石炭・非鉄鉱山 |
| 6位 | 日本毛織 | 7.1億円 | 繊維業(毛織物) |
| 7位 | 台湾製糖 | 5.7億円 | 製糖 |
| 8位 | 三菱鉱業 | 5.4億円 | 石炭・非鉄鉱山 |
| 9位 | 明治製糖 | 5.3億円 | 製糖 |
| 10位 | 日本石油 | 5.2億円 | 石油精製・販売 |
当社(注:鐘紡)」が我が国紡績界における代表的会社で、紡績王国として自他ともに許しているということは、今更事新しく説明するまでもなく、一般周知の事実であろう。
国内全ての業種の企業において、鐘紡が売上高トップを記録。日本を代表する会社に発展した
終戦直後に武藤山治の息子であった武藤絲治が鐘紡の社長に就任。以後、戦後の鐘紡の経営を武藤絲治が担う。
戦時中に鐘紡は軍需生産に従事しており、一部の工場では繊維ではない軍需物資を生産していた。だが、1945年に終戦を迎えたことで軍需を喪失し、鐘紡は再び繊維製品の製造に回帰した。
1953年時点で鐘紡は日本国内で30を超える繊維工場を稼働し、戦災による復興を完了した。このうち、従業員数が1000名を超える工場は18工場となった。生産品目は天然繊維を中心としており「綿・毛・絹」を網羅しつつ、化学繊維のスフの製造にも力を入れた。
| 工場名 | 従業員数 | 生産品目 | 所在地 |
| 洲本工場 | 3076名 | 綿・絹 | 兵庫県洲本市塩屋 |
| 淀川工場 | 2385名 | 綿・スフ・合繊 | 大阪府都島区 |
| 西大寺工場 | 1998名 | 綿 | 岡山県上道郡西大寺町 |
| 中津工場 | 1201名 | 綿 | 大分県中津市島田 |
| 中島工場 | 1142名 | 綿 | 大阪市東淀川区柴島町 |
| 住道工場 | 1757名 | 綿・毛 | 大阪府北河内郡 |
| 長野工場 | 1525名 | 綿 | 長野県長野市若里 |
| 東京工場 | 1776名 | 綿 | 東京都墨田区隅田町 |
| 松阪工場 | 1294名 | 綿 | 三重県松阪市 |
| 高砂工場 | 1475名 | 綿 | 兵庫県加古郡高砂町 |
| 四日市工場 | 1320名 | 毛 | 三重県四日市市日永 |
| 京都工場 | 1823名 | 毛 | 京都市左京区高野東開町 |
| 新町工場 | 1812名 | 繰糸 | 群馬県多野郡新町 |
| 丸子工場 | 1541名 | 繰糸 | 長野県小県郡丸子町 |
| 長浜工場 | 1591名 | 繰糸 | 滋賀県長浜市南呉服町 |
| 山科工場 | 1541名 | 綿・絹 | 京都市東山区山科 |
| 防府工場 | 1895名 | スフ(人絹) | 山口県防府市東佐波令 |
| 高岡工場 | 1340名 | スフ(人絹) | 富山県高岡市上関 |
1950年に勃発した朝鮮戦争により、米軍向けの軍需物資生産が活況となり日本国内の景気回復した。特に繊維業に関しても景気が回復し「織機で1回織ると1万円儲かる」という意味で、ガチャマン景気と呼ばれる好況を謳歌した。
鐘紡もガチャマン景気の恩恵を受けた。1951年4が月において、売上高168億円に対して税引後利益40億円(利益率約24.1%)を達成した。
1952年までに朝鮮戦争における特需が一巡したことを受けて、繊維各社は好景気から一転して苦境に陥った。鐘紡も例外ではなく、1951年4月期をピークに純利益ベースで減益に転じた。
鐘紡の主力製品は「綿・毛・絹」といった天然繊維であり、いずれも市況品(コモディティー)であったため、価格をコントロールできなかった。
綿製品の価格下落を受けて工場休止を決定。天然繊維の事業縮小をスタート
1958年前後の天然繊維の不況による市況悪化を受けて、鐘紡は主力工場の閉鎖を決定した。従来の工場閉鎖は従業員100〜500名規模の中規模の工場(全国の地方に点在した生糸の繰糸工場)であったが、1959年以降は1000名規模の主力工場が対象となり、工場閉鎖による生産調整が本格化した。
