鐘紡 の歴史

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沿革

1887〜2007年 1887年に綿花輸入の仲介を担う東京綿商社として設立が認可された会社が起源。武藤山治氏の紡績大合同で中小紡績を買収し、1962年に化粧品へ参入してペンタゴン経営を築いた。1933年には全業種で売上首位の日本最大企業となったが、2007年に法人格を終え、事業は花王・クラシエなどへ移った。

沿革

1887年に綿花輸入の仲介を担う東京綿商社として設立が認可された会社が起源。

武藤山治氏の紡績大合同で中小紡績を買収し、1962年に化粧品へ参入してペンタゴン経営を築いた。1933年には全業種で売上首位の日本最大企業となったが、2007年に法人格を終え、事業は花王・クラシエなどへ移った。

1886年〜創業期東京綿商社の創業と紡績大合同論による買収拡大

  1. 東京綿商社を創業
  2. 鐘淵紡績会社に組織変更
  3. 東京株式取引所に株式を上場
  4. 中上川彦次郎氏が社長就任
  5. 紡績大合同論を提唱。企業買収を積極化
  6. 総合繊維メーカーを志向
  7. 鐘紡が日本企業で売上高1位へ
鐘紡売上高

1937年〜低迷期鐘淵化学工業の分離と博多など3工場の閉鎖

  1. 鐘淵紡績と鐘淵実業が合併し鐘淵工業を設立
  2. 武藤絲治が鐘紡の社長に就任
  3. 東京証券取引所の再開にともない株式を上場
  4. 化学部門を分離・鐘淵化学工業を設立
  5. 朝鮮特需で好調
  6. 紡績工場の一部休止を決定
  7. 博多工場・中津工場・中島工場を閉鎖
鐘紡売上高1960年4月期465億円

1961年〜転換期グレーターカネボウ計画による化粧品・食品への多角化

  1. グレーターカネボウ建設計画を策定
  2. 化粧品事業に新規参入
  3. 午後3時の綿業論を否定
  4. 食品事業に参入
  5. ペンタゴン経営を提唱
  6. 国内5工場を閉鎖
  7. 商号を鐘淵紡績から鐘紡に変更
  8. 無配転落
  9. 国内4工場を閉鎖
  10. 国内2工場を閉鎖
鐘紡売上高1991年3月期6,804億円

1992年〜再建期債務超過への転落と産業再生機構によるカネボウ支援

  1. 国内4工場を閉鎖
  2. 防府工場の閉鎖撤回
  3. 債務超過に転落
  4. 産業再生機構がカネボウグループ全体の支援を決定
  5. 化粧品事業を花王に売却
  6. 会社解散を決議
鐘紡売上高2005年3月期2,685億円

系譜

前身は1887年創業の東京綿商社。1900年に紡績大合同論を提唱し、企業買収を積極化した。1949年には化学部門を分離し、鐘淵化学工業を設立。1971年に鐘紡へ商号変更し、紡績を軸に多角化を進めた。

系譜

前身は1887年創業の東京綿商社。

1900年に紡績大合同論を提唱し、企業買収を積極化した。1949年には化学部門を分離し、鐘淵化学工業を設立。1971年に鐘紡へ商号変更し、紡績を軸に多角化を進めた。

1887年 1889年 1949年 1971年 2004年 2006年 2007年 東京綿商社 1887年綿花輸入商として設立 鐘淵紡績 1889年改称・紡績業へ 鐘淵化学工業 1949年化学部門を分離 鐘紡 1971年商号変更 カネボウ 2004年産業再生機構が支援 カネボウ化粧品 2006年花王へ売却 クラシエ 2006年食品・日用品が独立 カネボウ 2007年会社解散
長期業績の推移 1949〜2007年

業績

鐘紡:歴代社長と長期業績の推移売上高(億円)純利益率(%)
1970年4月期〜2007年3月期

第1章 1886年〜 東京綿商社の創業と紡績大合同論による買収拡大東京綿商社の紡績専業化から紡績大合同論による再編へ

筆者考察y.sugiura, author

鐘紡は、綿花を安く仕入れて高く売る商売から始まり、製造原価の7割を占める原綿の買い方そのものを競争の場に変えた会社である。1886年に東京の繰綿問屋五軒が作った東京綿商社は、綿花のまま売るより糸にしたほうが利が厚いと見た時点で、商社であることをやめた。しかし三万錘という規模は当時の国内の購買力に対して過大で、開業の翌年には資本金100万円をほぼ使い果たす。それを救った三井の資本は、同時に中上川彦次郎と武藤山治という二人の経営者を連れてきた。原料を安く買う腕ではなく、良い原料を確実に買う契約を三井物産と結んだことが、その後の鐘紡の型を決めた。品質の優劣を、職人の勘ではなく調達の設計で作るという型である。

良い糸は、良い原綿と熟練した職工の両方からしか出ない。武藤山治が注意凾や共済組合や職工学校に金をかけたのは博愛からだけではなく、6割から7割という職工移動率が熟練の蓄積を妨げていたからである。品質で優位を得た鐘紡が次に求めたのは規模だった。紡績大合同論が唱えたトラストは価格を吊り上げる談合ではなく、合併によって製造原価を下げる装置である。買収で錘数を積み、糸から布へ、布から漂白染色捺染へと工程を下流へ延ばし、1936年には日本製鉄を除いて売上高日本一に届いた。50年かけて、鐘紡は原料を買う位置から製品を値づける位置へ移った。ランカシャーに対抗できる加工工場を持てと言い続けた武藤の執着は、その最後の一歩だった。

資本金の推移 東京綿商社の設立から武藤山治の退任まで(円)

100,000 1886 1,000,000 1887 2,500,000 1894 11,606,800 1907 60,000,000 1930

1886年〜綿花の定期売買から紡績専業への転換と三井による資本の注入

1880年代半ばの東京で繰綿問屋と称したのは三越・白木屋・大丸・荒尾・奥田ら九軒で、国内の綿花相場はこの九軒が左右し、問屋の手を経なければ綿花を買い入れることもできなかった。中国綿の輸入をめぐって問屋仲間は改革派と保守派に割れ、三越・白木屋・大丸・荒尾・奥田の五店が改革派に属した。改革派は1886年11月、三越得右衛門氏を頭取として資本金10万円の東京綿商社を創立し、翌1887年2月に日本橋区本町四丁目で開業して綿花の定期売買を始めた。ところが品種改良に着手しても需要は伸びず、輸入した中国綿は各地で滞貨した。綿花のまま売るのではなく綿糸へ加工して売れば需要は増えるとの結論に至り、同年4月の臨時株主総会で資本金を100万円へ引き上げた。

