創業から55年。7回の決断
| 期 | 区分 | 売上高 | 利益※ | 利益率 |
|---|---|---|---|---|
| 1971/12 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 2億円 | - | - |
| 1972/12 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 15億円 | - | - |
| 1973/12 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 38億円 | - | - |
| 1974/12 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 68億円 | - | - |
| 1975/12 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 104億円 | - | - |
| 1976/12 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 151億円 | - | - |
| 1977/12 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 225億円 | - | - |
| 1978/12 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 317億円 | - | - |
| 1979/12 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 400億円 | - | - |
| 1980/12 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 500億円 | - | - |
| 1981/12 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 604億円 | - | - |
| 1982/12 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 703億円 | - | - |
| 1983/12 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 847億円 | - | - |
| 1984/12 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 1,080億円 | - | - |
| 1985/12 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 1,188億円 | - | - |
| 1986/12 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 1,304億円 | - | - |
| 1987/12 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 1,436億円 | - | - |
| 1988/12 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 1,529億円 | - | - |
| 1989/12 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1990/12 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 1,754億円 | - | - |
| 1991/12 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 2,077億円 | - | - |
| 1992/12 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 2,126億円 | - | - |
| 1993/12 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1994/12 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 1,732億円 | 51億円 | 2.9% |
| 1995/12 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 1,971億円 | 86億円 | 4.3% |
| 1996/12 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 2,479億円 | 110億円 | 4.4% |