閉鎖対象は九州の2工場(博多・中津)、大阪市内の1工場(中島)、東京都内の1工場(東京工場)であった。このうち、東京工場は化粧品製造に一時転換されたが、その後完全に閉鎖されるに至った。
| 工場名 | 所在地 | 1953/4 | 1970/4 | 1975/4 |
| 博多工場 | 福岡県 | 871名 | 0名 | 0名 |
| 中津工場 | 大分県 | 1,201名 | 0名 | 0名 |
| 中島工場 | 大阪府 | 1,142名 | 0名 | 0名 |
| 東京工場 | 東京都 | 1,776名 | 0名 | 0名 |
1971年のニクソンショックにより円高ドル安が進行したことで、日本国内の繊維業は「東安アジア企業」との競争に巻き込まれ、国際競争力を喪失した。
このため、再び生産調整のために1970年より工場閉鎖を再開した。1970年〜1974年にかけての工場閉鎖は都心部の工場を対象とした。よって、再就職先の斡旋が容易な地域から優先的に工場を閉鎖したと推察される。
| 工場名 | 所在地 | 1953/4 | 1970/4 | 1975/4 |
| 山科工場 | 京都府 | 1,541名 | 0名 | 0名 |
| 練馬工場 | 東京都 | 534名 | 357名 | 0名 |
| 南千住工場 | 東京都 | - | 488名 | 0名 |
| 静岡工場 | 静岡県 | 561名 | 395名 | 0名 |
| 都島工場 | 大阪府 | - | 326名 | 0名 |
1975年に鐘紡は繊維事業の不振により無配に転落したことを受けて、工場閉鎖をより一層進める形となった。
1975年には3工場(京都・高砂・住道)を一気に閉鎖しており、繊維の生産量の調整を図った。それでも、繊維の市場悪化に対応できず、1979年には四日市工場を閉鎖した。
閉鎖対象となった工場は、1950年代の全盛期には1000名以上の従業員数を抱えていたが、生産合理化により300〜400名まで削減したもの、それでも収支は好転しなかったことを意味する。
| 工場名 | 所在地 | 1953/4 | 1970/4 | 1975/4 |
| 京都工場 | 京都府 | - | 1,331名 | 0名 |
| 高砂工場 | 兵庫県 | 1,475名 | 492名 | 385名 |
| 住道工場 | 大阪府 | 1,757名 | 494名 | 331名 |
| 四日市工場 | 三重県 | 1,320名 | 659名 | 428名 |
1982年に鐘紡は淀川工場(大阪府都島区)を閉鎖した。淀川工場は鐘紡の主力工場の1つであり、戦前は「東洋一」と言われた繊維工場であった。大阪市街地に位置する工場であったため、工場跡地を三井不動産と共同で「ベルパーク」として再開発することで、土地売却益を捻出した。
また、1986年には洲本工場(兵庫県淡路島)の閉鎖を決定した。鐘紡は洲本工場で全盛期に3,000名以上を雇用しており、工場閉鎖によって淡路島における雇用が失われることを意味した。
| 工場名 | 所在地 | 1953/4 | 1970/4 | 1975/4 |
| 淀川工場 | 大阪府 | 2,385名 | 1,380名 | 1,095名 |
| 洲本工場 | 兵庫県(淡路島) | 3,076名 | 1,200名 | 855名 |
1992年から1996年にかけて、国内の地方に残存する4工場を閉鎖した。対象は長野工場(長野市)、丸子工場(長野県上田市)、松阪工場(三重県)、西大寺(岡山県)であった。いずれも地方工場であり、地元自治体との雇用の関係で閉鎖が遅れたと推察される。
| 工場名 | 所在地 | 1953/4 | 1970/4 | 1975/4 |
| 長野工場 | 長野県 | 1,525名 | 558名 | 489名 |
| 丸子工場 | 長野県 | 1,541名 | 778名 | 579名 |
| 松阪工場 | 三重県 | 1,294名 | 474名 | 414名 |
| 西大寺工場 | 岡山県 | 1,998名 | 876名 | 555名 |