  • 『企業の歴史 : 明治百年』(経済春秋社編、1968)
    • [1]当時の東京の繰綿問屋九軒と三越・白木屋・大丸などの前身との連なり
    • [6]綿花を糸として売るほうが有利との判断にもとづく資本金100万円への増資
  • 鐘紡百年史(鐘紡株式会社、1988年)
    • [2]中国綿の輸入をめぐる繰綿問屋仲間の改革派と保守派への分裂と、改革派に属した三越・白木屋・大丸・荒尾・奥田の五店
    • [4]1887年2月13日の日本橋区本町四丁目での開業式と綿花の定期売買の開始
    • [5]綿花の品種改良に着手した後も需要が伸びず、輸入した中国綿が各地で滞貨したこと
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「鐘淵紡績」の項
    • [3]三越得右衛門氏を頭取とする資本金10万円の東京綿商社の設立

工場用地は武蔵国南葛飾郡隅田村鐘ヶ淵に選ばれ、隅田川堤外の約三万坪を1万8276円で買収した。買収は難航し、火葬場を作るのだろうという風評から竹槍騒ぎまで起きて、役員は護身用の拳銃を携えたという。紡機購入を託されて渡英した農商務省技師の谷口直貞氏がリング機の代価を42万5000円と打電したとき、国内では株式が暴落して払込の見通しが立たなくなっていた。不況期に綿花の売買と紡績を一社で兼営するのは良策ではないとして、1888年8月の臨時株主総会で定款を改め、営業目的を綿糸の紡績だけに絞り、社名を鐘淵紡績会社とした。兼営に固執する株主との応酬で審議は4時間40分に及んだ。未払込の株式はすべて三井家が引き受けた。

  • 鐘紡百年史(鐘紡株式会社、1988年)
    • [7]隅田村鐘ヶ淵の隅田川堤外約三万坪を1万8276円で買収したこと
    • [8]火葬場建設との風評による用地買収の難航と、竹槍騒ぎおよび役員の護身用拳銃携行
    • [9]谷口直貞氏が打電したリング機代価42万5000円と、国内の株式暴落による払込の見通し難
    • [11]兼営存続を求める株主との応酬により4時間40分に及んだ臨時株主総会の審議
    • [12]株式の未払込分をすべて三井家が引き受けたこと
  • 『企業の歴史 : 明治百年』(経済春秋社編、1968)
    • [10]1888年8月の紡績専業への転換と鐘淵紡績会社への社名変更

1889年5月に操業を開始し、同年1月には東京株式取引所へ株式を上場していた。創業の年は好況に乗ったが、翌1890年の恐慌で糸価は下がり続け、5月から6月の不需要期には一梱80円を割った。大日本綿絲紡績同業聯合会は一カ月のうち八昼夜の休業を決議し、これがわが国紡績業で最初の共同操短となった。鐘紡の16番手は12月に70円台まで落ち、同年末の決算は12万3617円の損失、株価は14円から15円まで下がって、資本金100万円をほぼ使い果たした。株主のなかには解散を唱える者もいた。監査役の稲延利兵衛氏が三井家顧問の井上馨氏へ窮状を訴えて支援を取り付け、三井家は1892年1月、三井家理事の中上川彦次郎氏と朝吹英二氏を取締役へ送り込んだ。

  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「鐘淵紡績」の項
    • [13]1889年5月の操業開始
    • [19]稲延利兵衛氏による井上馨氏への支援要請と、1892年1月の中上川彦次郎氏・朝吹英二氏の取締役就任
  • 鐘紡 有価証券報告書【沿革】
    • [14]東京株式取引所への株式上場
  • 鐘紡百年史(鐘紡株式会社、1988年)
    • [15]1890年恐慌による糸価の低落と、不需要期における一梱80円割れ
    • [16]大日本綿絲紡績同業聯合会による一カ月八昼夜の休業決議と、わが国紡績業最初の共同操短
    • [17]1890年末決算の12万3617円の損失と株価14〜15円への下落、資本金100万円の費消
    • [18]一部株主による会社解散論
参考文献[1]-[19]
  • 『企業の歴史 : 明治百年』(経済春秋社編、1968)
    • [1]当時の東京の繰綿問屋九軒と三越・白木屋・大丸などの前身との連なり
    • [6]綿花を糸として売るほうが有利との判断にもとづく資本金100万円への増資
    • [10]1888年8月の紡績専業への転換と鐘淵紡績会社への社名変更
  • 鐘紡百年史(鐘紡株式会社、1988年)
    • [2]中国綿の輸入をめぐる繰綿問屋仲間の改革派と保守派への分裂と、改革派に属した三越・白木屋・大丸・荒尾・奥田の五店
    • [4]1887年2月13日の日本橋区本町四丁目での開業式と綿花の定期売買の開始
    • [5]綿花の品種改良に着手した後も需要が伸びず、輸入した中国綿が各地で滞貨したこと
    • [7]隅田村鐘ヶ淵の隅田川堤外約三万坪を1万8276円で買収したこと
    • [8]火葬場建設との風評による用地買収の難航と、竹槍騒ぎおよび役員の護身用拳銃携行
    • [9]谷口直貞氏が打電したリング機代価42万5000円と、国内の株式暴落による払込の見通し難
    • [11]兼営存続を求める株主との応酬により4時間40分に及んだ臨時株主総会の審議
    • [12]株式の未払込分をすべて三井家が引き受けたこと
    • [15]1890年恐慌による糸価の低落と、不需要期における一梱80円割れ
    • [16]大日本綿絲紡績同業聯合会による一カ月八昼夜の休業決議と、わが国紡績業最初の共同操短
    • [17]1890年末決算の12万3617円の損失と株価14〜15円への下落、資本金100万円の費消
    • [18]一部株主による会社解散論
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「鐘淵紡績」の項
    • [3]三越得右衛門氏を頭取とする資本金10万円の東京綿商社の設立
    • [13]1889年5月の操業開始
    • [19]稲延利兵衛氏による井上馨氏への支援要請と、1892年1月の中上川彦次郎氏・朝吹英二氏の取締役就任
  • 鐘紡 有価証券報告書【沿革】
    • [14]東京株式取引所への株式上場

1894年〜兵庫工場の建設と良品主義による品質での差別化

1894年1月と2月に開いた株主総会で、設備拡張と100万円の増資が決まり、資本金は250万円に増えた。背景には中上川彦次郎氏の判断があった。東京の二工場だけにとどめず、関西はアジア大陸に近く、日本の紡績業がこれから伸びる土地はそこにあると見て、中国大陸への輸出を軸にすると決めていたのである。関西の新工場には4万錘の設備と3万8000余坪の用地が割り当てられ、その建設は、三井銀行神戸支店から移ってきた28歳の武藤山治氏が一手に任された。設計から完成までを日本人の手で行うこととし、外観を重んじた東京工場への反省から、事務所は倉庫と同居する10坪内外に留めた。同年8月に日清戦争が始まると工事の延期を進言する重役もいたが、中上川氏は建設を止めなかった。ただし国内へ発注した1300馬力の蒸気機関が半年遅れ、戦後の好況をおよそ7〜8カ月取り逃した。

