1887年に綿花輸入の仲介を担う東京綿商社として設立が認可された会社が起源。
武藤山治氏の紡績大合同で中小紡績を買収し、1962年に化粧品へ参入してペンタゴン経営を築いた。1933年には全業種で売上首位の日本最大企業となったが、2007年に法人格を終え、事業は花王・クラシエなどへ移った。
鐘紡は、綿花を安く仕入れて高く売る商売から始まり、製造原価の7割を占める原綿の買い方そのものを競争の場に変えた会社である。1886年に東京の繰綿問屋五軒が作った東京綿商社は、綿花のまま売るより糸にしたほうが利が厚いと見た時点で、商社であることをやめた。しかし三万錘という規模は当時の国内の購買力に対して過大で、開業の翌年には資本金100万円をほぼ使い果たす。それを救った三井の資本は、同時に中上川彦次郎と武藤山治という二人の経営者を連れてきた。原料を安く買う腕ではなく、良い原料を確実に買う契約を三井物産と結んだことが、その後の鐘紡の型を決めた。品質の優劣を、職人の勘ではなく調達の設計で作るという型である。
良い糸は、良い原綿と熟練した職工の両方からしか出ない。武藤山治が注意凾や共済組合や職工学校に金をかけたのは博愛からだけではなく、6割から7割という職工移動率が熟練の蓄積を妨げていたからである。品質で優位を得た鐘紡が次に求めたのは規模だった。紡績大合同論が唱えたトラストは価格を吊り上げる談合ではなく、合併によって製造原価を下げる装置である。買収で錘数を積み、糸から布へ、布から漂白染色捺染へと工程を下流へ延ばし、1936年には日本製鉄を除いて売上高日本一に届いた。50年かけて、鐘紡は原料を買う位置から製品を値づける位置へ移った。ランカシャーに対抗できる加工工場を持てと言い続けた武藤の執着は、その最後の一歩だった。
1880年代半ばの東京で繰綿問屋と称したのは三越・白木屋・大丸・荒尾・奥田ら九軒で、国内の綿花相場はこの九軒が左右し、問屋の手を経なければ綿花を買い入れることもできなかった。中国綿の輸入をめぐって問屋仲間は改革派と保守派に割れ、三越・白木屋・大丸・荒尾・奥田の五店が改革派に属した。改革派は1886年11月、三越得右衛門氏を頭取として資本金10万円の東京綿商社を創立し、翌1887年2月に日本橋区本町四丁目で開業して綿花の定期売買を始めた。ところが品種改良に着手しても需要は伸びず、輸入した中国綿は各地で滞貨した。綿花のまま売るのではなく綿糸へ加工して売れば需要は増えるとの結論に至り、同年4月の臨時株主総会で資本金を100万円へ引き上げた。
工場用地は武蔵国南葛飾郡隅田村鐘ヶ淵に選ばれ、隅田川堤外の約三万坪を1万8276円で買収した。買収は難航し、火葬場を作るのだろうという風評から竹槍騒ぎまで起きて、役員は護身用の拳銃を携えたという。紡機購入を託されて渡英した農商務省技師の谷口直貞氏がリング機の代価を42万5000円と打電したとき、国内では株式が暴落して払込の見通しが立たなくなっていた。不況期に綿花の売買と紡績を一社で兼営するのは良策ではないとして、1888年8月の臨時株主総会で定款を改め、営業目的を綿糸の紡績だけに絞り、社名を鐘淵紡績会社とした。兼営に固執する株主との応酬で審議は4時間40分に及んだ。未払込の株式はすべて三井家が引き受けた。
1889年5月に操業を開始し、同年1月には東京株式取引所へ株式を上場していた。創業の年は好況に乗ったが、翌1890年の恐慌で糸価は下がり続け、5月から6月の不需要期には一梱80円を割った。大日本綿絲紡績同業聯合会は一カ月のうち八昼夜の休業を決議し、これがわが国紡績業で最初の共同操短となった。鐘紡の16番手は12月に70円台まで落ち、同年末の決算は12万3617円の損失、株価は14円から15円まで下がって、資本金100万円をほぼ使い果たした。株主のなかには解散を唱える者もいた。監査役の稲延利兵衛氏が三井家顧問の井上馨氏へ窮状を訴えて支援を取り付け、三井家は1892年1月、三井家理事の中上川彦次郎氏と朝吹英二氏を取締役へ送り込んだ。