鐘紡の粉飾決算が露呈したことを受けて、会社解散が決定。繊維工場のうち売却に値しないと判断された4工場の閉鎖を決定した。対象は、浜松工場(静岡県)、大垣工場(岐阜県)、彦根工場(滋賀県)、出雲工場(島根県)であり、撤退判断が遅れた工場であった。
| 工場名 | 所在地 | 1953/4 | 1970/4 | 1975/4 |
| 浜松工場 | 静岡県 | - | - | 337名 |
| 大垣工場 | 岐阜県 | 918名 | 1042名 | 852名 |
| 彦根工場 | 滋賀県 | 836名 | 555名 | 451名 |
| 出雲工場 | 島根県 | - | - | 193名 |
1950年代を通じて天然繊維(綿・絹・毛)の市況が悪化し、繊維各社の業績が悪化した。
そこで、1961年10月に鐘淵紡績(武藤絲治・社長)は「グレーターカネボウ建設計画」を公表した。計画の骨子は新規事業による多角化にあり、綿などの天然繊維に偏重していた事業構造を「ナイロン(合成繊維)・化粧品・食品」の新規展開によって見直すことにあった。
経営目標としては、3年後の1964年10月までに、半期売上高478億円・半期利益24億円を目標設定した。
よく言われるように、繊維工業は決して斜陽でも何でもない。ただ過去のような高利潤は維持できない。そういうわけですから繊維工業に関連して、鐘紡本体を中心に新しい時代のパイプを伸ばしていって、そこから栄養を吸収し、体質を改善し、体力を増大すれば心配はいらないわけです。
鐘紡は競合(東レ・帝人)に対して出遅れていた合成繊維への新規参入を決定。イタリアのスニア・ビスコーザ社と「ナイロン紡糸」に関する15カ年の技術提携を締結し、山口県の防府工場に合成繊維「ナイロン」の設備導入を決定した。
ナイロンの新規参入にあたって、鐘紡は200億円の設備投資を予定するなど、社運をかけた投資を敢行した。
鐘紡は総合繊維会社です。今度合繊を加えたらさらに名実ともに総合経営として充実するわけです。そのためには、まず化線、紡績業界の王座確保の第一ステップとして、ナイロンに手を出したわけです。ナイロンをやれば年間200億、いま270億ですから合計500億の売り上げになる予定です。私は、鐘紡もどんどん瀬超して売上1000億、従業員3万くらいの規模にならなければいけない。
鐘紡は経営の多角化にあたって、企業ないし事業の買収によって拡充した。
化粧品事業は、1962年にカネカ(鐘淵化学)から買収し、販売組織に対して積極投資を実行。販社を全国に設立し、投入金額は累計100億円に及んだ(出所:1977/8/15日経ビジネス)。
1964年9月時点で半期売上高65億円の事業に育ち、取得から3年間で売上高が約10倍に拡大した。以後、カネボウの利益の大半を化粧品事業が稼ぐ構造となり、化粧品への多角化は順調に進んだ。
食品事業では、1964年にハリス(小田原本社)を買収。チューイングガムなどの加工食品に参入した。
チェーン店方式の販売組織を徹底的に強化した。もちろん「鐘紡の化粧品」というイメージが消費者に大きな好感を持って迎えられたことは申すまでもない。(略)
それから、従来の販売会社の持株を100%鐘紡が所有して、実質的には直営の形体に切り替えた。この販売会社の整備、充実も、化粧品進出の大きな原因になったと思う。
1960年台前半を通じて、鐘紡は合成繊維では「ナイロン」、非繊維では「化粧品・食品」を拡充することで売上構成比を「天然繊維・化繊偏重」から改善した。
一方、売上成長の面では課題が残った。1965年に日本経済が「昭和40年不況」により景気が悪化すると繊維業界も打撃を受け、鐘紡では天然繊維で大幅な減収となった。加えて、合成繊維のナイロンも、この時期に天然繊維メーカーが相次いで参入したことで競争が激化し、売上成長が低迷した。
この結果、多角化により天然繊維への偏重からは脱却したものの、ナイロンの競争激化の影響を受けて1965年10月期(半期)に全社売上で減収に陥った。