  • 鐘紡百年史(鐘紡株式会社、1988年)
    • [20]紡績業が発達すべき天地はアジア大陸に近い関西にあるとの中上川彦次郎氏の判断と、中国大陸向け貿易を目的とする阪神進出の決意
    • [23]設計から完成まで日本人の手によることとした方針と、倉庫に同居する10坪内外の兵庫工場事務所
    • [24]日清戦争勃発後も工事を延期しなかった中上川彦次郎氏の決断
    • [25]芝浦製作所へ発注した1300馬力蒸気機関の半年の納入遅延と、好況期七、八カ月の逸失
  • 『企業の歴史 : 明治百年』(経済春秋社編、1968)
    • [21]兵庫支店工場の設備4万錘・用地3万8000余坪と、増資100万円による資本金250万円
    • [22]三井銀行神戸支店にいた28歳の武藤山治氏の兵庫支店支配人への抜擢と建設全権の委任

紡績業では原綿が製造原価の7割を占め、利益は賃金の低位からではなく、原綿対策・加工費対策・海運対策・資本負担の軽減という経営全般の組み合わせから生まれた。国産綿花の供給が細って中国綿・インド綿・米綿への依存が進むなか、各社は産地ごとに価格の低い綿花を買い付けて一定比率で混ぜる混綿技術を持たざるを得なかった。鐘紡は1892年に同じ三井系の三井物産と原綿の特約取引契約を結んで優良な原綿を確保した。良い原綿は糸質を高めて織布工場での糸切れを減らしたため、織布業者のあいだで鐘紡の糸を求める声が高まった。1898年頃の東京本店見聞記は、鐘紡の大鳥商標がイギリス糸に拮抗し、藍魚商標が上海市場で孟買綿糸を圧していると記した。賃金ではなく原料の買い方で利幅を作る型が、ここで定まった。

  • 鐘紡百年史(鐘紡株式会社、1988年)
    • [26]製造原価の7割を占める原綿と、原綿・加工費・海運・資本負担の各対策の組み合わせによる利益の実現
    • [27]海外原綿への依存の進行と、価格の低い綿花を一定比率で混ぜる混綿技術の必要
    • [28]1892年の三井物産との原綿特約取引契約の締結と優良原綿の確保
    • [29]優良原綿による糸質の向上と織布工場での糸切れの減少、織布業者からの引き合いの増加
  • 鐘紡百年史(1988年)所収「新撰東京名所図会」東京本店見聞記
    • [30]大鳥商標の綿糸がイギリス糸に拮抗し、藍魚商標が上海市場で孟買綿糸を圧して高位にあったこと

明治30年前後の紡績各社は職工の移動率の高さと募集難に悩み、鐘紡の東京・兵庫両工場でも6割から7割の移動率を見ることが珍しくなかった。勤続が短ければ熟練は積まれず、品質の向上も望めない。武藤氏は職工が安んじて勤務できる環境を整え、監督にあたる職制へ職工への接し方まで指導した。1903年6月には米国の製造会社の事例に学んで注意凾制度を入れ、同年7月に社内報の鐘紡の汽笛を、翌1904年1月に工女向けの雑誌である女子の友を発行した。上役が注意書の提出を妨げたり嫌な顔をしただけでも、地位を問わず懲罰解雇すると書面で公示した。1904年にはドイツの製鋼会社の福利施設を訳させて共済組合を創設し、1905年9月には鐘紡職工学校を設けた。

  • 鐘紡百年史(鐘紡株式会社、1988年)
    • [31]明治30年前後の職工移動率の高さと募集難、東京・兵庫両工場における6〜7割の移動率
    • [32]低勤続が技術の熟練と品質向上の阻害要因であったという認識
    • [33]職工が安んじて勤務できる環境の整備と、職制に対する職工への接し方の指導
    • [36]1904年のドイツ製鋼会社の福利施設調査書の翻訳と鐘紡共済組合の創設
    • [37]1905年9月の鐘紡職工学校の創設
  • 鐘紡百年史(1988年)所収 武藤山治「私の身の上話」
    • [34]1903年6月の注意凾制度の採用と、同年7月の社内報「鐘紡の汽笛」・1904年1月の「女子の友」の発行
    • [35]注意書の提出を妨げた上役を地位を問わず懲罰解雇する旨の書面公示
参考文献[20]-[37]
  • 鐘紡百年史(鐘紡株式会社、1988年)
    • [20]紡績業が発達すべき天地はアジア大陸に近い関西にあるとの中上川彦次郎氏の判断と、中国大陸向け貿易を目的とする阪神進出の決意
    • [23]設計から完成まで日本人の手によることとした方針と、倉庫に同居する10坪内外の兵庫工場事務所
    • [24]日清戦争勃発後も工事を延期しなかった中上川彦次郎氏の決断
    • [25]芝浦製作所へ発注した1300馬力蒸気機関の半年の納入遅延と、好況期七、八カ月の逸失
    • [26]製造原価の7割を占める原綿と、原綿・加工費・海運・資本負担の各対策の組み合わせによる利益の実現
    • [27]海外原綿への依存の進行と、価格の低い綿花を一定比率で混ぜる混綿技術の必要
    • [28]1892年の三井物産との原綿特約取引契約の締結と優良原綿の確保
    • [29]優良原綿による糸質の向上と織布工場での糸切れの減少、織布業者からの引き合いの増加
    • [31]明治30年前後の職工移動率の高さと募集難、東京・兵庫両工場における6〜7割の移動率
    • [32]低勤続が技術の熟練と品質向上の阻害要因であったという認識
    • [33]職工が安んじて勤務できる環境の整備と、職制に対する職工への接し方の指導
    • [36]1904年のドイツ製鋼会社の福利施設調査書の翻訳と鐘紡共済組合の創設
    • [37]1905年9月の鐘紡職工学校の創設
  • 『企業の歴史 : 明治百年』(経済春秋社編、1968)
    • [21]兵庫支店工場の設備4万錘・用地3万8000余坪と、増資100万円による資本金250万円
    • [22]三井銀行神戸支店にいた28歳の武藤山治氏の兵庫支店支配人への抜擢と建設全権の委任
  • 鐘紡百年史(1988年)所収「新撰東京名所図会」東京本店見聞記
    • [30]大鳥商標の綿糸がイギリス糸に拮抗し、藍魚商標が上海市場で孟買綿糸を圧して高位にあったこと
  • 鐘紡百年史(1988年)所収 武藤山治「私の身の上話」
    • [34]1903年6月の注意凾制度の採用と、同年7月の社内報「鐘紡の汽笛」・1904年1月の「女子の友」の発行
    • [35]注意書の提出を妨げた上役を地位を問わず懲罰解雇する旨の書面公示