| 1997/12 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 2,763億円 | 110億円 | 3.9% |
| 1998/12 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 3,144億円 | 146億円 | 4.6% |
| 1999/12 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 3,285億円 | 159億円 | 4.8% |
| 2000/12 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 3,579億円 | 168億円 | 4.6% |
| 2001/12 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 3,616億円 | 101億円 | 2.7% |
| 2002/12 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 3,207億円 | -23億円 | -0.8% |
| 2003/12 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 2,998億円 | -71億円 | -2.4% |
| 2004/12 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 3,080億円 | 36億円 | 1.1% |
| 2005/12 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 3,256億円 | 0億円 | 0.0% |
| 2006/12 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 3,556億円 | 15億円 | 0.4% |
| 2007/12 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 3,950億円 | 78億円 | 1.9% |
| 2008/12 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 4,063億円 | 123億円 | 3.0% |
| 2009/12 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 3,623億円 | 128億円 | 3.5% |
| 2010/12 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 3,237億円 | 78億円 | 2.4% |
| 2011/12 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 3,023億円 | 132億円 | 4.3% |
| 2012/12 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 2,947億円 | 128億円 | 4.3% |
| 2013/12 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 2,604億円 | 51億円 | 1.9% |
| 2014/12 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 2,223億円 | -218億円 | -9.9% |
| 2015/12 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 1,894億円 | -349億円 | -18.5% |
| 2016/12 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 2,266億円 | 53億円 | 2.3% |
| 2017/12 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 2,536億円 | 240億円 | 9.4% |
| 2018/12 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 2,722億円 | 219億円 | 8.0% |
| 2019/12 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 2,817億円 | 168億円 | 5.9% |
| 2020/12 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 2,883億円 | 201億円 | 6.9% |