鐘紡の転身の芽生は昭和30年代後半に見られる。36年に樹立したグレーターカネボウ計画がそれだ。化粧品、食品など非繊維部門進出を決定したが、同計画の主眼は、天然繊維に加えて、合繊に乗り出すという繊維中心型の規模拡大にあった。非繊維部門は合成繊維進出の支援部隊としての位置付けに過ぎなかった。(略)
しかし、この計画は40年不況で挫折した。後発のハンデを負う合繊が浮上しないことが響き、他人資本依存による財務体質悪化が致命傷になった。
鐘紡の社長であった武藤絲治は「繊維産業は斜陽では無い」という論説を展開し、鐘紡は「労使協調」を重視する意味でも繊維の縮小を先送りした。
創業期から長らく続いてきた武藤家は鐘淵紡績の経営から退き、1968年に伊藤淳二氏(労務部長出身)が45歳という若さで鐘紡の社長に就任した。この交代劇の裏には壮絶な社内政治があったと言われている。
なお、伊藤淳二氏は鐘紡の経営トップとして長年要職を歴任して、2003年に名誉会長を退任するまで経営に関与した。このため、カネボウの経営破綻の要因を作った人物である。
1967年に鐘紡は「ペンタゴン経営」を提唱して「繊維、住宅、食品、化粧品、医薬品」の5事業構成とすることを目標とした。
ペンタゴン経営における重要な点は、従来は「天然繊維・化繊・合繊」によって区分けされていた繊維事業を1つとみなした点にある。繊維業界では需要が拡大していた合成繊維(ナイロン・ポリエステル)で競争が激化したため、これらの合成繊維も市場が低迷基調に突入。これを受けて「繊維」を一つの事業として課題に向き合うことを意図した。
4つの新規事業のうち「化粧品」「食品」はすでに本格展開していたが、新たに「住宅」「医薬品」に注力する姿勢を打ち出した。繊維事業の不振をカバーするために、進出領域を増やすという意図があった。
ただし、裏事情としては繊維の余剰人員を、これらの新規事業に充当することでリストラを最小限に抑える狙いもあった。このため、新事業の展開に最適化された人員抜擢(中途採用など)を行えず、新規事業失敗への布石となった。
| 日時 | 経歴 | 備考 |
| 1922 | 中国・青島生まれ | (日本人) |
| 1947 | 慶應義塾大学・卒業 | |
| 1947 | 鐘紡・入社 | 父親が鐘紡に勤務 |
| 1961-12 | 鐘紡・取締役 | グレーター鐘紡計画に関与 |
| 1964-11 | 鐘紡・常務取締役 | - |
| 1966-06 | 鐘紡・専務取締役 | 労務部長として労使平和協定を結ぶ |
| 1968-05 | 鐘紡・取締役副社長 | - |
| 1968-08 | 鐘紡・代表取締役社長 | 45歳で社長就任 |
| 1982 | 鐘紡・会長 | - |
| 1982 | 鐘紡・名誉会長 | - |
| 1995 | 鐘紡・終身名誉会長 | - |
鐘紡の場合、拡張路線を急ぐあまり何度か大きくつまずいたことは事実だ。詰めが甘いと言われても仕方がない面があったかもしれない。1968年以降の多角化路線は、従来の拡張主義とは根本的に遠い、経営安定化のための戦略だ。繊維の比重を軽くして市況変動の影響から脱出するのが狙いだった。
これもオイル・ショックに見舞われて誤算があったが、戦略が正しかったことは今も確信している。もし多角化していなければ、具体的にはもし化粧品を育てていなければ、鐘紡はオイルショックという不測の事態に何ら打つ手を持たなかったに違いない。
いま誤算の修正に必死に取り組んでいるところだが、経済全体がいまだに以上な事態なので現在のもたつきはある程度、理解してもらえると思う。異常事態が収束した後も、まだもたついているようだと経営は失敗だったと批判されても甘んじて受ける。
1970年代を通じて化粧品事業は売り上げを順調に伸ばし、FY1976時点で売上高544億円・利益64億円という高収益事業に育った。
ところが、他の多角化事業である「住宅・食品・医薬品」に関しては損失が続き、カネボウへの全社への利益貢献には至らなかった。このため、ペンタゴン経営で構成した5事業のうち、全社利益を生み出しているのは「化粧品のみ」という事態に陥った。