1901年〜紡績大合同論による業界再編から加工への工程の延伸へ

1901年10月に中上川氏が死去したのち、その理想は武藤山治氏へ引き継がれた。武藤氏は同年11月、紡績各社の首脳と紡聯へ向けて紡績大合同論を著した。資本を集めて競争を妨げ製品価格を引き上げるものがトラストだという理解を誤解として退け、同種の事業を合併し、資本の集中と管理の周到さによって製造費用を減らして原価を下げるものだと定義した。当時の紡績63社の錘数は合計129万5598錘、1社平均は2万565錘にすぎず、平均を下回る会社が29社あった。鐘紡自身も上海紡績以下の買収を重ね、合併した相手は明治大正の両期だけで15社26工場に及んだ。業界の会社数は1899年末の78社から1903年末の46社へ4割減り、錘数は105万錘から126万錘へ2割増えた。

  • 『企業の歴史 : 明治百年』(経済春秋社編、1968)
    • [38]1901年10月の中上川彦次郎氏の死去と武藤山治氏への継承
    • [42]明治大正両期における上海紡績以下15社26工場の合併買収
  • 鐘紡百年史(鐘紡株式会社、1988年)
    • [39]1901年11月の紡績各社首脳および紡聯に対する武藤山治の紡績大合同論の発表
    • [43]1899年末の78社105万錘から1903年末の46社126万錘への業界の再編
  • 鐘紡百年史(1988年)所収 武藤山治『紡績大合同論』(1901年)
    • [40]価格引き上げの手段とする理解を退け、資本の集中と管理により製造費用と原価を下げるものとしたトラストの定義
    • [41]紡績63社の総錘数129万5598錘、1社平均2万565錘、平均を下回る29社

多角化は1905年の織布への進出から始まった。武藤氏が淀川工場の建設を決めたのは、イギリスと張り合うには近代科学を生かして大量生産のできる加工工場が要ると見たからで、綿布の漂白・染色・捺染を担う同工場は1916年に工事へ入り、第一工場が1918年、第二工場が1919年、第三工場が1924年に完成した。工費は約1500万円で、工場長には合併したばかりの西大寺工場を立て直した35歳の津田信吾氏が就いた。国内で初めての綿糸布加工の大工場であり、他社の製品の加工も請け負った。絹の分野へはそれより早く、1906年の京都支店工場の建設で踏み出しており、武藤氏が唱えた絹業立国はここに始まる。1921年からは生糸の生産も手がけ、各地に乾繭場と製糸所を設けた。

  • 鐘紡百年史(鐘紡株式会社、1988年)
    • [44]1905年の織布進出を起点とする経営の多角化
    • [45]イギリスに対抗するには近代科学を応用した大量生産のできる加工工場が必要との武藤山治氏の判断
    • [46]1916年着工の淀川工場と、1918年・1919年・1924年の第一から第三工場の完成
    • [47]約1500万円を投じた淀川工場建設と、35歳の津田信吾氏の工場長への抜擢
    • [48]わが国最初の綿糸布加工の大工場としての淀川工場と、他社製品の加工の受託
  • 『企業の歴史 : 明治百年』(経済春秋社編、1968)
    • [49]1906年の絹業進出と京都支店工場の建設
    • [50]1921年以降の生糸生産への着手と各地への乾繭場・製糸所の設置

武藤氏は1921年に自ら発案した定款二十三条で社長の任期を三年一期・通算三期までと定め、1930年1月の定時株主総会でその定めに従って退任した。留任を求める株主の発言は相次いだが辞意は動かず、退任時の資本金は6000万円に達していた。後任の長尾良吉氏が健康を理由に半年で退き、同年6月に49歳の津田信吾氏が社長へ昇格した。津田氏が掲げた加工重点主義のもとで、1933年度の輸出綿製品は生地が2割9分まで減り、晒2割2分・加工4割9分と、加工品が7割を占めるまでになった。販路の開拓を商社任せにせず、1931年春にはアレクサンドリアとブエノスアイレスへ駐在員を置いた。1936年、鐘紡は半官半民の日本製鉄を除けば売上高で日本一の企業となった。原料の買い方から始まった品質の追求は、工程を下流へ延ばすたびに値づけの余地を広げていった。

  • 鐘紡百年史(鐘紡株式会社、1988年)
    • [51]1921年制定の定款二十三条による社長任期三年一期・通算三期までの制限と、1930年1月の武藤山治氏の退任
    • [52]留任を求める株主の発言の続出と、退任時点の資本金6000万円
    • [53]長尾良吉氏の半年での辞任と1930年6月の満49歳の津田信吾氏の社長就任
    • [54]1934年1月の株主総会で報告された1933年度の輸出綿製品に占める生地2割9分・晒2割2分・加工4割9分の構成
    • [55]1931年春のアレクサンドリアおよびブエノスアイレスへの駐在員派遣の決定
  • 日経ビジネス 1999年9月27日号
    • [56]半官半民の日本製鉄を除いた売上高での日本一
参考文献[38]-[56]
  • 『企業の歴史 : 明治百年』(経済春秋社編、1968)
    • [38]1901年10月の中上川彦次郎氏の死去と武藤山治氏への継承
    • [42]明治大正両期における上海紡績以下15社26工場の合併買収
    • [49]1906年の絹業進出と京都支店工場の建設
    • [50]1921年以降の生糸生産への着手と各地への乾繭場・製糸所の設置
  • 鐘紡百年史(鐘紡株式会社、1988年)
    • [39]1901年11月の紡績各社首脳および紡聯に対する武藤山治の紡績大合同論の発表
    • [43]1899年末の78社105万錘から1903年末の46社126万錘への業界の再編
    • [44]1905年の織布進出を起点とする経営の多角化
    • [45]イギリスに対抗するには近代科学を応用した大量生産のできる加工工場が必要との武藤山治氏の判断
    • [46]1916年着工の淀川工場と、1918年・1919年・1924年の第一から第三工場の完成
    • [47]約1500万円を投じた淀川工場建設と、35歳の津田信吾氏の工場長への抜擢
    • [48]わが国最初の綿糸布加工の大工場としての淀川工場と、他社製品の加工の受託
    • [51]1921年制定の定款二十三条による社長任期三年一期・通算三期までの制限と、1930年1月の武藤山治氏の退任
    • [52]留任を求める株主の発言の続出と、退任時点の資本金6000万円
    • [53]長尾良吉氏の半年での辞任と1930年6月の満49歳の津田信吾氏の社長就任
    • [54]1934年1月の株主総会で報告された1933年度の輸出綿製品に占める生地2割9分・晒2割2分・加工4割9分の構成
    • [55]1931年春のアレクサンドリアおよびブエノスアイレスへの駐在員派遣の決定
  • 鐘紡百年史(1988年)所収 武藤山治『紡績大合同論』(1901年)
    • [40]価格引き上げの手段とする理解を退け、資本の集中と管理により製造費用と原価を下げるものとしたトラストの定義
    • [41]紡績63社の総錘数129万5598錘、1社平均2万565錘、平均を下回る29社
  • 日経ビジネス 1999年9月27日号
    • [56]半官半民の日本製鉄を除いた売上高での日本一