| 2021/12 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 3,176億円 | 239億円 | 7.5% |
| 2022/12 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 3,523億円 | 199億円 | 5.6% |
ダイエーが出資比率51%に固執して交渉が破談し、ハンバーガーという未知の商品に関心を示す食品企業も少なかった。この業界の無関心が、外食経験のない輸入雑貨商・藤田田に対して、通常5%のロイヤリティを1%に抑え契約期間30年という破格の条件を引き出す交渉余地を与えた。参入条件の有利さは、参入者の能力ではなく既存プレーヤーの不在によって決まるという構造であり、後の30年間にわたる藤田体制の経営自由度はこの初期条件の設計に規定されていた。
1969年、日本政府は第二次資本自由化を実施し、外食産業における海外企業の合弁による日本進出が解禁された。米国ではハンバーガーやフライドチキンといったファストフードが巨大な外食チェーンに成長しており、日本市場への参入機会を窺っていた。1970年にはダイエー系のドムドムバーガーが町田に1号店を開き、同年に三菱商事が米ケンタッキーと提携して名古屋で出店するなど、大手企業が次々と外食分野に参入し始めた。
当時の日本では食の洋風化が進行途上にあり、外食産業そのものが急成長するという見通しが広く共有されていた。中小企業が群雄割拠してきた外食産業に大企業が参入する時代が到来し、外資との合弁、独自資本による展開、個人商店からのチェーン化など、参入形態は多様であった。ハンバーガー市場は未開拓であるがゆえに潜在需要が大きいとみなされ、複数の企業が同時期に参入を決めた。
輸入雑貨商・藤田商店を経営する藤田田氏は、米マクドナルドの業務システムに着目した。必要なスキルをマニュアル化し、経験の浅い人材でも短期間で店舗運営を習得できる仕組みは、徒弟制度が中心だった日本の外食産業において真新しいものであった。藤田氏は米マクドナルドに日本展開の提携を申し入れたが、米国側は当初ダイエーなどの大手企業との合弁を模索していた。
しかし、ダイエーが出資比率51%にこだわったために交渉が破談し、ハンバーガーという未知の商品に関心を示す企業も少なかった。結果として藤田氏に有利な条件で交渉が進み、通常5%のロイヤリティを1%に、契約期間を30年に設定することに成功した。1971年3月、藤田商店25%・第一製パン25%・米マクドナルド50%の出資比率で日本マクドナルドが設立され、資本金は5400万円であった。
設立後まもなく資本政策の変更が行われた。藤田氏は材料メーカーの出資によって取引先が偏ることを懸念し、第一製パンの持株を買い取った。これにより日本マクドナルドは藤田商店と米マクドナルドの折半出資という形に再編された。藤田氏が社長に就任し、米国側は助言こそするものの日常経営の意思決定は日本側に一任される体制が築かれた。
この折半出資と経営一任の構造は、藤田氏が2003年頃に逝去するまでおよそ30年にわたって維持された。設立時に掲げた目標は東京都心部で1年以内に8〜10店舗の展開と年間売上高1億円であり、6000万円の設備投資が計画された。日本マクドナルドの実質的な創業者は藤田田氏であり、同社の経営スタイルを規定したのはこの設立時の合弁条件と資本構造であった。
| 日時 | 参入 | 展開会社の資本関係 |
| 1970-02 | ドムドムバーガー1号店を開店(町田) | ダイエー |
| 1970-11 | ケンタッキー1号店を開業(名古屋市) | 三菱商事+米ケンタッキー |
| 1971-07 | マクドナルド1号店を開業(銀座) | 藤田商店+米マクドナルド |
| 1972-03 | モスバーガー1号店を開業(成増) | 個人創業 |
| 1972-09 | ロッテリア1号店を開業(日本橋) | ロッテ |
ダイエーが出資比率51%に固執して交渉が破談し、ハンバーガーという未知の商品に関心を示す食品企業も少なかった。この業界の無関心が、外食経験のない輸入雑貨商・藤田田に対して、通常5%のロイヤリティを1%に抑え契約期間30年という破格の条件を引き出す交渉余地を与えた。参入条件の有利さは、参入者の能力ではなく既存プレーヤーの不在によって決まるという構造であり、後の30年間にわたる藤田体制の経営自由度はこの初期条件の設計に規定されていた。
チェーン数1000〜2000、年商150億〜2000億という巨大なレストランチェーンが、昨年秋の資本自由化で続々と日本へ上陸。ハンバーガー、フライドチキン、ドーナツなどをフランチャイズ・システムで売り込んでいる。外食の多い若者たちは喜んでいるが、食堂関係者はみな苦い顔。
当社の場合、出資比率は50対50だが、合弁会社で出資者がフェアな協力をしようと思えば、この折半出資がいちばん望ましいんじゃないですか。どちらか一方が過半数を握っていると、本当の協力関係を確立するのはむずかしい。投票すれば一方が勝つのが最初から明白ですからね。(略)
