背景:経営体制の交代と多角化圧力の高まり
1960年代後半、鐘淵紡績は繊維事業の収益性低下と組織規模の肥大化という課題に直面していた。合成繊維分野では競争が激化し、従来の主力であった天然繊維も市況変動の影響を強く受ける状況にあった。こうした中で、創業期以来経営に関与してきた武藤家は経営の第一線から退き、1968年に労務部長出身の伊藤淳二が45歳で社長に就任した。
伊藤は社内調整能力に長け、労使関係の安定化を主導してきた人物であった。一方で、この経営交代は社内政治の帰結でもあり、従来の繊維中心経営からの転換を進める体制が整えられた。事業構造の転換は避けられない課題と認識される一方、巨大化した組織を急激に縮小する選択肢は現実的ではなく、雇用維持を前提とした新たな経営構想が求められていた。
決断:ペンタゴン経営の提唱と事業領域の再編
1967年、鐘紡は「ペンタゴン経営」を提唱し、事業構成を繊維、住宅、食品、化粧品、医薬品の五分野とする方針を掲げた。この構想の特徴は、従来は天然繊維、化学繊維、合成繊維に分けて管理していた繊維事業を一つの事業として整理した点にあった。合成繊維市場も成熟局面に入り、市況の変動幅が大きくなったことから、繊維全体を一括して課題に向き合う意図があった。
同時に、繊維事業の不振を補完するため、非繊維分野への進出が加速された。化粧品と食品はすでに一定の事業基盤を持っていたが、新たに住宅と医薬品を成長領域として位置づけた。ただし、実務面では繊維部門の余剰人員を新規事業へ配置する色合いが強く、事業特性に即した人材登用や外部人材の積極活用は限定的であった。
結果:多角化経営が形成した組織風土とその帰結
ペンタゴン経営により、鐘紡は繊維依存からの脱却を掲げ、事業ポートフォリオの拡張を進めた。短期的には、事業領域の分散によって市況変動への耐性を高める効果が期待された一方、各事業の収益性や投資回収の検証は複雑化した。多角化が進むほど、全社としての業績評価は事業横断的な調整に依存する度合いを強めていった。
その過程で、規模維持と雇用維持を前提とする意思決定が常態化し、赤字事業の整理や撤退は先送りされやすい組織風土が形成された。業績目標の達成は全社的な至上命題となり、実態よりも安定的な数字を示すことが重視される傾向が強まった。この構造は、後年に表面化する会計不正を直接生んだものではないが、実態と数字の乖離を許容しやすい土壌を社内に残した。
鐘紡では、1950年代後半以降、雇用維持と地域拠点の存続が経営判断の重要な前提となった。戦前からの名門企業としての自負に加え、全国に分散した大規模工場群を抱える立場から、急激な工場閉鎖や人員整理は社会的影響が大きいと認識されていた。このため、事業環境が悪化しても、雇用を前提とした段階的な縮小や対応の先送りが選択されやすい状況が続いた。
1960年代後半、労務部門出身で労働組合との関係性が深い伊藤氏が社長に就任すると、この傾向はさらに強まった。労使関係の安定は短期的には組織運営の円滑化に寄与した一方で、雇用維持は経営判断における所与の条件として固定化された。結果として、不採算事業の整理や工場閉鎖はより慎重に扱われ、構造改革の実行速度は一段と低下した。
その結果、収益性の低下した繊維事業を中心に、固定費構造の硬直化が進行した。雇用と設備を維持したまま事業を継続するには、一定の売上規模と利益水準を示し続ける必要があったが、市況悪化や競争激化により実態としての収益力は低下していた。計画と現実の乖離は拡大し、経営管理上の緊張は数値達成へと集中していった。
この乖離を是正するガバナンスの仕組みは十分に機能しなかった。雇用維持を前提とする経営の下では、撤退や縮小による根本対応は選択肢になりにくく、短期的な数値調整が優先された。結果として、在庫操作や販売子会社への押し込みなど、実態を反映しない会計処理が黙認され、数値を整える行為が組織内で常態化した。不正会計は個人の逸脱ではなく、雇用維持を最優先する意思決定構造が長期にわたり積み重なった帰結であったと整理できる。