第2章 1937年〜 鐘淵化学工業の分離と博多など3工場の閉鎖鐘淵工業への統合から鐘淵化学の分離による繊維専業化へ

筆者考察y.sugiura, author

1936年に売上高で日本一になった会社が、10年後には紡績10社で最大の損失を抱えていた。津田信吾が樺太の炭鉱を買い、尼崎製鉄の株の半分を持ち、鐘淵実業に繊維以外を集めたのは、国策への迎合というより、繊維が平和産業として片隅へ追いやられる時代に事業を生き延びさせる算段だった。だがその算段は、資産を戦地と外地へ置くことで成り立っていた。1944年に鐘紡と鐘淵実業が合併してできた鐘淵工業は、発足初年で外部負債が自己資本の2.22倍に達している。会社が膨らませたのは事業の中身ではなく、回収の当てのない資産だった。紡機は供出され、残った設備は終戦時に戦前の1割強まで削られている。

敗戦が奪ったのは大陸の工場だけではない。持株会社の指定で子会社との資本の絆が切れ、公職追放で経営陣が入れ替わり、再建整備は資本金の9割を切り捨てよと迫った。武藤絲治がそれを拒み、化学工業を第二会社として切り出して繊維一本へ戻した判断は、会社の信用を守った代わりに、返すべき借金を全部負うことを意味した。朝鮮動乱の4割配当も、その借金を消すには足りない。1959年の安定五カ年計画が掲げた自己資本3対他人資本7を5対5へという目標は、繊維専業へ戻った会社が背負った戦後の実体そのものだった。伝統を守るという選択の値段は、この比率として残った。

綿紡設備の錘数 日中戦争期の最大から終戦時の残存、朝鮮動乱期の復元まで(錘)

1,206,876 1937 1,312,096 1942 157,808 1945 415,426 1950 581,234 1951

1937年〜国策に沿った事業の膨張と鐘淵工業への統合

1937年の日中戦争を境に、津田信吾社長は繊維以外の事業へ急速に参入した。重化学工業は資源を持たなければ砂上の楼閣だという考えから、藤田組の宮原清氏の仲介で樺太の炭鉱を譲り受け、同年6月に樺太採炭を設立して鉱業へ踏み出した。採掘は順調に進み、三年後には年間50万トンの生産をあげた。原料炭の引き取り手として目をつけたのが尼崎製鉄で、コークス炉の資金に窮していた同社へ常務の城戸季吉氏を送り、資金が足りないなら鐘紡が出してもよいと申し入れた。1938年8月、鐘紡が2分の1、尼崎製鉄と久保田鉄工が残りを折半し、三者の共同経営が成った。同じ1938年、繊維以外の事業を担う別会社として資本金6000万円の鐘淵実業を設立した。

  • 鐘紡百年史(鐘紡株式会社、1988年)
    • [57]1937年の日中戦争を契機とする鐘紡の重化学工業関係事業への転進
    • [58]資源を持たなければ砂上の楼閣との考えにもとづく藤田組の宮原清氏への協力依頼と、1937年6月の樺太採炭の設立
    • [59]樺太採炭の操業開始から三年後の年間50万トンの生産
    • [60]コークス炉の資金に窮していた尼崎製鉄への城戸季吉氏の派遣と出資の申し入れ
    • [61]1938年8月の鐘紡2分の1・尼崎製鉄・久保田鉄工による尼崎製鉄の三者共同経営
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「鐘淵紡績」の項
    • [62]1938年の鐘淵実業の設立と資本金6000万円

本業の紡績は、平和産業として次第に統制の片隅へ追いやられた。1940年11月の紡聯聯合協議会は、一企業50万錘を単位として加盟77社を14ブロックへ統合する企業整備要綱を可決し、1941年3月に第一次統合が完遂した。1943年1月には企業単位を100万錘とする第三次統合が決まり、鐘紡・東洋紡・大日本紡ら十大紡の体制ができた。1942年1月からは登録設備の2割供出が始まり、供出は第四次まで重ねられて、全国の紡績操業錘数は1937年の1255万錘から1944年5月には359万錘へ、7割強が失われた。鐘紡の綿紡設備も1942年上期の131万2096錘・織機1万3745台を最高に、終戦時には15万7808錘・織機2847台を残すのみとなった。磨き上げた紡機が従業員の注視のなかで破砕されることもあった。

  • 鐘紡百年史(鐘紡株式会社、1988年)
    • [63]平和産業と目された紡績業の逼塞と、戦時統制下での整理縮小
    • [64]1940年11月の企業統合要綱の可決と、一企業50万錘・加盟77社を14ブロックとする統合、1941年3月の第一次統合の完遂
    • [65]1943年1月に決定した企業単位100万錘の第三次統合と十大紡の成立
    • [66]1942年1月からの登録設備2割供出と、全国紡績操業錘数の1937年1255万錘から1944年5月359万錘への減少
    • [67]鐘紡の綿紡設備の1942年上期131万2096錘・織機1万3745台から終戦時15万7808錘・織機2847台への減少
    • [68]従業員の注視のなかで紡績機械が破砕されたこと

1943年8月10日の役員会で鐘紡と鐘淵実業を合併して新会社を設ける件が承認され、同年11月2日の臨時株主総会で両社とも合併案を可決した。合併の趣旨は、国家の要請に応えて戦力を増すことにあると同年12月の定時株主総会で示された。1944年2月1日、資本金3億2400万円の鐘淵工業株式会社が発足した。事業を縮小して設備を転売し利息に依存するのは事業会社の本意ではなく、現有の繊維を確保したうえで余力は戦力増強へ投じ、あわせて戦後の再起のために資産を守るべきだというのが、その年の総会で述べた考えだった。第1回決算は1917万3000円の利益を計上して8分配当を行ったが、自己資本2億9894万円に対して外部負債は6億6492万円、負債比率は2.22倍に達していた。