(注:対立が起きた時は)その場合は、社長が裁断すればいいんです。出資者がお互いに話し合って問題が解決できなければ社長の権限で決めるべきですよ。そのための社長ですからね。当社の場合、日常経営については一切日本側に任されています。米側本社は助言はしてますが、それを受け入れるかどうかは全くこちらの自由なわけです。常駐の米側役員がいない代わりに、その都度広告やら、資材部門へアドバイザーが派遣されてくる。
藤田田が1号店に銀座三越の国道1号線沿いを選んだ判断は、「銀座なら何処でもよい」という通念への明確な否定であった。藤田自身が語るように、三越の裏手では駐車場にしかならず、築地寄りに10メートルずれていれば1日150万円の売上は達成できなかったと推定される。立地選定は「都市」「地区」ではなくメートル単位の精度で行われるべきだという原則を、ファストフード1号店の段階で実証した点に、藤田の商人としての原理が凝縮されている。
1971年7月の銀座三越1号店の開業により、日本マクドナルドは「集客力のある外食企業」としての評判を確立した。全国の百貨店や商業施設から出店要請が相次いだが、日本マクドナルドは出店地域を東京・大阪・名古屋の三大都市圏に限定する方針を採った。テレビCMによるマーケティング効果を考慮し、広告投資の蓄積がある都市圏に集中出店することで、1店舗あたりの売上を短期的に引き上げる狙いがあった。
また、店舗運営の品質管理においては、フランチャイズではなく直営店による拡大を選択した。米マクドナルドが重視する「QCD(Quality・Cost・Delivery)」を日本でも徹底するには、本部による教育が行き届く直営体制が不可欠だという藤田田氏の判断であった。1971年にはハンバーガー大学を設置し、店舗運営人材の育成体制も整備された。1972年7月時点での出店数は12店舗であった。
多店舗展開を進める上で、原材料の調達が課題となった。1号店の開業当初は牛肉を米国から冷凍品で輸入していたが、店舗数の増加に伴い輸入だけでは調達が追いつかなくなった。加えて、農林水産省が半製品の輸入に難色を示すという規制上の問題も生じた。そこで1972年5月、日本マクドナルドは生肉専門商社のゼンチク(現・スターゼン)と本格的な取引契約を締結した。
ゼンチクは1971年の1号店開業時からオーストラリア産パティを納入して信頼を築いており、本契約に至った経緯があった。1972年7月にはマクドナルド専用の千葉工場を新設し、米マクドナルドのノウハウを導入して牛肉の冷凍加工を開始した。この工場は15〜45店舗分の牛肉需要を賄える規模であり、多店舗展開を供給面から支える基盤となった。
都市圏集中出店とサプライチェーン整備を両輪とした展開は着実に進んだ。1974年末に店舗数は58店舗に達して50店舗を突破し、1976年末には105店舗と100店舗を超えた。さらに1979年末には212店舗に到達し、創業からわずか8年で200店舗超の規模に成長した。いずれも東京・大阪・名古屋を中心とした都市圏ドミナントの展開であった。
なお、ゼンチクは日本マクドナルドとの取引を通じて業績を急拡大させ、1977年9月に東証第1部への市場変更を果たした。日本マクドナルドの成長は、サプライヤーの事業規模をも押し上げる波及効果を持っていた。直営・都市圏集中・供給体制の三つの方針が噛み合ったことで、日本マクドナルドは1970年代を通じて国内ファストフード市場における圧倒的な地位を築いた。
| 商品名 | 定価(当時) | 現在換算 |
| ハンバーガー | 72円 | 360円 |
| チーズバーガー | 90円 | 450円 |
| フィレオ・フィッシュ | 126円 | 630円 |
| フレンチフライ | 72円 | 360円 |
| ホット・アップル・パイ | 72円 | 360円 |
| ミルク | 54円 | 270円 |
| コーヒー | 54円 | 270円 |
| ホット・チョコレート | 54円 | 270円 |
| コーラ、オレンジなど | 50円 | 250円 |
藤田田が1号店に銀座三越の国道1号線沿いを選んだ判断は、「銀座なら何処でもよい」という通念への明確な否定であった。藤田自身が語るように、三越の裏手では駐車場にしかならず、築地寄りに10メートルずれていれば1日150万円の売上は達成できなかったと推定される。立地選定は「都市」「地区」ではなくメートル単位の精度で行われるべきだという原則を、ファストフード1号店の段階で実証した点に、藤田の商人としての原理が凝縮されている。
日本の商人が、念願の銀座へ進出する場合、十人のうち九人までが「銀座へ出られるならば、どこでもいい」といった考え方をする。実におおらかである。ところが、これがとんだ間違いなのだ。銀座でも商売になる場所は、ものの10メートルと離れていないのである。