1894年1月と2月に開いた株主総会で、設備拡張と100万円の増資が決まり、資本金は250万円に増えた。背景には中上川彦次郎氏の判断があった。東京の二工場だけにとどめず、関西はアジア大陸に近く、日本の紡績業がこれから伸びる土地はそこにあると見て、中国大陸への輸出を軸にすると決めていたのである。関西の新工場には4万錘の設備と3万8000余坪の用地が割り当てられ、その建設は、三井銀行神戸支店から移ってきた28歳の武藤山治氏が一手に任された。設計から完成までを日本人の手で行うこととし、外観を重んじた東京工場への反省から、事務所は倉庫と同居する10坪内外に留めた。同年8月に日清戦争が始まると工事の延期を進言する重役もいたが、中上川氏は建設を止めなかった。ただし国内へ発注した1300馬力の蒸気機関が半年遅れ、戦後の好況をおよそ7〜8カ月取り逃した。
紡績業では原綿が製造原価の7割を占め、利益は賃金の低位からではなく、原綿対策・加工費対策・海運対策・資本負担の軽減という経営全般の組み合わせから生まれた。国産綿花の供給が細って中国綿・インド綿・米綿への依存が進むなか、各社は産地ごとに価格の低い綿花を買い付けて一定比率で混ぜる混綿技術を持たざるを得なかった。鐘紡は1892年に同じ三井系の三井物産と原綿の特約取引契約を結んで優良な原綿を確保した。良い原綿は糸質を高めて織布工場での糸切れを減らしたため、織布業者のあいだで鐘紡の糸を求める声が高まった。1898年頃の東京本店見聞記は、鐘紡の大鳥商標がイギリス糸に拮抗し、藍魚商標が上海市場で孟買綿糸を圧していると記した。賃金ではなく原料の買い方で利幅を作る型が、ここで定まった。
明治30年前後の紡績各社は職工の移動率の高さと募集難に悩み、鐘紡の東京・兵庫両工場でも6割から7割の移動率を見ることが珍しくなかった。勤続が短ければ熟練は積まれず、品質の向上も望めない。武藤氏は職工が安んじて勤務できる環境を整え、監督にあたる職制へ職工への接し方まで指導した。1903年6月には米国の製造会社の事例に学んで注意凾制度を入れ、同年7月に社内報の鐘紡の汽笛を、翌1904年1月に工女向けの雑誌である女子の友を発行した。上役が注意書の提出を妨げたり嫌な顔をしただけでも、地位を問わず懲罰解雇すると書面で公示した。1904年にはドイツの製鋼会社の福利施設を訳させて共済組合を創設し、1905年9月には鐘紡職工学校を設けた。
1901年10月に中上川氏が死去したのち、その理想は武藤山治氏へ引き継がれた。武藤氏は同年11月、紡績各社の首脳と紡聯へ向けて紡績大合同論を著した。資本を集めて競争を妨げ製品価格を引き上げるものがトラストだという理解を誤解として退け、同種の事業を合併し、資本の集中と管理の周到さによって製造費用を減らして原価を下げるものだと定義した。当時の紡績63社の錘数は合計129万5598錘、1社平均は2万565錘にすぎず、平均を下回る会社が29社あった。鐘紡自身も上海紡績以下の買収を重ね、合併した相手は明治大正の両期だけで15社26工場に及んだ。業界の会社数は1899年末の78社から1903年末の46社へ4割減り、錘数は105万錘から126万錘へ2割増えた。
多角化は1905年の織布への進出から始まった。武藤氏が淀川工場の建設を決めたのは、イギリスと張り合うには近代科学を生かして大量生産のできる加工工場が要ると見たからで、綿布の漂白・染色・捺染を担う同工場は1916年に工事へ入り、第一工場が1918年、第二工場が1919年、第三工場が1924年に完成した。工費は約1500万円で、工場長には合併したばかりの西大寺工場を立て直した35歳の津田信吾氏が就いた。国内で初めての綿糸布加工の大工場であり、他社の製品の加工も請け負った。絹の分野へはそれより早く、1906年の京都支店工場の建設で踏み出しており、武藤氏が唱えた絹業立国はここに始まる。1921年からは生糸の生産も手がけ、各地に乾繭場と製糸所を設けた。
