1887年に綿花輸入の仲介を担う東京綿商社として設立が認可された会社が起源。
武藤山治氏の紡績大合同で中小紡績を買収し、1962年に化粧品へ参入してペンタゴン経営を築いた。1933年には全業種で売上首位の日本最大企業となったが、2007年に法人格を終え、事業は花王・クラシエなどへ移った。
鐘紡を国内有数の企業へ押し上げた転機は、関西に第二の拠点を築いた1890年代の判断にある。中上川彦次郎氏は、紡績の適地はアジア大陸に近い関西と判断し、4万錘の兵庫支店工場を建設した[1][2]。その建設の全権を委ねられたのが、三井銀行神戸支店にいた28歳の武藤山治氏だった[2]。輸出市場に近い工場は、同時に経営者を鍛える場にもなった。のちに買収と工程の拡張を主導した武藤氏を思えば、関西進出は工場以上に人材への投資だった。
戦後の鐘紡で構造改革の原型となったのは、赤字の製糸部門を別会社とした1958年の分離独立だった。製糸部門は、綿紡基準の賃金が郡是・片倉など競合を上回り赤字に陥っていた[1]。伊藤淳二氏の提案で、整理をしない代わりに賃下げを受け入れる条件で労使が妥結し、鐘淵蚕糸は1年で黒字に転じた[1]。雇用を保ち賃金を競合に合わせる手法は、解雇を避けて採算を立て直す先例になった。部門の採算を明らかにする発想は、繊維専業の会社が多角化へ転じる前段の経験になった。
グレーターカネボウ計画の本質は、天然繊維への依存を成長の速い消費財で埋め合わせる、時間との競争にあった。1961年1月にカネボウ化粧品を設立して鐘淵化学工業から化粧品事業を譲り受け、1965年8月には食品事業へ参入した[5][8]。顧客も販路も異なる事業を短期間に並べ、鐘紡は消費者へ直接売る経験を化粧品で蓄えた。規模を先に追った多角化は、事業ごとの採算の差を見えにくくした。化粧品の利益で他事業の赤字を埋める関係の起点も、ここにある。
カネボウの破綻を招いたのは繊維の衰退より、化粧品の利益で他事業の赤字を覆い続けた経営だった。1996年に綿・羊毛・合繊を、1999年に医療用新薬を営業譲渡した[5]。事業を切り出しても負債は減少せず、化粧品だけが会社の信用を担う状態が続いた。2003年9月に債務超過へ転落し、2004年には化粧品事業もカネボウ化粧品へ営業譲渡した[10][5]。産業再生機構への支援要請から花王への化粧品事業の譲渡に至る処理は、会社の存続より事業の価値を優先した結論と言える。
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