  • 鐘紡百年史(鐘紡株式会社、1988年)
    • [69]1943年8月10日の役員会での合併承認と、同年11月2日の臨時株主総会における鐘紡・鐘淵実業両社の合併案可決
    • [70]1943年12月の定時株主総会で示された、国家の要請に応え戦力を増すための鐘淵実業との合併という新会社設立の趣旨
    • [73]鐘淵工業第1回決算の利益1917万3000円・8分配当と、自己資本2億9894万円に対する外部負債6億6492万円・負債比率2.22倍
  • 株式会社年鑑 1959年版「鐘淵紡績」
    • [71]1944年2月1日の鐘淵工業株式会社の発足と資本金3億2400万円
  • 鐘紡百年史(1988年)所収 石黒英一「大河」
    • [72]1943年6月26日の総会における、現有の繊維工業を確保し余力を戦力増強へ投じつつ戦後の再起に資産を守るべきとする津田信吾氏の演説
参考文献[57]-[73]
  • 鐘紡百年史(鐘紡株式会社、1988年)
    • [57]1937年の日中戦争を契機とする鐘紡の重化学工業関係事業への転進
    • [58]資源を持たなければ砂上の楼閣との考えにもとづく藤田組の宮原清氏への協力依頼と、1937年6月の樺太採炭の設立
    • [59]樺太採炭の操業開始から三年後の年間50万トンの生産
    • [60]コークス炉の資金に窮していた尼崎製鉄への城戸季吉氏の派遣と出資の申し入れ
    • [61]1938年8月の鐘紡2分の1・尼崎製鉄・久保田鉄工による尼崎製鉄の三者共同経営
    • [63]平和産業と目された紡績業の逼塞と、戦時統制下での整理縮小
    • [64]1940年11月の企業統合要綱の可決と、一企業50万錘・加盟77社を14ブロックとする統合、1941年3月の第一次統合の完遂
    • [65]1943年1月に決定した企業単位100万錘の第三次統合と十大紡の成立
    • [66]1942年1月からの登録設備2割供出と、全国紡績操業錘数の1937年1255万錘から1944年5月359万錘への減少
    • [67]鐘紡の綿紡設備の1942年上期131万2096錘・織機1万3745台から終戦時15万7808錘・織機2847台への減少
    • [68]従業員の注視のなかで紡績機械が破砕されたこと
    • [69]1943年8月10日の役員会での合併承認と、同年11月2日の臨時株主総会における鐘紡・鐘淵実業両社の合併案可決
    • [70]1943年12月の定時株主総会で示された、国家の要請に応え戦力を増すための鐘淵実業との合併という新会社設立の趣旨
    • [73]鐘淵工業第1回決算の利益1917万3000円・8分配当と、自己資本2億9894万円に対する外部負債6億6492万円・負債比率2.22倍
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「鐘淵紡績」の項
    • [62]1938年の鐘淵実業の設立と資本金6000万円
  • 株式会社年鑑 1959年版「鐘淵紡績」
    • [71]1944年2月1日の鐘淵工業株式会社の発足と資本金3億2400万円
  • 鐘紡百年史(1988年)所収 石黒英一「大河」
    • [72]1943年6月26日の総会における、現有の繊維工業を確保し余力を戦力増強へ投じつつ戦後の再起に資産を守るべきとする津田信吾氏の演説

1945年〜敗戦による資産の喪失と再建整備を通じた繊維専業への縮退

敗戦によって残ったのは内地の27工場だけで、その多くが戦災の傷を負い、大陸の事業場はすべて失われた。綿部門で操業を続けられたのは西大寺と洲本の二工場にとどまり、兵庫・大阪・和歌山の三工場は戦災で全滅した。焼け跡を整理すると紡機およそ4万6400錘が修理すれば再び使える見込みが立ち、各工場の応援を得て搬出に着手した。原料は先細り、電力も平常どおりには来ず、従業員の給食用の食糧すら正規の方法では手に入らなかったため、各工場は空地を耕して自給農場とした。1946年5月30日、商号を鐘淵工業から鐘淵紡績へ戻した。占領下の綿業には、原料代と食糧輸入代金を稼ぐ産業として他に優先する再建措置がとられていた。

  • 鐘紡百年史(鐘紡株式会社、1988年)
    • [74]敗戦時に残った内地27工場と、大陸の事業場の全喪失
    • [75]終戦時も操業を継続した西大寺・洲本の二工場と、戦災で全滅した兵庫・大阪・和歌山の三工場
    • [76]戦災工場の焼け跡から修理により再使用可能と見込まれた紡機約4万6400錘の搬出
    • [77]原料・電力・給食用食糧の不足と、各工場における空地の耕地化による自給
    • [79]原料代金と食糧輸入代金を賄う占領政策上の見地から綿紡績業にとられた他産業に優先する再建措置
  • 株式会社年鑑 1959年版「鐘淵紡績」
    • [78]1946年5月30日の鐘淵工業株式会社から鐘淵紡績株式会社への商号復帰

1946年1月のGHQの指令にもとづく公職追放令は、翌年の改正で戦時中の資本金1億円以上の会社の首脳をほとんど該当させるものとなった。鐘紡でも倉知社長以下4名の常務が対象となり、指名を待たずに辞任した。1947年6月25日の取締役会で、武藤山治氏の次男で厚生部・人事部・絹業部の各部長を歴任した武藤絲治氏が社長に就任した。会社は1946年6月に制限会社、同年12月7日に持株会社の指定を受け、関係会社の株式は持株会社整理委員会への譲渡を命じられて、子会社との資本の絆は断たれた。1947年7月の概算で特別損失は総損失11億5352万円に上り、総利益4億5340万円と評価益2億1527万円を戻し入れてもなお4億8485万円が残った。敗戦の痛手は紡績10社で最大だった。追放と指定と損失が同時に来たこの時期、経営に残された問いは何を捨てるかだけだった。

  • 鐘紡百年史(鐘紡株式会社、1988年)
    • [80]1946年1月のGHQ指令にもとづく公職追放令と、翌年の改正による戦時中の資本金1億円以上の会社首脳への適用拡大
    • [81]倉知社長以下4名の常務取締役の追放指名と、指名を待たない辞任
    • [82]1947年6月25日の取締役会における武藤絲治氏の社長就任と、厚生部・人事部・絹業部長の歴任
    • [83]1946年6月の制限会社指定と同年12月7日の持株会社指定、持株会社整理委員会への関係会社株式の譲渡命令
    • [84]1947年7月概算の総損失11億5352万円と、総利益4億5340万円・評価益2億1527万円を戻し入れてなお残る4億8485万円の損失
    • [85]戦時中の積極経営と軍需転換の大きさによる、紡績10社で最大の敗戦の痛手