武藤氏は1921年に自ら発案した定款二十三条で社長の任期を三年一期・通算三期までと定め、1930年1月の定時株主総会でその定めに従って退任した。留任を求める株主の発言は相次いだが辞意は動かず、退任時の資本金は6000万円に達していた。後任の長尾良吉氏が健康を理由に半年で退き、同年6月に49歳の津田信吾氏が社長へ昇格した。津田氏が掲げた加工重点主義のもとで、1933年度の輸出綿製品は生地が2割9分まで減り、晒2割2分・加工4割9分と、加工品が7割を占めるまでになった。販路の開拓を商社任せにせず、1931年春にはアレクサンドリアとブエノスアイレスへ駐在員を置いた。1936年、鐘紡は半官半民の日本製鉄を除けば売上高で日本一の企業となった。原料の買い方から始まった品質の追求は、工程を下流へ延ばすたびに値づけの余地を広げていった。
1936年に売上高で日本一になった会社が、10年後には紡績10社で最大の損失を抱えていた。津田信吾が樺太の炭鉱を買い、尼崎製鉄の株の半分を持ち、鐘淵実業に繊維以外を集めたのは、国策への迎合というより、繊維が平和産業として片隅へ追いやられる時代に事業を生き延びさせる算段だった。だがその算段は、資産を戦地と外地へ置くことで成り立っていた。1944年に鐘紡と鐘淵実業が合併してできた鐘淵工業は、発足初年で外部負債が自己資本の2.22倍に達している。会社が膨らませたのは事業の中身ではなく、回収の当てのない資産だった。紡機は供出され、残った設備は終戦時に戦前の1割強まで削られている。
敗戦が奪ったのは大陸の工場だけではない。持株会社の指定で子会社との資本の絆が切れ、公職追放で経営陣が入れ替わり、再建整備は資本金の9割を切り捨てよと迫った。武藤絲治がそれを拒み、化学工業を第二会社として切り出して繊維一本へ戻した判断は、会社の信用を守った代わりに、返すべき借金を全部負うことを意味した。朝鮮動乱の4割配当も、その借金を消すには足りない。1959年の安定五カ年計画が掲げた自己資本3対他人資本7を5対5へという目標は、繊維専業へ戻った会社が背負った戦後の実体そのものだった。伝統を守るという選択の値段は、この比率として残った。
1937年の日中戦争を境に、津田信吾社長は繊維以外の事業へ急速に参入した。重化学工業は資源を持たなければ砂上の楼閣だという考えから、藤田組の宮原清氏の仲介で樺太の炭鉱を譲り受け、同年6月に樺太採炭を設立して鉱業へ踏み出した。採掘は順調に進み、三年後には年間50万トンの生産をあげた。原料炭の引き取り手として目をつけたのが尼崎製鉄で、コークス炉の資金に窮していた同社へ常務の城戸季吉氏を送り、資金が足りないなら鐘紡が出してもよいと申し入れた。1938年8月、鐘紡が2分の1、尼崎製鉄と久保田鉄工が残りを折半し、三者の共同経営が成った。同じ1938年、繊維以外の事業を担う別会社として資本金6000万円の鐘淵実業を設立した。
本業の紡績は、平和産業として次第に統制の片隅へ追いやられた。1940年11月の紡聯聯合協議会は、一企業50万錘を単位として加盟77社を14ブロックへ統合する企業整備要綱を可決し、1941年3月に第一次統合が完遂した。1943年1月には企業単位を100万錘とする第三次統合が決まり、鐘紡・東洋紡・大日本紡ら十大紡の体制ができた。1942年1月からは登録設備の2割供出が始まり、供出は第四次まで重ねられて、全国の紡績操業錘数は1937年の1255万錘から1944年5月には359万錘へ、7割強が失われた。鐘紡の綿紡設備も1942年上期の131万2096錘・織機1万3745台を最高に、終戦時には15万7808錘・織機2847台を残すのみとなった。磨き上げた紡機が従業員の注視のなかで破砕されることもあった。
