1887年〜 紡績大合同論と日本最大の繊維企業への到達
- 1887年東京綿商社を創業
- 1893年中上川彦次郎氏が社長就任
- 1900年紡績大合同論を提唱。企業買収を積極化
- 1901年総合繊維メーカーを志向
- 1933年鐘紡が日本企業で売上高1位へ
- 1946年武藤絲治が鐘紡の社長に就任
- 1949年化学部門を分離・鐘淵化学工業を設立
鐘紡の業績推移:単体
出所:有価証券報告書等
東京綿商社から鐘ヶ淵紡績への業態転換
1887年、三越・大丸・白木・荒尾・奥田の五社が出資する形で、合資会社東京綿商社が東京日本橋に設立された。出資した綿商の系譜は、東京で繰綿問屋を営んでいた三越・白木屋・大丸などの前身に連なる。当初の主業である綿花輸入の仲介業は取扱量が思うように伸びず、早い段階で商社から製造業への転換が経営方針として定まった。英国から輸入したリング式紡績機を、武蔵国葛飾郡隅田村鐘ヶ淵にある3万余錘規模の工場へ据え付け、1889年8月に鐘ヶ淵紡績会社として発足した。西洋の城廓を想わせる華麗な工場建物は世評に「紡績大学校」とまで呼ばれた。しかし、3万錘という当時としては工場を適切に管理できる紡績技術者は国内にはおらず、操業開始の直後から赤字が累積した。創業期の人材不足が、後の経営介入を呼び込む下地となった。 [1][2][3]
- 『企業の歴史 : 明治百年』(経済春秋社編、1968)
- [1]出資した綿商は東京で繰綿問屋を営んでいた三越・白木屋・大丸などの前身に連なる
- [2]鐘ヶ淵の工場は3万余錘規模だった
- [3]西洋の城廓を想わせる華麗な工場建物は世評に「紡績大学校」と呼ばれた
1893年、三井財閥の中上川彦次郎が鐘ヶ淵紡績の社長に就任し、増資と費用削減によって経営を立て直す方針を掲げた。中上川は支那大陸の大市場開拓を目指して神戸に兵庫支店工場を建設した。その設備は4万錘、工場用地は3万8000余坪に及んだ。建設の一切を委ねる支配人には、当時三井銀行神戸支店にいた28歳の武藤山治を抜擢した。東京と兵庫の二拠点による生産体制の確立によって綿糸の生産量は拡大し、解散寸前とまで評された鐘紡の経営は立て直された。1901年10月に中上川が世を去った後、その理想と情熱は武藤山治に継承された。三井側から送り込まれた経営者が短期間で会社の方向性を書き換えた事実は、以後の鐘紡の人事の伝統を決める源流となった。 [4][5][6]
- 『企業の歴史 : 明治百年』(経済春秋社編、1968)
- [4]中上川は支那大陸の市場開拓を目指し神戸に設備4万錘・用地3万8000余坪の兵庫支店工場を建設した
- [5]三井銀行神戸支店にいた28歳の武藤山治が兵庫支店工場建設の支配人に抜擢された
- [6]1901年10月に中上川会長が世を去り理想と情熱は武藤山治に継承された
- 『企業の歴史 : 明治百年』(経済春秋社編、1968)
- [1]出資した綿商は東京で繰綿問屋を営んでいた三越・白木屋・大丸などの前身に連なる
- [2]鐘ヶ淵の工場は3万余錘規模だった
- [3]西洋の城廓を想わせる華麗な工場建物は世評に「紡績大学校」と呼ばれた
- [4]中上川は支那大陸の市場開拓を目指し神戸に設備4万錘・用地3万8000余坪の兵庫支店工場を建設した
- [5]三井銀行神戸支店にいた28歳の武藤山治が兵庫支店工場建設の支配人に抜擢された
- [6]1901年10月に中上川会長が世を去り理想と情熱は武藤山治に継承された
紡績大合同論が生んだ日本一企業への道
武藤山治は群小紡乱立の国家的不利を洞察して「紡績大合同論」を提唱し、経営体力の乏しい中小紡績会社を買収したうえで、設備の更新と運営方法の改善によって再建する事業モデルを業界の内外に示した。1899年以降は紡績会社の買収を重ね、1911年には絹糸紡績の買収にも踏み切った。鐘紡が合併買収したものは明治大正の両期だけでも上海紡績以下15社26工場に及び、国内外の主要工場を一つの企業体の傘下に束ねる垂直的な事業体制が、こうして形づくられた。規模の拡大は原料綿花の大量一括調達を可能にし、購買条件の改善を通じて生産コストの引き下げにも効いた。1964年のダイヤモンド臨時増刊は鐘紡の不況対策を、武藤山治が掲げた「万事人間本位」の経営理念の所産として評価した(ダイヤモンド臨時増刊 1964/3/10)。業界の価格支配力を握る基盤が、この過程で形成された。 [7][8]
- 『企業の歴史 : 明治百年』(経済春秋社編、1968)
- [7]武藤山治が群小紡乱立の不利を洞察して紡績大合同論を提唱した
- [8]鐘紡は明治大正両期だけで上海紡績以下15社26工場を合併買収した
1933年、鐘紡は全業種の売上高ランキングで首位に立ち、王子製紙や大日本製糖を上回る日本最大の企業となった。全国に30を超える工場を抱え、従業員は数万人規模に達した。しかし、この過剰な拡張は後年の経営課題の下地にもなった。全国に分散した工場群と大量の雇用は、事業環境が急変したときの縮小や撤退を難しくする硬直性を内側に抱えていた。戦後も30を超える工場と数万人の従業員を抱えたまま朝鮮特需を迎え、1951年4月期には利益率約24パーセントを記録した。ただしこれは市況上昇による一過性の好業績にすぎず、高雇用と多工場を支え続ける収益力が定着したわけではなかった。武藤絲治が「失敗の深い谷があり、険しい山があって、成功の山の頂にのぼることの容易ならぬことを知りました」(歴史を作る人々 1967)と述懐したのは、当時の危うい繁栄を指していた。 [9]
- 会社年鑑
- [9]1951年4月期に利益率約24パーセントを記録した
- 『企業の歴史 : 明治百年』(経済春秋社編、1968)
- [7]武藤山治が群小紡乱立の不利を洞察して紡績大合同論を提唱した
- [8]鐘紡は明治大正両期だけで上海紡績以下15社26工場を合併買収した
- 会社年鑑
- [9]1951年4月期に利益率約24パーセントを記録した