損失の処理には資本金の9割と旧債権の20.8%を打ち切ることが要るという計算になり、法規で許されている以上は断行して再出発すべきだという意見が役員のあいだで多数を占めた。武藤絲治氏はこれに正面から反対し、株主と債権者へ迷惑をかけるのは忍び難いとして退けた。1949年4月25日に企業再建整備計画の認可を申請し、同年6月14日に認可を得た。繊維以外の木材・造機・鉱山の三事業は廃業とし、化学工業・製薬・化粧品など7つの事業場を分離して、1949年9月1日、資本金2億円の全額を現物出資して鐘淵化学工業を設立した。紡績10社の整備計画で鐘紡だけが突出した差引損失を計上したが、当初見込まれた減資と債務の切捨ては行わずに処理した。資本金は1949年3月に5億2400万円、同年11月に16億3000万円へ増えた。

  • 鐘紡百年史(鐘紡株式会社、1988年)
    • [86]資本金の90%と旧債権の20.8%の打切りを要するという処理見込みと、断行を求める役員の多数意見
    • [87]株主・債権者への迷惑を忍び難いとして減資と債権切捨てに反対した武藤絲治氏の判断
    • [88]1949年4月25日の企業再建整備計画認可申請と同年6月14日の認可
    • [90]紡績10社の整備計画における鐘紡の突出した差引損失と、減資・債務切捨てを行わない処理
  • 鐘紡百年史(1988年)所収『変革と創造・鐘淵化学二〇年史』
    • [89]木材・造機・鉱山の三事業の廃業と、化学工業・製薬・化粧品など7事業場の分離による1949年9月1日の鐘淵化学工業の設立、資本金2億円の全額現物出資
  • 株式会社年鑑 1959年版「鐘淵紡績」
    • [91]1949年3月の資本金5億2400万円への増資と同年11月の16億3000万円への増資
参考文献[74]-[91]
  • 鐘紡百年史(鐘紡株式会社、1988年)
    • [74]敗戦時に残った内地27工場と、大陸の事業場の全喪失
    • [75]終戦時も操業を継続した西大寺・洲本の二工場と、戦災で全滅した兵庫・大阪・和歌山の三工場
    • [76]戦災工場の焼け跡から修理により再使用可能と見込まれた紡機約4万6400錘の搬出
    • [77]原料・電力・給食用食糧の不足と、各工場における空地の耕地化による自給
    • [79]原料代金と食糧輸入代金を賄う占領政策上の見地から綿紡績業にとられた他産業に優先する再建措置
    • [80]1946年1月のGHQ指令にもとづく公職追放令と、翌年の改正による戦時中の資本金1億円以上の会社首脳への適用拡大
    • [81]倉知社長以下4名の常務取締役の追放指名と、指名を待たない辞任
    • [82]1947年6月25日の取締役会における武藤絲治氏の社長就任と、厚生部・人事部・絹業部長の歴任
    • [83]1946年6月の制限会社指定と同年12月7日の持株会社指定、持株会社整理委員会への関係会社株式の譲渡命令
    • [84]1947年7月概算の総損失11億5352万円と、総利益4億5340万円・評価益2億1527万円を戻し入れてなお残る4億8485万円の損失
    • [85]戦時中の積極経営と軍需転換の大きさによる、紡績10社で最大の敗戦の痛手
    • [86]資本金の90%と旧債権の20.8%の打切りを要するという処理見込みと、断行を求める役員の多数意見
    • [87]株主・債権者への迷惑を忍び難いとして減資と債権切捨てに反対した武藤絲治氏の判断
    • [88]1949年4月25日の企業再建整備計画認可申請と同年6月14日の認可
    • [90]紡績10社の整備計画における鐘紡の突出した差引損失と、減資・債務切捨てを行わない処理
  • 株式会社年鑑 1959年版「鐘淵紡績」
    • [78]1946年5月30日の鐘淵工業株式会社から鐘淵紡績株式会社への商号復帰
    • [91]1949年3月の資本金5億2400万円への増資と同年11月の16億3000万円への増資
  • 鐘紡百年史(1988年)所収『変革と創造・鐘淵化学二〇年史』
    • [89]木材・造機・鉱山の三事業の廃業と、化学工業・製薬・化粧品など7事業場の分離による1949年9月1日の鐘淵化学工業の設立、資本金2億円の全額現物出資

1950年〜朝鮮動乱の高収益とその反動が残した借入金依存の資本構成

1950年6月の朝鮮動乱で基調は一変し、GHQが繊維各部門の復興中間目標の許容限度を相次いで解除したため、設備の増強は自由になった。鐘紡の綿紡は1950年7月に41万5426錘の復元目標を達成したのち、一年で16万5808錘を足して58万1234錘まで約4割を増した。1950年7月には日本セルローズ工業を吸収合併して、戦時に陸軍製絨廠として買収された防府工場が戻り、化繊工業が再び加わった。綿糸の生産は1950年上期の9万1000梱から1951年上期の15万7200梱へ7割3分伸び、販売高は94億9000万円から247億1000万円へ2.6倍になった。1950年下期の純益は40億円を超え、株主配当は1950年3月期の1割8分から1951年9月期には4割に達した。

  • 鐘紡百年史(鐘紡株式会社、1988年)
    • [92]1950年6月の朝鮮動乱勃発とGHQによる繊維各部門の復興中間目標の許容限度の解除
    • [93]1950年7月の紡機41万5426錘の復元目標達成と、一年間の16万5808錘の増設による58万1234錘への増加
    • [94]1950年7月の日本セルローズ工業の吸収合併と、陸軍製絨廠として買収されていた防府工場の復帰
    • [95]綿糸生産の1950年上半期9万1000梱から1951年上半期15万7200梱への7割3分の増加
    • [96]販売高の1950年上半期94億9000万円から1951年上半期247億1000万円への増加
    • [97]1950年下半期の純益40億円超と、株主配当の1950年3月期1割8分から1951年9月期4割への上昇

動乱によるブームは1951年6月に始まった休戦交渉の進行とともに終わり、輸出は停滞して滞貨が急増した。鐘紡が1952年に採算の合わない事業を整理し、彦根工場の麻紡績を梳毛・紡毛に切り替え、製糸10工場から甲佐と八幡浜を外し、山科工場の絹靴下部門と彦根撚糸工場も閉じたのと同じ頃、業界では1952年3月から通産省の行政措置である操短勧告によって各社がおよそ2割を減産し、戦後で初めてのこの操業短縮は1953年5月末まで15カ月に及んだ。製糸部門は綿紡を目安に賃金を決めていたので、競合する郡是・片倉らより賃金水準がかなり高く、赤字から抜け出せずにいたため、部門を切り離して独立させる案を人事部調査係長の伊藤淳二氏が出した。人員整理を一切しない見返りに男子2割・女子3割の賃金引き下げを受け入れる条件で労働組合と話がまとまって1958年7月1日に鐘淵蚕糸が発足すると、製糸は一年で黒字になった。