1943年8月10日の役員会で鐘紡と鐘淵実業を合併して新会社を設ける件が承認され、同年11月2日の臨時株主総会で両社とも合併案を可決した。合併の趣旨は、国家の要請に応えて戦力を増すことにあると同年12月の定時株主総会で示された。1944年2月1日、資本金3億2400万円の鐘淵工業株式会社が発足した。事業を縮小して設備を転売し利息に依存するのは事業会社の本意ではなく、現有の繊維を確保したうえで余力は戦力増強へ投じ、あわせて戦後の再起のために資産を守るべきだというのが、その年の総会で述べた考えだった。第1回決算は1917万3000円の利益を計上して8分配当を行ったが、自己資本2億9894万円に対して外部負債は6億6492万円、負債比率は2.22倍に達していた。
敗戦によって残ったのは内地の27工場だけで、その多くが戦災の傷を負い、大陸の事業場はすべて失われた。綿部門で操業を続けられたのは西大寺と洲本の二工場にとどまり、兵庫・大阪・和歌山の三工場は戦災で全滅した。焼け跡を整理すると紡機およそ4万6400錘が修理すれば再び使える見込みが立ち、各工場の応援を得て搬出に着手した。原料は先細り、電力も平常どおりには来ず、従業員の給食用の食糧すら正規の方法では手に入らなかったため、各工場は空地を耕して自給農場とした。1946年5月30日、商号を鐘淵工業から鐘淵紡績へ戻した。占領下の綿業には、原料代と食糧輸入代金を稼ぐ産業として他に優先する再建措置がとられていた。
1946年1月のGHQの指令にもとづく公職追放令は、翌年の改正で戦時中の資本金1億円以上の会社の首脳をほとんど該当させるものとなった。鐘紡でも倉知社長以下4名の常務が対象となり、指名を待たずに辞任した。1947年6月25日の取締役会で、武藤山治氏の次男で厚生部・人事部・絹業部の各部長を歴任した武藤絲治氏が社長に就任した。会社は1946年6月に制限会社、同年12月7日に持株会社の指定を受け、関係会社の株式は持株会社整理委員会への譲渡を命じられて、子会社との資本の絆は断たれた。1947年7月の概算で特別損失は総損失11億5352万円に上り、総利益4億5340万円と評価益2億1527万円を戻し入れてもなお4億8485万円が残った。敗戦の痛手は紡績10社で最大だった。追放と指定と損失が同時に来たこの時期、経営に残された問いは何を捨てるかだけだった。
損失の処理には資本金の9割と旧債権の20.8%を打ち切ることが要るという計算になり、法規で許されている以上は断行して再出発すべきだという意見が役員のあいだで多数を占めた。武藤絲治氏はこれに正面から反対し、株主と債権者へ迷惑をかけるのは忍び難いとして退けた。1949年4月25日に企業再建整備計画の認可を申請し、同年6月14日に認可を得た。繊維以外の木材・造機・鉱山の三事業は廃業とし、化学工業・製薬・化粧品など7つの事業場を分離して、1949年9月1日、資本金2億円の全額を現物出資して鐘淵化学工業を設立した。紡績10社の整備計画で鐘紡だけが突出した差引損失を計上したが、当初見込まれた減資と債務の切捨ては行わずに処理した。資本金は1949年3月に5億2400万円、同年11月に16億3000万円へ増えた。
1950年6月の朝鮮動乱で基調は一変し、GHQが繊維各部門の復興中間目標の許容限度を相次いで解除したため、設備の増強は自由になった。鐘紡の綿紡は1950年7月に41万5426錘の復元目標を達成したのち、一年で16万5808錘を足して58万1234錘まで約4割を増した。1950年7月には日本セルローズ工業を吸収合併して、戦時に陸軍製絨廠として買収された防府工場が戻り、化繊工業が再び加わった。綿糸の生産は1950年上期の9万1000梱から1951年上期の15万7200梱へ7割3分伸び、販売高は94億9000万円から247億1000万円へ2.6倍になった。1950年下期の純益は40億円を超え、株主配当は1950年3月期の1割8分から1951年9月期には4割に達した。