たとえば、私は銀座三越の国道1号線、いわゆる銀座通りに面した場所にハンバーガーの店舗を出したが、この店を銀座三越の裏側に出していたら、こうはいかなかっただろう。三越の裏手ならば駐車場はできても、ハンバーガーを売るわけにはいかない。銀座通りの人の流れは、1丁目から4丁目までは新橋に向かって左側の往来が激しく、5丁目から8丁目にかけては、反対に右側の方が人の流れが多い。銀座でハンバーガーの店を出すなら銀座三越しかない。私は早くから心の中でそう決めていた。たとえば、私がこのマクドナルドの銀座店を、三越から築地寄りに10メートルばかりいったところへ開店していたら、1日に150万円とか200万円とかいう売上を記録できたかどうかはわからない。この10メートルは実に重要な意味を持ってくる。
マクドナルドはというと、日本の外食文化を変えるほどの進撃ぶりである。(略)日本マクドナルドの成功は、銀座三越デパートでの出店なくしてはあり得ないのである。(略)
この銀座への出店策は、各方面で大きな話題となった。というのは、従来、ファッション・タウンとしてのイメージが強かった銀座に、それも4丁目の角に位置する三越デパートの1階に、いかにもアメリカ的な感じのするハデなハンバーガー・レストランが出現し、あっという間に1日100万円台の売上を記録。他の外資系ファーストフード企業をはじめ、日本の外食ビジネスにも多くな衝撃を与えたからである。そして、このマクドナルドの銀座店の成功こそが、日本におけるフード・ビジネスの牽引力となっていったのである。
宣伝部長・高木一夫の発言は、テレビCMへの広告投資が「蓄積」として効くことを前提に、広告蓄積のない地方への1店舗出店は非効率だと明言している。この論理は出店順序に不可逆性をもたらす。先に蓄積がある都市圏に出店し、その収益で次の蓄積を作るという循環構造が、結果として地方出店を後回しにする構造的な要因となった。広告と店舗の相互依存関係が、チェーン展開の地理的優先順位を経済合理的に規定した事例である。
1971年7月の銀座三越1号店の成功により、全国の百貨店や商業施設から出店の引き合いが相次いだ。しかし日本マクドナルドは出店地域を東京・大阪・名古屋の三大都市圏に限定する判断を下した。宣伝部長の高木一夫が語るように、テレビCMへの広告投資は「蓄積」によって効果を発揮するものであり、広告活動の蓄積がない地方に1店舗だけ出しても、広告販促の恩恵を受けられないという計算であった。
加えて、藤田田はフランチャイズではなく直営による拡大を選んだ。米マクドナルドが重視するQCD(Quality・Cost・Delivery)を日本でも徹底するには、本部の教育が行き届く直営体制が不可欠だという判断であった。1971年にはハンバーガー大学を設置し、店舗運営人材の育成を体系化した。フランチャイズによる急速な展開よりも、直営による品質管理を優先する方針は、1970年代を通じた都市圏ドミナントの基盤となった。
多店舗展開における最大のボトルネックは原材料の調達であった。1号店の開業当初は牛肉を米国から冷凍品で輸入していたが、店舗数の増加に伴い輸入だけでは間に合わなくなった。農林水産省が半製品の輸入に難色を示すという規制上の問題も加わり、国内での調達・加工体制の構築が急務であった。
1972年5月、日本マクドナルドは生肉専門商社のゼンチク(現・スターゼン)と本格的な取引契約を締結した。ゼンチクの取締役・近藤氏が日本マクドナルド設立の新聞記事を見て藤田に取引を持ちかけ、1号店でオーストラリア産パティを納入して信頼を築いた経緯があった。1972年7月にはマクドナルド専用の千葉工場を新設し、米マクドナルドのノウハウを導入して15〜45店舗分の牛肉需要を賄える体制を整えた。この供給基盤のもとで店舗数は1974年末に58店舗、1976年末に105店舗、1979年末に212店舗へと拡大した。
宣伝部長・高木一夫の発言は、テレビCMへの広告投資が「蓄積」として効くことを前提に、広告蓄積のない地方への1店舗出店は非効率だと明言している。この論理は出店順序に不可逆性をもたらす。先に蓄積がある都市圏に出店し、その収益で次の蓄積を作るという循環構造が、結果として地方出店を後回しにする構造的な要因となった。広告と店舗の相互依存関係が、チェーン展開の地理的優先順位を経済合理的に規定した事例である。
新しい市場へ出ていく場合、たとえばいま北海道には1店もありませんが、ここへ1店設けても、そこから出てくるMarketing Availabilityはあまりない。つまり広告に投資できる金額は、1店舗の売り上げではいくらも出てこない。しばらくは広告宣伝ができないわけです。したがって、それよりも東京、大阪のように広告活動を開始して3年、4年たち、イメージの蓄積もあるところであれば、その店はすぐ広告販促の恩恵に浴し、売上を短期的に伸ばせる。というわけで、今年は東京、大阪、名古屋の3地区に集約していく方針です。
藤田田の逝去により藤田商店の株式が米マクドナルドに移った時点で、日本法人の経営権は米本社に帰属した。米本社が生え抜き幹部ではなく異業種の外部人材を選んだのは、経営能力の評価以上に、藤田体制30年の慣行と決別する象徴的な人事が必要だったためと推定される。「CEOは職種である」という原田氏の自己認識は、逆に言えば業界知識を持たない経営者がどこまで外食産業の構造的課題に踏み込めるかという問いを最初から内包していた。