  • 鐘紡百年史(鐘紡株式会社、1988年)
    • [98]1951年6月の休戦交渉開始に伴うブームの終息と、輸出の停滞・滞貨の急増
    • [99]1952年の彦根工場の麻紡績の梳毛・紡毛への転換、甲佐・八幡浜両製糸工場の閉鎖、山科工場絹靴下部門と彦根撚糸工場の閉鎖
    • [100]1952年3月からの通産省の操短勧告による各社約2割の生産制限と、1953年5月末まで15カ月続いた戦後最初の操業短縮
    • [101]綿紡に基準を置いた製糸部門の賃金が郡是・片倉ら競争会社の水準を上回り赤字部門となっていたこと
    • [102]人事部調査係長の伊藤淳二氏による製糸部門の分離独立の提案
    • [103]人員整理を行わない代わりに男子20%・女子30%の賃下げを受け入れる条件での労使妥結と、1958年7月1日の鐘淵蚕糸の分離独立
    • [104]分離独立から一年での製糸部門の黒字転換

再評価積立金に積まれた評価差益は40億9500万円に上った。1950年8月29日の臨時株主総会が資産再評価法による再評価を決め、6億3361万円だった固定資産を7.45倍の47億2861万円に評価し直した結果である。積立金が増えたことで社債を出せる枠も広がり、同じ総会は45億円の社債を何回かに分けて出すと決めた。ただ、自己資本と他人資本の比は3対7から動かず、戦後の復興期に借り入れた資金の利払いが、不況が来るたびに収益を圧迫した。1958年度下期の内部留保は40億円だったが、同業他社はその2倍から4倍を蓄えていた。1959年10月25日、鐘紡は安定五カ年計画を発表し、長短借入金と社債200億円のうち100億円を返して資本構成を紡績9社平均の5対5へ改めると定めた。半期224億円の売上高と13.6%の売上利益率を置いた計画は、二期で売上を約21%上回った。借りた金で三大紡に残った会社が次に問うたのは、何を作るかではなく、どう身軽になるかだった。

  • 鐘紡百年史(鐘紡株式会社、1988年)
    • [105]1950年8月29日の臨時株主総会における資産再評価の決議と、固定資産6億3361万円の47億2861万円への7.45倍の評価換え、評価差益40億9500万円の再評価積立金計上
    • [106]再評価積立金の計上による社債発行枠の増加と、45億円の社債を数回に分けて発行する決議
    • [107]自己資本3対他人資本7の資本構成と、戦後復興期の借入金の金利負担による収益の圧迫
    • [108]1958年度下期の鐘紡の内部留保40億円と、同業他社の2〜4倍の保有
    • [109]1959年10月25日発表の安定五カ年計画と、長短借入金・社債200億円のうち100億円の返済による紡績9社平均5対5への資本構成の改善
    • [110]半期224億円の売上高・売上利益率13.6%の計画と、二期実績での約21%の売上超過
参考文献[92]-[110]
  • 鐘紡百年史(鐘紡株式会社、1988年)
    • [92]1950年6月の朝鮮動乱勃発とGHQによる繊維各部門の復興中間目標の許容限度の解除
    • [93]1950年7月の紡機41万5426錘の復元目標達成と、一年間の16万5808錘の増設による58万1234錘への増加
    • [94]1950年7月の日本セルローズ工業の吸収合併と、陸軍製絨廠として買収されていた防府工場の復帰
    • [95]綿糸生産の1950年上半期9万1000梱から1951年上半期15万7200梱への7割3分の増加
    • [96]販売高の1950年上半期94億9000万円から1951年上半期247億1000万円への増加
    • [97]1950年下半期の純益40億円超と、株主配当の1950年3月期1割8分から1951年9月期4割への上昇
    • [98]1951年6月の休戦交渉開始に伴うブームの終息と、輸出の停滞・滞貨の急増
    • [99]1952年の彦根工場の麻紡績の梳毛・紡毛への転換、甲佐・八幡浜両製糸工場の閉鎖、山科工場絹靴下部門と彦根撚糸工場の閉鎖
    • [100]1952年3月からの通産省の操短勧告による各社約2割の生産制限と、1953年5月末まで15カ月続いた戦後最初の操業短縮
    • [101]綿紡に基準を置いた製糸部門の賃金が郡是・片倉ら競争会社の水準を上回り赤字部門となっていたこと
    • [102]人事部調査係長の伊藤淳二氏による製糸部門の分離独立の提案
    • [103]人員整理を行わない代わりに男子20%・女子30%の賃下げを受け入れる条件での労使妥結と、1958年7月1日の鐘淵蚕糸の分離独立
    • [104]分離独立から一年での製糸部門の黒字転換
    • [105]1950年8月29日の臨時株主総会における資産再評価の決議と、固定資産6億3361万円の47億2861万円への7.45倍の評価換え、評価差益40億9500万円の再評価積立金計上
    • [106]再評価積立金の計上による社債発行枠の増加と、45億円の社債を数回に分けて発行する決議
    • [107]自己資本3対他人資本7の資本構成と、戦後復興期の借入金の金利負担による収益の圧迫
    • [108]1958年度下期の鐘紡の内部留保40億円と、同業他社の2〜4倍の保有
    • [109]1959年10月25日発表の安定五カ年計画と、長短借入金・社債200億円のうち100億円の返済による紡績9社平均5対5への資本構成の改善
    • [110]半期224億円の売上高・売上利益率13.6%の計画と、二期実績での約21%の売上超過

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出典・参考 11件
出典・参考
  • 鐘紡 有価証券報告書【沿革】
  • 鐘紡百年史(鐘紡株式会社、1988年)
  • 鐘紡百年史(1988年)所収「新撰東京名所図会」東京本店見聞記
  • 鐘紡百年史(1988年)所収 武藤山治「私の身の上話」
  • 鐘紡百年史(1988年)所収 武藤山治『紡績大合同論』(1901年)
  • 鐘紡百年史(1988年)所収 石黒英一「大河」
  • 鐘紡百年史(1988年)所収『変革と創造・鐘淵化学二〇年史』
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「鐘淵紡績」の項
  • 株式会社年鑑 1959年版「鐘淵紡績」
  • 『企業の歴史 : 明治百年』(経済春秋社編、1968)
  • 日経ビジネス 1999年9月27日号

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