動乱によるブームは1951年6月に始まった休戦交渉の進行とともに終わり、輸出は停滞して滞貨が急増した。鐘紡が1952年に採算の合わない事業を整理し、彦根工場の麻紡績を梳毛・紡毛に切り替え、製糸10工場から甲佐と八幡浜を外し、山科工場の絹靴下部門と彦根撚糸工場も閉じたのと同じ頃、業界では1952年3月から通産省の行政措置である操短勧告によって各社がおよそ2割を減産し、戦後で初めてのこの操業短縮は1953年5月末まで15カ月に及んだ。製糸部門は綿紡を目安に賃金を決めていたので、競合する郡是・片倉らより賃金水準がかなり高く、赤字から抜け出せずにいたため、部門を切り離して独立させる案を人事部調査係長の伊藤淳二氏が出した。人員整理を一切しない見返りに男子2割・女子3割の賃金引き下げを受け入れる条件で労働組合と話がまとまって1958年7月1日に鐘淵蚕糸が発足すると、製糸は一年で黒字になった。
再評価積立金に積まれた評価差益は40億9500万円に上った。1950年8月29日の臨時株主総会が資産再評価法による再評価を決め、6億3361万円だった固定資産を7.45倍の47億2861万円に評価し直した結果である。積立金が増えたことで社債を出せる枠も広がり、同じ総会は45億円の社債を何回かに分けて出すと決めた。ただ、自己資本と他人資本の比は3対7から動かず、戦後の復興期に借り入れた資金の利払いが、不況が来るたびに収益を圧迫した。1958年度下期の内部留保は40億円だったが、同業他社はその2倍から4倍を蓄えていた。1959年10月25日、鐘紡は安定五カ年計画を発表し、長短借入金と社債200億円のうち100億円を返して資本構成を紡績9社平均の5対5へ改めると定めた。半期224億円の売上高と13.6%の売上利益率を置いた計画は、二期で売上を約21%上回った。借りた金で三大紡に残った会社が次に問うたのは、何を作るかではなく、どう身軽になるかだった。
https://the-shashi.com/api/companies.json https://the-shashi.com/api/decisions.json https://the-shashi.com/api/api-manifest.json https://the-shashi.com/api/3102/company.json https://the-shashi.com/api/3102/history.json https://the-shashi.com/api/3102/ceo.json https://the-shashi.com/api/3102/financials.json https://the-shashi.com/api/3102/financials/segment.json https://the-shashi.com/api/3102/financials/pl.json https://the-shashi.com/api/3102/financials/cf.json https://the-shashi.com/api/3102/financials/bs.json https://the-shashi.com/api/3102/financials/employee.json https://the-shashi.com/api/3102/financials.csv https://the-shashi.com/api/3102/financials_history.csv 免責事項およびポリシー
事実根拠:出所(鐘紡)