2004年時点の日本マクドナルドは、事業面と資本面の双方で構造的な課題を抱えていた。事業面では、2000年代前半の低価格路線が行き詰まり、BSE問題による牛肉消費の減少も重なって業績が低迷した。特に、1990年代の大量出店によって老朽化した店舗や効率の悪い立地の店舗が多数存在しており、全体の収益性を押し下げる要因となっていた。
資本面では、2003年に実質創業者である藤田田氏が逝去し、藤田商店の経営への影響力が消失した。藤田家が保有していた日本マクドナルドの株式は米マクドナルド本社に移り、日本法人の経営権は実質的に米国本社の手に渡った。創業以来30年にわたって続いた藤田体制が終わり、誰が日本マクドナルドの経営を担うのかという問題が浮上した。
米マクドナルド本社は日本法人の経営刷新を図り、アップルコンピュータ日本法人の社長を歴任した原田泳幸氏をCEOに任命した。原田氏はIT業界出身であり、日本NCR、横河HP、シュルンベルジェを経てアップルに入社した経歴を持つ。外食産業とは無縁の人物であったが、「CEOは職種である」という原田氏自身の信念のもと、業界の垣根を越えた経営者登用が実現した。
この人事は、日本マクドナルドの生え抜き役員ではなく全くの外部人材を社長に据えることで、藤田商店時代の慣行からの決別を意図したものであった。原田氏は2004年に代表取締役副会長兼CEOとして就任し、翌2005年には代表取締役会長兼社長兼CEOに就任した。以後、2014年の退任まで11年にわたって日本マクドナルドの経営に携わることとなった。
原田CEOは就任後、日本マクドナルドの経営方針を大きく転換した。藤田時代に進めた低価格路線からの脱却を掲げ、高単価商品の開発、不採算店舗の閉鎖、直営店のフランチャイズ転換といった施策を打ち出した。原田氏は自らの経営手法を「戦略のナビゲーション」と表現し、全社員に明確なゴールを示した上で、そこに至るステップを具体的に伝えてリードする手法を採った。
原田体制の前半期には高単価商品のヒットや店舗改革によって業績が回復したが、後半期には高単価商品の不発やクーポン依存の常態化により再び業績が悪化した。2013年度に大幅減益に陥り、2014年に原田氏はCEOを退任した。異業種出身のプロ経営者が外食チェーンを率いた11年間は、前半の改革成果と後半の失速という二つの局面に分かれる形となった。
| 日時 | 経歴 | 備考 |
| 1972-04 | 日本NCR・入社 | |
| 1980-11 | 横河HP・入社 | |
| 1983-01 | シュルンベルジェ・入社 | |
| 1990-02 | Apple Computer JAPAN・入社 | マーケティング部長 |
| 1997-04 | アップルコンピュータ | 代表取締役社長 |
| 2004-02 | 日本マクドナルド | 代表取締役副会長兼CEO |
| 2005-03 | 日本マクドナルドHD | 代表取締役会長兼社長兼CEO |
| 2014-06 | ベネッセHD | 代表取締役会長兼社長 |
| 2016-06 | ベネッセHD | 退任(業績不振の引責) |
藤田田の逝去により藤田商店の株式が米マクドナルドに移った時点で、日本法人の経営権は米本社に帰属した。米本社が生え抜き幹部ではなく異業種の外部人材を選んだのは、経営能力の評価以上に、藤田体制30年の慣行と決別する象徴的な人事が必要だったためと推定される。「CEOは職種である」という原田氏の自己認識は、逆に言えば業界知識を持たない経営者がどこまで外食産業の構造的課題に踏み込めるかという問いを最初から内包していた。
アップルコンピュータ日本法人社長だった私が、まったくの異業種である日本マクドナルドのCEOを引き受けた背景には、「CEOは職種である」という自分の考えがあります。ある業界で高い業績を上げた営業の人が、別の業界に移っても活躍するように、CEOも「経営のプロ」として業界の垣根を越えて移籍する時代となってきました。
そのCEOの役割には大きく2つあると考えています。1つは「クリアな戦略を打ち出し、浸透させること」。戦略とは作業を一覧化した「to do リスト」ではなく、何をやり何をやらないかを決め、それを時系列的にナビゲーションすることです。マクドナルドで実践してきたのは、まず全社員に明確なゴールを示し、ゴールまでの細かいステップを分かりやすく伝え、リードすることでした。ゴールまでの道筋はまっすぐではありません。「まずは右へ行こう」、「次は山を乗り越えろ」、「ここは一目散に走れ」など、今やるべきことを細かく具体的に伝えてきました。
100円マックで集客しつつ580〜719円のセットで客単価を引き上げるという二重価格戦略は、本質的に矛盾を孕んでいた。低価格帯で来店する顧客と高単価商品を選ぶ顧客は動機が異なり、ヒット商品が途絶えた瞬間に低価格帯への回帰が起きる。クーポン依存の常態化は、この構造的な不安定性の帰結であった。同一ブランド内で7倍の価格差をつけるメニュー戦略は、客単価の改善と客層の分裂を同時にもたらす設計だったと考えられる。