1973年10月のオイルショックによって日本経済が不況に陥ると、工業製品に対する需要が低迷。鐘紡では、特に天然繊維および合成繊維において減収となり、多角化の不振3事業(医薬品・住宅・食品)を加えて最終赤字に転落した。この結果、1975年4月期に無配へ転落した。
1975年4月期(半期)から、1979年4月期(通期)までの5期連続で鐘紡は経常赤字に転落した。赤字が続いた理由は、繊維事業が「構造不況」に陥ったため、コスト削減や人員削減といった小手先の減量施策では間に合わないところまで状況が悪化していたためである。
このため、鐘紡は一部の繊維工場について、工場を閉鎖(すなわち地域の雇用が失われることを意味する)した上で、土地を売却することによって、事業縮小を図った。
カネボウは工場跡地の土地売却によってキャッシュを捻出し、赤字の補填に活用してきた。このため、経常利益ベースでは毎年100億円以上の赤字を計上していたが、純利益ベースでは30億円前後の赤字に抑えられた。
カネボウは売上不振を打開するために、本社から販社に対して押し込み販売を実施。社内では「低稼働」と呼ばれ、グレーな会計手法を黙認した。このため、カネボウの粉飾決済の土壌を作り上げたという点に関して、カネボウの帆足氏(元社長)は、伊藤淳二社長の問題点を辛辣に指摘している。
| 事業名 | 事業売上高 | 事業利益 | 人員数 |
| 繊維事業 | 3,308億円 | ▲116億円 | 13,961名 |
| 化粧品事業 | 544億円 | 64億円 | 12,111名 |
| 食品事業 | 255億円 | ▲1〜2億円 | 1,856名 |
| 薬品事業 | 約60億円 | ▲1〜2億円 | 1,023名 |
| 住宅事業 | 約80億円 | ▲1〜2億円 | 1,883名 |
さかのぼるのであれば、その頃経営をやっていた前名誉会長の伊藤淳二さんのところに行き着きます。やはり、繊維で日本一の時代を築いたことに甘えていた。それで繊維、繊維と言って、とにかく借入を増やしながら、ファッションに取り組んだり、いろんなことをやった結果がこれですよ。やっぱり甘い経営をやってきたということなんです。
それで借入金ばっかりで(たまっていく)在庫の処理がすぐにはできなかったので、(本社と販社で物品を回遊させる)「低稼働」でずっとやってきたと、こういうことですよ。当時は「粉飾」とは言っていなかった。そんなのは低下どうですよと、過去からずっと変な仕組みがあった。こういう会社の社風にしたのも伊藤さんの責任でしょうね(略)
だから2001年度とか2002年度の問題じゃないんですよ。大きな石をかぶって経営を預かったんですから、そこをよく認識してもらいたい。なのに、そも僕の時代の責任のように言われるのは冗談じゃない。なぜ僕だけが責められなきゃいけないのか。何を今更いろいろ言っているんだと、怒りを感じますよ。過去のことを言っていくと、もう全部が問題ですよ。
繊維事業の比率低下に合わせて、社名から紡績の2文字を除去した「鐘紡」に変更した
繊維業界の不振を受けて鐘紡の業績も悪化。1975年には経常赤字に転落する。赤字補填のために、鐘紡は大阪の淀川工場跡地を集合住宅地として売却するなど、不動産売却益によって延命を図る。
京都出町柳付近にあった京都工場を閉鎖。跡地は売却されて、東大路高野団地として再開発された
大阪市内に存在した淀川工場の生産機能を、滋賀県長浜工場に移転することを決定。跡地は三井不動産によって売却され、1982年に分譲マンション「ベル・パークシティ」として再開発された。大阪都心部の優良な土地の大規模再開発として注目を集めた、カネボウは土地の売却益によって繊維の赤字を補填した
明治33年に稼働して淡路島の有力工場であったが、老朽化などによる競争力の低下により閉鎖を決定
天然繊維事業の競争力低下に合わせて、カネボウは主力の綿紡績の3工場を閉鎖した。閉鎖対象は、長野工場(上田)、松阪工場(三重)、西大寺(岡山)の3箇所。いずれも各地域の大口雇用主であり、地元経済に致命的な打撃となった。