2004年にCEOに就任した原田泳幸氏にとって、最大の経営課題は低価格路線からの脱却であった。1990年代後半から日本マクドナルドはハンバーガーの大幅値下げを繰り返し、客数こそ維持したものの客単価の低下が収益を圧迫していた。100円マックに代表される低価格商品は集客装置としては機能したが、利益を生む構造にはなっていなかった。
原田CEOが打ち出した方針は、低価格商品を維持しつつ高単価商品を新たに投入し、メニュー全体の単価を引き上げるというものであった。100円マックで来店した顧客に対して、より高単価な商品を選択肢として提示することで、客単価の底上げを図る。低価格路線の全面撤回ではなく、価格帯の幅を広げることで収益構造を改善する戦略であった。
高単価戦略の第一弾として、2005年10月に「えびフィレオ」を期間限定で発売した。バリューセット580円という価格設定で、肉類ではなくエビを使用したヘルシーな商品として若い女性層の支持を集め、2006年1月にレギュラーメニューに昇格した。続く2007年1月には「メガマック」を期間限定で発売し、発売直後の1月14日には全店舗の1日あたり売上高が過去最高の23億円を記録した。
商品戦略と並行して、2006年5月には「新価格体系」を導入した。100円マックやハッピーセットなど一部の据え置き商品を除き、全商品で10〜40円程度の値上げを実施した。セットメニューは380〜560円から410〜580円に、サイドメニューは150〜250円から170〜270円に引き上げられた。高単価商品の投入と既存商品の値上げを組み合わせることで、メニュー全体の収益性を改善する打ち手であった。
高単価商品の連続投入と値上げ施策は、短期的には大きな成果を上げた。2009年4月にはクォーターパウンダーを全国発売し、2010年8月には月間全店売上高が513億円に達して過去最高を更新した。エビフィレオ、メガマック、クォーターパウンダーという三つの高単価商品が相次いでヒットし、客単価の改善に寄与した。
しかし、2010年以降は新たなヒット商品を生み出すことに苦戦した。高単価商品を発表しても消費者の支持が続かず、結果としてクーポン発行による実質的な値引きが常態化した。高単価を持続できない構造が露呈し、クーポンへの依存が客単価の改善効果を相殺する形となった。高単価商品の投入は一時的な収益改善には有効であったが、持続的な価格戦略としては限界を示した。
| 商品名 | 旧価格帯 | 新価格帯 |
| セットメニュー各種 | 380〜560円 | 410〜580円 |
| 単品ハンバーガー | 80〜270円 | 80〜280円 |
| サイドメニュー | 150〜250円 | 170〜270円 |
| ドリンクメニュー | 100〜200円 | 100〜210円 |
100円マックで集客しつつ580〜719円のセットで客単価を引き上げるという二重価格戦略は、本質的に矛盾を孕んでいた。低価格帯で来店する顧客と高単価商品を選ぶ顧客は動機が異なり、ヒット商品が途絶えた瞬間に低価格帯への回帰が起きる。クーポン依存の常態化は、この構造的な不安定性の帰結であった。同一ブランド内で7倍の価格差をつけるメニュー戦略は、客単価の改善と客層の分裂を同時にもたらす設計だったと考えられる。
直営店のFC転換売却は、経営効率化であると同時に、大量出店時代に蓄積した不動産資産の現金化でもあった。売却益171億円を売上高に計上する処理により、直営店売上が約半減していく構造変化が財務諸表上は見えにくくなった。2013年度に売却対象が一巡して業績が急落した事実は、資産売却を「改革」と位置づけたことで本業の収益構造の劣化に対する認識が遅れた可能性を示唆している。経営改革と資産処分の境界は、会計上の表現によって曖昧になりうる。
日本マクドナルドは1970年代から1990年代にかけて急速な多店舗展開を進めた結果、2000年代半ばには老朽化した店舗や立地条件の悪い店舗が多数存在していた。設備の劣化が目立つ小規模店舗や、面積が小さく効率の悪い立地の店舗は、全体の収益性を押し下げる要因となっていた。原田泳幸CEOのもとで進められた店舗運営改革は、この負の遺産を整理することが主眼であった。
改革は三つの柱で構成された。第一に、既存の直営店をフランチャイズに転換して売却すること。第二に、ポテンシャルの高い店舗をリニューアルする設備投資。第三に、不採算店舗の閉鎖である。いずれも大量出店時代に蓄積した店舗資産を選別し、収益性の高い店舗網に再編するという方向性であった。
2008年度より日本マクドナルドは直営店のフランチャイズ転換と店舗運営事業の売却を本格化した。設備投資負担の重い店舗をFC加盟者に売却することで投資負担を移転し、同時に売却益を確保する狙いがあった。2008年度から2012年度の5年間で累計171億円の売却益を計上し、これらは売上高に含める形で処理された。一方、2010年度には不採算店舗の閉鎖を断行し、486店舗を閉店するとともに97億円の店舗閉鎖損失を特別損失として計上した。