合成繊維事業の競争力低下に合わせて、山口県の防府工場の閉鎖を決定したが、熾烈な反対を受けて一時頓挫する。
2001年に帆足氏がカネボウの新社長に就任。債務超過寸前の財務状況であったが、労働組合の意向を考慮して人員削減ではなく基本給のカット(3年間10%削減)を決定した。それでも、帆足社長に対して「怪文書」(出所:2001/9/3日経ビジネス)が社内で飛び交うなど、厳しい状況にあった。
利益を重視することを訴えると同時に、労務費の削減にも着手しました。役員の削減や役員報酬のカットはもちろん、グループ企業も含め、労働組合員1万5000人の基本給を3年間、10%減らしたのです。実に厳しい決断でしたが、組合と粘り強く話し合ううちに、人員削減よりも全員で改革に挑もうと従業員は協力すると言ってくれました。
1999年ごろから鐘紡は企業存続を図るために社内で粉飾決算を行なったとされ、2005年に自体が明るみとなり、当時の社長が逮捕された。この結果、鐘紡は社会的信用を失い、多額の負債を抱えて倒産を免れない状態に陥る。
そして、2003年に伊藤淳二氏が名誉会長職を退任した。伊藤淳二氏は化粧品事業(現カネボウ化粧品)の発展には寄与したが、労働組合との関係性が深いことから、人員削減を伴う繊維事業からの撤退する判断が遅れ、鐘紡の企業価値を長期的に毀損した。
債務超過に陥ったカネボウに対して、2004年2月に債権者である三井住友銀行は「産業再生機構」を活用した企業解体を決定した。
産業再生機構が策定した事業計画の骨子は、①化粧品事業部門の強化(売却前提)、②不採算事業の見直し、③収益力強化に向けた組織体制の整備であった。このうち、③についてはカネボウの経営責任を取る形で、帆足社長を含む取締役8名全員が退任することが決定した。
カネボウグループは、明治20年の設立当初より繊維事業を中心に営んできたが、食品、薬品、化粧品等、次々と事業の多角化を推進した。その結果、事業面については、収益力も事業特性も全く異なる事業群が一つの企業体の中に混在したことにより、全体としての競争力を失っていく結果となった。一方、財務面においても、事業部門間の相互もたれあいが続く中、過剰投資型負債と赤字補填型負債が膨らみ、過剰債務状態にある。さらに、組織運営面においても抜本的な変革が必要な状況にある。
このような状況のもと、対象事業者及びメイン銀行は、過剰な有利子負債を解消するとともに、経営戦略を抜本的に見直し事業の再生を図るべく、産業再生機構(以下、「機構」という。)に支援申込みをするに至った。
債務超過を解消するために、鐘紡は唯一の収益源であった化粧品事業を花王に4500億円で売却した。その後、カネボウは産業再生機構のもとで、各事業部ごとに解体された。
これではいかんと、どういう方法があるか考えました。それで、あなた方がご存知のように、長年、孝行息子だった化粧品事業を分社し、その譲渡益で過去のものを全部きれいにしようという大決断を昨年8月にしたんです。アクリル事業からの撤退と、それに伴う特別損失を公表できたのは、花王と化粧品事業を合併するスキームのメドがたったからです。
カネボウの低収益の要因となっていた繊維事業について、不採算工場の閉鎖を決定。2003年に浜松・出雲・大垣の各工場の閉鎖を公表した。
また、カネボウの長浜および鯖江(福井)の工場については、同業の繊維メーカー「セーレン」に売却し、収益性の高い自動車向けの不織布の製造拠点として活用されることになった。
カネボウの事業のうち、化粧品および繊維を除く「その他事業」については、2007年に発足したクラシエホールディングスに継承された。会社発足時点で株主はアドバンテッジパートナーズなどの投資ファンドであり、企業売却が前提となっていた。
その後、2009年にホーユー株式会社が推定100億円でクラシエの買収を決定し、ホーユーの子会社として運営されている。
2007年の株主総会でカネボウは解散を採択。カネボウは精算業務を行うために商号を「海岸ベルマネジメント株式会社」に変更。カネボウとしての歴史に終止符を打った