設備投資面では、郊外のドライブスルー併設型大型店舗のリニューアルに注力した。家族連れの利用が多く客単価が高いロードサイド型店舗は、日本マクドナルドの中でも特に収益性が高い業態であった。2006年度から設備投資を本格化し、2008年度までは年間約200億円前後の投資を実施した。
店舗運営改革は短期的には業績を支えたが、構造的な問題を内包していた。FC転換による売却益は2012年度までに一巡し、2013年度以降は売却益による売上寄与がなくなった。直営店売上高は2008年度から2013年度にかけて約半減し、売上構造がフランチャイズ収入に大きく依存する形に変化した。実質的な不動産売却によって業績を支えていた構造が、売却対象の消失とともに露呈した。
2013年度に日本マクドナルドは大幅な減益決算を計上し、2014年に原田泳幸CEOが退任した。店舗の量から質への転換は必要な改革であったが、売却益を売上高に計上する会計処理と合わせて、本業の収益力の回復が不十分なまま売却益に依存する構造を生んでいた。原田体制11年間の店舗戦略は、改革と依存の両面を持つものであった。
直営店のFC転換売却は、経営効率化であると同時に、大量出店時代に蓄積した不動産資産の現金化でもあった。売却益171億円を売上高に計上する処理により、直営店売上が約半減していく構造変化が財務諸表上は見えにくくなった。2013年度に売却対象が一巡して業績が急落した事実は、資産売却を「改革」と位置づけたことで本業の収益構造の劣化に対する認識が遅れた可能性を示唆している。経営改革と資産処分の境界は、会計上の表現によって曖昧になりうる。
上海福喜食品における使用期限切れ鶏肉の出荷は、日本マクドナルドが直接管理できないサプライチェーンの上流で発生した。米OSIグループの中国子会社という二重の海外取引構造のもとでは、日本法人による品質監査には構造的な限界がある。注目すべきは、この品質問題が単独で2期連続349億円の赤字を招いたのではなく、売却益の一巡・高単価戦略の不発・経営求心力の低下が先行していた点である。品質危機は、既に脆弱化していた事業構造の決壊点として機能した。
2013年度に大幅減益に陥った日本マクドナルドは、原田泳幸CEOの退任が決まった2014年、さらなる打撃を受けることとなった。店舗売却益の一巡と高単価商品の不発により業績が悪化していたところに、食品の品質管理に関わる重大な問題が発覚した。日本マクドナルドの仕入先であった中国・上海福喜食品において、使用期限切れの鶏肉が出荷されていたことが明らかになった。
2014年7月、日本マクドナルドは期限切れの鶏肉を使用していたことを公表し謝罪した。上海福喜食品は米OSIグループの中国子会社であり、日本マクドナルドにとっては主要な鶏肉仕入先であった。サプライチェーンの上流で発生した品質不正は、日本マクドナルドの品質管理体制そのものに対する消費者の信頼を大きく毀損した。
期限切れ鶏肉問題の発覚を受けて、日本マクドナルドは上海福喜食品との取引を即時停止し、鶏肉の調達先をタイ産に切り替える対応を実施した。また、食品安全に関する情報公開を強化し、原材料の産地やサプライヤー情報の開示を進めた。しかし、一度失われた消費者の信頼の回復には時間を要し、問題発覚後の既存店売上高は大幅な前年割れが続いた。
経営体制においては、2014年に原田泳幸氏がCEOを退任し、2015年にはカナダ出身のサラ・カサノバ氏が社長兼CEOに就任して経営を引き継いだ。原田氏は会長に就いたものの2015年に退任し、日本マクドナルドから離れた。プロ経営者による11年間の経営が終わり、再び米マクドナルド本社主導での経営体制刷新が行われた。
品質問題の影響は業績に直接的な打撃を与えた。2014年度に日本マクドナルドは最終赤字218億円を計上し、続く2015年度も最終赤字349億円と、2期連続の赤字に転落した。原田体制末期の業績悪化に品質問題が重なり、日本マクドナルドは創業以来最大級の経営危機に直面した。
この惨状を受けて、2015年12月に筆頭株主の米マクドナルドは日本法人の株式売却を検討した。ファンドに対して最大33%の株式を約1000億円で売却する想定で打診したとされる。米本社が日本法人の持分売却を検討するに至ったことは、品質問題と業績悪化が単なる一時的な危機ではなく、日本マクドナルドの事業構造そのものに対する米本社の評価が変わったことを意味していた。
上海福喜食品における使用期限切れ鶏肉の出荷は、日本マクドナルドが直接管理できないサプライチェーンの上流で発生した。米OSIグループの中国子会社という二重の海外取引構造のもとでは、日本法人による品質監査には構造的な限界がある。注目すべきは、この品質問題が単独で2期連続349億円の赤字を招いたのではなく、売却益の一巡・高単価戦略の不発・経営求心力の低下が先行していた点である。品質危機は、既に脆弱化していた事業構造の決壊点として機能した。